カラー版◆大阪通信員さんが撮った 昭和の鉄道 (9)

朝夕のみ、能勢電の単行電車

大阪通信員さんの昭和の記録、続けます。おもに撮られた昭和40年代、蒸機に代表される国鉄だけでなく、中小私鉄にも、大阪通信員さんは強い興味を示されていました、関西を中心に、各地の車両を見ていただきます。今回は、先ごろ、鋼索線(妙見ケーブル)、索道線(妙見の森リフト)の廃止が発表された能勢電鉄、川西能勢口~川西国鉄前の国鉄前線です。昭和56年まで走っていて、比較的よく知られていましたが、なにせ、走っていたのは朝夕だけで、私もついぞ撮り損ねた路線でした。地平時代の阪急川西能勢口前から、何度もカーブを描いて、家の裏手の専用軌道を国鉄川西池田駅までを結ぶ0.6キロの路線だった。開業当時、沿線の旅客輸送のみでは苦しく、国鉄からの貨物輸送も狙って敷設されたと言う。廃止前は51、61が専用車として、朝夕のみ運転されていた。川西国鉄前駅はホームだけの構造だった。

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カラー版◆大阪通信員さんが撮った 昭和の鉄道 (8)

尾小屋鉄道

福井鉄道に続いて、北陸の鉄道、ナローゲージの尾小屋鉄道です。北陸本線の小松駅の裏側にあった新小松から、山あいの尾小屋まで、16.8キロ、762mm軌間で、昭和52(1977)年に廃止されています。実質的には、日本最後の非電化軽便鉄道でした。撮影時期は、昭和40年代後半と思われます。町内会の遠足だろうか、キハ3+ホハフ8から、ホームいっぱいの人が下車した。車内にまだ人が乗っている。日中は単行であり、一両は増結だろう。こんな何もない山のなか、これからどこへ行くのだろうか。

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カラー版◆大阪通信員さんが撮った 昭和の鉄道 (7)

福井鉄道

今回の“昭和の鉄道”、少し足を伸ばして、新幹線延伸で沸く福井市を走る、福井鉄道を見て行きます。いま福井駅西口では、高層ビルが建ち並ぶ駅前再開発が進行中ですが、その地区の南側、“電車通り”には、福井鉄道の通称“ヒゲ線”が発着していました。いまは福井駅前広場まで少し延びて、その名も「福井駅」となった終点ですが、少し前までは、「福井駅前」を名乗っていた終点から発車する電車です(以下、昭和41年8月撮影)。背後が再開発工事中の街区に当たり、高さ120mの高層ビルが建ち、事務所やホテルが入居すると言う。福井駅前-田原町の札を下げた、モハ63が発車を待っているところ。後には、デビュー間もないモハ200形が待機する。雑多な電車が集まり、福井鉄道がいちばん面白かった時代。

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カラー版◆大阪通信員さんが撮った 昭和の鉄道 (6)

加太を行く

少し間が開きました。大阪通信員さんが撮られた“昭和の鉄道”を続けます。前回は関西本線の電化区間でしたが、今回は、関西本線の撮影名所地として名高い加太付近です。大阪通信員さんの現役時代には、「小海線を愛する会」と「加太会」と、2つの派閥?があり、ある時は競って、ある時は友好的に活動されたと聞きます。DRFC指定旅館の村田屋とともに、その伝統は引き継がれ、われわれの時代も、加太詣ではまだ続くのです。特急「あすか」(名古屋~東和歌山)もしっかり撮っておられた。昭和40年10月改正で走り始めたが、わずか2年で廃止されている。私も辛うじて加太で走行中を撮ったし、最終日は奈良駅で撮っているが、なにせ高校生の頃、とても人目に晒すような写真ではない。「あすか」は、空気を運んでいた「くろしお」回送を、無理やり客扱いに仕立てたもので、下りは名古屋19:00→東和歌山22:40、上りは東和歌山7:10→名古屋10:50と、わざわざ旅客の有効時間帯を避けて設定したような特急だった(以下、昭和41年撮影)。

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 “アレ”にちなんで 阪神軌道線と甲子園球場 ③

タイムリーさを身上とするデジ青投稿も、こちらの怠慢で、なかなか進みません。“アレ”が“ソレ”になる前に、甲子園線を最後に載せます。今回は、甲子園線の下半分、甲子園球場を除いた甲子園~浜甲子園です。昭和50年の廃止時、終点は浜甲子園でしたが、阪神本線の出屋敷と今津を「コ」の字に結ぶ、今津出屋敷線の計画の一部を、甲子園線の延伸として充当する形で、浜甲子園から直角に西に曲がって、海岸沿いの中津浜までの0.8kmが1930年(昭和5)7月に開業しました。しかし戦争激化により、1945年(昭和20)1月に休止され、そのまま廃止となり、海岸線に直角に突っ込む形で、浜甲子園が終点となっていました。

甲子園線は、“女子高生”の輸送も担っていた。「甲子園九番町」の近くに、武庫川女子大、付属中高があって、登下校時、停留所付近は、車道までも“女子高生”で埋め尽くされる。

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 立命館国際平和ミュージアムに クローバー会所蔵写真

立命館大学衣笠キャンパスの東側にある国際平和ミュージアム。このたび2年間の休館を経て全面的にリニューアルオープン、9月23日(土)から開館する。▲▲展示の目玉は、地下一階の幅70メートルにも及ぶ、戦争、紛争に関わる歴史年表で、資料や実物が展示されている。手前のタッチパネル式の端末に、戦後すぐの京都の様子が収められていて、進駐軍の撮ったカラー写真などとともに、クローバー会所蔵の写真も収められている。

クローバー会会員が閲覧できる「伝言板」には、予告として掲載していましたが、このたびリニューアルオープンした、立命館大学国際平和ミュージアムの歴史年表に、クローバー会が所蔵する京都市電N電、蒸機の写真を提供、展示していただきました。オープンに先立って本日、内覧会があり、私も参加して来ました。

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 “アレ”にちなんで 阪神軌道線と甲子園球場 ②

上甲子園~甲子園を行く

では“アレ”つながりで、阪神軌道線の甲子園線を紹介していきましょう。

大阪から神戸まで、JR、阪急、阪神以外に、もうひとつ路面電車があって、大阪から神戸まで行くことができました。国道2号をクルマに邪魔されながら走っていたのが、阪神電鉄の併用軌道線、通称“阪神国道線”でした。さらに縮めて“阪国”とも呼ばれていて、“阪国”には、北大阪線(野田~天神橋筋六丁目)、甲子園線(上甲子園~浜甲子園)、国道線(野田~上甲子園~西灘~東神戸)の3線がありました。

甲子園線の始発、上甲子園で発車を待つ。通常は、単行が折り返しているが、秋晴れの日曜日のこと、阪神パークへ向かう客が多いのか、「臨時」を掲げた1両も発車を待っていて、珍しい2両並びを見ることができた。▲▲電車の向こうを横切るのが国道2号で、国道線が走っていて、甲子園線との接続を行っていた。甲子園線は日中12分ヘッドで一応、路面電車の体をなしていたが、国道線に至っては40分ヘッドで、実際に乗換客はほぼ皆無だった(昭和49年11月)。

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 “アレ”にちなんで 阪神軌道線と甲子園球場 ①

ついにやりましたね。こんなに早く“アレ”が来るとは思いも寄りませんでした。私は1ミリもタイガースとは関係はないのですが、高齢者にとっては、記憶に残る日となりました。しかも甲子園で、宿敵を完膚なきまでに叩いたこと、出来すぎのストーリーでした。テレビでは「18年前の優勝は、まだ生まれていなかった」の声もありましたが「約50年前には球場の前に路面電車が走ってたんやでぇ」と言うと、まちがいなく化石扱いされるでしょう。そう、甲子園球場の横には、1975(昭和50)年まで阪神軌道線(国道電車)の甲子園線が走っていました。

本欄でも、先にクローバー会行事で訪ねた福岡市内線跡を記しましたが、機会を見つけて、思い出に残る各地の路面電車を紹介したいと思っていたところでした。“アレ”を格好の機会ととらえて、阪神軌道線の甲子園線を紹介したいと思います。

左手、高架の阪神本線の甲子園駅があり、その直下に、軌道線の甲子園駅があった。浜甲子園行きの電車が出発して、左にカーブすると、車窓に大きな広告塔が見えてくる。背後の松並木は、かつて、ここに川が流れていたことを証言している。“銀鱗”の阪神バスも懐かしい。 続きを読む

カラー版◆大阪通信員さんが撮った 昭和の鉄道 (5)

関西本線、阪和線の電車・機関車

大阪通信員さんが撮られた“昭和の鉄道”、再開しました。前回までは大阪市内でしたから、少し範囲を広げて、通信員さんの地盤だった、関西本線、阪和線をテーマに見ていただきましょう。昭和48年10月、関西本線湊町-奈良が電化され、大阪から環状線経由で奈良を結ぶ113系電車による快速が登場した。灰色9号に朱色3号の帯を巻いた独自塗装となった。赤帯は、春日大社の鳥居をイメージしたものと言われ「春日色」の俗称もある。113系には0番台車など経年車が多く、平成元年に「大和路快速」の愛称とともに、221系電車に置き換えられた。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~28~

2006年9月9日 廃止予定の神岡鉄道へ

この年、18きっぷを使って、高山本線猪谷から分岐していた神岡鉄道へ行っています。神岡鉄道は、国鉄神岡線猪谷~神岡を昭和58年に第三セクターに転換して開業した鉄道で、猪谷~奥飛騨温泉口(神岡を改称)20.3kmの路線、鉄道収入の四分の三を占めていたのは、神岡鉱山からの貨物輸送でしたが、種々の理由で、貨物輸送を縮小、撤退、沿線人口は極めて少なく、旅客数、車両数とも全国三セクの最低となり、2006年11月30日限りでの廃止が決まっていました。

始発の猪谷は、JR東海、西日本の境界駅で、ずいぶん不便な場所にありましたが、18きっぷで、途中、金沢、富山で撮影しながら、楽々日帰りで行くことができました。北陸新幹線など未開通の時代、在来線のみのネットワークがしっかり張り巡らされていた、ほんの少し前の時代でした。終点の奥飛騨温泉口を発車した、神岡鉄道の猪谷行き〈おくひだ2号〉。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~27~

2007年9月3日 諫早・長崎の日常を撮る

島原鉄道の続きとして、諫早・長崎の日常の光景を見ていただきます。列車待ちの間に撮った写真ばかりで、格別な意識もなく、当たり前に撮った写真です。その後、2022年9月に西九州新幹線が開業し、列車も駅舎もすっかり新しくなりました。まもなく開業一年となる西九州新幹線に乗ったことがない身にとっては、デジ青やほかのメディアで、現在の同付近を知ることしか術はありませんが、15年前との風景の違いを感じています。朝早くに諫早駅前のホテルを抜け出して、島原鉄道のDCを撮り、朝食後に諫早駅で長崎行き「あかつき」を撮った。もう“ブルトレ”という言葉も聞かなくなったが、15年前,(高齢者にとっては“つい最近”)には、まだ走っていた。九州伝統の椀型のヘッドマークを付けていた。▲▲最後部には“レガートシート”のオハ14形300番台を連結。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~26~

2007年9月1日 島原鉄道の国鉄型DCを撮る

島原鉄道には、自社製造の国鉄型DCが走っていました。国鉄乗入れ用として、昭和28年の湘南型キハ45000形に始まり、キハ20、キハ26・55も新製され、国鉄気動車を上回る設備を持った最新DCでした。華やかだったのは、長崎本線の準急(急行)に併結されて博多(のちに小倉)まで乗り入れたことでしょう。初めて九州を訪問した昭和42年、諫早駅で見たDCは、前面に島原鉄道を示す赤い三本ヒゲを付け、クロスシートには白いカバーが掛かり、羨望の思いで見た記憶があります。

しかし、華やかな時代は長く続かず、長崎本線のDC急行全廃により昭和55年に国鉄乗入れは廃止、のちに貨物、線内急行も廃止、雲仙普賢岳の火砕流による長期不通も克服したものの、旅客は戻らず、2008年に島原外港以南を廃止しました。今回は、その前年、自社DCが廃車のあと、国鉄から転属したキハ20が、新型DCに交じって活躍していた頃の訪問でした。

“海にいちばん近い駅”として名高い「大三東」に到着するキハ20の2両編成、キハ2013+キハ2008、いずれも自社発注車ではなく、国鉄で廃車後に島鉄に移って来た。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~25~

2007年8月25日 架替工事前の余部鉄橋へ

8月も下旬になると、コロナ禍以前なら、18きっぷの消化に追われて、各方面によく出掛けたものでした。この日は、京都から、山陰・因美・津山・山陽の日帰り18きっぷゴールデンルートの途中に寄った余部鉄橋の撮影です。

この時期、架替計画が進む余部鉄橋を渡る観光列車、快速「あまるべロマン」が、城崎温泉~浜坂間で2往復運転されていた。何年か前から、5月連休、夏休みなどに運転されていた、京都総合所のキハ65系「エーデル」4両編成で、以前は特急「エーデル鳥取」に使われていたが、列車は廃止され、臨時・団体用として使われていた。

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カラー版◆大阪通信員さんが撮った 昭和の鉄道 (4)

大阪を記録する④ 大阪市電 

大阪市電は、万博を前にした昭和44年3月に全廃、政令指定都市としては初めての廃止でした。私としては、“早く生まれていたら”の類いで、ごく僅かの写真しか撮れていません。大阪市内で生まれ育った通信員さんは、さすがに御堂筋を走る市電や、市電ではメインの堺筋線、上町線など、中心部の写真を撮っておられます。大阪市電をテーマにした書籍を編集した時は、大阪通信員さんのモノクロ写真も活用させていただいて作ることができました。大阪市電は、カラーで見るように“あずき色”で、阪急のマルーンより赤っぽい“溜色”でした。明治36年に開業した時、すでにこの色でしたが、これは御召の御料車と同じ色であることを、政府が気づき、畏れ多いことと、すでに認可済みの大阪市を除いて、以後は他都市が同種の色を使うことを禁じたと言います。逆に大阪市電は既得権にこだわり、最期まで、この色を守り通したと言われています。

△ 大阪市電は御堂筋も走っていた。と言っても、大阪駅前から淀屋橋までの間だけで、淀屋橋で東へ、北浜二丁目から堺筋を南下する堺筋線の一部を形成していた。大阪市庁の前から西を向いての撮影で、市庁舎は、現在のものではなく、旧のルネサンス様式の建築、背後は日本銀行大阪支店。今回は、対比可能なところは、ストリートビューの現況写真との対比を試みた。大阪中心部の街並みはすっかり変わってしまったが、保存の日銀大阪支店だけは、きれいに補修されて市電時代と同じ光景を見せている。(昭和41年6月)。

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