エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅  Part3  フランクフルト交通博物館へ

9月25日 第2日目 その1

中央駅前10:18(トラム)→10:45
博物Schwanheim Reinlandstrasse

エリトリアへは、明後日にミュンヘンから向かいます。今日はゆっくりと、フランクフルト市内を見てまわることにしていましたので、乙訓の老人様(以下ご老公)に路面電車についてご教授をいただいておりました。宿泊先のインターシティホテルで、チェックインからチェックアウトまでの3日間を無料で乗車できる市内交通パスをいただきましたので、フランクフルト交通博物館へ行くことにしました。


▲ フランクフルトの市内交通には、Sバーン(近郊電車)、Uバーン(地下鉄)とトラム(路面電車)があります。路面電車だけの路線図がなかったので、全市内交通案内パンフをもとに作成しました。

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エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part2    フランクフルト中央駅

9月24日 第1日目 その2

① 成田12:15(JL407)→17:20フランクフルト
② フランクフルト空港(Sバーン)→フランクフルト中央駅

シベリア上空を約12時間飛び到着したフランクフルトは、日本との時間差マイナス7時間。現地時間では17:20ですが、日本時間では翌日の0:20です。

機内食は搭乗2時間後の14:00と9時間半後の到着前の2回ありました。
エコノミークラスとしてはまずまずです。

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2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part23  河南省建材廠、平庄煤礦鉄路、阜新煤礦鉄路、天津路面電車、京滬線のまとめ

今回も中国に残された現役蒸気機関車を訪ねて、河南省建材廠平庄煤礦鉄路阜新煤礦鉄路と初めての地方鉄路を訪問しました。また天津にかつて走った路面電車を調べてみましたが、日本統治化後の路線図が入手できていません。心残りです。日本で見つけるのは困難なようですので、次回に天津に立ち寄った時に探して見ます。
地方鉄路訪問では撮影仲間に恵まれて、いずれも初回にしましてはまずまずの成果でしたが、中国の蒸気機関車は石炭の質が良いのか日本の蒸気機関車と違って黒煙と白煙のミックスがなく、白煙が多いようです。ということは、やはり冬場でないと迫力ある写真が撮れません。今年の冬にまた訪問しなければなりません。
次回は、三道連近くにまだ煙の上がる地方鉄道があると聞きましたので、白銀と合わせて行こうと計画しております。

【紀行記の目次とリンク先】 下記をクリックしていただければ、各紀行記をご覧いただけます。
Part1  第1日目  旅立ち

Part2  第2日目  河南省建材廠を走るC2型 その1
Part3  第2日目  河南省建材廠を走るC2型 その2
Part4  第3日目  河南省建材廠を走るC2型 その3
Part5  第4日目  河南省建材廠を走るC2型 その4
Part6  第5日目  河南省建材廠を走るC2型 その5
Part7  第6日目  平庄煤礦鉄路を走る上遊型 その1
Part8  第6日目  平庄煤礦鉄路を走る上遊型 その2
Part9  第7日目  平庄煤礦鉄路を走る上遊型 その3
Part10  第8日目  平庄煤礦鉄路から阜新煤礦鉄路
Part11  第9日目  阜新煤礦鉄路 その1
Part12  第9日目  阜新煤礦鉄路 その2
Part13  第10日目   阜新煤礦鉄路 その3
Part14  第11日目   阜新煤礦鉄路 その4  時刻表、路線図
Part15  第11日目   阜新煤礦鉄路 その5
Part16    第11日目   阜新から北京へ 2106次乗車
Part17  第12日目   中国鉄道博物館正陽門館(正阳门馆)
Part18  第13日目   天津軽軌、地铁9号線 十一経路まで延伸
Part19  第14日目   天津の路面電車(疎開地時代)、天津博物館
Part20  第14日目   中国最初の鉄道 唐胥鉄路、天津博物館
Part21  第14日目   京滬線高速化の歴史 その1
Part22  第15日目 京滬線高速化の歴史 その2

建設型蒸気、RZ24・RW24型客車 上海に静態保存展示される!

次のぶんしゅう旅日記は初めてのアフリカです。『エリトリア 未開の大地への鉄道の旅』をご覧ください。よろしくお願い申し上げます。

2011年春から夏への中国鉄路の旅 Part22 京滬線高速化の歴史 その2

15日目 6月1

①  北京南2121D321次)→7:15上海虹橋
② 上海虹桥9:00(G7305次)→9:45杭州
③ 杭州13:00(G7314次)→13:45上海虹桥

今回の帰国便も上海浦東空港から関空へのフライト。時間が十分ありましたので、杭州への355km/h走行をまた味わいたいと往復です。
往路はCRH380Aで存分に高速走行に満足しましたが、復路は
京沪高速鉄路に使用されるCRH380BLが試運転を兼ねての運用でしたので、最高速度も300km/hに抑えられて晩点(延着)になりました。定期列車に試運転とはいかのも中国鉄路です。注目の商務車(ビジネスシートはシートカバーが付けられ前後の車両も立ち入り出来ませんでした。

上海に戻ってからはまだ時間もありましたので、地铁に乗車して展示されていると聞いた建設型を見学に行きました。訪問記は、速報として投稿済みです。こちらをご覧ください。

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2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part21   京滬線高速化の歴史 その1

14日目 5月31

① 天津 1500C2044次)→15:30北京南

北京南2121D321次)→7:15上海虹橋

京滬高速鉄道の開業は開業は、6月中旬と昨年12月に発表した鉄道大臣は汚職で解任され、南京南站完成が遅れていたため、この時期まだ未発表状態が続いていました。開通によって、在来線の列車本数の激減は必死で、昼間の列車は壊滅、夜行もほぼなくなるとの情報を得ていましたので、開業前に何回も乗車した夜行電車寝台に最後に乗っておきたいと北京に戻って上海へと向かいました。

▲ この時間になりますと、高速列車専用駅の北京南駅からは上海方面に向けて5分ヘッドで夜行列車が発車していきます。D300番台の列車はすべて動車(電車)寝台で、ボンバルディア社からのCRH1と「はやて」CRH2の寝台車設計変更タイプEの2種類が運用されていました。
上海虹橋駅開業までは、上海駅まで乗り入れていましたが開業後は、すべて上海虹駅となりました。客車寝台も特快2本と普通が1本ありますが、こちらは北京発上海着と分けられていました。

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2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part20   中国最初の鉄道 唐胥鉄路、天津博物館

天津路面電車については、コメントに追加しましたように路線図が疎開地時代であり、その後に延伸等があったことが未調査でした。漏れがありまして、大変失礼をしました。まだ何か出てきそうですので、再度中国語サイトでの歴史を調べなおしておりますが、真偽性を確認出来るのに手間取っております。もう少し時間をいただきたくよろしくお願いします。

第14日目 5月31日

中国鉄路の歴史は、Part18の中国鉄道博物館正陽門館また2009年の上海鉄路博物館訪問記で、ご紹介させていただきましたが、最初の路線の天津にはもっと詳しい資料展示があるのではないかと期待して天津博物館を訪問しました。

まず目に入ったのは、中国最初の鉄道として河北省に開業した唐胥鉄路を走ったと表示されています、その名もロバート・スチーブンスが設計したロケット号にちなんで名づけられた、「ROKET of CHINA」号(中文では中国火箭号)の展示用の複製です。

この蒸気機関車は動輪数が当時の写真と違っているように見えますが、・・・・。最高速度は、32km/hです。

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2011年春から夏への中国鉄路の旅 Part19   天津の路面電車(疎開地時代)、天津博物館

14日目 531 天津 1500C2044次)北京南2121D321次)上海虹橋

今日は、京滬高速鉄道(北京~上海)が開通すると廃止されるとの噂がある寝台夜行電車に最後に乗車しておこうと思い、天津から再度北京に逆戻り乗車します。
十分時間がありますので、その間は北京鉄道博物館正陽館で見た、最初の中国鉄道の歴史資料が天津にもあるかもと天津博物館を訪ねることにしました。

【天津博物館】
市内にあった歴史博物館・民族博物館・芸術博物館の老朽化に伴い機能を統合して2004年に建設されました。建設設計については、11人の建築家による国際指名設計競技が行われ、最優秀に選ばれた本人建築家「高松伸」先生と、構造家「川口衛」先生との共同設計によるものです。湖面で翼を広げる鶴を表現されたものと言われ、21世紀の中華民族の発展を表しています。

開館日:9時~16時(16時半閉館)無料 月曜定休
公式HPはこちらです。

高松伸先生は同志社小学校の設計もされておられます。

【天津の歴史と路面電車】
天津の発祥は隋の時代の大運河完成にさかのぼり、また海に 面した軍事拠点として、清時代には現在と同様に政府直轄地として要衝されました。
1858年第2アヘン戦争で英仏戦争に敗北してからは、北京の外交として開港され急速に発展して行きました。1900年代からは、イギリス・フランス・アメリカ・ドイツ・オーストリア・ベルギー・イタリア・ロシアそして日本の租界が設置されています。この中でフランス・オースリラリア・イタリア・ロシア・日本の5ケ国租界と中国管轄の城内での交通機関として、初めての路面電車が1906年に圣由しないベルギー資本で登場しました。色分けの6系統が走行しました。


▲ 1919年時代の地図に各国租界区分と路面電車路線図を挿入しました。赤線が路面電車の路線です。この路線網なら非常に便利です。天津東駅(現;天津駅)に降りて路面電車に乗って、すぐに市内繁華街へと向かえます。今はまだ地下鉄が未開通ですので、Taxiに乗っていますが、オリンピック前までの長い年月は駅前にはボッタクリTaxiしかいなく交渉がおっくうでした。どうして廃止してしまったのか分かりません。
停留所位置と名前は、調べきれませんでしたので今回は、お許しください。


▲ 日本租界の天津銀座と呼ばれたメインストリート旭街を行く69号路面電車。後方にそびえ立つのは、日本租界のランドマークとなるゴシック尖塔を持つデパート中原公司です。

▲ 各国の租界を路面電車は走りました。かなりの国別製造の車両が活躍していたと思います。通常は、単車か1両の付随車の2両編成でしたが、中には2両を牽引した3両編成もあったようです。

▲ 館内には、当時の様子を再現したレブリカの路面電車もおいてありました。中国人ギャルも興味津々で撮影していました。

▲ 当時の日本租界の街並みを走行する光景も描かれています。

▲ 旧天津城。北京城ほど広大ではありませんでしたが、天津も城壁で囲まれた都市でした。しかし、1900年に勃発した義和団の乱・八国聯合により天津は戦場となって城壁は瓦礫と化してしまいました。

旧天津城跡は、鼓楼が再現されて古文化街として観光地化されています。現在の街の中心は各国の疎開地があった付近を中心に発展していきました。

 

ベルギー電灯公司経営の天津路面電車は経営順調で、1920年代には破壊された城内を循環して街中を走行していました。運賃も安かったことから貧しい庶民にも乗車でき人気でした。走行速度は約10km/hほどで、走っていても乗車できたそうです。最長路線では約2時間もかけて走行していたと言いますので、ずいぶんとゆっくりした路面電車だったのですね。
当時、ご乗車された車窓からの見た疎開の様子を田中良平氏が詳しくHPに書かれています。是非、こちらをクリックしてご覧ください。

天津路面電車は、経営会社のベルギー租界が離れすぎていたために1931年に中国に返還されています。その後1943年には日本軍に接収されて「天津交通」として運行されましたが、日本敗戦後は国民党政権、そして共産党政権へと引き継がれ、理由は明記されていませんが、1972年66年の歴史を終えました。


▲ かつて路面電車が走っていた可動橋(跳開橋)の万国橋が見える天津駅(旧天津東駅)周辺の綺麗に整備された現在の光景です。ここが見える橋のたもとには天津電力技術博物館があって、2両の路面電車(複製)が展示されています。

66年もの歴史があったわりには、資料が少ない天津の路面電車です。一体どのような車両が何両走行していたのでしょうか。現在の天津には痕跡すらなく見られません。何でも埋めてしまう国ですから、廃線跡を掘り起こせば何か出てくるかも・・・。
中国鉄道創世記の歴史ですが、天津博物館にもありました。Part20で説明させていただきます。 Part20  へ続く

2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part18   天津軽軌(津滨轻轨)、地铁9号線 十一経路まで延伸

13日目 530日 中山門(天津地下鉄9号線) →十一経路

久しぶりでの天津での一日は、激変を続ける街をと比べながらゆっくりと散策することにしました。駐在時には片手で数えるほどだった高層ビルは、数え切れないほどに増えて街並みは全く変ってしまいました。都市中心部の交通機関は、北京に続いて1984年に中国2番目の地下鉄が開通して、他の都市と比べても進んだ街との印象がありましたが、中途半端な路線であったため利用者は少なく、リニューアル化して2006年に再オープンしました。しかし、その後の新たな開業はなく、後から開業した都市に大きく遅れてしまいました。また遅れるばかりだけでなく、開業予定日が住んでいても全く分からないので市民は計画そのものを信用していません。むしろ市民は呆れています。

そんな訳で今回も軽軌が5月1日に延伸開業(中山門~天津駅間7.35キロは地铁9号線)したらしいが、知人達は誰も乗っていないので、疑心暗鬼で既に開業していた中山門駅までTaxiで向かいました。


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2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part17   中国鉄道博物館正陽門館(正阳门馆)

第12日目 5月29日

① 阜新19:00(2106次)→10:17北京北
② 西直門(地铁)→前門
③ 前門(地铁)→北京南(京津高速)→天津

北京北站に隣接する西直門站から地铁に乗って前門に着きました。3月に準特急先輩と行きました時は、なぜか直前で休館となっていた中国鉄道博物館正阳门馆は今回開館しているのを往路で確認済みです。館内にはどんな展示がされているのかとワクワクしながら入場券を買って入ってみました。(※ 前回の様子は、こちらをご覧ください。)
▲ 入場券は、20元(約240日本円)、開館時間は9:00~17:00で月曜日休館です。鉄道ファンの方がゆっくりと見学するには、 約2~3時間は必要です。

入館して最初に聞くことは、館内の展示物やパネル撮影が許可されているかどうかです。日本と違って、中国の一般の博物館の殆どは撮影OKですが、かつて日本人として初めて入場した瀋陽鉄道博物館では、展示パネルは撮影禁止でした。 (※ その時の様子はこちらをご覧ください。)
警備員に質問しますと、すべてOKとの返事です、安心しました。


中国鉄道博物館正陽門館中国鉄路博物馆正阳门馆)は、私がかつての現地に勤務時代していた1990年代には、この館内に北京鉄道分局関係の事務所があって、北京に業務で来る度に訪れていました。分局関係者からは、日本軍が侵略占領時に建造した北京の中心駅でラストエンペラーが紫禁城を追われる際にも乗車をしたのだと聞かされていました。ホームやレールが撤去された館内にかつての駅舎としての面影を残すものは切符売場ぐらいでした。
その後館内は商城(百貨店)に改装されて使われていましたが、オリンピック前には閉鎖されて、北京市と鉄道部が共同で中国鉄道博物館として準備が進められました。オープンは2010年10月23日ですが、上記のように一旦閉鎖されて、再オープンしました。
しかしこの建物は、展示されている建設当時の写真と比べると、なぜか時計台の位置が左右逆転しています。経緯は分かりませんが、大躍進時代に改装または壊されて再建築されたと思われます。興味を惹かれましたので、少し調べてみました。

【北京城と正阳门站】
中世の世界中の都市がそうであったように中国でも多くの都市が、敵に攻められた場合を想定して、街の周囲を頑丈な城壁で守った城壁都市が多くありました。明時代からの北京も、高さ12m以上の城壁で守られた都市で、皇城(故宮)のある周囲約23キロの内城と多くの庶民が暮らす外城の2つに分けられていました。内城は北京城と呼ばれ、城外への往来には城門が設置されていました。城門を撮影した貴重な映像がYouTubeにあります。こちらをクリックしてご覧ください。約8分強あります。

鉄道線は内城を囲むように敷設され、皇城の正面玄関である正陽門を挟むように東站・西站と2つの正阳门站が建築されました。東駅は京奉線(北京~天津・奉天)、西駅は京漢線(北京~石家口、漢口)の列車が発着していました。中国鉄道博物館正陽門館は、正阳门東站でした。

現在、環城線と東便門站~正阳门站~京漢線の城壁内線路は撤去され痕跡もありませんが、正阳门東站、路面電車、当時の市民生活を撮影した1930年の貴重な映像がYouTubeにあります。こちらをクリックしてご覧ください。約8分強あります。
▲ 青線が路面電車です。現在観光用として一部の区間を復元され走行しています。

文化的に貴重な人類の歴史的遺産である城壁、城門でしたが、中華人民共和国が建国された1950年代に始まった大躍進時代に次々に破壊撤去されていきましたが、なぜに誰が推し進めていったのか、中国の歴史では触れられていません。しかし、これだけの重大事を決定できるのは、一人しかいないのを人民も良く知っています。現存するのは、正陽門、天安門等わずかです。
城壁跡には、環状線道路(2環)と地下鉄2号線が建設されました。

中国鉄道博物館正阳门馆 展示内容】



▲ 3ツ折のパンフレット
館内は①1876~1911年、最初の鉄道建設、②1911-~1949年、紆余曲折の歩み、③1949~1978年、進む鉄路延伸、④1978~2002年、著しい発展の鉄路、⑤2002年~ 技術開発の鉄路 と、5ブロックに分けられて、清朝末期から今日に至るまでの発展の過程が展示されています。

詳しくは、中国鉄道博物館の公式HP;http://www.china-rail.org/

中国鉄路の開業は、1871年に開業した日本に5年遅れることの1876年に呉淞鉄道(上海〜呉淞間14.5キロ)が最初でしたが、無許可であったため撤去されました。これにつきましては、上海鉄路博物館訪問記をご覧ください。リンク先はこちらです。
正式開業は1881年の唐胥鉄道(唐山〜胥各庄間9.2キロ)となります。

唐胥鉄道路線図と使用された中国製第1号蒸気機関車。当初の営業用はラバ牽引でしたので、工事用に使用されたと思われます。レールは15kg、軌道は1435mmでした。

▲ 1年後の1882年には英国製が輸入されて、初めて蒸気機関車が営業用としての運用されました。1887年には芦台までが開業し営業45キロとなり、以後は諸外国主導のもとに延伸が続けられて行きました。

上海の鉄道博物館では、上海を中心とした歴史が展示されていましたが、ここ北京では全国レベルでの鉄路発展の歴史を写真やパネルで見ることが出来ます。一方、空港近くにある中国鐡道博物館ではかつて活躍した機関車、車両が50台以上も実車展示されています。北京に来られましたら是非にご覧ください。  Part18  へ続く

2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part16  阜新から北京へ 2106次乗車

Part15を投稿してから1ヶ月あまり経過してしまった。中国版新幹線の追突事故発生があって控えていたわけではなく、次の旅の準備に追われ、また大の野球好きですので連日好戦の続く高校野球に見入って、単にサボっていました。申し訳ありません。続編を掲載させていただきます。
前回の紀行分 Part15こちらです。

第11日目 5月28日          阜新19:00(2106次)→10:17北京北

阜新の海州露天鉱国家鉱山公園での撮影を終えTaxiに乗って、17:45に阜新站に着きました。
1929キロ先の上海往復の所要時間約25時間を筆頭に上下20本が発着する阜新站の待合室は、1階のみで他の中国鉄路站同様に天井が高く十分な広さがあります。

▲ 改札までの間、お話していた先頭で並ぶ可愛い3人姉妹、親戚の家に遊びに行くといっていました。発車35分前に改札が開始されましたが、春節時期と違って走る人もなくゆっくりの乗車光景でした。
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2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part15  阜新煤礦鉄路 その5

第11日目 5月28日

平安14:08(114次)→14:35王營(Bus)→15:32阜新
② 阜新19:00(2106次)→10:17北京北

モーニングコールよりも早くに起き上がれました。ロビーに下りると既にF先生とO氏のお二人さんともお待ちでした。
今日お二人は、阜新から瀋陽に向かわれ、乗換えてハルピンへ。一泊されて翌朝のCZ便で帰国されます。一方の私は、夜の夜行列車で北京に戻り、いつもの一人旅となります。

▲ Taxiを待って昨日同様の平安駅踏切に着きましたがご覧のとおりの夜明け前です。写真は3:56、ISO3200、F5.6・1/40の手持ちで撮っています。


▲ 4:20、ようやく入替作業の開始、昨日と違ってスモッグが濃いようです。まだ薄暗いのに機関車の前照灯は消していました。入替機は1319号機


▲ 5:131319号機が入替作業を終えて一息つく頃に朝日が雲間から顔を覗かせました。

▲ 5:20、ヤード横からの1460号機が後ろ牽引でズリ捨て線を上がっていきました。


▲ 7:06、朝日が差し込む平安站に到着した988号機牽引の職工通勤列車。

お2人が帰途につかれた後、平安站からまだ行っていない王營站までを乗車してみることにしました。




▲  平安~王營間は工場、住宅街の中を通って14:25に王營站に到着しました。所要時間27分間の短い乗車時間でした。乗客の殆どは終点一つ手前の民主站で降りて、王營站では私一人の下車でした。王營站は採炭場があるのみで見渡す限りのとうもろこし畑が広がっています。折り返し列車は17:28。蒸気もいなく時間があり過ぎるので職工さんに近くのバス停を教えてもらい阜新站に戻りました。 王營站はこちらです。

阜新站からはバイクTaxiに乗って新邱からの帰りに見た上遊型が放置されていた高徳站方面に向かいました。

▲ 16:30高徳站に到着。O氏が運行しているかどうかを確認したがっておられた海州露天鉱方面からのズリ満載の5両編成が入線していました。牽引するのは、この炭鉱線で最も綺麗と思われる1320号機。しばらくすると新邱方面へと走行して行きましたが、この方向にはズリ捨て場はなかったはずで、一体どこへ向かったのか疑問が残りました。本線上をヤード方面に向かうのは、1460号機牽引の空車のズリ6両編成。と言う事は、新邱方面に見過ごしたズリ捨て路線があるようです。


▲ 探していた上遊型の廃車は、ヤード方面に約10分歩いた所にありました。911、989号機と番号不明のもう1台の計3台が放置されていました。本線上との塀のかさ上げ工事をしていた職工のお兄さんには写真を撮って欲しいと頼まれました。ついでに入っておいでよと誘ってくださいます。上遊型の他にもかなりの車両が放置されていて見てみたかったのですが、見るとかなり時間がかかりそうなので、丁重にお断りして先を急ぎました。

【海州露天鉱国家鉱山公園】
さらに線路沿いをヤードに向けて約20分を歩くと海州露天鉱国家鉱山公園に着きました。海州露天鉱はかつてアジア最大の露天鉱と言われ、阜新は石炭によって立ち、石炭によって栄えました。2005年、資源枯渇のために一応閉鎖されましたが、その歴史を保存する記念館が開設されていました。地図はこちらへ。

▲ 幅4×2キロ、深さ250mもの広大な露天掘を一望できる展望台があり、かつての路線跡も見ることが出来ました。そして公園内にはかつて露天鉱で活躍した車両の展示もされていました。

▲ 露天鉱で使用された連接式のZG150-1500型電気機関車、韶峰028号機。1972年製造、でかい!

【ZG150-1500型】
直流1500V、 全長;20.26m、幅;3.20m、高さ4.77m、
自重150㌧、軸配置;B0-B0-B0、1時間定格出力;350kw×6=2100kw、1時間定格引張力;256KN、軌間;1435mm、最小走行半径;80m、最高速度;65km/h、撫順露天鉱等主要炭鉱で使用された。


【推土犁 Bulldozes the plow】
全長;14.41m、幅;3.604m、高さ;4.456m、自重95㌧、ズリ線のラッセル用。自走は出来ず機関車に牽引してもらいます。


▲ 巨大なパワーショベル、ラッセル車、1974年製の上遊型1395号機。

もう少しゆっくりと見たかったのですが、夜行列車の乗車時間が近づいてきました。阜新站へと急ぎました。  Part16  へ続く

阜新煤礦鉄路の訪問記のバックナンバーは下記をクリックしてください。
その1その2その3その4

2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part14  阜新煤礦鉄路 その4  時刻表、路線図

第10日目 5月27日 乗り鉄と夕日撮影

① 太平10:04(111次)→11:06新邱13:09(114次)→14:03平安

ホテルで朝食を食べながらO氏と私は阜新煤礦鉄路の起点、新邱站に露天鉱があるので行ってみたいと意見が一致しました。Taxiにのって、ホテル近くの太平站を目指しました。太平站はこちらです。
▲ 阜新煤礦鉄路の客扱いをしている平安~新邱間の路線図です。中国鉄路の新義線とほぼ平行する路線で、平安~高徳間のみ複線となっております。営業距離につきましては、平行する中国鉄路では、平安~新邱間18キロ(所要時間37分、一日あたり3往復のみ)となっていますのでほぼ同じと思われます。東阜新站は現在、どの列車も停車しませんので、信号所扱いになっていると思われます。
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2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part13  阜新煤礦鉄路 その3

【上遊型のプロフィール】
前回の投稿でプルプルさんより「機関車のスペックも記載して」とのご注文が出ました。専門外ですが分かる範囲でまとめてみました。ベースとなったミカロとD51との比較もしてみました。


▲ 表でもお分かりのように蒸気機関車上遊型は、南満州鉄道のミカロを参考に製造されていています。
上遊型詳細公表がないのでの真偽性は不明ですが、極めて類似しています。製造開始当時は製造の基礎知識は欠落していたと思われますので、おそらく殆どがコピーされたものと推測します。前回の投稿で、朽ち果てた上遊型の写真を掲載していますが、その中に1台、番号不明ながら「JF****」と読み取れる蒸気がいました。外観を見ましても類似していました。

ミカロの写真は、2010年10月27日に瀋陽鉄道博物館訪問時に撮影しました。訪問記の詳細はこちらへ。 続きを読む

2011年春から夏への中国鉄路の旅 Part12  阜新煤礦鉄路 その2

第9日目 5月26日 午後

ようやく見つけた五龍炭鉱前の庶民食堂で遅い昼食後、平安站ヤードへの路線を歩きながらロケハン再開です。


▲ 14:54、早速ZF型ホッパ車5両とC50型石炭車1両の編成を後押しで1210号機が上がってきました。ホッパ車に積載されているのは残土ですが、石炭車には発電所から出る廃土「フライアッシュ」だとO氏は言われます。フライアッシュは石炭燃焼時にガスとともに吹き上げられる微粒子で、そのまま捨てると風にまって、吸い込むと人体に悪影響が出る産業廃棄物です。日本では捨てず、吸水性が良いのでセメントと混ぜて使用されて処理されているとのご説明です。O氏は定年退職されるまで某大手製鉄会社にお勤めでしたので、この道の専門家なのです。日本では輸送する際にはタンク車が使用されていますが、ここでは無蓋車に積んでいます。当然、撒き散らしながらの輸送です。勿論ここに住む人民や働く職工には知らされていないでしょう。撮影される際はマスクが必需です。


▲ 15:22、続いて1818号機が3両のホッパ車を牽引して山を下って行きました。バックの橋はかつての路線です。海州露天鉱への架線を張った路線も残っていました。先のカーブには今まで見たこともない6本のレールを使っての補強がされていました。

▲ 15:34、先に進むと、カーブをホッパ車5両と車掌車を牽引した1319号機が下りてきました。

▲ 15:41、ちょっと変った踏切小屋のありました。ホッパ車5両の牽引機は1195号機です。

▲ 平安站付近でTaxiに乗ってヤード向うの太平站方面に向かいました。16:32、5両のホッパ車を牽引して黒い爆煙を上げて発車する0988号機、平安方面に向かいます。

ぼちぼち陽も傾いてきました。ヤードに沈む夕日が綺麗と言われている場所に再度Taxiを捕まえて移動しました。


▲ 17:41、ヤードに到着しましたが、冬場では中央に沈む夕日もこの時期はマンション右側で斜光を期待するしかありません。 真っ先に来たのは東風5D型0068号機が牽引する客車6両の職工通勤列車でした。

その後、0988、1210、1320号機と発着しますが、夕日はぼやけてきて斜光は期待できず引き上げることにしました。この日までに確認できた上遊型は合計8台でした。


▲ 帰り道は、ヤードから見えていたマンション群を抜けていきましたが、車庫の中には朝見た職工通勤列車の他にYZ22-79004、79005、79008の客車と、朽ち果てた上遊型0036、0076、0127、0391、0576の他ナンバー不明の2台の計7台が放置されていました。かつては相当数の上遊型が運行されていたことが分かりました。

▲ 今夜も夕食は
蒙古族の料理で、「羊肉火鍋」です。ホテルから歩いて約5分にレストランが並ぶ繁華街がありますが、1番多いのが羊肉火鍋のお店です。
  Part13  へ続く

 

2011年 春から春から夏への中国鉄路の旅 Part11  阜新煤礦鉄路 その1

第9日目 5月26日 午前

今日は平庄煤礦鉄路に続いて上遊型が現役で残る阜新煤礦鉄路を訪ねる。阜新市は遼寧省省都である瀋陽市の西北西約200キロに位置する地級市です。阜新駅周辺の地図はこちら

朝6時にホテルを出発して上遊型が客車を牽引する唯一の通勤列車の撮影を目指しました。

▲ 6:22、約20分で中国鉄路の阜新站に隣接した 阜新煤礦鉄路平安站近くの踏切に到着しました。站は近くにあり屋根もある立派な?ホームです。この日に見た最初の上遊型は1319号機。平安站はこちらへ。
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2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part9  平庄煤礦鉄路を走る上遊型 その3

第7日目 5月24日
約束どおり5時半に白タクは迎えに来てくれました。 F先生は五峰站ヤード付近で下車されましたが、O氏と私は平庄南站近くに小高い山がありましたので、ここで朝日を浴びた上遊牽引列車を撮りたいと向かいました。

▲ 5:46、中国鉄路叶赤線を走行する長編成の石炭列車。バックが黄色になっているのは、黄砂と朝日の影響です。平庄南站手前の踏切で撮りましたが、この路線は単線ながら列車が頻繁に通過します。撮影位置はこちらです。標高525m地点。

6:04、標高約585m(鉄路との標高差60m)の小高い山に登りますと、眼下に平庄南站そして昨日撮っていた橋が見えますが、残念ながら霞んでいました。7:50前後に来るかもしれない平庄煤礦鉄路の列車を待つついでに中国鉄路の列車も撮ることにしました。(撮影場所はこちらへ)

▲ 6:16、最初に撮影した和諧号重連の長編成の石炭列車。

▲ 7:57、平庄南站に進入する大連発赤峰行きのK7351次。

▲ 8:51、叶柏寿発通遼行きの6327次が到着。平庄南站は、平庄煤礦鉄路と中国鉄路との接続站で貨物ヤードもあります。平庄站より規模は大きい站ですが、1日当たり発着する客車列車は上下共各3本のみでこれが下りの1番列車です。


▲ 8:52、平庄に来る時に乗車した赤峰発山海関行きのK7384次。これも上りの1番列車で6327次と平庄南站で停車交換します。今日は行李車を連結していない7両編成でした。蒸気時代のこの叶赤線は前進型が走っていたそうです。この場所で遠くから白煙をなびかせながらの走行を見たかった、撮ってみたかったと思いました。

9:00までO氏と二人で約3時間粘ってみましたが、平庄煤礦鉄路には1本の列車も走行しません。そろそろ諦め時だと意見が一致しましたので下山しました。五峰站に向かって道路を歩いているとワゴン車が走ってきたので手を上げると止まってくれました。どうやらここでは交通機関が少ないので、走っている車は手をあげれば止まって乗せてくれるようです。もちろんタダではなく町までなら20元(市内~平庄南間)と決まっています。
インターネット検索では装煤站から立井站間は1往復の運用があるようだとの記事しかないので行ってみたいとO氏との希望と一致しましたので、昨日私のみが行った装煤站へ運転手に頼みました。


9:40、装煤站ヤードに到着。SY0400、1052、1425号機の3台はいますが、1487号機はいません。中央司令室に聞きに行ってみましたが担当者は不在で知る事はできませんでした。

先に立井方向に進んでいたO氏を見ると、ヤード内で人海戦術で路盤工事をしている保線員の責任者に捕まっています。急いで行ってみるとここから先は通行不可と制止をされています。
お任せください。こんな時はゆっくりにっこり笑っての対応が効き目あります。いつもと同様に「私達の趣味はこの立派な蒸気機関車を撮影する事です。日本からそのために来ています。撮影は中央司令室で了解してもらっています。」と説明してタバコを薦めますと喜んで吸ってくれました。後は私たちは朋友ですと握手すれば完了です。

タバコを薦める事は中国での初対面の挨拶ですが、逆に1本が1箱、そして1ケースとなり最後は金銭にまで進んだ樺南鉄路の悪例もあります。出来ればやりたくありませんが、お金も要求してきましたのでこの場合の緊急対応です。日本の鉄ちゃんも訪れる時は後に続く人の事も考えて甘い対応はしないでください。この国の人民は一度甘い汁を吸うとそれが当たり前になってエスカレートしてしまう事もあるのです。

ヤードを過ぎると有人踏切がありましたので通過記録簿を見せてもらいましたが、今日はまだ通過していません。昨日見たダイヤグラムでは装煤8:45→9:35立井11:50→12:30、装煤14:25→14:50三井15:58→16:30装煤がありましたので午前中には1往復は来るだろうと思い待つ事にしました。
O氏はカーブを曲がった畑の中の直線区間で、私は先の林の中を目指しました。

10:44、新緑の林の中で珍しく綺麗な水が流れている所がありましたので汚れた手を洗って線路際の犬走りに戻ると汽笛もなくSY0400号機が単機バック運転で突然にやってきました。シャッターは切りましたが、もう1つです。その後まああ気に入った場所がありましたので折り返しを待つ事にしました。近くで汽笛の音は何回も聞こえるのですが中々来ません。


12:31、待つ事1時間45分。ようやくSY0400号機が戻ってきましたがセキの牽引はなくまたも単機です。今回は単機回送ばかりでまともに石炭列車は撮影出来ていません。(撮影場所はこちらへ)

O氏と中々上手くいかないなあと嘆きながら近くに食堂を探しました。
庶民食堂で昼食後、Taxiを捕まえて再び平庄南站へと向かいました。


14:44、 平庄南站到着。ホーム2本3線の交換駅です。ローカル駅とあって窓口は1ヶ所だけですが、ホームは広く、ヤードでは東風4型3877号機が入替をしていました。やがて長編成の石炭列車が到着しました。

▲ 撮影していますと、作業を終わって側線に引き上げた運転手が手招きしています。中に入れてもらって運転席内を見学させてくださいました。中には電熱器も備えられていてお湯も沸かせます。

通称「緑亀」と言われる東風4型電気式ディーゼル機関車は、1974年から約3,500台余りが量産されました。1980kwの出力を誇り、貨物用4B型(最高速度100km/h)、客車用4A型(最高速度120km/h)の他、出力アップした4C型、4CK型、4D型もあります。最近は強力な新型DL和諧号も量産されていますが、今なお中国鉄路の非区電化区間の主力DLです。車体色は濃い緑色ですが、帯は水色と黄色があり前者は「スイカ」後者は「カボチャ」と愛称されています。

石炭列車を待っていましたが夕刻になっても来ません。ここの運行には振られっぱなしです。明日は朝に平庄を離れて阜新へと向かいます。これまでかと諦めだした時に今までと違った方向から汽笛が聞こえてきました。

五峰駅から分岐して五家鎮へと向かう鉄路からです。この路線は信号所の担当者もめったに走行しない。走っても1ヶ月に1回もあるかないかですと言われていました。
17:10、全力で音の聞こえる方向に向かうと林を抜けて人民が畑を耕す中を長編成の石炭列車が姿を現しました。(撮影場所はこちらへ)

▲ 17;25、列車は五峰駅ヤードに入り、スイッチバックで機回しをした後に築堤を上がって向かってきました。牽引するのはどこに行ったのかと行方を捜していたSY1425号機でした。大地に残された蒸気機関車が走る平庄煤礦鉄路の1シーンです。(撮影場所はこちらへ)

ひたすら来ない列車を終日辛抱強く待っておられたF先生、私と右往左往して平庄南站手前で降りられ待っておられたO氏もガッツポーズです。変哲もない上遊型が牽引する石炭列車ですが、ようやく撮れたとの感激は3人にはありました。
F先生は満足げに今日はこれでいいと帰られました。O氏と私は帰路の発車を見たいと残りました。しばらくすると本線に空のセキを牽引した DF5型1797号機が平庄南站に入選して来て、SY1425号機と双方の石炭列車の機交換を行いました。

SY1425号機はDF5型から受け取った60両余りのセキを牽引して五峰駅ヤードに向かって行きました。
私はこれで満足でしたが、まだ期待できる何かがあるかもとO氏は残られました。3人で大地で残る蒸気機関車を求めて旅を続けていますが、具体的な行動はあくまで各自のマイペースを尊重する事が重要と認識していました。   Part10  へ続く

2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part8  平庄煤礦鉄路を走る上遊型 その2

第6日目 5月23日 続編
五峰駅の周辺は住宅になっていて、中に食堂が1軒ありました。冷たいビールを頼みましたがありません。仕方ないのでホットビールで一息つけました。

▲ 人影もないヤードになぜに鉄条柵があるのかと不思議に思っていましたら、羊の集団がやって来ました。放牧の進入防止のためだったのですね。

昼ごはんを食べ終わる頃に汽笛が聞こえてきました。O氏の狙いは当たったたなあと思いましたが、蒸気が走るのは確認出来ましたので安心です。
たっぷりと食べれましたので行動開始です。F先生はヤード向うの築堤で午後はゆっくりと撮ってみたいと向かわれました。 一方私は、逆方向がどうなっているのかが気になりましたので、こちらを選択しました。12:50、分かれてすぐにおり返しの上遊1425号機が単機回送で戻ってきました。
Taxiで来る時に踏切手前を回って側道を行きましたが、その踏切に着きました。有人踏切で踏切番がおられましたので小屋に入らせていただいて列車情報を聞きました。ここでも信号所と同様に列車司令室からの指示が無線で入ると言われ、通過記録簿を見せていただきました。踏切の場所はこちらです。

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2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part7  平庄煤礦鉄路を走る上遊型 その1

第6日目 5月23日

① 北京北20:59(2559次)→6:38赤峰
② 赤峰7:33(K7384次)→8:38平庄

2559次は寝台のみの編成でした。丁度乗車日は日曜日、北京に買い物や遊びに行ってきた若者が多く、私の乗った硬座寝台の3段寝台6席のコーナーは私以外は全員若い女性でした。座席が取り難かったわけです。
▲ 5時過ぎにはもう明るくなって、車窓には小高い山々が広がっています。今日は快晴です。終着1時間前には列車乗務員が「換票」(寝台券と切符の交換)に来ました。
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2011年春から夏への中国鉄路の旅 Part6  河南省建材廠を走るC2型 その5

第5日目 5月22日

①  
榮陽(Bus・Taxi)→11:40郑州站
② 郑州12:19(D136次)→17:22北京西(Taxi)→12:56北京北站
③ 北京北20:59(2559次)→6:38赤峰

昨夜は部屋に戻ってからも郑州鉄道日記さんと夜遅くまで話し込みましたので爆睡、朝6時にお二人にノックされた音も夢の中でした。ゆっくりと目覚めましたので、7時半ごろに通ったC2型単機回送も部屋の窓から見ました。車庫ヤードでの作業がなかったのでいつもより早い通過でした。
今日は12:19発の列車に乗車しますので、11時半には郑州站には着かなければなりません。遠くには行けないのでレンガ橋付近での撮影としました。
▲ 左は2番列車の復路(撮影場所はこちらへ)、右は1番列車の復路(撮影場所はこちらへ)です。森林鉄道の感じで撮りましたが、曇り空では新緑がもう一つでした。

▲ 2番列車の往路です。今日は水鏡になりましたが暖かかったので煙はでません。鉄道写真はこれだから難しい。(撮影場所はこちらへ)
レンガ橋での撮影は同じ場所だけでしたが、煙が出る冬場でしたら朝の撮影場所は反対側が最適です。朝焼けをバックに理想的な写真が撮れるでしょう。ただ朝焼けになるかどうかは運しだいです。 続きを読む

2011年春から夏への中国鉄路の旅 Part5  河南省建材廠を走るC2型 その4

撮影機材はNIKON300Sを使用しています。オプションのGPSを装着していますので、撮影場所をGoogleマップで見ることが出来ますが、今まで投稿原稿にリンクする方法が分かりませんでした。我が家のパソコン先生が帰宅しましたので頼み込んで教えてもらいました。今回よりリンクさせていただきますので、(場所地図はこちらをクリックしてください。ご覧いただけます。緑の矢印が撮影場所です。

第4日目 5月21日
今日は頼りになるゲストをお迎えします。地元で働いておられる鄭州鉄道日記さんです。彼とは昨年芭石鉄道の帰りの郑州から乗車した广州行きの夜行寝台列車で、同じコンパーメントで一緒になるという中々ない出会いで知り会って以降、中国鉄路についての現地情報を教えてもらっています。前もってご連絡を入れておきましたら、土日曜日なら仕事はお休みなので行きますとのお返事をいただきました。

来られるのは昼頃なので、まず列車が今日は走るのかの確認をするため車庫に向かいました。(場所地図はこちら

しかし、残念ながら車庫はシーンと静まりかえっていて、2台ともおいてありました。
仕方がないので近くの中国鉄路榮陽駅に行ってみる事にしました。車庫前の人民に聞きますと、真っ直ぐ行って線路手前を右に行くと分かるです。真っ直ぐ歩くと鉄路と立体交差していましたので、地上部分を進み撮影できる場所を捜しました。
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