2010年 早春の中国一人旅 Part1 武广高鐡線へ

第1日目 2010年3月2日

①長岡京6:40(JR快速)→大阪・梅田(地下鉄)→なんば7:30(ラピート)→8:11関空
②関空
9:55(JAL)→13:35広州空港
③広州空港(Taxi)→14:35広州北駅16:12(武广高鐡)→16:35広州南駅

冬季オリンピックも終盤になり、ロミオ君のお送りも済みますと、そろそろ『旅へ行きたろう虫』が、騒ぎ出します。2月中に有効な、北京行きの無料航空券があったのですが、日頃の行いが悪いのか、当日朝まで待っても席が取れずあえなく、くず箱行きとなりました。
JAL便が満席で、当日もキャンセルがないなんて、こんな事は、初めてです。これが、始終続いていたら、破綻もなかったでしょうが・・・。

今年の春節は、2月14日でした。どうやら、春節休暇で帰国した駐在員や家族、訪日中国人団体客の帰国ラッシュと、ぶつかってしまったようです。
めげずに、直ぐに新たなマイレージ航空券を手配して、出発できる日を待ちました。3月2日のキャンセル待ちは、直ぐにOKの電話連絡がきました。
目指すは、芭石鉄道の撮影リベンジと、春節に向けて立て続けに開業した、中国版新幹線の武广高鐡鄭西高速鉄道の初乗車です。このため、着陸地は、最も近い広州としました。 続きを読む

カラフルDC-加太編(3)

l       鉄道車両の塗装  
 明治4年の鉄道開通時から、鉄道車両の塗装は施されていたようです。よく目にするのが、黒の蒸気機関車に赤のラインなど、焦げ茶か黒の木製客車に赤い帯や模様塗りなどです。カラー写真を目にしたことが少ないのですが、その後も鉄道車両、殊に官設鉄道車両の塗装は、黒系が多く、機関車や貨車は黒に限られ、客車はぶどう色塗装で赤・青・白帯が目立ちました。黒以外なら、戦前では特急つばめの客車に淡緑色塗装、阪神間のモハ52系に茶とクリームのツートンカラー塗装があったくらいでしょうか。(官設以外なら、明治時代から鮮やかな塗装の東京馬車鉄道などはありましたが)本格的な車両のカラー化は、戦後しばらく経った頃、湘南電車、気動車で始まったようです。
 

 車体の塗装目的は、当然のことながら、防錆、耐水、耐油性等の耐性付与です。乗客の便宜上や、美観目的などは、殊に戦前ではほとんど考えられていなかったようです。また、非「車社会」ですから、接近する列車を時間的に早い段階から認識する必要性も少なく、目立ちやすい色を車体に塗装するいわゆる安全性に配慮の必要性もなかったようです。
 
 それが、戦災日本の復興と共に、カラー塗装化が一気に始まりました。物の本(『国鉄電車のあゆみ』、『電車のアルバム』など)では、1949(昭和24)年に復活した京阪神間の流電が最初とか。ブルーの濃淡塗り分けだそうですが、カラー写真を見たことはありません(その前年、モハ52系が高速試運転の時、グリーンに塗られた車両をどこかで見た記憶がありますが)。関東地区では同年、モハ32系の塗り見本電車が現れたようです。先頭車両が二系統色に塗り分けられました。前面と側面が一対で片方に湘南色、片方がスカ線色でした。塗り分けの塗り分けですから、一車両に合計4色が塗られていたことになります。暗い戦後の払拭を望む人々に通じたのだろう、これが本格的な車両カラー化の先駆となり、翌1950(昭和25)年1月横須賀線にスカ線色、3月東海道線に湘南色電車が走り始めました。

 
 一方、気動車(ガソリンカー、ディーゼルカー)はどのようだったでしょうか。川上幸義著『新日本鉄道史』によると、1935(昭和10)年、キハ42000の鮮紅色、のちの青色と灰青色の塗り分けが最初だそうです。戦後1950DCの運用が再開され、1952年湘南型の正面を持つキハ44000系が誕生し、DC化時代の幕開けとなりました。この時の塗装は上記青色と灰青色の塗り分けだったようです。DCはその後も『旧一般色』と呼ばれた青色と黄褐色の塗り分けに、屋根は青灰色でした。そして1959年、我々に馴染みの『新一般色』が誕生。クリーム色4号と朱色4号のキハ11系。クリーム色2号の地に赤2号の準急用キハ55系や51系などです。(この項、星 晃「国鉄車両の色」、鉄道ジャーナル461号、 20053月 を参照)

 
 このあたりからは説明不要でしょう。その後のカラフル時代は電車、客車、機関車、DCを問わずすさまじいばかりです。車体塗装の色分けには、ご存知もう一つの目的、乗客向け用の利用路線の見分けがありました。最初の頃はその目的も達成されたでしょうが、最近は複雑で戸惑うばかりです。

 
 近年、不景気も手伝い、さすがにある程度統一をとか、JR別に色分けしようとかの動きが新聞発表や当デジタル青信号にも掲載されていました。それも結構ですが、ある程度は適度な色彩感覚も持っていただきたいですね。レンガ色の一色塗装など、けばけばしい色使いで周囲の風景とマッチもせず、飛びぬけたような色使いはあまり感心しません。
 
  

 加太を通過したDC群は、カラー化時代の初期の頃でした。そして穏やかでのんびりとした周囲の山々や、人々の大切な田圃や畑ともよくマッチしていました。蒸気機関車の牽く列車と共に、DC列車の通過を見ているだけで我々には生命の洗濯となったものでした。

16.714D急行『平安1、志摩2、くまの』、なんと11連。空も山々も初夏の様子です。

17.338D、初夏の田畑はまもなく夕方です。

 
18.712D、田んぼに水が引かれ、幼苗も育っていて田植えが近いようです。


19.
加太トンネルの上から、眺めた中在家信号所。左が332D、信号所をノンストップで下ります。右は333Dで待避中、この後一旦、山すその引込み線に後進、再び前進して本線に戻り加太トンネルに向け坂を上ります。柘植では草津行きと湊町行きに分かれます。


20.213D急行「かすが2号」キハ55、キロハ25、キハ58など。山々はすっかり緑です。

芭石鉄道 冬編 反省とご案内

今回は、相棒の都合もあって、出発・帰国日がガチガチの8泊9日の、芭石鉄道への初めての旅でした。そのため、成都到着後は、インターネットで調べた、下記の旅行社ツアーを利用しました。
http://www.tf-travel.com/guanguang/tds.html
日本からのツアーもありますが、個人で手配するのに比べると、中身が濃い代わりに、融通性がなく、料金もそれなりになります。しかし、中国語が全く話せないとなると、一人で行くのは、かなり難しくなります。

それでも、電子辞書を片手に、行ってやろうとされる方々へ、私の反省をこめて、ご案内させていただきます。
と、思っていて、買い物に行ったら、本屋で『地球の○○方・’09-’10、成都・・・』に訪問方法が掲載されていて、びっくりしました。もうすっかり、メジャーなんですね。買って読んでみましたが、現状とは違っているところもありますので、最新版をまとめます。

現地2日目に、D300に装着したSDHCが粗悪品で、『トホホ』となった時に、予備に撮っていたHDDムービーです。

【日本からのアクセス】
日本の成田・関空から成都までは、直接の直行便は、ありません。中国国内空港を圣由しますので、約8~10時間かかります。当日の夕刻には到着しますが、芭石鉄道近くの楽山市まで行くのがやっとでしょう。知らぬ外国で、夜間移動は、禁物です。一旦、成都での宿泊が無難です。

日程に余裕があれば、私と同様に、一旦北京で宿泊して、翌日に北京西駅からのT7列車、約26時間乗車をお薦めします。移り行く車窓の見応えは、充分あります。また、食堂車で、その車窓を見ながら、本場の四川料理を味あえる楽しみもあります。芭石鉄道への旅を始めるには、最も相応しいと思いますが、問題は、軟座寝台切符の入手方法です。

私は、何とかしましたが、現地で知人でもいないと、困難です。インターネットで、頼める方法もありますので、研究して下さい。ダメな場合は、ご一報いただければ、購入方法をご提案させていただきます。但し、春節(旧正月)、国慶節(10月1日)、黄金週(5月連休)は、余程前に予約しないと、確保は難しいです。また、法外な手数料を覚悟する必要性があります。

【成都からの楽山へのアクセス】

初めての方、中国語ができない方は、現地旅行社に頼むのが、無難です。乗り鉄なら問題ありませんが、現地での撮影を望まれる方は、引率者の力量次第となります。
独自で行動される方は、『地球の○○方・’09-’10、成都・・・』を、購入ください。

但し、どちらにしても、大敵は、成都盆地特有の『霧』です。ほぼ、日常的に発生しています。晴れた日にめぐり合えるのは、年に数回のようです。成都からのアクセスも、記載されているのは、環境が良かった場合です。まず、遅れる事は、必至と考えていたほうが言いと思います。

私の場合で、成都市内のホテルから、芭石鉄道の出発地、石渓站まで、チャーター車で、約5時間30分(昼食休憩55分含む)かかっています。復路も事故で、同じくらいでした。

バスで行かれる場合は、市内のホテルから、石羊客運站、または成都旅游客運站(バスターミナル)に行きます。約20~60分程度は必要です。

ここで、20~30分間隔で出発する楽山市行きの中型バスに乗車します。約136km、遅れなければ、高速道路を走り、約2時間強で、到着します。人口133万人の大きな街です。朝に出れば、丁度、昼ぐらいに着きますので、レストランも多いです。ここで、食事をされた方が良いです。

【楽山から石渓站へのアクセス】
ここから、石渓站までは、約55km、迂回路のない片側1車線の1本道です。楽山からのバスは、犍為行きです。10分間隔で運行され、約70~80分は必要です。犍為からは、またコミュニティーバスに乗換えが必要です。面倒ならタクシーで向かったほうが、石渓站まで乗換えなしで、到着できます。

午後の列車の出発は、14:00です。バスなら、到着時刻に不安がありますが、タクシーなら、まず大丈夫です。料金は、100~150元(1400~2100円)程度だろうと思われます。

【現地での宿泊】
楽山市には、宿泊施設がたくさんありますが、石渓までは、1時間以上必要です。乗り鉄なら、問題ありませんが、撮り鉄となると、犍為で宿泊するか、芭石鉄道沿線駅近くに宿泊しないと、撮影は困難です。食事別で、30~50元(420~700円)で、宿泊できます。私も、次回3月の菜の花シーズンは、芭石鉄道沿線に宿泊予定です。

【列車ダイヤ】
1月でも、結構観光客がいましたので、菜の花シーズンは、かなり多くなると思われます。早めに駅に行って、切符を買わないと、満席お断りもありのようです。同業者が多くなると思われます。2010年1月の列車ダイヤを作成しましたので、ご参考して下さい。早延着がありますので、ご注意下さい。尚、現地では、必ず運行状況をお尋ね下さい。


【旅費】関空以降、2名で行った場合の1名分
1、国際線航空券 関空~北京 JAL             57,420円
2、現地、芭石鉄道ツアー料 3泊4日             45,000円
3、北京2泊・成都1泊3朝食込みホテル代          16,870円
4、北京~成都 運賃・現地タクシー代            27,840円
5、現地、飲食費                         10,500円
6、その他、雑費                          9,430円
                      合計          167,060円

今回は、往路・復路共日程変更ができませんでした。そのため、国際線航空券は、正規運賃では、安いWeb悟空を購入しました。
現地ツアーは、通訳、チャーター車、運転手、3泊分ホテル代・食事代<朝3・昼2・夜3>、2日分鉄道運賃を含んでの金額です。1人で行っても、2人分必要です。ホテルの宿泊代も、1室料金ですので、同様です。

無駄遣いは、あまり気にせず、飲食も適当に、極めてナチュラルに過ごしました、8泊9日の全旅費です。現地ツアーを頼まなければ、20,000円ぐらいは、安くなりますが、移動に余分な時間がかかりますので、難しいところです。
もっとも、日本から、旅行社に頼むと、6泊7日で、25万円前後しますので、かなり安くはついたろうと思います。

治安は、用心さえ怠らなければ、問題ありませんが、何かと、予期せぬ事が起こるのが、旅先です。そんな時は、運が悪かった。仕方がないと諦めて下さい。私は、悪運に慣れていますので、いつも、そうしています。
では、お気を付けてお出かけください。

私は、菜の花が満開となる3月上旬頃には、向かう予定です。今度は、近くのナローゲージ電気機関車が走る沫江煤電も、訪問予定です。また、現地のWebサイトを見ていましたら、報道が皆無な専用線のナローゲージも近辺にあるようですので、下見に行ってこようと思っています。广州~武漢を走る新幹線にも乗車してみたいので、次回は楽しみ満載です。
相乗りは、大歓迎しますので、ご希望の方がおいででしたら、コメント欄にご記入下さい。追って、ご案内をします。

ゴーニ求めて大糸線へ (2)

新潟地方では記録的な大雪に見舞われているようだ。JR西日本の運行情報では、本日、大糸線は大雪のため全列車運休とのことだった。数日前には、ラッセルも走ったらしい。
さて、頚城大野、小滝で撮ったあと、ぶんしゅうさんの運転する車は、平岩へ向かった。こんどは、時間に余裕を持って第7下姫川鉄橋そばにスタンバイ、糸魚川行きを迎え撃った。

カーブした第7下姫川鉄橋を渡るキハ52。朱とクリームの国鉄色は、ことさら雪景色の中ではよく映える

大糸線は、平成7年7月の豪雨で姫川が氾濫し大きな被害を受けた。中でも平岩付近は、鉄橋流失、路盤崩壊、レール宙吊りと甚大な被害を受けた。一時はそのまま大糸線非電化区間の廃止も噂されたが、JR西日本は重い腰を上げ、ようやく2年余り後に全線復旧を迎えた。雪で覆われているので、その傷跡も癒えたように見えるが、この地方の地形・地質の険しさを思わずには入られない。

昔日の平岩駅
40年前の”帰りがけの駄賃”で、よく訪れたのが平岩だった。その当時、まだ撮影地の情報は十分にはなく、たまたま車内から見ていて、鉄橋が近く、写し易いと判断したからだった。
大学の春休みに訪れた時は、バックの山が残雪に輝き、雪解け水を集めた姫川は滔々と流れていた。北海道の帰りに寄った身には、春の訪れをはっきり感じたものだった。ただ、ポカポカ陽気は、夜行の疲れもあいまって、たちまち睡魔に襲われ、河原で列車を待つ間、ウトウト寝てしまっていた。
駅は、近隣のスキー場や温泉へ向かう客で、この区間ではいちばんにぎわっていた印象だった。現在のように、写真を撮る人間以外にほとんど人が見られないとは随分違っていた。

現在、糸魚川~南小谷間での交換は根知のみだが、当時は平岩も交換駅だった。交換するお互いの列車も長い編成で、無蓋車が並んだ貨物ホームも見られた(昭和45年8月)。

第7下姫川鉄橋を渡るキハ5243+5241+55213の編成。カラーとは逆の位置だ。その後の水害ではこの付近の被害が最も激しく、地形が変わってしまった。右手の対岸に並ぶ旅館街もすべて流されてしまった(昭和46年3月)。

スキー客でにぎわう平岩駅前。黒い長グツ姿は、その当時のスキーの標準的なスタイルだった。

現在の平岩駅。積雪は約1m、駅舎は変わっていない。「平岩駅」の木彫の看板もそのままのようだ。

2009年~2010年  芭石鉄道 冬編 反省とご案内

今回は、相棒の都合もあって、出発・帰国日がガチガチの8泊9日の、芭石鉄道への初めての旅でした。そのため、成都到着後は、インターネットで調べた、下記の旅行社ツアーを利用しました。
http://www.tf-travel.com/guanguang/tds.html
日本からのツアーもありますが、個人で手配するのに比べると、中身が濃い代わりに、融通性がなく、料金もそれなりになります。しかし、中国語が全く話せないとなると、一人で行くのは、かなり難しくなります。

それでも、電子辞書を片手に、行ってやろうとされる方々へ、私の反省をこめて、ご案内させていただきます。
と、思っていて、買い物に行ったら、本屋で『地球の○○方・’09-’10、成都・・・』に訪問方法が掲載されていて、びっくりしました。もうすっかり、メジャーなんですね。買って読んでみましたが、現状とは違っているところもありますので、最新版をまとめます。
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2009年~2010年 冬の芭石鉄道へ Part11 成都→北京→帰国

晴れて、自由人となって、1年を辺境の地で迎えましたが、自由気ままにあちこちに行けるには、日常の義務と責任、早く言えば、家族への気配りが必至です。そのため、介護、炊事、買い物、孫の迎え等々は、欠かせません。
家事が重なり、投稿が中断しました。これも、次回の旅への試練と思えば、苦労も楽しみとなります。

第7・8・9日目 2010年1月4日、5、6日

①成都11:40-(T8)→13:28北京西-(Taxi)→京倫飯店
②京倫飯店→国貿站-(地鉄)→北京空港
③北京空港14:00→関西空港-(JR)→帰宅

今日は、T8乗車まで、充分な時間があります。旅行社の胡小姐の案内のもと、成都市内を見学後、成都站で乗車を待ちました。北京西站まで、往路と同じく、約26時間の夜行寝台列車の旅です。

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ゴーニ求めて大糸線へ (1)

大糸線のキハ52がいよいよ消えるらしい。ぜひ行きたいと念願していたが、なかなか実行できなかった。糸魚川地域鉄道部のホームページを見ると、キハ52が3両とも稼動する日が何日かある。行きに青春18きっぷを使うことを考えると、おのずと日は限られる。もう行くしかない。幸い雪もたっぷりある。
こんなときに声を掛けてもらったのは、本掲示板でお馴染み、ぶんしゅうさん。近くに住んでいながら、なかなか一緒に行く機会に恵まれていなかったが、今回は、二人で北陸本線の撮影をしながらの糸魚川入りとなった。
2年上のK林さんも愛用されている糸魚川駅前のビジネスホテルに投宿、前夜は二人で久しぶりに一献交わして、翌日は午前5時に起床。前夜からキープしておいたレンタカーで出発。空には星がまたたき、晴天を約束してくれる。

始発列車は頚城大野の駅で迎えた。ようやく東の空が明るくなるころ、キハ52がDMH17のエンジン音を響かせて来た。なつかしい国鉄色が夜明けの雪原に映える。停車時間はわずか30秒、赤いテールライトをアクセントに、かじかむ手でシャッターを押し続けた。

つぎに来たのは、小滝駅だった。何気に二人でホームへ行ってみると、もう列車が着いているではないか。しまった、時刻を読み違えた。悔し紛れに発車した後追いを写すと、偶然にも、独立した雪山にだけに朝陽が当たっていた。地図を見ると明星山という1188mの山である。


昔日の大糸線
私にとって大糸線の非電化区間(糸魚川~南小谷)は40年ぶりの訪問だった。
学生時代、東北、北海道の帰途、夜行で糸魚川に着くと、大糸線内で貨物1本が撮れる。それを撮って、その日のうちに帰宅ができる。言わば、”帰りがけの駄賃”である。
信州均一周遊券でも回れたが、これを使うと本数の稼げる、小海線、飯山線へ行ってしまい、逆に大糸線へは足が遠のいた。
当時の大糸線非電化区間の運転本数は13往復あった。しかも写真で見るように長編成である。中には信濃大町まで乗り入れるDCもあった。これは、F本さんによると、クモニ83からキハユニ26へ郵便荷物の積み替えを同駅で行うためとのことである。そして、特筆すべきは、新宿から急行「アルプス」が糸魚川まで定期運転されていたことだ。現在の単行9往復とは、隔世の感がある。
貨物列車も通しの貨物がC56牽引で1往復、糸魚川~平岩間の区間貨物がC12牽引で1往復が設定されていた。C56は遠く離れた上諏訪機関区の所属で、信濃大町以北がC56牽引となった。上記の”帰りがけの駄賃”は、上りの通し貨物を狙うのだった。

姫川沿いを行くDC列車。キハユニ26+キハ52+キハ52+キハ20+キハ52の5連。乗っているキハ52はトップナンバー車だった。姫川の対岸に国道が見える。現在のようなほぼ全区間シェルターに覆われた国道と違い、まったく無防備な状態には驚かされる(昭和45年7月)。

カラフルDC-加太編(1)

  • カラフルなディーゼルカー(気動車、以下DCと表記)のこと

 蒸気機関車牽引の旅客や貨物列車の撮影によく出掛けました。それらの合間には、どの線区でも必ずカラフルなディーゼルカーが通過しました。蒸機列車と違い、バックを気にしなくてもよいし、なによりも周囲の風景によく溶け込んで見えました。それは当時の日本の風景の一つでした。でも我々は当時、貧乏学生か薄給な勤務初年兵であり、高価なカラーフィルムをふんだんに使えません。蒸機以外は撮影しないことにしていました。それでも時々気が向けば、通過する通勤通学や優等列車のDCにカラーフィルムを消費していました。
 そんなポジフィルムが、およそ300コマほど残っています。拙著HP『蒸気機関車山路を行く』のテーマから外れているので、アップもしていませんでしたが最近、ページ稼ぎに『カラフルDC』としてアップしました。幸いカラーの損傷が少ないので見ることはできますが、如何せんバカちょんカメラに中程度の撮影技術。お目にかける代物ではない物も多いのですが、ご辛抱ください。また、DCの形式説明などに誤りなどがあるかと思います。ご遠慮なくコメント欄等でご指摘ください。お願いします。

 まずは、加太会で撮影した関西線加太付近のDCからです。

1.加太会発足の日、320D湊町発亀山行き、キハ35が画面左へ25‰の坂を下ります 

 2.同日323D、昼前の亀山発湊町行き。キハ35とキハ20の混編成です。

3.明けて1965228日。206D準急「かすが1号」です。キハ55、キロハ25など。後部には、2両のキハ17が併結されています。まさか客扱いはしていないように思われます。翌日からのダイア改正に備え回送かもしれません。この日は、例の2442レ「鳥羽快速」の運転最終日でした。「かすが1号」の8分後に撮影地を通過しました。最終日の蒸機はC57148で、現在大阪の共永興業株式会社の本社ビル内に陳列されています。同社の本社ビル完成記念に整備陳列したものです。同時発行の「永遠に走れ!われらの蒸気機関車」と題した箱入りSPレコード付記念誌が手元にあります。
 一日の撮影終了後、関駅まで出て、文字通り最終の2441レで山陽本線兵庫まで乗車帰宅しました。19644月入社の初年兵は、毎朝兵庫から大阪まで、「鳥羽快速」で通勤し、時に帰りも同列車でした。11ヶ月間の客車通勤もこの日でおしまいでした。 

 4.中在家信号所の334D湊町発名古屋行き、5時間近くの運転です。画面奥の待避線で335Dと交換し、手前の待避線にバックで進入、再び方向転換して坂を下って行きました。

 5.DC列車は併結・分離が得意で、分岐駅の多い関西線にはそんな列車が沢山通過しました。 これもその一つ、準急「平安1、かすが1号、はまゆう」の奈良、白浜、京都行きです。キハ55、キロハ25などが見える10両編成です。

 6.同日332D、キハ35の4連です。農家は稲刈りです。刈取り機から粉塵が上っています。懐かしい日本の風景の一つです。

7.同様の334D、今度はキハ20との混成5連です。

 次回は、特急「あすか」や急行に格上げされた「かすが」、「はやたま」などをお目にかけます。

2009年~2010年 冬の芭石鉄道へ Part10 撮影最終日も『トホホ』

第6日目 2010年1月3日

① 犍為天波大酒店8:30-(チャーター車)→8:50石渓站9:32-(第2次)→10:01蜜蜂岩駅
② 蜜蜂岩站12:45-(バイク)→石渓站-(チャーター車)→13:20飯店14:00-(チャーター車)→18:50成都

今回、最後の撮影日です。いつものように、朝起きて窓の外を最初に見ますが、滞在で1番の濃霧です。日頃の行いを悔やみますが、こればかりは、どうしようもありません。今日は、撮影後石渓站から成都のホテルまで戻りますので、スーツケースをチャーター車に積み込んでの出発です。
8:50石渓站に到着後、ゆっくりと時間が取れたので、構内を散策できました。
▲ 遅れましたが、これが、切符売場と待合室です。でも、待合室に待つ人はいません。みんな、ホームでたむろしているのが、日常的です。 続きを読む

2009年~2010年 冬の芭石鉄道へ Part9 竹の香り

投稿前に準特急先輩の『電車は4両がええ』を読ませていただいておりましたが、私の小学生時代は、校庭から、阪急と国鉄の両方が見え、阪急京都線は、まだ2両編成が走っていました。一方の東海道線は、SL全盛期で、汽笛と共に、白い煙をはいて走っている列車を、いつも見ていたのを思い出しました。
当時は、我が町も人口1万人強の田舎町で、田畑が殆どでしたので、何処からでも、こんな光景を見る事ができました。

第5日目 2010年1月2日

① 犍為天波大酒店8:40-(チャーター車)→9:10石渓站9:27-(第2次)→10:22菜子埧站
② 菜子埧站-(徒歩)→蜜蜂岩駅
③ 蜜蜂岩站18:03-(観光列車)→18:35石渓站  

道を歩き、未舗装の凸凹道に出ると、殺風景な集落が続いていました。胡小姐は、その中に建つ2階建ての民家に入っていきました。いったい、どうするのでしょうか?
見れば、雑貨店です。胡小姐は、何やら交渉をしています。そして、『丁度、お昼ご飯の準備をしているそうです。家族の人と一緒に食べてもいいですか?』と、聞いてきます。原住民の方の食事をいただけるとは、感激です。勿論、OKを出しました。
続きを読む

2009年~2010年 冬の芭石鉄道へ Part8 『トホホ』の反省

今出川浄福寺さんより、コメントをいただきましたので、ご返信をしたいのですが、JPGファイルを添付できません。申し訳ありませんが、恥かしながら、ここに掲載させていただきます。

上記が、問題のSD-HCです。ケースは、廃棄しましたのでありませんが、現物です。

そして、保存されたファイルは、337カットありましたが、開けるファイルは、84カットのみで、残り253カットは、修復ソフトで、復旧を試みましたが、不可能でした。

デジカメをご使用の皆様、繰り返し使用できるメモリーです。何回も安心して使えるのが、もっとも重要な事です。私のように、『安物買いの銭失い』になって、折角、苦労して撮った写真が、消滅する事がないように、日本で、信頼できる店で高くとも、間違いないメーカー品を購入される事を、お薦めします。私も帰国後、直ぐに本物を買い求めました。 Part9 へ続く

2009年~2010年 冬の芭石鉄道へ Part7 『トホホ』のスタート

第5日目 2010年1月2日

① 犍為天波大酒店 8:40(チャーター車)→9:10 石渓站 9:27-第2次)→10:22 菜子埧站
② 菜子埧站-(徒歩)→蜜蜂岩駅
③ 蜜蜂岩站-(観光列車)→石渓站

6:30、今日は、1日中、芭石鉄道を撮影します。張り切って起床し、部屋の窓の外を見ますと、昨日と同様に、霧です。四川盆地特有の気象ですが、とりわけ大渡河沿いのこの辺りは、霧発生が日常的だそうです。何とか、撮影時には、晴れて欲しいと祈りながら、石渓站に向かいました。

途中で、昨日、石炭ガラが目に入って、眼の痛みがひかないのを、心配した胡小姐は、病院に寄ってくれました。同じ症状の患者が多いそうで、目を洗浄してもらいますかと、聞いてくれましたが、芭石鉄道撮影を優先したいので、丁重に断りましたが、しかし、その後も、ゴミは取れず、北京に着くまで、痛みが続きました。

今日は、サングラスとマスクは忘れず、ホカロンも衣服に付けて、準備は万全と思っていましたが、昨夜、今までの撮影をパソコンにバックアップした際に、CFメモリーをカメラに戻すのを、忘れてしまっているのに気づきました。しょっぱなから、また、『ドジ』を踏んでのスタートでした。

しかし、今回の旅のために、デジタル1眼レフを、NIKON-D300からD300Sに買い換え、パワーアップしました。以前のようにCFカードのみの使用から、主流のSDカードも併せての使用が可能です。これで、RWA+JPG画像に分けての使用ができるようになりました。

SDカードは、上海の電器屋街で格安で購入したSD-HC16GBが、入っています。試しに、連写をして、撮影後のモニターを見て確認しましたが、問題ありません。
続きを読む

2009年~2010年 冬の芭石鉄道へ Part6 蜜蜂岩站→黄村井站乗車

今日は、阪神大震災から、15年目を迎えました。私ごとで、申し訳ありませんが、当時、私は勤務していた会社の神戸支店の責任者として赴任して、業務も順調で、意気揚々としていましたが、突然の惨事に啞然とするばかりでした。
鉄道網もズタズタとなり、5日後、三田からの神戸電鉄が開通したので、地下鉄新神戸駅圣由で、市内へと、行く事が出来るようになりました。徒歩で、三ノ宮に近づくにつれて、目の前に拡がる光景は、想像を絶するものでした。

高校生時代にも予兆がなかった突然の心臓発作で倒れ、10分搬送が遅れたら死んでいたと言われた経験を持ちます。人間、何処でどうなるか分らない。人生は、1回のみ、一瞬一瞬を大切に生きようと、あらためて思った日でした。
こんな日に、神戸と同様に、四川大地震で大被害を受けた地の、紀行文を書くのは、自然と力が入ります。

第4日目 2010年1月1日

① 成都クラウンプラザ8:30-(チャーター車)→13:50石渓站14:30-(観光列車)→15:08蜜蜂岩站15:20-(観光列車)→16:20黄村井站
② 黄
村井站17:35-(観光列車)→石渓站18:45-(チャーター車)→19:15犍為天波大酒店

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2009年~2010年 冬の芭石鉄道へ Part5 石渓站→蜜蜂岩站

第4日目 2010年1月1日

①石渓14:30-(観光列車)→15:08蜜蜂岩

13:50芭石鉄道の石渓站に到着しました。既に、乗車予定間際の14:00発車の第3次は、どの車両も満員で、立っている人もたくさんいます。すし詰め状態で、押し込まないと、乗れません。


石渓站の壁にに大きく貼ってあった、花咲く春の芭石鉄道です。こんな写真を見ると、この頃には、また来て見たくなります。

ご覧のとおりの押し込み状態です。これでは、ただ乗るだけで、やっとです。

通訳兼ツアーコンダクターの胡小姐は、今日の運行予定確認に行ってきました。そして、『この列車は、満員なので、30分後に、座れる観光列車が出るので、そっちにしません?』か、聞いてきました。今日は、全線乗車で撮影地視察の予定でしたので、座っていける観光列車にすると、返事しました。この判断は、後々正解でした。

第3次の発車前に、躍進駅から来た小型ELの牽引する、石炭列車がやってきました。その後、小さいくせに大きな汽笛を鳴らして、発車しました。
7両の客車を牽引して、石渓站を出発する第3次。上の写真は、M・K氏撮影。

№9号機の牽引する第3次。後で分ったのですが、テンダー車は、№10と書かれていました。これって、なぜなのでしょうか? 今回は、一応、機関車番号を優先して、記載します。

第3次の発車シーンを撮り終え、ゆっくりとホームを見ると、まだまだ、人がいます。中国人団体観光客も多いようです。世界的には、有名な芭石鉄道ですが、観光列車が運行され、専用客車まであるとは、現地に来るまで知りませんでした。ましてや、中国人が、芭石鉄道に乗りに来る観光ツアーまであるとは、驚きです。

胡小姐の話ですと、連休で観光客も多いので、普段は運行しない観光列車を、今日と明日は、運行する。3日目は、様子を見るが、ダメでも定期列車に観光用車両を連結すると言っていましたが、予定は、限りなく未定に近いのが、この国の常識ですので、毎日確認するように言いました。




観光列車の編成は、№10号機(機関車)+№14(テンダー車)+8+4+2+6の4両編成客車。一般列車とは違って、ベンチ式クロスシートの座席と、窓ガラスが完備されていますが、車内灯は、ありません。



№10号機の運転席にあった運行表です。帰国後に、訳してみましたのが、上の表です。1日2本の観光列車があって、それぞれ運行予定が異なっています。現地で、通訳さんに訳してもらっておれば、効率的に動けたのにと、反省しました。

我々の乗車する車両は、最後部です。展望デッキもあって、これは最高です。発車間際に機関区から、入場厳禁と表示された車庫から、№14号機(機関車)+№9(テンダー車)が、側線を走って来ました。どうしたのかなと、前頭部を見ると、№10号機の前に連結しました。思いもしなかった重連です。前方へ撮りに行きたいのですが、直ぐの発車でした。

№14号機+№10号機の重連! インターネットや写真集からも見た事がありません。走行写真を是非とも、撮りたかったです。

14:30、定刻に発車。それならと、ハイビジョンムービーカメラを取り出して、身を乗り出しての動画撮影を始めましたが、用意しておいたサングラスと、マスクを車に忘れてきましたので、石炭ガラの細かい燃えカスが、飛んできて目に入ってしまいました。簡単に取れません。瞬きする度に痛みが出ます。今回も、初めから、アクシデント発生です。いつも、ドジばかりで、情けなくなります。

仕方がないので、身を乗り出すのは止めて、手だけを出し、液晶画面を見ながら撮影しました。
出発してから、上り勾配と、山の斜面を切り抜いたS字カーブの連続です。段々畑には、野菜がこれでもかと植えられています。農家も玄関を線路に向けて、線路近くにあります。

架線区間を走行しますが、電柱間には、ロープが張られていて、洗濯物が干してあります。線路横の犬走りは、通行人が大勢歩いています。その都度に、警笛を鳴らし続けて、走りますので、最高です。さすが、平行する道路がなく、この鐡道のみが、沿線住民の足であり、生活道路でもある事を実感できます。

観光列車ですので、ホームのない『幺炭坥站』は、通過しました。第6トンネルを抜けて、30~40km/hで快走しますが、ガタゴトと左右上下振動は激しく、まるで、100km/hで走行しているかのような体感です。

15分後の14:45、広場は、屋根なしの自由市場となった、高層住宅街が突然見え出し、ホーム屋根のある『躍進站』に、停車しました。離合の出来る島式ホームです。躍進站は、石渓站から、4.4km、近くには、大きな炭鉱と、火力発電所があります。

止まっていても良いので、重連列車を撮りに行こうと、降りましたが、直ぐに切り離されて、前方に移動していきました。後部の№10号機のみがホーム反対側車線を戻ってきて、ここで逆行して、ホッパー内へと向かいました。


ホッパー内で、テンダー車への石炭の積み込みを行い、元きた場所へと戻りました。

また重連で走るのかと思いきや、№14号機のみ連結され、№10号機は、ホーム反対側へとバックしてきました。№10号機が、その後石渓站まで回送されたのか、ホッパー内に石炭を満載されていた貨車を牽引したのか、分りませんが、もし後者なら、SL石炭列車が走っている事になります。

14:54№14号機牽引の観光列車が、発車しました。架線区間は、この站を2キロ程までで終わり、段々畑が続く山間の勾配を登って行きます。S字カーブが続く度に警笛が鳴らされ、またこんな所で警笛が鳴るのかと思うと、人やバイクが行き過ぎますが、これは、最終站まで続きました。

15:08、所要時間14分で、スイッチバックの、『蜜蜂岩站』に到着です。観光客は、降りて、機関車が、切り離され、後部に連結される光景に見入っています。

ここで機関車は、一旦、元来た線路に戻って石炭ガラを捨てます。地元住民は、この石炭ガラで、まだ使用できるものを求めて、待ち構え、拾っていました。

SLが戻ってくると待ち構えた観光客が、記念撮影です。まるで、大井川鉄道にいるようです。こんな光景、中国で、見た事ありません。

静かに発車を待つ、観光列車。C2型蒸気機関車は、現在稼動しているのは、わずか3両です。修理は、自社工場で、全てを行っています。いつまでも、頑張って欲しいと、思いました。

『蜜蜂岩站』からのレポートも、まだまだ続きます。 Part6 へ続く

2009年~2010年 冬の芭石鉄道へ Part4 成都→石渓站

昨夜、相棒は、ホテルに戻るとホテルマンを捕まえて、得意の英語で、『メタセコイア』の事を聞いていますが、誰も知っていません。植物園にも行きたいようで、尋ねましたら、郊外にあって、タクシーでも約40分はかかると言われました。滞在日程からして行くのは、無理です。

申し遅れましたが、相棒のM・T君は、某女子高校の先生を続けていて、毎年オーストラリアから来る、交換留学生が滞在する6ケ月間の間、直接の担当者ではないが、観光に連れて行ったりして、生の英語を学んでいるそうです。北京科学植物研究所でも、英語が堪能なエリート研究生との会話をしたのも彼です

第4日目 2010年1月1日
成都のホテル8:30→11:15楽山市12:10→14:00芭石鉄道石渓站 
 6:30

新年の朝を迎えましたが、中国では旧正月(2010年は、2月14日)を新年としているので、何の催しも行われません。ホテル内も、クリスマスの飾りつけが残っています。ただ、ホテルマンは、外国人客に向けては、『happy new year』と、声をかけてくれました。     品数豊富な朝食バイキングを食べてから、荷物をまとめ直して、案内人を待ちました。今回は、初めての芭石鉄道訪問です。海外旅行初めての相棒もいますので、いつものように、一人、バスに乗り継いで、分らぬ土地を行くのは、冒険でもあります。高くつきますが、地元旅行社の、芭石鉄道ツアーを申し込んでおきました。

8:30、約束の時間にロビーに行くと、若干25歳、成都の大学で日本語を学んで、日本語検定1級の資格を持つ、四川美人の胡小姐が待っていました。旅行社が用意した車は、8人乗りの大型ワゴン車、これなら楽です。

直ぐに、約136km先の楽山市(乐山市)に向けて発車です。2010年4月開業に向けての地鉄建設中で、通行規制が多く、迂回しながら混みあう街を出て、成楽高速公路に入りましたが、3日間の連休で、世界遺産となった楽山大仏や峨眉山へと向かう観光客の車も多く、そして濃霧です。50~100m先しか見えず、最徐行を強いられました。楽山インターチェンジ出口も閉鎖されていて、ここも先まで行っての迂回です。

四川盆地は、山々に囲まれているので、この時期は、霧発生が多いとの説明を、胡小姐から聞きました。多難を思わせるスタートです。車内で。胡小姐と4日間の行程の確認と、芭石鉄道の時刻表を受け取りました。

11:15、予定を大幅に遅れての楽山市に到着でした。普段ですと、約2時間で着くそうです。楽山市は、人口133万人、青衣江、岷江、大渡河の合流点にあるところから、成都市、重慶市などの主要都市につながる水陸交通の要衝として栄えています。合流した川は、ここからは、大渡河となり、長江に注いでいます。
▲ ご飯は、桶に入れて、約40分間蒸します。しかし、ほっくらとした銀シャリではなく、パサパサでした。

楽山市での運転手を入れての、4人分の昼食の総菜です。左上から、川魚と豆腐の煮込み、トマト、野菜と溶き卵のスープ、左下から野菜炒め、ソーセージ、きゅうりとおぼろ豆腐のスープです。これで、291元=4.074円。旅行社の案内する餐馆(レストラン)です。高めは、仕方ありません。

芭石鉄道の始発駅石渓までは、途中で適当な食事場所がないので、ここで昼食タイムです。名物は、ナマズ料理との事で、生簀で品定めをしましたが、60cm級で、測ってもらうと、約4.500円と言われ、パスして、庶民的な川魚にしました。


12:10、霧で川面も見えない岷江大橋を渡り、石渓への約55kmの1本道を大渡河に沿って、向かいます。片側1車線の舗装道路ですが、整備が悪く、所々陥没までしていますので、快走は出来ません。対岸の石渓に渡るフェリーは、1~3日の間、休航でまたまた迂回しました。

13:50芭石鉄道の石渓站に到着しました。成都から、約188km、途中、迂回を余儀なくされましたので、実際は、約200km、昼食等の休憩を入れて、約5時間半の行程でした。日本から3日間と半日、本当に、ようやくたどり着いたとの感が、ありました。

石渓站前の坂道を駆け上がっていくと、そこには、発展リニューアルを続ける中国鐡路站とは、違っての芭石鉄道沿線の生活感溢れる光景が、広がっていました。
Part5 へ続く

2009年 冬の芭石鉄道へ Part1 旅立ち

第1日目 2009年12月29日

長岡京 7:00-(快速)→7:27 大阪/
梅田 7:34(地下鉄)→7:43 なんば 8:00(ラピート)→8:39 関西空港  10:25(JL785)→12:50 北京空港 14:00-(机場快軌)→三元橋北京地鉄10号線)→国貿→15:00 ホテル

ホテル→永安里(1号線)-西単(4号線)→北京南站 17:40(京津城際鐡路C2067次)→18:10天津21:00-(C 2090次)→21:30北京南站→西単→永安里→22:30 京倫飯店

北京空港からは、広州地鉄(川崎重工社の技術供与)に続き、中国地鉄2番目となった鉄輪式リニアモーターカー(ボンバルディア社の技術供与)の机場快軌(総延長28.1km)に乗車して、三元橋站で、10号線に乗換え、ホテル近くの国貿站まで行きました。

私が、頻繁に訪中を重ねた10年前は、2路線総延長42.6kmだった北京地鉄ですが、2009年末では、総延長227.2kmまでになりました。5年後には、561kmになる予定です。経済成長も、年10%を越える勢いで発展を遂げている中国ですが、地鉄も脅威の延伸を成し遂げています。

開業当時の天津站 CRH2-300のオンパレードでした。

現在の天津站 CRH3のみの、運用となりました。

北京南站からは、2008年8月開業した、中国鐡路初めての新幹線、京津城際鐡路乗車を案内して、天津に向かいました。開業当初は、殆どの列車は、JR東日本等から技術供与された『はやて』CRH2-300が、最高速度350km/hで、走行していましたが、契約上のトラブルにより、日本側からクレームが入り、もう、1編成も走っていません。

天津到着後は、夕闇の中でしたが、ライトアップされて綺麗になった、かつての租界街を案内し、天津名物の肉饅頭を食して、深夜、北京に戻りました。
  Part2
 へ続く

2009年 厳寒の大地へ Part4 調兵山 3日目

北京からも、成都の宿泊するホテルに依頼しても、購入出来なかった復路、成都→北京西の特快T8夜行寝台列車の軟座寝台の切符ですが、最後の手段として、芭石鉄道を案内してくれる現地旅行社に打診しました。

すると、『後、数枚しか残っていない。しかし、手数料が、200元必要です。航空券なら充分に席はあるが、どちらにしますか。』と、返事が返ってきました。中国鉄路では、切符の約85%が旅行社を通じて購入されています。
日本と違って、上乗せで手数料が必要ですが、北京からの往路は、手数料30元でした。今までも、切符売場に並んで購入する時間がなかったりすると、旅行社に依頼していましたが、せいぜい30~60元が相場です。1枚200元とは、ぼったくり以外ありません。

多分、1本しかない列車なので、どこかの旅行社が裏から手を回して、買い占めているのは、容易に想像できます。分っていて買うのは、しゃくですが、行程が決まっている以上、仕方ありません。OKを出しました。
日本の約45年前あたりと同様に、旅客輸送力が需要に付いていっていないので、こういった事が当たり前に横行しているのが、現状です。気分はよくありませんが、取り合えず、帰路は確定しました。

第11日目 12月2日 
足は、完全回復しましたが、願いは通じず、今日も白い世界です。白銀の世界だったら最高ですが、こればっかりはどうしようもありません。出発は、8時30分にずらして、その間に調兵山駅2階の旅行社に行って、今日のSL運行を問い合わせてもらいました。調兵山~大明間は、DL運行です。天候回復の願いをこめて、SL列車を追いました。
▲ 9:01 三家子~調兵山の無名駅から、出発する、大青からの308次
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C59乱写の頃

 機関車の好みは人それぞれである。小生は東海道線の蒸機時代に毎年名古屋の従兄弟を訪問していた関係からかC59が最も好みであった。特に戦後製のC59は大きな船底型テンダーと相俟って21.575mの国鉄蒸機最長のスレンダーなスタイルは当時、非常にかっこいいと思った。多分、C59を推す人が多いと思い、同好会OBで数々の名作を発表されている先輩にうかがったところ、意外にも好きなのはD52の戦時設計スタイルでその次はD50と言われた。また、内燃車両で右に出る者はいない先輩はコッペルと言われ、唖然とする。このような中で電車には目が無い先輩はC59、特に戦後製の長いのがええと言われた時は内心ほっとした。世間ではC57の貴婦人が定着しているが、経歴から言ってもC59と思う。軸重の重さ故に他線転用がきかず、早期に引退した美人薄命のC59はC57が貴婦人などと騒がれる頃にはこの世から消えていた。さて、そのC59を意識して撮った最初は電化が進んだ岡山で、1961年7月の瀬戸内海臨海学校の帰りであった。小郡行き牽引のC59164で現在も梅小路に保存されている呉線C59最後の残党3両のうちの1両である。よく趣味誌上でも見られるのでここでは割愛して、今回は、その後、必死に乱写したものを披露したい。乱写と言っても今のデジタルのようなものではなく、フィルムが勿体なく感じる時代で、それでもできるだけ多くの番号を稼ごうと機関区巡りや幹線の線路際で来る列車来る列車全部を何でも撮影したと言う意味である。

①1963年3月、始めての宿泊を伴う撮影で九州を選んだ。途中、朝の下関で降りて連続して到着する九州行きの優等列車牽引のC62、C59を撮影。元祖青信号特派員氏がデジ青に掲載された下関駅の思い出にコメントさせていただいたが、下関の午前中の優等客車列車の最後は同駅南側の架線の無い所に到着した寝台専用急行301レ「音戸」であった。

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②関門トンネルを抜けて、折尾でC59109[鳥栖]を撮影後、筑豊本線C51281[若松]牽引の列車で原田に向かう。乗り継いだキハ55の準急「くまがわ」は上熊本で特急「みずほ」8レと交換。C59唯一の門鉄デフC59124は旧型客車を従えて夕陽を背に大きな汽笛を残して東京に向かって行った。

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③翌日、熊本機関区を訪問。扇形庫も無く、狭苦しく窮屈で大型機の撮影には不向きであった。

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④1964年4月には山陰線C51、木次線C56、山口線D60を求めて機関区巡りを行う。その後、再度九州入り。鳥栖は鹿児島本線、長崎本線が分岐するのでここで両線の大型蒸機を狙う。この日、下り「みずほ」は事故でもあったのか、相当遅れてC59129がバック運転で通過。上りは夕刻C59のトップナンバーが旧型客車4両牽引して到着。目の前で停まってしまった。煙が真上にゆっくりと上がっていることで停車していることがわかる。それでもヘッドマーク付きの1番である。この機関車は後年、小倉工場で撮影したことがある。

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⑤鳥栖から夜行列車で当時の撮影名所大畠で下車。連続する九州行き優等列車を撮る。道路は舗装されておらず、左には大島が見える。列車は332レ小郡発広島行きでC59190が牽引。架線が邪魔で非常に残念に思っていた。この年の夏に己斐(現西広島)付近で撮影のため、夜を明かした時は電蒸運転が始まり、特急は一部EF60500+C62であった。80系電車も試運転していた。

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⑥東北本線でもC59は昭和30年代に福島や白河あたりにいたが、最終的には90、176の2両が仙台に残っていた。写真は塩釜の築堤を行く176号機牽引の128レ一ノ関発宇都宮行き。東北独特のシールドビームの補助灯とデフレクター下部の点検用切り取り等により原型スタイルは崩れているが、戦後製の長いテンダーや全体のスマートさは充分感じられると思う。最近このあたりを通ったが、開発されて家が立ち並びこのような風景は過去のものとなってしまった。

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⑦C59は173両製造され、ラストナンバーは196である。途中、133~155の23両は製造されず、欠番である。さて、そのラストナンバー196は下関で撮影したが、その後直ぐに糸崎に転属。これはあまりにも有名になった急行「安芸」を牽引して広島を出発する姿。

1965.4.4 山陽本線広島を出発する呉線経由東京行き寝台専用24レ急行「安芸」 C59196[糸崎]

2009年 厳寒の大地へ Part3 調兵山 2日目

年始・年末の芭石鉄道への旅ですが、北京西→成都への切符は購入できていますが、今日発売の成都→北京西の切符が売り切れと、現地から連絡がありました。やはり、出発駅でないと、買えないようです。また、困りました。でも、よくある事なので、何とかしようと、対応におおわらわです。しかし、どうなるのでしょうか。

第10日目 
12月1日
昨夜、夕食を食べに街に出かけた際に、凍結した路面に滑ってしまいました。そのまま、転べばまだ良かったのですが、右足で踏ん張った拍子に、ぎくっと音がしました。ちょっと、まずいなと思いましたが、普通に歩けたので、ホテルに帰ってから、ゆったりと風呂に浸かってから、寝ました。
しかし、朝起きると、右足が曲がりません。何とか立ち上がって、歩こうとすると、痛みが出ます。特に階段は、手摺りにしがみつかないと降りられず、激痛です。かなり、マズそうです。

昔、野球をやっていた頃に、膝のじん帯を伸ばし+た時の症状と似ています。それでも、王千駅着7:52の列車を撮りたいと、運転手の王さんと約束していたので、患部にホカロンを何枚も貼って、出かけました。
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2009年 厳寒の大地へ Part2 調兵山 1日目

第9日目  11月30日

5:30、モーニングコール前に起床して、調兵山行きのバス停に向かいました。道路は、完全に凍っています。バス停周辺には、早朝から早飯屋が開店していますので、ここで小籠包を購入して、発車待ちのバスに乗り込みます。乗客は、私一人です。

定刻より早く、6時過ぎには、発車しました。乗車席は、1番後の特等席です。なんといっても、前の席が撤去してあるので、ゆったりと座れます。定刻より遅く、6:50に沈阳駅前を発車しました。暖かい車内で、満腹感もあって、乗車後は、直ぐに熟睡してしまいました。そして、着いた所は、9月に乗車した沈阳駅前でした。運転手は、前に停車している同じ調兵山行きのバスに乗換えるように言っています。昨日は、6:30に北駅を発車すると言っていたのに、良く分りませんが、乗換えました。こういう事があるので、中国では、時間に余裕を持って駅に行く事が必要不可欠です。

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