江若 あれこれ話 (1)

江若鉄道再現模型運転会もいよいよ近づいて来ましたね。製作者の西村さんの高まる気持ち、如何ばかりでしょうか。遅まきながら、応援シリーズとして、自分勝手な”江若あれこれ話”を載せることにしました。皆さんもぜひ江若の思い出をお寄せください。
今回は、先般、運転会会場のスカイプラザ浜大津へ打合せに行った際に、館の方から聞いた”ちょっといい話”。

滋賀駅を通過しようとする「ひら」回送。機関助士が身を乗り出し授受の用意をしている

5122+5010+5121の総括編成にキハ52、キハ15を連結した5両編成。江若の最大編成だ
ここに写っているシーン、実は昨年から同館の廊下に展示されている写真だが、ある日のこと、古老がお見えになり、この写真をぜひ譲ってほしいとおっしゃったそうな。
この写真は滋賀駅での通過シーンで、タブレットの授受が行われている。江若では、朝ラッシュ時に快速列車が運転され、通過駅もあった。しかし、日中はすべて各駅停車だから、このようなシーンは見られない。唯一通過シーンが日中に見られたのは、春秋の登山シーズンに、帰途に就く登山客のために運転された北小松発浜大津行き臨時「ひら」号の運転時だった。天候などに左右されたが、夕方に浜大津行きが3本程度設定され、編成も単行から、総括編成と呼ばれた3両編成まで、さまざまであった。
この写真は、滋賀駅における回送列車の通過シーンで、三井寺下で仕立てられた編成は、何本かの「ひら」を併結しているため、最大の5両編成であった。
さて、くだんの一件、正解は、お見えになった方は、右側でタブレットを渡している駅員氏だったのである。自分の姿が入った写真を館で偶然に見られたという次第。館の方は、もう一枚焼き増して、その方に渡されたそうだ。何気に写した写真が、40年ぶりで写った本人へ蘇ったのである。

「ひら」回送の後部。DRFCのメンバーが見える。昭和44年10月10日のこの日は、京阪「びわこ」号の臨時電車が走り、みんなで錦織車庫まで追い掛けてきて、その後にすぐ近くの滋賀駅を訪れた

エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part14  希望へのエリトリア鉄道の今は その5

第6日目 9月29日 その1

アスマラ (Bus)→9:10マッサワ

今日は、エリトリア鉄道の紅海に面した始発駅マッサワにBusで向かうので早く起きてください、5:30に朝食ですと言われましたので、気合を入れて5時前には起床して荷物もまとめてホテル1階にあるレストランに行きましたが、開いていません。こんなに早くに朝食を準備するのは従業員にとっては、ありえないことなのでしょうね。

悪びれもなく起きてきた従業員が準備をやりだしましたが、パンと牛乳、コーヒーをかけ込んでの夜明け前の出発でした。

▲ 高原に昇る朝日を見ながら、Busは、いろは坂連続の下り坂を走り続けました。途中いくつかの集落を見ましたが、砂漠地帯に入ると人家はありません。
出発する前は18℃程度だった気温はぐんぐん上がって30℃を超え熱帯の暑さがやってきました。車内冷房が欲しいところですが、原住人は慣れっこなのか、設備はあっても入れてはくれません。窓を開けて温風で凌ぐしかありませんでした。暑さに弱い私は、既に青信号点滅状態です。


▲ 9:10、所要時間約3時間、標高差約2,350mを下って、港湾都市マッサワに到着しました。気温は35度を超えて、塩っけたっぷりの浜風も混じっての、うだるような暑さで、もうタマリマセン。
昨日、山を下りて行った422式54号機がフォトランの準備を整えて、待っていました。撮影場所はオールド駅といわれるこちらです。


▲ エリトリア鉄道マッサワ側の始点は、マッサワ市内から海の道を渡ったタウルド島から、まだ先のポートアイランドにありました。ここで船から降ろされた荷物を積載して遠くアスマラへと運ぶのが、エリトリア鉄道の使命でした。

▲ ウウルド島のオールド駅の他にポートアイランドにも現在はバス停で使用されているホーム屋根のある簡易駅が残っていました。撮影地点はこちらです。ここから先は船着場ヤードです。



▲ 何回もこれでもかと、かつての最盛期の走行を再現できるのがフォトランのウリです。
停泊しているフェリーに入っての撮影や海べりのホテル屋上からの撮影も地元旅行代理店の根回しができているので全てOKでした。

ここマッサワから最盛期には、何と1日30往復もの列車が運行されていました。
しかし、30年間にわたる独立戦争では、マッサワは軍事拠点であったため、戦闘によって街の大半が破壊され、鉄道も運行を停止させられました。

左の写真、背景にある破壊された建物は、旧イタリア銀行です。四面をバルコニーに囲まれ細部の装飾にも贅を尽くされた建築でした。
これから全室スイートの高級ホテルとして復元されるらしいです。


▲ こちらも破壊された旧皇帝宮殿です。かつてエチオピアの皇帝が、海軍士官学校の卒業式のために毎年マッサワを訪れた際に使用したそうです。マッサワのうだるような暑さをしのぐため、建物は、通気をよくする広々としたアーチやドームがつけられています。建物はエリトリア政府の所有で、廃墟のまま保存されていました


▲ 一旦宿泊するホテルにチェックインしました。リゾート風に建てられた部屋は、クーラーがよく効いていてホッとしました。しばし、体力回復タイムです。
天井から蚊帳が取り付けられていました。昔、幼少期には蚊の多い京都の夏には欠かせないものでした。おしゃれな蚊帳に家内も大喜びでしたが、蚊は好きではありません。持ってきた携帯用電子蚊とりをセットしました。
昼食は、別のホテルのレストランでしたが、やはりクーラーはありません。料理は、またスパゲティですが、 ピラフもありました。久しぶりのご飯です。少し落ち着きました。   Part15  へ続く

ムスカウ森林鉄道訪問記

初めて投稿させていただきます。諸先輩方の投稿、毎日楽しみにしており、私も何か投稿したいと思っていたのですが、皆様方のレベルの高い内容に見合うものがなく、月日が経ってしまいました。今年3月で退職し、自由な時間もでき、6月終わりから7月にかけて8日間、ドイツの旧東ドイツザクセン地方の狭軌SL鉄道を訪問してきましたので、恥ずかしながら思い切って記事にしてみました。今回の旅行の一番の目的はムスカウ森林鉄道(以下WEMと略)を訪問することで、まずはこれから紹介させていただこうと思います。
ドレスデンから東に2時間余り行ったヴァイスヴァッサーという町から、ポーランドとの国境にあるバドムスカウと、クロムラウという町への2系統の路線があり、観光路線として今年の場合、422~103日までの間、週末の土日、78月には加えて木金曜日にも運転され、その中で主に月初めの土日だけがSLの運転日、それ以外はDLの運転となります。SLが見られるのは特別のイベント日を含め今年は18日間のみの運転となります。7月は23日の土日に運転されこれに合わせて訪問したわけです。

WEM600mmゲージで、ヴァイスヴァッサー周辺に点在する工場に資材を運ぶため、1895年に設立されました。19783月に廃止され、車両は売却、線路も撤去されましたが、1984年に愛好家が保存に乗り出し、まず、ヴァイスヴァッサー付近の300mの線路を使い、ディーゼル機関車による運行を始めました。その後、徐々に路線を延長、1995年のWEM百周年にヴァイスヴァッサーとバドムスカウの間を復活、さらに静態保存されていた1918年製99-3317号を復元し観光路線として再開しました。その後、1998年に1912年製99-3312号を加え、現在は、この2台のSLと数台(3台?)のディーゼル機関車が運行され、さらに2台のSLが保存されています。

私がここを知ったのは今から34年前のこと、勤めていた硝子会社から硝子製造機械のプラント建設で当時東ドイツであったヴァイスヴァッサーに行った時のことでした。ホテルはバドムスカウにあり、工場への行き帰りの車の中から、並行する線路に小さなSLが走っているのを見つけたのです。当時は共産党政権下で、ポーランドとの国境に近いこのあたりでは、我々資本主義者はいつも当局の監視のもとにあって、とても写真を撮れる環境ではありませんでした。2か月余りの滞在の後帰国しましたが、どうもその後もこの小さなSLの存在が気になっていました。それから20数年後、何がきっかけだったのかは忘れましたが、ウェブサイトでこの鉄道のHPを発見、それ以来何とか機会を見ては訪問したいと思いながら、やっと今回その夢が果たせました。

訪れた73日はあいにくの雨、日本の猛暑が恋しくなるような肌寒い天気でした。駅から10分ほどのところにあるWEMの駅は発車の20分前なのに人影はまばらです。雨のせいかと思っていると、駐車場にバスが入ってきてぞろぞろ人が降りてきて、10:00発のバドムスカウ行きは30人くらいが乗りこみました。

ヴァイスヴァッサーで発車を待つ99-3312号

ク繝・?ラウ行き99-3317

 

途中5つの駅に停まりますが、乗り降りする人は無く、森の中を走り、35分で終点のバドムスカウに到着。ここは周りに何もなく、水を補給して機廻しし、10分ほどで出発します。ここから歩いて20分位のところに、世界遺産の城がありますが、雨も激しくなり、全員がそのまま乗車したようです。この後も雨は止まず、めげてしまって沿線からの撮影はあきらめ、駅付近で発車の様子を撮るだけになってしまいました。

バドムスカウ終点

バドムスカウで水の補給する99-3312号

二便、三便のバドムスカウ行き、クロムラウ行きはほとんど乗る人がなく、この鉄道は、ボランティアによって運営されているので、採算は関係ないのかもしれませんが、100年前の車両が現役で走るという貴重なものなのに少しさびしい気がしました。

このほかこの時のドイツ旅行ではチタウ狭軌鉄道、フィヒテルベルグ鉄道を訪問、その後1011日から20日までドイツを再訪、ハルツ狭軌鉄道、モリー鉄道などを訪れました。また、機会があれば発表させていただきたいと思います。

エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part13  希望へのエリトリア鉄道の今は その4

第5日目 9月28日 その4
① 午前;アスマラ駅構内と郊外走行撮影、市内観光
② 午後;機関区撮影

【ディーゼルカーとディーゼル機関車】
ディーゼルカーは、小型1両と大型2両がいました。このツアーは蒸気機関車撮影が主でした。構内撮影が許可されていた9月28日と、10月1日の空き時間を利用して撮りましたので、両日撮影分をまとめて紹介させていただきます。

しかし、私ごとき博学ない者には、説明ができかねます。幸いにして、クローバー会には、内燃機関車の第一人者であられます 「須磨の大老」さまがいらっしゃいます。ここでは写真にとどめて、説明はお任せいたしたいと思っております。お手数をおかけしますが、よろしくお願い申しあげます。





▲ ディーゼルカー№2。車内にはカウンターが設置されていましたので、簡単な飲食が提供されていたのでしょうか。車両ドアが外開きの観音ドアだったのにはびっくりしました。




▲ 工場兼車庫を入っていきますと、ディーゼルカー№7ディーゼル機関車25Dがいました。№7の車内は、№2とは違って、一方方向にシートが並んでいました。ドアは開きませんでしたので、よじ登っての撮影です。転換クロスなのか分かりません。25Dには、「FRIED.KRUPP 1957」の銘板がありました。



▲ 車庫に入ってすぐに会った、なぜか愛らしい小型ディーゼルカー№2、多分作業用に使用されたのでしょうね。


▲ 大型ディーゼル機関車27D、これもクリップ製ですね。1957年製造のようですので、1番新しい機関車なのでしょうか。

以上が、軌道や車庫にあった内燃車両です。ホテルに帰るのでバスに乗るよう指示がありましたので戻ると駐車場端にトラックに乗せられたDLが2台ありました。少し待ってもらって撮りに走りました。

▲ 銘版を見ますと、1937年とあります。構内用に使用されたものと思われます。これから修理にでも出すのか、それともどこかに持っていくのか分かりませんでした。

今夜の夕食は何だろうと思っていましたら、ホテルから歩いて近くのイタリアンレストランに行きました。席に座ると、メニュー表を渡されて好きなものを注文してくださいとの事です。
日本のツアーと違って、既に注文されている食事を食べるのではなく各自の好みに任されていました。と、言ってもメニューはパスタかピザぐらいしかありません。適当に別々のピザを注文して、皆で回して食べました。
途中で外に出てみますと、街中を散歩する人がたくさんおられます。イタリアでは夕食後に街をそぞろ歩く習慣があるそうですが、アスマラでも同じような習慣が継承されていて、住民たちから「アスマリーノ」と呼ばれているそうです。

植民地として支配されていた国の文化が受け入れられたのは、搾取や争いが起こったイギリスやエチオピアと違って、イタリアは道路整備や都市計画などの街づくりや職業訓練を行い、産業を残したからと考えられています。また歴史的にも古来から様々な文化が交差する土地でもありました。それぞれの文化を柔軟に取り入れる国民性は、現在にも受け継がれてきているのでした。

貨車と客車につきましては、 乗車もいたしましたので、その中でご紹介させていただきます。   Part14  へ続く

エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part12  希望へのエリトリア鉄道の今は その3

第5日目 9月28日 その3
① 午前;アスマラ駅構内と郊外走行撮影、市内観光
② 午後;機関区撮影

アスマラ駅に着くと、ツアーの皆さんも市内観光でストレス気味だったのでしょうか、飛ぶように機関区に向かわれていました。


▲ アスマラ駅の航空写真です。ご覧のように蒸気機関車の車庫・修理等を行う工場と、ディーゼル車と機関車の車庫・工場とは駅の左右に分けて設置されていました。

エリトリア鉄道は、かつてアスマラが終点ではなく、この先まで遠く延伸され、隣国の鉄道と結ぶ計画まであったそうです。上空からアスマラ以降の路線跡を探してみましたが、独立戦争等で破壊され痕跡が見つかりません。市内を移動している時に線路跡を1部見ましたが、街中を走るマレー機の姿を見てみたかったですね。
ただ、アスマラから延伸された104km地点のケレン駅は、典型的なイタリア建築物として、大切に保存されているそうで、駅は現在、バスステーションとして使用されているようです。こちらに案内があります。
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エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part11  歴史が息づき、文明が交差する街、アスマラ

第5日目 9月28日 その2

① 午前;アスマラ駅構内と郊外走行撮影、市内観光
② 午後;機関区撮影

SL撮影後はアスマラ市内観光です。標高約2,350mに位置するアスマラは、年間平均気温が17℃と、訪問時も湿気もなく快適な気候でした。古くより商業の中心地で、1897年に首都となり、イタリアが第二のローマとして開発しました。市内には植民地時代に建築された多くのアールデコ建築物が、戦下に会わず数多く残されていました。

アスマラは、アフリカの奴隷制時代につけられた名前です。ティグリーニャ語で、その意味するところは、「女たちが男たちを団結させた」というものであり、これは、当時の(奴隷制時代の)女(母)たちが、奴隷商人から自らの娘や息子を守るために、男たちを団結させたという逸話からきているそうです。


▲ 市内のどこからでも見えるので、ランドマークにもなっているカトリック大聖堂、同行のドイツ人が執拗にシャッターをきっていたのは、世界でも有数の奇抜な建築物の一つ、1938年にイタリア人建築家Giuseppe Pettazziの設計で建てられた飛行機形のガソリンスタンドです。かつて「世界一豪華なガソリンスタンド」と呼ばれたそうで、支柱がない設計は、さすがクリエイティブなデザインに優れたイタリア作品と感心しました。

ブーゲンビリアやジャカランダが咲き乱れる街角には、美しい煉瓦作りのヴィラや、斬新な現代建築があちこちに見られ、イタリアの遺産とアフリカの風土が溶け合った独特の魅力を醸し出しています。建築や歴史の好きな人にはこたえられないでしょうね。
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エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part10  希望へのエリトリア鉄道の今は その1

第5日目 9月28日 その1

① 午前;アスマラ駅構内と郊外走行撮影、市内観光
② 午後;機関区撮影

アフリカの東部『アフリカの角』 と呼ばれる部分に位置するエリトリアは、日本の企業がはじめてアフリカに進出した国(当時はエチオピア領)でもあります。1960年代に、銅鉱生産のために鉱山会社が進出しました。
( ※ 地図は、財団法人 愛知県国際協会で発行された ”世界の国を知る・世界の国から学ぶ わたしたちの地球と未来 -エリトリア-” からの転載です 。)

1890年にエリトリアは、公式にイタリアの植民地となりましたが、それ以前にイタリアが一方的に植民地宣言してより、紅海に面した港湾都市マッサワからの鉄道建設が1887年に始まり、1991年首都アスマラまでが開業になりました。東アフリカでは最も早く建設された鉄道でした。

マッサワからアスマラまでの直線距離ではわずか約60キロですが、アスマラは海抜約2,350mもあり、鉄道建設工事は難業を極めました。30のトンネル、65もの橋梁が必要で、建設資材や車両は1869年に開通したスエズ運河を通って運ばれました。赤線がエリトリア鉄道の路線です。
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エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part9  ミュンヘンからエリトリアへ

5月27日 第4日目 その2

① ミュンヘン中央駅集合 13:00(Sバーン)→13:38 ミュンヘン空港
② ミュンヘン 15:55(MS788)→19:40 カイロ
③ カイロ 23:16(MS833)→3:05 アスマラ→ホテル

ミュンヘン中央駅で全員集合後、地下鉄に乗車してミュンヘン空港に向かいました。市内から乗り換えなし、所要時間は約30分強と便利で近い空港です。地下鉄ホームから地上に出るとすぐに搭乗する第2ターミナルの入口です。
1995年に開港したミュンヘン空港は、市内から28キロに位置します。ドイツでは、フランクフルト空港に次いでの利用客でヨーロッパでは第7番目となっています。

早速搭乗手続きを済まして、出発待合ロビーでビールを飲みながら搭乗を待ちました。▲ 機内食、左はMS788、右はMS833です。同じエジプト航空ですがメニューは違っていました。ただどちらもアルコールの機内サービスはありません。カイロで乗り継ぎ時にビールを求めましたが、空港内売店でも売っていません。これにはビール好きのO氏共々参りました。ミュンヘン出発時にウイスキー等のアルコール調達は必要だったと、気づいたのは遅かったようです。
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エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part8  ミュンヘンの路面電車に乗って

5月27日 第4日目 その1

① 路面電車撮影9:00→11:45ホテル
② ミュンヘン中央駅集合13:00(Sバーン)→13:38ミュンヘン空港
③ ミュンヘン15:55(MS788)→19:40カイロ
④ カイロ23:16(MS833)→3:05アスマラ→ホテル

今日も朝食はホテル代に含まれたバイキングです。ミュンヘンインターシティホテルはフランクフルトとメニューは同様に十分満足できます。明日には未開の地にいます。向うに行ったらどんなものが食べられるのか分かりませんので、しっかりと栄養補給しました。

▲ ドイツの伝統的な焼き菓子プレッツェルを中心に各種のパン、ヨーロッパらしく多種のジャム、チーズ、ヨーグルト、そして紅茶等々が並びます。ちょっと日本とは違ったメニューは楽しめましたが、新鮮野菜が欠如しているのはなぜでしょうか、生野菜を食べる習慣はないのですかね。

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エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part7  ミュンヘンは、オクトーバーフェスト

9月26日 第3日目 その2

着いたミュンヘンは、世界最大のビール祭り「オクトーバーフェスト」の真っ最中でした。これを目当てにミュンヘンに来たわけではなく、エリトリア鉄道の乗車と撮影が目的でたまたま開催日と重なった訳です。着いたミュンヘン駅構内も民族衣装を着た参加者がたくさんおられました。
今日は、
エリトリア鉄道へ同行させていただくW大鉄研OBのO氏ご夫妻と、もう一人のN氏と16時30分に待ち合わせて、一緒にビール祭りに行くことになっています。まずは、腹ごしらいと路面電車撮影のロケハンに向かいました。


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エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part6  ICEに乗って、フランクフルトからミュンヘンへ

9月27日 第3日目 その1

フランクフルト9:54(ICE529)→13:09ミュンヘン

平日朝の路面電車やフランクフルト中央駅の光景も見たいとICEの乗車時刻は遅めの9:54にしていました。
この切符はご覧のようにOnline-Ticketです。DB(ドイツ鉄道)のホームページから日本の自宅で事前に購入しましたが、初めてのOB切符購入です。何も分からずに購入挑戦を試みましたが英文で、さっぱり分かりません。英語の堪能な知人に聞きに行ったりして、インターネットでの購入方法を理解して手に出来るまでには1週間を要しました。

【初めてのOBの乗車券購入】
皆様ご存知のとおり、ドイツ国内のみを安く利用するには、 ジャーマンレイルパスがあります。通用日数は、4~10日間を選択でき、2人用のツインパスならさらにお得ですが、今回は行き帰りの各1回のみですので対象外です。

選択できる対象乗車券はには、①バーンカード②シュパープライス③ダウアー・シュベツアルの3種がありました。

①は、普通運賃が25%割引 と50%割引の2種類がありますが、2等ですと450ユーロ以上でないとモトがとれないため、また前もってバーンカードを購入しておかねばならず面倒ですので外しました。
②は、往復の乗車券で、特定列車に有効、週末限定等々制約がありましたので、これも外しました。
結局③しか選択肢は残りませんが、これも列車ごとに発売枚数が限定されています。変更や払い戻しは受けられませんが、今回は乗車日が確定しているので、これに決めてインターネットで獲得することにしました。

検索すると、同じICEでも列車ごとに違う料金が出ていました。日本なら乗車する「のぞみ」の時間帯によって異なる料金設定がされているようなものです。そして2人だとさらに割引料金が設定されています。日本でも季節や週末限定、ローカルから都会へ等々の格安切符が設定されていますが、さらに細かくの料金設定です。これはお得だと購入に進みましたが、最後にユーザー名とパスワード等を聞いてきました。あらかじめ名前・乗車・TEL・決済するクレジット番号等を登録してからログインに必要なカスタマー№を受け取らなければならなかったようです。また1からやり直しです。

そんな訳で英文の確認やらでPCのプリンターから切符を印刷できるまで、1週間もかかってしまいました。出発前に一苦労しました。 続きを読む

エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part5    路面電車に乗ってフランクフルト市内観光

第2日目 9月25日その3

 

交通博物館視察後は、再び路面電車に乗ってフランクフルト市内観光と撮影をすることにしました。
Schwanheim Reinlandstrasse12:15(Line12)→13:19Hugo-Junkers-Strabe
③ Hugo-Junkers-Strab13:23(Line12)→13:34Eissporthalle/Festplatz


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阪神ジェット・カー、御影-石屋川間高架上

 前回に続き、5100系、5200系です。デジタル青信号の投稿ついでに、保存の阪神フォルダ内を見ていたら、新しい発見がありました。
 1962.3.25撮影、
御影駅西方、石屋川駅まで続いている留置線、施設完成前の高架上です。 また、このフィルムは、ビネガーシンドロームなど、全く影響がない正常な状態のFuji Neopan ss safty  です。たくさんのビネガーシンドローム被害のフィルムの中に、こんなのがあるから、いよいよもってビネガーシンドロームが解らなくなります。 1. 5100系、5101 、石屋川駅寄り

 関係者でもない私が、どのようにしてこの地点に行ったか覚えていません。昨今では撮影不可能な位置です。当時とは言え、まさかホーム端から歩いたとは思えず、高架下の昇降階段から昇ったのではないかと思われます。また、この場所も阪神大震災では大きな被害を受けました。

 

 

2.  52005214他、石屋川-御影駅の中間辺り

 3.  5200系5212他、御影駅近く

エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part4    フランクフルト交通博物館

第2日目 9月25日その2

中央駅前 10:18(トラム)→10:45 博物Schwanheim Reinlandstrasse

こじんまりした博物館と聞いてきましたがそのとおりでした。入館して早々に自動券販機の洗礼に会いましたが、すぐに係員が寄り添ってきて丁寧に取り扱い方法を教えていただきました。

入場券は3€(ユーロ)ですので、日本円で約300円ほど、リーナズブルです。


▲ 全盛期は36系統があったそうです。右は入館受付台です。
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房総半島横断の旅Ⅰ


 
上総中野駅での小湊鉄道といすみ鉄道の乗り継ぎ

 8月25日、所用で千葉県市原市に行った。葛飾区からはさほど遠くはないが、HPの表紙を飾っていた幕張車両センターの113系が撮影できるかもしれないと思い、早めに千葉駅に到着したが、来るのは元京浜東北線の209系ばかりであった。直ぐに撮影を切り上げて内房線の電車で木更津に行くと、久留里線のキハ3062+キハ381003の2連が到着したところで、大急ぎで撮影後、五井駅近くの用務先に向かった。

 所用は順調に捗り午前中に終わり、このまま帰るには早過ぎるので小湊鉄道といすみ鉄道を乗り継ぎ房総半島を横断して帰ろうと思った。駅で「房総半島横断切符」を購入する時「パワフル×スマイルちばフリーパス」のポスターが目に留まった。内容は千葉県内と鹿島線の鹿島サッカースタジアムまでのJRの普通列車、小湊鉄道、いすみ鉄道、銚子電鉄が乗り放題で、特急券を買えば特急にも乗車可能で値段は1800円というものであった。「横断切符」は1600円で途中下車自由であるが、200円プラスするだけで松戸まで乗れるので、早速購入して小湊鉄道のホームに行くと11時40分発の上総牛久行が発車するところであった。車両はキハ202(昭和36年日車製)で座席が半分位埋まる位の乗客であった。27分で到着すると駅前には大多喜行のバスが停車しており、5名の乗客が乗り換えた。また後続の上総中野行に乗り換える客が4名いた。

 ところで五井から上総中野まで行く列車は、平日は9時22分、12時21分、16時の3本しかない。一つ手前の養老渓谷行が5本、途中の上総牛久行が20本、里見行が1本、早朝の上総牛久発上総中野行が1本である。土曜日と休日は上総中野行が6本、養老渓谷行が3本となる。
一方、上総牛久~大多喜間にはバスは8往復(休日6往復)運行されている他に牛久~小湊、勝浦間の急行バス5往復も利用可能で、所要時間、運賃共にバスの方が断然有利である。(鉄道は最も接続の良いもので70分、運賃1250円、バスは普通便40分、急行は途中ノンストップで23分、運賃680円)

昭和50年4月時点の列車本数は、上総中野行13本、養老渓谷行3本、上総牛久行平日5本、休日2本で、上総牛久を境に五井方面は乗客が著しく増加し、上総中野方面は全くその逆になったことが判る。
五井~上総牛久間には上総村上、海土有木、上総三又、上総山田、光風台、馬立と6駅あるが、上総三又以外全部交換可能で、上総三又も近々交換可能する工事が開始される。一方上総牛久以遠は、途中駅のポイントを全部鎖錠して、上総中野までを一閉塞としたため、この区間は1列車しか入線できなくなっている。行楽シーズンの増発もままならない状況のため、近々里見駅の交換を復活させる工事が開始される予定である。養老渓谷発五井行が10名程の乗客で到着したので、次に乗る上総中野行のこの程度の乗客数だろうと思っていたところ、ほぼ満席であった。この先は無人駅が続くが、春には桜が美しいところである。養老渓谷で10名程降りたが、いくら夏休み中とは言え、平日でこの状態とは驚きであった。養老渓谷を発車したところで車掌嬢が切符の回収にきたが、ほとんどが「パワフル×スマイルちばフリーパス」を持っており、「房総半島横断切符」の乗客もいた。暫くすると乗り継ぎのいすみ鉄道が到着したが、こちらもほぼ満員であった。いすみ鉄道は車両が小さいので写真を撮っていると座れないのではないかと思ったが、何とか座れた。いすみ鉄道のホームの横の線路が小湊鉄道と繋がっており、その気になれば直通運転は難しい話ではない。

 14時丁度にそれぞれ満員の乗客を乗せた双方の列車がタイフォンを軽く鳴らして発車した。大多喜駅では車庫からキハ52が顔を出しており、途中下車して撮影しようかと思ったが、夕方までに帰る必要があったので今回はパスして大原まで乗車した。千葉行の普通列車までの間、駅近くの踏切で撮影後帰宅した。

 
 「パワフル×スマイルちばフリーパス」のポスター/千葉県内のJR、小湊鉄道、いすみ鉄道、銚子電鉄が乗り放題で1800円は安い。また、特急券を買えば特急に乗車可能というのは「青春18」より使い勝手が良い。


 
C439編成クハ2092157/113系に替わって房総の普通列車の主力となった元京浜東北線の209系。ラッシュ時には京浜東北線時代と同じ10両編成が見られる。



キハ3062、下 キハ30100/木更津派出にキハ30の62、98、100の3両が配置され久留里線で使用されている。旧塗装に変更されておりファンには人気が高い。冷房は無いが夏でも日常的に使用されている。
小湊鉄道五井機関区/車両は昭和36年から52年にかけて6次に分けて製作されたキハ200形(201~214)に車種統一されている。209と210以外は冷房改造されている。209は休車中。


最初に乗車した五井駅11時40分上総牛久行のキハ202隣の無蓋車はバッファーの跡があり相当古い。

上総牛久駅で折り返すキハ202/昭和36年日本車両製の1次車で車齢は50年を超えているが手入れが良いため古さを感じない。 上総牛久駅

 手書きの高速バスの時刻表/五井~羽田空港間は頻繁に運行されている。上総牛久駅からは羽田空港経由横浜行が5往復運行されている。


 上総牛久駅 


 
五井~新宿間の高速バスのポスター


 上総中野行と交換の養老渓谷発五井行が10名程の乗客で到着/キハ214(昭和52年日本車両製)


 ほぼ満席で上総中野に到着したキハ212(昭和52年日本車両製)


 
上総中野駅/左の建物はトイレ

  
 間もなく上総中野駅に到着するいすみ鉄道キハ206


 キハ206/昭和63年3月国鉄木原線から転換時にキハ101~107として富士重工で新製。当初はセミクロスシートであったが、ロングシートに改造時にキハ201~207に改番。キハ204は余剰のため廃車になり、上総中川駅の近くの「ポッポの丘」で売店として使用されながら保存されている。左側の線路は小湊鉄道と繋がっている。


 
大多喜駅で交換したキハ205


 大原駅/JRの駅とは分離されている。


 特急「わかしお13号」/大原

房総半島横断の旅Ⅱ


 ポッポの丘の住人達


8月30日は夏休みであった。前回(8月25日)大多喜で見たキハ52125に是非乗ってみたいと思っていたので、再度房総半島を横断することにした。幸いこの日の午前中キハ52125が大多喜~大原間を臨時普通列車で運転されるので、大原から入り、撮影後に乗車して、上総中川駅近くの地元の卵や農産物の販売施設「ポッポの丘」で売店として使用されている車両を見学後、上総中野から小湊鉄道で五井に抜けるコースを考えた。ネックとなるのが小湊鉄道の運転本数で、上総中野発の列車は6時55分、10時45分、14時、17時15分の4本しかなく、14時発に照準を合わせて、沿線での撮影はパスして次回とした。

金町から下り電車に乗り、次の松戸で「パワフル×スマイルちばフリーパス」を購入した。新松戸、海浜幕張、蘇我、上総一ノ宮の各駅で乗り換え、大原に10時33分に到着し、10時39分発いすみ鉄道上総中野行に乗り換えた。次の西大原で降りて、大多喜方面に1キロほど歩いたところでキハ52125を撮影したが、普通列車として運転されているためヘッドマークはない。駅に戻り大原で折り返してきたキハ52に乗車したところ、同社の鳥塚社長が車掌として乗務しておられた。次の上総東で交換待ちの時に「社長さん自ら車掌をされて恐縮しています」と声をかけたところ「結構楽しいですよ」と答えられた。扉の開閉、車内アナウンス、観光案内、車内補充券、記念乗車券の販売と大忙しであったが、社長自ら車掌をされている会社は、観光鉄道ではあるかもしれないが、通常の鉄道ではここだけであろう。
車内は大糸線時代と全く変わらないが、ポスターは更に古い国鉄時代のものに取り換えられており、それもきわめて貴重なものばかりで感激する。通常ポスター類は掲示期間が過ぎると廃棄されてしまうので、本当によく残ったものと思う。これらのポスターを見るだけでもキハ52に乗る価値はあると思った。
上総中川で降りる時に社長(兼車掌)にDRFCクローバー会会員であることと「デジタル青信号」のことを伝えたところ「是非また来てください」と言われ、「今度は仲間と来ます」と答えた。
駅前の道路を大原寄りに少し戻り、踏切を渡って約15分歩いた最初の信号の所で、丘の上に元北陸鉄道のモハ3752といすみ鉄道のキハ204が見えた。更に歩くこと10分で「ポッポの丘」に到着した。ここは「ファームリゾート鶏卵牧場」の販売施設として5月1日にオープンしたもので、庭先卵や地元農家の野菜等が保存車両の車内で販売されている。いすみ鉄道キハ204、北陸鉄道モハ3752、万葉線デ7052の3両が販売施設として利用され、元JR西日本の小型DLが動態保存されており、ポッポ=蒸気機関車はない。北陸の車両が房総にあるのも不思議な感じがしないでもないが、往復1時間弱かけても見学に行く価値は十分あり、今後大切に保存されることを切に願う次第である。
駅に戻り、ほぼ満席の上総中野行(キハ202)に乗り、上総中野で8分で接続の14時発五井行(キハ212)に乗り継いだ。こちらもほぼ満席で、途中駅からの乗車もあり立客も出る程であった。折角の機会であるので途中で降りて撮影したいが、景色の良い上総牛久までは列車本数が少なく帰りが遅くなってしまう。最初の交換駅は上総山田のため、手前の光風台で降りて上総山田~光風台間の養老川の鉄橋で撮影しようと思ったが、時間的に厳しいので更に一つ手前の馬立で降りて、撮影場所探しでウロウロしている間に列車が来てしまった。次の列車で五井に行き、乗車したキハ207、入替中のキハ206+キハ213を撮影した。
113系はネット上では内房線と外房線で走ることになっており、今朝は本千葉駅で待っていたのであるが、来たのは209系であった。もう一度千葉駅に行き、来なければ諦めようと思った。案内表示を見ると17時10分発成東行が3扉8両となっており、待つことにした。その間211系が2本発車したがカメラを向けている人は見なかった。こちらも間もなく千葉地区から転属の予定で、行き先は中央東線とも新潟地区とも言われており、まだ決定には至っていないようである。
到着ホームの先端にはすでに多くの人がいたが、皆さんヘッドマークが目当てなのであろう。私自身も半ば諦めていたので最後になって撮影できたのは本当にラッキーであった。

 2日間とも房総半島を駆け足で横断したが、来春は横断しなくても、菜の花、桜を入れてまったりと撮影をしたいと思っている。小湊に行かない小湊鉄道と木更津に行かない旧国鉄木原線(→いすみ鉄道)が上総中野でドッキングした時点でお互いに工事を止めてしまい、その後も名前だけが残ったというのが何ともユニークで、もし両線ともに予定通り完成していたら上総中野は房総半島の一大ターミナルになっていただろう等と想像を巡らせた。 


 「パワフル×スマイルちばフリーパス」の広告/蘇我


 キハ52125/西大原~上総東


 キハ207/上総東


 キハ52125/上総東




 車内のポスター


 ポッポの丘/上総中川駅から徒歩25分


 協三工業製のDL/動態保存で約50mの線路を走る
 
  いすみ鉄道キハ204(昭和63年富士重工)


 北陸鉄道モハ3752(昭和26年広瀬車両)/加南線のクロスシート車として新製、昭和39年石川総線に転属し、その時にロングシート化された。昭和58年に車体更新され現在のスタイルとなり、平成19年10月に廃車になった。


 万葉線(←加越能鉄道新湊線)デ7052(昭和36年日本車両)/窓配置が不自然なのは富山地鉄市内線のデ7000形の中扉の位置を後部に変更したためであるが、何故最初から前後扉車として作らなかったのか不思議である。


 キハ212(昭和50年日本車両)/上総中野
 満員のため冷房が効かなかったため窓が全て開いている。


 馬立駅


 キハ211(昭和50年日本車両)/馬立~上総牛久


 キハ207(昭和45年日本車両)/五井


 クハ113-2049他8連/千葉(千葉寄りの先頭車)
 
 クハ113-242/千葉(銚子寄りの先頭車)


 クハ210-3040他5連/千葉
211系は5両編成17本配置され、総武本線、成田線で使用されているが、間もなく209系に置き換えられ他線区に転属する。


 
クモハ211-3040/千葉
廃車になった201系のパンタを増設した車両が9編成存在する。

 
 ありがとう113系記念弁当

エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅  Part3  フランクフルト交通博物館へ

9月25日 第2日目 その1

中央駅前10:18(トラム)→10:45
博物Schwanheim Reinlandstrasse

エリトリアへは、明後日にミュンヘンから向かいます。今日はゆっくりと、フランクフルト市内を見てまわることにしていましたので、乙訓の老人様(以下ご老公)に路面電車についてご教授をいただいておりました。宿泊先のインターシティホテルで、チェックインからチェックアウトまでの3日間を無料で乗車できる市内交通パスをいただきましたので、フランクフルト交通博物館へ行くことにしました。


▲ フランクフルトの市内交通には、Sバーン(近郊電車)、Uバーン(地下鉄)とトラム(路面電車)があります。路面電車だけの路線図がなかったので、全市内交通案内パンフをもとに作成しました。

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エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part2    フランクフルト中央駅

9月24日 第1日目 その2

① 成田12:15(JL407)→17:20フランクフルト
② フランクフルト空港(Sバーン)→フランクフルト中央駅

シベリア上空を約12時間飛び到着したフランクフルトは、日本との時間差マイナス7時間。現地時間では17:20ですが、日本時間では翌日の0:20です。

機内食は搭乗2時間後の14:00と9時間半後の到着前の2回ありました。
エコノミークラスとしてはまずまずです。

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伊香保の電車について

乙訓の先輩へ

私が高崎で4年間の単身生活をしていた時、休日の楽しみはとにかくクルマであちこちを走り回り、現役車両はもとより、廃車体を探したりすることでした。そんな中で渋川街道は何度も走り、大きな医院の塀の中に電車があるのに気付き、 御断りを言って写真を撮らせてもらおうと ある日門内に入ったのですが 誰も出てこられず やむなく無断で撮影し 早々に立ち去りました。そのときの写真を添付します。下回りはなく、医院の待合室になっていました。戸を開けて車内に入りたかったのですが、さすがにためらわれてそそくさと退散しました。1999年5月23日の撮影です。

ユースで巡った鉄道旅 -17-

昭和46年2月の東北乗り鉄の旅は続きます。山田線では急行「陸中」を盛岡まで乗り通し、「たざわ2号」に乗り換え、初乗車となる田沢湖線経由で秋田へ。さらに「しらゆき」に乗り換えて深夜の青森に到着。乗り鉄に徹した、この日の乗車距離は、横手から始まって青森まで約630kmに達しました。この晩は、青森駅の連絡船待合室で一泊、ユースには結局世話になりませんでした。

大槌を出た「陸中」は、二つ目の停車駅、陸中山田で636Dと交換する。この636D、山田線・釜石両線を通しで運転する列車で、250kmを7時間掛けて運転されていた。今なら、何本の列車にも分割されてしまう距離である。先頭キハ22292ほかの6連。北海道向けの寒冷地仕様のキハ22は、一部東北にも配置されていたが、この盛岡区が南限のキハ22だった。この陸中山田駅も地震による被害がすごかった。駅は、津波で破壊されたあと、火災が起こり、全焼してしまったという。二重の打撃を受けたわけで、再開の糸口さえ見えないようだ。

震災後の陸中山田駅(新潮社「日本鉄道旅行地図帳 東日本大震災の記録」より転載)

田沢湖線経由で秋田に到着したのが、日も暮れた19時08分、ちょうど羽越線ホームに、直江津発秋田行き821レが遅れて到着したところだった。牽引機を見に行くと、C571であった。煙突には何も付けず、スノープロウを付けた雪国のC571であった。動態保存中の現在の同機とは違う、逞しさを感じた。

高校生から、社会人までの約10年、全国各地を旅行できたのも、ユースホステルという、安価で健全な宿泊設備が全国に張り巡らされていたからこそと思います。それだけに、環境が変わったとはいえ、ユースホステルの衰退は残念なことです。全部で115泊したユースには、ここでは書ききれなかった、さまざまな思い出が今も甦ってきます。(終)