失業者二人の旅日記 初冬の大地へ Part6 三道嶺 その4

第6日目 12月5日 三道嶺4日目

今日は三道嶺撮影の最終日です。今年2月に準特急先輩と来た時は、お互いに何も分からずで、ただ案内されるままでしたが、2回目とあって土地勘も出来ていて、今どこにいるのか分かっての撮影ができました。三道嶺4回目のO氏の存在も大きかったと思います。4日間のまとめの意味からも今日はバッチリと決めたいと起き上がりました。

▲ 8:54、3回目の朝の通勤列車の撮影。今日は少し先まで行ってみました。S字カーブを回って登り坂を上がってくるのが分かりました。日の出が後15分遅ければ、朝日をバックに撮れますO氏は一日ごとに1分間、日の出は違ってくると申されていましたので、来年2月初旬がベストになるのではと思われます。

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失業者二人の旅日記  初冬の大地へ  Part5 三道嶺 その3

第4日目 12月3日 三道嶺撮影3日目

今日は昨日のことのないように起床を30分早めて、 撮影現場には通勤列車が東站を発車する前の8時30分前には到着しました。ようやく東の空が赤くなり始めた8時40分過ぎに発車を告げる白い煙が上がり、ドラフト音が聞こえ始めました。


昨日同様のカットになりましたが、今日は後ろ向きの牽引です。ターンテーブルがありませんので、ズリ捨て路線用の上遊型なのでしょうね。しかし、昨日と同じく前照灯を点けずの走行です。線路上に邪魔物はないとの前提なのでしょうか。牽引機は、SY1304号機でした

 

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阪神電鉄国道線(2)

 1945(昭和20)65日、B29から投下された焼夷弾が東神戸の街に雨霰の如く降りかかりました。小生の御年5歳前の、神戸の大空襲。当時日本の大都市の中で、神戸は最大の被害を受けました。近くの六甲山麓にあった高射砲は全く届かず、弧を描いて落ちるばかり(昼間は見えないが、夜間に見た大人の話)。

 神戸市灘区徳井町の我が家も全焼、自宅庭の防空壕を出て逃げました。見慣れた豆腐屋の中が真っ赤でした。途中石屋川かどうかわからないが、防空頭巾の上から消防団員に水をかけてもらい、母子3人(父はラバウルに応召)で逃げ延び、着いたのが御影公会堂でした。迎えに来た芦屋の祖母に連れられ、電線の垂れ下がった国道を徒歩で、同じく国道線の森市場まで行き、そこで暫く暮らしました。

 同じ日、同じ状況で御影公会堂に逃げ延びた主人公の話が、小説およびアニメ「火垂るの墓」です。小生より10歳年長の作者野坂昭如氏が、小生の近くにいたことになります。
 
 そんな話はとっくの昔。平和な時代になり、国道線を撮影したのがそれから16年後です。写真はその徳井からスタートして東に向かいます。

 開通時に設置された停留所の安全地帯は(前回の尼崎玉枝橋の写真を見て下さい)は、戦争中に軍により撤去されました。なんでも阪神国道がほぼ直線であった為に、いざという時飛行機の滑走路にするとか。けれど戦後も、停留所は復活されませんでした。写真のように道路上に、ただ白線で四角を描いたのみです。

 201201号。西向き、東神戸行き。1942年汽車製造・東京製。基本的な装備品やデザインは71形に同じですが、正面のデザインがやや平たくなりました。野田東神戸間の通し運転です。家並みの後方に六甲山が迫ります。
 
 当時の国道の詳しい記憶はありません。現代の国道を徳井から御影方面に進みます。
下の写真、右後方かすかに御影公会堂の先端が見えます。公会堂をバックにちゃんと電車を撮影するべきだったのに、目的が明確でなかった頃の撮影でして、今になって後悔頻りです。

 

 開通時のポールは、1949年Yゲルに付け替えられました。電車の神戸寄りに付けられています。

 

 201213209と共に戦後の1948年に製造。国道線最後の新造車となりました。野田側だけに連結器が付いています。連結器付の車両は数少なくなっていまして、今回紹介の中でもこの213207号車だけです。東向き、野田行きです。

 灘高前、甲南学園前を通り過ぎて、鳥居は三王神社です。阪神淡路大震災では本殿や鳥居など境内の大半が倒壊。社務所や隣接する宮司さんの家も倒壊し、確かご家族の方が亡くなられたと記憶しています。

車両は、3190号。19291930年製造。製造時は3150号でしたが90号に改番されています。当初稼働していた2台電動機の1型(全部で50両)および51型(全部で16両)に代わり投入されました。4台の電動機を装備して長距離運転(わずか26kmですが)に備えたそうです。台車はボールドウィン64-20R、この台車は全形式共通です。
7177号。1937年合計10両製造されました。電動機4台装備、長さ14m近くの大型路面電車でした。側面の半分以上を窓が占めていて、車内が明るく、斬新なデザインは当時画期的だったと思われます。誰の命名か、金魚鉢というニックネームを貰っていました。平たいスマートなベンチレーター、ドアの開閉と連動するホールディング・ステップも装備していました。西向き。

 当時、神戸市の東端、東灘区。芦屋市との境界に近づいて来ました。

 

201214号は、戦時中の1943年汽車製造製です。東向き、野田行き。

 途中の芦屋市、西宮市の西部を飛越して、いきなり上甲子園に達しました。甲子園線との分岐点です。右の鉄柱に駅名票が見えます。赤の地色に白の駅名が描かれていました。

201203号は1942年、メーカーは上記に同じ、やはり戦時中製造です。野田-西宮間の区間運転車。

 カラー版の登場です。これまでの撮影時期から4年後、1968年撮影です。電車は後方の甲子園線へのポイントを通過、東に向かいます。

 武庫川の西側です。201204号が、武庫川の武庫大橋に向かい緩やかな傾斜を登ります。右手辺りに確か甲子園ホテル(阪神電鉄経営)がある筈です。

 204号の後ろ姿。右手に武庫大橋と、松の木が数本見えます。

 こちらは坂を下って西向き、東神戸行きの207号。先の213号同様連結器が付いています。右手松の木の前にある大看板は「阪神競馬場へ8km」の案内です。

 207号が丁度、大橋の中央付近を西に進みます。この頃はまだ車の通行が少なく橋は広々としていました。上の写真の1コマ前。撮影場所は行政区画上、西宮市。南側から北東方向を見ています。

東神戸行き206号。撮影は日曜日でして、やはり車が少なかった頃です。武庫川の両岸は共に(西宮市、尼崎市)松の木が沢山あり、これは半世紀後の今も変わっていません。撮影場所は行政区画上、尼崎市、北側から南西方向を見ています。

武庫川を渡り、さらに東に進み、東大島。車両は東向き、野田行きです。子供たちの頭のはるか上まで窓が拡がっています。いかに背の高い窓か、よく判ります。

 写真はここまでです。これから先の野田方面までは全く撮影していません。残念です。
下は国道線の未使用の軟券です。

次回は、甲子園線と71、74号車の保存(尼崎市の公園)写真です。
地図は、参考文献1「輸送奉仕の五十年」阪神電気鉄道株式会社より、引用しました。

失業者二人の旅日記 初冬の大地へ Part4 三道嶺 その2

第4日目 12月3日 三道嶺撮影

今日も失業者二人は、7時起きです。と言ってもここでは、北京から西へ遠く離れた新疆ウィグル自治区、約2時間の実質的時差がありますので、5時になります。まだ真っ暗闇の街中で朝食のマンタ(ウィグル料理のパオツ)を買い込んで出発しました。このマンタ、食べると羊肉の肉汁が口中に広がり、絶品です。美味しい朝食に活力を加えて、目指すはO氏お奨めの朝1本の通勤列車の撮影です。

8:43、目的地近くで車を降りて、懐中電灯で足元を 照らしながら撮影ポイントに向かいますが、すぐにドラフト音が聞こえてきました。

▲ 8:49、朝焼けをバックに白蛇のごとき煙を残しながら通勤列車がやって来ました。線路際の小高い丘に駆け上がりかじかむ手でシャッターを押しましたが、撮影準備をする時間がなさすぎました。撮影場所のまだ先はどうなっているのかが分かりません。この路線は東站西站を結ぶ路線でこの通勤列車のみが定期で走ります。明日の朝にリベンジすることにしました。
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失業者二人の旅日記 初冬の大地へ Part3 三道嶺 その1

第3日目 12月2日
① 哈密站 13:30(チャーター車)→15:00三道嶺

哈密站から約1時間半、今年2月25日以来の三道嶺に到着しました。期待した天山山脈ですが、残念ながら霞んでいます。しかし今回は、今日を含めて4日間の撮影日を予定しております。何とか一日ぐらいははっきりと見えてくれるだろうと撮影開始しました。▲ 三道嶺では、採炭された石炭を積込み選炭場へと運ぶ運炭線が2本あります。こちらは、蒸気機関車が正向きになりますが、ズリ捨て線では、推進運転となっております。今回私達が狙うのは、天山山脈を背景に驀進する正向きの運炭列車(地点;A・C)、推進運行ながら夕日をバックのズリ捨て列車(地点;B)と、朝焼けをバックに走り来る朝1本の通勤列車でした。
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失業者二人の旅日記 初冬の大地へ Part2 T69次に乗って

第1日目 11月30日

① 長岡天神 5:34(阪急)→5:49 南茨木 5:58(モノレール)→6;21大 阪空港
② 伊丹 7:20(JL102)→8:30 羽田 9:40(JL023)→12:50 北京(空港快速)→三元橋(地铁)→国貿

無事順調に北京空港到着しました。先に着かれたO氏とは、預け手荷物引渡場(バゲージクレーム)でお会いして、常宿にしている京倫飯店に直行しました.


▲ JL北京便の往路機内食。ラウンジでたっぷり朝食を食べましたので、丁度良いぐらいですが、昔と比べるとしょぼくなったのは否めません。

チェックイン後 鄧さん哈密までの切符を依頼していただいておりました北京中国国際旅行社の賀さんに到着の連絡を入れて、受取時間の打合せを済ませてから街に出ました。
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失業者二人の旅日記 初冬の大地へ Part1 旅立ち 

中国四川省の辺境の地でお会いしましたO氏とは、お互いに定年退職で失業者となりました身の上が同じです。日程を妨げるものがありませんので、ご一緒にSL撮影の旅をすることになりました。

第1回目は河南省建材廠と阜新・平庄、第2回目のエリトリア鉄道に次いで第3回目は、O氏から新彊ウイグル自治区の哈密近くあるという雅満蘇(Yamansu)に建設型SLが走っているらしい。欧米人は行っているようだが、まだ日本人が行ったというレポートを見たことがない。是非に行きたいと思っています。久しぶりに三道嶺やぶんしゅうさんがまだ行かれたことがない白銀もご案内したい。一緒に行きませんかとのお誘いを受けました。

三道嶺は、今年2月に準特急先輩に同行して参りましたが天山山脈が霞んで思っていた写真が撮れず、リベンジしたいと思っていました。 白銀 は上遊型が客車を牽引する有名な撮影地です。それに日本人がまだ行ったことがない雅満蘇と聞けば、行かないわけにはいきません。飛びつきました。

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阪神電鉄国道線(1)建設目的

   大御所、乙訓の老人からバトンタッチを受け、阪神電鉄国道線の一部を紹介します。悔いが残るのですが撮影しているのは、神戸市灘区八幡(やわた)から尼崎市西大島と、国道線の支線である甲子園線の上甲子園-甲子園間です。東神戸付近と西大島から東部野田方面を撮っていません。

 小生の幼少は国道線と共にあると言っても過言でないのに、それにチャンスもあったのに、撮影していなくて返す返すも残念です。悔いの多い人生、中でも最たるものの一つです。 

 そして小生、長じてから疑問であったのが、国道線建設の目的でした。関西における官設鉄道と私設鉄道、あるいは私設鉄道同士間の激烈な競争は敢えて言うまでもありません。阪神間はその最たるもの、皆様よくご存じの事柄です。大正年間、官設はまだ電化していないが、阪神電鉄、箕面有馬電気軌道の競争です。その中にスピード競争で勝ち目がない道路併用軌道線(阪神国道線)を何故に建設したのかです。

手許に三つの文献があります。これらに上記の疑問を解決してくれる記述がありました。

『輸送奉仕の五十年』(阪神電気鉄道、昭和30年) (文献1)と表記する。
『阪神電気鉄道八十年史』(阪神電気鉄道、昭和60年) (文献2)と表記。
『図説尼崎の歴史・下巻』(尼崎市、平成19年) (文献3)と表記。

文献1から引用します。

『国道線の開通 昭和のはじめに本線に並行して国道線が開通した。陸の大動脈阪神国道の完成に伴う副産物であった。それまでの阪神両都を結ぶ道路は昔「西の道」と言われた2間ほどの旧国道で、牛馬でさえ行き違いにひと苦労、そこへトラックなどの激増で全くの飽和状態になったため、大正8年大阪、兵庫の両政府が相協力して建設することに決定した。爾来七星霜、同151225日、あたかも昭和と改元されたその日から公用に供された。幅員15間(淀川以東は12間)、延長628町(約7キロ)、ほとんど直線的に阪神間の郊野を貫いた坦々たるアスファルトの新国道は、2,000万円の巨費を投じただけに、名実ともに東洋一の大道路として世人の目をみはらせたものである。

当社はその重要性に鑑み、いち早く大正92月にこの国道上に軌道施設を出願して122月に特許された。この為国道の幅員も急に3間広げることに変更された。(中略)軌道施設工事はわずか6ヶ月間の突貫工事をもって昭和2517日に完工した。翌5月18日新装の武庫大橋畔において国道と軌道の合同竣工式が挙げられ、運賃決定で当局と合意後の71日から開業したのである。 


                               
    
 
 野田阪神・東神戸間約26キロにわたり、国道の中央に施設された複線軌道には15mという日本で最も長い軌条を用い、鉄骨組立の側柱には煌煌と照明灯が輝きわたって大国道に美観をそえた。車庫は浜田の田んぼの中に設けられたが、路面電車のこととて30両の車両はすべて低床ボギー車で、これも日本最初のドアー・ステップ連動装置をするなど数々の新機軸が試みられた。しかし当時はまだ沿道に人家も少なく、神戸終点の連絡も悪く、阪神国道電軌の経営は危ぶまれた。
(以下略)』(文献1

  建設の様子が記載されていますが、疑問点の解消はできていません。                                                          

 

 相前後しますが、文献2に、明治43年初め頃からの電鉄株の急騰を背景に、出願ブームが起りつつあった当時の様子が記述されています。 

布引を起点として山手を通過し、西宮に達するという計画の灘循環電気軌道に、

『箕面有馬電軌は、大正元年819日、いち早く十三・門戸間の新線を出願し、灘電と接続することを企てた。電光石火の対応によって、阪神間の直通路線を入手しようと考えたのである。』(文献2 

その後、灘電が資金難となり、

『その買収・路線免許取得をめぐる係争のさなか、大正62月、箕電は灘電の軌道施設特許譲渡の認可を得、大正712月、箕電の勝訴が確定した。かくして、大正97月、灘循環線(現在の阪急神戸線)は開通し、当社の強力なライバルとして立ち現われることになった。』(文献2 

こうして、スピード競争はもとより多面的に、阪神・阪急のライバル活動が開始されて行きます。その後のことは読者ご存じの通りです。

 さらに文献2の、別の個所には

『併用軌道線の縮小と廃止 国道線は,昭和2当社子会社である阪神国道電軌㈱によって開通し、ほどなくして当社合併した。(中略)国道線は、阪神国道新設して、本線防衛という政策づき(註:下線は筆者挿入軌道敷当社費用負担によって,道路上建設された。(中略)併用軌道の輸送量は、戦中と終戦後20年代半ば頃にピークを記録して以後減少に転じていた(中略)30年代に始まったモータリーゼーションの進展によって、経営は困難の度合いを深めていった。』(以下略) 

と、新設国道に他社線が先に進出し、阪神本線に悪影響が及ぶ前の対抗処置だったことが明記されています。これが新設国道線に、阪神電鉄が道路併用軌道線を建設した真実であり、「建設目的は何か」という筆者の疑問への解答です。

国道線の経営が初めから楽ではなかったことも同時に伺えます。客が多かった時期はほんの一時期でした。
文献3に、

『鉄道と道路  現尼崎市域においては、(中略)明治38年には阪神電鉄が開業し、尼崎町中心部と大阪・西宮・神戸といった東西の市街地が結ばれます。大正期から昭和初年にかけては、これらに加えてさらに2本の重要な東西交通幹線である、阪急電鉄と阪神国道が開通することになります(中略)。 こうして開通した阪急神戸本線や阪神国道の沿線には、宅地開発や耕地整理がすすめられ、新たな市街地が形成されていきました。    

 開通当時、国道線の沿線は農村的雰囲気が漂っていましたが、大庄〔おおしょう〕村や小田村などで耕地整理が行なわれて急速に住宅化がすすんだこともあり、昭和10年代には利用者が大幅に増加していきます。戦争をはさんで、昭和20年代半ばにピークを記録しています。
 この時期、国道線の主力となったのは昭和12年製の阪神71型でした。屋根まで届くような縦長の窓が連なっているのが特徴で、流線型の開放的なガラス張りのデザインから「金魚鉢」との愛称で親しまれました。新時代の到来を予期させる、先進的な路面電車でした。

ところが、高度経済成長期に入るとともに、利用者数は減少に転じます。自動車の普及によって道路混雑が激しくなり、定時運行がままならなくなったのです。市内で一番利用者が多かったのは難波〔なにわ〕停留所でしたが、昭和27年に14,691人いた乗客数が、昭和37年には2,211人と半減。やがて、国道2号や周辺道路が渋滞する原因として、国道線がやり玉にあげられるようになります。累積赤字の負担に耐えかねていた阪神電鉄はもちろん、兵庫県や尼崎市も、廃止やむなしという方向へと流れていきました。 

昭和493月に上甲子園~東神戸間が廃止され、残っていた野田~上甲子園間も、昭和50年に営業を取りやめました。最終営業日の55日は、名残を惜しむ市民で終日ごった返しました。なお、金魚鉢こと71型電車は、市内の水明〔すいめい〕公園と蓬川〔よもがわ〕公園に保存されています。』(文献3)  

とあり、建設の過程、その後の状況、廃止前後の様子が記述されています。

 今回は国道線建設の目的や、その当時および戦後の様子と写真を文献から引用して紹介しました。次回は小生の写真で、
 第2回:八幡から西大島まで、カラー写真を交えて紹介します。
 第3回:甲子園線のカラーと7174の保存の様子を紹介します。

エリトリア鉄道 2011年総集編 

エリトリア鉄道は、イタリアの植民地化により建設された鉄道です。
当初は、塩生産のために港湾都市マッサワに敷設された600mmゲージの鉄道が始まりでしたが、1888年に750mmに改軌されてSa’atiまで延伸されました。
ドイツのヘンシェル製(Henschel)の蒸気機関車7両が投入され、1926年まで在籍しました。

海抜約2,400mの現在の首都アスマラまでは、イタリアからの物資を輸送するために950mmに再改軌されて1911年に延伸されています。
左は、1930年の時刻表です。マッサワ~アスマラ間は、1往復の蒸気機関車牽引の列車が運行されています。マッサワを6時30分に発車して、アスマラには12時半に到着しています。120キロを6時間をかけて登っていますので、表定速度は20km/hでした。

▲ 当時の1等車と2等車の結構豪華な車内です。3等車は現在の板張りボックスシートだったようです。

1935年にフィアット社製のディゼル車「リットリナ」が投入されてからは、10時半~11時頃に着いたとの記事がありますので、約4時間強(表定速度は30km/h)にスピードアップされていました。

その後も延伸は続き、1922年にはケルンまで建設されました。1932年には263.7キロ先のビシアまでつながりました。最盛期には、一日30本もの運用が行われました。
最終的には狭軌のスーダン鉄道と結ぶ計画でしたが、1975年からの戦争により中断され、敷設されていたレールや鋼枕木は戦争用のフェンスとして使用されました。

駅は解体され、車両も損害を受けましたが、20年続いた独立戦争が終った1994年には改修プロジェクトが開始されて、2003年2月にはマッサワ~アスマラ間が復旧されました。しかしマッサワからアスマラへの物資や客輸送は日本等のODAで建設された道路に移行しており、エリトリア鉄道の現在は、戦前に残された貴重な950mmゲージの蒸気機関車や内燃車をチャーターして走らす鉄道ファンの撮影地となっております。

【配属蒸気機関車】
蒸気機関車は、前記のように750mm時代の7両と、950mm時代のマレー機56台を含み79台が投入されています。重連での運行もあったようで、多くの物資を積んだ貨車を牽引して、標高差約2,450mもの勾配を登っていく姿は想像するだけでもすばらしかったとろう思われます。

【現在残る車両】

▲ 79台あった蒸気機関車は、リビア等に売却されたり第2次世界大戦、独立戦争で破壊され9台が残りましたが、下記の訪問記でもお分かりのように走行できるのは約半数でした。
内燃車ツアーもあり、DLやDCがフォトランに参加していますので、走行できる車両もあります。世界でも最も貧しい国と評価されていますので、SLや内燃車の観光ツアーは外貨収入を得られる貴重な財源です。路盤のバラストも新しく、これからもツアー受け入れには積極的に対応されると思われます。

【エリトリア鉄道へのアプローチ】
エリトリアは社会主義国家で、ビザなし渡航は認められていません。ビザは、東京にあるエリトリア大使館に個人申請をする必要があります。また現地につきましても移動には許可が必要です。
そのため、今回のエリトリア鉄道SL撮影については、ドイツの旅行代理店”TANAGO”のツアーに参加しました。エリトリア鉄道以外に、中国鉄路、アフリカ等のSL撮影ツアーを企画されています。HPは下記のとおりです。ご覧ください。
http://www.tanago.de/erlebnisreisen/de/eisenbahnreisen.php

今回のエリトリア鉄道訪問記の詳細は、下記をクリックしてご覧ください。

Part  1  旅立ち
Part  2  フランクフルト中央駅
Part  3  フランクフルト交通博物館へ
Part  4  フランクフルト交通博物館
Part  5  路面電車に乗ってフランクフルト市内観光
Part  6  ICEに乗って、フランクフルトからミュンヘンへ
Part  7  ミュンヘンは、オクトーバーフェブト
Part  8  ミュンヘンの路面電車に乗って
Part  9  ミュンヘンからエリトリアへ
Part 10 希望へのエリトリア鉄道の今は その1
Part 11 歴史が息づき、文明が交差する街、アスマラ
Part 12 希望へのエリトリア鉄道の今は その3
Part 13 希望へのエリトリア鉄道の今は その4
Part 14 希望へのエリトリア鉄道の今は その5
Part 15 希望へのエリトリア鉄道の今は その6
Part 16 希望へのエリトリア鉄道の今は その7
Part 17 希望へのエリトリア鉄道の今は その8
Part 18 希望へのエリトリア鉄道の今は その9
Part 19 エリトリアからドイツへ
Part 20
帰路

ご同行させていただいたO氏より私が参加できなかった後半のツアーでの撮影写真をいただいております。
O氏のご好意により、ハイライト写真の1部を掲載させていただきます。

 

ご紹介させていただきました写真以外にも秀作の数々があります。フォトランではありますが、私ごときでは写せないすばらしいカットでした。O氏ご自身がお撮りになった40数年間に及ぶ鉄道写真をホームページに掲載される準備をされておられますので、完成されましたらご紹介させていただきます。

帰国後、初めてお会いした中国鉄路に残る蒸気機関車を一緒に撮りにいこうとの話が出ました。11月30日から14泊15日をかけて

続いて『 失業者二人の旅日記 初冬の大地へ』を投稿します。ご覧いただけますようによろしくお願い申し上げます。

エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part20  帰路

エリトリア鉄道訪問記最終編は、下書きをしたままほったらかしにして、また出かけてしまいました。ずぼらで申し訳ございません。このままでは、次の紀行記がスタートできませんので、勝手ながら再開させていただきます。

第10、11日目 10月3日、4日

① ミュンヘン13:25(ICE516)→17:06フランクフルト空港
② フランクフルト21:05(JL408)→翌日15:25成田16:50→18:15伊丹
③ 大阪空港 (モノレール)→南茨木(阪急)→長岡天神

今日は、昼過ぎにICEに乗車して、直接フランクフルト空港へと向かい、帰国の途につきます。そして、10月3日はドイツ再統一の記念日、またオクトーバーフェストの最終日でもあります。
朝食後、また路面電車に乗って市内遊覧に出ましたが、途中でビール樽を積んだ馬車が線路道を 横切りました。
往路で会場を訪れた時は、ミュンヘン駅から地下鉄で行きましたので、会場がどこにあったのか分かっていませんでした。近くにあるのなら、もう一度美味しいビールを飲んでみたい、家内もあの雰囲気を昼間に見たいと申しますので、降りて行って見ることにしました。
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ツィッタウ狭軌鉄道訪問記その1

前回投稿したムスカウ森林鉄道の前日にここを訪れました。ここは1890年に開業した750mmゲージの狭軌鉄道で1996SOEG(Sachsisch-Oberlausizer Eisenbahngesellschaft)

ザクセンのオーバーラウジッツアー地域鉄道協会とでもいうのでしょうか、民間団体によって運行されています。ツィッタウ狭軌鉄道というのは通称で、もらったパンフレットの表紙にはこの名前が入っています。この鉄道の訪問記は2005年から2006年にかけて旧掲示板の「おじん2人ヨーロッパ軽便4」に書かれています。訪問されたのは1993年とのこと、当時はドイツ統一から間がない時なので、いろんな面で不便、御苦労あったことと思います。

7月1日フィフテルベルグ鉄道を訪問後ケムニッツからドレスデンを素通りしてツィッタウまで行きました。この時期日が長く、到着した19時ではまだ日は高かったのですが、あたりには歩いている人はおらず、はるばる国境まで来たという感じがします。(この町はチェコとポーランドに国境を接しており、チェコ行きの国際列車が1時間に1本程度運行している。)翌朝駅に荷物を預け、837発の始発でベルツドルフに向かうことにしました。早めに行ったので車庫から駅前広場を横切るシーンを撮ろうとしていたのですが、肝心のSLが見当たりません。同じようにカメラを持っていたおっさんに聞くと、SLの調子が悪く、修理工場のあるベルツドルフで修理中だとのことでした。代わりにDCが客車を引っ張って発車しました。

SOEGの目玉はヨンドルフとオイビンの分岐駅であるベルツドルフでのSL同時発車です。この始発のヨンドルフ行きがベルツドルフで20分余り停車し、二番列車のオイビン行きが追い付いてベルツドルフで2方向に同時に出発するのです。夏ダイヤでは一日に4回この光景が見られます。ところが始発列車がDCに代ったため、朝一番の931の同時発車はDCとSLの組み合わせという全く締まらないものになってしまいました。

ヨンドルフ、オイビンから戻ってくる列車は下り坂で、逆向きのため、あまり面白くありません。次のオイビン行きで終点まで行き、ロケハンしましたが、歩いていけるところで撮影できそうなところは見当たりませんでした。

終点のオイビンはあたりに何もない殺風景なところ、そのまま折り返してベルツドルフで11:31発の同時発車をねらうことにしました。この駅の構内は分岐する線路の間に信号所があり、写真の向かって右側に三脚を立てました。先にこの駅始発のヨンドルフ行きが待っており、ツィッタウから来たオイビン行きがホームに入ってきます。SLの頭が揃うのかと思っていたところオイビン行きはずっと進んで信号所の近くまで来てしまいます。これでは発車しても並走のシーンは撮れそうにありません。あわてて信号所の反対側に移動しました。

発車はまず少し後ろに停まっていたヨンドルフ行きが出発してオイビン行きと並ぶ手前でオイビン行きが発車します。このタイミングは注意して合わしているらしく、信号所付近で機関車の頭が揃うところが撮れました。

雨が降ってきたため撮影は一時中断、駅近くのレストラン兼ホテルで昼食を取ることにしました。ここはカウンターの周りに線路が敷かれており、注文した料理が貨車に乗って運ばれてきます。余談ですが先日ツィッタウ狭軌鉄道のウェブサイトを見ているとこのホテルがリンクされているのを発見、オンラインでの予約も可能なようです。ホテルの部屋からはベルツドルフの駅が見渡せるはずで、次回行く機会あればぜひ泊まりたいと思っています。

次の同時発車は13:31分、今度は信号所の中から撮れないか頼んでみることにしました。実は11:31の発車を取った後、信号所のおっさんが窓から顔を出して「ここから撮れるぞ」みたいなことを言っていたのです。2階に上がってみると先客が1人既にいてカメラを構えていました。信号所の駅側の窓際には机が並べられており、一番端の窓から1人分だけの撮影スペースがあります。私が押し掛けて行ったのでわざわざ机をどけてスペースを確保してくれました。さすがにこの位置からはさえぎるものなく、同時に左右に分かれて走っていくのを写すことができました。但し残念ながら三脚を立てる場所がなく、ビデオと一眼レフを両方操作していたのでシャッター押すタイミングがずれ、ヨンドルフ行きの先頭が切れてしまいました。   礼を言って撤収しかけるとチケットらしきものを出してどうも金を払えと言っているようです。おっさんが小づかい稼ぎに金を取るのかと思っていましたが、チケットにはベルツドルフ駅信号所見学と書いてあり、会社が認めた正式なものだったようです。撮影料は€2.5十分値打ちのあるチケットでした。

 

 

 

 

夏の芦野公園

35年前の雪景色を楽しませて頂きました。大雪合戦が挙行された芦野公園駅に昨年の7月22日に訪れたときのスナップを紹介します。
芦野公園駅駅舎

芦野公園駅駅舎

 無人駅となっている芦野公園駅。白いクルマは津軽を走り回ったレンタカー。

芦野公園駅ホーム
芦野公園駅ホーム

 ラッセル車が接近してくる写真とは反対方向。林の中の駅は風情があって好きな光景。

オハ31
オハ31

 冷え切ったストーブ列車のオハ31が保存されているだろうと思って訪ねた芦野公園駅だったが 錆びた看板だけで オハ31は姿を消していた。

五所川原
五所川原

五所川原駅(機関区)に休む車両たち。芦野公園のラッセル車はこのキ101だろう。機関区の看板のある車庫も35年前と同じ。庫の左手の水タンク?はさすがに残っていない。左端の詰所にいた社員に写真を撮らせてくれとことわったが、立ち入り禁止と剣もほろろ。ろくに動きもしないクルマばっかりなのに 今どきはどこへ行ってもこのような対応でアタマに来る。昔なら 遠いところからよく来てくれたとお茶の一杯も出たのにと  昔を懐かしむようでは歳をとった証拠かと思うことにして 五所川原は早々に退散した。

エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part19  エリトリアからドイツへ

第9日目 10月2日

アスマラ4:05(MS834)→ 5:45カイロ10:45(MS787)→14:55ミュンヘン

昨夜は、エリトリア鉄道SL撮影ツアー前半の最終日でした。ご同行させていただいた皆さんと最後の夕食で盛り上がろうと1Fに行きますと、レストランでは昼間見た結婚式の披露宴が行われていました。民族衣装で着飾った200人以上の方々が、新郎夫婦を中心に食事をしながら、歌ったり踊ったりの大宴会です。近づくと、どうぞどうぞとレストラン内に導かれました。O氏の奥さんと家内は、珍しさにひかれて喜んで参加しておりましたが、別のサブレストランに案内されたツアー参加者は、結婚式のあおりをくってしまいました。
注文した料理が中々出てこないのです。1時間ほどは話をしながら待っていたのですが、2時間経つと、我慢強いドイツ人も不満の表情を露にします。私の方は冷たいビールがきましたので、これで十分でしたが、とうとう怒り出していました。

大宴会は、部屋に戻っても深夜まで続いていましたが、早朝4時の飛行機でしたので仮眠で出発を待ちました。
チェックインには時間がかかると言われ、N氏と3人で1時半過ぎにはアスマラ空港に向かいました。ターミナル前の小屋で荷物検査を受けたましたので、往路に懲りて預け手荷物とはせずに機内に持ち込むことにしました。古びたターミナル内は社会主義国家だけあって写真撮影は禁止で、また現金申告と財布を開けての確認までさせられました。
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関東鉄道キハ350形(元国鉄キハ35)営業運転終了


キハ358+キハ3511  水海道/23-10-2

関東鉄道キハ350形が10月10日の「さよなら運転」(事前予約制)を最後に営業運転を終了した。キハ350形は、常総線の旧型車の置換えのため昭和62年から平成5年にかけて国鉄清算事業団とJR東日本からキハ35、キハ36を購入してキハ351~3523としたもので、キハ351、355~357、3518の5両が元キハ36、それ以外の車両は元キハ35である。 

 元キハ30のキハ301~316と共に常総線の主力として活躍し、平成元年から冷房改造、一部の車両は平成5年から走行エンジンをDMH17HからDMF13HZへの換装が実施されたが、新型車との置換えにより平成10年10月31日付でキハ356(元国鉄キハ3626)、キハ357(元国鉄キハ3615)を皮切りに廃車が始まり、平成23年4月時点で、キハ353(元国鉄キハ35183)、354(同35190)、358(同35118)、3511(同35187)、3518(同3617)、3519(同35163)、3520(同35134)、3521(同35170)の8両が残っていたが、運用に就いていたのはキハ358とキハ3511の2両のみであった。

関東鉄道では、7月22日(金曜日)から8月28日(日曜日)まで、金曜日は水海道13:34→下館14:2414:39→水海道15:37、土曜日と日曜日は水海道15:29→取手16:0116:19→水海道16:5117:00→取手17:311:47→水海道18:19のダイヤで運行して、9月10日の事前予約制の「さよなら運転」で営業運転を終了する予定であったが、急遽10月9日までの土、日、祝日に運転されることになり、更に水海道~取手間2往復の前に水海道10:33→下館11:2411:42→水海道12:36のダイヤが追加された。

9月10日に予定されていた「さよなら運転」は「レトロ列車乗車会」として、キハ3511+キハ358の前にキハ101(元国鉄キハ3055)を連結して3連で運転された。

9月3日(土曜日)と10月2日(日曜日)に撮影に出掛けたのでその時の画像をご覧いただきたい。 

10月10日の「さよなら運転」に乗車された方は是非その時のレポートをお願いしたい。 

【9月3日】
この日は午後から出かけて、車窓から我孫子~天王台間の電留線に停車中の203系マト55を撮影した。キハ3511+キハ358は、稲戸井~戸頭間、戸頭~南守谷間、寺原駅、西取手駅で撮影した。寺原駅で偶然準特急さんとお会いして稲戸井駅までご一緒したが、守谷~新守谷間で撮影されたようであった。

 稲戸井~戸頭間

  
戸頭~南守谷間


 寺原駅進入

 稲戸井駅

【10月2日】
この日はデカンショまつり号さんに便乗させていただいた。大宝駅で合流して、駅の下妻寄り、下館~大田郷間と水海道機関区の近くの踏切で撮影した。機関区のフェンス越しに休車中のキハ350を撮影後、水海道から2本目の取手行きで乗り納めをした。
この日はキハ101(元国鉄キハ3055)も運用に就いており、大宝駅の下妻寄りと南石下~三妻間で撮影した。

 元キハ30の100形は101と102の2両が在籍し、現在もほぼ毎日下記ダイヤで運用に就いている。101は朱一色、102(元国鉄キハ3013)は常総筑波鉄道時代の塗装で、原則として月、火は102、それ以外の日は101が運用に就いている。
水海道10:34(土休日は10:33)→下館11:2411:42(土休日は11:44)→水海道12:36

  大宝駅

  
太田郷~下館間

 水海道機関区付近

 
 水海道駅進入

 
 大宝
~下妻間(バックは筑波山)

 南石下~三妻(バックは石下城)

 キハ101(元国鉄キハ3055)

  
キハ102(元国鉄キハ3013)

  
キハ358の車内

 キハ3511の車内 (クロスシート横の空間はトイレの撤去跡)

【休車中のキハ350形】

 
 キハ354+キハ353(平成15年11月に開業90周年記念で旧塗装に変更)

 
 キハ3519(キハ3518と共に平成18年11月映画ロケ用に塗装変更)

 
 キハ3518(連結面の窓配置から元キハ36形であったことが判る)

 
 キハ3520+キハ3521

 
 キハ301(元国鉄キハ3016で、昭和61年7月筑波鉄道に譲渡されキハ301となったが、翌62年3月末廃止に伴い常総線に移動後、平成17年11月に廃車になった。解体されずに残っているが荒廃が進んでいる)

 
 水海道駅

国鉄時代全く人気がなかったキハ35系列であるが、姿を消すとなるとやはり寂しい思いがする。人気がなかった理由として、トイレの横以外はオールロングシート、機能一点張りのスタイル等もあるが、使用線区のミスマッチもあったのではないだろうか。当初の目的通り湊町~奈良間のような大都市近郊は良かったが、名古屋~湊町間、京都~福知山間のように長い距離を走ると評判が悪くなるのは当然であった。昭和41年3月の小雪が舞う寒い日の夕方、新見~津山間で乗車したことがあり、駅毎に寒風が広い扉から容赦なく舞い込み、停車時間の長い交換駅では車掌が乗客が来るたびに扉の開閉を行っていた。

 キハ30形は、関東鉄道キハ101、102の他、久留里線にキハ3062、98、100の3両が健在で、日常的に運用に入っており、今のところ置換え計画は発表されていないが、来年度以降大きな変化があるものと思われる。

【キハ900形】
正面のスタイルがキハ35とそっくりな車両が在籍したので紹介する。
昭和38年日本車輌で新製されたキハ901、902で、正面以外は大幅に異なり、片開きの3扉、台車は空気バネのNA305Aとキハ35より高級な造りであったが、平成7年廃車になった。撮影時の昭和45年3月15日は中間にキサハ61を挟み、DTDで運転されていた。
キサハ61はキハ41002(元国鉄キハ41124/昭和10年大宮工場製)を昭和37年事故復旧時にキサハ化したもので、台車はキハ41021と振替えている。


エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part18  希望へのエリトリア鉄道の今は その9

第8日目 10月1

① アスマラ6:20(列車)→7:00 Shegereni8:00(列車)→10:33アスマラ
② アスマラ着後。機関区見学、アスマラ11:40(Bus)→13:00ギンダ
③ 
ギンダ(列車)→
マイ・アタル→17:20ギンダ(Bus)→アスマラ


今日は、エリトリア鉄道撮影前半ツアー最終日です。深夜にミュンヘンに戻ります。

朝は、いつものように夜明け前の出発でした。
アスマラ駅からツアー特別列車に乗車しました。今日の編成は、440式マレー機008号機+客車Ⅲクラス04号車+有蓋車+無蓋車の短編成です。
日の出を見ながら約40分をかけて、次の交換できるShegereniまでの海抜差約180mを逆行で下りました。この駅は、アスマラ到着第1日目に訪れましたループ線の途中にあります。
直通ブレーキがないため、客車側ではベテランの親父さんが手ブレーキを巧みに回して減速調整を行っていました。
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エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part17  希望へのエリトリア鉄道の今は その8

第7日目 9月30日 その2

① マッサワ5:30(Bus)→6:15 アーチ橋7:15(列車)→9:20マイ・アタル
マイ・アタル(列車)10:44→13:02ダマス14:00→15:43バレサ
③ バレサ16:12(列車)→17:53ギンダ
(Bus)18:00→19:30アスマラ

10:44、貨車から客車に乗り換えてマイ・アタル駅を発車しました。客車は、木造車に外板を鉄板を貼り付けた車両で、車内はご覧のように木製ベンチのクロスシートです。窓はガラスはなく、木製のルーバーを引き上げてアフリカの強烈な日差しを遮断するようになっていました。乗車したのは3等車でしたが、かつては豪華な革張りシートの1・2等車もあったそうです。



▲ アテンダントさんが客車内でカーテンを付けて何やらしていると思っていましたら、昼食のバーガーが出てきました。イタリア語で言えば、”パニーノ”になるそうですが、パンがホテル同様に硬くて美味しくありません。「かんてき=七輪」は、パンにはさむ具材の卵とジャガイモを茹でるために積んでいたのですね。



▲ 13:02、マッサワからの最初の峠(海抜480m)を越えて、人家の集落があるダマス駅に到着しました。タンクローリー車が待っていて、給水が始まりました。撮影地点はこちらです。
ここでも直ぐに元気な子供たちが集まってきました。子供たちは「ペンが欲しい」と、要求してきますが、現地代理店の担当者からは、「けっして渡さないように。なぜかと言うと、全員に渡さないと争いが起こる。」と言います。確かに言われるとおりです。仕方がないので、O氏の奥さんと家内とで日本の歌を歌ってのスキンシップをとっていました。笑顔が可愛いい子供たちばかりでした。


▲ R1からは離れたダマスの街ですが、川沿いに畑も見られ、トラクターがあります。教会もありました。
列車が停車すると、子供たちが集まってきます。今度は機関士にペットボトルのおねだりです。機関士が空ボトルを投げると奪い合いが始まっていました。これがあるので、現地代理店の担当者が注意していたのですね。何に使うのか分かりませんが、廃棄物でも必要なくらい、多分何もないのでしょうね。


乾いた河川にかかるアーチ橋を渡るフォットラン用の特別列車。川底は最近、流れた跡がありましたので、たまに雨が降るようです。


▲ 蛇行する川に沿って走行を続け、15:43、マッサワから57.1キロ、海抜620mのバラサに到着しました。珍しく木々の茂ったオアシスのような駅です。かつての給水設備が無事なようで、タンクローリー車は不必要でした。撮影地点はこちらです。
子供が数人いるのですが、周りに耕作地はあっても人家はありません。どこから来たのか不思議でした。


▲ バラサを出発してしばらく行くと急停車しました。見ると、ラクダ6頭が線路上を歩いています。汽笛を鳴らしても線路上から離れません。困ったものです。放牧主が来て移動させましたが、ラクダの放牧が行われていました。ラクダといえば、砂漠を行くシーンを思い浮かべますが、ここでは荒野の丘です。鋭い針がある木の若芽を器用に食べていました。


▲ ゆっくりと渓谷を登っていきます。トンネルもあります。室内灯もなく真っ暗となりますが、ぱっと明るくなると、「キャー、ギャー」と大騒ぎです。しばらく使われていないトンネル内はコウモリの巣となっていました。明るくなると、10羽ほどのコウモリが車内に入っていました。

その後、渓谷でのフォトランがありましたが、川底で撮影を続けていましたら、現地代理店の担当者が血相を変えて、「早く岸に上がれ!上がれ!」と、川の上流を指差して叫んできます。急いで岸に上がると、上流から泥色の濁流が流れてきました。
どうやら上流で夕立があったようです。降った雨を山に溜めておく木々がない大地です。 乾いた河川が、突然の濁流となって襲ってきます。この時も深さ30~50cmはありましたので、まず歩行はできません。危ないところでした。


▲ これから先がエリトリア鉄道のハイライトですが、夕日が山へと沈みましたので、今日は撮影終了です。17:53、マッサワから69.4キロ、海抜902mのギンダ駅に到着後、バスに乗り換えて涼しいアスマラへと戻りました。左下は、途中で乗ってきた原住民家族、客扱いの正式運行はしていませんが、走る時は適当に?乗車許可させているようでした。
▲ 今夜の夕食は宿泊しているホテルのレストランでした。少しエリトリアにも慣れてきたので、ウェートレスさんからのお奨め料理を聞いて注文しました。左上はトマト入りサラダ、右上はベーコンとジャガイモのスープ、下はジィルジィル(牛肉のトマト煮)と主食のインジェラ(酸味のあるクレープ)です。メニューに記載されていても当日できないとか、それほどバリエーションがありません。グルメは今一の感がありましたが、冷たいアスマラビールを飲めましたので、十分満足しました。
 Part18  へ続く

江若あれこれ話 (3)

昭和44年10月31日 営業最終日の午後
当日は、午前に前記のように近江今津まで往復、午後からは、同志社北小松学舎でのDRFC江若お別れ合宿が始まります。いったん京都へ戻り、BOXで集合のあと、ヘッドマークを携え、合宿参加者22名とともに、再び江若を目指しました。

いろいろな車輌に当会のヘッドマークを付けて楽しんだ

三井寺下機関区長の手でヘッドマークがキハ51に取り付けられる

他の車輌にも江若、鉄道友の会からの華やかな装飾がされた

14時に三井寺車庫に到着、構内に置かれた車輌は、ほとんどがモールで飾られている。まず機関区長にあいさつ、さっそくヘッドマークのことを切り出した。何の抵抗もなく、あっさり快諾していただき、夕方の初発となる浜大津15時35分発の15列車に付けてもらうことになった。それ以降に発車する後続の列車には優先的に会社製作のヘッドマークが取り付けられたため、たまたま初発の列車には何の装飾も無かった。会員の見守るなか、機関区長の手でがっちりキハ51にDRFCのヘッドマークが取り付けられた。浜大津から、この15列車に全員で乗車する。各駅ホームで待ち受ける乗客・駅員の眼は一様にヘッドマークに注がれ、運転室後部に陣取った我々は、してやったりの笑顔がこぼれる。列車は16時13分に北小松に到着、陽も山の向こうに落ち、暮色のなかでの交換を見送って学舎へ向かった。

浜大津駅で発車を待つ15列車。キハ51+ハフ8

15列車が滋賀駅に到着。〔15737〕で紹介の駅員氏か?

北小松駅に到着した15列車。多くの小学生が下車した

北小松で交換したキハ11+ハフ2の20列車

夕食後、本日のメインイベント、北小松駅での送別式典が執り行われた。まず、浜大津行きの最終となる、20時59分発26列車の到着を全員の拍手で迎える。T中さんのマイクから江若廃止のアナウンスがホームに響く。そして、運転士、車掌の皆さんに、当会特製の江若アルバムを贈呈した。この列車は、北小松で増結作業があり、その作業が手間取って、発車するものと思って全員で拍手すると、全く動く様子もなく、間の抜けた出発式となったが、なんとか無事に26列車を送り出した。つぎの近江今津行きの最終まで1時間余りがあり、その間、会長のS井さんから、北小松駅員の3名にパネル写真を贈呈し、長年の労をねぎらう。そしていよいよ22時過ぎ、営業最終列車となる25列車がキハ51+ハフ8で到着、盛大な拍手で出迎える。この時になって急にT中さんのマイクが故障、急遽、声のバカでかいことでは右に出るものはないS田さんが地声を張り上げ、車内から好奇の目を集める。この列車でも運転士・車掌にアルバムを贈呈する。そして、22時03分、我々の”次はしらひげ~”の連呼のなか、列車は近江今津へ向けて最後の旅路についた。
その後、狂い出したT田さんら数人は、クルマに飛び乗り、深夜の国道をブッ飛ばして25列車を追い抜き、踏切で25列車に向かって”バンザイ”を叫んだと言う。これを聞いた付近の人たちは恐怖におののき、寝巻き姿の人まで飛び出し、付近は一時騒乱状態になったと言う。つくづく、バンザイの好きな会であった。

夜の北小松駅で増結を待つキハ21、江若最後の夜だった

エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part16  希望へのエリトリア鉄道の今は その7

第7日目 9月30日 その1

①  マッサワ5:30(Bus)→6:15 アーチ橋7:15(列車)→9:20
マイ・アタル
② 
マイ・アタル(列車)10:44→13:02ダマス14:00→15:43バレサ
③ バレサ16:12(列車)→17:53ギンダ
(Bus)18:00→19:30アスマラ

今日は、早朝5時のレストラン集合で、朝食後の5時30分過ぎにはバスに乗って、まだ真っ暗な夜明け前のマッサワを出発しました。

▲ ようやく明るくなった6:15、昨日夕方に最後の撮影をしたアーチ橋に到着しました。道路にはコンクリート橋が架けられて大型トラックも往来しますが、庶民の足は、ロバが牽く荷車です。
乾いた河川は住民の通行路でもあります。撮っている間にいくつもの往来がありました。


▲ エリトリア鉄道のマッサワ側のハイライトは、石で組まれた頑丈な最長のアーチ橋です。木の名前が分からないのですが、この木の下には長い針を付けた”まきびし”が落ちていました。靴で踏むと、ぐさりと靴底を貫いて足裏を刺します。足元に気をつけて歩きました。
約一時間の撮影タイムが終わると、昨夕同様にまた貨車に乗り換えました。


▲ 貨車内には、お湯を沸かす「かんてき」、大量のミネラルウオータ、コーラと冷やす氷も積込まれています。そして、現地人の若い21歳と25歳のアテンダントさんも乗車されて、車内は華やかになりました。この氷は、火照った身体を冷やすのに役立ち、アテンダントさんに何度もお願いして、アイスピックで氷を砕いていただきました。


▲ 線路際に昨日とは違っての難民部落が出現しました。手をふったり、走ったりの大勢の元気な子供たちがいます。家と言うより小屋やテントの様子からかなり長期間の難民生活がうかがえました。


▲ 8:20、それまで並走していたR1号線とは分かれて、灼熱乾燥地獄の荒野に入っていきました。一旦停車して、1カットの撮影です。標高はまだ海抜66mです。

8:28、再び乗り込み荒野を行きます。途中、破壊された駅舎がありました。マッサワから19.6キロのドガリ駅跡です。


9:20、先で客車を連結すると言われていたマイ・アタル駅に到着しました。マッサワから29.4キロ、海抜181m、荒野の真ん中の駅で、周囲に人家は全くありません。交換駅だったのでしょうね。ここまで来ますとマッサワとは違って、べったりした不快な高温の塩風はなくなりましたが、気温はどんどん上がっていきます。
ここで貨車から搭載物の移動です。側線には、無数の貨車が放置されていました。撮影地点はこちらです。


▲ 機回しが行われました。オープンデッキの客車ですので最後尾を望みましたが、残念ながら機関車の次の連結でした。

▲ 次は、機関車への石炭補充です。ズタ袋に入れた石炭を貨車から機関車まで運んで積みます。水は、タンクローリー車が待機していて、ホースで給水します。独立戦争前は給水設備もあって困らなかったのですが、破壊されて給水車が必要になりました。給水と石炭運びは停車する度に行われましたが、とにかく多くの人手のいる作業を人力作戦で、行っていました。この列車を走らせるために、一体何人の現地の人々がたずさわっているのでしょうか。

約1時間20分の停車の後、ようやくアスマラ方向に向けて出発しました。
 Part17  へ続く

江若あれこれ話 (2)

江若鉄道、思い返せば、鉄道趣味活動の原点でもあったと思います。
廃止されたのは昭和44年11月1日、私は現役の2年生でした。眼にするもの、すべてを吸収したい世代、しかも大学は紛争で6月からずっと封鎖中、これ幸いにと毎日のように江若へ通ったものでした。中でも、営業最終の10月31日から、さよなら運転の行われた11月1日にかけて、沿線の同志社北小松学舎で、DRFCメンバーとともに合宿を行い、メンバーとともに最後を見届けたことが、ひときわ心に残ります。何回かに分けて、江若の最後の2日間を写真とともに振り返ってみました。

営業最終日10月31日の朝一番列車は21+51+52+8の4両編成。最終日を待たずに、譲渡車輌は転属してしまい、廃車予定の車輌だけでのやり繰りだった

話は江若営業最終の前日、10月30日の晩から始まる。
家で明日からことを何気に思案していた時だった。ふと思いついたのが「江若にDRFCのヘッドマークを着けてみたい」だった。と言っても、時間も金もないから、有り物で作るしかない。
ベースは写真の木製パネルを流用、これに画用紙を貼り、マジックインクでレタリング、周囲をクリスマスツリーのモールで飾ると、何とか見られるヘッドマークが出来上がった。締めて費用はゼロ、もちろん江若の許可も何も無いが、ぶっつけ本番、何とかなるだろう。徹夜の作業になってしまい、出来上がったときは夜が明けきっていた。
叡山駅で交換した52列車は、キハ11+ハフ、この列車はただ一本の和邇始発の列車

霧の堅田駅で。時計を気にする駅長がタブレットを持って、交換列車に備える

近江今津に着くと、大勢の高校生が下車し、集札口を埋め尽くす
さて、10月31日、京津線の一番電車に乗って、浜大津を目指した。
10月27日から、昼間の列車はすべて運休して代行バスになっていた。列車は朝夕にしか運転されていないから、最後の日に、朝の列車で近江今津まで往復したい。数回は近江今津まで行ったことはあるが、クルマに同乗して行ったもので、北小松以北、終点まではまだ乗車した経験がない。何としても朝の列車で近江今津まで往復し、最初で最後の終点往復を果たしたかった。
浜大津から6時15発の第一列車に乗った。車輌にはすでにモールで飾りつけがされていた。車窓から見る光景は、淡い霧に包まれていたが、陽が昇るに従って、霧も晴れてきて青空が広がってきた。キラキラ輝く湖面の反射が、徹夜した眼にはまぶしい。各駅には、廃止を伝える看板が置かれ、モールで飾られたメッセージボードもある。いよいよその現実を実感する。
交換する列車は、いつもどおり通学生を中心に満員。各駅に停車するたびに、駅名標を中心にして写真を撮り続ける。列車は、7時50分近江今津に着いた。浜大津から所要1時間35分、現在なら同区間を湖西線新快速で半分以下の40分で走ってしまう。折り返しの8列車までの30分、終点の光景を撮り続ける。朝の最終がこの列車で、それを逃すと15時30分までない。

40年後の今もまだ残る近江今津の駅舎、廃止の看板が立てかけられている

各駅に掲げられた廃止のメッセージボード。当時、流行り出した”タイポス”という書体を使ったボードで、少し江若のセンスを感じた

広い近江今津駅、長いホームの先端に乗ってきた1列車の編成が見える

名残を惜しんでいた女子高校生が、駅員とともに記念写真に収まっていた

折り返しの8列車にも近江今津から乗客が乗り込んだ
ホームでは、いかにも最終日らしい光景が展開されている。すがすがしい、というか、ちょっと胸が締め付けられるようなシーンだ。その後、最終日を好んで撮りに出かけるようになったのも、この近江今津駅の体験が原点になっているようにも思う。
折り返しの8時20分発8列車で去るが、編成は行きと同じ4両編成、最初は空いていたが、各駅で乗車が続いた。途中で徹夜の疲れでいつしか寝入ってしまい、終点の浜大津で我に返ると、車内は超満員になっていた。

近江今津を発車した8列車の先頭車両、超ロングシートに客はまばら

先頭はキハ52、半室の運転室の横は、格好の展望室だった

新旭~安曇川間で江若最長の安曇川鉄橋を渡る

安曇川に到着する。上下列車の交換があり、多くの乗客が待ち受ける。構内には明日からの代行バスが待機している

北小松で5列車キハ11と交換する。この時間帯になると、カメラを提げた乗客も増えてきた

エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part15  希望へのエリトリア鉄道の今は その6

第6日目 9月29日 その2

アスマラ (Bus)→9:10マッサワ

昼食後は午前中に撮ったシーンが順光でなかったのでもう一度撮ろうと引換して、再度ホテルの屋上に上がっての撮影会です。ドイツ人鉄ちゃんのこだわりは続きました。

▲ ポートアイランドからタウルド島へと向かう列車です。右のバスが走っている後方が港の駅です。

この後は、列車に乗っていくか、そのままバスで移動するのかの選択を求められましたので、ためらうことなく列車にしましたが、ご覧のとおり客車はつないでいません。2軸の貨車に積込まれて、ガタンゴトンと、ゆっくりアスマラ方面に向かいました。ここであまりの暑さに、こだわりのドイツ人が一人脱落しました。貨車内でも熱中症でダウンするスタッフも出てきたりで、過酷な環境でした。
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