【2389】2009年青春18きっぷの旅Ⅱ 急行『つやま』

3月14日の時刻改正前は、連日ブルートレインへの別れのニュースが全国に放映されていましたが、もう1つ忘れてならない列車がありました。

我々が貧乏学生だった頃、周遊券等で度々利用した急行列車、それは、鉄道旅行には、欠かせない存在でした。2009年3月13日は、最後に残った昼間の急行『つやま』が、消える日でもありました。

天気予報では、最終日は、どうやら雨模様です。12日朝、起きると、快晴です。1日早いが、もう行くしかありません。青春18きっぷで、一路岡山を目指しました。

岡山までは、新旧いろいろな電車が行きかう。

① 長岡京8:39(快速735T)→9:06新大阪 223系
② 新大阪9:09(新快速3423M)→10:17姫路 223系12両
③ 姫路10:38(普通957M)→11:09播州赤穂 223系4両
④ 播州赤穂11:49(普通1915M)→13:03岡山 クモハ114-1098+クモハ115-1505
⑤ 岡山13:13(快速3936D)→14:21津山 キハ47-44+キハ47-1128

コケティシュな亀甲駅

既に急行『つやま』は、出発した後でしたので、次の快速『ことぶき』で、撮影地のロケハンをしながら、追いかけました。
旧津山扇形機関車庫に、キハ48-6+キハ48-1003が、折り返し待ちをしていました。

ふと、津山駅内でパンフレットを見ていると、この由緒ある機関区見学は、通常土日祝日ですが、明日金曜日に限って、13:30~15:00公開と掲載されています。

ダメもとで、電話をかけましたら、まだ余裕があるというので、迷わず明日の予約を入れました。
岡山に向かう『つやま』の撮影地は、迷った末、岡山に帰るのに10分おきにバス運行があって、便利な牧山~玉柏間に決めました。


⑥津山15:15(957D)→16:26玉柏 キハ120系2連
予定より早めに、岡山駅へ着けましたので、留置されているキハ58とキハ28を見学した後、岡山電気軌道のLRT『MOMO』に初乗車しました。


⑦岡山19:16(1332M)→20:41姫路 
⑧姫路20:42(3536M)→22:02高槻
⑨高槻22:06(普通)→22:16長岡京

翌日は、天気予報どおり、朝から雨の1日でした。最終日の乗車のために、早め出かけました。昨日は、赤穂線経由でしたが、今日は山陽線での岡山入りです。

① 長岡京7:24(快速717M)→7:45新大阪 223系
② 新大阪7:38(新快速3407M)→9:03姫路 223系12両
③ 姫路9:10(普通953M)→9:29相生 223系4両
④ 相生9:33(普通1311M)→10:38岡山 115系4両

向いのホームでカメラを構えていますと、折り返し前の運用となる快速『ことぶき』3935Dが、入線してきました。最後の出発ホームとなる9番線は、同業者が待ち構えていましたが、全国区のブルートレインと違って、わずかなファンで、TVカメラも地元OHKの1社のみの、静かな別れのスタートでした。


キハ48-1003+キハ48-6の編成です。最後の日ですので、もしかしたら、キハ58+キハ28の増結があるかもと期待したのですが、かなわぬ夢でした。

急行ですので、ここでは青春18きっぷは使用できません。車内で、記念の乗車券+急行券を購入しました。1,110円+740円=1,840円の出費です。

この日は、車掌が男女各1名の計2名が、乗務していました。定員224名に対して、約半数の109名の乗客と、最後まで寂しい限りです。沿線での撮影者も、殆ど皆無状態でした。

急行つやま号については、鉄道ジャーナル4月号に詳細が掲載されているとおり、津山市のメンツで残した急行列車です。デッキスペースがあるかないかの違いと、1駅停車駅が少ないので、数分速いだけですので、わざわざ740円を支払ってまで、乗車する客は、極めてまれだったようです。

11:13岡山定刻発車。最後の昼間急行内で、思い出に駅弁を食べました。津山は、同じく定刻の12:18に到着です。
車庫見学参加者は、約50名ほどでした。1936年に完成した車庫は、扇形としては、現存する全国13ヶ所中、梅小路に次いで2番目の17線を誇ります。

ただ、残念ながら補修が行きとどかずで、老朽化が進んでいます。後世に伝え残すべき鉄道遺産の1つです。寄付やボランティアの力を借りてでも、最盛期の状態に復元してもらいたいと思いました。

車庫には、量産化を前提として試作、伯備線で使用されていたDE50-1、寝台特急『出雲』牽引機として活躍したDD51-1187、そして四国鉄道博物館より借用中のDE10-1が展示されていました。近々には、戻されるそうです。貴重な写真が撮れました。

機関車は、車庫とは反対に、保存状態は極めて良く、今でも走りそうな様子でした。
職員の方々が、手作りで作られたと思われる展示室にもいろいろと貴重な品々が集められていました、何よりも、案内説明をされている方々が、非常に熱心で好感をもてました。

最後の走行写真は、ちょっと歩いては遠いが、野々口~牧山にしました。昨日は、同じ場所での撮影者は、4名でしたが、ここでは、2名のみ。いずれも近郊のファンでした。
⑥津山15:15(957D)→16:14野々口 キハ120系2連
⑦野々口17:42(959D)→18:09岡山 キハ120系2連

最終出発駅や到着駅でも、恒例の花束贈呈等のイベントもなかったようで、本当にひっそりと長い歴史を閉じた、昼間急行列車の最後でした

⑧岡山18:18(1930M)→19:27播州赤穂 103
⑨播州赤穂19:33(3532M)→21:32高槻 223系
⑩高槻21:36(普通)→21:46長岡京

帰りの列車ダイヤは以上ですが、当日は強風で、湖西線が止まりました。播州赤穂では、折り返しの新快速が、30分以上も延着となり、その後も遅れ続けました。


【2372】少し前の飯田線Ⅲ

(3)- ② 戦前型2扉車 42系

42系は、昭和9年7月20日、吹田~須磨間の電化に伴う電車運転開始の際に新製された電車である。その後、同年9月20日に須磨~明石間、昭和12年10月10日に吹田~京都間と電化区間が延伸され、同時に電車運転区間も延伸された。通称「合いの子」と呼ばれた広窓半流車は、次の流電の項で解説する。

1.クモハ42形

昭和8年電車運転開始に備え13両(001~013)製作された、両運転台付2扉車で、パンタの向きは、002、004、006の3両が偶数向き、その他の車両は奇数向きであった。戦時中の昭和19年に001~010の4扉化、011~013の片運化と3扉化が計画されたが、4扉化が実施されたのは002~004、007、010の5両、片運3扉化は012の1両のみで、実施は戦後の昭和28年であった。42形で残った7両は、昭和25年9月中央線のモハ51形改造のモハ41形と交換で横須賀線に転属したが、昭和31年に008、009、011、013の4両が飯田線用として豊橋区に、001、006、007の3両が宇部、小野田線用として宇部区に転属。豊橋区の4両は主に快速に使用され、快速が準急に格上げの上80系に置き換えられた後も、主として30番台の4連貫通運用に使用された。2扉、貫通幌付の堂々たるスタイルでファンを魅了していたが、昭和53年に80系300番台投入により運用を離脱し廃車となった。

 

42009   昭和43年4月4日  豊橋   (両端クモハ42で長躯辰野に向かう1227M  

 

42011  昭和43年4月4日  豊橋

 

42013  昭和41年3月13日 本長篠  (前日1227Mで辰野まで行き、その日の内に260Mで飯田まで戻り、1泊後飯田発一番電車646M 豊橋行)

 

42008他3連 昭和54年5月1日 飯島~伊那本郷  (クハユニ56を含む3連の40番台の運用)

クモハ43形

昭和8年から9年にかけて37両(001~037)製作された片運の2扉車で、奇数車は奇数向き、偶数車は偶数向きであった。戦時中、全車4扉化が計画されたが実施されたのは13両に留まった。残り24両の内、事故と戦災で5両廃車となり、19両が中央線のモハ51形改造のモハ41形と交換で横須賀線に転属した。昭和26年から性能を70系と合わせるため出力増強工事が実施され、7両が新形式モハ53形となり、残りの12両の内004、007、009、013、015、022、025の7両が飯田線に転属、昭和45年3月、004、022、025の3両が低屋根に改造され身延線に転属した。残り4両は主に伊那松島区の所属し、昭和53年、80系300番台との第1次置換えで007、009、013の3両が廃車、015のみが昭和58年の最終置換えまで生き延びた。飯田線転属後、運転台側の貫通幌が撤去されたため、スタイルは前述のクモハ42形よりは多少劣るものの狭窓、2扉の堂々たるものであった。

 

43007  昭和46年9月25日  辰野 

 

43009  昭和48年7月28日  辰野 

 

43009  昭和48年9月2日  辰野 

 

43013  昭和48年9月1日  伊那本郷  (伊那2号の通過待ちで停車中の257M) 

3.クモハ53形

前述のクモハ43形の出力増強車で、昭和26年から28年にかけて7両改造された。当初は43800番台を名乗ったが昭和28年6月の称号改正で新形式モハ53形000~006となった。旧車号は順に016、017、018、011、020、021、012である。昭和53年2月000、001の2両が伊那松島区に転属し、2両とも昭和58年の最終置換えまで活躍した。クモハ43形同様、運転台側の貫通幌が撤去されていた。

 

53000   昭和52年5月3日  辰野

 

53001   昭和45年11月23日  辰野

 

53001   昭和50年1月2日  豊橋(649M伊那大島行)

 4.クハ47100番台←クハ58形

42系列の制御車として、昭和8年から10年にかけて25両(001~025)製作された片運の2扉車で、全車両偶数(下り)向きであった。昭和10年に唯一両作られたラストの025は半流であった。戦時中全車4扉化が計画されたが実施されたのは13両に留まった。尚半流の025は4扉化された。残り12両の内3両が戦災と事故で廃車となり、残りの9両が昭和25年横須賀線用として東鉄に転属した。比較的早い時期に身延線と伊東線に転属となり昭和28年6月の改番でクハ47形に編入され100番台が付与され、全車車両の向きに合わせて100~116の偶数番号となった。但し、旧番号順ではなく、当時身延線にいた002、003、007、008、018、020、021が100~112に、伊東線にいた014、016が114、116となり、後日、114、116も身延線に転属した。その後、静鉄局の方針で、電動車を偶数向きに、制御車を奇数向きに統一することになり全車両奇数向きに方転された。昭和33年飯田線快速を4連貫通にするため、102、104、108、114、116の5両が豊橋区に転属の上、114、116を偶数向き方転、後に108も方転された。昭和46年3月に伊那松島に転属した104のみが昭和58年の最終置換えまで活躍したが、豊橋に残った4両は昭和53年、80系300番台との第1次置換えで廃車となった。104、116の2両は運転台側の貫通幌が撤去されていた。

 

4710   昭和43年4月4日  豊橋

 

47108   昭和49年8月27日  宮田

 

47104  昭和54年5月1日 伊那市  (茅野発平岡行238Mで、6両で茅野を発車して辰野、伊那松島で夫々2両を切離し、伊那松島~平岡間は2両であった。今は殆どの列車が2両であるが、旧形時代は少なかった)


【2364】1953年3月15日特急「かもめ」処女列車

56年前になってしまったが、この日から東海道・山陽本線に特急「かもめ」が運行を開始した。今では掃いても捨てきれないぐらい日本全国特急だらけで、新幹線や特急に乗らずに旅ができるもんならやってみろといわれているのと同じ。急行が激減し、準急は消滅してしまった。1953年時点の国鉄には、特急と名が付く列車は東海道本線東京―大阪間の「つばめ」「はと」のみ。この「かもめ」が実に敗戦後3番目の特急だったのである。

下りは京都始発8時30分、広島14時15分着、20分発。門司17時54分着、58分発、博多終着19時10分。停車駅は他に大阪、神戸、姫路、岡山、小郡、下関のみ。上りは博多10時00分、広島14時48分着、53分発。京都終着20時40分である。

機関車は処女列車用に綺麗に磨き上げられ、煙室扉ハンドルが梅小路にちなみ梅模様の真鍮磨きだしと御召し並みのC59100だった。スハニ、スハ3両、マシ、スロ3両、最後尾スハフで一等車がないところが「つばめ」「はと」と差がついた。運転局では将来展望車を新製したかった由だが、これは遂に叶わなかった。

このとき小生は高校1年生で、特急とは撮るものであっても、自分が乗るなどとは考えもしなかった。学生時代に国鉄特急に乗車した経験は、北海道均一周遊券が急行料金抱き合わせに改悪された代償に、急行との差額を払えば特急にも乗れるようになり、一番安い名古屋-京都間を、差額特急券という珍券ほしさに一度だけある。ただし電車特急「こだま」だったが。

写真は何れも1953年3月15日の京都発処女列車。今なら大騒ぎの押し合いへしあい、怒号が飛び交うところだろうが、この時は「何人か」は撮影に来ていた程度。それも大方は顔見知りだった。カメラさえ持っていれば線路下りても目くじらは立てられなかった。


【2361】恥ずかしい質問

最近、同級生とちょっとした論争になりました。負けられない論争です。

論点は昭和三十年代前半の奈良電のことです。私が「子供の頃奈良電に乗ると車掌が扉を手で締めて回っていた。しかも一両と言うことも多かった」といったところ、「アホ抜かせ!それは京阪の電車や、奈良電は自動で閉まったワイ!」と威張っています。彼は久津川の出身ですがその頃は本当に京阪だけが手動開閉だったのでしょうか?乙訓の老人様、覚えておられたらお教え下さい。


【2335】2009年青春18きっぷの旅Ⅰ Part4 高山本線

いつものように朝風呂にゆっくりと浸かって、頭を覚ましました。朝食に行く間のひと時、夜明けを待っていると、眼下に富山駅が見えました。どちら様か、津山駅でホテルの窓から見られたのと同じ光景です。窓は、少ししか開きませんので、カメラを落とさぬようにシャッターを切りました。

JR&地鉄の富山駅

朝食後、富山地鉄市内線を見ながら駅に向かいました。

① 富山8:08(848D)→8:58猪谷
今日のスタートは、キハ120系です。ホームで待っていると、4両編成もの120系が入線してきました。さすが、両運転台の4両ともなると、異様に見えます。2両を切り離して、848Dは、キハ120-346+キハ120-345の2両編成で、猪谷へと走り出しました。

発車してからは、睡魔が襲ってきて、何も覚えていません。猪谷で乗務員に『お客様、このままですと富山に戻りますよ。』と、丁寧に起こされました。

② 猪谷9:11(1826D)→10:12高山10:35(4714C)→13:01 美濃太田  
高山で23分停車、列車番号は変わりますが、同じキハ48-5810+キハ48-6812の2両編成です。

直ぐに向かいのホーム前方に、美濃太田からのキハ48系が到着してきました。乗換客はかなり多かったのですが、座席数が違います。1人1ボックス専用でした。

やがて列車は、定刻に高山に到着しました。向かいのホームには、キハ48系2両編成が2本と、留置線に1本が止まっていました。ワイドビューひだ号も留置線で、折り返し待ちです。

停車時間が23分もありますので、下りて駅前を散策しました。さすが、観光地高山です。駅前は、観光客が多数います。白川郷へ向かうバス乗り場には、長蛇の列が続いています。

昼飯用に美味しそうな米ジュースを仕入れて、席に戻ると、ガラガラだった車内は、立ち席も出る満員列車です。椅子に置いておいた荷物を網棚に上げて、席を譲らざるを得ませんでした。

向いに座った若者に、どこまで行くのか聞いてみると、次の駅で降りると言います。詳しく聞いてみると、高山駅からの車窓がとても綺麗なので、この区間だけが、バスツアーに入っているとの事でした。

例年なら、絶景の雪景色が見られるらしいのですが、暖冬で残雪すらありません。ちなみにこのツアー客は、白川郷に行ってきたが、ここでも期待した雪景色は見られず、雨ばかりでがっかりしたと、嘆いておられました。

美濃太田までの間に、ひだ3号・5号・7号と、3本も交換、本当に高山本線は、特急だけしか走っていないのかと、時刻表を見ると、そのとおり、何と下呂→高山間では、昼間は5時間も普通列車の運行はありません。

③ 美濃太田13:28(3627C )→13:42鵜沼
多治見始発のキハ11系2連が入ってきました。後は、鵜沼で名鉄に乗り換えて、合流地のホテルにたどり着けます。クローバー会の総会が終わっても、自宅までの普通列車の旅が続きますが、1人旅は、ひとまず終了です。

翌日は、乙訓の老人御一行のおともで、明治村見学の後、名鉄パノラマカーも撮影に参り、JR鵜沼から高山線、東海道線と4列車を乗り継いで、無事帰宅しました。


【2328】おじん2人ヨーロッパ軽便 その最終版

SNOWDON MOUTAIN RAILWAY

YVでも公開された「ウエールズの山」という映画(1955年)をご記憶だろうか。原題は「The Englisyman who went up a Hill but came down a Mountain」と長く、けして大作ではないが、心温まるものだった。1917年ウエールズのとある小村に、英国政府測量官2名がやってくる。村人自慢の「山」を測量したら、規程(1,000フィート=306m)に16フィート足らず、「山」から「丘」に格下げになると知った村は大騒ぎになる、というお話。 

老齢の司祭が檄を飛ばし、先ずは測量官の自動車に細工=故障させて足止め。その間に村人たちは文字通り老若男女こぞって仕事をおっぽり出し、麓から土を運び上げて1,000フィートを回復しようというのである。しかし無情の大雨が降り折角の土が流出してしまう。鉄道員も協力し、鉄道が雨で不通として測量官の足止めを続け、さらに土を運び上げる。サッカー場の芝まで剥がし土止めに。82歳の老司祭が倒れ、山上に葬られる。

再測量の結果1,000フィートを満足し、若い測量官は村娘とむすばれ、万事めでたしめでたし。六甲山最高峰が931.3m、西宮市の甲山ですら309.4mである。いかに英国に山が乏しいかだが、その英国で登山なるスポーツが発祥したのも不思議である。

この部分のみはほぼレベルに近い 左手の建物は最初の離合地である

ところでウエールズとイングランドで最も高い「山」がこのスノードン山の1085mで、しかも登山鉄道がある。全長7.53km、平均勾配12.5%、最急が18%、2連式アブトで軌間800mm(2フィート7 1/2インチ)とメートル法なのは、スイス方式だから。開業は1896年4月6日、平均速度は5マイル/時(8km)。


DLは流石に強力だが、ブリエンツ・ロートホルン同様、全然面白くない

勿論蒸気機関車だったが、現在ではスイス・ロコ=ウインターツール1895、96、1922年製が4両現役。1986、92年製DLが4両。さらに1995年電気式のディーゼルカーが3両加わったが、最新ホームページには Out of Service とあるのは何故だろうか。不人気なのか、それとも欠陥があったのか。この時は2両重連(総括制御ができる)で運行していた。パンフの表紙に使うぐらいだから、少なくともこの時点では自慢の車両だったろうに。

http://www.snowdonrailway.co.uk/


総括運転の電気式DC 麓側の台車部分床上に機関と発電機が載っている

我々おじん2人はマン島とウエールズの旅の最後にこのスノードンを訪ねた。乗車はせず撮影だけだったが、線路は羊の放牧地をグネグネ延々と曲がって突っ切る。厳重に囲い込まれていながら、それでいて歩行者のための Foot Path が通じており、所々に柵を越すハシゴがある。画面に点々と白いものが見えるのは、ネガのホコリではなく、放牧の羊である。

フットパスを徒歩下山するグループ


借り物の300mm望遠レンズを使い、3個列車を写し込む。画面をクリックし、拡大してご覧あれ

なお長らくご愛顧を頂き?この延々と続いた「おじん」シリーズは、今回を以って終わりとさせていただく。ヤレヤレやっと終わったかと喜ぶ向きもあるかもしれないが、油断は禁物。いつ何時別の「どこまで続くぬかるみぞ」シリーズが始まるか分からない。世の中一寸先は闇なのですぞ。

羊放牧のための厳重な柵を乗り越えるフットパスのはしご 上にいるのは相棒=先達=写真の名手=全行程ボランティア運転手=全プラン立案推進者=ツアーコンダクター


【2302】貧乏学生二人『はやぶさ』に乗る

話の前に、訂正があります。前回 『ブルートレインのこと』 の写真3枚目(04917)は、蒸機がC6217【下】となっていますが、正しくはC6225【下】です。

さて、1963年3月、K.Y.さんと九州に出かけました。行動は常に同一でなく、時々場所と時間を決め一緒になり、主に国鉄の蒸機を撮影しました。一日か二日後には、それぞれのテーマに向けて 別れての行動で、K.Y.さんは非電化の私鉄を、私は私鉄電車でした。

鹿児島で落ち合い、1962年3月24日(日曜日)、西鹿児島 発6レ『はやぶさ』に、二人で熊本まで乗車しました。指定券は旅行出発前に、神戸大丸内交通公社で購入。大枚300円も(旅行中、私の一日の食費に相当する。駅弁は150円で、買えば一日二食になる)払ったその特急券です。 出発は午前11時30分、熊本到着が15時02分、わずか3時間30分間の乗車。車両は7号車、博多までの7両編成の先頭、ナハフ2153(1960年日立製)でした。今となって記憶はほとんどありませんが、K.Y.さんと二人有頂天で乗車、あっという間に熊本に到着だったと想像されます。
下車後、隣のホームから蒸機C6114【鹿】と、わが客車の出発を見送りました。

6レ『はやぶさ』、蒸機C6114【鹿】、熊本駅、’63.3.24.  06811

同上、ナハフ2153  06812

そして二人は大畑に向い、その夜は大畑のステーションホテル(注・駅のベンチで寝袋に入り寝ることを指す。この回数の一番多いのはT.Y.先輩で、次点が筆者の35回です)に宿泊したのでした。

その後、九州各地で何度かブルートレインを撮影したので紹介します。

 5レ『はやぶさ』、機C6131【鹿】、上田野浦-肥後二見間、‘63.3.26.  07028

潮干狩りか、海岸には人が見えます。

5レ『はやぶさ』、機ED7220【門】、吉塚-箱崎間、’63.4.2.  07711

西鉄電車撮影の合間に撮ったもの。

6レ『はやぶさ』、電機ED727【門】、博多駅、’63.4.2 07813

6レ『はやぶさ』、電機ED727【門】、博多駅、’63.4.2  07813

同上、ED727【門】、蒸機C6132【鹿】、博多駅、’63.4.2 07814

同上、ED727【門】、蒸機C6132【鹿】、博多駅、’63.4.2   07814

博多からの増結車を従え電機が待機、役目を終えた蒸機と並ぶ。

C6132【鹿】と、2レ『さくら』の蒸機C6026【鳥】、博多駅、’63.4.2 07815

C6132【鹿】と、2レ『さくら』の蒸機C6026【鳥】、博多駅、’63.4.2    07815

ヘッドマークを収納して退避線で休む蒸機、そこへやはり役目を終えた『さくら』の蒸機が並ぶ、夕刻18時30分頃、博多での光景でした。

半世紀以上走り続けたブルートレイン。日本での役目を終え、既に海外で活躍中のもの、あるいはこれから活躍予定のものもあるとか。


【2267】2009年青春18きっぷの旅Ⅰ Part3 富山ライトレール

富山まで移動のため、高岡12:26始発の437Mに乗車すべく駅に行きましたが、何やら改札口周りがざわついています。朝からの悪天候です。糸魚川付近で、強風のために列車が止まっているとの放送がありました。437Mは、本日運転休止です。仕方ありません。

12:50発の439Mは、運行するというので、ホームで北陸名産のかまぼこと揚げ物を”アテ”にビールを飲みながら、待つことにしました。

旧国鉄色の475系3連に乗車、富山は定刻到着でした。ホテルへ荷物を預けてから、富山ライトレール富山駅北を目指しました。

富山ライトレールは、2004年4月29日に、旧JR富山港線をLRT化して開業しました。鉄道友の会の2007年ブルーリボン賞、またJIDPO(財団法人 日本産業デザイン振興会)の2006年グッドデザイン賞も受賞しました。

第3セクターで運営する鉄道会社は、全国に約100社ありますが、黒字経営ができているのは、智頭鉄道、北越急行と数社です。殆どは、JR赤字ローカル線を引き継いだが、慢性的な利用客激減を止められず、やがて精算廃線の道をたどっているのが現状ですが、富山ライトレールだけは違いました。

初めて日本で、LRTが成功した事例でもあります。これからの都市再開発の起爆剤として、期待されている富山ライトレールを是非とも、乗って見て実感したいと、以前より思っていました。

かって、日本全国の都市には、都市内交通機関として、路面電車が市民の足として、欠かせない存在でした。しかし、モータりーゼーションの影響により、車が道路上に溢れる車で、スピードダウンを招き、やがて利用者減となりました。道路上には邪魔な物として、地下へと追われるか、廃止廃線が続きました。

確かに大都市の路面電車は、高速大量輸送機関とは、無理と言わざるを得ませんが、地下鉄には、膨大な建設費が必要です。開業しても高い運賃となり、利用客が予想に達せず、多くは運営面でも赤字となり、以前よりも経営、財政を圧迫しているのが、現状です。

関西でも、神戸地下鉄海岸線や大阪地下鉄今里線で代表されるように、無理な利用客予想、かかる維持経費のために大きな失敗例となっています。むしろ、LRTが最も相応しかったのでしょう。財政悪化を引っ張るこれらの路線は、早く廃線にして、都市洪水対策のトンネルとして再活用した方が、市民のためにも良いと思うのは、私だけではないと思います。

インテックス本社前~富山駅北

富山駅北~インテックス本社前

インテックス本社前

奥田中学校前~インテックス本社前

奥田中学校目

城川原入場

下川原車庫

下川原

東岩瀬 旧JR駅舎が保存されている

大広田

岩瀬浜~競輪場前

岩瀬浜~競輪場前

岩瀬浜~競輪場前 天気が良ければ、絶好の撮影地

 富山ライトレールは、
① 北陸新幹線建設に伴う富山駅高架工事に、年々利用客減少が続く富山港線を含めるには、多額の費用が必要でした。
② 駅工事の負担金を求められる富山市は、富山港線高架化、それまで一般的だった鉄道廃止によるバス代替運行、そして路面電車化の3者一宅を検討しました。
③ 富山市が目指すのは、『公共交通を軸としたコンパクトなまちづくり』でした。
④ 富山県は、全国第2位の自動車保有台数、全国第1位の道路整備率の現状となっているがために、都市中心部の空洞化を招いている。

以上の状況のもとに富山市が選択した結論は、我々鉄道ファンが待ち望んだ、LRT導入による路面電車の建設でした。

奥田中学校前駅から終点の岩瀬浜駅までの区間は、JR富山港線の跡地を利用して、最高速度60km/hで走行する専用軌道、奥田中学校前駅から富山駅北駅までは、新設の道路併用軌道(レールはドイツ製)とした。

奥田中学校前~インテックス本社前

車両は、第38回ローレル賞、第1回国際交通学会賞に輝く熊本市交通局9700形、岡山電気軌道9200形”MOMO”で、実績あるボンベルディア社製LRVを基本とした、新潟トランシス社製造の低床製LRTを採用した。

利用者を増やすべくサービスの数々を実施した。
① 前略の低床式車両の導入により、バリアーフリー化を実現し、老人や車椅子利用客にも問題なく乗車できるようにした。
② JR時代は、1時間に1本だったダイヤをラッシュ時は、10分間隔、日中時も15分間隔を確保し、待ち時間を短縮した。
③ 終電を21時から23時台まで延長した。
④ 駅を4駅増やし、身近にした。
⑤ 季節に合わせてのイベントを実施した。
⑥ 最も強調したいのが、『トータルデザイン』。社員、駅、ICカード、車両に至るまでのすべてを一貫した、コンセプトで統一した。一言で云えば、『かっこ良い、ナウイ』印象を与え、若者も取り込んだ。

待っても中々来ない。乗り込むにも段差があり、年寄りには一苦労。走り出してもノロノロと遅い。よく揺れて、乗り心地が悪い等々の路面電車のダサいイメージを、払拭してくれました。

結果、JR時代は、平日約2,000人、休日1,000人にまで落ち込んだ利用客は、2006年10月には、平日2倍以上、休日では5倍以上に増客した。2008年11月11日には、500万人を突破し、目標値を1年半早く達成しました。

富山ライトレールの大成功に意気上がる富山市では、富山地鉄市内線の西町交差点から丸の内までに路線を延伸し、環状線化を図る。また、上滝線についてもLRT化計画を打ち出しています。

地球温暖化対策における温室効果ガス排出量を減らすためにも、都市交通のLRT採用は、大いに寄与すると実証されています。また、都市財政の破たんが世を騒がす現状を見ても、少ない投資で大きな効果を上げていける事は、欧州はじめ世界各地での常識です。

京都でも、出町柳から北野白梅町を結ぶLRTを敷設して、出来れば、嵐電、叡電と相互乗り入れしての路線が出来れば、観光にも便利になるでしょうね。

こんな事を考えながら、夜まで、乗車と写真撮影に励みました。乗車していて感じた事ですが、殆どの運転手さんが気楽に声をかけてくれます。運転中は、こちらから差し控えるほどでした。

さあ、明日は皆様方と合流の日です。富山から高山線で向います。


【2241】2009年青春18きっぷの旅Ⅰ Part2 万葉線

前夜、楽しみにしていたWBC初戦のTV中継は、高岡では放映がなく、見る事ができませんでした。ローカルに行くと、これがあるので、残念なことです。

充分な睡眠を取って、夜明けの窓から見ると、既に小雨模様です。日頃の行いを悔いましたが、仕方ありません。氷見線撮影を諦めて、万葉線と富山ライトレールの乗車と撮影に切り替えました。

ホテルから高岡駅までは、小雨に加えて強風です。折りたたみ傘は、あっけなくハスの花となりました。嵐は、終日続き、撮影するにもカメラが、濡れないようにするのが、やっとでした。

万葉線は、富山地鉄から加越能鉄道へ譲渡運営されましたが、利用客激減による経営悪化で、廃止される事となっていました。しかし、市民からの路線存続の声に答えるように、高岡市が中心となって、2002年より路面電車としては、全国初の第3セクターとして、復活を目指し引継がれました。

路線は、高岡駅前~六渡寺(軌道線)7.9kmと、六渡寺~越ノ潟(鉄道線)4.9kmの計、12.8kmで、在籍車両は、デ7070形6両(冷房車は、7071と7073の2両)、MLRV1000形4編成と、冬季除雪車として、デ5000形1両が、在籍しています。


2009年3月には、1000形2編成が新製されます。通常運行に必要な6編成が揃いますので、土日祝日は、全てアイトラムのみとなります。7070形も2両が廃車されますので、撮影予定の方は、早めに行かれることをお勧めします。

廃車は、ねこ電車ラッピングの7072が決定していますが、ねこ電車は、他の7070形で復活するそうです。


それでは、初乗車の始まりです。JR高岡駅前には、真っ赤なラッピング広告をしたデ7075が、到着しましたので、早速に乗車しました。駅前を発車すると、車庫のある米島口までは、道路併用軌道です。単線、複線、そして専用軌道と、変化に富んでいますので、乗っていても楽しめる路線です。


それもそのはず、この路線は、
① 1948年 地鉄高岡~伏木港が開業。
② 1951年 国鉄新湊線の旅客営業廃止により、途中の米島口~六渡寺が開業。
③ 既に1933年に全通していた電鉄富山北口~六地蔵との直通運転を開始して、一時は、地鉄高岡から富山中心街の西町までの間に、電車が走った歴史を持ちます。

しかし、1966年に伏木富山港建設により、路線真ん中が掘削されて海となり、越ノ潟~堀岡が廃止を余儀なくされました。分断された区間には、現在も富山県営渡船(道路として位置付けられていますので、無料です。ただし、バイクまで乗車可能)が運行されています。


約40分で、終点の越ノ潟駅に到着しました。直ぐに、連絡渡船が出港するというので、乗船してみましたが、お客は、私を入れて3名でした。あっという間に対岸に着きましたが、富山までの路線は、1980年に廃止されていてありません。折り返しの渡船に再乗船して戻りました。乗客は、2名でした。


現在、この区間は、『架橋部約600mの日本海側最大級の斜張橋』が建設中ですが、2008年完成予定がかなり遅れています。完成すれば、世界第4位の斜張橋となります。(第1位は、本四連絡橋の多々羅大橋)連絡渡船も、廃止になるかも・・・・。

全線を乗車して思うことは、運転速度の遅さです。アイトラムの最高性能は、70km/hです。せめて、専用軌道内は60km/h、全線30分を目指して欲しいと思いました。

悪天候は、続いておりましたが、ここまで来て乗車だけでは、我慢できません。全線乗車でロケハンもできましたので、気に行った近い場所からの撮影に臨みました。

天気が良ければ、レンタサイクルを利用しての機動力が、発揮できるのですが、今日は、日頃の行いの結果と割り切って、午後からは、富山ライトレールへと向かいました。


【2216】2009年青春18きっぷの旅Ⅰ Part1北陸へ


今年から晴れて自由人となっての私用旅行は、犬山で行われるDRFCクローバー会イベントが、初めてです。
リタイヤを余儀なくされた持病も、毎日のリハビリ治療が効いたのか、悪化が止まり、徐々にではありますが、痛みが和らぎだしました。それではと、以前より行きたいと思っていた電化された小浜線富山ライトレール視察を、イベント前の候補にあげて計画を練りました。

氷見線城端線も乗ってみたい。万葉線も乗車したいと、5:10長岡京発からのダイヤを組みました。しかし、早朝起きは得意だったのに、当日は、なぜか寝過してしまいました。しかし、大丈夫です。もしもの第2案も作成しておきました。

京都駅

① 長岡京7:25(普通321系)→7:37京都 
② 京都7:48(229M・園部~福知山間は1125M)→9:45綾部
心配していた天気は上々、久しぶりの旅の始まりです。クハ222-5512+クモハ223-5512の福知山行き2両と、園部までの221系4両の6両編成です。最近の山陰線の電車は、1部の113系を残して、殆どが221系に置き換えられ、非常に快適になりました。

山陰線 八木付近を走行する221系 複線使用直前

山陰線 八木付近を走行する223系と221系 複線使用直前

 

綾部駅入線の331M

③ 綾部9:57(331M)→10:34東舞鶴
クモハ113-5304+クモハ112-5304の2両編成に乗車しました。東舞鶴駅手前では、場内赤信号で、一旦停車。場内信号機下部に設置された誘導信号機の点灯指示に基づき、低速(15km/h以下)で走行して、高架島式ホームの2番線に進入しました。2番線には、既に小浜線の125系が発車待ちをしています。約10m手前で停車して、同じホームを前に歩いての乗り換えでした。

東舞鶴駅

④ 東舞鶴11:03(931M)→13:03敦賀
同一線路上に、2編成が停車しての乗り換えは、初めての経験です。欧州へよく行かれる先輩の話ですと、このような乗り換えは、欧州では珍しい事ではなく、ABCと3列車が入線・出発する駅もあるそうです。
どこの国でも鉄道全盛期は、20両もの客車長編成が当たり前でしたが、昨今は、1~4程度の短編成となってしまったので、このような使われ方になったそうです。

戦前までの東舞鶴駅は、皇族は訪れるために貴賓室まである由緒ある駅でした。また敗戦後は、大陸からの引揚者が郷里へと帰還する、悲しい歴史を持った駅でしたが、1996年の高架化で、今は、当時を見る影もなく周囲は一変しました。

小浜駅にて、敦賀からの930Mと交換

駅前をぶらついた約30分後に乗車しました。車両編成は、小浜線電化完成の2002年に新製されたが、座席数不評から、配置が2+1列から2+2列へと改造されたクモハ125-1と、北陸線敦賀直流電化時の第3次型クモハ125-15の2連です。

中間扉付近には、折りたたみ椅子が準備されている。

どちらも中間ドアが、増設可能になっている点は同じで、これが見てみたかったところです。当然、この部分での座席と、窓配置は、合わなくなっていますが、仕方のないところです。しかし、ローカル線の利用客は、今後減る事はあっても、増える見込みのない事は、明らかです。3枚扉にする日は、果たして来るのだろうかと思います。

小浜線乗車は、かってC58が走行していた当時から、約40年ぶり近くになりますが、沿線風景は、さほど変わらずです。日本海近くの路線ですが、海沿いを走行するのは、ごく僅かです。皆様方が撮影に励まれた、十村の大カーブは、変わらず健在でした。列車本数が、少ない路線ですが、小浜と美浜で交換がありました。

福井駅

⑤ 敦賀13:33(249M)→14:24福井
敦賀到着直前の敦賀運転派出には、419系が2編成留置されていましたので、乗車するのを楽しみにしていましたが、249Mは、残念ながら2006年敦賀直流電化時の521系、クハ520-3+クモハ521-3の2両編成でした。

普段に乗車する223系と、車内装飾は、変わりありません。シート地ぐらいは、土地感を出して欲しいと思うのは、私だけでしょうか。敦賀駅名物駅弁の鯛の舞を食しながら、残雪すらない北陸路を北上しました。

越美北線 越前大野行きのキハ120系 福井駅2番ホーム

すれ違った491系 まだ健在なようです。

氷見線 415系

⑥ 福井14:46(363M)→16:10金沢
2005年4月より高架となった福井駅からは、475系3両編成の363Mに乗り換える事ができ、また残雪の立山連峰も車窓となり、ようやく金沢までの北陸路を、乗車する雰囲気が、味あえました。

⑦ 金沢16:32(447M)→17:10高岡
金沢から高岡までは、同じく475系6両編成でした。金沢を過ぎると、5年後(平成26年度)を目指して、沿線を並行するように北陸新幹線の建設工事が、進んでいるのが見えます。完成すると、東京までの到達時間は、約80分短縮されて、約2時間20分になります。

富山駅では、ラッキーにも、471系のトップナンバー、クモハ471-1+モハ471-1を見る事ができました。

クモハ471-1

今年9月に、開町400年を迎える高岡市の玄関口、JR高岡駅は、2009年12月完成を目指しての、橋上化工事中でした。完成後は、氷見線ホームが移設され、2013年には、万葉線駅も駅にもっと近くに延伸され、生まれ変わります。詳細は、高岡駅リニューアル概要をご覧下さい。
http://www.city.takaoka.toyama.jp/toshi/1009/img12/pamphlet1.pdf

ただ、2014年の北陸新幹線開業時は、現在の駅は使用せずに、城端線二塚駅とのほぼ中間地点に新高岡駅が、新設されます。詳細は、新高岡駅計画概要をご覧下さい。
http://www.city.takaoka.toyama.jp/toshi/1009/img12/pamphlet2.pdf

人口18万人、日本海側の典型的なローカル都市に、新幹線と在来線の2つの駅が、存在する事となります。初めてのケースです。高岡市にとって、発展活性化につながるのかどうか、街の様子が大きく変わる事は、間違いないでしょう。

今年が最後の氷見線7番ホーム

⑧ 高岡17:25(545D)→17:52氷見
⑨ 氷見17:59(544D)→18:28高岡

氷見線は、他のホームとは外れて、東側に位置します。今年限りの使用となったホームには、折り返しのキハ47-66+キハ47-1092が入線してきました。乗降客は、学生が殆どで、一般は老人ばかりでした。

氷見駅

氷見駅

能町駅で、DE10牽引の高岡貨物駅からの貨物列車と交換しました。雨晴トンネルを抜けると、氷見線撮影地で有名な女岩が見えます。

地元の新聞には、普段は海の中に立ち、陸とは離れているが、冬季になると、流砂で、陸続きになる事が多く、柵を設置しても流され、立ち札を立てても、無視した観光客が、危険な横断行為を繰り返すので、止めるようにと記事が出ていました。

氷見は、日本一の寒ブリで有名な街です。是非とも食したかったのですが、久しぶりの鈍行列車の旅で疲れました。今日は、WBCの初戦もあります。ホテルでゆっくりと温泉につかって、病み上がりの老体を休める事にしました。


【2208】ブルートレインのこと

お久し振りです、掲示板読者の皆さん。近頃は掲示板の話題レベルが高く、アマチュアにはなかなか参入のチャンスがありませんでしたが、昨今のブルートレインの話題には割り込めそうと、冬眠から目覚め投稿しました。 学生時代、昼間の関西でブルートレインにはめったにお目にかかれず、ようやく西方の山陽本線でカメラを向けました。 K.Y.さんと二人で、瀬野機関区訪
問と戸田-富海間の撮影行です。夜行で向かい、朝の広島駅構内で特急機関車軍の撮影。

機C6243【広二】と機C6217【下】 04824

機C6243【広二】と機C6217【下】   04824

そしてあさかぜの出発。

3レ『あさかぜ』、機C6217【下】 04825

3レ『あさかぜ』、機C6217【下】   04825

この日の前夜1962年5月3日、あの三河島事故が発生しました。夜行の車内、ラジオで事故を知り、また、翌朝の新聞で三
河島に住む同姓同名の親戚の名前を見つけましたが、他人と判り旅行を続けたものでした。その日は、広島電鉄を撮影。翌
日に瀬野機関区を訪ねました。機関士の作業服に着かえ、重連補機の前方の機関車に乗車。瀬野-八本松間を往復しました。 翌日は、戸田-富海間で撮影です。天気はよく、瀬戸内の波は静かで絶好の撮影日和でした。午前中、相次いでブルー
トレインが通過。C62の勇壮な姿に接して大満足でした。撮影はいずれも、1962年5月5日。

3レ『あさかぜ』、機C6217【下】 04917

3レ『あさかぜ』、機C6217【下】   04917

5レ『はやぶさ』、機C6234【下】 04920

5レ『はやぶさ』、機C6234【下】   04920

K.Y.さんは、鉄道施設に昇り撮影を行っていました。その時の写真を、今から4~5年前、例の写真集募集の折りに見つけま
した。普通では撮影出来ぬ見事なものでしたが、昨今なら間違いなく問題になっている事でしょう。 K.Y.さんですか? 某電
鉄に勤め、系列のホテルのトップに上り詰めたあの御仁。なるほど当時から登る事に秀でていました。 次回は、その一年後、やはりK.Y.さんと二人で、鹿児島から熊本まで特急券を買って、『はやぶさ』に乗車した話と、九州各地のブルートレインの写
真を紹介します。 『貧乏学生二人、はやぶさに乗る』。乞うご期待!