2009年青春18きっぷの旅Ⅱ 急行『つやま』

我々が貧乏学生だった頃、周遊券等で度々利用した急行列車、それは、鉄道旅行には、欠かせない存在でした。2009年3月13日は、最後に残った昼間の急行『つやま』が、消える日でもありました。

天気予報では、最終日は、どうやら雨模様です。12日朝、起きると、快晴です。1日早いが、もう行くしかありません。青春18きっぷで、一路岡山を目指しました。

岡山までは、新旧いろいろな電車が行きかう。

① 長岡京8:39(快速735T)→9:06新大阪 223系
② 新大阪9:09(新快速3423M)→10:17姫路 223系12両
③ 姫路10:38(普通957M)→11:09播州赤穂 223系4両
④ 播州赤穂11:49(普通1915M)→13:03岡山 クモハ114-1098+クモハ115-1505
⑤ 岡山13:13(快速3936D)→14:21津山 キハ47-44+キハ47-1128

続きを読む

少し前の飯田線Ⅲ

(3)- ② 戦前型2扉車 42系

42系は、昭和9年7月20日、吹田~須磨間の電化に伴う電車運転開始の際に新製された電車である。その後、同年9月20日に須磨~明石間、昭和12年10月10日に吹田~京都間と電化区間が延伸され、同時に電車運転区間も延伸された。通称「合いの子」と呼ばれた広窓半流車は、次の流電の項で解説する。

1.クモハ42形

昭和8年電車運転開始に備え13両(001~013)製作された、両運転台付2扉車で、パンタの向きは、002、004、006の3両が偶数向き、その他の車両は奇数向きであった。戦時中の昭和19年に001~010の4扉化、011~013の片運化と3扉化が計画されたが、4扉化が実施されたのは002~004、007、010の5両、片運3扉化は012の1両のみで、実施は戦後の昭和28年であった。42形で残った7両は、昭和25年9月中央線のモハ51形改造のモハ41形と交換で横須賀線に転属したが、昭和31年に008、009、011、013の4両が飯田線用として豊橋区に、001、006、007の3両が宇部、小野田線用として宇部区に転属。豊橋区の4両は主に快速に使用され、快速が準急に格上げの上80系に置き換えられた後も、主として30番台の4連貫通運用に使用された。2扉、貫通幌付の堂々たるスタイルでファンを魅了していたが、昭和53年に80系300番台投入により運用を離脱し廃車となった。

 

42009   昭和43年4月4日  豊橋   (両端クモハ42で長躯辰野に向かう1227M  

 

42011  昭和43年4月4日  豊橋

 

42013  昭和41年3月13日 本長篠  (前日1227Mで辰野まで行き、その日の内に260Mで飯田まで戻り、1泊後飯田発一番電車646M 豊橋行)

 

42008他3連 昭和54年5月1日 飯島~伊那本郷  (クハユニ56を含む3連の40番台の運用)

クモハ43形

昭和8年から9年にかけて37両(001~037)製作された片運の2扉車で、奇数車は奇数向き、偶数車は偶数向きであった。戦時中、全車4扉化が計画されたが実施されたのは13両に留まった。残り24両の内、事故と戦災で5両廃車となり、19両が中央線のモハ51形改造のモハ41形と交換で横須賀線に転属した。昭和26年から性能を70系と合わせるため出力増強工事が実施され、7両が新形式モハ53形となり、残りの12両の内004、007、009、013、015、022、025の7両が飯田線に転属、昭和45年3月、004、022、025の3両が低屋根に改造され身延線に転属した。残り4両は主に伊那松島区の所属し、昭和53年、80系300番台との第1次置換えで007、009、013の3両が廃車、015のみが昭和58年の最終置換えまで生き延びた。飯田線転属後、運転台側の貫通幌が撤去されたため、スタイルは前述のクモハ42形よりは多少劣るものの狭窓、2扉の堂々たるものであった。

 

43007  昭和46年9月25日  辰野 

 

43009  昭和48年7月28日  辰野 

 

43009  昭和48年9月2日  辰野 

 

43013  昭和48年9月1日  伊那本郷  (伊那2号の通過待ちで停車中の257M) 

3.クモハ53形

前述のクモハ43形の出力増強車で、昭和26年から28年にかけて7両改造された。当初は43800番台を名乗ったが昭和28年6月の称号改正で新形式モハ53形000~006となった。旧車号は順に016、017、018、011、020、021、012である。昭和53年2月000、001の2両が伊那松島区に転属し、2両とも昭和58年の最終置換えまで活躍した。クモハ43形同様、運転台側の貫通幌が撤去されていた。

 

53000   昭和52年5月3日  辰野

 

53001   昭和45年11月23日  辰野

 

53001   昭和50年1月2日  豊橋(649M伊那大島行)

 4.クハ47100番台←クハ58形

42系列の制御車として、昭和8年から10年にかけて25両(001~025)製作された片運の2扉車で、全車両偶数(下り)向きであった。昭和10年に唯一両作られたラストの025は半流であった。戦時中全車4扉化が計画されたが実施されたのは13両に留まった。尚半流の025は4扉化された。残り12両の内3両が戦災と事故で廃車となり、残りの9両が昭和25年横須賀線用として東鉄に転属した。比較的早い時期に身延線と伊東線に転属となり昭和28年6月の改番でクハ47形に編入され100番台が付与され、全車車両の向きに合わせて100~116の偶数番号となった。但し、旧番号順ではなく、当時身延線にいた002、003、007、008、018、020、021が100~112に、伊東線にいた014、016が114、116となり、後日、114、116も身延線に転属した。その後、静鉄局の方針で、電動車を偶数向きに、制御車を奇数向きに統一することになり全車両奇数向きに方転された。昭和33年飯田線快速を4連貫通にするため、102、104、108、114、116の5両が豊橋区に転属の上、114、116を偶数向き方転、後に108も方転された。昭和46年3月に伊那松島に転属した104のみが昭和58年の最終置換えまで活躍したが、豊橋に残った4両は昭和53年、80系300番台との第1次置換えで廃車となった。104、116の2両は運転台側の貫通幌が撤去されていた。

 

4710   昭和43年4月4日  豊橋

 

47108   昭和49年8月27日  宮田

 

47104  昭和54年5月1日 伊那市  (茅野発平岡行238Mで、6両で茅野を発車して辰野、伊那松島で夫々2両を切離し、伊那松島~平岡間は2両であった。今は殆どの列車が2両であるが、旧形時代は少なかった)

1953年3月15日特急「かもめ」処女列車

56年前になってしまったが、この日から東海道・山陽本線に特急「かもめ」が運行を開始した。今では掃いても捨てきれないぐらい日本全国特急だらけで、新幹線や特急に乗らずに旅ができるもんならやってみろといわれているのと同じ。急行が激減し、準急は消滅してしまった。1953年時点の国鉄には、特急と名が付く列車は東海道本線東京―大阪間の「つばめ」「はと」のみ。この「かもめ」が実に敗戦後3番目の特急だったのである。

下りは京都始発8時30分、広島14時15分着、20分発。門司17時54分着、58分発、博多終着19時10分。停車駅は他に大阪、神戸、姫路、岡山、小郡、下関のみ。上りは博多10時00分、広島14時48分着、53分発。京都終着20時40分である。

機関車は処女列車用に綺麗に磨き上げられ、煙室扉ハンドルが梅小路にちなみ梅模様の真鍮磨きだしと御召し並みのC59100だった。スハニ、スハ3両、マシ、スロ3両、最後尾スハフで一等車がないところが「つばめ」「はと」と差がついた。運転局では将来展望車を新製したかった由だが、これは遂に叶わなかった。

このとき小生は高校1年生で、特急とは撮るものであっても、自分が乗るなどとは考えもしなかった。学生時代に国鉄特急に乗車した経験は、北海道均一周遊券が急行料金抱き合わせに改悪された代償に、急行との差額を払えば特急にも乗れるようになり、一番安い名古屋-京都間を、差額特急券という珍券ほしさに一度だけある。ただし電車特急「こだま」だったが。

写真は何れも1953年3月15日の京都発処女列車。今なら大騒ぎの押し合いへしあい、怒号が飛び交うところだろうが、この時は「何人か」は撮影に来ていた程度。それも大方は顔見知りだった。カメラさえ持っていれば線路下りても目くじらは立てられなかった。

恥ずかしい質問

最近、同級生とちょっとした論争になりました。負けられない論争です。

論点は昭和三十年代前半の奈良電のことです。私が「子供の頃奈良電に乗ると車掌が扉を手で締めて回っていた。しかも一両と言うことも多かった」といったところ、「アホ抜かせ!それは京阪の電車や、奈良電は自動で閉まったワイ!」と威張っています。彼は久津川の出身ですがその頃は本当に京阪だけが手動開閉だったのでしょうか?乙訓の老人様、覚えておられたらお教え下さい。

2009年青春18きっぷの旅Ⅰ Part4 高山本線

いつものように朝風呂にゆっくりと浸かって、頭を覚ましました。朝食に行く間のひと時、夜明けを待っていると、眼下に富山駅が見えました。どちら様か、津山駅でホテルの窓から見られたのと同じ光景です。窓は、少ししか開きませんので、カメラを落とさぬようにシャッターを切りました。

JR&地鉄の富山駅

続きを読む

おじん2人ヨーロッパ軽便 その最終版

SNOWDON MOUTAIN RAILWAY

YVでも公開された「ウエールズの山」という映画(1955年)をご記憶だろうか。原題は「The Englisyman who went up a Hill but came down a Mountain」と長く、けして大作ではないが、心温まるものだった。1917年ウエールズのとある小村に、英国政府測量官2名がやってくる。村人自慢の「山」を測量したら、規程(1,000フィート=306m)に16フィート足らず、「山」から「丘」に格下げになると知った村は大騒ぎになる、というお話。 

老齢の司祭が檄を飛ばし、先ずは測量官の自動車に細工=故障させて足止め。その間に村人たちは文字通り老若男女こぞって仕事をおっぽり出し、麓から土を運び上げて1,000フィートを回復しようというのである。しかし無情の大雨が降り折角の土が流出してしまう。鉄道員も協力し、鉄道が雨で不通として測量官の足止めを続け、さらに土を運び上げる。サッカー場の芝まで剥がし土止めに。82歳の老司祭が倒れ、山上に葬られる。

再測量の結果1,000フィートを満足し、若い測量官は村娘とむすばれ、万事めでたしめでたし。六甲山最高峰が931.3m、西宮市の甲山ですら309.4mである。いかに英国に山が乏しいかだが、その英国で登山なるスポーツが発祥したのも不思議である。

この部分のみはほぼレベルに近い 左手の建物は最初の離合地である

ところでウエールズとイングランドで最も高い「山」がこのスノードン山の1085mで、しかも登山鉄道がある。全長7.53km、平均勾配12.5%、最急が18%、2連式アブトで軌間800mm(2フィート7 1/2インチ)とメートル法なのは、スイス方式だから。開業は1896年4月6日、平均速度は5マイル/時(8km)。


DLは流石に強力だが、ブリエンツ・ロートホルン同様、全然面白くない

勿論蒸気機関車だったが、現在ではスイス・ロコ=ウインターツール1895、96、1922年製が4両現役。1986、92年製DLが4両。さらに1995年電気式のディーゼルカーが3両加わったが、最新ホームページには Out of Service とあるのは何故だろうか。不人気なのか、それとも欠陥があったのか。この時は2両重連(総括制御ができる)で運行していた。パンフの表紙に使うぐらいだから、少なくともこの時点では自慢の車両だったろうに。

http://www.snowdonrailway.co.uk/


総括運転の電気式DC 麓側の台車部分床上に機関と発電機が載っている

我々おじん2人はマン島とウエールズの旅の最後にこのスノードンを訪ねた。乗車はせず撮影だけだったが、線路は羊の放牧地をグネグネ延々と曲がって突っ切る。厳重に囲い込まれていながら、それでいて歩行者のための Foot Path が通じており、所々に柵を越すハシゴがある。画面に点々と白いものが見えるのは、ネガのホコリではなく、放牧の羊である。

フットパスを徒歩下山するグループ


借り物の300mm望遠レンズを使い、3個列車を写し込む。画面をクリックし、拡大してご覧あれ

なお長らくご愛顧を頂き?この延々と続いた「おじん」シリーズは、今回を以って終わりとさせていただく。ヤレヤレやっと終わったかと喜ぶ向きもあるかもしれないが、油断は禁物。いつ何時別の「どこまで続くぬかるみぞ」シリーズが始まるか分からない。世の中一寸先は闇なのですぞ。

羊放牧のための厳重な柵を乗り越えるフットパスのはしご 上にいるのは相棒=先達=写真の名手=全行程ボランティア運転手=全プラン立案推進者=ツアーコンダクター

貧乏学生二人『はやぶさ』に乗る

話の前に、訂正があります。前回 『ブルートレインのこと』 の写真3枚目(04917)は、蒸機がC6217【下】となっていますが、正しくはC6225【下】です。

さて、1963年3月、K.Y.さんと九州に出かけました。行動は常に同一でなく、時々場所と時間を決め一緒になり、主に国鉄の蒸機を撮影しました。一日か二日後には、それぞれのテーマに向けて 別れての行動で、K.Y.さんは非電化の私鉄を、私は私鉄電車でした。

鹿児島で落ち合い、1962年3月24日(日曜日)、西鹿児島 発6レ『はやぶさ』に、二人で熊本まで乗車しました。指定券は旅行出発前に、神戸大丸内交通公社で購入。大枚300円も(旅行中、私の一日の食費に相当する。駅弁は150円で、買えば一日二食になる)払ったその特急券です。 出発は午前11時30分、熊本到着が15時02分、わずか3時間30分間の乗車。車両は7号車、博多までの7両編成の先頭、ナハフ2153(1960年日立製)でした。今となって記憶はほとんどありませんが、K.Y.さんと二人有頂天で乗車、あっという間に熊本に到着だったと想像されます。
下車後、隣のホームから蒸機C6114【鹿】と、わが客車の出発を見送りました。

6レ『はやぶさ』、蒸機C6114【鹿】、熊本駅、’63.3.24.  06811

同上、ナハフ2153  06812

そして二人は大畑に向い、その夜は大畑のステーションホテル(注・駅のベンチで寝袋に入り寝ることを指す。この回数の一番多いのはT.Y.先輩で、次点が筆者の35回です)に宿泊したのでした。

その後、九州各地で何度かブルートレインを撮影したので紹介します。

 5レ『はやぶさ』、機C6131【鹿】、上田野浦-肥後二見間、‘63.3.26.  07028

潮干狩りか、海岸には人が見えます。

5レ『はやぶさ』、機ED7220【門】、吉塚-箱崎間、’63.4.2.  07711

西鉄電車撮影の合間に撮ったもの。

6レ『はやぶさ』、電機ED727【門】、博多駅、’63.4.2 07813

6レ『はやぶさ』、電機ED727【門】、博多駅、’63.4.2  07813

同上、ED727【門】、蒸機C6132【鹿】、博多駅、’63.4.2 07814

同上、ED727【門】、蒸機C6132【鹿】、博多駅、’63.4.2   07814

博多からの増結車を従え電機が待機、役目を終えた蒸機と並ぶ。

C6132【鹿】と、2レ『さくら』の蒸機C6026【鳥】、博多駅、’63.4.2 07815

C6132【鹿】と、2レ『さくら』の蒸機C6026【鳥】、博多駅、’63.4.2    07815

ヘッドマークを収納して退避線で休む蒸機、そこへやはり役目を終えた『さくら』の蒸機が並ぶ、夕刻18時30分頃、博多での光景でした。

半世紀以上走り続けたブルートレイン。日本での役目を終え、既に海外で活躍中のもの、あるいはこれから活躍予定のものもあるとか。

2009年青春18きっぷの旅Ⅰ Part3 富山ライトレール

富山まで移動のため、高岡12:26始発の437Mに乗車すべく駅に行きましたが、何やら改札口周りがざわついています。朝からの悪天候です。糸魚川付近で、強風のために列車が止まっているとの放送がありました。437Mは、本日運転休止です。仕方ありません。

12:50発の439Mは、運行するというので、ホームで北陸名産のかまぼこと揚げ物を”アテ”にビールを飲みながら、待つことにしました。

旧国鉄色の475系3連に乗車、富山は定刻到着でした。ホテルへ荷物を預けてから、富山ライトレール富山駅北を目指しました。
続きを読む

2009年青春18きっぷの旅Ⅰ Part2 万葉線

前夜、楽しみにしていたWBC初戦のTV中継は、高岡では放映がなく、見る事ができませんでした。ローカルに行くと、これがあるので、残念なことです。充分な睡眠を取って、夜明けの窓から見ると、既に小雨模様です。日頃の行いを悔いましたが、仕方ありません。氷見線撮影を諦めて、万葉線と富山ライトレールの乗車と撮影に切り替えました。ホテルから高岡駅までは、小雨に加えて強風です。折りたたみ傘は、あっけなくハスの花となりました。嵐は、終日続き、撮影するにもカメラが、濡れないようにするのが、やっとでした。

万葉線は、富山地鉄から加越能鉄道へ譲渡運営されましたが、利用客激減による経営悪化で、廃止される事となっていました。しかし、市民からの路線存続の声に答えるように、高岡市が中心となって、2002年より路面電車としては、全国初の第3セクターとして、復活を目指し引継がれました。

路線は、高岡駅前~六渡寺(軌道線)7.9kmと、六渡寺~越ノ潟(鉄道線)4.9kmの計、12.8kmで、在籍車両は、デ7070形6両(冷房車は、7071と7073の2両)、MLRV1000形4編成と、冬季除雪車として、デ5000形1両が、在籍しています。

続きを読む

2009年青春18きっぷの旅Ⅰ Part1北陸へ

今年から晴れて自由人となっての私用旅行は、犬山で行われるDRFCクローバー会イベントが、初めてです。
リタイヤを余儀なくされた持病も、毎日のリハビリ治療が効いたのか、悪化が止まり、徐々にではありますが、痛みが和らぎだしました。それではと、以前より行きたいと思っていた電化された小浜線富山ライトレール視察を、イベント前の候補にあげて計画を練りました。

氷見線城端線も乗ってみたい。万葉線も乗車したいと、5:10長岡京発からのダイヤを組みました。しかし、早朝起きは得意だったのに、当日は、なぜか寝過してしまいました。しかし、大丈夫です。もしもの第2案も作成しておきました。

京都駅

続きを読む

ブルートレインのこと

お久し振りです、掲示板読者の皆さん。近頃は掲示板の話題レベルが高く、アマチュアにはなかなか参入のチャンスがありませんでしたが、昨今のブルートレインの話題には割り込めそうと、冬眠から目覚め投稿しました。 学生時代、昼間の関西でブルートレインにはめったにお目にかかれず、ようやく西方の山陽本線でカメラを向けました。 K.Y.さんと二人で、瀬野機関区訪
問と戸田-富海間の撮影行です。夜行で向かい、朝の広島駅構内で特急機関車軍の撮影。

機C6243【広二】と機C6217【下】 04824

機C6243【広二】と機C6217【下】   04824

そしてあさかぜの出発。

3レ『あさかぜ』、機C6217【下】 04825

3レ『あさかぜ』、機C6217【下】   04825

この日の前夜1962年5月3日、あの三河島事故が発生しました。夜行の車内、ラジオで事故を知り、また、翌朝の新聞で三
河島に住む同姓同名の親戚の名前を見つけましたが、他人と判り旅行を続けたものでした。その日は、広島電鉄を撮影。翌
日に瀬野機関区を訪ねました。機関士の作業服に着かえ、重連補機の前方の機関車に乗車。瀬野-八本松間を往復しました。 翌日は、戸田-富海間で撮影です。天気はよく、瀬戸内の波は静かで絶好の撮影日和でした。午前中、相次いでブルー
トレインが通過。C62の勇壮な姿に接して大満足でした。撮影はいずれも、1962年5月5日。

3レ『あさかぜ』、機C6217【下】 04917

3レ『あさかぜ』、機C6217【下】   04917

5レ『はやぶさ』、機C6234【下】 04920

5レ『はやぶさ』、機C6234【下】   04920

K.Y.さんは、鉄道施設に昇り撮影を行っていました。その時の写真を、今から4~5年前、例の写真集募集の折りに見つけま
した。普通では撮影出来ぬ見事なものでしたが、昨今なら間違いなく問題になっている事でしょう。 K.Y.さんですか? 某電
鉄に勤め、系列のホテルのトップに上り詰めたあの御仁。なるほど当時から登る事に秀でていました。 次回は、その一年後、やはりK.Y.さんと二人で、鹿児島から熊本まで特急券を買って、『はやぶさ』に乗車した話と、九州各地のブルートレインの写
真を紹介します。 『貧乏学生二人、はやぶさに乗る』。乞うご期待!