2009年 北の大地へ Part3 丸瀬布森林鉄道

第4日目 10月25日

札幌10:30(道中自動車道)→比布Jct(旭川紋別自動車道)→13:00丸瀬布(R1070)→13:15森林公園いこいの森20:30(R330)→21:20JR遠軽駅22:00(R242)→22:20道の駅;かみゆうべつ温泉チュリップの湯

出発前に『日本鉄道旅行地図帳』の北海道編を購入して、船内で見ていました。道内の鉄道延長キロは、最盛期の3分の1と激減し、大正時代に戻っています。この本には、廃止された路線上に、建設されたSL保存館、記念館や資料館の場所が、記載されていました。

約40年前に撮影に励んだ路線は、今は殆どありません。どうなっているのだろうか? 実際に行って、見てみたい衝動にかられていました。今回の旅は、そういった所を回って見るのも、いいかなと、思っていました。
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2009年 北の大地へ Part2 SLニセコ号

第3日目 10月24日

余市6:40(1928D)→7:50倶知安8:02(2929D)→9:16小樽9:45(1934D)→10:08余市

着いた時は、それほど寒さを感じませんでしたが、夜間、何度も寒さで起きました。かつて、オートキャンプを始めた時に、通販で買った薄いテントが、寒さを防げず、震えながら、寝れぬ夜を過ごした事を、思い浮かべました。
昨夜からの雨はあがったようですが、車内温度は、3度です。3シーズン用の寝袋で十分だろうと、寒冷地用は用意してありません。しかし、ホカロンだけでは、追い付きません。北海道の寒さをなめていました。でも、自宅では、昼間、まだ半袖のTシャツでも十分でした。これほど、温度差があるとは、意外でした。

薄明るくなった道の駅『スペーシア・アップよいち』の駐車場を見ると、あちこちに本格的なキャンピングカーや、乗用車が泊まっています。乗用車は、寒さのせいか、1台1台と、出発して行きますので、私も洗面後に車を動かし、JR余市駅に向かい、カセットコンロでお湯を沸かして、コーヒーを入れて、暖まりました。
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43年前の美祢線・大嶺線(2)

南大嶺から123レに乗車、大嶺駅に着きました。

ここ大嶺線は、古くは海軍省が無煙炭を採掘、徳山まで輸送した。日清・日露海戦の頃、無煙炭は艦船の燃料として重要だったそうな。また一方、小野田セメントは大嶺産の石灰石を自社工場まで輸送するなど、重要な石炭輸送・石灰石運搬線である。

同上、オールセキの発車。

南大嶺から乗車してきた633レは、折り返し636レとなる。大嶺駅唯一つのホームに停車。

大嶺駅舎、背後はボタ山。てっぺんにコンベア施設が見える。この時は1966年で、次の1963年写真ではまだ低かったボタ山がかなり高くなっている。

1963年、大嶺付近の航空写真(国土地理院撮影、MCG633X-C3-3、無断での掲載をお許しください)
ボタ山とコンベア施設が高空からも見える。現在このボタ山はすっかり無くなったそうだが、google の地図/航空写真では、ボタ山のあったところだけがいまでも黒く見える。樹木がいまだに生えていないようです。

徳山方面から空のセラ群が到着。

南大嶺行きの客扱い発車。客車とワフ各一輌。

ホキ・セラの貨573列車発車。

北側の線路は一段高くなっており、その先の西寄りに、ホッパーや種々の施設がある。今も貨車がホッパーの下に入り積み込みの最中。

構内の東側。

構内の北西部。

大嶺駅構内を出発、徒歩で南大嶺に向かった。
一編成で往復している客扱いが、逆向きC58で戻ってきた。

大嶺-南大嶺間、青田の中を行くホキ・セラの姿は、比較的珍しい光景である。
背後にボタ山とコンベア施設が見える。

ここは、もう南大嶺に近い。

前回掲載のダイアは小さくて見難かったかもしれないので、再度掲載します。

 

早朝から、蒸機が曳く多くの石炭、石灰列車に満足し、南大嶺から長門市に向かった。翌日は山陰線の飯井-三見間などで山陰線を、翌々日には山口線を撮影した。まだ蒸機が各地で活躍していた、1966(昭和41)年の夏のことでした。

2009年 北の大地へ Part1 旅立ち 新日本海フェリー

投稿も終わりに近づくと、ぼちぼち、どこか遠くに行きたいとの気持が、募ってきました。紅葉前線を追いかけようと、春から探していた車も納車されました。これは、行くしかないと、決めました。

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2009年 秋の中国一人旅 Part11 調兵山 撮影ポイント

湯口大先輩、藤本先輩の、貴重な、お宝写真や記事に見入ってしまい、旅の締めくくりをサボっていました。これから、大地のSLを撮りに行かれる方もあろうかと、勝手に思いましたので、撮影ポイントで締めくくりさせていただきます。


撮影ポイント 

A:大明→三井 大明駅を出ると、築堤を走る。並行する道から、ボタ山を背景に列車を撮れる。昼からは、逆光となるので、アングルの工夫が必要です。
  三井→大明 三井駅を出ると、左にカーブして、築堤を上がる。力行するので、煙もまずまずで、冬場なら、迫力ある写真が撮れます。徒歩、約15分を要します。

B:無名駅~暁明 三井~暁明に、ホームもない無名駅がある。その間に鉄橋があります。大きくカーブしているので、横からも、正面からも撮れますが、道から少し歩かなければなりません。

C:調兵山~三家子 上遊型を数多く撮影したいなら、ここが一番です。三家子まで歩いても、約1時間です。上り、下り両方共、撮れます。調兵山から来るSLを撮影するには、午前中が順光です。晴れていれば、夕焼けをバックに撮影できます。

D:三家子 3路線に向かうSLが撮影できます。朝夕は、3本の列車が、発着するシーンを撮影できます。

E:大隆~孤楡柎 ボタ山をバックに撮影できます。大嶺から橋南に向かう線路と、道が交差しますので、ここで、撮影後、橋南へと急いで向かい、追っかけ撮影も可能です。

F:橋南 ホームのない橋南駅です。そんな乗降風景を撮れます。

G:橋南~暁南 王千行き、また調兵山行きの上下の列車は、暁南駅でスイッチバックしますので、2度楽しめます。中間点辺りでは、暁南からの列車を、ボタ山バックに撮れます。

H:橋南~暁南 暁南駅を発車したSLは、築堤を上がって来ます。駅に近い方が、煙も良く出ています。

I:橋南~王千 なだらかな丘陵が続き、牧歌的な光景が広がっています。駅間7kmもありますので、撮影ポイントも多いです。有名なのは、王千駅裏の山からは、教会を前景に入れて撮影できる、調兵山一の撮影ポイントです。ただ、晴れていないと撮影不可です。

J:会譲~暁青 複線が一直線に続きます。他線からの、長編成の石炭やセメントを満載した貨物列車が、中国鉄路の大青駅を目指して、走ります。残念ながら、貨物列車のダイヤが分かりませんが、結構走っています。客車列車も5両以上の編成です。筑豊本線のような光景が続いています。大青からの列車は、午後に順光となります。

その他、調兵山駅で、発車風景も中々です。珍しい蒸気クレーン車が、上遊型への石炭積み込みをする光景も楽しめます。

以上が、私のお勧めする撮影ポイントですが、未発見なポイントもあるかと思いますので、行かれた方は、教えてください。

撮影ポイントを、すべて撮影するなら、博物館見学や全線乗車を含めて、中4日間は必要です。日本からは、成田9:45(NH925)→12:40瀋陽、関空10:05(NH13:35)→13:55瀋陽(2009年11月現在)が、便利です。空港からリムジンバスで、瀋陽駅まで行き、調兵山へのバスに乗れば、当日に着きます。
北京入りですと、瀋陽までは、中国鉄路の高速列車に乗車すれば、約4時間で到着します。この場合は、瀋陽泊となりますが、朝1番(6:30)のバスに乗れば、2時間弱で着きます。

宿泊は、調兵山駅前が、近くて安くて、撮影には1番です。当日でも空室はありますので、予約せずに行っても問題ないと思います。
撮影に関しては、あらかじめ撮影許可証の購入が必要です。調兵山駅2階の旅行社に行ってください。宿も手配してくれます。
問題の現地での1日当たりの費用は、撮影許可証100元+タクシーチャーター料300元+宿泊代128元+食費100元(一般的な食堂・屋台利用)=628元(約8200円)は、必要です。ビールを飲まれる方は、缶ビール5元前後(約65円)の安さです。

これに、瀋陽~調兵山のバス代、25元×2=50元(620円)と、蒸気博物館入場料100元(1300円)を含めても、4泊5日間滞在で、節約すれば、40,000円程度です。マイレージや、格安航空券を購入すれば、結構気軽に行けます。
時期は未定ですが、私も、今冬に再挑戦します。3度目の正直となるように、思った写真が撮れるように頑張ります。

1954年3月北陸から長野、三重 その5


木曾森林鉄道鬼渕鉄橋での8号機 人道橋も兼ねる

不味い食パンと、たくましい行商のおばさんから恵んで頂いた塩コンブとで、腹を物理的に満たした我々3人は、松本の次に中央本線上松で勇躍下車。木曾森林鉄道初見参である。



便乗者には老人もいる 山中の居住者なのだろう 客車の窓は引き違いで、まさしく大工が小屋を建てる感覚で作った車両だが 屋根のカーブが比較的緩やか 運材車に乗るのは営林署の作業員
木曾桧の本場も本場だから 車両はオール桧製 これは屋根のカーブがきつい 手前の8号には「一般用」 長い3号には「学生用」とある

2軸の2号客車

これは特別客車で「偉いさん」用 元来皇太子(現天皇)が視察の際乗車した貴賓車であった由

ボールドウイン1921年5月製 9.8トン 製造番号54837 燃料は石炭ではなく桧の枝を小さく切ったものだから コールバンカーならぬウッドバンカー? 

貯炭場ならぬ貯薪所 お手の物の桧の枝を切ったものが石炭代わりで 油を含み結構火力があるそうな 給水装置も本格的である

まだボールドウインB1リヤタンク機が現役も現役、大活躍していた。3月とあって、まだ伐採や運搬が本格化しておらず、蒸機も半分ぐらいは庫内で休んでいる。ディーゼル機も客車を牽引し、便乗客が大勢いたのも、材木需要が旺盛で、地域全体に活気が満ち溢れていたことを示す。


ボールドウイン1915年4月製1号機 製造番号41997

庫内に休む蒸機たち 手前は大同1号で日立1936年12月製コピー機 次は立山重工業1949年7月製11号 奥はコッペル1923年1月製10か1925年製13

煙突 メインロッドがないコッペル1925年製10トン14号
H.K.ポーター1920年11月製8.6トン6号機の廃車 製造番号6592

酒井製作所製107号ディーゼル機 8トン 日野DA57A装着


おなじみ運材車 この時点ではまだ貫通制動はない

要するに有蓋貨車だが、扉は片側(反対側)にしかない これもオール桧製

北陸鉄道小松線

引続き昭和40年代の北陸鉄道小松線の状況を書き込みする。

小松線の前身は、大正15年12月、小松~白峰間を結ぶ予定で設立された白山電気鉄道で、昭和4年5月小松~鵜川遊泉寺間5.9kmを開業した。鵜川遊泉寺には鉱山があり、明治40年小松~鵜川遊泉寺~鉱山口間に馬車鉄道(遊泉寺鉱山専用鉄道)が開設されていたが閉山により大正7年廃止されてしまった。終点予定地の白峰は、金名線の終点の白山下よりも更に奥の白山山麓の集落で、ここまで鉄道を敷設しても採算が取れるとは思えない。昭和60年代まで福井県勝山~白峰間を京福バスが1日2往復運行していたので、それなりの交通の要所であったのかも知れない。昭和12年11月、社名を小松電気鉄道に変更、終戦直前の昭和20年7月20日付で北陸鉄道に買収された。マイカーの普及と少子化による乗客の減少により昭和61年6月1日付で廃止となった。

昭和40年代前半に在籍した車両は、モハ1001、モハ1002、モハ1201、モハ1802、モハ1814、サハ1601の6両で、モハは全車直接制御車でラッシュ時の連結運転時には各車両に運転手が乗務して協調運転を行っていた。昭和46年9月1日金石線(中橋~大野港)が廃止されると同線で使用されていたモハ3000形(3001~3005)5両が転属して在来車を置き換えた。

モハ1001、1002昭和24年12月日本鉄道自動車製の全長11.8mの小型車で、近江鉄道のクハ21形と同形車である。当初松金線(野々市~松任)に投入され、昭和30年11月15日同線廃止により小松線に転属した。(上42.3.21 下45.11.10撮影)

 

モハ1201能美線(新寺井~鶴来)の前身、能美電気鉄道のデハ301として昭和12年木南車輌で作られた。台車はブリル27GEの古いものを履いていた。前述のモハ1001と同じ全長11.8mの小型車であるが、バランスのよいスタイルをしていると思う。湯口先輩は金石線で撮影されておられるが、私自身、小松線と言えばこの車を思い出す程印象が強い。他の鉄道にもありそうなスタイルであるが同形車は見当たらず、西武鉄道が昭和25年から31年にかけて多摩湖線用に車体新製した旧モハ101形がほぼ同サイズ、扉間窓8個で何となく似ているように思うのは気の性であろうか。(42.3.21撮影)

 

モハ1802河南線(大聖寺~河南~山中・河南~新動橋他)の前身、温泉電軌のデハ22として昭和17年木南車輌作られた。昭和16年11月、山代車庫の火災で大半の車両を焼失し、被災車の車籍と一部機器を利用して急遽作られたと言われている。片山津線(動橋~片山津)で使用されていたが、昭和40年9月24日同線廃止後小松線に転属した。(42.3.21撮影)

 

モハ1814前述のモハ1802と同じく元温泉電軌の車両で、デハ27として昭和18年木南車輌で作られた。車体は1802と同形であるが4個モーターとなった。特筆すべきはコントローラーでスイスのブラウンベボリー社製の円形のものが付いており出所が気になる処である。戦時中のことで車体は新製ながら機器類はあちこちからかき集めたのだろうか。コントローラーもさることながら4個モーターの直接制御車というのも珍しい。(45.11.10撮影/鵜川遊泉寺、下はスイス・ブラウンベボリー社製のコントローラー)

 

サハ1601浅野川線(北鉄金沢~内灘)の前身、浅野川電気鉄道のデハ2として昭和2年日本車輌で作られた。京福電鉄福井支社のホデハ11形、ホデハ211形、福井鉄道モハ21形等同形車が北陸地方の私鉄に存在する。北陸鉄道合併後モハ1601に改番し、昭和30年まで浅野川線、昭和39年まで金石線で使用、小松線に転属後電装解除されてサハとなった。(45.11.10撮影)

尾小屋鉄道

湯口先輩の新シリーズ「1954年3月北陸から長野、三重」は、訪問された当時の各鉄道の様子と息を飲むような画像で、ローカル私鉄ファンにとっては貴重な資料である。

「シリーズその2」の尾小屋鉄道について、私が訪れた昭和40年代の様子を書込みしたいと思うが、この時期多くの会員の方が訪れられたように記憶している。昭和52年3月20日廃止後も多くの車両が動態保存されているのも興味深い。

尾小屋鉄道は大正8年11月26日に旅客営業を開始し、翌年4月1日より貨物営業を開始した。日本鉱業の系列会社となり、尾小屋鉱業所の専用線的な性格であったが、昭和37年9月、日本鉱業が鉱山及び鉄道の経営から手を引き、名鉄の系列会社となった。鉱山関連の輸送がなくなっても沿線人口がそれなりに多く、小松市への通勤、通学客の需要があったため営業が継続されたが、時代の変化と共に通勤客のマイカーの移転、少子化による通学客の減少、沿線人口そのものの減少等により昭和52年3月20日付で廃止となった。鉄道廃止後は「小松バス」に社名を変更してバス専業会社となったが、沿線の過疎化が進み、現在、小松~尾小屋間のバスは僅か3往復(その他に途中の金平まで1往復)である。ちなみに鉄道時代、昭和43年10月時点は14往復、廃止間近の昭和51年3月時点で8往復であった。

(1)機関車

5号機戦後製の蒸気機関車で昭和26年10月に入線しているが、現車の銘板の製造年は昭和22年11月になっていたので、メーカー立山重工業のストック品であったと思われる。翌年の昭和27年には早くもDLが入線、昭和32年DLが増備されると完全に予備機となり、冬の除雪に使用される程度になったが、鉄道廃止前には数回イベント走行した。廃止後は尾小屋にある「小松市立ポッポ汽車展示館」に保存され、年に数回屋外に展示されている。(42.3.21撮影)

 

DC121/昭和27年11月、協三工業で新製、形式の12は自重12tを意味している。次のDC122と共に朝夕の客車列車を引いていた。廃止後は「石川県立小松児童会館」で動態保存され「なかよし鉄道」として定期的に運転されている。(42.3.21撮影)

 

DC122昭和33年12月、協三工業で新製した12t機で、性能的にはDC121と同一であるがスタイルは大きく変化した。廃止後は旧尾小屋駅構内で保存されているが、野ざらしのため状態は悪い。(46.3.20撮影)

 

(2)気動車

キハ1/昭和12年日本車輌製、当初はウォーケッシャ6-ML型ガソリンエンジンを搭載していたが、戦時中の木炭車を経て昭和27年にKD3型ディーゼルに、昭和32年UD3型に乗せ換えられた。廃止後は「石川県立小松児童会館」で動態保存されている。保存後雪害により屋根を破損し復旧時に切妻となった。変速機はトルコンに換装されている。(42.3.21撮影/上.金野町~金平間、下.新小松)

 

 

キハ2昭和13年日立製作所製で、当初から「日立430RO型」ディーゼルエンジンを換装していた。戦中、戦後の動向はキハ1と同じである。廃止後は赤門鉄道軽便保存会により、旧尾小屋駅構内の車庫内に保存されている。(42.3.21撮影/金野町~金平間、下46.3.20撮影/新小松)

 

キハ3昭和39年12月に入線した戦後製の車両で、前身は昭和29年6月汽車会社製の元遠州鉄道奥山線のキハ1803、昭和39年11月1日、奥山線廃止後直ぐに入線したが、暫く新小松の車庫に留置され、認可は41年1月であった。エンジンはいすゞDA45型を換装していた。遠州鉄道時代の車号「キハ1803」の「キハ180」の部分を塗潰し、「3」の上に「キハ」の文字を書き加えて使用していたのが何とも軽便らしかった。廃止後は尾小屋の「小松市立ポッポ汽車展示館」で動態保存されている。(42.3.21撮影)

 

(3)客車

ハフ1~3大正7年6月、開業に際し名古屋電車製作所で新製された客車で、車体の外側に鉄板が貼られたり、窓が2段に改造されていたがよく原型を保っていた。ハフ3は車軸毀損で昭和42年に廃車、その後ハフ2も廃車された。最後まで残ったハフ1は廃止後キハ3と共に「小松市立ポッポ汽車展示館」で動態保存されている。(上、中45.11.10、下42.3.21撮影)

 

ホハフ1湯口先輩の画像及びキャプションの通り、元三重交通のサ331、明治45年日本車輌製の客車で昭和25年12月に入線した。以降継続的に三重交通から客車を譲り受けている。(46.3.20撮影)

 

ホハフ2大正2年名古屋電車製作所製で昭和31年3月に入線した。前歴は三重交通サ342←三重鉄道ホハ6←四日市鉄道(現近鉄湯の山線の前身)ホハ6である。前述のホハフ1とは製造年が1年しか違わず、シングルルーフの車体は三重交通時代の改造と思われる。(42.3.21撮影)

 

ホハフ3大正10年梅鉢鉄工所製で昭和30年12月に入線した。前歴は三重交通サ321←三重鉄道ホハ12←中勢鉄道(戦前岩田橋~久居~石橋~伊勢川口間を営業していた)ハニ2←中勢鉄道ボコ2である。車体の老朽化により昭和46年頃阪野工業所の出張工事により半鋼製の新製車体と乗せ換えられた。廃止後は「石川県立小松児童会館」で動態保存されている。(42.3.21、下45.11.10撮影)

 

ホハフ5大正10年梅鉢鉄工所製で昭和32年10月に入線した。前歴は三重交通サ322←三重鉄道ホハ13←中勢鉄道ハニ3←中勢鉄道ボコ3である。前述のホハフ3とは扉の形状が異なるだけで同形であった。シングルルーフ、ホハフ3と共に前後非対称の車体は、三重交通時代に大幅に手を加えられたと思われる。(42.3.21撮影)

 

ホハフ6大正2年名古屋電車製作所製で昭和34年11月に入線した。前歴は三重交通サ352←三重鉄道ホハ2←四日市鉄道ホハ2である。大きな窓の軽快な車体は、三重交通時代の改造と思われる。(42.3.21撮影)

 

ホハフ7大正14年日本車輌製で昭和37年7月に入線した。前歴は三重交通サニ403←北勢電気鉄道(現三岐鉄道北勢線の前身)ハフ11←北勢鉄道ハフ11で、車体は2段窓以外はほぼオリジナルのままであった。車体の老朽化により昭和43年阪野工業所の出張工事により半鋼製の新製車体と乗せ換えられた。廃止後は赤門鉄道軽便保存会により、旧尾小屋駅構内の車庫内に保存されている。(42.3.21撮影)

 

ホハフ8大正13年日本車輌製で前述のホハフ7と共に昭和37年7月に入線した。前歴は三重交通サニ401←北勢電気鉄道(現三岐鉄道北勢線の前身)ハフ9←北勢鉄道ハフ9で、車体は2段窓以外はほぼオリジナルのままであった。車体の老朽化により昭和43年阪野工業所の出張工事により半鋼製の新製車体と乗せ換えられた。廃止後は「石川県立小松児童会館」で動態保存されている。(上42.3.21、46.3.20撮影)

 

保存状況を纏めると次の通りである。

 小松市立ポッポ汽車展示館

蒸機No5  キハ3  ハフ1

 石川県立小松児童会館

DC121  キハ1  ホハフ3  ホハフ8 

 旧尾小屋駅構内(赤門鉄道軽便保存会)

キハ2  ホハフ7  DC122(個人が保存)

小松市立ポッポ汽車展示館は尾小屋に、石川県立児童会館は北陸本線粟津駅徒歩10分の所にある。石川県立小松児童会館には全長480mの線路が敷設されており、本館的な運転がされている。是非行きたいと思っているが、東京からは遠くて中々行けないのと、運転されている日に両方を訪れると宿泊する必要があるので現状では難しい。リタイヤ後、京都に戻った暁には真っ先に行きたいと思っている。