1954年3月北陸から長野、三重 その7


北勢線で最後まで残ったコッペル32号機 桑名

前回が11月16日だったから、半月経過してしまったが、その7を続ける。

3人は名古屋鉄道を撮った後、最終関西線215レの「ハテ」で会おうと別れ、各人好きな場所へ。「ハテ」とは我々仲間の隠語で、三等展望車、即ち列車最後尾のデッキを指し、列車の「果て」というわけである。我家には電話がなく、時折「15ヒトカホセ912レハテ」てな電報が来ることがあった。15日東海道本線912列車の最後尾に乗れ、という指示である。

小生はまっしぐらに桑名へ。三重交通北勢線の桑名車庫には32号コッペル機が、荒れてはいたが姿をとどめていた。北勢鉄道→北勢電気鉄道7号→で、1924年製6.9トン。62号電機は松阪線から転じたもので、松阪電気鉄道12が前身。田中車両1927年10月製で、松阪鉄道電化当時の立役者である。


松阪線から転じた62号電機 ←松阪電気鉄道12

モニ226←北勢電気鉄道55 日車1931年3月製

モニ223+サニ431 桑名 軽便車両製作所なるところで1907年12月製造された大日本軌道熊本支社1が伊勢支社→中勢鉄道キホハ28→ 1944年戦災を受け車体を新製

サ105 太平車両なるところで1950年新製した木製車 桑名

右からワ714+713+711 桑名

なお写真で見られる通り連結器(ピンリンク=米国ではリンク&ピンと逆に言うが日本が逆か)の中心高が低く380mm。のち3/4柴田式自連に換装されるのはかなり後である。


三重線モニ228 諏訪 日車1949年3月製で敗戦後全国最初の762mm軌間新製電車

次いで四日市へ行き、諏訪まで歩く。やたらめたらと狭いところに車両がひしめいているが、かつてはこんな狭いところで単端式ガソリンカーの転回を、それも終日やっていたのである。三重線が戦時中に電化できたのは、沿線に海軍燃料廠があったためで、海軍士官は未成年の候補生時代から鉄道は2等に乗る、英国式の教育を受けていた。横須賀線、呉線や大村線に敗色濃くなるまで2等車が健在だったのはその為だが、ここでは超満員の代燃単端式車やボロ客車に音を上げ、海軍の肝煎りによる電化であった。なお三重線の連結器中心高は北勢線よりまだ30mm低い350mm。後年の自連化では流石に上げたが、それでも450mmで、軽便としては低い部類である。


ズラリ並んだ戦後製サ150型客車 164は近畿車両1950年11月製でのちサ158に改番

サ342+324 諏訪 342は三重鉄道ホハ6←四日市鉄道ホハ6 324は戦時中代燃ガソリンカーであるナ141←シハ81に改造されていた三重鉄道ホハ11←中勢鉄道ハニ1←大日本軌道伊勢支社ボコ1が経歴

なお三重交通の762mm線は三重鉄道、北勢電気鉄道、松阪電気鉄道の寄り集まりで、オープンデッキ客車が結構居たが、これを嫌って静岡鉄道、尾小屋鉄道に売り飛ばし、敗戦後密閉型客車を新製。最初は木製車体だったが、その後半鋼で近畿車両、帝国車両、ナニワ工機、日車で総計30両もの客車を作ったのが特異であった。

通信員だより

小春日和の11月25日、商用で京都へ向かうことになり、その前に大長老佐竹翁の写真展を鑑賞すべく烏丸御池駅へと向かう。愛用の日本橋駅から大阪市営地下鉄堺筋線に乗車、乗車券は阪急京都線大阪市営地下鉄堺筋線相互直通40周年記念乗車券と称するスルッとKANSAIカードを使う。大阪地下鉄全線と阪急京都千里嵐山線が一日乗り放題というものです。日本橋駅は地下鉄堺筋線千日前線と近鉄難波線の駅であるが、電車は地下鉄と近鉄のほか阪急も乗り入れていたのが今春から阪神まで走り出しいろんな電車に乗れるし便利になりました。
さて阪急の優等列車に乗り換えるべく淡路へと向かうが、淡路駅の手前では高架化工事がおこなわれており、広い空き地が見えてくる。空き地のむこうに梅田からの電車も淡路駅に同時に入線するのが見える。扉が開くや鶯の谷渡りよろしく新型ロマンスシート電車に飛び移る。幸い車端8席のボックス席の一つが空いていたのでしめたと着席するが、7人はすべて女性で?と思うが調べ物の書類があったのですぐ目を通す。終わってふと貫通扉を見ると女性専用車となっていたのでさっそく茨木市で停まるやまたまた次の車輌へ谷渡り。特派員のほかに20代の男性がもうひとり乗っていたが彼がどうしたかはわからない。茨木市を発車して隣の専用車を覗くとオッサン二人が閉じこめられている。ほんの10分ほどの間に同好の士3人を見受けたが、真っ昼間に女性専用車を走らせる必要があるのか困った社会である。特急が淡路に停車するようになって喜んでばかりいられない、「女性専用車両の社会学」堀井光俊著秀明出版会刊などという本が新聞広告に載っていたが、思いがけなく読んでみたい経験をしてしまった。
帰途は四条烏丸より通勤特急に乗るが、大宮・西院と停まるのでてっきり淡路にもとまると思っていたのに十三まで運ばれてしまう。。綺麗なお姐さんの出勤退勤には合わないし、凡人の退勤には遅すぎるのに21時頃の通勤特急とはこれ如何に。準特急というハンドルネームの投稿者がおられるが特急急行準急各停と分かりやすかったのがなつかしい。

最後に、阪急京都線大阪市営地下鉄堺筋線相互直通40周年を記念した臨時列車が12日5日と6日に運転されます。市営地下鉄車輌が天下茶屋~嵐山を一往復します。往路は天下茶屋~天六がノンストップで、大阪の地下鉄が京都の街を走る珍しい光景が見られる。今秋さいごの紅葉狩りをかねて嵐山へ行ってみませんか。

往路 天下茶屋10:19→11:24嵐山   帰路 16:32→17:36

新京成電鉄第15回「電車基地見学・展示会」

10月17日(土曜日)新京成電鉄くぬぎ山車両基地で第15回「電車基地見学・展示会」が実施された。自宅の近くであること、あわよくば近々廃車が予想される800系が撮影できるかも知れないと思って出かけてみた。

HPやパンフでは、ファン向きのものは「全車種ラインナップ撮影会」「新旧ダイヤの展示」「台車見学」くらいで、あとは「運転席で制帽着用撮影会」「8900形ミニ電車運行」「ドア開閉体験」等、子供とファミリー向けのものであった。

くぬぎ山駅から車両基地に行く途中、フェンス越しに800系が見えた。展示車両ではないがパンタが上がっており、フェンスの高さが2m程あり撮影はとても無理であった。もう少しフェンスが低ければ綺麗に撮影できるのに残念であった。それでも脚立に登って撮影している人がいた。取りあえず会場に行き全車種の並びを撮影したが、工場の窓から先程の800系の津田沼寄りの先頭車「モハ811」が撮影できたのはラッキーであった。一通り見学して帰りにフェンス越しにでも800系を撮影しようと思い、念のためコンデジをフェンスの穴に入れたところ、全車両ではないが、ギリギリ撮影が可能であった。

 

全車種ラインナップ(左から800系、8000系、8800系、8900系、N800系)

800系は昭和46年から50年にかけて日本車両でMc18両(モハ801~818)Tc6両(クハ855・856・859・860・865・866)T12両(サハ851~854・857・858・861~864・867・868)の36両が新製され、基本編成の4連6本と増結用の2連6本に組成された。新京成では初の高性能車であると共に初の純然たる新車であった。昭和60年から冷房化、前面の非貫通化、6連化に伴う中間車の運転台撤去等が実施された。新型車の登場により平成7年から廃車が始まり、現在は次の8両編成2本16両が残るのみとなった。

M811-M805-T857-M812-T859-M803-T854-M810

M813-M816-T863-M814-T855-M804-T853-M806

←京成津田沼

当日フェンス越しに撮影できたはM811編成で、M813編成は展示されていた。

現在、主に朝のラッシュに使用されているが、稀に終日運用に入っていることがある。何度か目撃しているがそんな時に限ってカメラを持っていない。

 

モハ811(津田沼寄りの先頭車)

 

モハ805

 

モハ812(運転台を撤去して中間車となっている)

 

サハ859(元クハで運転台を撤去して中間車となっているがクハとサハは元々通し番号であったため「ク」を「サ」に変更しただけである)

 

サハ854

 

モハ810(松戸寄りの先頭車)

 

モハ812の台車 FS329S2型

少し前の飯田線Ⅳ

(3)-3 戦前形2扉車 流電グループ

前回の「(3)-2 戦前形2扉車 42系」から半年以上経過したが、今回は流電グループを解説する。

流電グループについては、過去趣味誌で解説され尽くされている感があるが、全体の流れを把握するために改めて飯田線入線までの動きを簡単に述べてみたい。

昭和9年7月、吹田~須磨間が電化された際、大阪~神戸間を28分で運転する「急行電車」を運転、昭和12年10月、吹田~京都間電化時に運転区間を京都まで延長した。

昭和11年3月に急行用として、第一次流電と呼ばれる1編成、モハ52001+サロハ46018+サハ48029+モハ52002が新製された。昭和12年3月、モハ52003+サロハ66016+サハ48030+モハ52004、モハ52005+サロハ66017+サハ48031+モハ52006の2編成が増備されたが、窓が大きくなり更にスマートになった。昭和12年8月には、モハ43039+サロハ66018+サハ48032+モハ43038、モハ43039+サロハ66019+サハ48033+モハ43040の2編成が増備されたが、流線形は中止となり半流に、検修サイドから不評を買っていたスカートの廃止、塗装は通常の茶色となったが、性能的にはモハ52と同一であったため「合の子」と俗称された。大西顧問から「『合の子』が完成した時は、戦時体制強化のため写真撮影が厳しくなり営業運転中の写真が少ない」というお話を聞いたことがある。そう言えば戦前の営業中の写真はあまり見かけない。

戦時中3扉化(一説にはモハ52とモハ43は4扉化)が計画されたが、資材と人手不足等により実施されず、ロングシート化と座席撤去及びサロハ66020(サロハ46018にトイレを設置して改番)、66016、66017のサハ化(48036、48034、48035)で終戦を迎えた。また52006と43038は戦災のため廃車となった。昭和24年4月には急行電車が復活し整備の上使用されたが、昭和25年10月に80系に置換えられたため阪和線の特急用に転用された。しかし、ここも70系スカ形の進出により昭和32年飯田線に転属した。尚、サハ48は昭和25年東京地区の旧モハ51のモハ41とモハ42、43、クハ58の2扉車と交換時に一緒に東京に転属し、これらの車両と共に横須賀線で使用されたが、最終的には岡山地区で最後を迎えた。岡山地区に転属する前に僅かな期間であるが古巣の大阪地区に戻った車両もあり、これらについては後日報告する。

(1)   クモハ52

阪和線から昭和32年4月に004と005が、9月に001~003が伊那松島区に転属し、ローカル運用を中心に使用されたが、行楽シーズンに運転された名古屋~中部天竜間の臨時快速「天竜号」に使用されたこともあった。同年12月から翌年11月にかけて快速用として全車豊橋区に転属した。昭和36年3月1日、80系による準急「伊那」が誕生(実際には快速の格上げ)するまで快速用として活躍、その後も30番台の4連運用で南部を中心に活躍した。昭和53年11月から翌年3月にかけて80系300番台と交替で廃車となったが、トップナンバーの52001は極力登場時のスタイルに復元された状態で吹田工場に保存、52004は日本車両の構内を経て佐久間レールパークでされていたが、11月1日閉鎖により「JR東海博物館」に移設される予定である。

クモハ52001・002/昭和11年3月川崎車輛製、阪和線時代に乗務員扉の新設と電動機のMT30への交換が実施された。001は昭和34年4月、池場~三河川合間で崩落した土砂に乗り上げ脱線大破し、廃車やクハ化が検討されたが無事原形に復旧した。001は昭和53年12月廃車後、前述の通り吹田工場で保存されている。002の廃車は昭和54年3月とやや遅い。

 

クモハ52001/上・豊橋(39-3-2030番台4連運用の辰野行はこの1本のみ) 下・豊橋(40-3-20)

 

クモハ52002/豊橋(48--28)

クモハ52003~52005/昭和12年3月川崎車輛製、阪和線時代に乗務員扉を新設したが電動機の交換はされずMT16のままであった。003と004は更新修繕後も張り上げ屋根のままであった。005は飯田線転属後方向転換され偶数向きとなった。昭和53年11月に全車廃車されたが、前述の通り004のみ保存され、平成23年春オープン予定の「JR東海博物館」に移設される予定で、現在の中途半端な復元スタイルがどのように変化するのか楽しみにしている。

 

クモハ52003/上・豊橋(48-7-28) 中・下地~小坂井間 (50-1-2) 下・豊橋 (48-3-36)

 

モハ52004/上・豊橋(40-3-20) 中・下・佐久間レールパーク(H19-11-3)

 

クモハ52005/上・豊橋(40-3-20偶数向きに方転されている) 下・豊橋(49-9-23)

2)モハ43039→43810・43040→53008・43041→53007

昭和12年8月川崎車輛製、戦後の経過はクモハ52とほぼ同様であるが、040と041は阪和線時代に電動機のMT30への交換が実施され、形式をモハ53に変更した。飯田線への転属はやや遅れて昭和33年2月で伊那松島区に配置された。43039は昭和40年3月浜松工場で身延線用としてパンタ部分を低屋根改造され43810に改番され富士区に転属した。53008・53007は飯田線に転属後、旧形国電終焉まで伊那松島区から移動することなく使用された。

モハ43039→クモハ43810/身延線では主に4連運用の中間車として使用されていたが、72系の車体更新車クハ66、モハ62が登場すると昭和50年3月、北松本区に転属した。当初は上松~聖高原間のローカル運用に使用されていたが、後に大糸線で使用され、昭和57年2月廃車された。

 

クモハ43810/上・柚木(47-5-6) 中・塩尻(52-5-2 上松発松本行) 下・松本(54-4-28大糸線)

モハ43040・041→クモハ53008・53007/008は昭和58年8月21日伊那松島~中部天竜間で実施された「さよなら運転」の先頭車に使用された。(編成は53008+47009+54110+47069)007は更新修繕後も張上げ屋根のままで特に人気が高かった。廃車は008が昭和59年3月、007が昭和58年11月であった。

 

 

クモハ53008/上・豊橋(48-7-28) 中・伊那福岡(48-3-25) 下・豊橋(50-1-2)

 

クモハ53007/上・辰野(54-4-29) 下・辰野(46-9-26)

(3)サロハ66018・66019・66020→クハ47153・47155・47151

流電グループの中間車サロハ66は5両中3両が飯田線に転入して運転室を取付けクハ47に改造、更に横須賀線に行った2両の内1両が転入した。

サロハ66020→クハ47151/昭和11年3月川崎車輛で第一次流電の中間車サロハ46018として新製、昭和12年8月トイレを設置してサロハ66020に改番した。昭和18年8月戦時改造で2等室廃止、トイレを撤去してサハ48036に改番、昭和25年に阪和線に転属。昭和33年11月飯田線に転属時に豊川分工場で運転室を取付けクハ47025となり、昭和34年12月の改番(番号整理)でクハ47151となった。当初はローカルに使用されていたが、クモハ52と共に快速用となった。昭和42年9月身延線に転属したが、昭和47年6月飯田線に復帰。中部天竜区に配置され、昭和53年11月に廃車された。

 

クハ47151/上・豊橋(40-3-24豊橋区で30番台の4連運用) 中・伊那本郷~飯島間(48-3-25) 下・豊橋(49-9-23 中部天竜区の運用は60番台)

サロハ66018・66019→クハ47153・47155/昭和12年8月川崎車輌で「合の子」編成の中間車として新製した。戦時中もサロハのまま残り、戦後2等室は3等室代用となっていた。昭和25年に阪和線に転属後、昭和26年11月豊橋区に転属、昭和27年2月、豊川分工場で運転室を取付けクハ47021、47022となり、昭和34年12月の改番(番号整理)でクハ47153、47155となった。昭和29年6月更新修繕Ⅱで座席のロングシート化が実施され伊東線に転属、昭和32年には身延線に転属し、昭和46年に飯田線に復帰。伊那松島区に配置され、153は昭和54年2月、155は昭和54年3月に廃車された。車内はロングシートのため、長距離利用客の評判は良くなく、特にロングシートのクモハ61と組むと最悪であった。また、広々とした車内は運動会ができる等と言われていたが、模型の運転会は十分できたと思う。

クハ47153/上・辰野(46-9-25)中・車内(46-9-25)下・田切~伊那福岡(48-9-2)

 

クハ47155/上・辰野(48-7-29)下・辰野(52-5-3 運転室窓Hゴム

(4)サロハ66016→サハ48034

昭和12年3月川崎車輛で流電(広窓)第2編成の中間車サロハ66016として新製した。昭和18年8月戦時改造により2等室を廃止してサハ48034に改造した。昭和25年に阪和線に転属後、昭和31年3月田町区に転属して横須賀線で使用、昭和34年12月飯田線快速用として豊橋区に転属した。30番台の4連運用の中間車として使用されていたが昭和53年11月に廃車された。

 

サハ48034上・豊橋(40-3-20)下・豊橋(48-7-28 )

2009年 北の大地へ Part12 富良野線 根室本線 日高本線

第9日目 10月30日

道の駅『うたしないチロルの湯』美瑛11:00→11:25美馬牛11:30上富良野16:20→17:15芦別18:30→19:00道の駅『うたしないチロルの湯』

昨夜は、早く寝付きましたので、夜明け前には、起きました。今日も天気がすぐれない予報でしたので、夕張辺りを目指すつもりではありましたが、空を見上げると、雲の流れが速くなっています。北海道に入ってより、天気予報には、敏感になっていますが、ことごとく外れています。
こういう時は、地元の人に聞く方が、間違いありません。丁度、犬を連れて散歩に来られた方に聞いてみますと、『もう少し様子を見ないと、はっきりと、分らないが、雨は降りそうにないだろう。好天になる可能性は高い。』と言われました。中学校の先生をしておられる方でしたので、石炭最盛期だった頃の話を聞いてみると、
『その頃は、大勢の炭鉱夫が住んでいて、周辺の町は、大盛況だった。蒸気機関車が、走り回り、汽笛の聞こえない時間は、なかった。後ろのサイクリングロードは、歌志内線の廃線跡です。炭鉱夫の住居には、風呂がなかった。共同浴場が向かいにあったが、老朽化したので、新たにできたのが、この温泉だった。

年中無休のはずだが、休館日だったとは、きっと何か問題があったのだろう。ここでは、7年おきに耐寒設備を点検補修しないと、雨漏りしたり屋根が抜けたりもする。箱物がたくさん出来たが、造るだけ造って、後の補修を考慮していない。これからも続く維持管理に相当な費用が必要だが、歳入が減る一方の町には、その予算を捻出できない。とても心配だ』と、嘆かれました。
『鹿の件だが、年々、被害が多くなっている。先日も友人が、鹿と交通事故を起こし、車の修理に、70万もかかったと嘆いていた。轢いた鹿は、持って帰って、生きている内に解体して食べる。』等々、書きつくせない、いろいろなお話を、聞かせていただきました。

ここの湯は、炭鉱の町だったためか、朝湯をやっていましたので、天候の様子を見る時間を兼ねて、入ってみました。通路の天井は、ビニールが張り巡らされていて、昨日は、雨漏りがひどく、臨時休館になったと聞きました。お風呂内の設備も、古くて綺麗ではありません。壊れていたりで、補修が追いついていないのか、よく分りました。
露天風呂から見る空は、どんどんと雲が流れ、青空になってきています。これは、富良野線に再挑戦しなければと思い、道の駅『うたしないチロルの湯』を後にしました。

芦別駅 これは、いったい何だと思わずにはいられない、場違いの五重の塔。日本経済発展を支えた炭鉱の町として、相応しいモニュメントがあって、しかるべきと思うのは、私だけでは、ないと思います

▲ 728D 美馬牛→美瑛 キハ54-502

▲ 727D 美瑛→美馬牛 キハ150単行

峠を越えて、昨夜走った富良野線沿いに出ました。晴れてはいますが、期待した冠雪の山々には、まだ厚い雲がかかった状態です。期待は、吹っ飛びました。仕方なく、前日の撮影地での撮影となりましたが、昨日よりは、幾分ましでした。

富良野線での撮影を諦めて、根室本線の金山~東鹿越間を目指しました。

2432D 東鹿越→金山 キハ40 12:28、山深いこの辺りを走る列車は、極めて少なく、この時間に撮れる列車も、わずか1本です。
▲ 根室本線 富良野駅から狩勝峠へ向かう中間点に『金山駅』がある。このまま、釧路、根室方面に向かうも良しです。ホームには、伊予西条駅で見たと同じ煉瓦造りのカーバイト保管庫?が、残っていました。

慎重に撮り終えて、東の空を見ますと、雲が切れて青空が広がっています。ラジオの天気予報も、内陸部では降雪と、路面の凍結に注意するように、告げていますが、日高方面は、逆の予報です。ナビをセットすると、所要時間3:30と言います。今から行けば、夕日を見れる。その時間に、列車も走っている。太平洋側は、風も強いだろう。旅の疲れも溜まってきている。節約旅行に努めてきましたが、今夜は、初めて、宿を取ろうと、『新冠温泉 レ・コードの湯ホテルヒルズ』に予約を入れました。公共の宿ですが、私としては、大奮発の9950円(一泊2食)です。

途中、道路案内板に鉄道記念公園の看板が見えました。すっかりと、振内鉄道記念館の存在を忘れていました。先を急ぎます
が、見た以上、行かないわけにはいけません。

▲ D5123 昭和18年に汽車会社製造、サハリンで活躍しましたが、1990年に帰国。ここに保存されていますが、状態は極めて悪く、修復が望まれます

客車は、スハ4537と、スハフ42-519です。こちらも。かなりボロボロ状態です。


野ざらしで、ボロボロになっていましたがD5123号機と、2両の客車が静態保存されていました。客車は、夏季には、ライダーハウスとして開放されていました。

富内線は、1964年に全線が開通し、1986戦に廃線となり、極めて短命に終わっている。残念ながら、この路線は、乗車していない。先ほど立ち寄った根室本線金山駅までの延伸計画は、あったそうです。
▲ 当時の路線図、たくさんのローカル線が、ありました。
▲ 15:20、ようやく太平洋が見えました。清畠駅で、時刻表を確認しますと15:30に様似行きの列車が出ます。ホームに上がると、かなたから、DCが走ってくるのが見えます。

▲ 撮影時刻15:39 様似行きの2233D

急いで、撮影予定地の厚賀~大狩部間厚別川橋梁を目指しました。丁度、夕日が太平洋と、川面を染めての絶景です。ただ、車が止められる余地は、道路橋梁にはありません。渡りきった空き地に駐車してから、無我夢中で、走りました。そして、撮影場所に着いた瞬間に、DCが来ました。10秒でも遅ければ、撮影は不可能だったでしょう。ただ、アングルまで決められる余裕は、ありませんでした。また、通常、私は、マニアルモードで撮影していますので、前もっての試し撮影で、最適露光を決める余裕もありませんでしたので、もっと良い写真を撮れたかもしれませんが、美しい自然がカバーしてくれました。
▲ 大狩部駅を発車する苫小牧行きの2236D
ホテルには、17:00には着くだろうと、言っておりましたが、遅れるとの連絡を入れて、夕日が沈んだ後も、暗くなるまで、列車を追いかけました。

宿は、新冠の町並みを見下ろす高台にありました。露天風呂にゆったりと浸かって、久しぶりに、まともな食事を食べました。お風呂では、襟裳岬辺りで、明日、秋アジを釣りに行くという釣好きがおられ、釣る楽しみと、食べる楽しみを聞かせていただきました。 Part13 へ続く

2009年 北の大地へ Part11 かつての常紋信号場

また次の旅立ち準備をしております。香港に、また行こうとのお誘いがありました。トラムや地鉄も撮ったし、乗ったし、他の場所が良いのですが、どうしても行きたいらしく嘆願されれば、断れないぶんしゅうです。この後、広州東→ハルピンの列車も乗りたいし、芭石鉄道、平頂山、調兵山も行って見たいと思って、OKを出しました。と、言う訳で、『北の大地へ』の、残り投稿を急ぎます。
と、思っていたら、インタネットで購入した簡単なフイルムスキャナーが、届きました。もっと早くに頼めば、昔撮った写真と比較しながら、投稿できたのにと思いました。
DRFCメンバーと行った頃の、懐かしい常紋信号場写真をご紹介させていただきます。
昭和44年9月(1969年)、当時の常紋信号場の光景です。9600やD51牽引された、しかも重連もあり、補機もあり、おまけに混合列車もありで、スキャンしながら、ノスタルジアの世界にうっとりしました。


今は、雑草が茂り、見る影もありませんが、当時は、頻繁に列車が、交換をした常紋信号場でした。



▲ こんな混合列車も走っていました。
▲ 今はなき、急行DCです。キハ56とキハ22の混合列車で、長編成でした。
    こういった約40年前の写真を見ますと、もっと一生懸命に撮っていれば思いますが、今のようにデジカメ時代になると、何カット撮っても、問題ありませんが、当時は、フイルム自体、高価でした。100フィート巻きのトライXを購入して、夜、部屋の電気を消し、押入れに入って、カメラ屋でもらった中古パトローネに、巻いた時代を思い出します。  Part12 へ続く

【5391】EVE展示は26日(木)から3日間

私の投稿が長すぎましたので、本家 青信号特派員のご了解をとり、再投稿させていただきます。

鉄道同好会EVE展示

11月26日(木)~28日(土)10:00~17:00
同志社大学今出川キャンパス寧静館401号室にて
内容:Nゲージ展示、研究展示、青信号販売etc

【5382】人間国宝 山科の写真展を開催

「山科の人間国宝」こと佐竹保雄さんの写真展が今週末から開催されます。

多方面への好奇心を失わず、家にはほとんど居ないぐらい、毎日元気に出掛けられている佐竹さん、今年の掉尾を飾るのは、山科限定の写真展です。今までも同様のテーマで開催されていますが、未発表写真も含めた、山科の魅力が詰まった総集編の写真展です。

さらに同時に開催される「石井麻子のニットアート展」とのコラボ、「雪とSLの額絵」も見ものです。

「佐竹保雄 山科国鉄写真展」

日時 11月21日(土)~12月6日(日) 期間中無休

会場 京都市営地下鉄烏丸線烏丸御池駅内

    烏丸御池駅ギャラリー(ラッチ外、中二階通路にある市民ギャラリーです)

 

なお佐竹さんの在廊日時は

11/28 10~13時            12/5 10~13時   

11/29 10~12時 13~17時     12/6 10~14時

となっています。会員との出会いを人間国宝は楽しみにされています。

かつての日本一の撮影地、山科の魅力を余すところなく表現

 

なお、佐竹さんが以前に著された「おじいちゃんのSLアルバム」が“たくさんのふしぎ傑作集”に選ばれ、絵本仕様になり装いも新たに発売中です。お持ちの方も愛蔵本としてぜひご購入をお勧めします。

今度は書店の鉄道書コーナーに並ぶので買い易い(本体1300円)

2009年 北の大地 Part10 富良野線 美瑛~美馬牛

第8日目 10月29日

道の駅『おんねゆ温泉』美瑛11:00→11:25美馬牛11:30上富良野16:20→17:15芦別18:30→19:00道の駅『うたしないチロルの湯』
期待した朝を迎えましたが、冠雪のあった山並みは、全く見えずの曇天です。美瑛駅に発着する列車音を聞いても、カメラに手が向きません。ガラガラの駐車場でしたが、北九州ナンバーの乗用車が止まっていました。まだ、道内に入ったばかりだと言う同年輩の方と、しばらく話をした後、ようやく美瑛駅探索に向かいました。
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2009年 北の大地へ Part9 常紋信号場

第7日目 10月28日

道の駅『おんねゆ温泉』8:10→8:45金華8:55→9:30常紋11:40→12:20留辺蘂13:30→14:00つるつる温泉15:30→旭川市→21:00道の駅『びえい 丘のくら』


昨夜の雨は上がり、青空が広がっていく朝を迎えました。昨日購入した毛布と湯たんぽの威力は絶大で、3度以下にもなった早朝も、問題なく眠れました。道の駅『おんねゆ温泉』内に土産物店は、中央の1軒が、6時過ぎには開店しました。生牛乳の看板に惹かれて、一杯飲んで、朝のスタートです。『ハッカ』が名産品とかで、お土産としました。 続きを読む

EVE展示は26日(木)から3日間

ぶんしゅうさんが活発に投稿されるので、最新ニュースでもアッと言う間に次ページに埋没してしまいます。

先ごろお伝えしました、現役のEVE展示も探すのに苦労しますので、ここでもう一度ご連絡します。

鉄道同好会EVE展示

11月26日(木)~28日(土)10:00~17:00
同志社大学今出川キャンパス寧静館401号室にて
内容:Nゲージ展示、研究展示、青信号販売etc

人間国宝 山科の写真展を開催

「山科の人間国宝」こと佐竹保雄さんの写真展が今週末から開催されます。

多方面への好奇心を失わず、家にはほとんど居ないぐらい、毎日元気に出掛けられている佐竹さん、今年の掉尾を飾るのは、山科限定の写真展です。今までも同様のテーマで開催されていますが、未発表写真も含めた、山科の魅力が詰まった総集編の写真展です。

さらに同時に開催される「石井麻子のニットアート展」とのコラボ、「雪とSLの額絵」も見ものです。

「佐竹保雄 山科国鉄写真展」

日時 11月21日(土)~12月6日(日) 期間中無休

会場 京都市営地下鉄烏丸線烏丸御池駅内

    烏丸御池駅ギャラリー(ラッチ外、中二階通路にある市民ギャラリーです)

 

なお佐竹さんの在廊日時は

11/28 10~13時            12/5 10~13時   

11/29 10~12時 13~17時     12/6 10~14時

となっています。会員との出会いを人間国宝は楽しみにされています。

かつての日本一の撮影地、山科の魅力を余すところなく表現

 

なお、佐竹さんが以前に著された「おじいちゃんのSLアルバム」が“たくさんのふしぎ傑作集”に選ばれ、絵本仕様になり装いも新たに発売中です。お持ちの方も愛蔵本としてぜひご購入をお勧めします。

今度は書店の鉄道書コーナーに並ぶので買い易い(本体1300円)

2009年 北の大地へ Part8 釧網本線 石北本線

第6日目 10月27日

網走市鉄道記念館8:30→9:30浜小清水付近13:00→13:30呼人付近15:00→15:30美幌駅15:40→15:50美幌市柏ケ丘公園16:00→北見市内→21:00温根湯 

昨日は、長い一日を過ごしましたので、熟睡でした。雨は、少し降った程度でした。朝の車内温度は、暖かい8度。朝霧が漂う能取湖を見ながら、車外で椅子に座って、ゆっくりと朝のコーヒーを入れて、今日はどこへ行こうかと思案です。
空は、今にも降りそうな厚い雲に覆われて、遠景からの撮影は、不可能です。昨日、浜小清水付近で見た、紅葉林の中を走る光景が思い浮かびます。雨上がりで、今日は決めようと、時刻表を見ながら、8:30に出発しました。
▲ 快速『しれとこ』3727D キハ54-522 北浜→浜小清水


 ▲ 4729D 道内ローカルのエース、キハ40-736 北浜→浜小清水

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1954年3月北陸から長野、三重 その6


ホハ12128 上松

上松で時間を費消しすっかり満足した超貧乏「旅姿3人男」は、ホハ12180を撮って多治見へ。何故東濃鉄道笠原線を覗かなかったのか、未だに分からず、救援車エ741を撮っただけである。しかも左側には3人の誰かのボストンバッグが写りこんでいるではないか。初歩時代何度かやった失敗である。因みに東濃笠原線はその5年後にほんの「ひと覗き」しただけで、遂に二度目の足すら踏込まなかった、小生にとっても唯一の非電化私鉄だった。勿論理由は分からない。


エ741 多治見 古典2軸客車の成れの果て救援車だが改造が著しい ボストンバッグはご愛嬌?

その夜は名古屋駅でステホ。相客著しく多数でベンチの確保がやっと。横になどなれる状態ではなく、しかも浮浪者(ホームレスなんぞという言葉は数十年後である)極めて多数。真夜中過ぎに全員追い出されて清掃、のち乗車券所持者のみ待合室(というものがあった)に入室を許され、朝まで過せた。なおステホ条件の良くない名古屋は、高校~浪人~大学時代都合3夜過しているが、その5段階評価は各C、D、Eである。


名古屋機関区に残っていた2B1タンク機(2Bテンダー機からの改造)1031
名古屋鉄道モ3814

名古屋鉄道モ803

翌朝は3人揃って名古屋鉄道や近鉄名古屋線を撮り、夕方四日市で集合を約して別行動とし、小生は三重交通に直行。大型電機を撮りに名古屋機関区に行った1人は、中国鉄道の社紋が残る蒸気動車キハ1を見つけた。今にして思えば、中国鉄道買収(1944年6月1日)前に名古屋近辺の軍需工場か陸海軍工廠等に徴用され、敗戦でGHQ命令で賠償指定、大蔵省管理となっていたものと思われる。


近鉄名古屋線6402 米野
近鉄名古屋線6236 米野

近鉄名古屋線急行6402 桑名

近鉄名古屋線25号電機 桑名

近鉄養老線5403 桑名

2009年 北の大地へ Part7 網走市鉄道記念館

10月26日 第5日目

道の駅『かみゆうべつ温泉チューリップの湯』4:00→4:40湧別港5:00→5:20湧別川河口海岸6:00→6:30→中湧別鉄道資料館6:50→7:30計呂地交通公園8:30→9:20佐呂間町交通公園9:45→12:00網走市鉄道記念館12:25→13:30北浜駅13:50→15:00止別駅15:05→19:00網走鉄道記念館

この日の記念館、最終訪問地は、網走市鉄道記念館です。能取湖に面した、国道沿いのひっそりとした、旧卯原内駅にありました。気をつけていないと見過ごしますが、ここはナビ地図に載っていました。
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2009年 北の大地へ Part6 佐呂間町交通公園

私事で恐縮ですが、一昨日は、毎年1回開催される中高等学校の同窓会に行って参りました。終了後に、同学年の2次会を、行いましたが、出席可否の返信FAXの中に1通、私宛の文面がありました。そこには、奥さんから、『主人は、同窓会出席を楽しみにしておりましたが、脳溢血で倒れ、入院しました。後遺症として、徒歩困難での車椅子生活、言語障害が残り、退院後の今も、1週間4日も、つらいリハビリを、強いられています。』と、書かれてありました。

何度も、連絡を取りましたが、応答はなく、心配しておりました。ようやく連絡が取れ、お見舞いに行きましたら、内容どおりの容態で、ついこの間まで、元気だった姿が嘘のようでした。折角、還暦を境に仕事を辞めて、自由に好きな事を楽しみたいと、語っていた彼の言葉を思うと、彼の気持ちのつらさが、痛いほど分ります。  

私の家内は、介護保険が始まる以前より、ご老人のお世話をしていて、その道のプロです。幾多の死や、老後生活の困難に接してきています。 

家内はいつも言います。『人間は、いつ死ぬか分らない。老人になれば、確率は高くなる。ころっと死ぬだけなら、まだ良いが、後遺症で苦しむ場合も多い。生きているうちに、元気なうちに、好きな事を思いっきりしておかないと、悔いが残る。家族も同じ思いを受ける。』

私が、自由に勝手気ままな旅を楽しめるのも、家族の理解が、後押ししてくれるからです。私もいつか、体力尽きる時がやってくると思いますが、それまでは、悔いなき人生をすごせるように、頑張ろうと思いました。

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北の大地へ Part5 計呂地交通公園

10月26日 第5日目

道の駅『かみゆうべつ温泉チューリップの湯』4:00→4:40湧別港5:00→5:20湧別川河口海岸6:00→6:30中湧別鉄道資料館6:50→7:30計呂地交通公園8:30→9:20佐呂間町交通公園9:45→12:00網走鉄道記念館12:25→13:30北浜駅13:50→15:00止別駅15:05→19:00網走鉄道記念館

次いで、サロマ湖沿いに車を走らせ『湧別町計呂地交通公園』を訪れました。途中、線路跡を見ましたが、既に雑草や林の中に埋もれていました。


湧別町計呂地交通公園は、中湧別と同様に、計呂地駅をそのまま残してありました。
撮影していると、管理人さんが出勤されてきましたので、朝のご挨拶をすると、元駅舎の資料室を空けてくだしまして、丁寧なご説明をいただきました。

展示したあったパネル『湧網線のあゆみ』を見ますと、中湧別と、網走の両端駅から延伸が始まり、昭和10年最初の開業から、18年後のの昭和28年に89.6キロが、ようやく全線開業しましたが、昭和62年に廃線となっています。34年間の短命で終わっています。

廃駅当初は、何の資料がなかったそうです。地元の方や駅員さんが、それまで集めていた資料を提供されて、展示ができるようになったそうですが、補修も必要で、町の予算もあって、いつまで続けられるか心配しておられました。


▲ 保存展示車両 C58139+スハ45-6+オハ62-91

C58
の運転台は、通常施錠されていて、保存状態は、極めて良く、このまま走らせても良いようにも思えました。また、注目したのは、オハ62-91です。昭和29年に鋼体化された車両は、TR11の台車を履き、見ごたえがありました。スハ45の方は、宿泊できるように車内は、改装されていました。一泊300円は、格安です。宿泊は、駅長の家でも可能で、こちらは500円です。

オハ62と言えば、気動車不足の北海道にあって、苦肉の策として登場した、オハ62にディーゼルエンジンを付けた珍車、キハ40(初代)を思い浮かべます。現在、『加悦SL広場』に、静態保存されていますが、非力で、狩勝峠を上るのに、9600を補機にして走りました。そんな時に、乗りたかったと思いました。

機関車には、屋根が付けられた機関車には、11月からは、シートで覆い、冬に備えるそうです。管理人もおられ、大事に補修管理されている印象を持ちました。
次の訪問地は、『佐呂間町交通公園』です。国道を右折して向かいました
Part 6 へ続く

読書感想文:「十五号車の男」黒羽英二著

新聞で読んだ書評に惹かれて図書館から借りてきたのがこの本。著者は早稲田大学出身の方で1931年生まれだから今年で78才と言うことになる。当会会員の有栖川有栖氏と同じく鉄道を使ったミステリーと新聞にあったので意気込んで読んだがミステリーとしてはもう一つだが取り上げている鉄道がユニーク、というよりマニアックである。たまたま我が家へ立ち寄った乙訓の長老や今年より大作家先生になる予定のF先生にもご覧に入れたが驚いておられた。作品は短編集である。ではご紹介する。なお、黒羽氏は自分で廃線跡探検趣味だと書いているとおりかなりマニアックで私は知らないものばかりであるから知っている方が有れば簡単に紹介していただければ幸いである。

「月の光」

江戸川乱歩の代表作「押し絵と旅する男」を彷彿とさせる設定の作品だ。乗り合わせた見知らぬ男が語る妖しい思い出話だが場所が「C県の炭と醤油で有名なN町からK浜の漁港A町まで全長39.2kmのレール幅60cmのN軽便鉄道」機関車は「1号機関車より古く、S鉄道が購入し巡り巡ってこのN鉄道へ来たもの」だそうである。さてこの鉄道はどこだろうか?この機関車は?

「十五号車の男」

平塚から横浜までの通勤電車内での席争いの話。つまらないので略。

「幽霊軽便鉄道」

主人公は廃線跡探検趣味の高校教師。ホンダライフに乗って旅に出る。回った廃線跡が出ている。曰く、東野鉄道、昭和11年廃止の塩原電車、沼尻鉄道、昭和46年に廃止の福島電鉄、高畠鉄道、新戸軌道、磐城炭坑軌道、磐城海岸軌道、好間軌道だそうな。本当にあるのか想像のものなのか分からない。舞台は好間軌道の神野木近くの老津温泉で幽霊に会うというもの。

「カンダンケルボヘ」

主人公の父親の思い出を探しにシンガポールへ行き、戦争中に昭南島、昭南市と言われたシンガポールを歩き回る話。略

「古い電車」

一人暮らしの老人が廃墟となった遊園地に残っている古い電車、子供の頃乗った思い出と現実の間を行きつ戻りつしながら独り語りする。「不動尊から宗吾霊堂5.1kmを20分かかって走った成宗電気軌道の電車で、1372mm軌間・下すぼまりのセピア色、ダブルルーフ、八つ窓、鉄製丸ハンドルブレーキ、オープンデッキ、定員客席16名、・・・」とある。

「母里」

もりと読むらしい。これを聞いてどこの廃線跡かと言うことが分かるのは少ないのではないか。広瀬鉄道跡を調べていて見つけたオハグロトンボに子供の頃の母親の思い出がよみがえる。伯陽電鉄→山陰中央鉄道→法勝寺電鉄を探検していて小学校に保存されている302号車に感激している。阿賀駅から母里までの支線を終点まで歩く。

「子生」

これもこなじとよむらしい。鹿島鉄道の廃止直前に鉾田近くにいる同級生を訪ねていくというもの。その同級生と車で廃線跡を巡るがその線が鹿島軌道。沿線の旭村に子生はある。

「成田」

先ほども出た成宗電気軌道についての思い出。作者自身が乗ったらしくかなり詳しい。今もトンネルが残っているとか。

最後に創作ノートというのがついており、それぞれの鉄道についての歴史と時刻表と路線図が掲載されている。

田口鉄道、谷地軌道、鹿島軌道、法勝寺鉄道、鹿島参宮鉄道、成宗電気軌道(成田電気軌道、成田鉄道)、千葉県営鉄道

本当に実在する鉄道なのか、車両なのかを含めて長老、大兄、大老など諸賢のご解説を待っております。

2009年 北の大地へ Part4 上湧別町鉄道資料館

第5日目 10月26日

道の駅『かみゆうべつ温泉チューリップの湯』4:00→4:40湧別港5:00→5:20湧別川河口海岸6:00→6:30→上湧別鉄道資料館
6:50→7:30湧別町計呂地交通公園8:30→9:20佐呂間町交通公園9:45→12:00網走市鉄道記念館12:25→13:30北浜駅13:50→15:00止別駅15:05→19:00網走鉄道記念館

昨夜は、風が強かったのですが、車内温度6度で、何とか熟睡できました。オホーツクの朝は早い。約40年前に宿泊した国鉄の寮で、3:30に朝日を見て、びっくりしました。4:00、今日朝は、何としてもオホーツク海に上る朝日を見たい、撮りたいと早起きしました。道の駅『かみゆうべつ温泉チューリップの湯』から。湧別港までは、直ぐです。

朝の湧別港では、漁船が出港準備をしていました。
朝日を見える場所は、どこが良いのか、分りませんので、海岸沿いに車を走らせました。
ようやく、湧別川を越える辺りで、撮影に邪魔だった防波堤が消え、砂浜が見えました。外気温は、2度。晴れた朝方は、気温が下がってきます。あかね雲が広がって、朝日を上がるのを知らせています。

三脚を砂浜に用意して、じっと待ちます。その頃から、ぶんしゅう7号だけだった堤防の道には、車が1台1台と止まって、竿を持った釣人が、砂浜に下りてきました。旬の秋アジ(鮭)を求めて、ここは格好の魚場だったのです。


5:55、オホーツク海からの朝日が上がるショーの始まりです。寒さも忘れて、うっとりと幻想的光景に見入りました。これで、フェリーで見そこなった、朝日のリベンジは、果たせました。

納得して、来た道を戻り、『かみゆうべつ温泉チューリップの湯』に隣接する湧別鉄道資料館の見学です。途中でコンビニに立ち寄り、朝食の購入をしました。かつて近くにあった湧別駅を見たいと、コンビニの店長に聞きましたが、もう跡形もなく、別の建物が建っているそうです。訪れるのが、遅すぎたようです。
思えば、SL淘汰によるブームが過熱し始めると、今まで珍しい趣味を持っていますねと、熱烈歓迎された機関区や駅構内への立ち入りは禁止され、迷惑顔をされるようになるとともに、鉄道への情熱は薄れて、カメラは、子供達を写すだけとなりました。

情熱が復活したのは、中国です。鉄道は、国防上の機密とみなされ、誰も写そう、写せずの中での反発からか、自然と、目覚めが始まりました。
かといって、熱心な鉄ちゃんでもありません。専門的な鉄道に関する知識は、希薄です。こうやって、気ままに思うがままに、国内外を問わず、あえて予定をガチガチに組まず、気楽に鉄道に乗ったり、撮影したり、温泉に入ったり、地方のB級グルメを食しながら、時には地元の人と話し込んだりして、ぶらぶらと、一人旅をする事が、好きなだけです。決め付けは、最も嫌いますので、いつまでも、旅する自由人でいたいと思っています。



1989年、名寄本線廃線に伴い、廃駅となった中湧別駅に鉄道資料館ができました。


1969年(昭和44年)当時の道内時刻表です。

上湧別鉄道資料館に戻りました。ここは、かつて、名寄本線から網走への湧網線が分岐した駅でした。1日あたり42本ものDCが発着し、急行『天都』、『オホーツク』もありました。その他、9600型が牽引する貨物列車の発着もあって、中湧別駅は、この地区の交通の要所でした。

残念ながら、今は鉄道がなくなりましたが、綺麗に保存されている駅を見て、ほっとしました。
そして、次の目的地『湧別町計呂地交通公園』へと、向かいました。 Part5 へ続く

 

今年もEVEへ 鉄道同好会へ

掲示板読者の皆さまには長い間ご無沙汰しておりますが、第二の人生、元気にやっております。「晴れたら取材撮影、雨が降ったら原稿書き」と鉄道版“晴耕雨読”の毎日です。

現役会員からも活発な便りが届きました。「青信号」も充実の最新号が完成、恒例のEVEも着々と準備中とのこと、久保会長から連絡がありました。

EVEは次のように開催されます。土曜日も含まれますので、ぜひ見学にお越しいただきますよう、ご案内いたします。

鉄道同好会EVE展示

11月26日(木)~28日(土)10:00~17:00
同志社大学今出川キャンパス寧静館401号室にて
内容:Nゲージ展示、研究展示、青信号販売etc

11/8に行なわれたカミングデーの様子。今年クローバー会の集まりはなかったが、代わりにEVEへ行ってみるかも。