関 三平さんの「昭和の電車」は、元高野山電気鉄道の南海電鉄モハ561形の次は元吉野鉄道のモハ201形→近鉄モ5201形であった。
近鉄の中では、2200系の影に隠れてあまり目立たない存在であったが、名古屋線から南大阪線に戻った車両が最末期は別として比較的末期まで大阪(阿部野橋)~吉野間の急行で活躍していたことは特筆される。
長老より解説頂いているが、少しだけ補足を試みた。しかし、基本的な部分で不明点があり、ご存知の方はぜひご教示をお願いしたい。
(1)モ5201形の制御器がHLからALに変更された時期。昭和32年に名古屋線から南大阪線(含吉野線)に戻った時と思われるが確証が取れていない。
(2)ク6503を名乗る車両が2両存在した。初代ク6503が廃車後、別の車両がク6503に改番された結果と思われるが、2代目のク6503の旧車号が不明。私個人的には初代ク6503とク6501車号を振替えたのではないかと思うが、車号を振替える理由が見当たらない。あえて考えられる理由は、ク6501形7両を養老線に転属させる際に車体状態の良いク6503を名古屋線に残すため、ク6501と相互に改番して、転属車をク6502~6508に番号を揃えた。
いずれもピク誌のバックナンバーを丹念に調べると答えが簡単に見つかるかも知れないが、あいにく実家の物置に眠ったままである。
名古屋線に転属後は、サハ301~310(改番後ク6501~6510)は制御器をABFに取換え、片運化、トイレ設置の改造が実施されて急行用となった。
モハ201~206(改番後モ5201~5206)とサハ311~314(改番後ク5511~5514)はHLのまま、普通列車や伊勢線で使用されたが、後にク5511~5514は制御器のABF化と片運改造の上、ク6511~6514に改番された。
長老が記されている通り、昭和32年に南大阪線の大型車モ6801形(6801~6804)とク6701形(6701・6702)とのトレードでモ5201~5206が南大阪線に戻り3連×2本を組んだ。モ5203と5206は電装解除され制御車として使用された。名古屋線改軌によりク6511~6514が南大阪線に戻り、制御車代用であったモ5203と5206はモ6601形の予備電装品で再度電装され、モ5211・5212となった。また、モ5205が5203に改番された。
名古屋線に残ったク6501~6510のその後の経過は、名古屋線改軌時にクハ6501~6509は標準軌に改造されたD-16に履き替え引続き名古屋線で、クハ6510は養老線に転属した。昭和38年にクハ6509、昭和45年にクハ6502~6508が台車を狭軌用のD-18に交換の上養老線に転属し、先に養老線入りしていたクハ6509、6510が廃車になった。
外板を全面的に張り替えたク6503(初代)以外は、全鋼製の頑丈な車体の故、新製時のスタイルを大きく崩すことなく使用されていたが、南大阪線は昭和49年、養老線は昭和52年までに廃車になった。
モ5203(2代目)/(46-6-6) 古市
電装解除して制御車として使用されていた、初代モ5203が電装の上モ5211となったため、モ5205がモ5203に改番された。
〔モ5211形〕
モ5212/(49-5-20) 道明寺
元モ5206で制御車として使用されていたが、モ6601形の予備の電装品で電動車化された。
〔ク6501形〕
ク6501/(40-5-23) 四日市
2代目ク6503に改番されたと推定。
ク6503(初代)/(43-2-13) 白塚
事故復旧時に外板を張り替えノーシル、ノーヘッダーとなった。2代目ク6501に改番されたと推定。
ク6503(2代目)/(46-7-25) 西大垣
元ク6501と推定。
ク6510/(45-10-4) 西大垣
先に養老線入りしたク6509と6510は運転台が大垣向きであったが、ク6502~6508は中川の3角線で方転の上入線したため、運転台は桑名向きであった。
ク6514/(42-8-20) 古市
この時点ではパンタが付いていた。
上記の不明点、推定部分については、ピク誌通巻219号、313号に記載されている可能性があり、お持ちの方は是非ご確認をお願いしたい。