やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ⑰

北の“ナメクジ”②

D51のなかで初期に製造された95両の“ナメクジ”は、その構造ゆえ集煙装置が取り付けられないため、配置が限定されていました。たとえば、集煙装置が必須の大畑越えの人吉区や、旧北陸本線の敦賀区などには“ナメクジ”はゼロでした。いっぽう北海道には集煙装置を付けた蒸機は皆無のため、“ナメクジ”の割合が多くなったのかもしれません。ひとつのエピソードとして、山口線で蒸機復活が決まったとき、D51 1も候補に挙がったそうですが、集煙装置の取付けができないため、除外された経緯があります。今回は北海道にいた“ナメクジ”34両の中から、特徴のある機も集めてみました。

長野工場製の切取りデフを装備したD51 95〔滝〕 松本、長野区時代が長く、その時にデフが換装された。重油併燃装置も付けたまま、北海道へ転属した。旭川(昭和43年9月)

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昭和の電車 改訂版(189)ー小田急モハニ101型ー

前回の掲載時には、乙訓の長老様からこんなコメントが来ていました。

「老人は乗ったことがある、見た事があるが感性を揺さぶる電車であった、つまり思い出を今に残す電車についてのみコメントを入れる事にしています。今回のモハニは新宿で夕刊を積んでいるのを一度、それも中央線の下り電車で気付いた程度でした。1958年春に経堂車庫を訪問していますが、そのときは構内入替車になったのが有った様に思い出しましたが、詳細についてはしっかり覚えて居りません」

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ⑯

北の“ナメクジ”① 岩見沢区

こちらも連載が開きましたが、北海道の蒸機めぐり、再開します。前回では、いちばん数の多かったD51のなかで、倶知安、長万部のD51を紹介しました。渡道して感じたことのひとつは、D51のなかで、“ナメクジ”の遭遇率が高いように思えたことでした。D51は1115両が製造された製造両数がいちばん多い蒸機ですが、大きく分けて3種類に分別され、一次形の1~85、91~100の95両は、煙突、給水加熱器、砂箱、蒸気ダメをカバーで収めた独特の形で、“ナメクジ”と通称されています。1115両のうち、“ナメクジ”は95両なので、その割合は約9%になります。ためしに昭和44年の車両配置表で調べると、当時の北海道のD51在籍229両のうち、“ナメクジ”は34両あって、その割合は約15%になり、たしかに北海道に“ナメクジが多かったことが分かりました。なかでも岩見沢区(のち岩見沢第一区)には、D51の34両のうち12両と、“ナメクジ”率が飛び抜けて高い区でした。

室蘭本線で長大なセキ編成を単機で牽く“ナメクジ”、このカーブを終えると、あとは延々と日本一の直線区間が続くことになる。D51 11 白老~社台(昭和43年9月)

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 私の好きな電気機関車たち   ⑩

山手貨物線のデッキ付き電機

電気機関車を撮っていた1970年代、関西で見られたデッキ付きは、阪和線のEF52や大阪駅のEF14ぐらいで、東海道・山陽本線では、デッキ付きのEF15は撤退して、箱型の電機ばかりでした。しかし、東京へ行けば、まだ多くのデッキ付き電機が、旅客、貨物を牽いていました。旅客は、以前に紹介した東北本線のEF57がその代表でしょう。貨物と言えば、その本数から言って、山手貨物線を走る貨物列車が挙げられます。形式も、EF10、11、12、13、15と多彩でした。まだ武蔵野線が全通する前で、時間帯によっては、実に多くの貨物が走っていて、デッキ付き電機の良さをしみじみ感じたものでした。

EF15 174の牽く自動車輸送列車、「ク」を連ねた貨物も、いかにもこの時代の特徴をよくあわらしている。EF15は200両以上も造られて、ほとんど廃車もなく、EF65に次ぐ両数だったが、関西ではもう見られず、貴重に映った。 続きを読む

 私の好きな電気機関車たち   ⑩

東北の赤い電機

久しぶりの掲示板投稿になりました。なかなか投稿頻度は上げられませんが、セッセと投稿を続けます。「電気機関車」シリーズ、前回はED70を紹介しましたが、赤い色に塗られた交流電機は、線区、周波数の違いで、多くの形式があり、とくに交流線区が多岐にわたる東北地方には、さまざまな交流電機が見られました。

東北本線の電化は黒磯を境に、北は交流50Hzと決定されて、昭和34年7月に黒磯~白河が開業した。北陸線用として、すでにデビューしていたED70をベースに50Hz用として、さらに高性能化したのがED71である。まず1~3が、別々のメーカーで先行試作されテストされ、写真の1号機が量産車として選定され、昭和35年の福島電化用に量産機が41両、さらに蒸機置換用として11両が新製され、全部で55両が揃った。昭和39年には寝台特急「はくつる」が登場、黒磯~仙台で、鶴をあしらった青いヘッドマークを輝かせた。その後、後継のED75がデビューし、活動範囲は狭められていくが、昭和57年まで働き、同じスタイルのED70より長命だった。写真の試作1号機は、当時貨物の補機専用に限定使用されていた。ED71 1 福島 (昭和46年9月)

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昭和の電車 改訂版(187)ー高松琴平電鉄300号ー

ことでんと言えば乙訓の長老です。
手が空くと長老様のお宅へ上がり、作品集の写真を預かって帰って来ていますが、なかなか整理がつきません。そんなときに今回の記事を見て探し出したのがこの写真です。例によって撮影場所や日時は不明ですが、文中にある「300型120型500型」と近鉄南大阪線から来たという「23号」の写真です。残念ながら丸窓はすべて改造された後です。

木次からの便りが届きました

クローバー会の木次線ツアーは平成29年4月でしたが、あれからもう4年が経過しました。その際に大変お世話になった「C56108保存会」の堀江会長殿から会報が毎号送られて来ています。この度 第8号が届きました。A3判 両面刷りの会報です。すべてをご紹介します。

C56108保存会会報「ちどり」

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昭和の電車 改訂版(186)ー神戸市電500型J車ー

この当時の電車には“丸窓”が多かったのでしょうか?
京福や上田や他にもあったような気がします。

前回の掲載時にお一人だけ檜垣禮司 様からコメントを頂きました。ありがとうございました。tsurukameさんや湯口さんからもウンチクを頂きたいものです。

岩日線と国鉄バス岩益線のこと

昨年は転職して九州の大分県に行き、最南部の都市で働いていたのですが、いろいろと思うように行かないこともあり、3月で退職。
大阪に戻ろうと思ったけれど、件の伝染病が猛威を揮っており、それもどうかなと考えて、今山口県と広島県の境の都市に来ています。
ここでぶらぶらと次策を練っているのですが、市内見物よりも郊外に興味が湧いて、奥地によく自動車を走らせています。

写真は文化財級建築の岩徳線西岩国駅ですが、本来は徳山までのショートカット、一説には新幹線以前の弾丸列車の構想で、ここにステーションを作る構想だったらしい。
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三江線のその後

平成30年の廃止からもう3年が経ちました。ぶんしゅう氏やワラクロ氏が現地に足繁く通われ、最後の姿をしっかりと記録されたと思います。地方線区が廃線になると、駅舎の撤去はそれほど難しくはないものの、レールを剥がしたり、鉄橋の桁を外したりするのは大きな費用もかかるため放置される例が数多くあります。トンネルや鉄橋はそれなりに安全対策はされるでしょうが、わびしい光景を晒すケースが多いようです。三江線沿線では地元住民が駅周辺を公園にして、地域振興を図っている例もあります。

令和3年4月2日 中国新聞朝刊

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芸備線の行く末は?

平成30年4月に三江線が廃止されてからもう3年が過ぎました。三江線の次は、誰が考えても芸備線新見口、木次線、福塩北線という流れでしょう。ナリを潜めていたJR西が動き出しました。廃止ありきではないと予防線を張りながら、備後庄原・新見間の沿線自治体や住民と芸備線のあり方について協議する体制を作りたいとの提案です。それはそれで進めるべきだと思いますが、芸備線、三江線に限らず北海道、四国はじめ全国各地に共通する重い課題を、「地方創生」と言いながら地元任せにして見て見ぬふりをする江戸幕府は一体どこを向いているのでしょうか。

掲載から少し時間が経ってしまいましたが、6月9日の中国新聞の記事をご紹介します。かなりの紙面を割いての報道でしたので、いくつもに分けてスキャンしたので見にくい点はご容赦を。

令和3年6月10日 中国新聞

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