デジ青管理人の小西Jrです。先日Googleから掲示板に対してセキュリティー警告(ハッキングによる改ざんの可能性)が通知されたため現在調査中です。
今のところ怪しい記事やコメントの投稿や改ざん、不正な投稿者の追加などは見つかっていません。念のため、海外からのアクセスブロックを行い、過去の作業ファイルなどを全て削除しました。
不正アクセスへの対策として、これまでもJetPackやAkismet、VaultPressプラグインを導入し、ソフトウェアファイアーウォールなども使用していますが、昨今の攻撃増加に対して不十分と思われたため、さらにJetPackPremiumアカウントにアップグレードし、掲示板のすべてのコンテンツに対するリアルタイムマルウェアスキャンを有効にしました。
十連休にボーとしないために
先日、日本橋駅近くの文楽劇場へ観劇にいくと上掲のチラシが置いてました。好物の近鉄2200系と2250系の画像が眼をひきました。2250系は今年1月の鉄路輝く写真展にも採用いただき60年ぶりに輝きました。2200系は十代に母親に連れられ神道団体の貸切列車で伊勢神宮初詣に毎年乗りました。今月は近鉄しまかぜが退位報告の陛下と共に大和路伊勢路と活躍し近鉄関係者もお疲れのことでしょう。落語と8ミリ映画という変な取り合わせ、8ミリ映画と聞いて温泉宿などを思い出されたのは後期高齢者でしょうね。日本橋駅は大阪メトロ近鉄阪神阪急で交通至便、十連休の暇つぶしにいかがですか。
クローバー会の皆さんも高齢の方々が増え、最近の桜井線撮影会の掲示板報告にも帰途の近鉄電車にトイレが付いていて助かったとありましたが、大阪線で数少ない5200系運用に乗車されたのはもっと幸運でしたね。通信員は前立腺が廃線となってから五年になりますが、皆様もPSA検査などで保線に努められ機嫌よく趣味に没頭されますように。
なお本稿掲示に当たり介護士壱号さまより適切なる介助を受けましたことに深謝いたします。
平成の桜(鉄鈍爺の巻)
総本家青信号特派員さんには及ぶべくも無いですが、私なりの平成を振り返ります。
先ずは平成締めの桜の動画です。(阪急京都線の桜並木、2019年版)
好天に恵まれたこともあり、綺麗に録れました。
ぼんやりとしか覚えていない映画に写っていた鉄道
新聞にちょっと気になる本が載っていた。その本は「あの映画に、この鉄道」という題名である。出版社はあの「キネマ旬報社」である。最近では柄本佑、安藤サクラご夫妻がキネマ旬報ベストテンで主演賞を受賞したということで話題となった。キネマ旬報の映画賞はアカデミー賞を越えて世界最古クラスである。この本の著者は川本三郎氏で、この本のあとがきに次のように書かれている。「日本映画に登場した映画の数々を紹介している。映画も好きだが、鉄道の旅も好きな人間なのでこんな本が生まれた。 類書は少ないと思う。というのは、一般に映画好きの鉄道ファンは少ないし、鉄道好きの映画ファンもあまりいないから。本書が両者の架け橋になればいいと思っている。」
羽村さんが遺したアルバムから 〈15〉
京阪特急への憧れ
阪急デイ100が大好きだった羽村さんですが、アルバム後半からは、京阪電車も多く見られるようになります。京都市内だけではなく、大阪まで足を伸ばして、走行中を撮っています。以下の写真は、昭和27年の撮影ですが、京阪の歴史を紐解くと、昭和25年に初めて「特急」が朝夕2往復走り出し、その翌年、昭和26年4月からは終日運転に拡大されます。この時、特急専用車として1700、1750形が計10両新造され、MT2両固定編成となり、初めて赤黄の特急色が採用されました。当時の国鉄、阪急にはない派手なカラーが、羽村さんの心を動かしたのでしょうか。
▲京橋を発車し、野田橋へ向けての併用軌道区間を行く鳩マークの天満橋行き特急。特急は、三条、天満橋とも7時始発、ラッシュ時30~40分ごと、10~17時1時間ごと、終発は20時で、三条~天満橋53分だった(昭和27年12月)。
癒しの島 台湾鉄道2019年春の旅 Part 8 帰国 台北⇒鹿児島
癒しの島 台湾鉄道2019年春の旅 Part 7 再び淡海トラムを撮る
▲ 淡水站の先に留置展示されていたBK10形、BK-20号機の蒸気機関車。
BK-20号機はイギリスから輸入した2-4-2 (1B1) の車軸配置タンク式蒸気機関車です。A8形と称され、大きさや性能が手ごろで使いやすかったことから、国鉄では国産も含めて複数メーカーから改良型を大量に導入し、私鉄などにおいても同系車が数多く導入され、国鉄からの払下げ車も長く使用されました。改良型も含めた総量数は157両余りにも達した明治時代の代表的な蒸気機関車です。台湾でも18両が導入されています。
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羽村さんが遺したアルバムから 〈14〉
完成した三代目京都駅
平成の終わりが刻一刻と迫ってきていますが、デジ青投稿も積み残しのテーマが多くあって、焦りを感じています。羽村さんから預かった写真だけでも、大急ぎで載せていくことにします。今回は、昭和27年5月に完成した三代目京都駅です。この羽村さんシリーズでも京都駅は多く採り上げられており、〈1〉では二代目駅舎、〈10〉では、焼失した二代目に代わる、三代目駅舎の建築中の様子が紹介されています。今回は、その三代目駅舎が、焼失後わずか一年半で完成し、業務を開始したあとの姿です。
▲高さ30m、8階建て、真っ白な塔屋が青空に映える三代目京都駅。おそらく当時では、京都で一番高い建物だったのだろう。この塔屋には、以前にも記したが、フロアごとに飲食店が入り食堂街となった。
平成の桜を振り返る 【2】
阪急嵐山線
平成の桜、つぎは阪急嵐山線へ向かいます。終点の嵐山駅も、周囲は桜に囲まれていますが、途中の上桂、松尾の二駅にも、ホームに沿って桜が植えられて、とくに春秋のシーズンに運転される梅田~嵐山の臨時電車の運転の際には、よく訪れたものでした。現在もホームの桜は、変わらずに咲いていますが、車両はすっかり様変わりしました。
▲上桂駅には、両側のホームに桜が植えられていた。京都のほかの桜より、開花が2、3日早いようで、桜のシーズンは、まず上桂へ行って、その年の開花状況を占ったものだ(平成11年)。
癒しの島 台湾鉄道2019年春の旅 Part 6 南迴線 DR2700系リバイバル號を追う
▲ 12:32 金崙駅を発車してコンクリート橋を渡っていくDR2700系5両編成、今までは6両編成で運行されていましたが今回は1両減で走行しました。
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桜井線を走った蒸機列車
先般のクローバー会“桜井線ツアー”、知られざる廃線跡、構造物を巡りながら、参加者と歓談し、収穫の多いツアーとなりました。このツアーで、櫟本駅を下車して、北側の楢町橋梁まで歩いて、ポリクロミーの橋台を見学したあと、周辺の踏切で、まもなく置き換えが始まる105系を写すことになりました。踏切に立ったとたん、初めて来た場所のつもりなのに、なにか以前に来たことがあるような既視感にとらわれました。その時は、よく分からず、帰ってから、かすかな記憶力を振り絞って思い出すと、30年以上前に、この場所で蒸機を撮ったことを思い出しました。
▲櫟本で下車して、桜井線によく見られるポリクロミーの橋台を見学して、みんなと105系の撮影をした。大半は西側にある菜の花で“前ピン撮影”に臨んだが、私は踏切近くに張り付いた。南北に築堤があって、田んぼの向こうに学校が見える、どこでも見られる、当たり前の風景、一瞬、以前にも訪れたような気がした。
平成の桜を振り返る 【1】
ことしの桜シーズンも京都周辺では終わりました。この歳になると“あと何度、桜が見られるだろう”のフレーズが、身を持って感じられます。ことしは、ぶんしゅうさんと連れ立って、各地の三セク鉄道へも行きました。時あたかも、あと二週間で平成も終わります。去りゆく元号を惜しんで、“平成の桜”を思い返してみたいと思います。平成時代の31年間、桜のシーズンになると、鉄道との組み合わせを求めて近郊へ出掛けたものです。撮影する場所は毎年同じでも、車両が代わり、桜の樹勢も変わっていきます。平成に巡り会った桜は、鉄道の移り変わりそのものでもあるのです。
▲京都方面行きホームの背後には桜並木が続いていた。その後、ここは宅地開発されて、桜は全くなくなっている。旧スタイルの駅名標も懐かしい(平成7年)。
癒しの島 台湾鉄道2019年春の旅 Part 5 南迴線 金崙で撮る
再度、『かえだま』に関する考証を
河 昭一郎さんより、先の投稿に補追として写真と解説が送られてきました。
我々には事故による車輌運用の事件として面白おかしく伝えられてきた話題ですが、当事者には大変な、歴史的大事件だったことが先の河さんによるご投稿で明らかになりました。『かえだま』などと揶揄していた不見識を恥じるばかりです。
それでは送っていただいた当時の貴重な記録写真と解説をご覧頂きます。
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天は我々に忖度したのか! 桜井線行
一週間前から天気にヤキモキした桜井線行であるが、天は我々に忖度してくれた。14日の朝、桜井線京終駅に集まった面々はほっとした表情である。それもそのはず、薄日が差す天気だから。前日の天気予報であれば朝から雨が降ることになっていたのである。
癒しの島 台湾鉄道2019年春の旅 Part 4 南迴線 達信で撮る
▲ 11:20 青い台湾海峡の水平線が見える中、急勾配を登ってやって来たのはR139号機牽引の毎日1往復の普快車です。この辺りはまだ架線柱工事が進まずストレスなく撮影できました。
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癒しの島 台湾鉄道2019年春の旅 Part 3 高雄站、南迴線を撮る(屏東、坊寮~加禄、嘉和遮體)、南洲
第2日目 3月15日
今日は電化工事の始まっています南迴線の架線電柱が立つ前に撮っておこうと加禄の陸橋での撮影をすることにしました。昨夜遅くに高雄空港に着かれた千住のヤスベイさんも同行される予定でしたが体調を壊されたそうでホテルで休憩されることになりました。不銹鋼號さんと合流するため台鐡高雄站へ向かいます。
▲ 台鐡高雄站コンコースに展示されていたリニューアル後の完成予定パース図です。日本なら高層ステーションビルが建設されるでしょうが公園の中に駅がある自然派的な駅です。癒しの島「台湾」らしさを感じます。
国鉄京都自動車工場について
最近、別件で本棚をさがしていたところ、『国鉄京都自動車工場十五年史』(昭和37年8月1日発行)がでてきましたので、米手作市さんの 2019年1月17日投稿 「【103398】西村さんへの借りを返すの巻」 に関連して、ご参考に供します。

全景
京阪大津線の歴史を調べて(大津電車軌道坂本延伸裏話)その3
3. 全線開業までの運行形態
先に開通した三井寺-螢谷間はカーブの多い路線で大正末期には開業時に作られた大津電軌1型(京阪合併後の旧80型)とその後増備された大津電軌11型(京阪合併後の90型)という路面電車タイプの車両によって運行されていた。これに対し、三井寺-坂本間はカーブの少ない直線の線路を主体に、当時の高速高規格電車での運行が計画された。開業時に新製された琵琶湖鉄道汽船100型(京阪合併後の旧800型)は15m級ではあったが片側ロマンスシート、片側ロングシートの当時としては先端を行く車両であった。螢谷-坂本間で線路がつながったと言っても三井寺を境に坂本側は高規格の高床式、螢谷側は路面タイプの低床式と全く異なり乗客は三井寺で乗り換えを強いられ、この状態は昭和6年まで続いた。ところで部分開業の時はどのような運転形態であったのだろうか。開業時に作られた仮停留場の図面を見ると、三井寺停留場と兵営前停留場は路面タイプの低いプラットホームで、これに対して山上停留場、松ノ馬場停留場は高床用のプラットホームであった。
四日市のさくら
三重県に住んでいながら、つい大阪や奈良に足が向いてしまいます。青山トンネルを越えて東へ向かって行くのは、なにか文化・風土の違う土地へ行くように思えてなりません。しかし今年は折角さくらが遅くまで咲いているので雨で散る前にと、思い立ちました。いつも近鉄ばかりなので違ったところで四日市あすなろう鉄道(半分くらいは近鉄ですか)です。最近では、雪の降った時に行ったことがあり、その時桜の咲きそうな場所を見たのを思い出しました。日永~南日永の「なろうブルー(161+ )」です。
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