明日はどんな報道が流れるのかわかりませんが、いよいよラストランが近づいてきました。
今日はこれだけです。
式敷~口羽 開通式 (山科の人間国宝提供)
三江線も、いよいよ明日に最終日を迎えます。デジタル元祖青信号では、訪問記や新聞記事が掲載されて、私も関心を持って推移を見守ってきました。三江線最終日は、どこで迎えようかと、以前から思っていました。しかし、現地で立ち会うことは叶わず、静かに見守ることにしました。結局、私が三江線に行ったのは、三江北線時代の昭和46年と、昨年の9月の2回だけでした。一昨年春、当会の三江線ツアーにも参加できずで、今でも桜満開の潮駅で、江の川沿いを行く列車を、みんなで撮りたかった、と思っています。このように、三江線に対する思い出は乏しいのですが、その思い出を振り絞り、三江線に対する餞としたいと思います。
▲まずは、山科の人間国宝から貸してもらった写真の代理投稿。三江南線の式敷~口羽13.7kmが延長され、昭和38年6月20日に開通を迎えた。その当日、口羽で行われた開通式の様子だ。
実は、先の三江線ツアーがあった際に、人間国宝から、“参加の人たちに見せてあげてください”とネガを渡されました。それが昭和38年の式敷~口羽の開通式で、本来なら、私のほうで写真にして参加者に渡すべきでしたが、人間国宝のご厚意に応えられないまま、最後になっての寄稿をお許しください。
3月31日はJR三江線の運行最終日ですが、大阪市営地下鉄も市営としての運行最終日です。民間会社の大阪高速電気軌道株式会社が4月1日から運行することになります。Osaka Metro(オオサカ メトロ)と呼んで欲しいそうですが、皆さんはどのように呼ぶのでしょうか。オオサカ メトロになる前の梅田駅で撮ってみました。地下鉄の写真は初めてです。
大阪モノレールで門真市から大日まで乗ったのですが、なんと京急が走ってきました。当然正面には「都心へビュン。京急!」の文字が見えます。モノレールもラッピング車両が多くなっているようですが、まさか京急とは!と驚きました。このキャッチフレーズは先日都電撮影会で東京に行った時に本物にお目にかかりました。
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お久しぶりです。1988年度生の「子パンダの保護者」こと山本晃司です。
先日、3泊4日で台湾まで娘と2人で出かけてきました。
乗り鉄中心ですので、諸先輩方とは少し視点が違いますが、ご笑覧くだされば幸いでございます。
1日目:3月24日(土)
まずは、難波から「ラピート」です。
平成に入ってから撮ったネガを眺めていると、撮影の記憶が全くないものも出てきます。以下の写真もその例で、この一枚しか撮っておらず、撮影日も、その前後の行動も不明です。平成も30年経てば、加齢もあって、記憶はますます薄れていきます。この点は、昭和の時代と変わらないと改めて思った次第ですが、何気に撮った一枚だけの写真でも、写真を仔細に観察すると、平成の歴史を感じ取ることができます。
▲平成に入ってすぐ、3月11日に実施されたJRダイヤ改正で、片町線の長尾~木津の電化が完成した。これにより片町線は全線電化となり、103系が全区間で走ることになった。写真は、木津駅1番ホームで写した快速の片町行き、木津発の「快速」は昼間40分ヘッド、同志社前発の快速と合わせて、快速は20分ヘッドでの運転だった。東西線の開業以前、学研都市線こと片町線が、めざましい躍進をする前で、線内完結していた時代である。木津駅も、蒸機時代のままの構内を残していた。撮影日も不明だが、調べると初日の3月11日は土曜日で、初日狙いで行ったのかもしれない。カメラを持った人間、腕章を巻いた指導乗務員も、いかにも初日のようにも見える。
第4日目 2月26日
6:30 撮影地 鼓山~高雄 Google座標; 22.637894, 120.285072
今日は朝食前に高雄へと向かう職員列車を撮ろうと朝食前に愛河鉄橋の袂へとTaxi乗車組と自転車乗車組に分かれて向かいました。

▲ 7:30 愛河を渡っていくR23号機牽引の職員列車はわずか1両の客車でした。
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京都の人々にとって、長い間“水泳”と言えば琵琶湖でした。海水浴という言葉は特別な響きがあり、泊まりがけで行く旅行を意味していましたが、“水泳”は手軽な日帰りのレジャーでした。その時乗るのが「京津電車」で、琵琶湖は子供時代なじみの水泳場でした。
藤田さんの撮りためた京津線・石坂線の電車を最後にお目にかけます。
※ 不明の場所や車両に関する情報はお教えください。
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信楽高原鐵道に初乗車
平成に変わって初めての春に、信楽高原鐵道に乗車しました。昭和62年7月に、国鉄信楽線から第三セクターに転換され、1年半経ってからの初乗車です。信楽線は貴生川~信楽の14.7kmで、鉄道敷設法76条に「貴生川ヨリ加茂ニ至ル鉄道」として挙げられた区間の一部として、昭和8年に開通しました。戦時中は、不要不急の路線に指定され営業休止、戦後に運転を再開しました。国鉄再建法では、第一次廃止対象線区に指定され、昭和62年7月13日、第三セクターとして転換開業しました。
▲貴生川駅に到着した203号、開業時に201~203が登場した。当時、貴生川ではJR線とつながっており、ホーム番線もJRに準じた0番ホームになっている。(以下撮影、平成元年4月7日)。
ぶんしゅう氏の写真提供がきっかけとなって、倉吉観光マイス協会との交流が始まり、倉吉線鉄道記念館にクローバー会会員から寄せられた多くの写真が展示されるに至った経緯については、2016年10月の【76334】「陰陽横断3日旅(後編 倉吉線跡探訪)」で詳しく紹介させて頂きました。ぶんしゅう氏と私が倉吉を訪ねたのが、2016年10月11日、そしてその10日後の10月21日に倉吉市を震源とするM6.6の鳥取県中部地震が発生し、観光に力を入れておられる倉吉が大きな被害を受けたことにショックを受けました。あれから約1年半が経過した先日、倉吉観光マイス協会の塩川修氏からご丁寧な手紙と共に、完成したばかりの倉吉線ガイドマップ「旧国鉄倉吉線廃線跡探訪地図」が送られて来ました。A3版厚紙3ツ折り両面刷りの立派なマップです。鉄道記念館用にご提供した写真の中から何枚かをこのマップにも使って頂き、画像提供者として同志社大学鉄道同好会OB様と記載して頂いていますので、マップ全体を分割してご紹介します。
24,25日は最後の土日ということで多くの人でにぎわったようです。クローバー会の戦闘的会員も何人かは現地に向かわれていることでしょう。今週いっぱいは好天が続くようです。現地レポートを期待しましょう。
現在FirefoxやChromeユーザを中心に管理ページにログインできないという不具合が発生しています。
不正な書き換えは見つかっておりません。InternetExplorerやSafariでアクセスしたりパスワードリセットにてログインできる事例もあるようです。原因究明中ですのでもうしばらくお待ち下さい。
追記:原因として、当掲示板のホストであるさくらインターネットでは3月7日〜4月10日にかけてサーバメンテナンスを行っており、作業に伴う仕様変更によってセキュリティー関連の障害が発生した可能性が高いです。https://www.sakura.ne.jp/news/sakurainfo/newsentry.php?id=1887
MySQLデータベースのログインユーザ情報を書き換えたり、Webスペース内に不審なファイルを置いたりといったハッキングを示唆する変更はありませんでした。
対応としまして、セキュリティー関連の再整備のためにdrfc-ob.com全体のSSL化を行いました。また不正な投稿やコメントをブロックしているAkismetプラグインを入れ直しました。
こちらの環境では上記対応後、不具合の再現はなくなりました。
継続して不具合のある方は管理人へメールかTwitterで連絡を下さい。
宮原の公開イベント
国鉄からJRになったのが昭和62(1987)年ですから、平成に入って、まだJRは2年目でした。私は、「ジェイアール」の横文字が気恥ずかしくて声に出せず、もと国鉄をなんと呼んでいいものやら悩んだ時代でもありました。この頃、JRではさまざまな誘客策が展開されていましたが、機関区など現業部門の公開イベントもその一つでした。国鉄時代からも公開イベントはあリましたが、およそサービスなどとは無縁の現業部門の人たちが、必死になって来場客と接している姿を見て、JRの変身ぶりを感じたものでした。
▲宮原操車場の公開へ初めて行った。新幹線から全体は見えるものの、“宮原”という駅もなく、どう行っていいのかも分からなかったが、阪急十三駅から歩いて行くと正門があった。車種は現在と特に変わったものではないが、パンタはきっちり上げて、ヘッドマークも寄せ集め的ながらも装備して、今より価値があるように思えた(以下撮影日、平成元年4月30日)。
旧線時代の馬堀駅付近
山陰本線京都口は、昭和46年に蒸機が消えて無煙化されました。その後、車両は、客車は50系、12系化、DCは40系の新系列に置き替えられたものの、国鉄末期の窮乏状況では、単線非電化から抜け出せないまま、昭和から平成を迎えました。京都~園部では、客車列車なら1時間20分程度を要し、蒸機時代とほとんど変わりませんでした。ネックになっていたのは、やはり蛇行する保津川の渓谷を行く狭隘区間で、改良計画では、この区間を6つのトンネル、5つの鉄橋で一気に突き抜けるものでした。これにより、距離は1.6キロ短縮され、保津峡、馬堀の駅は新駅に移転するものでした。
▲朝の馬堀駅で交換する列車、どちらも28・58系だが、左は131D園部行き、右は136D福知山発の普通列車で、いずれも急行列車の間合い利用のようだ(以下撮影、すべて平成元年3月4日)。
花の便りがあちこちから届く今日この頃ですが、三江線は余命1週間となりました。しばらく好天が続く予想ですから、沿線は一層賑わうことでしょう。今回は長船友則氏も登場です。
2018年も3ヵ月近くが経ちました。よく考えたら、来年5月から新しい元号が施行され、「平成」という時代も、あと一年余りなんですね。我々の世代が、本欄で思い出を綴っている「昭和」も、来年になると、二世代前の出来事になってしまいます。昭和の時代、鉄道趣味の面では確かに面白い時代だったことに違いはありません。しかし、昭和の賛美だけに終始していると、来年、新しい元号になると、平成は“失われた時代”になりかねません。
いまの現役会員や20歳代は、すべて平成生まれです。昭和は生まれる前の時代であり、昭和40年代に20歳代だった我々の時代に置き換えると、デジ青で戦前の話を聞いているのと同じで、これでは20歳代にはなかなか理解できないでしょう。別に若い世代に迎合するつもりはないのですが、若い世代から共感が得られる記事も必要だと思いました。
平成の時代も、細く長く鉄道を撮り続けてきた積もりですが、それらの整理、見直しは、ほとんどできていません。平成が終わろうとする今こそ、写真・データの整理を始めなければと思った次第です。これからは、“昭和”も記録しつつ、“平成”も平行しながら、鉄道写真のアーカイブス化を進めて行きたいと願っています。そこで、昭和から平成へと移った直後の記録を順に綴っていこうと思います。
▲平成に入ってからも、私の撮影はモノクロが中心だった。ただ、カラーも平行しながら撮っていて、最初はカラーネガが中心だったが、徐々にカラーポジでも撮るようになった。カメラは、平成に入ってEOS-10、EOS-55、EOS-1Nと買い換えてきた。前の2機は手許にないが、中古で買った1Nだけは記念に置いてある。価格はボデーだけで12万円ほどと、当時の中古カメラは高価だった。電池がなく今は作動しないが、“カシャ”と言う鋭いシャッター音が忘れられず、時々、空シャッターを切って懐かしんでいた。フィルムカメラを止めて、デジカメに転向するのは、もっと先のことだ。