片上鉄道が廃止されたのは26年前の1991年(平成3年)7月1日でした。吉ケ原駅には多くの動態保存車両があり、往時を偲ぶことができます。一方吉ケ原以外の場所の保存車両についてはあまり情報がありませんが、この度たまたま某団体のバス旅行の途中、運よくトイレ休憩のためにドライブインにバスが停まってくれたので、思いがけなくキハ311に再々会できました。
ご近所話題-1
なにかよくわからないまま買った鉄道模型
鉄鈍爺さんの「【デゴイチ】さようなら運転」の投稿でコメントしたのですが、その時に持って行ったTRIX製の小型蒸気機関車が何かよくわかりませんと書きました。何かよくわからず動かしていたのですが、やはり気になります。そして、動かしたのは1994年に購入してから2回目です。最初は2012年の「デゴイチ」での運転会でした。今回も最初は少し押しましたが、その後は快調に2周しました。
さてこの機関車はいったいどのような機関車なのでしょうか。
1972年の阪堺線
昨日(11/3)夕方のカンテレで1955年の阪堺線「田辺」駅の写真が出ていました。昔の写真を見て、この場所が何処かを捜す番組ですが線路の上にはもう阪神高速が見えていました。大阪の北田辺に住んでいましたので中学生の頃は家から股が池(確かこの字だったと思います)に遊びに行く時や、桃山学院へ模擬試験を受けに行く時は通っていた記憶があります。「目の高さ」で電車が動いていました、踏み切りも路盤も電車と共有していました。さすがに中学生当時の写真はありませんが1972年10月頃の「阿倍野」での平野線の写真がありました。123、121は恵比寿町~平野、301は天王寺駅前~平野などです。このときは地下鉄はもちろん阪神高速も見当たりません。
同志社クローバー祭があります!
はじめまして。
同志社大学鉄道同好会の副渉外です。
前回の告知より間が空いてしましましたが、イベントの告知をさせていただきます。
11/4、11/5に京田辺校地にて同志社クローバー祭が開催されます。
当会は11/5のみ出展致します。
ぜひお越しください。
詳細は以下の通りとなります。
「れっしゃだいしゅうごう‼」
知真館1号館119教室
11/5(日) 9:00~17:00
写真は昨年のものです。
紅葉の赤沢森林鉄道 2017年 Part2 ボールドウィン号を撮る
10月21日 その2
13:20、「皆さんおつきになられましたよ。」と再びW田さんのお声で起きました。当日は大型台風が来ているので案じられた天候でしたが、小雨が時折降る程度で嵐の前の静けさ状態でした。
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紅葉の赤沢森林鉄道 2017年 Part1 中央西線を撮る
小竹先生と中国鉄ちゃん仲間との写真展に行った折に見学に来られていた神谷武志さんから赤沢森林鉄道のボールドウィン号の夜撮をするので参加しないかとお誘いを受けました。実は以前にざっくりした計画のお誘いメールを受け取ってはいたのですがその後に詳細が来なかったため、問い合わせもしないでいました。
紅葉の鉄道写真は11月になったら撮りに行こうと思っていましたが、赤沢ならそろそろ紅葉を迎えている頃です。同じメンバーのW田さんも奈良から来られるという事なので一緒に車に乗って行くことにしました。
赤沢森林鉄道は2000年の5月15日の新緑の季節に行きましたので7年ぶりの訪問です。次回は紅葉時に訪問したいと思っていましたので望みどおりです。
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ある日の京阪電車 2017
広島からいろいろと
ここのところデジ青への新規投稿が途絶え気味のようですが、そのつなぎに いつものように新聞記事で話題提供致します。まずは三江線から。
代替バスルートも決まって、沿線各地で住民説明会が始まっているようです。小型ワゴン車で積み残しが出ないかという心配の声も。
会長様に、福井鉄道モハ51をどうぞ!
「怪しい写真を発掘する」に寄せて
米手さんや浄福寺さんから「怪しい写真」が紹介されている中に、キハニ5000が1枚あります。この写真の場所はどこだろうと興味がわきました。以前デジ青上で 糸崎にも一時期キハニ5000がいたことを話題にした際に、自分なりに作っていたキハニ5000の配置表をもう一度見てみました。
広島から小ネタ2題
三江線廃止まであと半年を切っていますが、芸備線沿線でも危機感が高まっています。中国新聞記事から。
怪しい写真を発掘する
手元に写真館から発見されたというあやしい写真の原板をベタ焼きしたものがあります。かかる乾板は、手札判(8×10.5cm)ガラス乾板で、大キャビネ判の印画紙に焼き付けました。
【デゴイチ】さよなら運転
白棚(はくほう)鉄道跡を訪ねて
今年6月に佐竹大先輩が企画された三陸鉄道の旅に参加した際、気仙沼から盛までのJR気仙沼線BRTに乗りました。気仙沼線BRTとは東日本大震災で寸断されてしまった気仙沼線の代行バス(バス高速輸送システム)のことで、舗装された線路跡をバスで盛に向かいました。この気仙沼BRTに乗っていて思い出したのが、白棚鉄道のことでした。かつて東北本線の白河と水郡線の棚倉を結んでいた鉄道で、国有化された挙句に廃線となり、国鉄バス白棚高速線として生き残った異色の線区です。学生時代に東北本線は北海道への往き帰りなどで何度も乗っていますが、殆どは夜行列車での通過が多く、ましてや水郡線は関西人にはなじみが薄い路線で、私にとって白河や棚倉あたりは永年空白地帯となっていました。そこでこの空白エリアを埋めるべく、小旅行をしてきました。とは言え家内との鉄分少な目の旅であることと、雨に降られっぱなしでしたが、知らない土地を訪ねるのは新鮮で、充実した旅を楽しみました。
1956年11月2日京都駅
米手作市氏から「あやしい秘蔵写真の出どころに関して」とのアップがあった。それによると1956年11月3日梅小路区での御召列車スタッフの記念写真を、コロナ写真館が出張撮影されたとあるではないか。その前日、確かにC59108牽引のお召列車が京都駅に到着し、それを若かりし日のこの老人が、なぜか撮影していたのである。
C59108
1956年11月19日東海道本線は全線電化されたから、これはその17日前―東海道本線としては、最後の蒸機牽引御召列車ということになるのであろう。
小生は元来お召列車とか、豪華列車などにはトンと興味も関心もないまま今日に至っているが、この時だけはなぜか京都駅に行き、2番線からお召列車を撮っている。恐らく東海道本線最後の蒸機牽引―C59108の御召列車だから撮る気になったのだと思う。1番線は特定の者しか停留できなかった。 続きを読む
あやしい秘蔵写真の出どころに関して
まずご報告です。
壊れたパソコンが先ほど復旧しました!慣れないノートパソコンでのやりとりではミスばかりで困りましたがホッとしてます。
さて、先日来の写真に関しましてお問い合わせや出所を怪しむ怪文書などを頂きましたので、正直にお話しします。
前回も書きました(此方のミスで消えてしまいました)が、父は戦前に千日前で写真館を開いていましたが、戦災で全てをなくし京都で写真館を再建しました。場所は七条大宮角です。ツテのなかった父は西本願寺の撮影を受けて生活を安定させましたが、目的は千日前での再興でした。でもそれは京都での事業が成功したためやがてあきらめたようです。生活が安定した原因の一つが国鉄との取引です。近くにあった梅小路機関区の諸行事での記念撮影や、西大路駅の近くにあった国鉄バスの工場での展示会などは、通販やショッピングセンターがなかったので大繁盛でした。
そんな中でこれらの写真が撮られたのだと考えております。当時は父を含めて数人のカメラマンがいましたが、だれも鉄道ファンではありません。小さかった私のためにと残してくれたのでもありません。多分、機関区から資料写真の複製を頼まれて予備を作ったものが残っていたのだろうと考えられます。従って持ち込まれたものは写真か資料写真だと思います。昭和三十年代初め頃まで写真館では乾板を使っていました。引伸機を改造した複写機に乾板を入れたり、表で太陽光線を当てて撮影していたのを覚えています。版権は撮影者にありますので七条写真館が乾板を持っていたはずです。割れたり棄てたりで残ったのは写真だけです。これが棄てられなかったのは奇跡的です。鉄道好きになった息子を知って父が残してくれたのかもしれません。
梅小路機関区とのお付き合いはデジカメが出て、職員が撮るようになるまで続きました。記憶ではB20が復元された時の記録写真が最後だったとおもいます。
ところで高橋弘氏が撮られたC59108のお召し列車ですが、生前父に高橋さんを知ってるか?と聞いたことがあります。その時、同業者として名前は知っているが会ったことは無い、と言っていたのであの写真を直接高橋さんから頂いたと言うことは無いと思います。推察ですが、機関区から複写依頼があり一枚余分に焼いたのではと思います。余談ながら昭和31年11月3日に梅小路機関区でこの運転に携わった職員の記念写真を撮っています。
こんなモンもありまっせ!七条写真館の記憶2
出し惜しみをしたら、祟りでろくな死に方をしないとのご指摘を頂きましたので、あわてて投稿をしたら、間違えて消してしまいました。せっかくのご意見も消去してしまい、ご迷惑をかけてしまいました。もしよろしければ今一度書いて下さい。
※先ほど、前里様から情報を頂きましたので写真説明を一部変更いたします。(10/16)
さて、前回は梅小路機関区のC53をご覧頂きましたが、今回はいろいろなものが出てきます。
こんなモンもありまっせ!七条写真館の記憶1
間違って消してしまいました!
が、どですかでん様の“神の声”で復活しました。
私の父は戦前に大阪・千日前で写真館を開いていました。
大阪大空襲で八尾へ一時疎開して、戦後京都の七条大宮にあった古ビルへ引っ越して写真館を再開したのです。でも、あくまで仮の姿、落ち着いたら大阪へ帰るつもりだった、というのが口癖でしたがかないませんでした。
で、七条大宮というと西本願寺と梅小路機関区が“最大の産業”でした。そのせいか、機関区からの写真撮影を良く頼まれていたようです。その頃の写真の複写らしきものが出てきましたのでご覧に入れます。
型式、撮影日時、撮影場所、撮影者など不明です。なにか分かった方は教えて下さい。