現役生会長です。
11月26日 (日)~28日 (火)は、今出川校地にて同志社EVEが開催され、当会も出店いたします。今年は新町レイアウトや会員保有の鉄道グッズの展示、写真展(スライドショーでの投影)の他、『青信号』の販売も行います。また、カレー店 ガーネッシュ様のYouTube動画の投影も行います。
展示教室は良心館104教室、時間は26日 (日) と27日 (月) が10:00~18:00、28日(火)が10:00~16:00です。会員一同、皆さまのご来場を心よりお待ちしています。
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昭和41(1966)年8月 再び呉線へ
初めて呉線へ行ってから、5ヵ月後に、早くも二回目の呉線行きとなりました。初めて見たC59・C62の印象は強烈で、高校2年生の夏休みに再び夜行に乗って広島行きとなりましたが、今回は家族で山陰方面に旅行へ行ったあと、米子から一人で広島行き夜行「第2ちどり」に乗っての広島入りとなりました。「ちどり」は、木次線、芸備線経由で米子~広島を結ぶ陰陽連絡で、昼行、夜行の各1往復、同径路で鳥取~広島の「いなば」もあり、あの木次線に3往復もの急行が走っていたのです。広島には5:05到着、以降は初回と同じ列車で糸崎へ移動、区での撮影となりました。今回もフィルムの劣化だけでなく、フィルム現像の際、真夏なのに20度の適温に冷やさず、30度近い水温そのままでやってしまったため、超荒れ荒れの粒子になり最悪の状態、フィルム現像を初めて覚えた頃のほろ苦い思い出となりました。▲山陽本線広島~小郡電化が完成したのが、訪問3年前の昭和39年10月、本線(広島では、山陽本線のことを“本線”と言い慣わしていた)の完全電化が成ったものの、電機の新製が追い付かず、C62の牽く列車が広島以西で見られたことは、(1)でも記したが、それを確認できる唯一の写真を撮っていた。広島駅5番ホームに8:12到着の徳山発呉線経由糸崎行きの624レで、C62 28[広転]の牽引、朝の通勤最適時の到着のため、客車12両の長大編成でも満員の到着だった。同機は、翌月の昭和41年9月には二休となり、その後に廃車されている。
鉄道資料を片付けていると東海道線電化完成の葉書と煙草が出てきた。米原京都間の電化で東海道線全線が1956(昭和31年11月19日に電化されたときの記念である。その日を始めに特急つばめと特急はとは列車全体が淡緑5号に塗装されEF58を先頭に大阪東京間を7時間30分で運行を始めた。米原京都間の客車列車は80系湘南電車に替わりみかん畑のない近江路を走りだした。
葉書は配布されたもので裏に大阪駅31・11・19日付と大阪城と客車特急の絵の丸い記念スタンプが押してある。きっとその日、坊主頭の中学生だった私はスタートカメラ片手に今里大阪駅間担当の1600型市電に乗って大阪駅へ駆け付けたのだろう。
煙草の空き箱は親爺が買ってきてくれたのだろう。漫画家横山隆一氏が描く
フクちゃんが展望車に乗っている。煙草のピースは火を着ける前でも独特の良い香りがした両切り煙草で、一時期愛用していた。ピー缶という缶入りもあって懐かしい。この空き箱はヤフオクで即決280円で値がついている。
「〇〇本線」を除くと、日本で最も多い路線名はおそらく「東西線」であろう。「東西線」と聞いて、皆さんがぱっと思い出す路線はどこでしょうか。
北陸本線と仰々しく書いたが実は機関区のはずれで撮ったもの1枚だけである。1965年2月10日京都駅で同学年のTさん、Sさんの見送りを受けて21時12分発521列車新潟行きに乗車。翌11日8時15分曇り空の筒石駅で下車。灰色の日本海はすぐ横で、客貨ともに糸魚川区のD51牽引だったが長野発米原行き611列車1本だけC57が牽いていた。筒石12時5分215列車直江津行きで直江津まで行く。ここで機関区を物色。この時に目的のD50183[直江津]と1両だけいたDF50515[富山]を撮影。この後は直江津15時30分発長野行きに乗車しスイッチバック駅二本木で下車し投宿。雪の中でD51重連急行「白山」等を撮影して東京に向った。
ということで有名な敦賀一区時代のDF50の活躍は逃してしまい直江津区で撮ったこのDF50515だけである。急行「日本海」、「黒部」、「北陸」等を牽引したものと思われる。同機は1970年に高松に転属し1977年に廃車されている。▼
しばらく、最近撮影のカラーを紹介してきました。これはこれで意味があると認めつつ、何か隔靴掻痒の気持ちがないわけではありません。やはり高齢者にとっては、モノクロが似合うと改めて思います。デジタル世代に対抗できる、高齢者の優位源泉です。以前、本欄で「北のC62全記録」として北海道のC62を紹介しましたが、しっかり記録に残せた達成感とともに、半世紀以上前の記録を発表する機会は、今しかないとも痛感しました。つぎは「西」、つまり「呉線のC62」としました。昭和40年代初頭、山陽本線では、C62はほぼ活躍を終えて、呉線で活路を見出していました。このなかには3両だけ残ったC59も含まれますので、両形式を紹介することにします。
初回の記録から始めますが、この時代のフィルムは、劣化が激しく、無数の白いシワがあります。見せるような代物ではなく、小さく扱っていきます。▲初めて呉線へ行ったのは昭和41(1966)年3月で、高校一年生(なんと16歳 !)の初めての長距離一人旅だった。手にした乗車券は「京都から広島ゆき」、学割料金で1120円だった。大阪21:25発、夜行鈍行の門司行き225レに乗って、一睡もできずに、広島に翌朝の5:54に着いた。呉線乗車までの間、ホームで発着列車を撮影する。最初は次つぎ到着する九州行きの寝台特急に目を奪われ、やがて通勤時間帯になると、呉線、芸備線、宇品線に蒸機列車が発着する。
1番ホームに到着した広発宇品行き925レで初めてC62を見た。いままで見慣れた山陰線のC57と較べると、ボイラーが太く、とにかくデカイ。この列車は、工場の多い宇品行きの通勤列車となるため、広島から後部にD51が付いて、向きを変えて宇品へ向かう、呉線・宇品線の直通は朝に3本連続していた。以来、呉線へは計7回、延べ10日以上の訪問となった。
初めにお断りしておくが、子供の頃のスクラップなので日付を記入していないものがある。そのためいつの記事か分からないものには『●年●月・・』と記入しているのでお分かりの方はコメントでお教えいただきたい。また、事件事故に関係する方、目撃者、解説できる方のコメントをお待ちしている。
では、最初は昭和35年、1960年から始めよう。
この頃からオリンピックへの建設工事が活発になってきたのに伴い、全国でダンプカーやトラックとの踏切事故が多発しだした事を念頭に置いて見てほしい。
これは再度申し上げるが蒸機の撮影の合間に撮ったDF50の気まぐれ写真である。カラーの変色、ピンボケを敢えて出したがお許し願いたい。秋田にもDF50マン形が集中配属され、奥羽本線、羽越本線の優等列車牽引等に活躍していたが、羽越本線では撮る機会がなかった。今回はやや日誌風にし、番号の分かる機関車はその変遷を記した。
1965(昭和40)年8月31日急行「八甲田」で早朝の青森に下り立ち、初めての東北の爽やかな空気を吸った。キューロクの入れ換えやC60の上野行きを撮ったあと奥羽本線の列車に乗った。一人旅で気の向くまま鶴ヶ坂で降りた。そこでC60、C61、D51の旅客列車とDF50を撮った。
8時40分大館発青森行きを牽引する秋田区のDF50549が鉄道防雪林の横を青森を目指してやってくる。
2008年10月 四国リバイバルDC急行
国鉄時代から活躍していた、四国のキハ28・58・65が,2008年10月で営業運転を終了することになり、急行(一部快速)として、国鉄急行色に復刻したキハ58+65によるリバイバル運転が行われました。キハ58の前面には、なつかしの「ヒゲ付き」が復刻され、しかも10月、11月の土休5日間、「阿波」「よしの川」「土佐」「あしずり」「うわじま」「いよ」として、四国の各線区で運転される、大盤振る舞いのさよなら運転でした。▲ヒゲ付きキハ58が、さよなら運転で四国の各線を走った。徳島線下浦~牛島 徳島発阿波池田行き「よしの川」 キハ58293+キハ65293 (2008年10月18日)
現役生会長です。
先週の土日に、京田辺キャンパスにて開催されるクローバー祭に出店させていただきました。コロナ禍後、初の出店です。
京田辺レイアウトを展示しましたが、様々な情景を表現したジオラマは、お子様だけでなく、大人の方々からも大変好評でした。
お越し頂いた皆さま、本当にありがとうございました。また、出店されていた皆さま実行委員会の皆さまも、二日間お疲れ様でした。
以前より温めていたテーマではありましたが、つい最近のデジ青コメントで「みどりの窓口」の話題がありましたので、緊急調査した次第です。年々数を減らしていく「みどりの窓口」ですが、どうやら今月(2023年11月)末にあの元町駅からも「みどりの窓口」が無くなるようです。
先ごろのクローバー会行事「岳南電車・静岡鉄道を訪ねる」は、首都圏だけでなく、東海、関西、四国からの参加者も交えて、にぎやかに楽しく、久しぶりに、みんな揃って撮影する機会となりました。清水港にある魚市場で、大盛り海鮮定食を食べたあと、清水港線の廃線跡を通り、静岡鉄道の新清水駅に向かっている途中でした。静岡生まれのTさんと、静岡鉄道清水市内線の話になって、撮影済みと言うと、“エ~ッ”と驚愕の表情を見せました。そうか、同線が豪雨で不通になったのが昭和49(1974)年7月で、来年が50年になります。復旧されることなく、翌年に廃止となっていて、たしかに30歳代にとっては、生まれる遥か前の話ですから、驚きの表情も無理はないところです。実は清水市内線は、デジ青の2016年9月にも記していますが、今回、定点対比もしましたので、再度、要点のみ記して行きます。
▲東海道線を越えて、新清水駅前に到着する静岡鉄道清水市内線の電車(昭和49年)
「DE50の思い出・磐越西線」で忘れていた城がまた一つ出てきた。同志社の方ならご存知NHK大河ドラマ「八重の桜」に出てくる名城である。綾瀬はるか主演の大河ドラマ「八重の桜」は2013年に放映されたのであれからかれこれ10年経過したことになる。
会津若松城は文禄2(1593)年に蒲生氏郷が本格的な天守閣を建てて「鶴ヶ城」と命名し、慶応4(1868)年戊辰戦争では新政府軍の1か月に及ぶ猛攻に耐えた難攻不落の城として知られる。明治7(1874)年に建物全てが破却されたが昭和40(1965)年に天守閣が再建された。
山本八重(後の新島襄の妻)は、会津藩士山本権八、佐久の両親のもと1845年というから丁度私の100年前に会津で生まれている。兄は山本覚馬で京都府議会議長、京都府顧問などを歴任。新島襄の協力者で今出川校地の敷地を譲った人物としても知られている。
慶応4(1868)年、板垣退助率いる新政府軍が攻め入った鶴ヶ城で婦女子、老人、少年兵とともに24歳の八重は鳥羽・伏見の戦いで戦死した弟三郎の形見の服を着て戦うなど幕末のジャンヌ・ダルクと言われた。さらに薙刀の名手で22歳の若さで壮烈な死を遂げた中野竹子の名も忘れられない。
「逆賊」の汚名を背負わされた会津藩は下北半島に斗南藩など貧しい土地を与えられたり苦難の道を歩んだが、その後徐々に復権されていった。山本覚馬の京都での活躍もそうであるが津田梅子らとともに日本最初の女子留学生に選ばれた山川捨松(薩摩の元老大山巌の妻)も会津藩士の娘であるなど明るい話題も出た。また、京都守護職であった9代藩主松平容保の孫にあたる松平節子は秩父宮妃勢津子殿下となられている。
198911.18 会津若松城(鶴ヶ城)▼
2013.4.10 「八重の桜」ポスター 東武下今市駅 ▼
2018.10.25 会津鉄道会津田島駅に掲載の会津宣伝ポスター ▼
2013.4.10 東武鉄道上今市で方向転換して東武日光に向う会津若松発 東武日光行き快速「AIZUマウントエクスプレス号」AT751+AT701。2010年新潟トランシス製造の車体には「八重の桜」の宣伝が入る。
新幹線や主な関西私鉄等でお目にかかれる標準軌(1,435 mm)、JR線や主な関東私鉄等で見られる狭軌(1,067 mm)、そして三岐鉄道・四日市あすなろう鉄道・黒部峡谷鉄道が採用するナローゲージ(762 mm)。忘れてはいけないのが、今回取り上げた馬車軌間(1,372 mm)です。
馬車軌間は、京王(井の頭線以外)と都営新宿線のみと思い込んでいましたが、東急世田谷線、都電荒川線と函館市電もそうだったのですね。無知でした。
写真は、準特急さんより頂戴した「下高井戸」の駅名標です。馬車軌間を採用する異会社路線の唯一の乗り換え駅でございます。準特急さん、改めましてありがとうございます! 続きを読む
以前に115系でも起きていたようです。問題は1900生殿もコメントされているように、あとの対応だと思います。コンピュータ任せになっていて、臨機応変の融通が効かない体制になっているように感じます。「検証」しないと判らないのかと言いたくなりますね。
昨日、セノハチで雨と落ち葉の影響で227系が立ち往生したようです。115系の時にもあったかどうかわかりませんが、空転はしても登れなくなったというのはオソマツな気がします。227系はオール電動車ですが、車体が軽いせいでしょうか?あるいは運転技能の問題?それにしても、この種のイレギュラーな事態が発生した場合の対応が国鉄時代とは大きく違う気がします。16:00頃に発生し、この日は上下線とも運休というのは情けないですね。貨物輸送の大動脈でもあり、真剣に対策を考えてもらいたいものです。例えば 昔のように、2種類の連結器を有する控車を広島か瀬野に常駐させておき、救援用の補機をすぐに差し向けるとか・・・。JR西とJR貨物と別会社なので、ダメか?
1963(昭和38)年4月1日の動力車配置表によると郡山に磐越西線用に3両(564,565,566)のDF50が配属されている。1966(昭和41)年3月21日に常磐線蒸機の撮影後、磐越西線の蒸機を撮りに行った。目的はD50であった。川桁で寒い布団で寝た翌22日に撮ったDF50の旅客列車で何れも川桁-猪苗代間の高原地帯である。
早朝の日出谷発郡山行き222列車。この時点ではまだ磐梯山の山容を見ることができた。▼
上野発喜多方行き2401列車牽引のDF50。先頭はスハフ42か。DF50のブルンブルンに続きズシン、ズシンの客車音。▼
DF50は3両しかないためか上り急行「第1ばんだい」2404列車会津若松発上野行きはD51[磐越西線管理所(会津若松)]牽引であった。珍しく蒸機牽引急行列車である。朝方見えていた磐梯山も昼前にはご覧の通りである。▼
この日は曇天であったが、目的のD50貨客共に1本づつ撮ることができた。
いよいよ開通日が近づきます。
それまでにはいろんな出来事があり、それらを全て掲載していませんが新線開通時にはどこも同じ事があっただろうと思われます。
今回、河 昭一郎様からその時期の貴重な写真を頂きましたので、まずそれからご覧頂きます。