西のC59・C62 全記録   (4)

初めて駅間を歩いて撮影 昭和43(1968)年3月

今までの駅・機関区撮りから脱して、呉線を駅間で撮りたいと思うようになりました。呉線の車窓からは海岸沿いを走る光景は見ているし、鉄道雑誌でも呉線は注目されるようになって「撮影地ガイド」も載るようになってきました。高校3年生の終わりの春休み、北九州への撮影旅行の前後に、呉線の撮影となりました。関西からアプローチしやすい三原寄りで有名な撮影地は須波~安芸幸崎で、ほとんど瀬戸内海に沿って走る。ちょうど中間地点あたりにアウトカーブがあり、まるで瀬戸内海へ飛び出しそうな海岸ギリギリの区間がある。何度も広島からの乗ったことのある徳山発糸崎行き624レは、待望のC59 162が牽いていた。C59廃車説も吹き飛ばす、C62に伍しての活躍が見られた。

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魚梁瀬森林鉄道跡 探訪記(その2)奈半利川線に沿って

魚梁瀬森林鉄道跡を訪ねるにはクルマが不可欠です。高知市でレンタカーを借りると土佐くろしお鉄道に乗る機会がなくなるので、なんとか現地調達をと調べたところ、くろしお鉄道安芸駅に駅レンタカーがあることがわかりました。岡山から瀬戸大橋、大歩危を経由して後免へ、そして初めての土佐くろしお鉄道ごめんなはり線で安芸へと向かいました。くろしお鉄道については、別稿でご紹介したいと思います。

(その1)で述べましたように、魚梁瀬森林鉄道は安田川線が先に開通し、あとで奈半利川線が作られたのですが、今回の旅は奈半利川線経由で魚梁瀬に向い、魚梁瀬から安田川線を下るルートで計画しました。では狭い道を考慮して借りた軽自動車で出発です。 続きを読む

魚梁瀬森林鉄道跡 探訪記(その1) 林鉄の歴史

学生時代に何かの雑誌で、阿里山で活躍しているシェイ式蒸機が、国内にも数機いたことを知り、それがきっかけで高知県の魚梁瀬森林鉄道の存在を知りました。しかし、木曽森林鉄道以上に訪ねにくい地にあり、気になりつつも半世紀が経過しました。一方、我が家の食卓(冷蔵庫)には「馬路村のポン酢醤油」が常備されていて、生産地である馬路村も気になる存在でした。また、平成13年にはRMライブラリNo.29として舛本成行氏により「魚梁瀬森林鉄道」が詳しく紹介されるに至り、馬路村と魚梁瀬森林鉄道跡をいつ訪問しようかと考えていました。この度、ようやく念願であった現地訪問が実現しましたので、現地の様子をご紹介します。

中芸地区森林鉄道遺産を保存・活用する会発行のガイドマップ表紙(折りたたむとB5判、拡げるとB2判の非常に良くできたマップです)

なお「中芸地区」とは、安芸市、奈半利町、北川村、田野町、馬路村、安田町が安芸郡の中央にあることから、そう呼ばれるのだろうと思います。ガイドマップの表紙を飾るのが「シェイ」であるのも素敵です。

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 西のC59・C62 全記録   (3)

昭和42(1967)年3月 九州行きの初日に呉線へ

またまた投稿が途切れてしまいました。言い訳無用、とにかく専念することにします。高校2年生の終わりの昭和42(1967)年3月、いままで夜行日帰り撮影から、一挙に2週間に渡る九州一人旅に出掛けることになりました。例によって、最初の立ち寄り先に糸崎を選び、3回目の呉線行きとなりました。14日間通用の九州均一周遊券を握りしめて、新大阪から博多行き「第2つくし」に乗り込んだ。新大阪9:50発、糸崎13:45着、通い慣れた駅西側の踏切を渡って、糸崎機関区へ向かった。

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広島通信(その3) 広電 駅前大橋ルートの工事状況

その2を投稿してから2週間が経ってしまいました。JR向洋駅周辺の取材のあと広電駅前大橋ルートの工事の様子を見に行ったのですが、報告が遅くなってしまいました。写真はすべて令和5年11月25日の撮影です。

駅前大橋ルートの全体像

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スクラップブック 事件・事故編・第6回

1週間ほど旅行をしていて投稿・チェックが出来なかった。

さて今回は私の人生最大のショックを受けた大事故の記事を紹介する。

三河島事故、若い会員でもこの事故はご存じだろう。
昭和37年5月3日21時37分、国鉄常磐線三河島駅構内で田端発水戸行下り貨物287レ(D51364)が出発信号を見落とし安全側線に入り、停まりきれずに脱線して機関車と次位のタキ50044が下り本線上に飛び出した。これに三河島駅を4分延で出発した上野発取手行き2117Hレがタキに衝突、先頭車クモハ60005と次位のクハ79396が脱線して上り本線上に飛び出した。さらに7分後、上野行き上り2000Hレが進入し、線路上を歩いて避難中の乗客をはねたうえ、上り本線上の2117Hレ先頭車と衝突した。これによりクモハ60005とクハ79396は粉砕され、上りの2000Hレも先頭車クハニ67007が原形を留めないほど粉砕され、二両目のモハ72549と三両目のサハ17301は築堤下まで転落、四両目も脱線した。
死者160名、負傷者296名

1962,5,4

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DF50の思い出写真(7)紀勢本線・関西本線

関西にいても紀勢本線は遠く、さらに関西本線のDF50の活躍は限定されていた。1965年5月2日名古屋23時20分発夜行ディーゼル準急紀伊勝浦行き「うしお2号」に乗車。翌5月3日早朝5時過ぎの新宮で下車した。ここで新宮6時30分発天王寺行き123列車で紀伊田辺で下車しC57やD60の撮影に向った。この時、雨の早朝の新宮駅で撮ったのが唯一のDF5016[亀山]である。この後に交換する列車にDF50は見られず、準急もC57、C58であった。▼

もう少し前の1963年5月3日亀山区で撮った茶系塗装のDF5031[亀山]でピクのDF50特集に掲載された。▼

1972年9月9日下庄駅でC57198の126列車を撮った後下り多気方面に向かうDF5014[亀山]の列車。▼

1968.9.29関西本線加太-中在家(信)の大カーブを行く廃止直前の急行「大和」湊町行きを牽引するDF5025[亀山]。大阪通信員さんを始め加太会の皆さんの主戦場。この写真も趣味誌に掲載されたことがある。今見るとこの写真はあちこちに氾濫している。▼

駅名喫茶店(第95回:「新快速」が停車する駅名)

94度も開店しておきながら、意外と触れていなかったテーマが「新快速」です。奈良に住んでいると「新快速」とは縁もゆかりもないのです。種別が誕生してから、今年で53年を迎えました。もはや「新」しくはありませんが、固有名詞として存在すべき立派な種別です(ひょっとして、最新版の広辞苑には掲載されている?)。

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広島通信(その2) 山陽本線海田市・天神川間の高架化工事

山陽本線の海田市・天神川(広島貨物ターミナル)間には山陽本線上下線、広島貨物ターミナルへの出入りのための上下貨物線、そして呉線上り列車が山陽本線下り線をオーバークロスする渡り線があり、列車本数が多い区間なのですが、踏切が多くあり、開かずの踏切が以前から問題になっていました。そこで海田市・天神川間を高架にすべく大規模な工事が始まっています。その丁度中間にあるのが向洋(むかいなだ)駅です。この地は広島市内ではなく、マツダ本社があるがゆえに広島市とは合併せず、安芸郡海田町で通している財政豊かな町です。工事はまず在来線を北側に移設し、山陽本線を在来線跡地に高架化し、貨物線は多分地上に残すのではないかと思います。すでに向洋駅の上りホームは北側の仮設上り線側に移設されています。11月25日、向洋駅周辺の工事の様子を見てきました。

工事完了予定は3年後の令和8年10月のようです。

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青信号50号はDF50573でした。

準特急さんにより各地で活躍したDF50の記事が続いていて楽しませてもらっています。DF50機関車はキハ55系気動車と同じように国鉄車輛近代化転換期に登場しましたが地味な存在でした。端正な車体でED70とともに好きな機関車でした。塗色が変わったころは客車もブルーに変わったころでともに亀山駅で初めて見たのを思い出します。
50号の表紙は題が「なごり雪」で1981(昭和56)年3月2日土讃本線雪の坪尻駅となっています。ガリ版刷りからタイプ印刷にグレードアップしたと中島禎孝会長が巻頭に書いておらqれ1983(昭和58年)11月26日の発行でした。

スクラップブック 事件・事故編・第4回

事件や事故も続くと飽きてくるらしい。
反応もイマイチだが、読んでは頂いているようで気を取り直している。
今回は1961年のダイヤ改正から年末へと進める。
この年は「36.10」で新DC特急が走り出す年である。しかし・・・

1961,9,3

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DF50思い出写真(6)篠ノ井線・中央本線

前回の北陸線同様に、殆んど撮ったことのない路線を紹介する。しばらくこのような路線が続くがご容赦願いたい。

1965年7月16日名古屋23時11分発長野行き準急「おんたけ」に乗車。翌7月17日篠ノ井に5時37分着。ここで6時13分着名古屋発準急「きそ」牽引のDF505[長野]+DF506[長野]+D51を撮る。「きそ」は足回りが見えないホームの向こう側に入線していい写真が撮れず失敗。▼

折り返しDD5133の新宿行き428列車で篠ノ井線の姨捨に向う。上下D51貨物の後に新宿発長野行きDF50重連準急「上高地」を撮る。この列車は松本から篠ノ井線内は普通列車となる。1965.7.17姨捨-稲荷山を下る準急「上高地」くずれ長野行き普通列車。▼

富士山をバックにした中央本線小淵沢-信濃境間を行くDF506[長野]を先頭とする新宿7時発松本12時33分着の準急「穂高1号」が行く。よくデジ青に投稿下さる村樫四郎様の写真である。▼

長野区のスルザー形若番は1959年に敦賀一区から長野区へ移り、その後1966年に亀山区へ移り1977年から1978年にかけて同区で廃車されたものが多い。

 

会誌『青信号』が完成しました

現役生会長です。

この度、会誌『青信号』77号が完成しました。2019年以来、4年ぶりの発行です。77号の発行が実現できたのは、執筆に携わった会員の他、印刷をしてくださったプリントステーションの皆さま、私どもにノウハウを教えてくださったOBの皆さまのおかげです。また、発行を楽しみに待っていてくださった皆さまのおかげでもあります。この場をお借りして、厚く御礼申し上げます。

77号のテーマは、復刊を記念して再発進とし、会員の自由投稿をメインとしています。バックナンバーと比較すると、拙い箇所も多々あるかと存じますが、お読み頂いた皆さまの、鉄道の魅力発見につながれば幸いです。

『青信号』77号ですが、バックナンバーと併せて同志社 EVEでも販売いたします。是非、お買い求めください。尚、オンラインでの予約については、同志社 EVE終了後を予定しております。

上毛電鉄デハ101に乗る

11月11日(土)京王9ミリ会という趣味の団体によるバスツアーに参加して久しぶりに1928(昭和3)年製の釣り掛け電車の音を堪能してきた。このツアーには藤本哲男さんも参加され知らない人が多い中で心強いばかりであった。京王自動車の貸し切り観光バスの車内では何と小田急のロマンスカーの下敷きも配布され、この会は小田急の同類の会と親交があるように感じた。車庫のある大胡からデハ101に乗車し大胡→西桐生→中央前橋→大胡と全線を走破した。貸し切り電車の運行ダイヤの都合か西桐生のホームのベンチで上毛弁当を30分足らずで食べさらにこの日は上州名物の空っ風も吹いて難儀した。▼

デハ101はイベント車両として活躍中で既に乗られた方もおられると思うが私は始めての乗車であった。板張りの床の点検蓋からは走行中の地面が見えたのは久しぶりの体験である。神戸川崎車輛製デハ101 ▼

上毛電鉄は東武の関連会社であるが、現在営業に使用されている車両は元京王井の頭線の3000系である700系ばかり。このツアーでは列車撮影が計画されていなかったので、2018.12.1樋越-大胡間で撮ったクハ724+デハ714の中央前橋行きとクハ724の譲渡前の1969.5.23撮影の京王井の頭線時代のクハ3709を載せた。上毛の700系もそろそろ廃車となるらしいが次は東京メトロのようだ。▼

井の頭公園を出て終点吉祥寺に向う4連時代のクハ3709▼

 

駅名喫茶店(第94回:大相撲が開催される会場の最寄り駅名)

筆者は、たまに大相撲をテレビ観戦します。速ければ数秒で勝負がつく数少ないスポーツ、いや国技です。その数秒にかける熱き思いが画面上から伝わってきます。

一度、現地観戦がしたいと春場所のチケットを入手したのですが、新型コロナウイルス感染拡大防止のため無観客試合となりました。

奇数月に開催される大相撲に今回は注目しましょう。

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