三江線と芸備線関連の記事2件です。
この会場となっている広島県立歴史民俗資料館ですが 三次駅からは遠い「みよし風土記の丘公園」内にある施設で、旧三次宿の街歩きルート内にある市立歴史民俗資料館ではありませんので ご注意を。 続きを読む
三江線と芸備線関連の記事2件です。
この会場となっている広島県立歴史民俗資料館ですが 三次駅からは遠い「みよし風土記の丘公園」内にある施設で、旧三次宿の街歩きルート内にある市立歴史民俗資料館ではありませんので ご注意を。 続きを読む
4月11日に70299で福塩線訪問記を載せましたが、あれから1ケ月が過ぎ、先般のぶんしゅう殿との旅で新緑の美しさを再認識させられたこともあって 少し遅いかと思いつつ 新緑や田植え風景を求めて福塩北線沿線を走ってみました。何しろ府中・三次間の午前の部は5:00から10:00までの上下6本が勝負です。一方 午後の部で撮影できるのは15:00から日没までの4本です。昼過ぎの通学用臨時列車が走れば2本増えます。昼間の 列車の走らない時間帯を芸備線や三江線に場所を変えてもやはり列車がありません。従って5時間の空き時間を持て余すので たいていは午前の部狙いで早朝の出撃となります。今回は前夜の準備がまずく 早く起きたものの出発でもたつき、下り1番列車1721D三次行きには間に合いそうになく、上り1番列車1720Dからの撮影となりました。今回は今までに撮っていない場所に行くことにして まずは備後三川に向かいました。
ローカルな話題でこの掲示板を賑わして恐縮ですが、ひとつの鉄路の消長のあゆみを後世にとどめてゆくのも「青信号」の特技と思って投稿しています。本日の中国新聞朝刊です。
明日から沿線各地で住民説明会が開かれます。その結果がまた紙面に紹介されると思います。引き続き転載してゆきます。
鷹取工場の構内に放置されている車輌の内には、阿波鉄道買収のコッペル機を技能者養成所が研修のため改修し近代化した「若鷹号」、7号「へっつい」機がある。後者は熱海線(現東海道本線)建設=丹奈隧道掘削ズリ出しのため、大日本軌道小田原支社線を「極めて高額で買収」し、即日熱海軌道組合に貸出して運行させたのだが、関東大震災で壊滅。国鉄建設局の所管になっていたこの「へっつい」機は各地で建設に従事したことにより、幸いにも残存した。鷹取工場では教習用標本機として右側ボイラー、シリンダ等を切開していた。戦後でも小規模博覧会などに貸し出され、当OB会諸氏も八瀬で撮影しておられるのが紹介された。
第2日目 5月6日 その1
▲ 6:00 宿泊している奥出雲多根自然博物館では昨夜の夕食は、通りを隔てた温泉施設のお食事処でしたが、朝食は最上階の8階レストランで用意されています。周辺では最も高い建物ですので一望できます。朝起きての心配は空模様でしたので、見に行ってみました。
昨日のように青空は見えず雨が落ちてきてもおかしくない曇り模様です。今日は厳しい撮影になりそうに思えました。
おばさん4名が厨房で朝ご飯の用意をされています。朝食は7時からですが、コーヒーをいただき、「もうすぐ出来上がるから来て待っていただいてもいいですよ。」と案内されました。部屋に戻って西村さんを呼びに行きました。
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ぶんしゅう殿から新緑を訪ねる中国山地旅のレポートPart1がアップされましたが、Part3で三江線が少し登場すると思います。その三江線について またしても中国新聞に記事が載りましたので 凝りもせずご紹介します。
三江線、津軽鉄道に続いては若葉映える新緑の備後路を目指しました。ご案内役はご当地に永住されるようになった西村さんにお願いして、ご愛車を出していただき3日間を駆け巡りました。
第1日目 5月5日
① 長岡京5:29(快速)⇒7:30姫路7:40(こだま731号)⇒8:45新尾道
当初の出発は5月7日を予定していましたが天気予報の具合がよくありません。急遽5日出発に切りあげることになりましたが、5月連休中は新幹線の格安回数券が使えません。おとなびも急で手配できないので最も安くて向かう手段は姫路まで快速で行ってこだまに乗り換えるのが1番でした。
8:45 約3時間余りをかけて新尾道着。重いカメラバックとキャリアケースを持って降りますが、新尾道駅は、下りエスカレーターもエレベーターもありません。長い階段を降りるしかない不便な駅です。バリアフリーとはなっていない駅が新幹線駅にあるとはショッキングでした。
西村さんのお迎えを受けて新尾道駅からの備後路出発です。 続きを読む
オバマ大統領の広島訪問決定が大きく報じられている今朝の中国新聞の片隅に載っていた記事のご紹介です。
今朝の中国新聞朝刊に三次のターンテーブルが東武鉄道で再活用されるとの記事が載りました。
兵庫の次は鷹取である。兵庫-鷹取間には1954年4月1日新長田駅が新設されたが、この当時では兵庫の次が鷹取である。ここには機関区だけでなく貨車区、それに鷹取工場があり、先ずは工場へ。看板は復元なった義経号で、目立つところに鎮座しているだけでなく、博覧会の類にも貸し出されていた。確か事前に文書で見学を申し入れていたと記憶するが、たった1人の学生(その実受験生)にも助役がつききりで案内してくれる。正直言うとこっちは早く機関車や救援車を撮りたいのだが、そこは礼儀正しくご案内に従う。ブレーキシューの自動鋳物システムが面白かったと記憶する。
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いささか旧報になるが、5月4日朝日新聞京都版でタイトルの如きキューズ(旧ニュ-ス)が掲載された。加悦で何ごとぞと、読んでみたら次の通りであった。
「与謝野町滝の加悦SL広場で3日、初夏の加悦鉄道まつりが始まった。多くの親子連れなどが、風船プレゼントや再現列車乗車会といったイベントを楽しんだ。4日まで。
近鉄・京阪の相互乗り入れに関する会員各氏からの投稿をご覧になって、関先生からお手紙が来ました。談論風発的な投稿はDRFCの特技ですが、今回も貴重な写真や体験談など記録としても残しておきたいことばかりです。そんな中に関先生からも貴重な体験談が来ましたのでお手紙を掲載します。関先生の学生時代と言うことは乙訓の長老の学生時代、昭和30年代初頭でしょうか。京阪三条駅の阪急版です。準特急さん、どう思いますか?
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朝5時に起きて真っ先にロビーへ行きました。そして地元新聞の東奥日報を広げて「高さ7㍍からの桜360°」を見ました。
実は昨日芦野公園で撮影中に興味深いものを見てしまい、列車が来る間に東奥日報のカメラマンに製作した経緯等をお聞きしていました。
興味深いものは長~い高さ7mもある三脚です。この三脚は写真スタジオでよく使用されています米Mabfrotto製のライトスタンドを屋外用に組み合わせを変えたものです。中々よく考えたものですね。
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廃止が取り沙汰されると行ってみよう、乗ってみようという人が増えるのが常ですが 三江線もにぎわっているようです。
兵庫は和田岬線、それから分岐する兵庫港線、神戸市中央市場線への貨物を主体に、結構広いヤードが拡がっていた。これは神戸港も然りで、市街地に展開した貨物ヤードは梅田貨物駅が典型だが、貨物がコンテナに集約され、その基地が都心を少し離れた個所、神戸の場合は鷹取になり、無用と化したヤードは再開発された。
ついでに記すと、国鉄はポートアイランドのド真ん中にかなり広い土地を確保していて、恐らくは関西新空港がポートアイランド沖に建設されることを見込んでいたかと思われる。ところが当時の宮崎神戸市長は、革新系を標榜=社会党の支援を受けた2期目で、自民党候補と熾烈な戦いになり、社会党の主張でこの折角の神戸沖空港を拒否し、結果的に関西新空港は現在のところに。宮崎市長はその後伊丹空港が廃止になる前提で、自前の神戸空港をミニサイズで作り、神戸ワインと共に神戸市民終生のお荷物となるのだが。
話が脱線したが、兵庫のヤードはきれいに消えてキャナルタウンと称し再開発され、高層住宅が立ち並んでおり、地震後和田岬線は電化電車化された。朝夕のみの乗客の大方を占める三菱重工も縮小の一方で、今後どうなるんじゃろか。以前にも書いたが、国鉄-JRは、なんでこんな歴史だけはやたらと古い盲腸線に執着しているんだろうか。和田岬線が廃止されれば、三菱重工の職員は神戸市地下鉄海岸線を利用せざるを得ず、通勤費は当然高額になる。
表題の件につきまして丹波橋等での湯口様、西村様の車両撮影記録を拝見させていただきました。湖畔のヒマ人様の現場経験での話は毎回大変興味深いものがあります。有難うございました。私も相互乗り入れを撮影したことがあるとコメントを入れさせていただいたので、今回近鉄京都線の上鳥羽口-竹田間での京阪車両を報告します。撮影は1966年10月4日の秋晴れの日でした。
1001+1512+1008の京都行きで拙い写真であるが、当時の本線の中書島-淀-八幡町(現八幡市)間の様な広々とした場所がおわかりいただけるかと思う。▼
昨日日曜日はあまりに多い花見客だったので、平日の月曜日に回した芦野公園、桜のトンネルを行く”走れメロス号”2連、狙った通りのアングルでバッチリと決まりました。ロケハンもバッチリできたので今日は春爛漫の津軽鉄道を撮りまくります。
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浪人1年目の1955年、どうしても勉強は手につかず、予備校に行くと称して家は出るものの、若い大学院生教官の日本史—―といってもほぼ試験には出ることもない明治・大正・昭和期の講義を除き、専ら映画館に入りびたり、あるいは木製客車をせっせと撮っていた。この時点日帰りで木製客車が撮れるのは、放出、梅田、神戸港用品庫の配給車、機関区、客貨車区の救援車以外の営業用客車といえば、兵庫=和田岬線、姫路=播丹線/姫新線ぐらい。やはり事業用車より営業車のほうがいい。
で、ある夏の1日、山科を3時51分に発する111レに乗った。この列車は東京を前日14時25分発、終着は門司22時03分=勿論普通列車で、6時25分兵庫で下車。和田岬線(正式には山陽本線の一部)の通勤用に「一山」客車が居り、全部木製車である。この線は三菱重工の通勤用であり、神戸市中央市場への貨物、川崎車輌からの甲種輸送が主で、かつては鐘紡も工場があったが、この時点では競輪場(その後神戸市電和田車庫から交通公園、サッカー場)になっている。旅客列車は朝夕通勤用3往復、計6往復。
その木製客車が多種多彩で、戦時中優等車を格下げしてサイドに引戸2か所を設けた形式ナハ13500がもっともふさわしいのだが、やはり格下げで形式ナハ10000にぶち込まれたものも居る。中でも異色は木製ながら丸屋根の、播丹鉄道ホハフ500買収のハフ14070である。これは沿線に陸軍の演習場や戦車聯隊、病院等が山ほどあった播丹鉄道が、代燃ガソリンカーだけでは足らず、国鉄ナユニ5672(←ホユニ8682←ユボフ14、神戸工場1909年製)の台枠、台車に鷹取工機部で中型並の木製車体を新製したもの。両端がロングシート、中央部が6組のクロス、定員105(内座席75)人、便所洗面所はない。
中国新聞に福山市市政施行100周年にちなんだ記事が連載されているのですが、ようやく鉄道関連の記事が載りました。
昨年の広島ツアーや先般の三江線ツアーの行き帰りに福塩線や井原鉄道を楽しまれた方もあったかと思います。記事にもあるように神辺・高屋間は すでに福山・府中間で開業していた両備軽便鉄道が大正11年に支線として開業しました。備後の国から備中の国に足を踏み入れてまさに両備となりました。昭和3年2月大日本帝国陸地測量部発行の1/25000地図「神邊」を見てみますと 「りようびこくぶんじ」駅が田んぼの中にあり、「両備輕便鉄道」と記載されています。 続きを読む