50年前の撮影地を歩く -5-

暑い毎日が続いています。私自身は、いままで関わってきた発表・イベントも一段落し、本ホームページへの投稿には絶好の機会となりましたが、構想だけはアタマを駆け巡るものの、この暑さではキーボードを打つ手が前へ進みません。でも、ここで一念発起、溜まった夏休みの宿題を一夜で片付けるべく投稿を続けます。

東海道新幹線開業後の山科大築堤
前回の「50年前-4-」では、東海道新幹線開業の前日、山科大築堤の様子をお伝えしたが、今回はその一年後、山科大築堤で定番の撮影ポイントに陣取った東海道新幹線開業後の記録を(いずれも昭和40年8月1日撮影、撮影順)。
昭和39年10月に東海道新幹線が開業し、在来線も大きな節目を迎える。しかし、東京-大阪の電車特急こそ全廃されたものの、電車急行は多くが存置された。九州を結ぶ寝台特急・急行にも変動はなく、現在のような、新幹線開業によるドラスティックな変更は見られなかった。この時期、臨時列車も数多く運転されていて、まだ東海道線には、長距離列車が華やかに走っていた。        50年前9朝の光線を受けて山科を行く、東京発大阪行き急行「明星」、東京-大阪間の夜行急行(客車・電車)は、ほかにも「銀河」「金星」「月光」「いこま」があり、九州方面への夜行急行も加えると、10本が運転されて、夜行列車の全盛時代が続いていた。

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JAPAN RAIL PASS 東舞鶴へ乗り鉄旅の出来事

7月26日、昨夜の綾部の花火大会に魅せられました。今日は舞鶴の”みなと舞鶴 ちゃったまつり”でも花火大会が開催されますので行く事にしました。約5,000発の花火が舞鶴湾に上がります。

そして、その帰路に東舞鶴から乗車した最終列車で、娘さんとご両親の3人連れと席が一緒になりました。何か落ち着かれない様子でしたので「何かお困りですか」とお聞きしますと、「これから大阪まで帰るのですが、この列車で大丈夫ですか?」です。
そして、首からかけられたビニールケースには、何と「JAPAN RAIL PASS」を入れておられました。日本語が流暢なので日本人と思った3人連れは遥かブラジルから来られていた日系2世のご両親と、3世の娘さんでした。
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老人の69年前の広島での思い出

8月3日早朝、3時に目覚めテレビをつけて見た。原爆投下の日に広島で市内電車を運転していた若い女性の、今も健在の方の実話をまじえてのドキュメントが放映されていた。過去に何度も彼女達の話は紹介されているが、広島電鉄が今も残る車両を提供し、千田車庫内で彼女たちがハンドルを握るシーンを再現したものであった。原爆投下後の町の姿を紹介するシーンでは、1946年8月に兄と共に電車から見た光景だな、と思うや蒲団を上げて正座した。

原爆投下後の広島の姿を見た時の老人は満8歳、小学校2年であった。7月、夏休みになるや父母に連れられ母の実家、田舎:島根県鹿足郡六日市町に向かった。呉線まわりの下関行きで目覚め、広島の街を見てびっくりであった。横川駅を出ると大田川の築堤となるが、築堤下には貨車が転がっていた。そして己斐駅、スッカラカン、改札口だけに屋根があった。祖母の葬儀の帰路で乗った宮島線の電車、そして市内線の電車も留置されていた。電車は走っている。乗りたい! 父母は3泊して老人を残し帰京した。一人になっても実家周辺には同年輩の遊び仲間が多数おり心配なしだが、電車狂いには気になるのは己斐駅で見た電車の姿であった。迎えに誰が来るのか、ばんざい!願い通りの兄がやってきた。しめたとばかりに帰路は己斐で途中下車、市内電車で広島駅に出る交渉は成立した。
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南満州鉄道京城管理局ジハ

南満州鉄道京城管理局サイズ小
関センセ記事紹介への米手作市氏リードにあった、ン10年前ボックスでの記憶=朝鮮ジハとは、南満州鉄道京城管理局の蒸気動車1~4である。機関部がB型とお書きだが、1Aのシングルドライバーで、ピギーバック式に客車部を背負っており、運転整備全重量50噸とは、流石に標準軌間である。機関部は大阪の汽車会社本店、客車部は現地京城工場製とされる。汽車会社の蒸気動車というと工藤式と思い込まれ勝ちだが、これは1923年7月製――工藤式の発明者工藤兵治郎が汽車会社退社後であり、彼の特許は何一つ使われていない。ただ使い勝手が良くなかったか(方向転換に15メートルの転車台必要)、欠陥車輌だったかで、2両の機関部は単独で入換機?21、22に改造されてしまい、シングルドライバーのタンク機関車として「シグ」なる記号が付され、その重量運整28.5噸というから、日本での小型機顔負けである。
南満州鉄道京城管理局ジハ形式図

朝鮮鉄道デハニF

学生時代に部室で朝鮮鉄道・「鮮鉄」にあった、蒸気機関車とダブルルーフの客車を1両にした「ジハ」と言う車両を見たことがありました。本で見たのか、写真を見たのか、模型を見せて頂いたのかは忘れましたが、B型の小さな機関車と一体になった緑色の客車がかわいらしく、もう一度みたい思いに駆られています。
朝鮮鉄道デハニF_NEW 朝鮮鉄道デハニF(文)_NEW

見学会&廃線巡り&大宴会 酷暑のなか行なわれる

夏真っ盛りの京都、最高気温38.5度を記録した8月1日、クローバー会の公式行事として、「電車王国」見学会、京津線廃線跡巡り、そして大宴会、と豪華3本立ての催しが行なわれました。その一端を手短に特派員レポートとします。

京都市岡崎のみやこめっせで行なわれている「電車王国」という大仰なネーミングの催し、タネを明かせば、乳幼児向けのNゲージやプラレールの運転ですが、その末席を当特派員制作の京都市電の写真展でお口直しをすることになりました。わざわざ来ていただくほどの値打ちはないものの、マルーン会長や86事務局長さんの肝いりで、公式行事として扱っていただくことになりました。15時、会場前に集まったのは16人、「視察」名目で入場料600円のところ、特別入場口から無料入場を果たすことができました。
P1090397s京都市電の写真展を見学をする面々、乳幼児とその親ばかりの会場に、突如、全員60歳以上の老齢者集団が会場に乱入したものだから、最初は、会場全体が凍りついたような雰囲気が漂ったが、そこは、すぐに溶け込めるクローバー会員、和やかななかにも、真摯な姿で写真展を見学をしていた。
約45分の見学ののち、次は近くの京津線廃線巡りに出発しました。もちろん廃線と言っても、地下化による地上線ではなく、開業時の迂回ルートの旧線を指しているところが、老練者集団らしいところ。東山三条東の古川町から出発しますが、もちろん現在では、ほとんどが宅地化されて痕跡らしいものはなく、道路を歩きながら、家の向きの違いを見つけては大喜びするという、まるで怪しい集団と化しましたが、一般市民からは通報されることもなく、炎天化の道を2キロ近く走破し、無事、ゴールの蹴上に到着しました。老人ばかりが炎天化を徘徊すれば、一人や二人の熱中症患者が出てもおかしくない状況でしたが、全員元気に到着できたのは何よりでした。そのあとは、競うようにして、一番の目的である宴会場へと向かい、ギンギンに冷えたビールで乾杯して、3本立ての締めくくりとなりました。

生まれ変わった京都丹後鉄道に乗る、見る

昨年5月にクローバー会ツアーを実施しました北近畿タンゴ鉄道は、KTRからWILLER TRAINSへと運行事業が引き継がれて、今年4月1日に「京都丹後鉄道」と改称されました。約4ヶ月が経過してそろそろ落ち着いたと思われますので、どう変わってきたのか見に行くことにしました。

当初はぶんしゅう7号に乗って、7月18日に全線開業したばかりの京都縦貫道を走ろうかと考えていましたが祇園祭が終わってからは連日35℃が続きます。京都の猛暑に車の運転は老体には過酷に思えてきました。現地での車中泊で朝の列車も撮りたいが雑草が生い茂る沿線状況はよく分かっているので撮影希望地のロケハンが必要です。青春18きっぷも発売されましたのでロケハンをしてからの撮り鉄旅にしようと、まずは鉄道に切り替えて丹後を目指しました。
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広島の暑い夏

旧塗装に塗り直された653号が広島市内を走っています。RCC中国放送と広電がコラボして実施している「被爆電車特別運行プロジェクト」として8月30日までの土曜・日曜に広島駅・西広島駅間を2往復運行されています。この電車に乗るには事前申し込みが必要ですが、1往復あたり定員25名と少なく、明日以降あと10回運行されますが、すべて売り切れです。30日の中国新聞に関連記事がありました。

H27-7-30 中国新聞

H27-7-30 中国新聞

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母が写した葵橋

デジ青を開いて驚きました。湯口氏の京都市電河原町線延伸工事の写真です。実は老母が先月末に92歳で他界し、遺品を整理していましたところ出てきたのが この写真です。母自身が撮影したようです。

京都家庭裁判所前風景

京都家庭裁判所前風景

母は昭和49年から平成8年まで家裁の調停委員を務めていた関係でよく家裁に出入りしていましたので、葵橋を渡って歩いている途中でなぜか撮影したものと思います。撮影年月は判りませんが、プリントの裏に 79FUJICOLOR とあることから 1979年(昭和54年)ではないかと思われます。旧庁舎が取り壊されることを知っていて、記念に撮影したのかもしれませんが、今となっては知るすべがありませんし、ネガもありません。湯口氏ご紹介の写真がまさにこのカーブ地点であり、母自身が撮影したこのひとコマを見つけたばっかりだったので驚いた次第です。もう1枚同時に撮影したと思われる5系統 2602号の写真がありました。窓を開け放していることから、夏場のようです。35年も前のひとコマです。

葵橋を行く2602

葵橋を行く2602

(追伸;湯口様 この延伸区間は11年間ではなく21年間ではないかと・・・?)

京都市電河原町今出川―洛北高校前

京都市電建設中葵橋付近1956サイズ小建設中の京都市電葵橋付近a1956サイズ小

申し分のない後期高齢者に成り果てた老人は、限りなく薄れゆく記憶の中に、時折ふと無差別に、かつ前後の命脈なく蘇るものがある。この写真もそれで、京都市電が戦後も新線を建設・開業したうちの最後から二番目。河原町線が河原町今出川から北へ向かって洛北高校前まで延伸されたのが1956年10月12日。ネガカバーに日付はないが、建設中だからその年の夏頃だろうか。廃止は1977年10月1日で、僅か11年の命だったことになる。翌年4月3日今出川線が千本今出川から白梅町まで開業したのが、京都市電最後の延長だった、と記憶する。

 

大阪急時代の規格型車両

戦中・戦後の一時期に、阪急に新京阪と京阪が一つになったことがあったと長老に聞いたことがありました。大阪急とはそのことを指すのでしょう。実際にこんな風景が見られたのかどうかは分かりませんが・・・

子供の頃、両親に大阪へ連れて行って貰う時に必ず聞いた言葉、「新京阪で行こうか、省線で行こうか」なんで阪急を新京阪というのか、なんで国鉄を省線というのか分かりませんでした。

関先生の絵の中で、架線番号にある「H」「S」「K」はそれぞれ「阪神急行」「新京阪」「京阪」を表しているのでは?阪急規格型_NEW 阪急規格型(文)_NEW

続 「勝手にPR また京都市電展やってます」

季節は巡って暑い夏になっても、相変わらずの無投稿状態が続いています。言い訳ばかりですが、一つのプロジェクトが終わっても、まだ余波が尾を引いて、なかなか本来の活動状態に戻れないのです。最近も、その余波の続編があって、また京都市電ネタの写真展の依頼を受け、準備作業に追われていました。「京都市電で何杯メシを食うんや」の声が聞こえてきそうですが、“頼まれごとは断らない”を信条とする身とあれば、逃げる訳には行きません。この場を借りて、みずからご案内、ご報告する次第です。P1100932syo

開場3日目にして「5000人目の入場で~す」のアナウンスが響き渡った会場。全体で2万人の入場目標とか。本日は、京都市主催のイベントもあって、とくに多かったようだ。折りから来訪した京都市長も「ようけ入ってますな~」とご満悦だった。

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高岡の七夕まつり(万葉線)

七夕まつりといえば7月7日、関東で有名な平塚の七夕まつりは今年7月3日~5日に開催され、有名な仙台の七夕まつりは今年8月6日~8日に開催予定 そして路面電車の走る高岡の七夕まつりは例年通り8月1日~7日に開催されるようです。
今年は行けそうにありませんので昨年8月6日の高岡七夕まつりと万葉線の様子を紹介したいと思います。

高岡駅に着き最初に走ってきたのは7074号でした。高岡駅をバックにした良い天気の朝の笹飾りです。
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代走鮮魚列車

昨日、今日(7/24)と二日間鮮魚列車の代走が走っています。通常は2680系の3連ですが今日写真に撮ったのは2610系(24番台)の4連でした。昨日美旗で18時40分頃宇治山田方面へ行く代走を見かけた後に大阪方面へ行く回送の2680を見かけました。多分定期検査で入場するのでその間は2610系が入るのかなと思われます。これは2680が検査の時はいつも見られるようですが、方向板を正面に掲げて走る姿は懐かしくもあり「電車らしい」と思えるものです。朝の伊賀神戸と夕方の美旗で撮りましたがいずれも逆光となり、特に夕方は暗くなってしまいました。鮮魚朝鮮魚夕

初夏を送るに寄せて(四日市)

4月から新たに「四日市あすなろう鉄道」として再出発した 元近鉄の内部・八王子線の様子です。
日永駅の赤堀寄りの踏切近くで一輪の「ひまわり」が咲いていました。
編成は モ265-サ121-ク163 です。あじさい2015DSC_2103 続きを読む

大連弾丸紀行 その3

2日目の日中は旅順観光でしたが、大連へ戻ってから夕食へ行くまでのわずかな自由時間を利用し、今度は小銭と小額紙幣もぬかりなく?用意して、電車に乗りに行きました。

ところが、昨日にもまして運行本数が少なく、最初の電車は満員積み残し、次は新型車が続き、やっと来た旧型は民主広場にある車庫の入庫車で、駅前電停で無駄に時間を過ごしてしまい、時間の関係もあり最後はやむを得ず?低床車に乗車しました。

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乗り切れずに積み残しで発車  

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大連弾丸紀行 その1

大連の旧満州国時代の街並みや旧型の市内電車にはかねてより興味があったものの、訪問は困難と諦めておりましたところ、先般、機会を得て2泊3日という行程ながら行ってまいりました。

今回の訪問に際しては、ぶんしゅう様より事前に懇切なご指南を賜り、おかげさまで短い時間内での見学を有効に行うことができました。どうもありがとうございました。遅くなりましたが、見聞録を投稿いたしますのでご笑覧ください。

市内観光の前にまずは、大連駅へ。かつての「あじあ号」の始発駅で、駅舎は上野駅をモデルとしたと言われています。IMGP3636

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