馬堀で時空散歩  あの写真はどこで撮ったのだろうか?

 山陰線の馬堀へは学生時代にはよく行ったものである。ところが卒業後はほとんど、ご無沙汰である。馬堀で撮った写真で気になっているものが一枚あり、これを撮った所がどのようなところであったか、もう一度行ってみたいと思っていた。そして40年あまり過ぎた4月15日に行ってみた。京都からの電車内は観光客でいっぱいで特に海外からの観光客が多い。40年ほど前ではこんなことはなかった。昔は気動車もあったがほとんどが客レ(客車列車のこと)であったし、乗客も少なかった。そして駅周辺は田んぼだらけであった。今は馬堀駅の南側は住宅地が広がっている。京都から馬堀まで電車で25分ほどであるから通勤などには便利がいいからであろう。

 馬堀には嵯峨野トロッコ列車の終点であるトロッコ亀岡駅があり、馬堀駅は40年前と違って多くの観光客が降りる。特に海外からの観光客が目立つ。観光客はトロッコ馬堀駅へと行くが、私は急いで桑田神社へと向かった。40年前の撮影場所と目星を付けていたからである。特急きのさきや気動車特急はしだてとなっているKTRタンゴディスカバリーもやってくる。とにかく神社へと急ぎ、撮影場所を決めなければならない。散りかけているがまだ満開のような桜とともに列車を撮れるところを見つけた。

馬堀-002

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北近畿タンゴ鉄道 上下分離方式による運行会社は、高速バス・夜行バスのウィラーアライアンス社へ、丹後海陸交通は値下げで「平成25年国際交通安全学会賞(業績部門)を受賞!

KTRは、昨年10月末に抜本的な経営改善や収支構造の見直しを図ることを目的に、運行会社と施設保有会社を分離する鉄道事業再構築を実施したいと考え、新たに運行会社となる民間事業者を募集を開始しました。公募は今年度1月8日に締め切られ、年度内には審査・選考の上、 最適提案事業者が公表される予定で進んでいると思っていましたが、今もって正式な発表はありません。

撮影に行き関係者に会う度に経過状況を聞き取りしていました。機密事項として箝口令が敷かれているようで、中々確認ができませんでしたが審議が長引くと、どこからか漏れてくるものです。どうも高速バス会社からの公募が有力になってきているとの情報を得ました。後は確認だったのですが、問い合わせてしばらくすると京都新聞からリークされた記事が掲載されました。中々公表されないのに業を煮やした内部の関係者からの告発でもあったのかと思ったりします。

140411_上下分離方式会社?掲載された4月11日は、現地にいましたが、こんな話は聞こえてはきませんでした。掲載されたのは、1週間後に知りました。

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賛書は千秋楽を迎えるのか 花巻電鉄の巻

3月下旬、やっと湯口兄のRM LIBRARY 176 花巻電鉄(上)が ネコ・パブりッシングから上梓された。やるぞ!と数年前、いやもっと以前の資料集め段階から決意を聞かされ続けた著作である。地の利を得ての調査によるまとめ、執筆ならいざ知らず、関西から国鉄在来線で1,050余㎞もある遠隔地の小鉄道、歴史をまとめた賛書である。本来1年前に上梓される筈が「新しい資料と写真が見付かった、ちょっと現地へ行って来るから延期!」と言ってきた。それが大当たりとなって「大枚はたいて行った甲斐があった。創業当時の写真の提供もあった。やっぱり行くものやなぁ」と、言ってきた。そしてボタン桜満開のころ、RM 177(中):中卷が上梓された。期待を裏切らない内容で構成され、彼の拘りと努力に敬意を表する次第である。

勝手な言い草だが、上巻刊行の時に紹介しなかったのは、戦前の車両説明が揃ってから講読された方が、車両発達史は理解し易いのではないかと思ったからである。それほどに車両の変遷は例え極少両数であっても老人にはわからない点があり、過去に説明を受けたにもかかわらず車庫火災のところで行き詰ったのである。それらは2巻揃ったところで解決したように思われる。

湯口兄は以前、デジ青【13832】、【13885】で沿線光景を軌道線、鉄道線に分けて紹介されたが、併用軌道でありながら何故あんな酷いところを走っていたのか、そのなぞ解きは上巻で解明された。法事国家である日本では信じられない話が出てくるが、100年前の日本の片隅では法令を無視、いや誤魔化しがまかり通ったのかと思えるが、弱小資本でありながら鉄道敷設に向けての情熱が然らしめたのであると理解したい。それを追う様に詳細な図面が田舎電車でも整備され、貴賓車まであった話しには「参った!」と敬意を表す老人である。そして連結器の解説は興味深く、さすが軽便の虫ならではの視点である。車体形状、車両性能、車内設備等を中心に特急、急行の速度、サービスの話に傾注していた若いころの老人と、世代が一味も二味も違う世界の人のように、湯口兄は見えてくるのである。

この愉快な細面の電車が走る花巻電鉄は早くから知られていたが、その実態となると創業期の事が謎となっていた。しかし、国鉄花巻駅に隣接して乗り場、車庫があり、関東圏の電車ファンは早くから訪れていた。ところが発表がなかったのはどうゆう事なのか?。DRFC会誌「青信号」5号(1960年2月刊)は湯口兄が表紙絵をガリ切りしている。その絵のモデルとなったのは軌道線デハ5号、木造ボギー車の馬面電車であり、興味をそそる車両であった。その彼に花巻電鉄の事を教えられた老人は1959年9月20日に訪問、在籍車両調査結果を京都鉄道趣味同好会誌「急電」101号(1960年7月刊)に掲載している。この時、午前中は栗原電鉄、午後に花巻電鉄を訪問、車庫で竣工図を見せていただいた。そして軌道線は15円区間往復、鉄道線は35円区間往復乗車している。鉄道線が長いのは車庫でのお勧めに従った迄で、終点花巻温泉でゆっくり温泉に浸り旅の疲れを落とすことができたのであった。大きく円形の立派な温泉建屋は、5年前に浸かった道後温泉とは趣の違ったものとして、今も忘れられない。入湯料は5円とメモがあるが、この頃の京都の銭湯は15円であったが、車庫で「花巻温泉に浸かってらっしゃい」と、木の鑑札を渡され番台では5円となった次第である。思い返せばよき時代であった。

さて湯口兄は5月発刊の下巻で執筆終わりだと言っている。まだ八十路に入っていない、元気をださんかい!と言いたい。でも1979年の「簡易鉄道見聞録」以来35年になり、ホッとしたいのであろう。その気持ちは分かるとして、路傍の草のように鉄道趣味者から取り上げられる機会の少なかった田舎の鉄道を探索して回った話を、恒例行事になったホームカミングデイで、DRFCの後輩たちにしてくれないだろうか。老人も拝聴させて頂きたい。

北近畿タンゴ鉄道、「くろまつ」登場!

北近畿タンゴ鉄道では、あかまつ、あおまつに続くリニューアル車両として「くろまつ」を5月25日から投入すると発表しました。
KTRプレスリリースされたくろまつです。あかまつ、あおまつ同様水戸岡鋭治氏によるデザインで、今回はレストランカーです。詳しくは、こちらのHPをご覧ください。
http://news.livedoor.com/article/detail/8767246/
今回のイベントには間に合いませんが、見学を申し入れてみます。

昭和45年6月27日 高槻電車区見学会

どですかでん様

見学会のときの記念写真をご披露致します。あえて皆様の顔にボカシを入れさせて頂きました。普段乗ることがないグリーン車サロ112のリクライニングシートにうれしそうに座っていますね。ぷるぷるさんの顔も見えます。

昭和45年6月27日 高槻電車区見学会

昭和45年6月27日 高槻電車区見学会

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ツルリン鶴見駅

関先生の鶴見臨港4扉車はどですかでん様と行った高槻電車区でクエ9400として会いました。そして先生の絵の場所には立ったことがあります。鶴見駅の高架ホームです。平成5年11月15日にクモハ12052を写しています。絵とは反対方向ですが、大屋根の梁などは今もそのままの姿をとどめているのでしょうか?

鶴見駅のクモハ12052

鶴見駅のクモハ12052

元祖4扉通勤電車の写真発見

 DRFC現役時代に高槻電車区見学会で救援車となった元祖4扉通勤電車を撮っていました。多分、当時見学会に行かれた方も撮影していると思います。「青信号24号」の活動報告の中に6月27日(1970年)高槻電車区見学会14名参加とあります。

高槻電車区救援車001-1

ところでこの写真でいいんですよね?運転台より3枚目の扉が改造されているようです。電車の詳しいことはわかりませんので先輩諸氏よろしくお願いします。

 

鶴見臨港鉄道モハ220型クハ260型

関先生によると、実際にはこんな編成はなかったとのことですが、何か見たことがあるような編成です。
晩年は高槻電車区にいたそうですから、見たのかもしれません。
どなたか、長老か藤本さんになるのでしょうが解説をお願い致します。
鶴見臨港モハ220_NEW 鶴見臨港モハ220(文)_NEW

C58239 1967年の雄姿

去る4月12日、釜石線・花巻-釜石間で、動態保存C58239牽引のSL銀河が運転開始されました。読者は新聞、テレビ、Uチューブ等で既にご存じのことと思います。
C58239は1972年の廃車時以来、盛岡市の交通公園に保存されていました。2012年復活に向け解体、ボイラー修復などを経て、2013年復元。2014年初めより試運転を開始、今日に至りました。この間の一部始終が、動画、静止画で相当詳しく説明されています。 盛岡鉄道管理局の、C58239復元作業の記事一覧をご覧ください。

復元、動態保存の姿はそちらに譲り、ここでは現役時代の雄姿のみにします。写真が3枚ありました。当会OB会奥山直秀さんが2枚(フィルムを筆者鶴が預かっています)のモノクロ、筆者のカラーです。

▼当会OB会員奥山直秀さんは、1967年の盛夏、北海道各地の機関区をめぐり、帰りに青森、盛岡、平機関区に立ち寄られていました。その盛岡機関区でのカット。
宮古機関区所属のC58239が駐機していました。1967年8月15日、盛岡機関区。C582392

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保存蒸機とその現役時代(27)によせて

準特急先輩の保存蒸機シリーズを毎回楽しみに拝見しています。27回目でC5856の現役時代の紹介があったのですが、この写真を見ていて 自分も同じようなアングルの写真を撮っているような気がして調べてみると ありました。でもC5856ではなくC58294でした。1966年(昭和41年)12月22日の撮影です。小生が高校2年のときで、友人と日帰りで加悦鉄道を訪ねた際のスナップです。実は舞鶴線の駅だとは判っていたのですが、何駅だったのかが判らないままでしたが、準特急さんの写真を見て 真倉駅と判明しました。背景の樹木や山の形から同駅と判断しました。

 

 

C58294 S41-12-22

C58294 S41-12-22

このC58294は敦賀一区のカマで 小浜線からの列車を牽いてきたのでしょう。冬でもあり 珍しい形のスノウプロウを付けています。このC58は昭和46年3月15日に同区で廃車されました。

準特急さんのC5856とは特段の関係はないのですが、同じ駅で同じアングルで撮っていたというだけのことで、特派員氏の「窓から写した駅・列車」への便乗でもあります。

窓から写した駅・列車 -5-

syIMG_0017因美線美作加茂駅、通過する列車は、大阪発米子行き急行「かいけ」の5両編成。昭和41年の高校2年生、所属していたカメラ部の旅行で、鳥取から倉敷へ向かう途中、買ったばかりの一眼レフで交換列車を写したもの。当時、因美線は、陰陽連絡線として、優等列車が3本運転されていた。「かいけ」のほか、宇野-鳥取間の「砂丘」、大阪-上井間の「みささ」で、「砂丘」は、走行中にタブレット授受を行なう最後の急行列車として、平成9年まで残存した。

「かいけ」は昭和37年10月改正で、三原-出雲市間の伯備線経由の準急「皆生」として誕生した。ただ、乗車率は良くなかったようで、昭和40年10月改正で、宇野-出雲市間に変更され、「たまつくり」と改称される。そして同改正で、大阪-米子間に、姫新・因美線で結ぶ準急として、かな表記の二代目「かいけ」が走り出す。大阪を朝に出て、米子には夕方に到着する、皆生温泉などの観光地へ向かうのには格好の列車となった。しかし、昭和43年10月改正で、列車名統合により、「かいけ」は、「みささ」とともに「伯耆」に統合され、「かいけ」の名は3年で消えた。

その後、因美線は、平成6年の智頭急行の開業で、激変した。唯でさえ過疎化が激しいなか、優等列車もすべて智頭急行経由になってしまったから、智頭-東津山間の凋落ぶりは、著しいものがあった。この写真を撮った当時は、優等列車も含めて13本あったが、今では7本、鳥取までの直通は1本だけだ。

sy数年前、青春18きっぷで因美線を通しで乗ったが、線路の保守が十分でない箇所が多く、徐行運転の繰り返しだった。その時に、美作加茂駅で撮った交換列車はキハ120の単行だ。駅舎は2003年に新しく新築された、待合室には、以前の因美線の写真が飾られていた。私の仕事時代に、懇意にしていた写真事務所の社長が、この美作加茂の出身で、小さい頃の思い出をよく聞かせてもらった。当時のこの写真を見せると、“写真を生業とする人間でも撮っていなかった”と言われた(昭和41年7月)。

 

2014年春 北近畿タンゴ鉄道 Part5 久美浜駅、果樹園、加悦SL广場

第5日目 4月12日

015:40 今回の旅では最も寒い朝をを迎えました。朝方には寒さで目が覚めました。
ぶんしゅう7号は車の屋根の上にテントが付いた車です。車内と違って外温の影響を受けますので寒さには弱いのが欠点です。
北海道でも10月に3℃以下になってシェラフに毛布の追加、湯タンポの購入を強いられました。
今朝も同様ですが、そこまでの耐寒用具は今回準備していません。エンジンをかけての暖気確保と煮込みうどんを作って体の中からの対応としました。

朝食後は、久美浜湾をぐるっと回って5月イベントで宿泊するリゾートピア久美浜に立ち寄りました。
地図01_2▲ リゾートピア久美浜付近の地図です。久美浜駅からはTaxiで約10分です。駅前に客待ちをしていない時は、駅で呼んでもらいます。ホテルで合流される方は、到着後ホテルに電話をして送迎車を呼んでいただくか、またはTaxiをご利用ください。

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広電 新線構想

これから検討が始まる段階の話ですが、JR広島駅前広電ターミナルの改良計画に端を発し、駅前へのアクセスルート変更案が地元の反発を招き、地元の新たな要望として循環ルート構想が出てきたということです。全国各地で路面電車復活への機運が高まっていますが、さて広島はどんな方向へ話が進んでゆくかが気になります。中国新聞4月19日朝刊の記事をご紹介します。

中国新聞 2014-4-19朝刊 

中国新聞 2014-4-19朝刊 

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保存蒸機とその現役時代(27)

福知山の保存機の展示は一風変わっていた。

これまで見てきた保存場所は公園や小学校が多かったがC5856は福知山駅から徒歩約15分の商店街にあるポッポランド2号館にあり、一種独特の感じがした。

C5856 1939年 川崎製 製番2062

2013.8.30福知山鉄道館ポッポランド2号館展示のC5856▼s-13.8.30福知山C5856
1968.12.21 舞鶴線真倉 938列車敦賀発福知山行き C5856[福知山]▼

s-68.3.21C5856_edited-1

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2014年春 北近畿タンゴ鉄道 Part4 山陰本線余部鉄橋、香住・柴山の桜

第4日目 4月11日

016:00 「道の駅 あまるべ」で起床です。道の駅はエンジンをかけっぱなしの長距離トラックが泊りますのでうるさくて深夜に起こされる事があります。
そのために最近は敬遠しているのですが、ここは国道9号線沿いでもなくトラックは皆無で、潮騒だけを聞いてゆっくりと熟睡できました。

昼食後はゆっくりと鉄橋上の駅に上がっての散歩です。
08▲ 7:39 下り1番列車、浜坂行きの161Dキハ47-5+キハ47-1は昨夕撮った編成です。

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2014年春 北近畿タンゴ鉄道 Part3 丹後神野~甲山の果樹園、山陰本線柴山の桜

第3日目 4月10日

6:40 昨夜潮騒を聞きながら就寝した時は、暖かかった車内も朝方にはぐっと冷えて5℃近くになっています。天気予報どおり風が出てきて沖合は白波が立ちだしました。朝は快晴ですが、昼前には雲が空を覆うそうです。
今回の旅は、桜を追いかけてが目的ですが、もう1つ花粉症に苦しんでいますので、潮風が吹く場所の方が過ごしやすいと避難目的もありました。
今日は、自宅にいる時同様に車内でTVを見ながらPCを開いてゆっくりとした朝の時間を取りました。

0102

10:18 KTRのHPでは、「リゾート地の玄関口にふさわしく、青い空と海に映えるパステルカラーのペンション風駅舎」と紹介されている丹後神野駅に、到着。京都府内のKTR各駅は、創業時に国鉄時代の木造駅舎を所在地の市町村負担で改築しています。
この辺りは桃や梨の果実栽培が盛んな地域です。桃や梨の花も開花を迎えていますので沿線でどこが多いか駅員さんに聞いてみました。すると今まで探していた木津温泉~丹後神野ではなく、丹後神野~甲山が多いと言われます。教えていただいた通りに甲山方向への踏切手前を右折して農道を進みますと、満開の果樹園が広がっていました。

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50年前の撮影地を歩く -1-

の八瀬から

私が鉄道の写真を撮り始めたのは、公式資料(?)によると、昭和36年、小学校6年のことでした。N電が廃止されると聞いて撮りに行ったのが、我が鉄道写真の起源と言えます。ただ、その時は、父親と一緒に撮っただけで、独り立ちして自分の意思で写したのは、その少しあと、昭和39年のことでした。

今年でちょうど50年目、と言うことになります。昭和39年と言えば、東海道新幹線開業、東京オリンピック開催と、日本が沸き、高度成長の波に乗り始めた、記憶に残る年とも言えるでしょう。そこで、自分の写真で50年前を回顧、と企てたものの、なにせカメラは、当時、席捲していたハーフサイズカメラ、確かに撮影枚数は倍撮れるけれど、フィルムサイズが半分になっては、画質は目を覆いたくなるほどヒドイもの、とても、単独で見せるシロモノではありません。

そんなある日、偶然にも、50年前と同じ場所で撮影する機会がありました。なるほど、50年前と今昔対比なら行ける! と膝を打った次第です。遅ればせながら、まずは桜の話題となりました。

IMG_0004sy50年前の京福八瀬付近である。高野川を渡るのは、デナ1形3+4。デナ1形は大正14年製の木造車で、1~6の6両がいた。当時は、両運・非貫通を片運・片貫通化した2両固定編成となり、叡山線専用となっていた。しかし、阪神から小型車が大量に転入し、デナ1形はまもなく全廃となる。

IMG_0008この年、八瀬では、京都新聞社主催の「新世紀京都博」が開かれて、その見物に来て、横の橋から撮ったものだ。昭和30年代、各地でこのような博覧会がよく開かれていた。その総決算として、昭和45年の日本万国博覧会へ結実していくのだろう。今から見ると、チープな展示だが、娯楽の少ない時期、多くの見物客を集めていた。「新世紀京都博」の目玉展示のひとつは熱海軽便鉄道の7号機で、現在、熱海駅前に保存展示されている“へっつい”である。はるばる熱海から来た蒸機に人が群がっていた。

博覧会終了後の跡地利用として、八瀬遊園地が開業し、「かま風呂」だけで有名だった八瀬は、水族館や大型プールもできて、京都市内唯一の遊園地として、大勢の人を集めることになる。京福の駅名も、翌年に「八瀬遊園」と改称され、八瀬を本格的なリゾート・レジャー施設にしようとする会社の目論見が見えていた。(昭和39年4月)

140407_018sysy今年の桜シーズン、名古屋から都市交通研究家のHさんが入洛され、一緒に桜の撮影に向かった。嵐電を写したあと、八瀬比叡山口を訪れた。

八瀬遊園はその後、「スポーツバレー京都」、「森のゆうえんち」と名前を変えながら営業を続けてきたが、施設も狭小・老朽化して入園者は激減、平成13年に閉園となり、跡地には会員制のリゾートホテル「エクシブ京都八瀬離宮」が建った。駅名も、遊園地の閉鎖により、平成14年に「八瀬比叡山口」に改称されている。

たまたまホテル内に迷い込み(?)、50年前と同じ場所からの撮影ができた。バックは比叡山で、高野川に架かる鉄橋も全く変わっていない。ただ線路に沿った桜は、ほとんど無くなってしまった。八瀬比叡山口駅周辺はまだ桜はあるものの、全般に衰えが見え、花の勢いはなかった。家族連れで賑わった駅も、すっかり枯れた駅となっていた。

営団地下鉄6000系(第1次試作車)に寄せて

6000-3-2 25-7-25
         6000-3 + 6000-2 + 6000-1 / (25-7-25)  北綾瀬

「昭和の電車」で地下鉄車両が3回に亘り紹介された。

第1回目は2月4日【43934】営団地下鉄丸ノ内線300形(https://drfc-ob.com/wp/archives/43934)
第2回目は2月12日【44377】営団地下鉄千代田線6000系(第1次試作車)(https://drfc-ob.com/wp/archives/44377)
第3回目は2月17日【44575】大阪地下鉄堺筋線60系(https://drfc-ob.com/wp/archives/44575)であった。
営団地下鉄300形と大阪地下鉄60系は既に廃車になっているが、営団地下鉄(→東京メトロ)千代田線6000系(第1次試作車)は現在も稼働中である。

関 三平氏の解説文中の「イラストは43年の第1次試作車登場時の姿。スカートや帯の塗り方なども独特で、これは後日量産車に合わせて改造されてゆき、3連のまま、支線専用で活用された。」と過去形で記されているのは間違いで、「支線専用で活用されている。」と、現在進行形が正しい。

綾瀬検車区には、代替となる元東西線の05系が待機しており、間もなく関氏の記述が正しくなろうとしているので、乗車、撮影等を計画されておられる方は、至急実行に移されることをお勧めする。

イラストからの変化は、足回りを覆うスカートが取り外されたこと、平成6年に車体更新と冷房改造時に屋根上にクーラーユニットが設置されたこと、大型断面の貫通路が通常サイズになったこと等である。

これまでの経過を簡単に触れると、昭和43年サイリスタチョッパ制御の試験車として汽車会社で新製。車体はアルミ合金製で貫通扉を片側に寄せた大きな運転台窓のデザインは、その後登場した京都市や横浜市の地下鉄車両に大きな影響を与えた。
車号は6001+6002+6003のオールM3連で、東西線で各種試験を行った後、45年千代田線綾瀬検車区に回送された。
その際に6001は電装解除され、車号は現在の6000-1+6000-2+6000-3に改番された。また主電動機は5000系用に改造された。
その後もAVF式チョッパ制御装置、VVVFインバータ制御等の試験に使用された。

54年12月20日より綾瀬駅から綾瀬検車区の手前までの間で旅客営業が実施され、環七通りと交差する地点に北綾瀬駅が開業し、この区間の専用車として5000系3連2本と共に使用されることになった。
平成6年に車体更新と冷房化を実施、平成14年3月23日よりワンマン運転が実施され現在に至っている。
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加越能鉄道デ7000形に寄せて

利用促進看板
のりばの看板は「いい加減な電車」/(15-10-15)

3月10日【45074】関 三平氏の「加越能鉄道デ7050形/なんじゃこりゃの窓配置」(https://drfc-ob.com/wp/archives/45074)、に対して、
西村雅幸氏より翌日3月11日【45082】「いいかげんな電車の現役時代」(https://drfc-ob.com/wp/archives/45082)、
1週間後の18日どですかでん氏より【45381】「いい加減な電車の写真があったちゃ。よかったら越ノ潟へ行ってこられ」(https://drfc-ob.com/wp/archives/45381)、
翌々日の20日乙訓の長老より【45465】「いい加減な電車の原型」(https://drfc-ob.com/wp/archives/45465)、
3日後の23日INUBUSE氏より【45586】「いい加減な電車の原型の今」(https://drfc-ob.com/wp/archives/45586)、と発表が続き、それぞれコメントが寄せられ、一昨年7月13日【21925】「富山地方鉄道クハ91と一昔前の万葉線」(https://drfc-ob.com/wp/archives/21925)、でも触れておりこの電車の注目度の高さが伺える。

以上の投稿と重複部分もあるが、モデルになった富山地方鉄道デ7000形を含めて少々補足したい。

富山地方鉄道デ7000形   7001~7023
原型となった富山地方鉄道デ7000形は、都電8000形をモデルに昭和32年から40年にかけて22両(7001~7023/7004は欠番)新製され、35年以降に新製された7012~7023の11両は冷房改造され、7014以外の10両は現在も健在である。
都電8000形は急カーブでの接触防止のため車体の前後が絞られていたが、デ7000形はそれがないため大きく見える。

デ7001~7006(デ7004欠)が32年、デ7007~7011が33年、デ7012~7015が35年、デ7016、7017が36年、デ7018~7023が40年に作られた。メーカーは全車両日本車輌、制御方式は間接非自動制御、駆動方式は吊り掛け式、主電動機出力は50kw×2である。
台車はデ7001~7011が軸梁式N-102、デ7012以降が通常の軸バネ式(7012~7015/N-103、7015・7016/N-105、7017~7023/N-110)である。

デ7001~7006は59年4月1日、西町~不二越駅前間の廃止に伴い廃車、デ7007~7011は平成5年デ8000形と代替で廃車になった。
デ7012以降は59年から平成元年にかけて冷房化が行われ、引き続き使用されているが、デ7014平成23年新型超低床車T100形と代替で廃車された。
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