梅小路公園に市電広場!
1月5日の朝刊に、梅小路公園内に市電ひろばができて、保存されている京都市電が展示・運転されるとの記事が出ていた。いままでも旧N電が運転されているが、記事によると運転コースが現在の旧二条駅前から西へのルートを廃止して、山陰線高架より東側になるらしい。市電は山陰線の高架下に車庫を作って現在も保存されている。搬入時に見たのだが、900型、600型、700型、500型等だったように記憶している。市電ひろばは、旧国鉄の官舎跡で、昨年まで福島県からの疎開家族に提供されていたものである。場所は水族館の西隣で、木津屋橋通りの南側である。
問題はこの市電の運転方法である。記事で見る限りであるが、給電設備が必要だからという理由で、市電にバッテリーを積んで架線を使わずに「EV」化して走らせるとのことである。
これはとんでもない考えであると私は思う。子供の遊園地の遊具ではないのだ。運営主体はJR西日本と京都市と違えども、れっきとした鉄道博物館の付帯設備で、京都市の税金で建設される産業遺産展示物である。受電設備がないというが現在も600Vで架線給電して走っているではないか。市電廃止後30年以上も放置してきた保存車両を市民に公開して走らせるなら当時の姿を再現するのが行政の責任ではないか。何でもいいから走らせればいいだろうとは市民を馬鹿にするのも甚だしい。そんな形で走らせるなら静態保存の方がまだましだと思う。会員諸兄はいかがお考えであろうか。
できるなら現在の線と新設線をつないで頂き、公園の西の端から東の水族館までのピストン運転をして頂きたい。もちろん架線集電でである。30年も日の目を見ずに待っていた市電達に対するせめてものご褒美として。
本日の「あけぼの82号」583系
みなさま あけましておめでとうございます。いかがお過ごしでしょうか?
本日4日 年始初出勤日で いつもの時間にEF64の牽く24系の「あけぼの」を見に上野駅13番線に行ったところ いつもは多くても10名程度しかいないのに 100名を超す人たちが列車の入ってくるのを出迎えていました。
そこに入ってきたのは583系秋田車6連のあけぼの82号 定刻より約1時間遅れの到着でした。年末12月29日上野発弘前行き、1月3日弘前発、4日上野6:05着の臨時夜行寝台でした。13番線ホームの終端部で待っていたのですが6連ということもありホーム中ほどで止まりましたので 走ってそこまで行きました。
きれいな583系秋田車6連。雪に着いたヘッドマークの上部に「あけぼの」の文字が見えます。

回送列車として 7:28に(定刻は6:20)秋田に向けて出発していきました。きれいな583系いつまでも元気に活躍してもらいたいものです。犬伏
ラビット開運号
クハ79(Ⅱ)

クハ79054+クモハ31004+クハ55035+モハ72668+クモハ73075/(48-4-27) 住道駅
明けましておめでとうございます。今年も「ちょっと古い話」と「地元の話題」で盛り上がりたいと思いますので、よろしくお願いします。
各学校のOBの方で、ご自身のHPをお持ちの方は多数おられるが、OB会のHPは少ないと思われる。当クローバー会が契機となり、各学校のOB会におかれてもHPを開設、運営されることにより、皆様の総合力と過去の思い出で新たな情報網の確立と知られざる歴史の発掘が可能ではないか思われるので是非ご検討いただきたい。
モハ63シリーズは、昨年12月21日の【27833】「モハ72」で終わったと思っていたところ、HPを常時見ておられる旧形国電ファンの方から「改造クハ79を忘れてはりまっせ」とのご指摘があり、「サハ78」と同様戦前形2扉車からの改造車についても触れてみたい。
(1)クハ85(001~026)→クハ79(031~056)
昭和18年戦時体制の強化による輸送力増強のため、関西地区の2扉車は3または4扉化が計画された。京都~明石間で使用されていた2扉のクハ58(001~025)は全車両4扉化してクハ85001~025となる予定であったが、施工されたのは、001、004~006、009、010、015、017、019、020、023~025の13両であった。クハ58は車号に拘らず全車偶数向きであったため、必然的に偶数向きであった。クハ85023は、戦災のため21年11月28日付で廃車になった。
扉間の窓配置は3-4-3と4-4-4の2種類あり、更に増設扉上にヘッダーの有無がある。そのあたりは写真でご確認いただきたい。
改造に先立ち、16年3月塚本駅付近での衝突事故で休車中のクロハ59022を18年3月吹田工場で試験的に4扉車として復旧して当初クハ55106と付番されたが、同年8月クハ85026に改番された。クロハ59は車号に拘らず全車奇数向きのため、クハ85026も偶数の車号ながら奇数向きであった。窓配置は4-3-4で増設扉は100㎝でヘッダーがあった。
24年6月、クハ85の「85」を湘南形の「サロ85」に使用するため、クハ79の30番代に改番され、下3桁に30プラスした車号に改番された。
クハ79031/(38-12-25)京都
昭和8年11月、日本車輌でクハ58001として新製。19年8月吹田工場で4扉化クハ85001に改番。26年6月クハ79031に改番。49年6月8日付高槻区で廃車。

クハ79034/(49-5-27)大阪
昭和8年11月、日本車輌でクハ58004として新製。19年9月吹田工場で4扉化クハ85004に改番。26年6月クハ79034に改番。50年3月10日付高槻区で廃車。

クハ79035/(40-12-22)京橋
昭和8年11月、川崎車輌でクハ58005として新製。19年3月吹田工場で4扉化クハ85005に改番。26年6月クハ79035に改番。50年9月26日付淀川区で廃車。

クハ79036/上(45-5-27)下(49-2-12)大阪
昭和8年11月、川崎車輌でクハ58006として新製。19年3月吹田工場で4扉化クハ85006に改番。26年6月クハ79036に改番。49年6月8日付高槻区で廃車。
この車は環状線101系化により35年11月津田沼区に転属して中央、総武線で使用。39年9月に明石区に戻ってきた。津田沼区時代は運転台側の貫通幌を撤去されていた。


クハ79039/上(47-12-10)住道、下(48-6-17)鴫野
昭和8年12月、川崎車輌でクハ58009として新製。19年8月吹田工場で4扉化クハ85009に改番。26年6月クハ79039に改番。49年8月1日付淀川区で廃車。


クハ79040/上(49-1-4)京都、下(50-8-16)大阪
昭和8年12月、川崎車輌でクハ58010として新製。19年11月吹田工場で4扉化クハ85010に改番。26年6月クハ79040に改番。51年2月20日付高槻区で廃車。
この車もクハ79036と同様、環状線101系化により35年11月津田沼区に転属して中央、総武線で使用。40年2月に明石区に戻ってきた。津田沼区時代は運転台側の貫通幌を撤去されていた。


クハ79045/(47-12-10)住道、
昭和8年12月、田中車輌でクハ58015として新製。20年3月鷹取工場で4扉化クハ85015に改番。26年6月クハ79045に改番。50年10月24日付淀川区で廃車。

クハ79047/(48-3-21)住道、
昭和9年1月、田中車輌でクハ58017として新製。19年10月吹田工場で4扉化クハ85017に改番。26年6月クハ79047に改番。49年7月5日付淀川区で廃車。

クハ79049/(45-11-15)鴫野
昭和9年1月、田中車輌でクハ58019として新製。19年12月鷹取工場で4扉化クハ85019に改番。26年6月クハ79049に改番。49年8月1日付淀川区で廃車。

クハ79052/上(48-3-21)下(48-7-1)住道
昭和9年1月、田中車輌でクハ58022として新製。20年2月鷹取工場で4扉化クハ85022に改番。26年6月クハ79052に改番。50年3月10日付淀川区で廃車。


クハ79054/(48-4-27)住道、
昭和10年5月、日本車輌でクハ58024として新製。20年2月鷹取工場で4扉化クハ85024に改番。26年6月クハ79054に改番。51年4月20日付淀川区で廃車。

クハ79055/上(47-2-20)放出 下(48-3-21)住道
昭和11年3月、日本車輌でクハ58025として新製。クハ58形唯一の半流車であった。20年11月鷹取工場で4扉化クハ85025に改番。26年6月クハ79055に改番。51年11月20日付淀川区で廃車。


クハ79056/上(47-12-31) 中・下(48-3-21)住道
昭和9年7月、日本車輌でサロハ46100として新製。11年4月サロハ46014に改番。12年吹田工場で運転台取付けでクロハ59022に改番。18年3月4扉改造でクハ55106に改番。同年8月クハ85026に改番。26年6月クハ79056に改番。51年10月7日付淀川区で廃車。
新製から実に6回改番されており、改番回数ナンバーワンであろう。



(2)クハ85030・036→クハ79060・066
2010年12月2日【10630】「クハ79066」で解説済であり、重複する部分もあるが簡単に述べておく。
横須賀線の付属編成用として、昭和5年日本車輌で10両新製されたクハ47形(001~010)は、戦時改造で全車4扉化され、クハ85027~036となる予定であったが、施工されたのは47004→85030、47010→036の2両のみであった。クハ47形は車号に拘らず全車両偶数向きであった。クハ58からの改造車同様、クハ79形に編入されることになり、昭和24年4月に改番が行われ、クハ85030→クハ79060、クハ85036→クハ79066となった。
クハ79060/上 (40-11-14)鴫野 下 (47-1-4) 放出
昭和6年2月、日本車輌でクハ47004として新製。20年3月大井工場で4扉化クハ85030に改番。24年6月クハ79060に改番。47年2月16日付淀川区で廃車。26年11月29日付で066と共に東京から(最後の配属は津田沼)から淀川区に転属して城東線等で使用、35年8月に高槻区に転属するも35年10月に淀川区に転属した。


クハ79066/上 (40-12-22) 下 (45-11-15) 鴫野
昭和6年5月、日本車輌でクハ47010として新製。20年3月大井工場で4扉化クハ85036に改番。24年6月クハ79066に改番。47年3月11日付淀川区で廃車。26年11月29日付で東京から(最後の配属は津田沼)から淀川区に転属して城東線等で使用、33年7月に高槻区に転属するも、36年9月に森ノ宮区に転属、城東線101系化により1カ月後の10月に東京にカムバックして池袋区に、東京地区で何度か転属があり、昭和40年4月に津田沼区から淀川区に戻り、060と共に片町線で使用された。
この2両の特徴は、更新修繕Ⅰの実施時期の関係から、更新修繕Ⅱが実施されなかったため、ベンチレーターがグロベン化されずにガーランド形のままであった。
吹田工場で施工されていた正面窓と戸袋部窓のHゴム化は、060は正面窓のみ実施。それも一気ではなく、最初は運転台部分の1枚のみ、後日残り2枚も実施。066は全く実施されずに最後まで木枠のままであった。


可部線延伸について
クローバー会の皆様 明けましておめでとうございます。昨年同様本年もよろしくお願い致します。引き続き広島方面のニュースを掲示板に載せてゆきますので、コメント、ご意見をお願い致します。2013年冒頭はおめでたい話題をお届け致します。中国新聞1月1日朝刊からの引用です。可部線の可部、三段峡間は平成15年11月30日に廃線となり 9年が過ぎました。可部駅周辺は宅地化が進み、地元からは廃止区間の一部復活を望む声が日増しに高まっていました。ところが一旦廃止された線区を復活するとしても新線建設扱いとなり、新線建設では平面交差の踏切は基本的に認められず、高架化か地下化が原則らしく、この踏切問題で永年紛糾していました。この問題がどのような落としどころで決着したのか不明ですが、いずれにせよ可部からひと駅先の河戸駅までの電化、復活の見通しが立ったようです。2012年度中の着工で2015年度での運行開始ですからまだ先のこととは言え、一旦廃止された線区が復活するのは初めてのようで、新年早々うれしいニュースとなりました。
2013年 新年好!
終い撮り鉄 近鉄内部八王子線の巻
京で師走を感じる行事として東寺の終い弘法がありますが、今年の鉄道写真撮り納めとして近鉄内部八王子線に行ってきました。実は青森へ行く時ついでに内部八王子線に寄ったですが、この時に「開業100周年記念 内部・八王子線1日フリー乗車券」のパンフレットを手に入れたので、これを使って沿線を探索したいと思っていたのであります。そして、12月19日に行ってきた次第です。
前回と同じ経路で近鉄四日市へ。今回は往復とも特急を利用しました。久しぶりに近鉄特急に乗るとなかなか快適でありました。伊勢中川で乗り換えて四日市へ。車窓を眺めていると思ったより海岸に近いところを走っているところがあり、また遠く山側を見てみると鈴鹿の山までが平坦で高いところがないので東南海地震が起こった時の津波への不安を感じました。あれやこれや景色を眺めていると四日市について内部線の乗り場でフリー切符を購入してまずは内部へ向かいました。 続きを読む
2012年 微笑みの国、タイ王国鉄道の旅 Part1 広田尚敬先生、喜寿のお祝い電車
中国から帰国して6日目、今度は準特急先輩のお誘いを受けて、微笑みの国タイ王国の鉄道SL撮影へと出かけることになりました。そしてその前にインドネシアへご一緒に参らせていただきました神谷武志氏より、12月2日に「上毛電鉄のデハ101をチャーターしての広田尚敬先生の喜寿のお祝い会」を開催するので出席しないかとのお誘いを受けました。
お誘いを受けるのはありがたいことです。喜んで参加する旨を連絡しました。
帰国後中5日での海外行きは駐在時代にも経験しておりますが、今回は温度差50℃もあります。身体が付いていけるのか不安を残しましたが、まあマイペースでゆっくりと行けばいいだろうと出発に踏み切りました。
タイ王国へは準特急一行のみなさんは、5日0時台の飛行機で向かわれる事が決まっています。広田先生ツアーは2日ですので、東京で2日間を過ごさねばなりません。関東で行きたい所もたくさんありますが、宿泊費を考えると、タイには先乗りした方が滞在費が安くつきますし、前もっての様子もよく分ります。それではと、皆さんより2日早い便で先乗りすることにしました。
第1日目 12月2日
① 長岡天神5:19(阪急)→南茨木(モノレール)→6:08大阪空港
② 伊丹7:05(JL102)→8:10羽田(モノレール)→浜松町(JR)→神田(メトロ)→浅草
③ 浅草9:40(りょうもう7号)→11:27赤城11:28→11:51大胡
前回の訪中と同じJAL始発便で上京です。東武鉄道は初めての乗車で浅草までどう行けば1番便利なのかが分っていません。地下鉄は外の様子が分らないので、東京をよく知らないお上りさんには、不安があります。極力地上線を使って参りました。
東武浅草駅には、約30分前に無事到着。早速特急券を買って、腹が減ってはと私鉄には珍しい駅弁を買い込んで乗り込みました。
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2012年 冬の中国鉄路の旅 総集編
ご尊敬させていただいております小竹直人先生との2度目の旅は、2人だけの5日間の旅でしたので直接に身近で、中国鉄路に撮り向かわれている姿を見せていただく事ができました。たくさんの勉強をさせていただきまして、ありがとうございました。
しかし、私のような気ままにぶらり旅をしながら、たまたま良いのが撮れたらいいよ程度とは違って、生活もかかっておられますので、撮るについての真剣度が全く違っていました。さすがプロとあってテーマについて追い求められる、集中したお姿は真似が出来ませんでしたが、貴重な経験をさせていただきました。ありがとうございました。
この回は、中国東北地方(旧満州)の北朝鮮とロシア国境沿い、そしてかつて盛況だった森林鉄道の復活SLのチャーターをいたしました。またいつもの一人旅とは違って、中国鉄路をこよやく愛されている中国鉄ちゃんの方々との楽しい撮影の旅となりました。お世話になりました皆様方、ありがとうございました。またご同行させていただく機会がありましたらよろしくお願い申し上げます。
【2012年 冬の中国鉄路のルート】
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モハ72

モハ72001/(51-2-22)千葉駅
モハ72のトップナンバーで、21年10月日本車輌でモハ63015として新製。27年1月東急車両で改造工事により現車号。40年1月浜松工場で近代化改造。61年11月20日津田沼区で廃車。
63形シリーズの最終回はモハ72を解説する。
モハ63形の体質改善工事を実施する中で、80系湘南形で採用された中間電動車方式を取り入れることになり、昭和26年~28年にかけて運転台なしのモハ72形が288両誕生した。
前期(26年11月~27年5月)の168両は種車の向きを活かして上り向きは奇数、下り向きは偶数が付番されたが、後期(27年5月~28年12月)の120両は、種車の向きに拘らず奇数向きに揃えて改造され200番以降(201~319)に付番された。
その関係で前期改造車は001~181に付番されたが156~180の偶数番号は該当車がなく欠番になっている。後期改造車は201以降に付番されたため、182~200も欠番である。以下、代表的な車両を写真で紹介する。
モハ72034/ (48-4-30) 下馬・仙石線
21年10月川崎車両でモハ63078として新製。27年4月汽車会社で改造工事により現車号。54年8月15日陸前原ノ町区で廃車。
仙石線の72系は寒冷地のため、3段窓のアルミサッシ2段窓化とベンチレ―タの押込型への取り替え、扉の半自動化が行われた。

モハ72056/ (48-1-28) 広島・呉線
21年7月日本車輌でモハ63160として新製。27年2月東急車両で改造工事により現車号。51年11月5日広島区で廃車。
呉線(一部山陽本線小郡までの運用があった)の72系も3段窓のアルミサッシ2段窓化、扉の半自動化が行われた。

モハ72103/ (48-3-21) 鳳
21年12月日本車両でモハ63289として新製。27年2月汽車会社で改造工事により現車号。51年12月5日鳳区で廃車。

モハ72112/ (41-1-15) 京都
22年6月川崎車輌でモハ63582として新製。27年2月東急車両で改造工事により現車号。42年3月31日鷹取工場で運転台取付、近代化改造でクモハ73514に改造。55年2月18日中原区で廃車。
![72112aka.66.1.15Kito[1]](https://i0.wp.com/drfc-ob.com/wp/wp-content/uploads/2012/12/72112aka.66.1.15Kito1.jpg?resize=500%2C227&ssl=1)
モハ72113/ (49-4-29) 下馬・仙石線
22年5月日本車輌でモハ63381として新製。27年1月大井工場で改造工事により現車号。54年8月14日陸前原ノ町区で廃車。

モハ72123/ (48-4-30) 下馬・仙石線
22年7月日本車輌でモハ63403として新製。27年1月大井工場で改造工事により現車号。54年8月14日陸前原ノ町区で廃車。

モハ72145/ (49-2-17) 沼津・御殿場線
22年8月汽車会社でモハ63619として新製。27年3月大井工場で改造工事により現車号。55年4月22日沼津区で廃車。

モハ72149/ (47-2-20) 大阪
22年8月汽車会社でモハ63627として新製。27年3月大井工場で改造工事により現車号。48年1月23日明石区で廃車。
![72149aka1.72.2.20Osa.588-25[1]](https://i0.wp.com/drfc-ob.com/wp/wp-content/uploads/2012/12/72149aka1.72.2.20Osa.588-251.jpg?resize=500%2C267&ssl=1)
モハ72150/ (49-3-23) 住道・片町線
21年8月川崎車輌でモハ63184として新製。27年4月日本車両で改造工事により現車号。50年10月24日淀川区で廃車。
![72150yoto.74.3.23Sumi[1]](https://i0.wp.com/drfc-ob.com/wp/wp-content/uploads/2012/12/72150yoto.74.3.23Sumi1.jpg?resize=500%2C329&ssl=1)
モハ72151/ (48-9-15) 京橋・片町線
22年7月汽車会社でモハ63607として新製。27年2月大井工場で改造工事により現車号。50年9月26日淀川区で廃車。
![72151yoto1.73.9.15Kyoubashi.768-19[1]](https://i0.wp.com/drfc-ob.com/wp/wp-content/uploads/2012/12/72151yoto1.73.9.15Kyoubashi.768-191.jpg?resize=500%2C215&ssl=1)
モハ72202/ (49-3-20) 大阪
22年5月川崎車両でモハ63130として新製。27年8月大井工場で改造工事により現車号。50年9月26日高槻区で廃車。

モハ72204/ (43-9-7) 東神奈川・横浜線
23年2月日本車両でモハ63766として新製。27年9月大井工場で改造工事により現車号。47年2月10日東神奈川区で廃車。

モハ72210/ (48-7-1) 住道・片町線
23年5月日本車両でモハ63758として新製。27年10月大井工場で改造工事により現車号。53年2月10日淀川区で廃車。

![72210yoto1.73.7.1Sumi.739-28[1]](https://i0.wp.com/drfc-ob.com/wp/wp-content/uploads/2012/12/72210yoto1.73.7.1Sumi.739-281.jpg?resize=500%2C262&ssl=1)
モハ72211/ (48-5-13) 沼津・御殿場線
22年10月川崎車両でモハ63602として新製。27年3月大井工場で改造工事により現車号。53年2月10日沼津区で廃車。

大井工場整備改造車
昭和35年に72263、72045、72108、72098の4両に対して整備改造が行われた。工事の内容は各車により差があり省略するが、外観上は3段窓のままで戸袋部がHゴム化された程度で大きな変化はない。4両共関東地区で使用されたが、72108のみ47年6月鳳区に転属した。
モハ72108/(48-5-20) 鳳
22年7月川崎車両でモハ63564として新製。27年3月豊川分工場で改造工事により現車号。35年6月大井工場で整備改造。51年6月15日鳳区で廃車。

吹田工場整備改造車
昭和35年72024と72214の2両に対して行われた。大井工場施工車とは異なり、車体の全金属化が行われ、スタイルは大幅に変化した。
モハ72024/(48-6-11)京都
21年10月川崎車両でモハ63058として新製。27年2月大井工場で改造工事により現車号。35年12月吹田工場で整備改造。50年9月26日明石区で廃車。
窓はアルミサッシ化されているが、上窓に位置が元の3段窓の上段部分である。

モハ72213/ (49-2-10) 大阪
22年5月汽車会社でモハ63237として新製。27年8月豊川分工場で改造工事により現車号。36年6月吹田工場で整備改造。50年2月1日高槻区で廃車。

近代化改造車
37年から40年にかけて44両に対して近代化改造が、大井、大船、浜松、吹田、幡生の各国鉄工場で実施された。内容は、車体の内外装の全金属化、窓の2段サッシ化等車体新製に近いもので、かつての63形の面影は一掃された。
モハ72014/(51-2-22)千葉
21年8月モハ63038として川崎車両で新製。27年2月大井工場で改造工事により現車号。40年4月浜松工場で近代化改造。51年6月15日津田沼区で廃車。

モハ72017/(47-3-12)大阪
22年1月日本車両でモハ63055として新製。27年2月東急車両で改造工事により現車号。38年2月吹田工場で近代化改造。50年6月20日明石区で廃車。
![72017aka2.72.3.12Osa.592-24[1]](https://i0.wp.com/drfc-ob.com/wp/wp-content/uploads/2012/12/72017aka2.72.3.12Osa.592-241.jpg?resize=500%2C288&ssl=1)
モハ72018/(49-1-21)京都
21年8月モハ63044として川崎車両で新製。27年2月汽車会社で改造工事によりモハ72034。モハ72018と車号振替。38年1月吹田工場で近代化改造。50年9月26日明石区で廃車。この車両は何故かシル、ヘッダー付きであった。

モハ72035/(49-5-5)住道
23年3月モハ63115として日本車両で新製。27年3月大井工場で改造工事により現車号。39年12月浜松工場で近代化改造。51年9月21日淀川区で廃車。一番前の扉は旧形のプレス製に取換えられている。

モハ72042/(47-2-20)大阪
22年2月モハ63114として川崎車両で新製。27年1月汽車会社で改造工事により現車号。38年1月吹田工場で近代化改造。50年9月26日明石区で廃車。
![72042aka1.72.2.20Osa.588-26[1]](https://i0.wp.com/drfc-ob.com/wp/wp-content/uploads/2012/12/72042aka1.72.2.20Osa.588-2611.jpg?resize=500%2C303&ssl=1)
モハ72066/ (48-1-28) 広島・呉線
22年2月モハ63172として川崎車両で新製。27年2月東急車両で改造工事により現車号。38年11月浜松工場で近代化改造。51年7月28日広島区で廃車。

モハ72092/(48-7-1)住道
21年12月モハ63324として近畿車両で新製。27年2月大井工場で改造工事により現車号。39年12月浜松工場で近代化改造。51年11月27日淀川区で廃車。
![72092yoto1.73.7.1Sumi.739-07b[1]](https://i0.wp.com/drfc-ob.com/wp/wp-content/uploads/2012/12/72092yoto1.73.7.1Sumi.739-07b1.jpg?resize=500%2C275&ssl=1)
モハ72102/(42-3-26)武蔵中原
22年3月モハ63460として川崎車両で新製。26年11月大井工場で改造工事により現車号。37年11月大井工場で近代化改造。51年11月27日津田沼区で廃車。

モハ72110/(43-7-7)大阪
22年7月モハ63576として川崎車両で新製。27年3月汽車会社で改造工事により現車号。37年9月吹田工場で近代化改造。50年9月10日高槻区で廃車。この車は戸袋窓の位置が通常と逆になっている特異車である。(通常はパンタから遠ざかるように扉が開くが、パンタ寄りに開く)

モハ72157/ (48-9-1) 住道・片町線
21年8月日本車両でモハ63105として新製。27年3月豊川分工場で改造工事により現車号。39年11月浜松工場で近代化改造。51年7月20日淀川区で廃車。
![72157yoto1.73.9.15Sumi.768-29[1]](https://i0.wp.com/drfc-ob.com/wp/wp-content/uploads/2012/12/72157yoto1.73.9.15Sumi.768-2912.jpg?resize=500%2C297&ssl=1)
モハ72249/(48-7-1)住道
22年5月モハ63368として川崎車両で新製。27年5月日本車両で改造工事により現車号。38年7月幡生工場で近代化改造。52年6月14日淀川区で廃車。
![72249yoto1.73.7.1Sumi.740-19[1]](https://i0.wp.com/drfc-ob.com/wp/wp-content/uploads/2012/12/72249yoto1.73.7.1Sumi.740-191.jpg?resize=500%2C252&ssl=1)
クモハ73500番代
中央線、山手線、京浜東北線等の幹線の新性能化により、73系は17m車、戦前形20m3扉車で運転されていた線区に従来の車両の置換え用として進出すると、運転台付き車両が不足したため、元63形のモハ72形に運転台取付と併せて近代化改造を実施したクモハ73形が20両誕生して501~520に付番された。全車東京地区に配置され、関西では見られなかった。
クモハ73505/(49-5-1) 拝島
23年1月モハ63743として汽車会社で新製。27年6月東急車両で改造工事によりモハ72285に。42年3月郡山工場で近代化改造及び運転台取付。55年9月25日東神奈川区で廃車。

クモハ73507/(49-5-1) 稲城長沼
22年3月モハ63462として川崎車両で新製。27年6月東急車両で改造工事によりモハ72290に。42年3月郡山工場で近代化改造及び運転台取付。55年9月18日弁天橋区で廃車。

クモハ73513/(49-5-1) 稲城長沼
23年2月モハ63668として川崎車両で新製。27年8月豊川分工場で改造工事によりモハ72215に。42年3月鷹取工場で近代化改造及び運転台取付。55年7月16日弁天橋区で廃車。

クモハ73516/(50-3-23) 稲城長沼
23年3月モハ63782として日本車両で新製。27年9月大井工場で改造工事によりモハ72205に。42年3月鷹取工場で近代化改造及び運転台取付。53年9月16日中原区で廃車。

クモハ73517/(50-3-23) 稲城長沼
22年8月モハ63689として汽車会社で新製。28年3月豊川分工場で改造工事によりモハ72231に。42年3月鷹取工場で近代化改造及び運転台取付。54年12月3日弁天橋区で廃車。

クモハ73519/(50-3-23) 拝島
23年2月モハ63742として汽車会社で新製。27年6月東急車両で改造工事によりモハ72292に。42年3月鷹取工場で近代化改造及び運転台取付。54年9月14日弁天橋区で廃車。

5回に亘り、モハ63形一族の変遷と40年代後半を中心とした状況について書いてみたが、概略でもご理解いただければ幸いである。
27年以降に新製されたモハ72、クハ79も含めて、乗車経験のある方は、恐らく昭和50年代前半以前生まれの方で、東京、大阪地区で通勤、通学等で日常的に乗車されていた方は団塊世代以前の方ではなかろうか。
私自身は45年4月に大阪駅の直ぐ近くの会社に就職して、54年6月勤務場所が京阪大和田駅の近くに変わるまで京都~大阪間国鉄を利用した。出勤時はともかく、帰宅時は高槻で無味乾燥な113系から普通電車に乗り換えることが多かった。
大阪緩行の旧形車での最終運行日は52年2月26日と記録されているが、時節柄お別れ運転、ヘッドマークの取付け等一切なく無く、いささか淋しい幕切れであった。
国鉄→JR東日本、JR西日本の通勤形電車の原点はモハ63形であり、73系、101系、103系、201系、205系、209系と発展し、現在の通勤形へと進化していった。また、私鉄車両への影響も少なくなかったと思われる。
拙文により、乗車経験のある方は当時を思い起こしていただき、若い方は東京、大阪圏の通勤、通学輸送の主力であったことを知っていただければ幸いである。
機会があれば、モハ63形一族から他形式への改造車及び新車として作られたモハ72、クハ79についても触れてみたい。
2012年冬の中国鉄路の旅 Part11 天津地下鉄、帰国
第14・15日目 11月25日、26日
11月24日 哈尔滨 19:16(T244次)→翌日7:10 天津
11月25日 ① 天津 14:35(JL840)→18:20 名古屋
② 中部国際空港 18:36(名鉄ミュー)→19:05 名鉄名古屋
③ 名古屋 19:25(のぞみ)→20:01 京都 20:08→20:19 長岡京
7:10、無事に久しぶりの天津に到着しました。天津は開通が待ち望まれていた天津地鉄3号線が10月にようやく開通しました。これで天津駅から市内中央部へは、Taxiを使うことなくスムーズに行くことができるようになりました。
かつて住んでいた者にとっては画期的な出来事です。特にラッシュ時に市内中央から天津駅に行くのには道が混んで、何度もTaxi内でヤキモキさせられたので、時間が読めるようになったのはとても嬉しいことです。


【天津地鉄】
その歴史は中国では古く、北京に次いで2番目の地下鉄として1984年12月28日に開業しましたが、天津西站~新華路の7.4キロにすぎませんでした。東急車両で製造された3両編成が運行していましたが、ラッシュ時でも利用客はまばらでした。もう少し乗っても良さそうに思えましたが人民はもっと安いバスか自転車が交通手段でした。
天津の会社の社員に聞いてみても乗ったことがないと返答が来るほどで、人民に愛されない地下鉄でしたが、運行を停止しての5年間にも及ぶ大幅なリニューアルが実施され、2006年6月12日に25.2キロに延伸されてからは、利用客も増えだしました。市内一の繁華街の營口道で交差する3号線29.5キロが今回開通し、7月に開通していた(1部中間区間未開通)2号線とも天津站でつながったことでラッシュ時には積み残しも出るほどの利用客激増となっています。ようやく直轄都市としての交通網が出来上がってきたようです。
路線図は、ウィキペディアか、エクスプロア天津の路線図が分かりやすいでしょう。

今日は、早朝着でしたのでまずは天津站がどうなっているのかと、視察することから始めました。
先日行った长春と同じくバカ広い地下通路と広場です。今後の発展を考えての策と思われますが、北京や上海でもこれほどのスペースをとっている地下駅はありません。しいて言えば上海虹桥站でしょうが、こちらは新幹線、空港、リニアも発着する駅で利用者数がケタ違いです。広すぎてまた迷走しました。もう少し乗り換えに便利なようにコンパクトにならないものでしょうか。
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2012年冬の中国鉄路の旅 Part10 綏棱森林鉄路(綏綾森林鉄道) その2
管理人より現状報告
運用期間:2010年12月5日開設。今月で12年目。現在の掲示板に乗り換えて(2008年8月3日)からは4年4ヶ月。
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東武東上線モハ5310系
2012年冬の中国鉄路の旅 Part9 綏棱(スイリン)森林鉄路 (綏綾森林鉄道) その1
第11・12日目 11月22日、23日
11月21日 鸡西21:00(K7038次) →翌日5:58哈尔滨
11月23日 哈尔滨7:40(K7131次)→10:58綏棱

▲ 夕陽が紅く染まる零下15℃の世界、我々二人だけのために長い眠りから覚めて息を吹き返したC2型蒸気機関車は、吹き上がるドレインの中で雲上にいるようにも見えました。この日は、明日走り出すためのリハビリに深夜2時まで作業が続いたそうです。
今回の綏棱森林鉄路訪問は、ボンネットバス界の巨匠として知られる丸谷洋一氏からのお誘いを受けて同行させていただくことができました。丸谷氏は、ボンネットバスについてのみならずナローゲージにも、はまってしまわれたそうで、この綏棱も何回目かの訪問だそうです。
お知り合いになった切っ掛けは、今年4月に「デジタル青信号」に掲載させていただきました中国北台製鉄の記事でした。これをご覧になり、ご自身も行ってみたい撮りたいとバス仲間の当会員の藤本哲男先輩から紹介を受けられて連絡してこられたのが縁でした。
DRFC-OB会には、現在、準特急先輩の他には大津の86さんと私の3名ぐらいしか熱心な海外鉄ちゃんがおられません。最近では、 「デジタル青信号」を通じて、また旅先でお会いしてお付き合いさせていただいている方々が多くなりました。勤務していた頃は、長期の休暇を必要とする海外鉄は、業務また生活面からも中々行けませんでした。時間だけが融通が効くようになって一度はまってしまうと、今まで実際に見ることのなかった光景や体験は、国内とは比べようもない刺激性に富んでいて止められなくなってしまっています。また老いる共に訪れる認知症対策には、趣味と実益を兼ねての特効薬にもなりますので、老朽化を感じるようになられましたら、是非とも早くに飛び込んでこられるようにお奨めさせていただきます。
渡航費は、国内と比べると高くなりますが、最近はLCCも増えてきて安く行けるようになりました。滞在費用は、国内と比べるとぐんと安く、東南アジア方面だと国内の1/2~1/5程度で済みますので、国内よりもずっと安くつきます。何より、同業者で溢れる幻滅感はありませんので、ゆっくりとマイペースで乗り鉄、撮り鉄を楽しめるのは大きな魅力です。言葉の壁は、身振り手振りで、勇気一つあれば乗り越えられます。皆様方、身体の動ける間に思い切って海外へ出てみませんか。たくさんの発見は自分を見直すことにもつながります。
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掲示板更新のお知らせ
掲示板システム(WordPress)のバージョンアップに伴い、かねてより分かりにくかった記事への画像挿入方法を変更しました。
■新しい画像挿入方法
1.投稿画面左上の「メディアを追加」ボタンをクリック。

2.以下のようなメディアの挿入画面になりますので、画面上に画像ファイルをドラッグ&ドロップします。(複数ファイルをまとめてドラックできます。)

3.挿入する画像にチェックが入っているのを確認の上、右下の「投稿に挿入」をクリックすると、記事に写真が挿入されます。
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2012年冬の中国鉄路の旅 Part8 鶏西鉱業集団鉄路
第9・10日目 11月20日、21日
綏芬河7:40(Bus)→9:50鶏西
6:00、2日間宿泊した興合飯店(兴合饭馆)からTaxiに乗ってバスターミナルのある中国鉄路の綏芬河駅へと向かいましたが、途中で運転手が20元と言い出します。何の話しかと聞くと、日本人と韓国人は別料金と答えます。既に中間地点を過ぎていますので拒否して降りることも考えましたが、差額180円程度で、朝からチャンチャンやるのも気分が進みません。降りる時に10元渡せばいいだろうと思っていましたら、バスターミナル前の運転手が5~6人かたまっている場所で停車しました。こいつらグルです。こうやって集団で観光客からわずか180円ぽっちですが、倍以上の料金を請求しているんですね。これが〇〇の歩き方で掲載されていた悪徳Taxi集団と思われます。
中国では、たまにこういう情けない人民がいるのですよね。公安を呼んでもよかったのですが、相手にするだけバカらしいので、降りる際に20元札で渡さず、ずっしりと重いだけで処分に困っていた小銭数10枚で支払ってやりました。乞食にやったつもりでスッキリしました。皆さんご参考にしてください。

▲ ズラリと並ぶ長距離バスです。切符を買うのに国鉄駅のように並ばなくとも良いし、身分証も必要なく運賃も安く、目的地では任意の場所で止まってくれます。利用客はこちらに流れるのは当然ですね。
6:49、見たことのない不思議な空に朝日が上がってきました。
「山の上から見下ろすと」続報
26603にて三原の試運転線をご紹介しましたが、今朝の新聞で この試運転線の拡張計画が報じられましたので掲載します。運用開始は2014年度となっていますので 少し先になりますが完成が楽しみです。と言うのも 下の見取り図の左側はテニスコートや陸上競技場など市民にも公開されているエリアに敷設されることになるので、線路際までアプローチできるのではと思うからです。既存の試運転線には勾配区間がないので あるいは公共エリアを高架にすることで勾配区間を設けるかもしれません。いずれにせよユニークな施設になることを期待します。工事の状況を また山の上から逐次ご報告することに致します。
近鉄の柿ほか
神戸電鉄の柿、JR西の柿が出たので、次は近鉄の柿ほかを出す。ほかというのはその時撮ったおまけの写真である。ホームカミングデイ(2012年11月11日)は生憎の雨模様であったが、翌日は昼前から晴れて撮影日和となった。場所は最近デジ青にもよく登場する近鉄南大阪線の二上神社口付近である。二上山を入れて撮りたいところであるが、逆光になるため敢えて名山を避けて平凡な順光写真を選んだ。
↑ 12時4分通過の吉野行き特急16000系2連。
1本の柿の木があったのでそれを入れた唯一線路から離れた写真である。初期車は大井川に譲渡されたとあって近鉄の中でも古参の特急である。
↑ 古市~橿原神宮前間の区間電車6427+6527
正面が30000系や12410系に似た顔の狭軌用特急車で1編成しかない。























