有難うございました 高橋弘さん

訃報に接し、鉄道趣味の先達であり、師匠と仰いでいた方が次々と逝去され寂しい思いがしてならない。

高橋さんと同席となったのは1955年12月、奥野さん宅であった京都鉄道趣味同好会忘年会の時であった。この時、父は高校2年生に一升瓶を持っていけと言って渡してくれた。この忘年会には大橋さん、中谷さんも参加され、同好会会務と会誌「急電」発行についての打合せも行われたように思う。

忘年会は高山さんを含め6人、私は最年少で高山さんと高橋さんに挟まれ小さくなっていた。一升瓶を持ちこんだことで大いに盛り上がり、高橋さんから訪問された各地の電車話をお聞きする事ができた。私も姉が四国・善通寺で所帯を持ち、1954、1955年の夏休みに四国を巡った話をしたところ、興味をもって聞いて頂けた。その時、琴平参宮電鉄創業期の木造4輪車を撮りそこなった話をしたようで、後に3景の写真をそれぞれ2枚ずつ頂いた。この時「沖中君が琴参電車の紹介を何処かでする機会があったら自由に使ってくれたら良いよ」とおっしゃった。その3景は次のとおりである。

①     デハヨ型26号、撮影地は琴参琴平駅。高橋さんが東山中学5年秋(1949年と思われる)、修学旅行で四国へ行れた時のもので、夜行で高松に上陸、屋島と栗林公園に行き琴平で1泊、琴平神宮参拝後に撮影したとの説明があった。フィルムは映画用をライカ1型のパトローネに詰め込んだもので粒子が粗く、大きい写真は掲載に向かないから気をつけるように言われた。

以前、1954年夏に樫藪変電所横に留置されている竹製はしごを括りつけた27号を撮りそこなったと「デ元青」に記したが、それと同型車である。デハヨ型は5期に亘り新造されたが、その最終期1925年4月梅鉢鉄工所で製造された5両、24~28号の内の1両が26号である。廃車は1954年4月21日付けで28号と同時であり、27号は架線修理車として残されたが1955年3月末に廃車解体。開業期の車両はこの時点で見られなくなった。

②     和歌山鉄道モハ50号、於:東和歌山駅、1952年2月24日撮影。「琴参の2軸車改造とは思えない車体ですが、台車も改造か?」との高橋さんのコメント入りである。この50号は琴参のトップバッター、開業した1922年10月22日の祝賀電車となったものである。1939年10月に和歌山鉄道に売却されたデハヨ型は4両、11~13、15号の4両であった。燃料事情から水力発電が豊富な和歌山では、アメリカから原油を差し止められるやいなや、一早く鉄道電化に着手した。ノンステップ化、連結器取り付けなどの改造後50~53号と付番され、1941年12月末の電化工事の完成を待って1942年正月から使用開始となった。私は松電、長電、東京の電車見物を終えた後、国電モハ52が阪和線で特急運転している奧野さんに教わり、天王寺を朝9時過ぎ発で乗りに行っている。その時、この50号が東和歌山構内で貨車入換作業をしているのを見ていた。50号は旧11号の旧番号持つ。つまり1号車なのである。26号と11号は正面の横樋が曲線と直線の相違以外に、出入口が3ステップと2ステップの違いもあり、開業時の5両のうち4両はいち早く売却の憂き目にあった。

③     デハ56号、撮影場所と時は26号同じ。琴参は昭和期に入り乗客数が急上昇している。琴平急行電鉄開業もあり「金毘羅参り」が頂点に到達した頃、車両増備が図られた。結果は南海鉄道軌道線の余剰車両、元阪堺電鉄1型(1911年製)5両(15、17、29、37、39号車)の導入であった。1935年9月に購入され1936年2月に使用認可を得ている。南海側では50~54号と付番して出荷したと伝えられているが、すでに琴参には50形51~54号が存在しており、60形55~59号に改番された。導入後の写真では阪堺時代同様オープンデッキであったが、後に折畳扉を取り付けた。この5両は戦後鋼体化されているが、撮影された1949年の56号は鋼体化工事前である。

頂いた3枚の写真の説明はこれ位として、”参ったぁー”となった事が1件ある。2002年のことだったと記憶するのだが、高橋さんは鉄道友の会シルバー賞の栄誉に浴された。その祝賀会が二条駅北の弥栄会館で開催された。私は富山時代の2年間だけ入会しただけだったが、祝賀会の案内状が舞い込んだ。過去の短期間の会員であるのに関わらず、案内をいただいた事に感動を覚えると共に即座に出席の返事を出させていただいた。当日、受付で席札を貰ってびっくり!「A」となっているではないか。名札を探したら高橋さんの隣席ではないか。もう一方の隣席は吉川文夫さんとなっていた。これは何かの間違いではないかと、テーブル「B」におられた高山さんに問い質しに行った。いとも簡単に「あ々、あれかいな、あんたは付き合いが古いし、なんかあった時お互いに遠慮もないと思って吉川君とで挟んでおいた。」といわれた。この時、持病と言っておられた腰痛に悩んでおられた頃でもあった。大変な役を仰せつかったものだと思いながら、高山さんの願いを果たすべく高橋さんの手足となって動いたつもりであったが、終わりの方は旧知の人に久しぶりに会って「飲ん兵衛」になっていたかも知れない。その節は高橋さん、ごめんなさい。また天国でお会いしましょう。吉川さんをはじめ天下の「電車好き」が集まって語り合いましょう。

①大譽11年生まれにしては古閾・?スタイル

①大正11年生まれにしては古臭いスタイル

②金毘羅さんから紀伊國にやってきた元路面電車
②金毘羅さんから紀伊國にやってきた元路面電車
③浪速からこし入れた明治の木造ボギー車
③浪速からこし入れた明治の木造ボギー車

高橋 弘氏を悼む


51年半前の高橋 弘氏 両備バス西大寺鉄道会陽特別運転の日 1960年2月12日

佐竹保雄先輩と並び、在京都―関西、いや日本有数の、それも昨日や今日デビューしたんじゃない、筋金入りの鉄道カメラマン、高橋 弘が亡くなった。79歳であった。180cmを超える長身だけでなく、100kgも超える堂々たる体躯、それで温厚、誠実なお人柄だった。タカハシ写真館のご当主だけに、気楽トンボの我々と違い、せいぜい夜行で1日行程ぐらいと、行動範囲はそう広くはなかったが、関東から山陽路ぐらいまで、丹念に足を運んで居られ、行動力は人後に落ちなかった。1950年代自転車に小型エンジンを搭載した簡易バイクが流行ったが、それで北丹、加悦鉄道まで行かれた由だし、そのバイクが「ポキンと折れました」という話も、彼氏のボリュームを考慮すれば、さして不思議でもない。

車種に好き嫌いせず、何でも熱心・丹念に撮っておられたが、やはり一番好きだったのは電車、それも路面電車だったような気がする。別段メモをされている印象はないのだが、実に記憶がよく、車歴に詳しかった。それに細かいところにも気がつき、あの電車の台車はどうだった、あれのどこが変わっていたとか、それもけして吹聴するのではなく、メモもなくさりげなく記憶を披露されるのに、何度も感心し、脱帽した記憶が尽きない。

彼氏とは何度か山陽路の撮影をご一緒させて頂いた。気楽トンボの小生は、先に出発してステホを重ね、約束の場所で落ち合う。彼氏は仕事を済ませ、夜行でやってくるのである。ご一緒した先は尾道鉄道、井笠鉄道、両備バス(西大寺鉄道)などなど。西大寺・観音院の年に一回の大祭である会陽(えよう=俗に天下の奇祭「裸まつり」)の時も、小生は前日から行っており、彼氏と落ち合って岡山電軌、後楽園駅、終点西大寺車庫、沿線などで一緒に撮影した。彼氏は単端式2両がボギー客車5両を牽く「会陽特別列車」を、三脚に乗せた単レンズの8mmエルモのスプリングモーター一杯撮影しながら、スチルカメラの両刀使いもされていた。一連の8mmは小生が何度かお借りしてコンパでも上映したから、記憶が残る人もいるはずである。


両備バス後楽園駅構内 オーバーコートで撮影する高橋 弘氏 1960年2月12日

東山五条のお店で、暗室に入れてもらったことがある。ご父君の代から使っているという、陶器のバットには銀が随所で光っていた。冬だったが、暗室内のコンロには薬缶がのり、湯気を噴いている。現像液のバットは一回り大きいバットに漬けられ、時折薬缶の湯を注いで適温を保つ仕掛けである。四つ切バットで全紙までなら四つ折、六つ折してOKとのこと。小生は六つ切りバットで半切ぐらいはこなしていたが、もっと大きい印画紙だと、スポンジに現像液を染ませ、それで印画面を拭く名人芸もあるのだそうだ。

鉄道だけでなく、音楽、ステレオにもご造詣が深かった。アカイ900(分る人は手を挙げて=まだテレコが凄く高価だった時期、アマチュアでも手が出る価格で販売されたオープンリールのテープデッキ自作キット)も難なく組み上げ、ステレオが全盛になるとやはり自作のアンプとスピーカーシステムを聞かせていただいた記憶もある。

ここ10年ぐらいはご健康が優れず、正直やや痛々しかったが頭はしっかりしておられた。お目にかかったのは1908年12月7日、関東と関西の仲間が寄っての忘年会が関西受け持ちで湯の花温泉であり、翌日大津魚忠では、ご子息修氏のご配慮で弘氏も同席され、昼食をご一緒したのが最後になった。その折西大寺鉄道に行った記憶―一人でなら到底あんな列車を撮影できなかったと話されたのが忘れられない。こっちこそ、本当に有難うございました。得がたい先輩をまた一人失った。

江若鉄道三井寺下再現 その11

レイアウト工事の方は 見通しがついてきましたので、たまっていた車両の塗装工事を進めています。連日の猛暑で、盛んに熱中症予防が叫ばれているなか 当鉄道の塗装工場には手動式塗装機・・・・・スプレー缶というものが世の中に出回る前には 殺虫剤も手押しの噴霧器でした・・・・しかなく、20両近くの塗装作業は熱中症との戦いの様相を呈しております。第1陣として4両の蒸気機関車が塗装工場を出ました。旧宇部鉄道から来た短命の100号機、最後まで残った6号機、江若夏の陣で活躍した1118号機、そしてC111の4両です。C111はウオームギアの調達が難航しモーターを仕込んでない無火機ですが、その他の3両は試運転調整も終えて 出番を待つ状態です。

続いて塗り分けのない客車群、塗り分けの面倒な気動車の順に塗装工事を進めることにします。

猛暑をくぐり京都の写真展へ

 お盆休みの13日を利用して、大文字でスカタンな話題を提供する京都へと向かう。烏丸御池で開催の福田静二さんの写真展「市電の記憶 昭和の京都」ならびに五条河原町で開催の佐竹保雄さんの写真展と津田雅司さんの模型運転会共催の「東北を旅して」を鑑賞するためだ。一日に二度楽しめるコスパ満点の機会だ。
 大阪市営地下鉄堺筋線日本橋駅から堺筋線に乗る。途中の市営と阪急の運転手が交代する天神橋六丁目駅のすぐ上にある大阪くらしの今昔館では世界的な鉄道マニアと云われる原信太郎翁92歳の特別展示「鉄道模型と極める-関西の鉄道-」が9月4日まで開催されている。ちょうど今日の日経夕刊に原信太郎さんの自作や収集された鉄道模型約六千輛のうち一千輛を順次展示する鉄道模型博物館が横浜市みなとみらい21地区に来年7月を目途に開設されるとの記事が載っていた。天六駅から昔の新京阪線となる。新京阪の旧天六駅ビルは解体中で高層マンションになる。立体交差工事がすすみ三階ぐらいの高架橋が散見する淡路駅で特急?に乗り換えるが盆休みでか混雑していて烏丸駅まで立ち席。しかし良く停車駅がある。京都市営地下鉄にひと駅乗って烏丸御池ギャラリーへ。
 写真展の写真はすべてモノクロで福田調ただよう素晴らしいものである。安全地帯に溢れんばかりのお客が市電の到着を待っているのは微笑ましいばかりだ。今でも正月の初詣のときに阪堺電車の住吉大社停留所の安全地帯で、同じ光景が見られる。鉄道写真としてはもちろん、街の情景や服装・建物など記録写真としても貴重なものだ。少し奥まったとこにあるので多くの人に見て貰えないのが惜しい。
 過剰装備の背の高い豪華ホームドアが設置された大赤字の地下鉄東西線と馴染めない配色になった京阪電車に乗って清水五条駅へ。地上へ出ると猛暑。報道に寄りますと、この日の京都市は全国二番目の暑さだったとか。二つめの目的地に着くと佐竹さんご夫妻・福田さん・津村さんのお顔を拝することができ、幸運だった。暑さにも負けず佐竹さんはお元気で、直々に写真の説明をしていただけた。懐かしい蒸気機関車や旧型客車列車、大好きだった薄幸のキハ55系準急色の写真を見る。また福田さんには阪堺電車撮影会など情報提供をいただきながら音信不通のお詫びをする。大阪通信員というのに通信しないと風評が立っているとお叱りを受ける。よってこの一文を熱帯夜のなかで発信する次第である。今春定年を迎えた津村さんは模型鉄道の社長に就任し悠々自適とのこと、ご要望があれば出張運転会が可能のようだ。キハ17系気動車・焦げ茶のDF50の牽くスハ32系客車などお若いのに通信員好みの渋い車輌があり気分良好。なお滞在中に、はるばる伊丹市からご婦人がトランクを引いて来場される。朝日新聞の紹介記事を見て、鉄道資料のチャリティに役立てて欲しいと「日本の電車」などの書籍と記念乗車券や東北新幹線開業メダルなどを持参されたのだ。最近お亡くなりになったご主人のものだとか。ちょうどお盆で旦那さまへの良き供養となれば幸いである。通信員のみならず、OB皆様もお盆を機会に、ご家族には収集品を安易に片付け屋などに渡さぬよう一言云っておかれることも肝要ではありましょう。
 大谷廟へのお盆のお墓参りなのか五条大橋の東行きは長い渋滞。京阪電車に乗って丹波橋でこれまた良く停まる特急に乗り換える。やってきたのは生き残った8000系。淀駅は高架駅となったが引き込み線などの工事は残っている。高架になったので淀城跡が上から良く見える。また橋本駅横では遊郭だった建物がまだ見える。途中すれ違う旧色の列車がすっかり少なくなっと嘆いているうちに北浜駅から日本橋駅へと戻る。

広島電鉄の単車

【14623】で関 三平先生の広島電鉄152号のイラストと解説が紹介された。解説文を再掲させていただくと「8月中旬には広島駅頭に立って再び興奮に包まれていた。駅前停留所にはひっきりなしに広電(広島電鉄)の四輪単車が発着して、ある時間帯には単車ばかりという(私にとっては)想像もできなかったシーンが現出されていたからだ。150、200、400、450の4型式あわせて60両強が現役で、『単車祭(?)』の状態になるのは当然の結果だが…。もちろん、全車、原爆の犠牲車だ。
4型式のうち400型、450型は、戦前から始められた鋼製車(木造車からの改造)が完了し、スマートな『広島スタイル』におさまっていた。150型、200型には、原型をとどめた応急復旧車が残り、152号車(イラストの電車)もその1両、屋根がリベット打ちの鋼板屋根に変更されたりしてはいるが、全体として昭和初期鋼製車の原形をよく残している。
長さ約9メートル、70馬力弱の小型車ながら頑張り、広島の街の復興繁栄を見届けて昭和45年までに全車廃車。152号車を含む応急復旧の3両は40年にリタイアした。なおスマートに更新された156号は『被爆単車』として保存され、現在も折にふれて市内を走る」と記されている。

関先生の言われている「単車祭(?)の状態」とは、昭和35年頃ではないだろうか。

また、米手作市様が「今回ばかりは切れが悪いようで、意味の理解できない部分もあります」と言われている部分は、①昭和45年までに全車廃車。②152号車を含む応急復旧の3両は40年にリタイアした。③スマートに更新された156号は「被爆単車」として保存され、現在も折にふれて市内を走る。以上3点の相関関係ではないかと思われるので、それらを含め解説したい。

 広島電鉄を初めて訪れたのは昭和40年3月のことで、京都駅23時5分発準急「ななうら」で出発した。準急のため途中停車駅が結構多く、広島到着は6時51分であった。ちなみに帰りは翌日の宮島口13時53分発153系の急行「関門」で帰ったが、広島で通路まで満員となり、宮島口から乗ったのは正解であった。山陽本線は全線電化されていたが、広島以西の貨物列車は殆どD52が牽いていた。私は電車の撮影に専念していたので、そちらは撮影していない。

150形(151~160)
大正15年梅鉢鉄工所で10両作られた。原爆では宮島駅にいた157以外被爆した。昭和23年までに全車復旧したが、昭和27年に152、153、160の3両を除き、車体更新が実施され、自社製の新製車体に乗せ換えた。車体更新されなかった3両は関先生が書いておられる通り昭和40年に廃車。車体更新車も昭和44年から46年にかけて廃車されたが、解体を免れ江波車庫に保管されていた156が昭和62年に複籍を果たし、イベント時に展示走行されている。

 
151/紙屋町 
(44-3-29) 万国博まであと351日

 
156/広島駅 
(40-3-27) 一旦廃車になったが、車籍を復活して保存されている。

 
157/紙屋町 
(44-3-29)

200形(201~210)
昭和5年日本車輌で10両作られた。原爆で全車被災したが昭和23年までに復旧した。150形と異なり、車体更新されることなく使用され、昭和38年から41年にかけて廃車された。

 
209/広島駅 
(40-3-27)

400形(401~430)
大正11年から昭和2年にかけて大阪市交通局の前身、大阪市交通局から購入した木製車100形を、昭和13年に17両、17年に13両自社製の半鋼製車体で鋼体化した。扉間5枚の大きな窓とノーシル、ノーベッダーの軽快な外観で、次の450形と共に戦前の広電を代表する車両であったが、足回りは旧車のものを流用したため、150形や200形よりも古かった。
原爆では宮島駅にいた417以外被災したが、昭和23年までに復旧した。
昭和31年に420~430の11両が廃車され1部は工作車となった。残りの車両も昭和40年から44年にかけて廃車された。
大きいなガラスの調達が困難なため、窓に桟が入っている車両が少なからず存在した。

 
409/広島駅 
(40-3-27) 1枚ガラス入手難のため、窓に中桟が入っている。

450形(451~465)
昭和12年11月千田車庫の火災で被災した100形11両を昭和14年から15年にかけて自社製の半鋼製車体で鋼体化した。車体は前述の400形と同型であるが車輪径が異なり、床が高くなっている。当初450~460を付番されていたが、450を461に改番した。原爆では全車被災したが、昭和23年までに復旧した。
昭和24年原爆で被災した100形の復旧を兼ねて462~465の車体を新製した。この4両は扉が引戸になった。400形と共に活躍していたが昭和40年に2両、44年に残り13両が廃車となった。

 
453
/八丁堀 
(44-3-29) 白島線で使用

 
455/広島駅 
(44-3-29)

 
460/八丁堀 
(44-3-29) 中桟入りの窓

 
462/広島駅 
(40-3-27) 昭和24年製で扉が引戸になっている。 

650形(651~655)
被爆電車654についてのコラムが掲載されているので、こちらについても解説する。昭和17年木南車輌で651~655の5両新製。原爆で5両共被災したが昭和23年までに復旧した。655は昭和42年事故で廃車、残る4両は昭和50年にワンマン改造、昭和61年には冷房改造と方向幕の大型化が実施された。654は平成18年老朽化により廃車となり広島市交通科学館で保存、653は休車扱いで千田車庫に保存されている。651と652は現役で朝夕ラッシュ時に使用されており、歴史の生き証人としていつまでも走り続けて欲しいと願っている。また、撮影された方がおられたら是非発表していただきたい。

 
652/広島駅 
(44-3-29) 冷房化、方向幕の大型化が実施され、現在も健在である。

 
654/広島駅 
(44-3-29) この時代でも窓に中桟が入っていた。

広島電鉄152号

この季節になると季節の挨拶のように広島・長崎が新聞テレビを賑わせます。今回は広島の“被爆電車”こと152号です。といっても私は知りません。関三平先生のコメントも今回ばかりは切れが悪いようで、意味の理解ができない部分もあります。

同じ日の同じ新聞に被爆電車に関するコラムがでていましたので併せて掲載します。

関山のD51三重連 その2


やってくるのはD51ばかりだが 単行もあり 重連もあり

かなり深い積雪だが、線路には雪はない。その中に次々とD51重連列車がやって来る。俯瞰だと広い視野が得られるが、列車に接近した横構図だとかなり狭まり、35mmや28mmレンズの出番になる。


28mmレンズでも2両写し込めない

崖の上の、少し広いところで撮影していた時、珍しくも地元の人が話しかけてきた。素朴な老人だと見たが、いやはやどうして、欲だけは見事に突っ張っていたようである。というのは、小生が三脚を立て、マミヤC3に180mmレンズを付けてファインダーを覗いているのを見て、この欲深爺さまは、てっきりこの土地を国鉄が電化工事の為に購入するべく、我々は測量と現地検分に来た者だと信じこんだようである。つまりレンズ交換式2眼レフカメラを、測量機器=まだレーザー光線での測量機などない頃だから、望遠鏡式のトランシットだと思い込んだのであろう。


うっかり小生がその爺さまの相手をしたのが運の尽き。この管首相ですら顔負けしそうな、粘り強く、しつこく、けして諦めないジイさまは、それからずっと小生につきまとい、質問を繰り返し、放してくれなかったからである。

彼が聞きたく、粘りに粘ったのは、いろいろ言辞は弄したが、要するにこの土地を地主はいくらで手放したのか―国鉄はいくらで買うのか、に尽きた。適当にあしらっていたのが、そのうち相手のペースにはまりこみ、当方はしどろもどろ。それでも「滑ったの、転んだの」といなしたり、とぼけたり、風向きを変えようと、それなりに努めはした。ところがドッコイ、そんなヤワな戦術で引っ込むジジイではなかった。

そのうち流石に根負けしたのか、先方は作戦を変えてきた。国鉄は、電化が先か、複線化が先か、とまたもや蝮の粘りで小生にまとわりついたのである。これにも適当にあしらったのだが、温度は低かったから、いくらなんでも脂汗をタラーリ、タラーリとまではいかなかったとはいえ、純朴そのものの小生は、心底くたびれ、疲れ果て、酒でも飲まないと生命すら保証できない疲労困憊常態に陥ったのであった。

それなのに何ぞや。ハタで仔細漏らさず聞いていた某後輩は、時に噴出すのをこらえながら、助け舟も出さず、先輩が塗炭の苦しみからの脱出に必死こいでいるというのに、実に嬉しげにこの一件を楽しんでいたのは、下克上は世の常とは申せ、誠に怪しからん、嘆かわしい次第ではあった。


関山駅に進入するD51×3重連列車 左は交換のD50+D51牽引列車


右の録音機を担いだ若者は誰でしょう

「鉄道展―東北を旅して」              ひと・まち交流館 京都にて続いて開催

佐竹保雄さん写真展・津田雅司さん模型運転会、「鉄道展―東北を旅して」―被災者心の人生・模型列車で東北へ行こう―は7月22日~28日に山科のからしだね館にて開催されましたが、本日より市内中心部のひと・まち交流館 京都にて、続いて開催されます。
皆様方のご来場をお待ちしております。

日時:8月9日(火)~15日(月) 11:00~16:00

場所:ひと・まち交流館 京都
URL;http://www.hitomachi-kyoto.jp/index.html

【バス】
市バス4,17,205号系統「河原町正面」下車
【電車】
京阪電車「清水五条」下車 徒歩8分
地下鉄烏丸線「五条」下車 徒歩10分

ひと・まち交流館京都 アクセス・交通

いよいよ見納め JR東日本203系


東京メトロの新鋭車16000系と行き違う203系54編成

JR東日本の203系は、後継の233系2000番台の増備により、7月末日現在残り5編成になり、いよいよ引退時期が迫ってきた。
E233系2000番台は平成21年度に1編成新製され、207系900番台の置換え後、203系を全車(17編成)置換えのため昨年度から順次新製され、現在15編成が運用に就き、残る新製予定車は僅か3編成となった。
一方203系はE233系2000番台の運用開始と共に運用を離脱し、現在運用に就いているのは、0番台のマト53~55、100番台のマト68、69の計5編成であるが、マト53と68は近日中に離脱するといわれている。運用離脱車の内、一部編成はインドネシア(51、52、66編成)とフィリピン(67編成)に譲渡予定で既に搬出された編成もある。

 203系は、使用線区が取手~綾瀬~代々木上原間に限られているためか、注目度は今一つであるが、私個人的には昭和58年5月生活拠点を東京に移して以来、通勤でお世話になった車両だけに、時代の流れとはいえ一抹の寂しさを感じている。

 「普段乗っている車両は撮影しない」とよく言われるが、103系が正にその通りで、廃車間際になってバタバタと撮影した。203系は103系の轍を踏まないよう普段から撮っておこうと思っていたが、やはり今頃になって出勤途中や、直帰等で早めの帰宅時に撮影している。203系が走行する地上区間(北千住の地下出口から取手まで)は踏切が無く、線路際に高いフェンスが設置されているため、撮影場所はホームの端か歩道橋位しか無い。鉄道雑誌やHP等で大きく取り上げられると「葬式鉄」で混雑が予想されるので、撮影は早目にされることをお勧めする。前述の通り残り5編成と少なくなってしまったため、昼間は全く走っていないこともある。最近の実積では、7月23日(土曜日)朝1編成運用に入っていたが昼間ゼロ、27日(水曜日)昼間3編成運用(1編成は綾瀬~代々木上原間の折り返し)に入り、夕方1編成出庫、28日(木曜日)終日2編成運用、30日(土曜日)朝3編成運用に入っていたが昼間1編成、31日(日曜日)ゼロといった具合で、本当に運次第となった。

 
松戸駅に到着した54編成(クハ203-4)/方向幕を「回送」にして一坦引上げ

 
折り返し霞ケ関行となりホームに入線する。

 
綾瀬駅の引上げ線から1番線に進入する53編成(クハ202-3)/この日は、昼間は綾瀬~代々木上原間の折返し運用に入っていた。

 
金町駅に進入する69編成(クハ203-109)

 
金町~松戸間を走行する53編成(クハ203-3)

 
北小金駅を発車した54編成(クハ203-4)

 
北小金~南柏間を走行する55編成(クハ202-5)

東京メトロ6000系も後継の16000系に置換えられることになり、22年度から新製され24年度までに16本投入される予定で、8編成が完成して運用に就いている。6000系は10両編成が35編成在籍していたが、第10、15、26の3編成が廃車となり15と26編成はインドネシアに譲渡されている。もしかすると日本時代と同様203系譲渡車と一緒に走っているのかも知れない。
第2次試作車の01編成は、車両限界の関係で小田急乗り入れが不可能なため運用に制限があり、その他にもM車とT車の位置、車内の仕様の違い等で早期に運用離脱が予想されたが健在である。但し予備車的な存在となっており、見かけることは少ないが、平日は下記の61S運用で見かけることがある。勿論下記以外の運用に入り、休日や昼間でも見かけることもある。
綾瀬7:47→取手8:03 / 8:11→明治神宮前9:29 / 17:49→代々木上原17:51 / 18:00→我孫子間2往復半運用→綾瀬23:55

 
松戸駅停車中の第2次試作車01編成/6001

 
松戸駅に進入する第2次試作車01編成/この編成のみ代々木上原寄りがMcである。

 
北小金~南柏間を走行する13編成/原形の面影を残す2段窓車、但し構造は変更されている。

 
北小金駅を発車した28編成/更新時にガラス面積の広い扉に取り替えられた。

 
北小金~南柏間を走行する35編成/平成2年新製のラスト編成。

 
金町~松戸間を走行する06系/平成5年に1編成のみ新製。

16000系は、関東では珍しくJR東日本の影響を受けていない電車で、連結面の貫通扉や袖仕切部の一部に強化ガラスを使用している。

 
北小金~南柏間を走行する05編成

 
松戸駅停車中の01編成

 
車内/袖仕切りに強化ガラスを使用

 
強化ガラスの貫通扉

 
松戸駅を発車した08編成/06編成から正面の扉を左寄りに設置

「スーパーひたち」用のE651系、「フレッシュひたち」用のE653系は、来春より新製のE657系に置換えられる予定で既に試運転が始まっている。
E653系はいわき~仙台間の特急に転用されることが発表されているが、久ノ浜~亘理間が東日本大震災と福島原発事故の影響で不通となっており復旧の目処が立っていない。復旧後も4両編成の付属編成で十分なため、7両の基本編成は他線区に転用されることになると思われる。

 
北小金~南柏間を走行するE651系

 
北小金駅を通過するE653系

 
松戸~金町間を走行するE653系

 
北小金~南柏間を走行するE657系の試運転

関山のD51三重連 その1

ダンナ、新兵、ノッポのトリオは松本電鉄浅間線を撮り、記憶は定かでないが(恐らく)やたら大きな安宿―信州会館に泊まり、信越本線田口-関山間を目指した。ネガカバーには1964年3月3日とあるから、世間をお騒がせ?した「サンパチ豪雪・雪中横断記」の1年後である。ダンナと小生はサラリーマン3年兵、もう一人は現役ドーヤン生。

その道中列車を車窓から撮らんとして、いつの間にか機関車がD51の三重連になっているのに気付いた。アタマ2両か1両は回送であろうが、当時三重連として名高かったのは、D51なら東北本線奥中山、芸備線布原、86なら花輪線竜ヶ森で、少なくとも信越本線関山とは、行った人はあんまり、あるいは殆んどいないんじゃないか。


これはD51重連の旅客列車

天候はいまいち思わしからず 雪は結構深かったが3人ともオーバーシューズを穿って対策は万全

東京の交通100年博


東京都交通局は、明治44年(1911年)8月1日に東京都電気局として発足し、今年で100周年を迎えた。それを記念して両国の江戸東京博物館で「東京の交通100年博~都電・バス・地下鉄の"いま・むかし"~」で開催されている。
土、日は混雑が予想されるため7月28日(木曜日)休暇を取って見学したので紹介する。
館内には実物大の「ヨヘロ」前半部のモックアップをはじめ、系統板、行先板の実物、都電6000形、都バスの模型、円太郎バスの実物等が展示されていたが、「ヨヘロ」以外は撮影禁止であった。
屋外展示場には、函館市交通局から借り入れた「ヨヘロ」改造の除雪車(ササラ電車)、荒川車庫に保存されている「6086」が展示され、こちらは自由に撮影可能であった。

ヨヘロのモックアップ
館内展示で唯一撮影可能であった。「ヨ」は4輪車、「ヘ」はベスティビュール(前面ガラス窓付)、「ロ」は大正6年製を表している。

函館市交通局・雪4
昭和9年函館大火により多数の車両を焼失したため、明治36年か37年に作られた元東京電車鉄道時代の車両を大正9年に「ヨヘロ」に改造した車両を、東京市電より45両購入して200形(201~245)とした。ちなみに「雪4」の前身はラストの245で、昭和12年4月に除雪車に改造されている。除雪車という特殊用途のため、改造時の姿で今日まで生き延びたものと思われる。函館市交通局にはあと1両元ヨヘロの244改造「雪3」が残っている。


 6086
普段は荒川車庫に保存されイベント時に展示されている。この車両については【354】(2008-9-29) 【967】(2008-11-3) 【8489】(2010-6-6) に写真と共に紹介されている。昭和24年日本鉄道自動車製で41年に大栄車輌での更新修繕時に方向幕の大型化、窓枠のアルミサッシ化が施行された。昭和45年12月24日付で荒川車庫に転属し、昭和53年4月27日付で廃車になるまで荒川線で活躍した。廃車後は個人の方が保存されていたが、平成20年3月に荒川車庫に移されている。


廃車当時の車内広告がそのまま残されている。

荒川線新装記念乗車券発売と花電車のダイヤが掲載されているポスター

運賃表/普通運賃70円、1日乗車券が400円となっているが、現在は160円と750円である。1日乗車券は都電、都バス、都営地下鉄の他、日暮里舎人ライナーや都バスの青梅地区の多区間も乗車可能である。また都電のみの1日乗車券は400円である。

6086の説明板

はとバスのポスター
6086の横の壁にはとバスのポスターが2枚貼られていた。新幹線0系、初代のスーパーバスが描かれており昭和40年頃のものと思われる。ポスター類は一定期間を過ぎると廃棄されるが、よく残ったと思う。


はとバススーパーバス(46年式B915
N/ポスターは初代の車両であるが、写真は昭和46年製の最後の車両。一つ前の窓の大きいタイプは1両保存されている)


モノレールのリバイバルカラー車/
ポスターでは色は判らないが、多分この色であったと思われる。

 撮影禁止のため、説明板を書き写していた人がいた。禁止理由は不明であるが、フラッシュ撮影禁止程度にすれば良かったのではないだろうか。
9月10日まで開催されているので、東京周辺にお住いの方には是非お勧めしたい。函館市交通局の「雪4」の見学、撮影だけでも十分価値はあると思う。

追憶の旅(その5  最終回)

旅の終わりは周防大島です。なぜ周防大島を訪れたかというと 私が敬愛する民俗学者 宮本常一氏の生まれ故郷であり、氏が全国各地で撮り集めた約9万枚の写真が 周防大島文化交流センターでデータベース化され その他の文献、資料類とともに集約、保管されているからです。宮本常一氏のフィールドワークについては 最近多くの写真集や、全集が発行されていますので ここでは触れないことにします。さて 周防大島と言えば宮島や仁方・堀江航路と並んで大畠・小松間に大島航路という国鉄連絡船で結ばれていた島です。昭和51年に大島大橋が開通し、同年にこの航路は廃止されています。宮島は一大観光地として連絡船があるのは納得できるのですが、特別な観光地もない大島になぜ国鉄連絡船が就航していたのか ずっと不思議に思っていました。それもあって一度は大畠に降り立って 大島に行こうと考えていました。

大畠駅から大島大橋を望む

大畠駅はすぐ海に面していて、大畠瀬戸の渦巻く急流に抗して進む船を間近に望むことができます。かつての連絡船乗り場がどこにあったのか形跡がなく 聞いてみると 今は商工会館になっているあたりが桟橋だったとのこと。昭和36年の時刻表を見ると、大畠駅には赤帽さんもいたようです。さて桟橋のことはそれ以上詮索するのはやめて バスで島に向かうことにしました。通称 周防大島、正式には屋代島は淡路島、小豆島についで瀬戸内海では3番目に広い島で島内の足は防長バスが担っています。今は防長バスですが、かつては国鉄バスが走っていました。なぜ国鉄バスが走るようになったか その経緯については調べていませんが、全国でただひとつ国鉄バスが走る島だったそうです。連絡船もかつては県営だったようですが、島の国鉄バスとの連絡運輸ということで、連絡船も県営から国鉄連絡船になったようです。このあたりのことは どなたか薀蓄をご披露頂ければありがたい。国鉄バスが走っていたことを裏付けるように 主要なバス停には今も○○駅という立派な建物があります。道の駅ならぬ バスの駅です。そう言えば 京都市北部の周山などでも国鉄バスの駅があったような・・・・。

 周防久賀(くか)駅

かつては島の浦々は発動機船(ポンポン船)で結ばれていて、「瀬戸の花嫁」の世界でしたが、今は道路も整備されバスが足になっています。とは言え 本数は少なく、路線も経路が複雑だし、休校日ダイヤなど細かく設定されているので よく調べて行かないと足止めをくらうことになります。そんなバスを利用し、一部区間は歩いて島の風情を楽しみました。目的の文化交流センターの隣には やはり大島出身の作詞家 星野哲郎氏を記念する星野哲郎記念館が開館していて ここを訪ねるのも楽しみだったので 目的をかなえて 満足して島をあとにしました。

昔お世話になった均一周遊券に代わって 青春18きっぷを初めて利用して短い旅をしてきましたが、これに味をしめて また次のコースを計画しようと思っています。

追憶の旅(その4)

防府で泊まった翌朝は 徳山に向かう。途中 富海、戸田あたりの海岸線はかつて大型蒸機の撮影ポイントだったところだが、糸崎ー尾道間と同様 海岸の景色はあまり変わっていないように思えた。徳山で岩徳線に乗り換える。キハ40の単行である。乗客14人で発車、櫛ケ浜から岩徳線に入る。海岸を走る山陽線が艦砲射撃で不通になったときのバイパスとして作られたと聞いたことがあるが、そのため線路規格は幹線並み、途中の交換駅もDC1両には不似合いな長いホームや有効長がある。それ以外には特徴の少ないローカル線であった。意外だったのは 乗降客が多いことで、確かに高校生(もう夏休みに入っていたのでクラブ活動?)が多かったが、岩国に近づくほど乗客は増えて立っている人もいたほどだった。私以外に徳山から乗り通した人(鉄ちゃんではない)がいたのも驚き。西岩国で下車。西岩国の駅舎は昭和4年に建てられた洋風のしゃれた駅舎なので 錦川鉄道に乗り換えるのはこの駅と決めていた。乗り換えまでの12分ほどのあいだに 駅前に停まったバスが動いてくれず 駅舎だけの写真を撮り損ねたが これも時代の記録と思ってパチリ。駅正面玄関上や窓の上のアーチは錦帯橋をイメージしたデザインである。バスは各地で増えている コミュニティーの巡回バスである。無人駅のため広いコンコースは殺風景だが、非常に良い雰囲気の駅だった。立派な跨線橋を渡って 錦川鉄道に乗り換える。

やってきたのはNT3002 ひだまり号だった。錦川鉄道はかつての国鉄岩日線で錦川に沿って北上し 錦町まで約1時間の旅である。営業上の起点は岩徳線川西駅だが、実際の分岐点は川西駅から1.9Km先の森ケ原信号場である。信号場と言っても遠隔操作のポイントがあるだけで 詰所も何もない。

このトンネルを抜けると森ケ原信号場。場内信号機左上が岩徳線で赤、右下が錦川鉄道で青を現示している。

森ケ原信号場

 

この信号場を過ぎて 最初の駅が御庄(みしょう)である。車内では「山陽新幹線はお乗換え」とアナウンスはあるが 乗り換える人などいない。駅名が新岩国ではなく御庄であるように 全く別の駅である。無人駅で ホームにはヨ8000の車体が待合室になっている。駅の少し岩国寄りに新幹線の軌道基地に入ってゆく引込線が残っているが、途中 レールは撤去されて使われていない。

あとはただただ錦川を左手に見ながら川を遡ってゆくのみ。眺めの良い個所では徐行し、景色をお楽しみくださいとアナウンスがある。観光客には良いかもしれないが、いつも乗ってる地元の人にはありがた迷惑かも。ほぼ中間点の北河内で岩国行きと交換し 錦町へひた走る。

殆どこのような景色が続く。なぜか線路際に電柱がなく、非常にすっきりしている。錆止め色に塗られた線路際の柵が細いレールで作られているのが気になった。森林鉄道は無かったはずなので、岩日線建設当時のトロッコのレールか?

 

終点錦町から先にもトンネルや路盤は続いていて、「とことこトレイン」なるバッテリーカーというか遊園地のこども列車のような乗り物が雙津峡(そうづきょう)温泉まで運行されていて 観光客はほとんどそれに乗り換えるが、私はトロッコもどきに興味はないので 8分後に折り返し発車する岩国行きを撮るべく 錦川鉄橋まで駆け足で戻る。

 

錦川鉄道には現在NT3000型の4両しかなく このピンク色は桜をイメージした3002 ひだまり号、青はアユやヤマメをイメージしたせせらぎ号3001、薄みどりがカワセミをイメージしたこもれび号3003、黄色が蛍をイメージしたきらめき号3004で 殆んど単行で運用されている。

駅か駅前に食堂か店屋ぐらいあるだろうと何も食べ物を持たずに行ったのが間違いで、かつて営業していたであろう食堂や店屋はあっても 駅の売店にパンもなく 仕方なく少し離れた錦町の集落まで歩く。幸い農協が開いていて弁当を手に入れられたが 余計な時間を費やし 次の列車も同じ鉄橋で撮るハメになってしまった。今度は青い3001がやってきた。

錦川鉄道の本社や車庫はここ錦町にあり、この日は3003と3004は車庫で休んでいた。これらも撮影して全車両を撮り終えて満足。岩国行きの発車まで駅で時間つぶしするが、駅の売店のおばさんが 弁当もパンもなくてゴメンとリンゴをむいてくれたのには恐縮してしまった。お礼に錦川鉄道の絵はがきを買う。

 

40Km弱の路線に4両のDC,全駅無人、保線も含め何人で運営されているのか聞きそびれたが、発車までの時間 若い運転士が洗車を始めた。ワンマン運転のため車内アナウンスなどは当たり前の仕事だろうが、このような弱小鉄道ではひとりで何役もこなしているのだろう、鉄道が好きでないと務まらないだろうと思いながら 若い運転士が頼もしく見えた。

岩徳線や錦川鉄道は初めての訪問で、追憶の旅ではなかったのですが、一応鉄道マニアとしての旅はここまでで、岩国から大畠経由周防大島に渡って 4日目は島の旅でしめくくることになります。

初めての汽車一人旅

 老人は同志社中学校2年(1952年)の夏休み、はじめて汽車による一人旅をしている。電車では小学校3年(1948年)以来、折に触れ奈良電、近鉄橿原線、同大阪線経由で父親の出生地(奈良県宇陀市古市場)往復を一人でしていた。汽車の旅となると母親の出生地(島根県吉賀町六日市)となり、小学2年の時の往路は父母同行、復路は9歳上の兄の迎えによるもので、以後なく寂しい思いがしていた。小学校の頃から地図を見るのが好きで、父の本棚にあった冨国書房・大日本帝国地理体系を引っ張り出していた。地方鉄道の電化線が赤線となっており、どんな電車が走っているのか、電車少年には興味そそられるものであった。中学2年の社会は地理中心で、フォッサマグナ(中央構造線)なる言葉を知った。その北端が北アルプスと知り日頃、標高1000m以下の山に囲まれての生活だけに高い山が見たかった。

この年は初めてアルバイトをしている。先のアイキャン屋の長女が従兄と結婚、縁類になることにより「たぁちゃん、みたらし団子づくり手伝って」となり、日給200円12日分、2,400円の大枚を手にしたのであった。これをどう使うか、かねて汽車の旅がしたいと願っていた老人は北アルプスと電車(松本電鉄と長野電鉄)、更に東京電車見物の旅の許可を父母に願い出た。父は即座にOK、長野で旅館を手配してくれた。善光寺参道東側”宮林旅館”であった。母は東急沿線大岡山駅近くの従兄に連絡してくれた。

さて中学2年生は盆明けに中央西線の夜行で先ず松本に早朝到着した。駅ホームで洗顔後、2食目の焼きおにぎりをほおばり、関西と違い丸味の少ない高床木造ボギー車で島々線往復をした。外部塗色は濃い茶色一色だった。次いで浅間線、ここは正面幕板(額)が広い高床木造ボギー車で、運転台を兼ねた出入口部が一段下がっているN電並みの車体構造であった。外部塗色は上高地線と同じ、この2線に乗ることが出来た。北アルプス連峰はどうだったか、全く覚えがない。昼飯は多分コッペパンを牛乳と共に腹へ流し込んだのであろう。午後は長野に移動、着いた善光寺の宿では米2合を差し出している。

松本で思い出したのはこの程度だが、実は結婚の翌年(1965年)盆休みに新婚夫婦は浅間線廃止を知らずに松本に来ている。野辺山荘で一泊、翌日は浅間線に乗って八方尾根を望見の後、上高地線で上高地帝国ホテル泊りのコースを画いて松本駅に到着した。駅前に松電の姿がない。この頃は今のように廃止と言って大騒ぎをしていなかった。ぼろ電に乗る楽しみが消えてギャフンとなった。上高地線は全て鋼製車体に更新され、上半薄いグレイ下半水色の塗り分けとなっていた。浅間線の外部塗色も末期は上高地線同様であったのだろう。

ところで老人は「鉄」復帰2年後(1988年)、河原町六角に移った駸々堂地方刊行物コーナーで信濃毎日新聞社・「信州の鉄道物語」を見付けた。趣味界の大御所、小林宇一郎監修とある。即座に買った。そこで松電島々線→浅間線→布引電鉄1~3号となった木造単車の布引時代の写真掲載【①】を見付けた。台車はブリル21E、写真に装着してみれば全体像は想像できる。浅間線時代は写真に見えるステップの下に更に1段、露出型のものがついていた。また別書では浅間線のダブルルーフ2,4号車の竣工時(ホデハ4,5)の図【②】も見付けたので紹介する。車体と台車は九州小倉にあった東洋車両(1924年7月)製で、台車は庄内交通1型と同型であった。いずれお目にかけることになるだろう。最盛期(昭和初期)の時刻表では、浅間温泉初発午前4時48分発から12分毎で終発午後11時48分まで、駅前初発は午前5時10分から12分毎で終発は午前0時10分まで、上り下り共に所要時分は22分、浅間温泉折り返し時分4分、駅前は着発のピストン運転となっていた。廃止直前は早朝、昼間、夜間は24分毎になっており、朝夕最混雑列車の前に横田-駅前間では続行車もあったようだ。

さて長野では長電乗り回し、「牛ではない電車に牽かれて善光寺参り」を果たし、夜行列車で早朝新宿到着となったのである。待合室で少憩後、西口から出て東京で最初に見た私鉄電車が京王電車であった。この時の印象は強烈で今に至るも残っている。25年ばかり前、高橋弘師匠にこの話をしたら師匠も同じ印象を持たれたようで、次にお伺いしたとき、1950年5月撮影の甲州街道上の写真をプリント【③】して待っていて下さった。その時貰った一景を紹介しよう。最古参車2000型である。「京王電車は2扉が似合う」とおっしゃった。

その京王電車の現在の姿、本年7月2日ふと思い立ち中央特快、高尾で下車した。跨線橋から見える京王線ホームには4扉20m車10連が見える。北野から奥は始めてでその昔、中央線から見えた時は確か2連だった記憶がある。長い連絡道?を急いでみたが発車した後のまつり。時刻表を見れば10連は「準特急」であった。次発は10分後の高幡不動行普通。北野で八王子発準特急に連絡とあり、山下りは7000系6連。次いで10連の9000系準特急で調布へ。乗り換えた普通8000系8連で下高井戸へ。いずれも20m4扉車。14m弱の車体に2扉が似合う姿ははるか彼方の物語。この「準特急」は如何なる列車か京都人には分らない。「準特急」氏の解説を待つ。

最後に須磨の大人出題のクイズ、3人は旦那、トオルちゃん、新兵の3人である。わっちゃらは同行していない。浅間線廃止(1964年3月31日)以前のことで、野辺山集合とならずだから3人は木曽森林辺りに行った時ではないだろうか。

おまけに恥ずかしながら自家現像失敗の巻。準特急さん笑ってやって下さい、1959年9月の庄内電鉄モハ7号の姿【④】である。初めての汽車一人旅ではカメラなしであった。

①松電島々線→左同浅間線→布引電鉄と流転

①松電島々線→左同浅間線→布引電鉄と流転

②ホデハ4,5の竣工時の型式図
②ホデハ4,5の竣工時の型式図
③高橋弘さんから貰った61年前の京王電車
③高橋弘さんから貰った61年前の京王電車
④あっと驚いた7年ぶりの再会
④あっと驚いた7年ぶりの再会

追憶の旅(その3)

早朝から一畑電車で昔をなつかしんだあとは 出雲市から一路益田へ乗り鉄である。当初 乗ったことがない美祢線で厚狭に出ようと計画したところ、現在美祢線は全線バス代行ということで やむなく山口線で瀬戸内へ出ることにしたので まずは益田へ向かう。かつて 夜行の鈍行や急行さんべで石見路に入り C57,D51、DF50を追いかけたなつかしい路線である。当時はDCもあったがまだまだ客レも残っていて 客車の窓から日本海の風景を堪能したものだった。今回はキハ126なる軽快なDC,それも快速アクアライナーと称して 浜田まではかつての急行か準急並みの韋駄天ぶりである。海側の席に陣取って この駅間を歩いたナアと思い出にひたる。唯一 昔と景色が一変してしまっていたのは岡見の三保三隅寄りで 中国電力三隅火力発電所ができて 海岸線を走っていた線路はショートカットのトンネルになってしまったのである。石見路の線路は水面からかなり高い位置を走っているのに 岡見のあたりはめずらしく浜辺を走っていたので ここが気に入って多くの写真を撮ったのだが 埋め立てられて発電所の敷地と化していた。中国電力管内はこの三隅発電所のおかげで 関西電力に融通できるほどの発電能力があって 停電の心配もなく安気に暮らせているので文句は言えないのですが、「今は山中、今は浜・・・」という原風景が損なわれてゆくことについては どうも抵抗があるのは私だけでしょうか・・・・。そう言えば 海岸線に立ち並ぶ風力発電機群も どうもなじめない・・・。

昭和47年3月29日 1896レ D511091     冷蔵車が必ず数両入っていた     (退色、変色が進んでいます) 

 

益田からは山口線で一気に新山口まで行き、防府に降り立つ。 泊りを防府にしたのは 防石鉄道の保存車両を見るためである。防府駅の少し西の高架下に小公園があって 2号機、ハ6、ハニフ1が保存されていた。かつては宮市駅にあったのが 今は防府駅近くに移されて メンテもまずまずの状態である。石碑によれば防石鉄道OB会が保存活動をされている由。ハ、ハニフとも車体に車番の標記がないので違和感を感じるが、こうして手を加えられて保存されているのは 結構なことである。

 

錦川鉄道に行き着くまえに 今回はここまでとします。 アアしんど。                       

“市電の記憶、昭和の京都”展

地下鉄の御池駅ギャラリーで福田さんの写真展が開かれています。

今日の午後、市内へ出かける用事があったので足をのばしてみました。あいにくカメラを持っていなかったためお見せできないのが残念ですが上手くまとめられていて説明と写真の配置もよく、見やすいのがいいと感じました。この手の写真展は市電の車両に偏りがちなのがさすがは福田さん、湯口先輩を彷彿とさせるような人々と市電の係わりように目を向けた作品ばかりで懐かしさで長居をしてしまいました。その間、中年以上の見るから市電世代の方々が熱心に眺めたり、携帯で気に入りの作品を撮ったりメモをする人もいました。

少し残念なのは作者の年代による制約のせいでワンマン化後がほとんどで、ツーマン時代の写真があまり無かったのはやむを得ないことと納得しています。かなうならこの次は諸先輩も交えて戦後の市電写真を並べてみたらいいなと思いました。

御池ギャラリーはまもなく廃止されるそうです。黒字を求める余りどこでも金儲け用に作り替えるのでしょうか。おそらく最後の作品展になるでしょうから皆様もぜひ行って見てください。

8月2日~19日(金)※19日のみ13時閉場

追憶の旅(その2)

旅の初日の泊りは 一畑電車の車庫のある雲州平田のビジネスホテルにしていたので、木次線をあとに松江に向かった。松江駅は高架になっていて 昔の面影はない。宍道湖大橋北詰の末次公園内にある筈のC56131を撮ろうと行ってみたが、どこにも見当たらず、雨も降り出し、暗くなってきたのでC56探しはやめて、一畑の松江しんじ湖温泉駅に向かう。一畑の駅もすっかり変貌していて驚く。

バスが停まっているのが駅正面

京王5000系の生まれ変わりの2100系に揺られて 宍道湖北岸を雲州平田に向かう。途中 一畑口ではスイッチバックとなる。昭和48年12月(あるいは49年1月)に訪れたときには ここ一畑口で下車してバスで廃線跡を一畑まで往復したのを思い出す。

スイッチバックの一畑口駅終端

昭和19年12月10日に営業休止した一畑駅。昭和20年8月に廃止区間3.3Kmのレールは名古屋鉄道に送られたが 発送1週間後に終戦となった。一畑駅の駅舎はしっかり残っていた。

平田のホテルを早朝に出発。平田には車庫があり、以前訪れたときにはED22が健在だったし、多くの貨車も留置されていた。

 

 洗車機が新しい他は変化少

始発電車で川跡へ向かう。川跡は出雲市行きと出雲大社前行きの分岐駅である。

左から 川跡と出雲大社前を往復している3015+3005、中央は松江から来た特急出雲市行き 旧京王の5000系4連、右は松江行きの3018+3008、 丸いヘッドマークは「しんじ湖ラムサール号」。線路配置は昔のままで、左手にあった貨物ホームがなくなっている程度。ちなみに3000系は旧南海ズームカー。乗り換えのための踏切には遮断機、警報機がなく 駅員がトラロープを張る光景には驚いた。発車しようとしている特急の前を ゆっくりと乗客が渡ってゆくのも のんびりした光景だった。全線にわたって架線柱は今も一畑軽便鉄道時代の14Kgレールを3本組み合わせたものが使われており 歴史を感じさせる。

 この日は遠足の小学生で賑う

大社線の途中 高浜駅付近のさとがた保育園にデハ3とデハ6が保存されているので 保育園を訪ねる。声をかけて園内に入ったが、電車を見に来る人が多いのか どうぞどうぞという感じ。

今はなくなってしまった「急行」の看板がなつかしい。雨ざらしはかわいそうだが よく手入れされている。

出雲大社前駅に進入する3000系

出雲大社前駅(以前は大社神門駅だった)も殆ど変っていない。上の写真では 右手の側線が機回し線のような配線になっているが今は単純な配線になっている。映画で一躍有名になって 日本最古の電車をウリにしているデハニ52が留置され、社内見学(但し 駅入場券か乗車券が必要)ができるようになっている。平田車庫にもデハニ53が動態保存され 平田駅構内の専用線を体験乗車できるようになっていて、デハニ50は今の一畑にとっては目玉商品になっている。有人駅では記念入場券やキーホルダーをはじめ いろいろなグッズが売られていたり、毎日全線で自転車持ち込み可(300円)だったり イベント電車を走らせたりと集客、売上増への涙ぐましい経営が見て取れる。山陰唯一の私鉄として頑張ってほしいと思いながら 一畑の旅を終えた。

次回は錦川鉄道をご紹介します。

お待たせしました、N電

やぼ用で、少し掲載が遅れました。お詫びします。

さて、N電と言われた北野線の市電ですがOBの中で実際に乗ったことがある人は何人いることでしょうか。戦後、酔っぱらった進駐軍の兵隊が無理やり運転して、速度超過で堀川中立売のカーブから堀川へ転落したとか聞いたことがあります。

この絵の背景は西洞院六条あたりで、薮之内千家の土塀です。

笠岡にて

笠岡駅西方の高架道路下のホジ9を確認してきました。

投稿記事の撮影時から35年以上が経っていますが、雨水と直射日光に曝されていないのか、保存状態はかなり良好な部類ではないでしょうか。

2011年7月30日午後撮影

なお、保存地点の周囲には、笠岡港が荷物の出荷で栄えた頃の、かなり貴重な近代建築群が残っています。

これらの町並みは、今の機会のうちに是非ご覧になられてください。

さいごに、現在の鬮場(くじば)付近の街角風景をお見せします。