昭和28年廃車後も残っていた11000形 (44-3-19) 仏生山
高松琴平電鉄のワフ改造のクハの件は、須磨と乙訓の両長老から詳細な解説がされており、私ごときが出る幕ではないが、昭和44年3月に撮影した画像をお目にかけたい。
廃車後、物置として使用するには手頃なサイズであったためか長く残り、瓦町変電所で使用されていた車体は平成3年頃まで残っていたそうである。
画像を通り、この時点では線路の上に乗っており、ダルマにはなっていなかったが、車号は長年風雨にさらされた結果であろうかどこにも残っていなかった。
それにしても終戦直後の琴平線は「人が乗れさえすれば何でも良い」というほど車両不足に陥っていたことが伺える。乗り心地の悪さもさることながら、夏は車体の外板から直接熱が伝わる上に、窓が小さいので蒸し車内は風呂状態、冬は冷蔵庫状態であったと思われる。
鉄ピク誌の1989年3月臨時増刊号に吉川文夫氏が「電車になった貨車/高松琴平電気鉄道11000形」のタイトルで、亀井一男氏が昭和24年6月に撮影された写真と共に解説されているのでお持ちの方はご覧いただきたい。
乙訓の長老の解説に出てくる「国電のお古2000形」についても触れると、仙石線の前身宮城電鉄の買収車で、大正15年日本車輌でサハ301~303として新製され、車体は木製であった。昭和18年運転台を取付けクハ301~303となった。昭和27年10月廃車後、翌28年3月に高松琴平電鉄入りして2000形(210、220、230)となり琴平線で使用されていた。
昭和32年に230が鋼体化改造され、Hゴム支持の2段窓(通称バス窓)を持つ近代的な車体になったが、台枠以下と屋根を流用したため、トラスバーが残るアンバランスなスタイルになった。昭和40年に220が鋼体化の上電動車化され67となった。窓、扉等を原形のサイズに合わせたため、窓の小さい古めかしいスタイルとなった。210は鋼体化改造をされることなく昭和44年に廃車となった。

220を鋼体化の上電動車化した67 (44-3-19) 瓦町
11000形ほどではないが、もう少しで「とんでもクハ」になりかけた車両を紹介しよう。昭和39年に国鉄からオハ31の137と299を購入してデッキ部分を乗務員室にして側面の扉を2カ所開ける予定で工事を進めていたところ、車体の老朽化があまりにも激しかったためか、旧車体を廃棄して新たに車体を新製した。台枠以下は流用しているので、何となく元オハ31の面影が残っている。
【14829】のコメントで米手作市様が触れておられるキワ90について画像を貼っておく。
昭和35年ローカル線の効率化を目的として2両新製した「有蓋気動貨車」で、当時気動車用の標準機関であったDMH17C(180PS)を搭載した全長8mの2軸車であった。
宮崎機関区に配置され妻線で使用されていたが、牽引力不足等で実用化に至らず、昭和44年にキワ902が房総電化の際に事業用車(装柱車)キヤ901に改造、残るキワ901は引き続き宮崎機関区に留まったが昭和46年に廃車された。




























































