台車の話

 闘病中のTさんから懐かしく、また、楽しかったあの頃の台車の話が届きました。メールで1~2回やり取りをした後の文章です。本人ご了解のもとに原文を紹介します。

「阪急2800はミンデンドイツばかりだったので、2804ができるまでは、わざわざ1300急行のエコノミックトラックで帰宅したことがあります。京阪1900はシンドラKS70が大半ですが、アルストーム1906は最高。小田急のアルストームもよかった。名鉄も。阪急814のゲルリッツはダイナミック。阪急660のブリルは最高!そう、610は中型として、いい車両でしたね。山陽電鉄のOK型はズシンズシン。近車のシュリーレンも力作。ああ、いい時代だった。ありがとう。思い出したよ。」

 私見です。乗り心地と言う観点から見ますと台車の要素は大きいと思いますが、路盤・線路状態、電動車か付随車か、MT比率、ブレーキ方式・出力等車両性能、車両構造、乗客数、列車速度、運転の仕方等々様々な状況によっても微妙に違うのでしょうね。国鉄客車オハ61の乗り心地がいいと言う人がいますが、うなずける点もあると思います。技術的なことはよくわかりませんが、京阪の1900が京都市電と平面クロスする所でもスムーズな乗り心地を感じましたし、阪急京都線は路盤が悪く10メートルレールが存在したとも聞いておりますがスピード満点でそれが乗り心地の悪さをカバーした様な気がします。小田急は狭軌ですが、昔から路盤がよかったのか直線区間が多いのか、空気バネでない2400でも乗り心地は悪くなかったです。1960年代後半ですが、あの時代は昭和初期の吊り掛け車に混じって各社競って製作した高性能車が多く見られ、その台車にも空気バネ等試行錯誤のあとが見られ、見ていて興味をそそられました。Tさんはベッドの上で打ち込んで送信されたものと推察しますが、凄い記憶力と気力に感銘を受けました。

都電荒川線100周年記念イベント

 
 9002、9001、7023の3両並び

 8月7日【14525】でお知らせした通り、東京都交通局は8月1日に創業100周年を迎えたが、都電荒川線は前身の王子電気軌道により明治44年8月20日飛鳥山上(現在の飛鳥山)~大塚間を開業以来100年を迎えた。これを記念して8月20日に荒川車庫でイベントが実施され、9001と9002号車に簡単な装飾とヘッドマークが取り付けられた。荒川線にとっては「交通局100周年」よりこちらの方が意義深いと思われる。

当日、たまたま午前中時間が空いていたので、イベント前にスカイツリーを入れて撮影をしようと思い早めに家を出たが、金町駅に着くと203系マト55編成が我孫子行で来たので思わず乗ってしまった。我孫子駅の入線を撮影しようと思い、松戸で降りて快速に乗り換えた。我孫子駅の入線を撮影後、再度快速で松戸に引き返し入線を撮影後、マト55編成に乗り町屋で下車した。

都電のりばに行くと、展示予定の9001が団体客を乗せて到着、直ぐに客を乗せたまま折り返した。荒川車庫に到着すると9002が装飾して停められており、隣に先程の9001が並べられた。その後7023に「都営交通100周年」のヘッドマークを取り付けて並べられた。イベント終了後は、9001は飛鳥山まで改装後大塚駅前行で、9002は「がんばろう日本」のヘッドマークを付けて三ノ輪橋行で営業運転に入った。
    
 イベント
前に貸切運用に入った9001

 
 
展示準備中の9002


 
9001と9002の並び


 9002と9001のヘッドマークが取替えられた。


 「がんばろう日本」のヘッドマークを付けた9002
 

・車両の動き
7000形の7004が3月31日付で廃車になり7000形は21両となった。それでも最大勢力で誇っている。


 在りし日の7004 
(20-6-16  飛鳥山
)

現在の在籍車両は下記の通りである。
7000形(21両)7001~7003  7005  7007  7009  7010  7013  7015  7016 7018 7019 7023 7024~7027 7029~7031
8500形(5両)8501~8505
9000形(2両)9001  9002
8800形(10両)8801~8810 
花100形(1両)花101

2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part20   中国最初の鉄道 唐胥鉄路、天津博物館

天津路面電車については、コメントに追加しましたように路線図が疎開地時代であり、その後に延伸等があったことが未調査でした。漏れがありまして、大変失礼をしました。まだ何か出てきそうですので、再度中国語サイトでの歴史を調べなおしておりますが、真偽性を確認出来るのに手間取っております。もう少し時間をいただきたくよろしくお願いします。

第14日目 5月31日

中国鉄路の歴史は、Part18の中国鉄道博物館正陽門館また2009年の上海鉄路博物館訪問記で、ご紹介させていただきましたが、最初の路線の天津にはもっと詳しい資料展示があるのではないかと期待して天津博物館を訪問しました。

まず目に入ったのは、中国最初の鉄道として河北省に開業した唐胥鉄路を走ったと表示されています、その名もロバート・スチーブンスが設計したロケット号にちなんで名づけられた、「ROKET of CHINA」号(中文では中国火箭号)の展示用の複製です。

この蒸気機関車は動輪数が当時の写真と違っているように見えますが、・・・・。最高速度は、32km/hです。

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高松琴平のとんでもクハ

失礼しました。この6両の種車は、新製車ではなく、国鉄払下げの中古ワフ25000形式だそうです。中の1両1140は、ご覧のようにブリル台車に履き替えていました。乗り心地が悪かったからでしょう。晩年は貨車として使ったといい、事情は知りませんが恐らく、熊延鉄道ハ50、51(これは新製貨車を流用)同様、認可当局は客車としてではなく、「目下の情勢では貨車で客扱いするのは差支えない」と、妙な理屈で貨車として認可したんじゃないかと思います。

どんな色であったかは分りません。元来小生は色盲ではないのですが、色彩センスに極めて乏しく、永年モノクロ専門だったためか、およそ車両の色を覚えていないのです。上の写真からは、貨車並みの黒とも、錆びて茶色になっているとも思えませんが。

これはなんだ?長老様!

いくら戦後の混乱期だからといってもこんな車両がお金を取って走っていたのでしょうか?

関先生が書いておられるので本当にあるのでしょうがにわかには信じられません。そこで普段から琴電のことなら俺に聞け!とばかりに薀蓄を吐露している乙訓の長老様、藤本様、これに関する情報を公開してください。

尾道鉄道の記録資料発刊について

尾道の郷土史研究家のサークル「尾道学研究会」が今年3月に発刊された 尾道鉄道データファイル「タイムスリップ・レール・・・・オノテツ」を手に入れました。鉄道趣味者ではなく 郷土史家の視点でまとめられているとは言え、なかなかの出来で 鉄道趣味者も充分満足できる1冊であると思い、ご紹介します。なお本書は 平成4年に前田六二氏が自費出版された「消えた鐡路 尾道鐡道」を下敷きにして いろいろな資料を集大成されたものです。表紙、目次、広告チラシを添付します。地元でしか取り扱われていないようですので、入手希望の方はチラシにある尾道学研究会事務局までお問い合わせ下さい。勿論私が取り次ぐこともやぶさかではないのですが、送金や郵送面が煩雑になるので 直接やり取りしていただくのが良いかと思います。なおチラシにも記載されているように デキ11のペーパークラフトが1枚オマケでついています。これはキリトリ線をハサミで切って 折り曲げて糊付けして車体だけを作るものですが、ほぼ1/80に近いようであり、たまたま手元にブリルの単台車とビューゲルの在庫があったので ペーパー車体を作る要領で窓抜きし、屋根も木で作って格好にしてみました。これはこれで感じはよく出ているのですが 1/80よりは一回り大きいようで 他の車両と並べると違和感があるので 製作を中断しています。たまたま他HOゲージ車両と並べると 何となく不自然なのですが これ1両だけなら充分 鑑賞に堪えるものではあります。 

表紙

目次

チラシ

ペーパークラフト

ペーパークラフト

 

 

  

2011年春から夏への中国鉄路の旅 Part19   天津の路面電車(疎開地時代)、天津博物館

14日目 531 天津 1500C2044次)北京南2121D321次)上海虹橋

今日は、京滬高速鉄道(北京~上海)が開通すると廃止されるとの噂がある寝台夜行電車に最後に乗車しておこうと思い、天津から再度北京に逆戻り乗車します。
十分時間がありますので、その間は北京鉄道博物館正陽館で見た、最初の中国鉄道の歴史資料が天津にもあるかもと天津博物館を訪ねることにしました。

【天津博物館】
市内にあった歴史博物館・民族博物館・芸術博物館の老朽化に伴い機能を統合して2004年に建設されました。建設設計については、11人の建築家による国際指名設計競技が行われ、最優秀に選ばれた本人建築家「高松伸」先生と、構造家「川口衛」先生との共同設計によるものです。湖面で翼を広げる鶴を表現されたものと言われ、21世紀の中華民族の発展を表しています。

開館日:9時~16時(16時半閉館)無料 月曜定休
公式HPはこちらです。

高松伸先生は同志社小学校の設計もされておられます。

【天津の歴史と路面電車】
天津の発祥は隋の時代の大運河完成にさかのぼり、また海に 面した軍事拠点として、清時代には現在と同様に政府直轄地として要衝されました。
1858年第2アヘン戦争で英仏戦争に敗北してからは、北京の外交として開港され急速に発展して行きました。1900年代からは、イギリス・フランス・アメリカ・ドイツ・オーストリア・ベルギー・イタリア・ロシアそして日本の租界が設置されています。この中でフランス・オースリラリア・イタリア・ロシア・日本の5ケ国租界と中国管轄の城内での交通機関として、初めての路面電車が1906年に圣由しないベルギー資本で登場しました。色分けの6系統が走行しました。


▲ 1919年時代の地図に各国租界区分と路面電車路線図を挿入しました。赤線が路面電車の路線です。この路線網なら非常に便利です。天津東駅(現;天津駅)に降りて路面電車に乗って、すぐに市内繁華街へと向かえます。今はまだ地下鉄が未開通ですので、Taxiに乗っていますが、オリンピック前までの長い年月は駅前にはボッタクリTaxiしかいなく交渉がおっくうでした。どうして廃止してしまったのか分かりません。
停留所位置と名前は、調べきれませんでしたので今回は、お許しください。


▲ 日本租界の天津銀座と呼ばれたメインストリート旭街を行く69号路面電車。後方にそびえ立つのは、日本租界のランドマークとなるゴシック尖塔を持つデパート中原公司です。

▲ 各国の租界を路面電車は走りました。かなりの国別製造の車両が活躍していたと思います。通常は、単車か1両の付随車の2両編成でしたが、中には2両を牽引した3両編成もあったようです。

▲ 館内には、当時の様子を再現したレブリカの路面電車もおいてありました。中国人ギャルも興味津々で撮影していました。

▲ 当時の日本租界の街並みを走行する光景も描かれています。

▲ 旧天津城。北京城ほど広大ではありませんでしたが、天津も城壁で囲まれた都市でした。しかし、1900年に勃発した義和団の乱・八国聯合により天津は戦場となって城壁は瓦礫と化してしまいました。

旧天津城跡は、鼓楼が再現されて古文化街として観光地化されています。現在の街の中心は各国の疎開地があった付近を中心に発展していきました。

 

ベルギー電灯公司経営の天津路面電車は経営順調で、1920年代には破壊された城内を循環して街中を走行していました。運賃も安かったことから貧しい庶民にも乗車でき人気でした。走行速度は約10km/hほどで、走っていても乗車できたそうです。最長路線では約2時間もかけて走行していたと言いますので、ずいぶんとゆっくりした路面電車だったのですね。
当時、ご乗車された車窓からの見た疎開の様子を田中良平氏が詳しくHPに書かれています。是非、こちらをクリックしてご覧ください。

天津路面電車は、経営会社のベルギー租界が離れすぎていたために1931年に中国に返還されています。その後1943年には日本軍に接収されて「天津交通」として運行されましたが、日本敗戦後は国民党政権、そして共産党政権へと引き継がれ、理由は明記されていませんが、1972年66年の歴史を終えました。


▲ かつて路面電車が走っていた可動橋(跳開橋)の万国橋が見える天津駅(旧天津東駅)周辺の綺麗に整備された現在の光景です。ここが見える橋のたもとには天津電力技術博物館があって、2両の路面電車(複製)が展示されています。

66年もの歴史があったわりには、資料が少ない天津の路面電車です。一体どのような車両が何両走行していたのでしょうか。現在の天津には痕跡すらなく見られません。何でも埋めてしまう国ですから、廃線跡を掘り起こせば何か出てくるかも・・・。
中国鉄道創世記の歴史ですが、天津博物館にもありました。Part20で説明させていただきます。 Part20  へ続く

江若鉄道 三井寺下駅再現 その12

澤村氏に完成状態を見て頂けなくなったのが残念でなりませんが、工事も終わりに近づき、浜大津でのイベントに間に合わすことができる見通しがつきました。今まで作りためていた車両の塗装が完了し、あとは細かな調整、運搬準備、写真などの展示品準備を進めてゆきます。車両が全部揃ったので 三井寺下に並べてみました。蒸機4両、ディーゼル機関車3両、トレーラを含む気動車19両、客車10両、江若籍の貨車4両 計40両の他に 京阪石坂線1両、国鉄から借り入れの客車4両、国鉄貨車約15両 総勢60両ほどをレイアウトとともに持ち込む予定です。

三井寺下駅のほぼ全景航空写真です。満線でオハ4両が収容できませんでした。

もう少し近づいてみると、1118号機とホハ3両が留置線に、給油線にはキニ5がいます。その向こうの石坂線の踏切を204が通過中です。こうして見ると人が全くいないゴーストタウン状態で不気味。

本線上をかわいらしいキニ1と初代キハ14の2連が走行中。どんな色だったかわからないので 旧客車のブドウ色1号にした。(ピントが悪くてゴメンナサイ)

本線上にはキニ9+キニ13+キハ15+ハフ8が、隣の線にはキハ5121+ハ5010+キハ5122が、洗車線にはキハ52が見える。

機関庫線にはDD1352,DC301とC111,機関庫の奥には6号機、10号機が留置されている。気動車庫もキハ12などで満線状態。

 

最後に 浜大津寄りの疏水鉄橋側からの眺めを。運転会を考慮して本線を90°曲げた配置にしたが、実際には60°ぐらいのカーブで 石坂線ともっと接近する。

白髭駅は津田氏のアドバイスをもらって樹木を植えて完成し 背景画を書いているところです。高島町も完成しているので、見通しがついてホッとしているところです。

秋のイベントが済んだら、気が抜けたようになるのではと思い、次の計画も考え始めているところです。江若の延長戦で浜大津を作るとなるとHOゲージでは3線区間が再現できず、江若だけ作って京阪を作らないわけにもゆかず 行き詰まっています。非電化私鉄が第一条件ですが、DD1351がそのまま使える別府鉄道、両数が少ない北丹鉄道、オールドタイマーを作らないといけない加悦鉄道、大量の無蓋車が必要な片上鉄道、DD1352,キニ13、キハ12がそのまま使える岡山臨港鉄道、それともいっそ井笠鉄道・・・などと夢は広がります。みなさんからのご意見をお待ちします。

2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part18   天津軽軌(津滨轻轨)、地铁9号線 十一経路まで延伸

13日目 530日 中山門(天津地下鉄9号線) →十一経路

久しぶりでの天津での一日は、激変を続ける街をと比べながらゆっくりと散策することにしました。駐在時には片手で数えるほどだった高層ビルは、数え切れないほどに増えて街並みは全く変ってしまいました。都市中心部の交通機関は、北京に続いて1984年に中国2番目の地下鉄が開通して、他の都市と比べても進んだ街との印象がありましたが、中途半端な路線であったため利用者は少なく、リニューアル化して2006年に再オープンしました。しかし、その後の新たな開業はなく、後から開業した都市に大きく遅れてしまいました。また遅れるばかりだけでなく、開業予定日が住んでいても全く分からないので市民は計画そのものを信用していません。むしろ市民は呆れています。

そんな訳で今回も軽軌が5月1日に延伸開業(中山門~天津駅間7.35キロは地铁9号線)したらしいが、知人達は誰も乗っていないので、疑心暗鬼で既に開業していた中山門駅までTaxiで向かいました。


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モロハ50?

関三平先生が(?)マークをつけているので正式な車番では無いのかも知れません。クモロハ50となるのでしょうか。戦後の占領期には白帯のついた車両が多く走っていました。客車の優等車はすべてGHQに差し押さえられて将軍の名前をつけて東海道を上下していました。「戦争に負けたんや」と身に染み込まされた、とは父親の思い出話でした。たしか、湯口さんがいつだったかこの掲示板に客車の写真を出されていたように記憶しています。当時の列車を実際に見ておられるのは、佐竹さん、湯口さん、沖中さんしかおられません。皆さん、今度会ったら詳しく聞いておくことをおすすめします。

2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part17   中国鉄道博物館正陽門館(正阳门馆)

第12日目 5月29日

① 阜新19:00(2106次)→10:17北京北
② 西直門(地铁)→前門
③ 前門(地铁)→北京南(京津高速)→天津

北京北站に隣接する西直門站から地铁に乗って前門に着きました。3月に準特急先輩と行きました時は、なぜか直前で休館となっていた中国鉄道博物館正阳门馆は今回開館しているのを往路で確認済みです。館内にはどんな展示がされているのかとワクワクしながら入場券を買って入ってみました。(※ 前回の様子は、こちらをご覧ください。)
▲ 入場券は、20元(約240日本円)、開館時間は9:00~17:00で月曜日休館です。鉄道ファンの方がゆっくりと見学するには、 約2~3時間は必要です。

入館して最初に聞くことは、館内の展示物やパネル撮影が許可されているかどうかです。日本と違って、中国の一般の博物館の殆どは撮影OKですが、かつて日本人として初めて入場した瀋陽鉄道博物館では、展示パネルは撮影禁止でした。 (※ その時の様子はこちらをご覧ください。)
警備員に質問しますと、すべてOKとの返事です、安心しました。


中国鉄道博物館正陽門館中国鉄路博物馆正阳门馆)は、私がかつての現地に勤務時代していた1990年代には、この館内に北京鉄道分局関係の事務所があって、北京に業務で来る度に訪れていました。分局関係者からは、日本軍が侵略占領時に建造した北京の中心駅でラストエンペラーが紫禁城を追われる際にも乗車をしたのだと聞かされていました。ホームやレールが撤去された館内にかつての駅舎としての面影を残すものは切符売場ぐらいでした。
その後館内は商城(百貨店)に改装されて使われていましたが、オリンピック前には閉鎖されて、北京市と鉄道部が共同で中国鉄道博物館として準備が進められました。オープンは2010年10月23日ですが、上記のように一旦閉鎖されて、再オープンしました。
しかしこの建物は、展示されている建設当時の写真と比べると、なぜか時計台の位置が左右逆転しています。経緯は分かりませんが、大躍進時代に改装または壊されて再建築されたと思われます。興味を惹かれましたので、少し調べてみました。

【北京城と正阳门站】
中世の世界中の都市がそうであったように中国でも多くの都市が、敵に攻められた場合を想定して、街の周囲を頑丈な城壁で守った城壁都市が多くありました。明時代からの北京も、高さ12m以上の城壁で守られた都市で、皇城(故宮)のある周囲約23キロの内城と多くの庶民が暮らす外城の2つに分けられていました。内城は北京城と呼ばれ、城外への往来には城門が設置されていました。城門を撮影した貴重な映像がYouTubeにあります。こちらをクリックしてご覧ください。約8分強あります。

鉄道線は内城を囲むように敷設され、皇城の正面玄関である正陽門を挟むように東站・西站と2つの正阳门站が建築されました。東駅は京奉線(北京~天津・奉天)、西駅は京漢線(北京~石家口、漢口)の列車が発着していました。中国鉄道博物館正陽門館は、正阳门東站でした。

現在、環城線と東便門站~正阳门站~京漢線の城壁内線路は撤去され痕跡もありませんが、正阳门東站、路面電車、当時の市民生活を撮影した1930年の貴重な映像がYouTubeにあります。こちらをクリックしてご覧ください。約8分強あります。
▲ 青線が路面電車です。現在観光用として一部の区間を復元され走行しています。

文化的に貴重な人類の歴史的遺産である城壁、城門でしたが、中華人民共和国が建国された1950年代に始まった大躍進時代に次々に破壊撤去されていきましたが、なぜに誰が推し進めていったのか、中国の歴史では触れられていません。しかし、これだけの重大事を決定できるのは、一人しかいないのを人民も良く知っています。現存するのは、正陽門、天安門等わずかです。
城壁跡には、環状線道路(2環)と地下鉄2号線が建設されました。

中国鉄道博物館正阳门馆 展示内容】



▲ 3ツ折のパンフレット
館内は①1876~1911年、最初の鉄道建設、②1911-~1949年、紆余曲折の歩み、③1949~1978年、進む鉄路延伸、④1978~2002年、著しい発展の鉄路、⑤2002年~ 技術開発の鉄路 と、5ブロックに分けられて、清朝末期から今日に至るまでの発展の過程が展示されています。

詳しくは、中国鉄道博物館の公式HP;http://www.china-rail.org/

中国鉄路の開業は、1871年に開業した日本に5年遅れることの1876年に呉淞鉄道(上海〜呉淞間14.5キロ)が最初でしたが、無許可であったため撤去されました。これにつきましては、上海鉄路博物館訪問記をご覧ください。リンク先はこちらです。
正式開業は1881年の唐胥鉄道(唐山〜胥各庄間9.2キロ)となります。

唐胥鉄道路線図と使用された中国製第1号蒸気機関車。当初の営業用はラバ牽引でしたので、工事用に使用されたと思われます。レールは15kg、軌道は1435mmでした。

▲ 1年後の1882年には英国製が輸入されて、初めて蒸気機関車が営業用としての運用されました。1887年には芦台までが開業し営業45キロとなり、以後は諸外国主導のもとに延伸が続けられて行きました。

上海の鉄道博物館では、上海を中心とした歴史が展示されていましたが、ここ北京では全国レベルでの鉄路発展の歴史を写真やパネルで見ることが出来ます。一方、空港近くにある中国鐡道博物館ではかつて活躍した機関車、車両が50台以上も実車展示されています。北京に来られましたら是非にご覧ください。  Part18  へ続く

再び近鉄、でも木造車 モ1型

この電車に乗ったような気がします。叔父が生駒に住んでいてよく遊びに行ったときです。たぶん鋼製化されてからでしょうが・・

ところで今夜澤村君のお通夜に行ってきました。多くの会員にお線香をあげてもらい、写真の顔がすこし煙って見えました。焼香台の横に彼が最後まで作り続けたD50(この掲示板に製作記がでていました)の完成品とEF58が並んでいます。明日葬儀に行かれた方は必ず見てあげてください。奥様と息子さんたちが選んでくれたそうです。

訃報  澤村達也氏(’67年度生)、ご逝去

当会会員の澤村達也(’67年度)さんが、8月23日01時17分にご逝去されました。
ここ数年来、ご病気のためにご療養を続けられておられましたが、 残念ながら完治かなわず帰らぬ人となられました。

故人は、根っからの鉄道マニアで鉄道模型の達人であり、製作を享受された会員の方も多いと思います。実車も設計され、ご生涯にわたって鉄道発展に尽くされました。会員皆様方には、ご乗車の度に思い出されることと思います。
このホームページ「デジタル青信号」立ち上げでのメンバーでもありました。

つつしんで、故人のご冥福をお祈り申し上げます

【お通夜・告別式】
・お通夜 8月25日(木) 18時~19時

・告別式 8月26日(金) 13時~14時
・喪主 澤村 雅代(まさよ)様(奥様)。 香典はご辞退、供花は受けられます。
・会場 京都市下京区堀川八条下る 西側
「公益社 南ブライトホール」  TEL:075-662-0042

京都駅八条口より徒歩約5分。開式60分前と30分前に八条口発の送迎バス有。

2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part16  阜新から北京へ 2106次乗車

Part15を投稿してから1ヶ月あまり経過してしまった。中国版新幹線の追突事故発生があって控えていたわけではなく、次の旅の準備に追われ、また大の野球好きですので連日好戦の続く高校野球に見入って、単にサボっていました。申し訳ありません。続編を掲載させていただきます。
前回の紀行分 Part15こちらです。

第11日目 5月28日          阜新19:00(2106次)→10:17北京北

阜新の海州露天鉱国家鉱山公園での撮影を終えTaxiに乗って、17:45に阜新站に着きました。
1929キロ先の上海往復の所要時間約25時間を筆頭に上下20本が発着する阜新站の待合室は、1階のみで他の中国鉄路站同様に天井が高く十分な広さがあります。

▲ 改札までの間、お話していた先頭で並ぶ可愛い3人姉妹、親戚の家に遊びに行くといっていました。発車35分前に改札が開始されましたが、春節時期と違って走る人もなくゆっくりの乗車光景でした。
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最後の夏

今日の関東地方は、しとしとと雨の降り続く日曜日となりました。

その雨の中、8月で定期運用から離脱する国鉄型車両を追いかけました。

一つは、JR東日本の113系。もう一つは、関東鉄道のキハ350形です。

早朝、土砂降りの中、成田線大戸~下総神崎間を行く113系です。晴れていたら、結構人が集まったかもしれませんが、雨でしたので、私のほか一人だけでした。8月末で、定期運用から撤退とのことですから、この区間を走るのは、あと何回でしょうか?鹿島貨物を待つ間、いつも顔を合わせていましたが、ここで、出会うのも最後かもしれません。正に涙雨です。

 

一旦自宅に戻り、午後、再度出陣です。まだ、雨はしとしとと降り続いています。

7月22日金曜日から8月28日の金土日曜日に、キハ350形が限定運用で、走っています。今日を逃すと、来週の3日間しかありません。

守谷~新守谷間を行くキハ350形です。随分田舎のようですが、つくばエクスプレスの走る守谷駅のすぐ近くです。

小絹~水海道間の水海道車両基地の脇を行く、キハ350形です。後輩が見守っています。

バリバリの現役時代は、どちらかといえば、あまり写す気にならなかったような車両たちですが、今の車両と比べたら、個性的で温かみのあるような気がします。

来週がラストチャンスです。

天気がよければ、最後にもう一度会いたいものです。

有難うございました 高橋弘さん

訃報に接し、鉄道趣味の先達であり、師匠と仰いでいた方が次々と逝去され寂しい思いがしてならない。

高橋さんと同席となったのは1955年12月、奥野さん宅であった京都鉄道趣味同好会忘年会の時であった。この時、父は高校2年生に一升瓶を持っていけと言って渡してくれた。この忘年会には大橋さん、中谷さんも参加され、同好会会務と会誌「急電」発行についての打合せも行われたように思う。

忘年会は高山さんを含め6人、私は最年少で高山さんと高橋さんに挟まれ小さくなっていた。一升瓶を持ちこんだことで大いに盛り上がり、高橋さんから訪問された各地の電車話をお聞きする事ができた。私も姉が四国・善通寺で所帯を持ち、1954、1955年の夏休みに四国を巡った話をしたところ、興味をもって聞いて頂けた。その時、琴平参宮電鉄創業期の木造4輪車を撮りそこなった話をしたようで、後に3景の写真をそれぞれ2枚ずつ頂いた。この時「沖中君が琴参電車の紹介を何処かでする機会があったら自由に使ってくれたら良いよ」とおっしゃった。その3景は次のとおりである。

①     デハヨ型26号、撮影地は琴参琴平駅。高橋さんが東山中学5年秋(1949年と思われる)、修学旅行で四国へ行れた時のもので、夜行で高松に上陸、屋島と栗林公園に行き琴平で1泊、琴平神宮参拝後に撮影したとの説明があった。フィルムは映画用をライカ1型のパトローネに詰め込んだもので粒子が粗く、大きい写真は掲載に向かないから気をつけるように言われた。

以前、1954年夏に樫藪変電所横に留置されている竹製はしごを括りつけた27号を撮りそこなったと「デ元青」に記したが、それと同型車である。デハヨ型は5期に亘り新造されたが、その最終期1925年4月梅鉢鉄工所で製造された5両、24~28号の内の1両が26号である。廃車は1954年4月21日付けで28号と同時であり、27号は架線修理車として残されたが1955年3月末に廃車解体。開業期の車両はこの時点で見られなくなった。

②     和歌山鉄道モハ50号、於:東和歌山駅、1952年2月24日撮影。「琴参の2軸車改造とは思えない車体ですが、台車も改造か?」との高橋さんのコメント入りである。この50号は琴参のトップバッター、開業した1922年10月22日の祝賀電車となったものである。1939年10月に和歌山鉄道に売却されたデハヨ型は4両、11~13、15号の4両であった。燃料事情から水力発電が豊富な和歌山では、アメリカから原油を差し止められるやいなや、一早く鉄道電化に着手した。ノンステップ化、連結器取り付けなどの改造後50~53号と付番され、1941年12月末の電化工事の完成を待って1942年正月から使用開始となった。私は松電、長電、東京の電車見物を終えた後、国電モハ52が阪和線で特急運転している奧野さんに教わり、天王寺を朝9時過ぎ発で乗りに行っている。その時、この50号が東和歌山構内で貨車入換作業をしているのを見ていた。50号は旧11号の旧番号持つ。つまり1号車なのである。26号と11号は正面の横樋が曲線と直線の相違以外に、出入口が3ステップと2ステップの違いもあり、開業時の5両のうち4両はいち早く売却の憂き目にあった。

③     デハ56号、撮影場所と時は26号同じ。琴参は昭和期に入り乗客数が急上昇している。琴平急行電鉄開業もあり「金毘羅参り」が頂点に到達した頃、車両増備が図られた。結果は南海鉄道軌道線の余剰車両、元阪堺電鉄1型(1911年製)5両(15、17、29、37、39号車)の導入であった。1935年9月に購入され1936年2月に使用認可を得ている。南海側では50~54号と付番して出荷したと伝えられているが、すでに琴参には50形51~54号が存在しており、60形55~59号に改番された。導入後の写真では阪堺時代同様オープンデッキであったが、後に折畳扉を取り付けた。この5両は戦後鋼体化されているが、撮影された1949年の56号は鋼体化工事前である。

頂いた3枚の写真の説明はこれ位として、”参ったぁー”となった事が1件ある。2002年のことだったと記憶するのだが、高橋さんは鉄道友の会シルバー賞の栄誉に浴された。その祝賀会が二条駅北の弥栄会館で開催された。私は富山時代の2年間だけ入会しただけだったが、祝賀会の案内状が舞い込んだ。過去の短期間の会員であるのに関わらず、案内をいただいた事に感動を覚えると共に即座に出席の返事を出させていただいた。当日、受付で席札を貰ってびっくり!「A」となっているではないか。名札を探したら高橋さんの隣席ではないか。もう一方の隣席は吉川文夫さんとなっていた。これは何かの間違いではないかと、テーブル「B」におられた高山さんに問い質しに行った。いとも簡単に「あ々、あれかいな、あんたは付き合いが古いし、なんかあった時お互いに遠慮もないと思って吉川君とで挟んでおいた。」といわれた。この時、持病と言っておられた腰痛に悩んでおられた頃でもあった。大変な役を仰せつかったものだと思いながら、高山さんの願いを果たすべく高橋さんの手足となって動いたつもりであったが、終わりの方は旧知の人に久しぶりに会って「飲ん兵衛」になっていたかも知れない。その節は高橋さん、ごめんなさい。また天国でお会いしましょう。吉川さんをはじめ天下の「電車好き」が集まって語り合いましょう。

①大譽11年生まれにしては古閾・?スタイル

①大正11年生まれにしては古臭いスタイル

②金毘羅さんから紀伊國にやってきた元路面電車
②金毘羅さんから紀伊國にやってきた元路面電車
③浪速からこし入れた明治の木造ボギー車
③浪速からこし入れた明治の木造ボギー車

高橋 弘氏を悼む


51年半前の高橋 弘氏 両備バス西大寺鉄道会陽特別運転の日 1960年2月12日

佐竹保雄先輩と並び、在京都―関西、いや日本有数の、それも昨日や今日デビューしたんじゃない、筋金入りの鉄道カメラマン、高橋 弘が亡くなった。79歳であった。180cmを超える長身だけでなく、100kgも超える堂々たる体躯、それで温厚、誠実なお人柄だった。タカハシ写真館のご当主だけに、気楽トンボの我々と違い、せいぜい夜行で1日行程ぐらいと、行動範囲はそう広くはなかったが、関東から山陽路ぐらいまで、丹念に足を運んで居られ、行動力は人後に落ちなかった。1950年代自転車に小型エンジンを搭載した簡易バイクが流行ったが、それで北丹、加悦鉄道まで行かれた由だし、そのバイクが「ポキンと折れました」という話も、彼氏のボリュームを考慮すれば、さして不思議でもない。

車種に好き嫌いせず、何でも熱心・丹念に撮っておられたが、やはり一番好きだったのは電車、それも路面電車だったような気がする。別段メモをされている印象はないのだが、実に記憶がよく、車歴に詳しかった。それに細かいところにも気がつき、あの電車の台車はどうだった、あれのどこが変わっていたとか、それもけして吹聴するのではなく、メモもなくさりげなく記憶を披露されるのに、何度も感心し、脱帽した記憶が尽きない。

彼氏とは何度か山陽路の撮影をご一緒させて頂いた。気楽トンボの小生は、先に出発してステホを重ね、約束の場所で落ち合う。彼氏は仕事を済ませ、夜行でやってくるのである。ご一緒した先は尾道鉄道、井笠鉄道、両備バス(西大寺鉄道)などなど。西大寺・観音院の年に一回の大祭である会陽(えよう=俗に天下の奇祭「裸まつり」)の時も、小生は前日から行っており、彼氏と落ち合って岡山電軌、後楽園駅、終点西大寺車庫、沿線などで一緒に撮影した。彼氏は単端式2両がボギー客車5両を牽く「会陽特別列車」を、三脚に乗せた単レンズの8mmエルモのスプリングモーター一杯撮影しながら、スチルカメラの両刀使いもされていた。一連の8mmは小生が何度かお借りしてコンパでも上映したから、記憶が残る人もいるはずである。


両備バス後楽園駅構内 オーバーコートで撮影する高橋 弘氏 1960年2月12日

東山五条のお店で、暗室に入れてもらったことがある。ご父君の代から使っているという、陶器のバットには銀が随所で光っていた。冬だったが、暗室内のコンロには薬缶がのり、湯気を噴いている。現像液のバットは一回り大きいバットに漬けられ、時折薬缶の湯を注いで適温を保つ仕掛けである。四つ切バットで全紙までなら四つ折、六つ折してOKとのこと。小生は六つ切りバットで半切ぐらいはこなしていたが、もっと大きい印画紙だと、スポンジに現像液を染ませ、それで印画面を拭く名人芸もあるのだそうだ。

鉄道だけでなく、音楽、ステレオにもご造詣が深かった。アカイ900(分る人は手を挙げて=まだテレコが凄く高価だった時期、アマチュアでも手が出る価格で販売されたオープンリールのテープデッキ自作キット)も難なく組み上げ、ステレオが全盛になるとやはり自作のアンプとスピーカーシステムを聞かせていただいた記憶もある。

ここ10年ぐらいはご健康が優れず、正直やや痛々しかったが頭はしっかりしておられた。お目にかかったのは1908年12月7日、関東と関西の仲間が寄っての忘年会が関西受け持ちで湯の花温泉であり、翌日大津魚忠では、ご子息修氏のご配慮で弘氏も同席され、昼食をご一緒したのが最後になった。その折西大寺鉄道に行った記憶―一人でなら到底あんな列車を撮影できなかったと話されたのが忘れられない。こっちこそ、本当に有難うございました。得がたい先輩をまた一人失った。

江若鉄道三井寺下再現 その11

レイアウト工事の方は 見通しがついてきましたので、たまっていた車両の塗装工事を進めています。連日の猛暑で、盛んに熱中症予防が叫ばれているなか 当鉄道の塗装工場には手動式塗装機・・・・・スプレー缶というものが世の中に出回る前には 殺虫剤も手押しの噴霧器でした・・・・しかなく、20両近くの塗装作業は熱中症との戦いの様相を呈しております。第1陣として4両の蒸気機関車が塗装工場を出ました。旧宇部鉄道から来た短命の100号機、最後まで残った6号機、江若夏の陣で活躍した1118号機、そしてC111の4両です。C111はウオームギアの調達が難航しモーターを仕込んでない無火機ですが、その他の3両は試運転調整も終えて 出番を待つ状態です。

続いて塗り分けのない客車群、塗り分けの面倒な気動車の順に塗装工事を進めることにします。

猛暑をくぐり京都の写真展へ

 お盆休みの13日を利用して、大文字でスカタンな話題を提供する京都へと向かう。烏丸御池で開催の福田静二さんの写真展「市電の記憶 昭和の京都」ならびに五条河原町で開催の佐竹保雄さんの写真展と津田雅司さんの模型運転会共催の「東北を旅して」を鑑賞するためだ。一日に二度楽しめるコスパ満点の機会だ。
 大阪市営地下鉄堺筋線日本橋駅から堺筋線に乗る。途中の市営と阪急の運転手が交代する天神橋六丁目駅のすぐ上にある大阪くらしの今昔館では世界的な鉄道マニアと云われる原信太郎翁92歳の特別展示「鉄道模型と極める-関西の鉄道-」が9月4日まで開催されている。ちょうど今日の日経夕刊に原信太郎さんの自作や収集された鉄道模型約六千輛のうち一千輛を順次展示する鉄道模型博物館が横浜市みなとみらい21地区に来年7月を目途に開設されるとの記事が載っていた。天六駅から昔の新京阪線となる。新京阪の旧天六駅ビルは解体中で高層マンションになる。立体交差工事がすすみ三階ぐらいの高架橋が散見する淡路駅で特急?に乗り換えるが盆休みでか混雑していて烏丸駅まで立ち席。しかし良く停車駅がある。京都市営地下鉄にひと駅乗って烏丸御池ギャラリーへ。
 写真展の写真はすべてモノクロで福田調ただよう素晴らしいものである。安全地帯に溢れんばかりのお客が市電の到着を待っているのは微笑ましいばかりだ。今でも正月の初詣のときに阪堺電車の住吉大社停留所の安全地帯で、同じ光景が見られる。鉄道写真としてはもちろん、街の情景や服装・建物など記録写真としても貴重なものだ。少し奥まったとこにあるので多くの人に見て貰えないのが惜しい。
 過剰装備の背の高い豪華ホームドアが設置された大赤字の地下鉄東西線と馴染めない配色になった京阪電車に乗って清水五条駅へ。地上へ出ると猛暑。報道に寄りますと、この日の京都市は全国二番目の暑さだったとか。二つめの目的地に着くと佐竹さんご夫妻・福田さん・津村さんのお顔を拝することができ、幸運だった。暑さにも負けず佐竹さんはお元気で、直々に写真の説明をしていただけた。懐かしい蒸気機関車や旧型客車列車、大好きだった薄幸のキハ55系準急色の写真を見る。また福田さんには阪堺電車撮影会など情報提供をいただきながら音信不通のお詫びをする。大阪通信員というのに通信しないと風評が立っているとお叱りを受ける。よってこの一文を熱帯夜のなかで発信する次第である。今春定年を迎えた津村さんは模型鉄道の社長に就任し悠々自適とのこと、ご要望があれば出張運転会が可能のようだ。キハ17系気動車・焦げ茶のDF50の牽くスハ32系客車などお若いのに通信員好みの渋い車輌があり気分良好。なお滞在中に、はるばる伊丹市からご婦人がトランクを引いて来場される。朝日新聞の紹介記事を見て、鉄道資料のチャリティに役立てて欲しいと「日本の電車」などの書籍と記念乗車券や東北新幹線開業メダルなどを持参されたのだ。最近お亡くなりになったご主人のものだとか。ちょうどお盆で旦那さまへの良き供養となれば幸いである。通信員のみならず、OB皆様もお盆を機会に、ご家族には収集品を安易に片付け屋などに渡さぬよう一言云っておかれることも肝要ではありましょう。
 大谷廟へのお盆のお墓参りなのか五条大橋の東行きは長い渋滞。京阪電車に乗って丹波橋でこれまた良く停まる特急に乗り換える。やってきたのは生き残った8000系。淀駅は高架駅となったが引き込み線などの工事は残っている。高架になったので淀城跡が上から良く見える。また橋本駅横では遊郭だった建物がまだ見える。途中すれ違う旧色の列車がすっかり少なくなっと嘆いているうちに北浜駅から日本橋駅へと戻る。

広島電鉄の単車

【14623】で関 三平先生の広島電鉄152号のイラストと解説が紹介された。解説文を再掲させていただくと「8月中旬には広島駅頭に立って再び興奮に包まれていた。駅前停留所にはひっきりなしに広電(広島電鉄)の四輪単車が発着して、ある時間帯には単車ばかりという(私にとっては)想像もできなかったシーンが現出されていたからだ。150、200、400、450の4型式あわせて60両強が現役で、『単車祭(?)』の状態になるのは当然の結果だが…。もちろん、全車、原爆の犠牲車だ。
4型式のうち400型、450型は、戦前から始められた鋼製車(木造車からの改造)が完了し、スマートな『広島スタイル』におさまっていた。150型、200型には、原型をとどめた応急復旧車が残り、152号車(イラストの電車)もその1両、屋根がリベット打ちの鋼板屋根に変更されたりしてはいるが、全体として昭和初期鋼製車の原形をよく残している。
長さ約9メートル、70馬力弱の小型車ながら頑張り、広島の街の復興繁栄を見届けて昭和45年までに全車廃車。152号車を含む応急復旧の3両は40年にリタイアした。なおスマートに更新された156号は『被爆単車』として保存され、現在も折にふれて市内を走る」と記されている。

関先生の言われている「単車祭(?)の状態」とは、昭和35年頃ではないだろうか。

また、米手作市様が「今回ばかりは切れが悪いようで、意味の理解できない部分もあります」と言われている部分は、①昭和45年までに全車廃車。②152号車を含む応急復旧の3両は40年にリタイアした。③スマートに更新された156号は「被爆単車」として保存され、現在も折にふれて市内を走る。以上3点の相関関係ではないかと思われるので、それらを含め解説したい。

 広島電鉄を初めて訪れたのは昭和40年3月のことで、京都駅23時5分発準急「ななうら」で出発した。準急のため途中停車駅が結構多く、広島到着は6時51分であった。ちなみに帰りは翌日の宮島口13時53分発153系の急行「関門」で帰ったが、広島で通路まで満員となり、宮島口から乗ったのは正解であった。山陽本線は全線電化されていたが、広島以西の貨物列車は殆どD52が牽いていた。私は電車の撮影に専念していたので、そちらは撮影していない。

150形(151~160)
大正15年梅鉢鉄工所で10両作られた。原爆では宮島駅にいた157以外被爆した。昭和23年までに全車復旧したが、昭和27年に152、153、160の3両を除き、車体更新が実施され、自社製の新製車体に乗せ換えた。車体更新されなかった3両は関先生が書いておられる通り昭和40年に廃車。車体更新車も昭和44年から46年にかけて廃車されたが、解体を免れ江波車庫に保管されていた156が昭和62年に複籍を果たし、イベント時に展示走行されている。

 
151/紙屋町 
(44-3-29) 万国博まであと351日

 
156/広島駅 
(40-3-27) 一旦廃車になったが、車籍を復活して保存されている。

 
157/紙屋町 
(44-3-29)

200形(201~210)
昭和5年日本車輌で10両作られた。原爆で全車被災したが昭和23年までに復旧した。150形と異なり、車体更新されることなく使用され、昭和38年から41年にかけて廃車された。

 
209/広島駅 
(40-3-27)

400形(401~430)
大正11年から昭和2年にかけて大阪市交通局の前身、大阪市交通局から購入した木製車100形を、昭和13年に17両、17年に13両自社製の半鋼製車体で鋼体化した。扉間5枚の大きな窓とノーシル、ノーベッダーの軽快な外観で、次の450形と共に戦前の広電を代表する車両であったが、足回りは旧車のものを流用したため、150形や200形よりも古かった。
原爆では宮島駅にいた417以外被災したが、昭和23年までに復旧した。
昭和31年に420~430の11両が廃車され1部は工作車となった。残りの車両も昭和40年から44年にかけて廃車された。
大きいなガラスの調達が困難なため、窓に桟が入っている車両が少なからず存在した。

 
409/広島駅 
(40-3-27) 1枚ガラス入手難のため、窓に中桟が入っている。

450形(451~465)
昭和12年11月千田車庫の火災で被災した100形11両を昭和14年から15年にかけて自社製の半鋼製車体で鋼体化した。車体は前述の400形と同型であるが車輪径が異なり、床が高くなっている。当初450~460を付番されていたが、450を461に改番した。原爆では全車被災したが、昭和23年までに復旧した。
昭和24年原爆で被災した100形の復旧を兼ねて462~465の車体を新製した。この4両は扉が引戸になった。400形と共に活躍していたが昭和40年に2両、44年に残り13両が廃車となった。

 
453
/八丁堀 
(44-3-29) 白島線で使用

 
455/広島駅 
(44-3-29)

 
460/八丁堀 
(44-3-29) 中桟入りの窓

 
462/広島駅 
(40-3-27) 昭和24年製で扉が引戸になっている。 

650形(651~655)
被爆電車654についてのコラムが掲載されているので、こちらについても解説する。昭和17年木南車輌で651~655の5両新製。原爆で5両共被災したが昭和23年までに復旧した。655は昭和42年事故で廃車、残る4両は昭和50年にワンマン改造、昭和61年には冷房改造と方向幕の大型化が実施された。654は平成18年老朽化により廃車となり広島市交通科学館で保存、653は休車扱いで千田車庫に保存されている。651と652は現役で朝夕ラッシュ時に使用されており、歴史の生き証人としていつまでも走り続けて欲しいと願っている。また、撮影された方がおられたら是非発表していただきたい。

 
652/広島駅 
(44-3-29) 冷房化、方向幕の大型化が実施され、現在も健在である。

 
654/広島駅 
(44-3-29) この時代でも窓に中桟が入っていた。