ちょっと高くつくんですが「写ルンです」で写すのは面白い。現像ができあがってみないとちゃんと写っているかわからない。そして当たり前だが、ズームはない。フラシュはあるが、私は使わないことにしている。暗くてもそのままシャッターを押す。「写ルンです」は焦点距離32mm、レンズのf値は10、シャッタースピードは1/140sでレンズはプラスチック製。写真を撮るにはかなり制約されるが、この制約条件の中でどのように撮るのか。これも楽しみの一つである。
設計図シリーズ①
なんでも取っておく習慣があるのは戌年のセイか?と思われますが、本を整理していると思わぬものが出てきました。
「模型とラジオ」という雑誌を覚えておられますか?中学生の頃に毎月買って読みふけっていました。その昭和36年4月号に1/80の青写真が付いていたのです。当時としては話題の新型機関車ばかりです。べつに珍しくもないワイ!と言われるのを覚悟の上で夏枯れの紙面を賑わせたいと考えました。
カラー版◆大阪通信員さんが撮った 昭和の鉄道 (3)
カラー版◆大阪通信員さんが撮った 昭和の鉄道 (2)
どうなるローカル線(2)
カラー版◆大阪通信員さんが撮った 昭和の鉄道 (1)
△ 大阪名物、スモッグが煙るなか、C57牽引、茶色の客車を連ねた急行「大和」が、関西本線の終点、湊町に到着する。B寝台(ロネ)2両の白帯が茶色に映える。
お盆のこの時期、台風の襲来もあって、一歩も外へ出ることなく、家に籠っていました。デジ青投稿に絶好のチャンスと意気込むのですが、気力の低下だけでなく、持ちネタの乏しさもあって投稿が続きません。先の投稿では、準特急さんから「あと数年早く生まれてきたら」論についてコメントがあり、「あのシーンを撮っていたらデジ青に載せられたのに」という思いもあります。私は「そんな言い訳したらアカン」と強がりを言ったようですが、心の中では七十数年生きて来た人間にも、その悔いが残ります。
そんな時、大阪通信員さんから朗報がもたらされました。大阪通信員さんは、私より7歳年上で、まさに「あと少し早く生まれてきたら」の写真を多数カラーで撮影されています。一部は昨年6月に行いました上映会でもご覧いただき、私も感嘆しながら進行をしていました。貴重な写真を一度だけの上映会で終わらせるのは、大変忍びなく、広く公開したいと思っていたところ、大阪通信員さんから、ぜひデジ青で公開してくださいと嬉しい返事がありました。快諾いただいた大阪通信員さんには厚く御礼申し上げます。
デジ青誌上では、米手さんが、投稿に困っているデジタル難民の記事・写真を代理投稿する老老介護も続いています。米手さんだけに介護を一任するのではなく、私も介護者として名乗りを上げた次第です。預かった写真は多数ありますが、まずは上映会の作品から見ていただきましょう。解説は最小限に留めて、皆さんからのコメントお願いいたします。
駅名喫茶店(第73回:特急「はるか」で行ける駅名)
整理中のネタがいくつかあるのですが、今回は間合い運用ということで、特急「はるか」です。「はるか」という列車は、関西空港と大阪、京都、遠くは滋賀県の野洲間を乗り換えなしで移動できるのが素晴らしいですね。この点は南海「ラピート」より優位です。
ホームライナー的な役割も担う「はるか」に今回は注目しましょう。
追記:「はるか」の話題から少し外れますが、たまたまこんな記事がありました。

2023年夏、台湾再起動(その3、西部幹線)
7月30日(日)
朝、中壢駅まで歩く。駅前はMRTの工事中であった。MRTが中壢まで延びれば桃園空港に近い在来線の駅まで直結するのでもっと便利になる筈である。中壢駅でTRパス3日券を6,000元(約8100円)で購入する。今回は乗車の比重も高いので元は取れるに違いない。
莒光510次 斗六進入 新しい自動ドア車とはいえ客車列車の魅力は十分
2023年夏、台湾再起動(その2、東京)
7月29日(土)東京の1日
なかなか東京へ行く機会はない。出張もなくなった。大阪から東京は運賃が高く、夜行快速ムーンライトながら無き今、安く行こうとすると高速バスの青春ドリーム号か青春18切符発売時期の鈍行乗り継ぎであるが、気力体力乏しい身にはどちらもこたえる。そこで、今回、東京乗り継ぎをむしろ積極的に活用し、伊丹からは朝の羽田行きを選び、夕方の成田発桃園行きまで東京の電車を楽しむことにした。

京急1500型 京急川崎 昭和60年が製造初年とまだまだ新しいのだが、もう廃車が始まった。関西なら昭和40年代の車が珍しくないのだが。この1500型、昭和の終わりから平成への移り変わりを体現するように、制御方式が界磁チョッパから途中でVVVFインバータに変わった。なかなか好ましいスタイルと思うが如何?
どうなるローカル線(1)
中国新聞には「鉄路のあす」というシリーズが断続的に連載されています。勿論広島県を中心に中国地方の話題がメインですが、8月15日の朝刊には「留萌線」の記事が載りました。北海道新聞との連携のようです。
2023年夏、台湾再起動(その1、序章)
3年ぶりの台湾である。前回、2020年1月の台湾行では、コロナ禍により3年にも渡って渡航が出来ず、しかも今だ新型コロナウイルスを駆逐する特効薬もないことは想定しえなかった。とにもかくにも、大手を振ってどこにでも行ける状態になった。
日本に外国人がやってくるインバウンド、これは見ての通りの勢いがあり、中国大陸からの団体客もまもなく解禁されるそうで訪日客は復活するであろう。ところが日本人の出国には、コロナ禍があったにせよ勢いがないのではないか。
変わらず活躍する台湾鉄路局のTEMU2000型、プユマ号 2023年7月30日 斗六
駅名喫茶店(第72回:お「宝」駅名を探しにいこう!)
台風の影響で、無敵の近鉄さんも運転見合わせの可能性があります。今回の台風はなかなか猛烈です。皆様におかれましてはどうぞお気をつけください。
一方で、お盆中でありながらデジ青は通常運転で嬉しく思います。デジ青はクローバー会の「宝」です。ということで、若干こじつけではありますが今回は「宝」を含む駅名を取り上げてみました。
あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~24~
2007年8月17日 阪急桂川鉄橋へ
暑い昼間は避けて、夕方あたりから急に写しに行きたい衝動に駆られたことがありました。最近は、さすがにその気力も湧いて来ませんが、空の様子を見て、きれいな夕陽になると確信すると、16時ごろ、カメラ一台を持って出かけました。前の居住地の場合は、そんな時、阪急桂川鉄橋へよく行ったものです。家から30分余りで到着できました。鉄橋上では太陽が編成全体に当たり、河原に下りると、角度は難しいものの、夕陽バックのシルエットも撮ることができました。
▲桂川鉄橋の下り方に、歩行者・自転車専用の踏切があり、身を乗り出すと下り電車が撮れる。この時期、特急は、6300系、9300系が並存していて、前パン唯一の6330編成もまだ健在だった。
駅名喫茶店(第71回:2023 夏の高校野球地方大会決勝戦が開催された球場の最寄り駅名)
今年の夏の高校野球は、地方大会から目が離せませんでした。ニュースを観ていると、1点差ゲームの決勝戦が多かった印象を受けましたので、実際に確かめてみると全49試合の決勝戦のうち約半分の25試合が1点差の接戦でした。
(ちなみに、2点差が4試合、3点差が7試合、4点差が13試合、延長戦が6試合、サヨナラ試合が11試合でした。)
そんな決勝戦が行われた舞台に今回は注目しました。
あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~23~
2006年9月29日 YS-11(2) 最後の搭乗へ
▲40年以上飛び続けて来たYS-11も、2006年9月30日限りで民間航空から撤退することになった。その前の日、YS-11の書籍編集中の私は、編集長とともに、取材名目でYS-11の記念フライトに向かった。まず徳島空港へ、空港の反対側に回って待つが、機材トラブルでなかなか到着せず、やっと30分遅れで、福岡発徳島行き3563便の着陸をとらえることができた。
2000年代に入って、YS-11の命運を決定づける航空法が改正されます。旅客機への航空機衝突防止装置(TCAS)の義務付けでした。YS-11の場合、多額の改造費用だけでなく、狭いコクピットに装置の取付けが困難な問題も発生、この時点で国内運航のYS-11は、エアーニッポン(ANK)、日本エアーコミューター(JAC)の2社、TCAS取付けに当たり、ANKは運航を断念し、2003年、最後の新千歳・女満別線
から撤退しました。一方、12機保有のJACは、路線網も広範囲にわたり、後継機へ移行ができない事情もあり、航空法施行の例外規定の適用を受け、しばらく運航を継続しましたが、後継のボンバルディア機が増備されて、最後は鹿児島-福岡(2往復)、福岡-徳島(1)、福岡-高知(2)、福岡-松山(1)の4路線、機体も、JA8717、8763、8766、8768の4機になっていました。▲初めての徳島空港、徳島行き高速バスの松茂バス停からはタクシーですぐだった。
あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~22~
2006年7月13日 YS-11を求めて(1) 鹿児島空港
ちょっと、話題を変えて、この季節、鉄道以外の乗り物を。2006年の夏、国産初の旅客機、YS-11が民間航空から撤退しています。私は、その頃は会社勤めをしていて、職務のひとつとして、鉄道書の企画・編集も手掛けていました。YS-11が無くなると聞き、鉄道テーマを旨とするシリーズ本にも、ぜひ飛行機も加えようと出版社と画策し、私も編集者の立場から、現場の撮影・取材へ何度か行くこととなりました。

▲戦後に国産開発した初めての旅客機がYS-11、試作1号機が、昭和36年7月に、初飛行し、昨年には60周年を迎えた。182機が製造され、日本の航空会社では、日本航空、全日空、東亜国内航空、南西航空などで使用した。地方空港が次第にジェット機に置き換えられ、国内の定期便では、東亜国内航空の後継となる日本エアコミューターが、この年の9月30日に運航を終了した。その後も、航空自衛隊、海上自衛隊、海上保安庁などでは運航を続けている。写真はJA8677機と機体のスペシャルマーキング。
食堂車のチラシ・・宮崎繁幹さんから
6月にあった「特急三百哩」を見るきっかけを作って下さった早稲田鉄研OBの宮崎繁幹さんから「駅弁包装紙の投稿を見てこれを思い出した」と原稿が送られてきました。
これまた見たことない珍品資料です。以下、宮崎さんのお話をお聞き下さい。
《さてその後、「ここどこ?わただれ?」の方は、猛暑もあってサボっていましたが、駅弁掛紙を拝見し、食べ物つながりで「食堂車チラシ」があったことを思い出しました。
あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~21~
2013年8月7日 国鉄風のキハ40系に出会う
キハ40系と言われる国鉄時代の末期に登場した気動車は、総数が888両に達し、全国各地で活躍しました。製造当初からは50年近くが経過し、JR各社で独自開発された新型車との世代交代が進み、今では廃車が進んでいます。機関換装、車内改装などの改造による派生形式、番号区分が多数あり、さらに地域密着の施策から、驚くほど多くのカラーバリエーションがあります。なかには、40系新製時のカラーは「タラコ」一色で、40系ではあり得ない「国鉄色」イメージに塗られた車両も各地で走りました。
▲この日も18きっぷで、伊勢市へ向かっていた。ホントの目的は、翌月に迫ったOB会の「しまかぜ」乗車ツアーの昼食会場の下見だったが、“帰りがけの駄賃”で、紀勢本線の多気で途中下車、近くで通過する紀勢本線の列車を写した。
写真集また作りました
お久しぶりです。こぱんだの保護者です。
宣伝で恐縮です。
うちの娘もますます写真にはまり込んでおり、春に出版した写真集に続いてもう1冊出版することとなりました。
横浜市電保存館
横浜市電を投稿するにあたり7月15日に市電保存館に行ってきた。保存館は田浦の梅林を見た直後2011年3月11日の東日本大震災に遭遇して夜間横浜まで歩き通した時にチラッと見ているが実際館内に入ったのは始めてである。保存館は市電時代の滝頭車庫にあるが、磯子、根岸、京急上大岡あたりからバスに乗ることになるので便利ではない。館内には523(単車)、1007、1104,1311,1510、1601と花電車らしきものが保存されている。保存車と同一ナンバーの車両の現役時代の姿も併せて発表する。
まず、横浜と言えば単車王国でその代表である500型(501~559)は昭和3(1928)年から60両(うち15両は600型に改造)もつくられたのであちこちで見かけたことは前回に記した通りである。保存車輛のこのブルーカラーは残念ながら見たことがない。▼




