ここはどこ?私はだれ?【増6】 投稿日時: 2019年1月24日 投稿者: 米手作市 そろそろネタ切れです。増結も長すぎます。 どなたか、別便の編成をお願い致します。 冬の朝は霧に包まれていました。 この記事を共有:TwitterFacebook印刷 関連 関連記事: 新・ここはどこ?私はだれ?【中村進一氏のアルバムより】-8- ここはどこ?私はだれ?【臨3】 ここはどこ?私はだれ?【臨】 ここはどこ?私はだれ?【増4】 ここはどこ?私はだれ?【増2】 ここはどこ?私はだれ?(5) ここはどこ?私はだれ?(2) ここはどこ?私はだれ?
米手作市様 パソコンがダウンしたため、増結車に乗り遅れてしまいました。ようやく増6号車に間に合いました。私の最も好みとします鮮魚台付きガソリンカーがトコトコ走るこの地は、多分添付の場所だと思います。それにしても随分な変わりようですね。 返信 ↓
荷物台を付けた気動車は、中学生の頃に七尾線の羽咋駅で見た北陸鉄道能登線を思い浮かべます。京都では見られないスタイルで、こんな珍しい気動車もあるんやなあ、と、すっかり気に入ってしまいました。しかし、再訪は敵わず、詳しいことを知る機会もないままボーっと生きてきました。 さて、お題の気動車は荷物台が片側だけという特徴で、簡単に見つけられるわいとナメてかかっておりました。確か和歌山県に似たような気動車がいたはずと、湯口先生の(こればっかりですが)「丹波の煙 伊勢の径」を広げ、キハ40801を見つけました。荷物台は片方だけですが、窓配置が異なり、ベンチレーターの数も違っていました。他をあたらねばなりません。 西村様の画像を見ると、現存、もしくは最近まであった鉄道のようですが、今どきの鉄道車両はさっぱりわからんのです。若いファンならどこそこの鉄道だと即座に答えるのでしょうが、小生の頭の中は昭和の時代で時計が止まっていて、どの鉄道も同じように見えてしまうのです。 顔を洗って出直してきます。 返信 ↓
西村さんの写真に写っている気動車でわかりました。出町柳からバスで行ける有名な観光地と同じ名前の美術館があるところの市にある鉄道ですよね。この鉄道の前身はこの市の交通局だったそうですね。違いますか。 返信 ↓
路線は特定できたのですが、あまりの変わりように撮影場所の特定には至りません。国鉄〇〇駅を出てすぐの地点、中間付近の現在天理教会が建っている近くの踏切と、候補はあるのですが、う~ん、難しい。今晩はこの辺にして、もう寝ます。 返信 ↓
西村様有難うございます、RICHOでわかりました。 最初に目を付けていた地点でしたが、あまりの変わりように自信が持てませんでした。しかし、上空から見ると痕跡が残っており、地形は米手様が撮影された頃そのままでした。さて、この場所ですが、球場前駅から〇〇駅側に少し戻った場所で、〇〇川の分流沿いの道から南を向いて撮影されたものと思います。 米手様が撮影された頃の球場前駅は、今の場所から500メートルほど離れていたようで、田畑が広がる中に市民球場があったようですね。さて、もう伏字にすることもないでしょう。倉敷市交通局(水島臨海鉄道)の球場前駅から、起点の倉敷駅側に500メートルほど戻った地点で、山陽本線を背に南を向いて撮影された。以上が小生の答えです。米手様いかがでしょうか? 西村様、いつも教えていただきまして有難うございます。 返信 ↓
紫の1863様 最初に目をつけておられたようで、さすがです。米手様は水島が現在のように発展し始める頃に撮られたのでしょうが、岡山、倉敷、水島等のベッドタウンとして宅地化が進み、余りの変わりように私も驚いています。このシリーズの米手様の写真は、いずれも時代の記録として非常に貴重なものだと思います。 返信 ↓
皆様、正解です。 だんだん解答のこつを身につけてこられたようで、出題する方も間が持てて時間稼ぎができました。 撮影したころは山陽線が岡山ー糸崎電化の直前で、まだD52やC62がこの付近で見られました。当時の水島は湿地帯が広がるばかりで、この鉄道も地元の人は『りんこう』と呼んでいました。何でも無い写真も時が経つとお宝に変わるいい例ですね。 返信 ↓
K.H.生様 元中国鉄道キハニ181のキハ305と後ろは宇部線から来て活躍しなかったクハ16418のようですね。倉敷駅西側には貨車の入換えのための渡り線や留置線がありましたが、今はわずかのレールが使われているだけです。岡山貨物ターミナルから直接DE10に牽かれたコキが東水島に乗り入れて行きますので、入換えもなく静かな空間が広がっています。マア、貨物列車が走っているだけでもよしとしましょう。写真は昨年3月10日撮影です。 返信 ↓
米手作市様
パソコンがダウンしたため、増結車に乗り遅れてしまいました。ようやく増6号車に間に合いました。私の最も好みとします鮮魚台付きガソリンカーがトコトコ走るこの地は、多分添付の場所だと思います。それにしても随分な変わりようですね。
模範的解答をありがとうございます。
これなら紫の1863様や宮崎繁幹様も見当が付かないでしょうから。
場所はともかく、DCを見れば鉄道名はすぐバレるでしょう。
ほぼ同じ構図を撮っていました。新旧比較を!
米手様
同じ場所とは思えない変貌ぶりですね。平成29年4月の木次線ツアー前にI氏と3人でこの場所に立ったのですが、あの時が初めてだったと思い込んでいましたが、そうではなかったのですね。
荷物台を付けた気動車は、中学生の頃に七尾線の羽咋駅で見た北陸鉄道能登線を思い浮かべます。京都では見られないスタイルで、こんな珍しい気動車もあるんやなあ、と、すっかり気に入ってしまいました。しかし、再訪は敵わず、詳しいことを知る機会もないままボーっと生きてきました。
さて、お題の気動車は荷物台が片側だけという特徴で、簡単に見つけられるわいとナメてかかっておりました。確か和歌山県に似たような気動車がいたはずと、湯口先生の(こればっかりですが)「丹波の煙 伊勢の径」を広げ、キハ40801を見つけました。荷物台は片方だけですが、窓配置が異なり、ベンチレーターの数も違っていました。他をあたらねばなりません。
西村様の画像を見ると、現存、もしくは最近まであった鉄道のようですが、今どきの鉄道車両はさっぱりわからんのです。若いファンならどこそこの鉄道だと即座に答えるのでしょうが、小生の頭の中は昭和の時代で時計が止まっていて、どの鉄道も同じように見えてしまうのです。
顔を洗って出直してきます。
西村さんの写真に写っている気動車でわかりました。出町柳からバスで行ける有名な観光地と同じ名前の美術館があるところの市にある鉄道ですよね。この鉄道の前身はこの市の交通局だったそうですね。違いますか。
どですかでん様
その通りです。
持って回った言い方に座布団一枚!
どですかでん様、ナイスなヒント有難うございます。
気動車はキハ305ですか。窓配置は一致しますので、この線で調べてみます。有難うございます。
路線は特定できたのですが、あまりの変わりように撮影場所の特定には至りません。国鉄〇〇駅を出てすぐの地点、中間付近の現在天理教会が建っている近くの踏切と、候補はあるのですが、う~ん、難しい。今晩はこの辺にして、もう寝ます。
紫の1863様
おはようございます。深夜の投稿お疲れ様です。現状写真の地点で振り向いて撮ると、添付のような光景です。
西村様有難うございます、RICHOでわかりました。
最初に目を付けていた地点でしたが、あまりの変わりように自信が持てませんでした。しかし、上空から見ると痕跡が残っており、地形は米手様が撮影された頃そのままでした。さて、この場所ですが、球場前駅から〇〇駅側に少し戻った場所で、〇〇川の分流沿いの道から南を向いて撮影されたものと思います。
米手様が撮影された頃の球場前駅は、今の場所から500メートルほど離れていたようで、田畑が広がる中に市民球場があったようですね。さて、もう伏字にすることもないでしょう。倉敷市交通局(水島臨海鉄道)の球場前駅から、起点の倉敷駅側に500メートルほど戻った地点で、山陽本線を背に南を向いて撮影された。以上が小生の答えです。米手様いかがでしょうか?
西村様、いつも教えていただきまして有難うございます。
紫の1863様
最初に目をつけておられたようで、さすがです。米手様は水島が現在のように発展し始める頃に撮られたのでしょうが、岡山、倉敷、水島等のベッドタウンとして宅地化が進み、余りの変わりように私も驚いています。このシリーズの米手様の写真は、いずれも時代の記録として非常に貴重なものだと思います。
皆様、正解です。
だんだん解答のこつを身につけてこられたようで、出題する方も間が持てて時間稼ぎができました。
撮影したころは山陽線が岡山ー糸崎電化の直前で、まだD52やC62がこの付近で見られました。当時の水島は湿地帯が広がるばかりで、この鉄道も地元の人は『りんこう』と呼んでいました。何でも無い写真も時が経つとお宝に変わるいい例ですね。
同車両を、一応写していました。昭和49年の修学旅行列車より。
K.H.生様
元中国鉄道キハニ181のキハ305と後ろは宇部線から来て活躍しなかったクハ16418のようですね。倉敷駅西側には貨車の入換えのための渡り線や留置線がありましたが、今はわずかのレールが使われているだけです。岡山貨物ターミナルから直接DE10に牽かれたコキが東水島に乗り入れて行きますので、入換えもなく静かな空間が広がっています。マア、貨物列車が走っているだけでもよしとしましょう。写真は昨年3月10日撮影です。
翌年次から新幹線になりました。12系ハザ+ELですが本当に運が良かったと思います。
帰りは座席の夜行便で、別中学同士で喧嘩しないよう、貫通路に男性教諭がずっと立っていました。