昭和の電車 改訂版(247)ー西鉄北九州線118型・125型ー 投稿日時: 2022年1月19日 投稿者: 米手作市 これもおとりんさん、K.H.生さんにお任せします。 この記事を共有:TwitterFacebook印刷 関連 関連記事: 昭和の電車 改訂版(235)ー京成電鉄モハ300型ー 昭和の電車 改訂版(209)ー玉電デハ80型ー 昭和の電車 改訂版(173)ー京王電鉄6000系ー 昭和の電車 改訂版(107)ー京王帝都デハ2118ー 昭和の電車 改訂版(99)ー東急玉川線デハ200型ー 昭和の電車 改訂版(79)ー南海電鉄モハ1556号ー 昭和の電車 改訂版(61)ー土佐電鉄クハニ2000型ー 昭和の電車 改訂版(38)ー高松琴平電鉄クハ11000型ー
関 三平さんの解説を少し補足させていただきます。 型式の付け方ですが、昭和9年に200形(201~206/日本車輌、207~212/汽車会社)が新製され、昭和11年に100形(101~111/日本車輌、112~117/汽車会社)が新製され、形式が若番になりました。左程珍しいことではなく、京都市交通局でも900形の次は700形になっています。 続いて昭和13年に新製された車両を、100形のラストナンバー117に続いて、今回のテーマである118形(118~124/汽車会社、125~137/日本車輌)としました。関さんが記述されている125形は、近鉄の2200形に対する2227形と同様、公式書類上は同一形式でも、大きく異なるため便宜的に分けられたと思われ、間違いではありません。 続いて昭和15年に新製されて車両を118形のラストナンバーの追番、138形(138~147/日本車輌、148~157/汽車会社)、次の新車は、昭和23年製の500形(501~512/全車汽車会社)、次は昭和25年と27年の600形、その次は、連接車の1000形と続きます。 前置きが長くなりましたが、118形と125形の前中扉は、他車がすべて前後扉のため、停留所での客扱上の問題等から前後扉に改造されました。元の扉部分の窓2カ所は狭くなっています。 画像は、昭和44年3月26日、魚町、汽車会社製の118形119です。 返信 ↓
【参考】昭和49年1月19日、大門、138形(148形)、昭和15年、汽車会社製の152です。スタイルは、日本車輌製の同じになりましたがと、台車が異なります。 筑豊電鉄直通の筑鉄中間行きです。 返信 ↓
連接車以外の他の形式についても昭和45年前後に在籍した車両について触れておきたいと思います。 100形(101~117) 昭和11年、101~111は、日本車輌製、112~117は、汽車会社製で、台車が異なります。 画像は、昭和49年1月19日、大門、111です。 返信 ↓
66形(66~85) 昭和4年、川崎車輌製の全鋼製の車両でしたが、車体の老朽化により、昭和25年に70、76~78、80~85の10両は半鋼製に改造、66~69、71~75、79の10両は、600形と同じ車体を新製して載せ替えました。 画像は、昭和44年3月25日、魚町、77です。 返信 ↓
ちょいと面白い写真なので、お目に掛けます。場所、時期、撮影者が全て不明と云う、三重苦写真です。121号が写っていますが、長物車に括り付けられ、輸送中です。昔は、こうやって車輌を貨車に載っけて、回送した訳ですね。最初は新製後、メーカーの汽車会社から、西鉄へ納入中の姿かと思いました。でも、よく見ると車端には、自動車に対する追越時の警告が、書かれている。と云うことは戦後です。側面に目を転じると、扉が前中扉。してみると、これは前後扉に改造の為の輸送中ではないかと、思われます。然らば時期は、戦後も間もない頃なのでしょう。ところで、一部隠れたり、不鮮明て読めないが、側面に『諸車?歩行者ハ右?右?通行』とあります。交通ルールに関する警告と思われるが、何なのか御存知の方が、いらっしゃいましたら御教示下さい。どうぞ宜しく。 返信 ↓
はじめまして。こちらのサイトは、とても興味深い記事が多く、日々閲覧させていただいています。投稿するのは、今回が初めてです。どうぞ、よろしくお願い致します。 西鉄電車の貴重な写真を投稿いただきありがとうございます。 この写真の121号を含め120号~122号の3両が、昭和22年から26年にかけて西鉄福岡市内線に貸し出され、一時的に301号~303号を名乗っていました。おそらく、この写真は昭和22年、西鉄北九州線から福岡市内線に向けて搬送されている姿だと思います。 返信 ↓
宮崎様 興味深い写真ですね。拡大してみると121号の後方の無蓋車には蒸機の動輪と思われる車輪が積まれており、更にその後ろには貨車の間に蒸機がはさまっています。あるいは蒸機の前で切れていて、2列車が縦に並んでいる?右手のプラットホームはかなり長く、どこの駅なのでしょう。興味が尽きません。 返信 ↓
西村様は、何ごとも見逃さないのですね! この写真は、小生の雑件箱に20年近くあったものですが、御指摘あるまで、後ろの方に蒸機が居るなど気づきませんでした。無火の回送機関車は、牽引機の次位とするよう通達が出ていたような気がしますが、例外もあるのでしょうか。数年前、下関から防府まで各停列車に乗りましたが、山陽本線各駅の長いホームも、持て余されていて、端の方は荒れ果てている感じでした。10両を超える長編成の客車列車が関門海峡を越え往来したのは、昔話となりました。 返信 ↓
500形(501~512) 昭和23年から24年にかけて汽車会社で12両新製されました。大阪市電1700形と同形の大型3扉車でしたが、昭和28年に中扉を廃止して窓が設置されると同時に先端部の車体幅を絞る改造が実施されました。ワンマン改造されることなく、昭和51年から52年にかけて廃車になり、501、502、504の3両が広島電鉄に譲渡され、601~603になりました。広島電鉄では、前中扉に改造する等、大幅に手を加えられ、現在502→602が健在で、主に朝のラッシュ時に使用されています。 返信 ↓
藤本様が御紹介下さった500形、511号の写真が宮松コレクションにあったので、お目に掛けます。完成し出荷待ちのようだが、集電装置は現地で取付るらしく、付いていません。撮影は汽車会社構内と思われ、撮影者は宮松氏ご自身かと。この製造時の姿であったのは、4~5年の短期間だとは、藤本様の解説で初めて知りました。また前掲の505号と比較しますと、方向幕窓の移設や、車番表示位置の変更なども、昭和28年の改造で行われたものかと思われます。 返信 ↓
600形(601~650) 昭和25年に新潟鐵工所と川崎車輌で10両、27年に近畿車輛と新潟鐵工所で40両新製され、主力として使用されました。 昭和44年3月25日、小倉駅前、606、昭和25年、川崎車輌製です。 上の505の撮影日、撮影場所は、606と同じです。 返信 ↓
もう特にコメントで出して来る写真の必要も無いのですが、子どもの頃から親しんだ西鉄電車も疾うに無く、親きょうだいも全員いなくなり、近年九州の家も売却して、後は自分がこの世から居なくなる順番待ちみたいな状況と、北九州に対する望郷の念も最近は綺麗に無くなりました。 不思議なものですが、北九州市に西鉄電車が無いのは、岐阜に遊びに行って市内線と近郊路線に乗る楽しみが消えて以来、行かなくなったのに似ています。 私は町おこし的な仕事も関わるようになり、最近では町の魅力について、電車に乗ったり、夜の町を飲んで歩くことが後半人生の楽しみになっています。 京都も地下鉄が高過ぎて残念ですが、嵐電を伸ばして祇園まで行かせたらどうかとか、国際情勢的にそれは有りではないかとか、いろいろ空想をします。 これは昭和55年に京都から九州に戻る途中で広島で一泊して祖母の家に泊めてもらい、朝己斐(西広島)の駅前で写した広電603(北九州線500型)です。本体の600型一統が居なくなっても1両残っているのは奇遇な人生のように思えます。 返信 ↓
K.H生様 2017年12月15日に江波車庫で撮った602を貼っておきます。この時は事務所でひと声かければ「気を付けてね」程度で構内に入れてもらえましたが、最近はなかなか入れてもらえないそうです。西広島駅前もすっかり様変わりしています。 返信 ↓
米手作市先輩 ご指名いただきましたが申し訳ありません。小生幼少期は福岡市内に住んでいて北九州に行くことは殆どありませんでした。 北九州市内線では本線の折尾~中央町、大門~小倉駅前、枝光線の中央町~幸町、戸畑線の幸町~大門に恐らく1回乗車しただけです。 但し最後まで残った折尾~黒崎駅前は平成18年の一年間、小倉勤務でしたので数回乗った思い出があります。 返信 ↓
関 三平さんの解説を少し補足させていただきます。
型式の付け方ですが、昭和9年に200形(201~206/日本車輌、207~212/汽車会社)が新製され、昭和11年に100形(101~111/日本車輌、112~117/汽車会社)が新製され、形式が若番になりました。左程珍しいことではなく、京都市交通局でも900形の次は700形になっています。
続いて昭和13年に新製された車両を、100形のラストナンバー117に続いて、今回のテーマである118形(118~124/汽車会社、125~137/日本車輌)としました。関さんが記述されている125形は、近鉄の2200形に対する2227形と同様、公式書類上は同一形式でも、大きく異なるため便宜的に分けられたと思われ、間違いではありません。
続いて昭和15年に新製されて車両を118形のラストナンバーの追番、138形(138~147/日本車輌、148~157/汽車会社)、次の新車は、昭和23年製の500形(501~512/全車汽車会社)、次は昭和25年と27年の600形、その次は、連接車の1000形と続きます。
前置きが長くなりましたが、118形と125形の前中扉は、他車がすべて前後扉のため、停留所での客扱上の問題等から前後扉に改造されました。元の扉部分の窓2カ所は狭くなっています。
画像は、昭和44年3月26日、魚町、汽車会社製の118形119です。
同じ日、大門、日本車輌製の125形129です。張上げ屋根になり、118形とはスタイルが大きく異なる他、台車も異なります。
【参考】昭和49年1月19日、大門、138形、昭和15年、日本車輌製の138です。
前中扉は、118形のみに終わり、前後扉に戻りました。
【参考】昭和49年1月19日、大門、138形(148形)、昭和15年、汽車会社製の152です。スタイルは、日本車輌製の同じになりましたがと、台車が異なります。
筑豊電鉄直通の筑鉄中間行きです。
連接車以外の他の形式についても昭和45年前後に在籍した車両について触れておきたいと思います。
100形(101~117)
昭和11年、101~111は、日本車輌製、112~117は、汽車会社製で、台車が異なります。
画像は、昭和49年1月19日、大門、111です。
200形(201~212)
昭和9年、201~206は、日本車輌製、207~212は、汽車会社製で、台車が異なります。
画像は、昭和44年3月26日、大門、203です。
66形(66~85)
昭和4年、川崎車輌製の全鋼製の車両でしたが、車体の老朽化により、昭和25年に70、76~78、80~85の10両は半鋼製に改造、66~69、71~75、79の10両は、600形と同じ車体を新製して載せ替えました。
画像は、昭和44年3月25日、魚町、77です。
車体を新製した車両は、79を除く9両が昭和39年から42年にかけて福岡市内線に転属しました。
画像は、昭和44年3月26日、博多駅前、75です。
ちょいと面白い写真なので、お目に掛けます。場所、時期、撮影者が全て不明と云う、三重苦写真です。121号が写っていますが、長物車に括り付けられ、輸送中です。昔は、こうやって車輌を貨車に載っけて、回送した訳ですね。最初は新製後、メーカーの汽車会社から、西鉄へ納入中の姿かと思いました。でも、よく見ると車端には、自動車に対する追越時の警告が、書かれている。と云うことは戦後です。側面に目を転じると、扉が前中扉。してみると、これは前後扉に改造の為の輸送中ではないかと、思われます。然らば時期は、戦後も間もない頃なのでしょう。ところで、一部隠れたり、不鮮明て読めないが、側面に『諸車?歩行者ハ右?右?通行』とあります。交通ルールに関する警告と思われるが、何なのか御存知の方が、いらっしゃいましたら御教示下さい。どうぞ宜しく。
はじめまして。こちらのサイトは、とても興味深い記事が多く、日々閲覧させていただいています。投稿するのは、今回が初めてです。どうぞ、よろしくお願い致します。
西鉄電車の貴重な写真を投稿いただきありがとうございます。
この写真の121号を含め120号~122号の3両が、昭和22年から26年にかけて西鉄福岡市内線に貸し出され、一時的に301号~303号を名乗っていました。おそらく、この写真は昭和22年、西鉄北九州線から福岡市内線に向けて搬送されている姿だと思います。
宮崎様 興味深い写真ですね。拡大してみると121号の後方の無蓋車には蒸機の動輪と思われる車輪が積まれており、更にその後ろには貨車の間に蒸機がはさまっています。あるいは蒸機の前で切れていて、2列車が縦に並んでいる?右手のプラットホームはかなり長く、どこの駅なのでしょう。興味が尽きません。
西村様は、何ごとも見逃さないのですね! この写真は、小生の雑件箱に20年近くあったものですが、御指摘あるまで、後ろの方に蒸機が居るなど気づきませんでした。無火の回送機関車は、牽引機の次位とするよう通達が出ていたような気がしますが、例外もあるのでしょうか。数年前、下関から防府まで各停列車に乗りましたが、山陽本線各駅の長いホームも、持て余されていて、端の方は荒れ果てている感じでした。10両を超える長編成の客車列車が関門海峡を越え往来したのは、昔話となりました。
500形(501~512)
昭和23年から24年にかけて汽車会社で12両新製されました。大阪市電1700形と同形の大型3扉車でしたが、昭和28年に中扉を廃止して窓が設置されると同時に先端部の車体幅を絞る改造が実施されました。ワンマン改造されることなく、昭和51年から52年にかけて廃車になり、501、502、504の3両が広島電鉄に譲渡され、601~603になりました。広島電鉄では、前中扉に改造する等、大幅に手を加えられ、現在502→602が健在で、主に朝のラッシュ時に使用されています。
藤本様が御紹介下さった500形、511号の写真が宮松コレクションにあったので、お目に掛けます。完成し出荷待ちのようだが、集電装置は現地で取付るらしく、付いていません。撮影は汽車会社構内と思われ、撮影者は宮松氏ご自身かと。この製造時の姿であったのは、4~5年の短期間だとは、藤本様の解説で初めて知りました。また前掲の505号と比較しますと、方向幕窓の移設や、車番表示位置の変更なども、昭和28年の改造で行われたものかと思われます。
600形(601~650)
昭和25年に新潟鐵工所と川崎車輌で10両、27年に近畿車輛と新潟鐵工所で40両新製され、主力として使用されました。
昭和44年3月25日、小倉駅前、606、昭和25年、川崎車輌製です。
上の505の撮影日、撮影場所は、606と同じです。
昭和44年3月26日、大門、647、昭和27年、近畿車輌製です。
もう特にコメントで出して来る写真の必要も無いのですが、子どもの頃から親しんだ西鉄電車も疾うに無く、親きょうだいも全員いなくなり、近年九州の家も売却して、後は自分がこの世から居なくなる順番待ちみたいな状況と、北九州に対する望郷の念も最近は綺麗に無くなりました。
不思議なものですが、北九州市に西鉄電車が無いのは、岐阜に遊びに行って市内線と近郊路線に乗る楽しみが消えて以来、行かなくなったのに似ています。
私は町おこし的な仕事も関わるようになり、最近では町の魅力について、電車に乗ったり、夜の町を飲んで歩くことが後半人生の楽しみになっています。
京都も地下鉄が高過ぎて残念ですが、嵐電を伸ばして祇園まで行かせたらどうかとか、国際情勢的にそれは有りではないかとか、いろいろ空想をします。
これは昭和55年に京都から九州に戻る途中で広島で一泊して祖母の家に泊めてもらい、朝己斐(西広島)の駅前で写した広電603(北九州線500型)です。本体の600型一統が居なくなっても1両残っているのは奇遇な人生のように思えます。
K.H生様
2017年12月15日に江波車庫で撮った602を貼っておきます。この時は事務所でひと声かければ「気を付けてね」程度で構内に入れてもらえましたが、最近はなかなか入れてもらえないそうです。西広島駅前もすっかり様変わりしています。
米手作市先輩
ご指名いただきましたが申し訳ありません。小生幼少期は福岡市内に住んでいて北九州に行くことは殆どありませんでした。
北九州市内線では本線の折尾~中央町、大門~小倉駅前、枝光線の中央町~幸町、戸畑線の幸町~大門に恐らく1回乗車しただけです。
但し最後まで残った折尾~黒崎駅前は平成18年の一年間、小倉勤務でしたので数回乗った思い出があります。
いえいえ、お歳から言っても無理は承知でお願いしたのです。
ムチャぶりした事をお詫びします。