下関駅を想う

写真展が終わって腑抜けた気持ちを引き締めるためにも、せっせと投稿へコメントを寄せていますが、やはりここらで自身の思いも披瀝してみたくなりました。以前のK.H.生さんの寄稿「山陽線西部の117系」のなかの下関駅への思いが心に残ります。
鉄道趣味人生にターニングポイントになった駅、というのがあると思います。私の場合、下関駅がそのひとつになっているのです。

今から40年以上前の昭和40年9月、高校1年生の私は山科の大築堤に立っていた。新幹線開業後で、特急こそ消えたものの、まだ急行列車は健在であった。京津線で御陵まで行き、駅前の道を南下して築堤を駆け上がって行った。今なら築堤に立ち入れば即警察沙汰だろうが、当時は自由に入れて、しかも撮影者はほんの2、3人という状態だった。そのとき、近くにいた撮影者から声を掛けられた。京都の人間だと言うと梅小路のC51の写真を交換してほしいと言う。鉄道雑誌の巻末にも必ず写真交換コーナーがあり、写真交換が盛んな時代だった。
C51の写真を送ってあげると、返礼に写真が2枚送られてきた。そのうちの1枚が、下関駅で撮影されたC62の牽く「さくら」の到着シーンだった。京都からほとんど出たことのない身にとって、彼の地の写真は実に衝撃的に映った。印刷した雑誌では得られない、ナマ写真の迫力は違っていた。135ミリの望遠で下からあおったC62の迫力、朝の斜光線を浴びた20系客車の輝き、手旗を振る作業員の表情、すべてが鉄道への憧れを満たすのに十分な内容だった。「いつかはこんな写真を撮ってみたい」、40年以上も鉄道写真を撮り続ける端緒になったのが、人からもらった下関駅の写真だった。ちなみに声を掛けてきた撮影者は、大阪市在住の広瀬さんという方で、その頃の鉄道ピクトリアルの写真コンクールの常連だった。今ごろどうされているのか…。

人からもらった下関駅のC62「さくら」。今も大事に貼ってある。

 

その1年半後、意外に早く下関駅訪問が実現する。高校2年生のとき、初めて一人で行った長距離の撮影旅行、夜行列車で迎えた早朝に下関駅に下車した。高架のホームから朝陽が昇り始めた関門海峡が望める。こんな大きな駅で海のすぐ側にある駅というのも珍しいことだ。下関は直流区間の終端で、181系特急、153系急行が続発、客車を牽くEF58は下関機関区に39両が集結し、最大のEF58配置区だった。興奮を抑え切れずに駅で写しまくったのは言うまでもない。この日は、門司区、若松区を巡って、初めてのユースホステル宿泊として、市内の火の山ユースホステルに泊まったのも印象深い。
この日のことには後日談がある。下関駅の旧駅舎が建て替えされるのを惜しんで、旧駅の思い出文集の募集があった。この日の印象を纏めて送ったところ、日の出の写真とともに掲載されたのも思い出深い。
K.H.生さんも書かれているように、三角屋根の特徴ある下関駅駅舎は、2006年に放火で全焼した。前述の文集はその建て替えに際して発行されたものだった。1999年には駅の自由通路を暴走してきた自動車に多数の乗客が轢き殺される事件が出るなど、旧駅の末期には不幸な出来事が続いた。

その後、何度も下関駅を通ったが、通過するだけで、駅に降り立つこともなくなった。しかし、下関駅を出て、機関区を眺めながらぐんぐん下っていき、関門トンネルに吸い込まれ、いよいよ九州へ踏み込むという感慨は、本州最西端の下関ならではの思い出だった。

 

ホームから関門海峡に昇る朝陽が眺められた

下関駅で発車を待つ「第一しおじ」。先頭はクハ181-1

多くの人の旧駅の思いが詰まった文集

下関駅を想う」への1件のフィードバック

  1.  大型蒸機となるとまた出てきました。人生のターニングポイントステーション下関。戦前はここから関釜連絡船で半島、大陸につながっていた。下関の朝の下り寝台特急は「さくら」、「みずほ」、「あさかぜ」、「はやぶさ」の順に到着。前ニ者は広島運転所、後二者は下関機関区所属のC62。これら特急の間には急行「平戸」C59、「阿蘇」C62、「高千穂」C59も到着。圧巻は寝台専用呉線経由の「音戸」。総本家青信号特派員さんが撮影された関門海峡に昇る朝陽の位置、下関駅の最も南側のホームには当時架線が無かった。「音戸」は下関が終点であり、九州に向かう列車牽引機EF30にバトンタッチする必要が無かったのか、架線の無い海よりホームに停車。すっきりとしたC59が見られた。これらホームでの忙しい撮影の後は一目散に下関機関区へ直行。しかし、東の青森、西の下関両機関区は駅から遠いのが難。下関機関区の扇形庫、給炭所、留置線等にはC62、C59がごろごろしていたが、場所が狭く撮影が難しかった。必死に撮影して後で見ると山陰線のD51や入れ換え用の8620は無い。フィルム代が惜しいから撮っていなかったのであろう。全てこのような調子だから、三角屋根の駅舎には全然気づかなかった。いずれにしても機関車を付け替える駅は旅情がわくものである。対岸の門司方面からも時々汽笛が聞こえる素晴らしい雰囲気の駅であった。総本家青信号特派員さん、また、思い出の駅をお願いします。

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