四国松山のディーゼルカー ~その1

十数年ぶりに四国松山へ行ってまいりました。四国でも高松や徳島へは年に最低1回は行ってきたのですが、松山は大阪から少し気分的にも遠かったのです。今回の狙いは、松山周辺で活躍するJR四国のディーゼルカー。新幹線+特急しおかぜでも航空機、バスでもなく、はじめて大阪南港から東予港までのオレンジフェリーを選びました。

大阪南港は22時出港ですが、20時から乗船することができます。早く入れば、ゆったりと船内のレストランと大浴場を楽しむことができ、出航後も船に乗っているのを忘れるほど揺れもなく、ホテルのように快適でした。2018年に就航したばかりの最新の船らしく、昔ながらの雑魚寝の桟敷はありません。最もリーズナブルな2等も個室で、誰に気兼ねすることなくゆったりと休むことができます。2等の片道で、乗船した日は7700円でした。2等のデラックスにすると料金は9600円になりますが、窓と洗面台が付き、部屋も広くなるので更にホテルのシングルルームと遜色ないゴージャス感が漂います。

大阪南港フェリーターミナル

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南千里折り返し運転

もう随分前のことですが、昭和58年、1983年の9月28日、阪急千里線山田ー北千里間が、台風10号による大雨のため、築堤の土砂が流出し、一時不通となりました。山田駅は交換ができないため、南千里で折り返し運転を行い、南千里ー北千里間は復旧までの時間、バス代行輸送となりました。阪急にはとんだとばっちりでしたが、割と早く復旧したと記憶しています。南千里折り返しは、昭和38年に新千里山(現南千里)が延伸開業し、昭和42年に北千里まで開通するまでの4年間になるのではないでしょうか。話しは脱線しますが、昭和40年の日活映画「青春のお通り」では、新千里山からP6に乗り込む吉永小百合が映っていました。 続きを読む

家の近くで撮る続

以前、みだしの題で城東貨物線神崎川信号場付近の写真をご覧に入れたが、今度は近い場所の東海道本線吹田ー東淀川間(吹田市南吹田一丁目)付近の写真をご覧にいれる。最近ではすっかりJR西日本の最新車輛と貨物のみとなり、撮影は遠ざかっているが、自分にとっては鉄道写真発祥の地ともいえる場所。優等列車は、新大阪駅に近づき、ラストスパートの高速走行区間で撮り易いとはいえない、と写真が上達しない言い訳を高速走行のせいにしてしまっているがご笑覧いただければ幸いである。今そのものでなく約10年前と40年前の比較にしたい。 続きを読む

家の近くで撮る

私、ブギウギ拙宅は、大阪メトロ御堂筋線江坂駅とJR西日本おおさか東線南吹田駅の間にあります。コロナ禍の散歩がてらですが、自転車で10分程度の城東貨物線神崎川橋梁での写真をご笑覧いただきたいと思います。

配1792レ 5月29日 EF65PF人気あります。このスジはPFなのでいつも複数の撮影者がいますが、大勢ではありませんので長閑なものです。 続きを読む

今どきの固定クロスシート

固定クロスシートといえば、113系や115系、キハ40系の直角シートが思い浮かぶだろう。その源流を辿れば戦前からのオハ35などの客車があり、今日、それらの客車は保存車や観光用に運行されているものだけになってしまったが、固定クロスシート車は今日なお、通勤電車から第3セクター鉄道のディーゼルカーまで多士済々、さまざまな種類のものが活躍している。その全てに乗ったわけではないし、紹介することは不可能であるが、現在運行されているもののうち、いくつかを車内に拘って紹介してみたい。(写真は大井川鉄道に残るオハ3522) 続きを読む

懐かしの下津井電鉄

下津井電鉄は、かつて岡山県南部で運行されていたナローゲージの鉄道である。大正2年、1913年11月に味野町(後の児島)-茶屋町14.5キロが開業。大正3年、1914年3月味野町―下津井6.5キロが開業。昭和24年、1949年5月全線電化、昭和47年、1972年3月児島―茶屋町廃止。平成2年、1990年12月児島―下津井廃止、となっている。 続きを読む

四国の鉄道

3月の終わり、某旅行会社がツアーで、国鉄復古塗装のキハ185と高松琴平電鉄に残る旧型電車120型+300型を走らせるのに合わせ、香川~徳島周辺でJR四国と高松琴平電鉄の撮影行を敢行した。3月27日、309D徳島行き、勝瑞―池谷

四国のキハ47とキハ40は、もともと小世帯だったが近年数を減らし21両しかない。運用も朝晩に限られているが、車体の内外装は比較的原型を留めており、エンジンも国鉄時代からのDMF15系列のままで深い味わいを残している。 続きを読む

四半世紀ぶりにタイに行った(その5)

▲特急46列車パダンプザール駅入線

(再びバンコクへ戻る)

17時にパダンプザールを発車するバンコク行きの特急寝台の46列車に乗る。この列車は、別のタイ・マレーシア国境の町スンガイコーロクを14時20分に発車する38列車とハジャイ(ハートヤイジャンクション)で併合し、バンコクには10時10分に着く。いわば、かつての特急さくらが肥前山口で分割併合し、長崎行きと佐世保行きの二手に分かれていたようなものである。今なら関西空港を出た関空快速と和歌山を出た紀州路快速が日根野で併合し大阪京橋をめざすようなものだが、19時間近く走る長距離寝台特急のスケール感とは印象が異なる。 続きを読む

四半世紀ぶりにタイに行った(その4)

(ペナン島からタイ国境の町パダンプザールへ)

▲コタバルの街並み

 

2月5日、タイからマレーシアに入り、東海岸近くのコタバルに着く。コタバルは、1941年の開戦時、真珠湾攻撃とほぼ同時に日本陸軍が上陸し、侵攻を開始した地点である。24年前の1996年、ペナン島からバターワースに渡り、夜行バスに乗ってコタバルに着いたが、今回はその逆である。コタバルは、イスラム教色の強いマレーシアの中でもとりわけ目立つところであり、カラフルなヒジャブを被った女性が行きかい、モスクの尖塔も目立つ。 続きを読む

四半世紀ぶりにタイに行った(その3)

▲メコン川を列車で渡る

(ラオス)
1995年の夏、今回と同じようにノーンカーイまで寝台特急に乗り、ラオスの首都ビエンチャンをめざしていた。「いた」というのは結果としてビエンチャン入りが果たせなかったのである。当時はノーンカーイの旅行代理店というよりブローカー?を通して、ラオス入りのビザを取得し、タクシーかトゥクトゥクに乗ってメコン川に架かる友好橋を通ってラオス入りを果たす計画だったのだが、ノーンカーイでいつまで経ってもビザを取る目途が立たず、泣く泣く諦め、バスで長駆、タイ南東、カンボジアに近いウボンラチャターニーまで行き、緑濃い中をトヨペットコロナのタクシーで回ったのだが、これはこれで思い出深い旅行となった。恐らく1960年代製と思われるかみそりのコロナは窓が破れ、シートも底つきを起こしていて何とか前へ走るという状態だった。あれから四半世紀経ち、ぱっと見でも20年も前の古い車は走っていない。最近の日本製だけでなく韓国のヒュンダイやデーウも結構走っている。経済成長の証左とも言えるだろう。 続きを読む

四半世紀ぶりにタイに行った(その2)

(ホワランポーンから寝台車に乗る)
ホワランポーンからは2月1日の夜、寝台列車の乗るので、いったん出てもう一つのバンコクのターミナルであるウォンウィエンヤイ駅まで行き、メークロン線に乗ることにする。また地下鉄からBTSウォンウィエンヤイまで行き、国鉄駅まで歩くのだが、何しろ暑い。タイは冬時期乾季にあたり、雨にあまり当たらないのはいいのだが、真夏そのもの、しかも都心の渋滞の横を排気ガスを吸いながら歩くので結構こたえる。しかもBTS駅の出口を間違ってしまったので、これでかなりのロスタイムとなってしまった。始発駅をゆっくり楽しむことも出来ず、駆け込み乗車で汗だくになったが何とか間にあった。▲今回は乗らなかった非冷房の2等座席車

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四半世紀ぶりにタイに行った(その1)

▲バンコクホワランポーン駅

 

昔ながらの客車の旅が好きだ。ここ暫く、日本では失われた客車列車を追って台湾に通ってきた。台湾の急行「莒光号」は、機関車けん引の客車列車の魅力を大いに味わえる存在だが、台湾には無いものが2つあった。寝台車と食堂車である。日本から比較的近いところで寝台車と食堂車が日常的に運行されているのは、中国かタイであろう。冬なら中国は寒く、かつては軟臥車(1等寝台)の指定券は入手し難かった。かといって硬臥車(2等寝台)は体を横たえることは出来るが、シーツなしのビニールレザー、カーテン無しの3段ベッドで、快適な寝台列車の旅を堪能できるかとは言い難い。筆者の主観かもしれない。中国の寝台車にはもう20年ほど乗っていないが、新幹線網が発達した今どうなっているのか。判らないので中国行きは今回、見送ることにしたのだが、これが奏功した。 続きを読む

924レ はやたま号

はやたま号には、昭和58年の3月と8月、2度乗ったことがある。といってもオハネフ12の寝台車ではなく座席車だけだったが。この頃、国鉄では鈍行列車で寝台車を繋いだ夜行列車として、この、はやたま以外にも、からまつ、山陰、ながさきを運行していたが、はやたま以外は乗ったことがない。昭和50年代の終わりにあれよあれよと無くなってしまった。後のブルートレインもそうだったが、そのうち乗っておこうと考えていたものが、消えるときはあっという間に消滅する。後で悔いても仕方ないのだが、今もってその教訓?は活かせていないような気がする。最後尾のオハネフ12

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山口線から山陰へ

今回のコロナ禍で、かれこれ1か月、カメラを持たず外出していない。近場で阪急や近鉄、JRを撮ることも含めると1か月も撮影に出なかったのはここ暫くで記憶に無い。鉄道を撮りに行く、ということが如何に仕事のストレスやらを発散する効能が大きく、自分の中で重い位置を占めていたかを改めて思い知ることになった。今、それを悔しがっても仕方ないが、過去の撮影など振り返り、新たな展開への英気を養うこととしたい。 続きを読む

まだまだ続くよ、台湾鉄路への遠征その5

礁渓駅前の小籠包 なかなかいける

最終日の14日火曜日は、早朝に出て6時13分発の区間快速で八堵をめざす。その前に腹ごしらえだが、早朝6時から開いている小籠包の店でそそくさと朝食。65元にしてなかなか美味しい。

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まだまだ続くよ、台湾鉄路への遠征その4

玉里客城1號橋 莒光602次

自強306次 DR3100型

瑞穂からは、7時19分の自強306次で玉里まで乗る。この列車は、ディーゼルカーのDR3100型、日本車両製である。まだまだ新しい車だが、全幹線電化完成後はどうなることだろうか、と思う。 続きを読む

まだまだ続くよ、台湾鉄路への遠征その3

翌1月12日は、前半が九曲堂で撮影、後半はひたすら移動となる。九曲堂では、レンタサイクルで約10分、高屏渓で鉄橋を渡る列車を撮る。戦前は東洋一の長さだったという下淡水渓橋梁からひたすら撮る。元の鉄橋は一部が水害で流されて、一部しか残っていないが公園の施設として残されている。この区間、九曲堂―六塊暦は、西部幹線と南回り線の優等列車が頻繁に走るので飽きることはない。 続きを読む

まだまだ続くよ、台湾鉄路への遠征その2

翌1月11日、宿を早めに出て、八堵駅に入線するEMU300の自強109次をホーム端で撮り、そのまま乗り込む。自強109次は、日曜日以外毎日運行しており、基隆を7時35分に出て、竹南から海線を経由し、終点の彰化には10時48分に着く。八堵ではがらがら状態だったが、台北から満員となり立客が出るくらいになった。竹南から彰化までは、山線と海線に分かれており、乗り間違えでもするとややこしい。

EMU300型 彰化

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まだまだ続くよ、台湾鉄路への遠征その1

虎尾のサトウキビ列車

今年の1月前半の台湾鉄路撮影記をレポートします。新型コロナウィルス禍が世界中に拡がる前の記録です。台湾については、諸先輩方が詳細なレポートをこのデジタル青信号で何度も発表されており、とてもその域に達するものではありませんが、内容は、振り返りも込めて、また、この状況を乗り越えた先に再び訪台出来ればとの願いも込めて発表するものです。 続きを読む