ユースで巡った鉄道旅 -9-

しばらくシリーズを休んでいましたが、しつこく続けることにします。
新幹線全線開業で賑わう鹿児島、ここにも、ユースがありました。何軒かあったと記憶しますが、もっぱら利用したのは”鹿婦”の略称で呼ばれた鹿児島県婦人会館。婦人会館や青年会館がユースを併設する例は各地にありました。自治体の直営ユースではないため、民営のユースに区分され、設備・食事内容にはバラツキがあったように思います。
単なる寝場所としか考えていなかったのか、このユースには全く記憶が残っていません。ただ市電「交通局前」の近くにあったことだけ覚えています。交通局前へは、西鹿児島駅から市電に乗っても遠回りルートになるため、いつも駅から歩いて行ったものでした。
調べますと、館はあるものの、ユースは平成2年に閉鎖されていました。

西鹿児島駅前に停車する鹿児島市電300形304号。東京都電120形を昭和24年に購入した、鹿児島初のボギー車で、のちに半鋼製となったが、ワンマン化されず、訪れた昭和44年には、大阪から来た市電と代わりに廃車されている。行き先は、昭和60年廃止になった伊敷線の終点、伊敷町を指している。右側に西鹿児島駅がある。駅前の配線は何度も変更されており、この時代は、向こう側の郡元方面が一直線で見通せるが、昭和46年にクランク状カーブになり、平成16年には、新幹線の開業に伴い、さらに駅舎側に移設されている。

鹿児島を訪れる一番の目的は、やはり鹿児島機関区の訪問だった。小はB20から、大はC60・C61まで、昭和42年時点、配置両数は29両と中堅規模ながら、7形式もあり、バラエティに富んでいることでは随一だった。その小のB2010、北の小樽築港機関区のB201とともに、希少なB20である。区での仕事は、給炭用のセム車の入換ぐらいで、ほとんどラウンドハウス横の定位置で昼寝している。煙を吐いて活動する姿を数時間粘ってやっと捉えられた。

大のほうのC60・C61は、まだ非電化だった鹿児島本線の旅客牽引用だった。優等列車は、DD51化されていたが、それでも臨時急行はC60が牽いていた。給炭線で、顔を並べた両形式、出自の違いがよく理解できる。いま動態復元されて話題を集めるC61だが、この33号機は、ラストナンバーに当たる。

新幹線の終着・鹿児島中央となった西鹿児島。これはまだ鹿児島本線が電化前、新幹線など噂にすら上がらない時代の九州南端の夕方のホーム、多数の通勤客が待ち受ける中に、C60の牽く普通列車が入線する。当時の地方の中核駅からは、これほどの人が、長編成の列車に乗り込んでいた。

西鹿児島と鹿児島は、年々西鹿児島の比重が高くなり、新幹線の開業でその差は決定的になってしまったが、昭和40年代の前半でも、西鹿児島が当地の中心駅として機能していた。ただ、車両基地は鹿児島のため、西鹿児島~鹿児島間には、さまざまな組合せの回送列車が行き来した。これは、東京から到着したDF50+20系の「富士」、機回しをした後、アタマにC5765が連結され、回送で鹿児島へ向かう図である。

これは夜行列車「はやと」を待つ西鹿児島駅の待合室。盆・年末年始の長距離列車の始発駅では、客をホームに入れず、待合室で集合させて隊列を組んでホームに案内していたが、昭和45年8月末の西鹿児島駅でも、このような方法が採られていた。壁に掲げられた万博の誘致ポスター、「万博はあと12日」の幕があるように、万博閉幕が迫ったこの時でも、人気は絶大で、この日も、夕刻にDD51の牽く旧型客車を連ねた団体列車「さよなら万博」号が、大阪へ向かって行った。世の中、前へ前への時代、列車も満員の時代だった。

「青信号」、ちょっといい話

「青信号」、と言ってもこの「デジタル元祖青信号」ではありません。
本家青信号たる、鉄道同好会創部以来、連綿と受け継がれている紙媒体の「青信号」、それも、特派員の現役時代、ガリ版と謄写版で格闘した手作りの青信号です。
もう何を書いたのか、当の本人ですら忘れてしまっている記事内容を、当会とは何の縁もない人が覚えていたことから話は始まります。
その人、某電鉄会社勤務のKさんは、当時の青信号に書かれた”おとぎ電車”の記事をはっきりと覚えていました。おとぎ電車とは、宇治川沿いをわずか10年の間だけ走った、発電所資材運搬用の軌道を使った遊覧用の鉄道です。
「青信号」に著したのは、いまは富山に幽閉されている、私の3年下のYさん、おとぎ電車の製造・運営に関わったYさんの伯父さんからの聞き書きを数ページに纏めたものでした。
EVE見学に来たKさんは、この記事が載った青信号を購入したものの、いつの間にやら行方不明。ただ、おとぎ電車の記事が載っていたことだけは、はっきりと覚えていたのです。
このたびKさんがおとぎ電車のことを季刊「レイル」に発表することになり、ぜひ青信号を参考にしたいと、出版社のMさんを通じて、私のところに依頼があったのです。
さっそくYさんに連絡し、転載の快諾をもらい、このたび発売された「レイル」78号に、記事の抜粋と地図が、青信号のクレジット入りで紹介されたのです。
改めて40年も前の青信号を見直すと、現在のものとは比べ物にならない、粗末な出来上がりですが、書かれた内容は埋もれてしまうどころか、ますますの輝きをもって、甦ってきたのです。Kさんが「初めて鉄道趣味紙に載った記念すべき記事」と称賛するように、とくに、おとぎ電車の場合、今まで発表された報告もほとんどなく、青信号の記事が端緒になったのです。
改めてこの記事を著したYさんに敬意を表するとともに、我々の著した紙・電子媒体の著作物が、広く鉄道趣味活動の向上に貢献していることを再認識した次第です。

▲いま発売の「レイル」78号と、貴重な参考文献となった「青信号」26号

<写真速報> クローバー会総会行われる!

3年に一度行われる、クローバー会の総会が、4月23日、京都タワーホテル6階会場において、おごそかに、かつ賑々しく開催されました。当日の雨をものともせず、全国から駆けつけた会員、その数約50名。
総会での決定・承認事項は、追って会員個別に連絡するとして、まずは当日の様子を、午前中に行われた乗車会・見学会とあわせて速報版で写真紹介しましょう(多数の閲覧があることを踏まえ、写真の選定に配慮しました)。
新しく広報担当を任命された、ぶんしゅうさんからの依頼を受け、代わってお知らせします。
▲午前中は阪急「京とれいん」で嵐山へ。トロッコ嵯峨駅で日本最大級のジオラマ見学、続いて梅小路蒸気機関車館ではC61の牽くスチーム号に乗り大満足。
▲京都タワーホテル会議室で行われた総会。新役員、会計報告、活動報告、事業計画などの報告が行われ、参加者で承認され、滞りなく終了した。
▲続いて同ホテル宴会場で懇親会が開かれた。新広報担当の司会のもと、新会長の挨拶、自己紹介・近況報告が行われ、和やかに始まった。
▲時が進むほど、酔うほどに、会場は騒乱状態に陥った。てんでバラバラに、語り、騒ぎ、久しぶりの会員同士の邂逅を心ゆくまで楽しんだのであった。
▲宴会のお開きは、恒例の三々七拍子、続いて東京支部長の万歳絶叫。ただ、祇園の石段下ではなかったため、支部長もやや不満足な様子だった。
▲遠く東京、名古屋、富山、広島から集まった会員も含めOB44名、プラス現役1名。全員大きな満足感を持って夜の街に消えたのであった。

ユースで巡った鉄道旅 -8-

もうひとつ、九州の撮影地近くのユースの紹介を-。
久大本線日田駅から杖立温泉行きの日田バスに乗ること約30分、ダム湖の近くに日田ユースホステルがありました。廃止された宮原線の終点、肥後小国の方向で、自然が豊かなところです。安くて設備の良い、公営のユースのひとつで、泊まった時は出来たばかり、宿泊客も少なく快適なユースでした。ユース一泊二食430円、バス往復320円とメモ帳には記してありました。
ここを拠点にして、撮影に行ったのが久大本線でした。昭和40年代前半の久大本線は、D60、ハチロクが配置され、貨物はもちろん、旅客もほとんど蒸機でした。今でこそ、沿線の由布院などは第一級の観光地となりましたが、当時は、まだまだローカル色豊かな路線で、一人で撮影しながら鉄道の旅も堪能したものでした。なお、このユースは、日田おおやまユースホステルと改名して現在も在るものの、長期休業中とありました。

日田駅は久大本線のほぼ中間にある。夜明から分岐する日田彦山線も、ほとんどの列車が日田を始終発としていた。久大本線の結節点を成す駅でもある。2面3線の典型的な国鉄式配線を持つが、広い構内には駐泊所もあって、いつも何両かの蒸機が休んでいた。乗客が待ち受けるなか、タブレットの授受をしたD60の牽く上り列車が到着する。左手はハチロクの牽く下り貨物列車。

夏の朝、日田駅では、陽射しを浴びたハチロクがガンガンに輝いている。久大本線では、D60だけではなく、豊後森機関区のハチロクも客貨の区間列車を牽いている。九州の蒸機ならではの輝きだ。これからの暑さを予感させる。陽炎の立つ構内に、門鉄デフ越しにD60の牽く交換列車が見えた。腕木信号機がコトリと落ちて、ハチロクは細いボイラーを震わせて、発車して行った。

西鹿児島から夜行に乗って鳥栖に着き、一番列車に乗って久大本線に入った。どこで降りる当てもなかったが、対向列車とまもなく交換することから、何の予備知識もなく田主丸で降りることになった。久大本線が山間部に入る前、筑後平野の真っ只中にある平凡な駅である。乗ったときから空模様が怪しかったが、駅に着くと、とうとう雪が舞ってきた。北九州は、意外と雪が降る。すっかり戦意を失くし、駅構内で日和ることにするが、雪をかぶった木々とハチロクの猛煙が、いい味を出してくれた。

久大本線の撮影地と言えば、由布岳山麓の湯布院付近、玖珠川の渓谷沿いの豊後中川付近が有名だ。私も下車して写したことはあるが、むしろ日田から久留米方面にかけての区間が好みだった。ことさら優れた風景はないが、その分、穏やかな田園風景が続く。それに、日田以西は鳥栖行きの区間列車があり、朝のラッシュ時は、多くの蒸機列車を稼ぐことができる。この風景には、D60より、ハチロクが客車数両を牽く姿が似つかわしい。

 

 

ユースで巡った鉄道旅 -7-

蒸機の牙城、筑豊に泊まる

鉄道旅でユースホステルに泊まることのメリットとして、撮影地近くに立地するユースの多いことが挙げられます。ホテルや旅館は人口の集積地や観光地が中心ですが、ユースは観光地とはおよそ無縁なところに立地している場合があり、それは鉄道撮影地近くと一致する場合がありました。
その代表例として、よく利用したのが飯塚市にある八木山(やきやま)ユースです。蒸機の牙城たる筑豊にあり、ここを基地にして、2日、3日と連泊して筑豊各地で撮影を続けたものです。私は累計8泊して、ユース宿泊回数としては最大を記録しています。
飯塚市に所在と言っても、ここは飯塚と福岡の中間、八木山峠の近くにあります。通常は、新飯塚で下車、遠賀川を渡って川向こうの飯塚バスセンターへ向かい、天神行きの西鉄バスに乗ります。飯塚市街を走り抜けると、九十九折の坂道となり、峠を越えたところにユースは所在しています。筑豊のイメージからはほど遠いような、緑豊かな地でした。
今でこそ、飯塚と福岡は、福北ゆたか線(篠栗線)が直結し、電車に乗れば40分余りですが、当時の篠栗線は吉塚から篠栗までの盲腸線、以降、筑豊本線桂川までは未開通、そのため博多へ行くには、バスに乗るか、さもなくば、鉄道なら原田周りの遠回りを強いられました。そのため、この区間のバスは、本数も多く結構な賑わいを見せていましたが、現在では、バイパスができて、峠越えの必要もなくなりました。現在、同ユースは、飯塚八木山高原ユースホステルと改称して盛業中のようです。

ユース最寄駅の新飯塚は、明治35年に貨物専用の芳雄駅として開業、昭和10年に旅客駅となり、「新飯塚」と改称された。本家の飯塚よりも、市の中心市街地に近く、以前から飯塚よりも乗降客が多い。当時の駅舎は、車寄せを持ったいかついスタイルで、北九州によく見られたドイツスタイルを継承している。一昨年だったか、久しぶりに新飯塚駅に降り立った。駅舎は橋上駅になり新しくなったものの、駅前の閑散さは目を覆うばかりであった。

日曜日の朝、北九州方面へ向かう多くの乗客が待ち受ける新飯塚駅に、C55の牽く上り列車が滑り込む。鉄道にまつわる情景は、当時とは変わってしまったが、地方路線での旅客の多さ、これだけは今では全く見られなくなった光景だ。左に停車しているのは、急行「天草」。博多経由ではなく、筑豊本線を経由して熊本へ向かう。ロネ、ロザを連結した、典型的な夜行急行列車であった。

ユースに泊まると必ず行ったのが、筑豊本線筑前内野-筑前山家間の冷水峠だった。冷水トンネルをサミットに両側に25‰勾配が続く。旅客はC55の単機、貨物はD60重連が標準。D50、D51も走る。鹿児島本線のバイパス的な役割もあり、旅客、貨物ともそこそこの本数があった。優等列車も、前述のように客車急行、DC急行、それにDC特急までもが走っていた区間だった。

北陸本線419系を送る

3月12日のJRダイヤ改正では、車両面の変動もありましたが、中でも印象的なのは、北陸本線で働いてきた419系電車の撤退です。
419系電車は、余剰となった交直両用の寝台・座席特急車両581・583系を、近郊化改造して登場したものです。改造コストを抑えるために、最小限の改造に留められ、寝台設備がそのまま残った室内や、特異な前面スタイルなど、国鉄末期の窮乏時代を象徴するような車両でした。画一化の進むJRにあって、唯一”ゲテモノ”と呼ぶにふさわしいスタイルです。ただ、乗ってみると、ゆったりした乗り心地や広々した座席に、特急時代の面影を十分に感じたもので、北陸へ行くと、好んで乗車したものでした。
419系は、金沢総合車両所に3両編成13本があり、敦賀以東の北陸本線で運用されていましたが、老朽化は否めず、2扉、狭い扉幅、定員の少なさも災いして、521系の増備によって、ダイヤ改正を機に定期運用からは撤退することになりました。

かつては、9連編成の運用も存在した419系だが、改正前は2編成の6連が最高だった。しかも、平日朝の金沢~富山間の423M、422Mしかない。先日、最後のキハ28・58撮影で富山を訪れた際、6連をようやくとらえることができた。さすがに迫力はある。切妻のクモハ419とクハ418が顔を合わす併結部もなかなかの味わいであった。

3両という短編成化のため先頭車が不足、中間車のモハネ581、サハネ581を先頭車化改造した”食パン”と呼ばれる切妻顔のクモハ419、クハ418が生まれている。同様の改造は、東北、九州でも行われ、交流専用715系として使われていたが、以前に廃車となっており、419系のみが、581・583系として製造され40年以上経った今まで使用され続け、寝台・座席特急の時代より、はるかに長い間、北陸本線で使われた。

419系の前部には以前「タウントレイン」という愛称板が取り付けられていたが、2001年ごろに取り外された。短編成化した419系は、愛称どおり北陸本線のフリークェンシー化に大きな貢献をした。写真は田村付近の419系で、当時は米原までの運用もあり、京阪神からの新快速などとも顔を合わせていた。

少し前まで、北陸本線の419系が湖西線近江今津まで乗り入れていた。クハネ581改造のクハ419は、ほとんどが貫通扉も埋められたが、右のクハ419-13には貫通扉が残り、愛称表示器もそのまま残っていた。このD13編成は、一足先に2006年10月の敦賀直流化時に廃車されている。左の117系の福知山線色と呼ばれる、グリーン帯の117系もいつの間にか姿を消してしまった。

「雷鳥」を送る

このたびの震災で被災されました皆様に心からお見舞い申し上げ、投稿を再開させていただきます。

3月12日から九州新幹線の開業などに伴うJRのダイヤ改正が実施されました。関西でもかなりの変動があり、改正前日は最後となる列車の撮影に追われていました。なかでも、雷鳥」がついに消えることになり、昭和39年のデビュー以来、永年親しんだ愛称についに別れることになりました。

3月11日夕方、最終の金沢行き「雷鳥33号」を、私は京都駅0番ホームで迎えました。思い返せば、昭和39年12月25日、「雷鳥」運転開始のその日も、中学校3年生の私は、同じく京都駅1番ホーム(当時)で「雷鳥」を迎えたのでした。大阪駅で発車式があり、そのテープをボンネットに巻いたまま、京都駅に到着しました。ホーム端ギリギリに停車したため、いい写真を撮るために、事もあろうか、線路に降りて編成を写しました。少年が取った大胆な行動もまだ許された時代でした。撮影者もほんの2、3人だったと記憶しています。

ところが後日、悲惨な結末が訪れます。フィルムが入ったままのカメラが、電車の中で置き引きに遭ってしまったのです。そのフィルムには、梅小路のC51も写っており、返す返すも残念な出来事となりました。

その後に発売された「鉄道ピクトリアル」に、その日の同列車を、虎姫~河毛間でとらえたカラー口絵が載っているではありませんか。なんと、その撮影者が山科の人間国宝だったのです。その並外れた行動力には、改めて脱帽した次第です。 

最後の金沢行き「雷鳥33号」は、A1編成と呼ばれる、クハ481-323を先頭にした9両編成だった。多くの鉄男・鉄子の待ち受ける中、懐かしい国鉄色を夕陽に輝かせて入線してきた。京都駅から乗り込む乗客も多い。昭和39年、初日の「雷鳥」を写したのも、最終「雷鳥」を写したのも同じ京都駅のこのホームだった。鉄道趣味に捧げた47年の歳月の長さを思い返せずにはいられなかった。 

上記のように初日の写真は幻となってしまったが、その後、デビューまもない「雷鳥」を山科の大築堤でとらえた。481系は、大阪~富山間の「雷鳥」、名古屋~富山間の「しらさぎ」各1往復、スカートが赤のままで、交直車を示すヒゲも入れられていない元祖481系の姿。この時代はごく僅かで、のちに山陽本線へ481系が進出する際に、直流181系との識別のため、ヒゲが入れられる。 

その後、雪の北陸本線田村付近で珍しいカラーも写していた。スカートには60Hzを示すクリーム帯が入り、ヒゲも入れられている。同じシーンでモノクロで撮ったものを、「鉄道ピクトリアル」の写真コンクールに初めて応募したところ、佳作に入選したのも、今では懐かしい思い出だ。嬉しくて、掲載誌を高校でみんなに見せて回った。そのため、この号だけが今もボロボロの状態で在る。 

最終日の3月11日には、唯一残る489系ボンネット編成による修学旅行の集約臨が昼間に走った。最近は臨時で走ったとしても、前部愛称板が蛍光灯剥き出しのままで、サマにならないこと甚だしいが、今回は「臨時」がちゃんと入れられていた。何気に、京都駅2番ホームから、0番ホームへの入線をとらえたが、ほぼ同じ位置から、初期の「雷鳥」を撮っていたことが判った。京都駅は新駅舎建設の際、2本あった通過線を1本にして、1番ホームを張り出し拡幅し、同時に線路番線と一致させるため、1番ホームを0番ホームに改称している。京都駅の変わりようには驚かざるを得ないが、電車のスタイルはほとんど変わっていないことにも改めて再認識させられる。

 

ユースで巡った鉄道旅 -6-

続いて横浜にあったユニークなユースホステルの紹介を。

現在も横浜・山下公園に保存・係留されている氷川丸には、かつてユースホステルが併設されていました。氷川丸は、1930年に建造された12000トン級の大型客貨船で、永らくアメリカ航路で活躍、昭和35年に運航が終了したあとは、山下公園に係留され、内部はそのまま宿泊設備として転用されました。3等船室は、2段ベッド、相部屋で、改造もなしにそのままユースに転用が可能でした。

泊まったのは昭和42年8月、高校3年生でした。夜行鈍行で東上、まず国府津で御殿場線のD52を撮ったあと、横浜へ向かいました。関東方面に向かうのは中学校の修学旅行以来でした。

 

御殿場線のD52が国府津駅で発車を待っている。当時、御殿場線にはDCも走っていたが、客車列車は、貨物とともに、国府津区のD52が牽いていた。40年以上前とはいえ、東京から80キロ足らずのところに、こんな大型蒸機がいたこと自体、信じられないことだった。走行中は撮らず、もっぱら駅と機関区での撮影に終始した。右に当時愛用していたリュックが見える。

 

ユースで食事後、夜の山下公園へ出かけ、氷川丸を夜間撮影した。今も氷川丸は、全く同じ位置に停泊したままだ。船体の塗装は、当時スカイブルーだが、現在は、航行当時の黒に塗り替えられている。内部は新たにリニューアルされ、宿泊設備はなくなったようだ。

 

 横浜駅の東口。三代目として昭和3年にできた駅舎で、建設当時は最大級の駅舎で、西口はまだ全く未開拓だった。昭和55年に現在の駅ビルになり、駅前は高速道路が高架で通り、大型デパートや高層ビルが林立する。以前の掲示板に米手作市さんが横浜駅の東口に触れられていたが、東口駅前は横浜の玄関口と言いながら、古びた工場・倉庫ばかりで、引込み線が延びるだけの荒涼とした光景が広がっていた。

 

その後、都内へ行き、都電に乗って須田町まで行き、交通博物館を見学した。あとは物見遊山で、皇居前や当時、日本で最初の高層ビル、完成直前の霞が関ビルを見物に行った。なにせ関西では高層ビルというものは全くなかった時代、さすが日本の首都だと感嘆したものだ。東京駅前で都電を写そうとするが、このように車に邪魔されてうまく写せなかった。ただ、却って車に時代を感じるかもしれない。よく見ると、八重洲側の大丸が入店していた駅ビルは建設中のようだ。それがもう取り壊されるぐらいに時代は過ぎてしまった。

 

ユースで巡った鉄道旅 -5-

雪の長野で寺に泊まる

前回は、旅館に併設されたユースを紹介しましたが、今回は寺院のユースです。広い寺院の部屋を利用したユースホステルは、全国にたくさんあり、私も各地で泊まった経験があります。ただ設備・食事ともイマイチのところが多く、いい目をした思い出は全く残っていません。

ここで採り上げたのは、長野・善光寺の中にあった塔頭の教授院というユースホステル。ここに泊まったのは高校2年のとき、最初で最後となるスキーに友人と飯山線戸狩へ行き、その後に一人で泊まったところ。だだっ広い部屋に、満足な暖房もなく、寒さに震えて眠ったことしか印象に残っていません。朝、出発しようとすると、濡れたままにした長靴が凍ってしまい、滑りそうになりながら、駅への坂道を急ぎました。

 

朝の長野駅で写した181系電車、長野発上野行「あさま」。昭和41年10月にデビューしてから1年余りしか経っていないから、モノクロ写真で見ても車体が輝いているのが分かる。ボンネットに太い帯を入れた181系を見たのは、これが初めてだった。151系に比べて、何か足りないと思ったら、低トンネル対応で運転台上部の前灯がなかったのだった。

長野駅舎は、まだ善光寺をイメージした寺院建築風だった。その後、1996年に長野新幹線に合わせて駅舎が新しくなった。このような地域色豊かな駅舎も今や少なくなってしまった。長野電鉄の駅もまだ地上だった。駅裏にも長野機関区、長野工場が広がっていたが、ここもすっかり撤去され昔日の面影はない。

  

長野駅で写したあとは、篠ノ井線姨捨へ向かった。その頃の「鉄道ファン」撮影地ガイドに紹介されたところで、陰影を利かせた記事のような写真を撮りたくてやって来た。篠ノ井線は寸前に旅客列車は無煙化されており、貨物のみが長野区の特徴あるスタイルのD51が牽いていた。姨捨のスイッチバックの駅構内、眼下に広がる善光寺平の光景、さすがは日本三大車窓のことはある雄大な風景だ。桑ノ原信号場へ向かっていると途中でトンネルがあり、高校生では一人で通り抜ける度胸もなく、急斜面を登って、トンネル上の道路を目指した。フーフー言いながら、下へ降りた途端に、D51の牽く貨物が迫ってきた。

スキーで訪れた飯山線、しかし、ここは蒸機に執心する高校生、まずは飯山機関区を訪れC56を撮影する。この日も、すごい雪、というか飯山線ではごく普通の降り方だろうが、駅はうず高い雪で埋まっていた。駅で写したのが、スキー臨時急行「信越銀嶺2号」C11211+旧型客車3両。この頃のスキー臨時列車には、地域名を冠した「○○銀嶺」の愛称が多かった。「信越銀嶺」は、上野を夜に出て早朝に豊野まで急行として運転、以降は普通となり、スキー場のある戸狩で終着となる。写真は、飯山駅に停車中の上り列車で、昼行列車で上野を目指す。飯山線は冬季にスキー列車で忙しく、機関車も他区から借り入れしてしのいでいる。この機も美濃太田区から借り入れられた。

 

ユースで巡った鉄道旅 -4-

豪雪の会津柳津

もうひとつ、雪にまつわる一件を。
雪を求めてよく行ったのが只見線でした。利用したのが会津柳津駅近くの春江荘というユースホステル。会津柳津には温泉があり、円蔵寺の門前町でもあり、只見川に沿って温泉宿がいくつか建っています。ユースもそのひとつで、副業としてユースも営業していました。この形態は全国でよく見られ、旅館の一室をユースに流用しているだけに、場合によっては結構な設備です。このユースはいつ行っても宿泊客はほとんどなく、一人で広い和室を独占し、温泉にも入って、只見線の旅を満喫したものです。この春江荘ユースホステル、その後、湖畔荘という名に改名されたものの、今は廃業したのか、旅館のリストにも見当たりませんでした。
只見線は昭和46年の夏に行って以来、お気に入りの路線となり、47年からは、毎年雪を求めて只見線を訪れ、ユースにも連泊して、只見線の良さをしみじみ味わったものでした。ところが暖冬続きで、真冬の2月にも全く雪がなく、地肌が見えているという年もあり、只見線らしい大雪が見られたのは、昭和49年に行った時だけ、この時はもう社会人で、会社を終えた金曜日の晩に、新幹線、上野発夜行で只見線を目指しますが、途中の雪で大幅に遅れ、只見線に着いたのは、昼前になっていました。

只見線は、当時、貨物のみがC11牽引で残っていたが、なんと、その貨物はすべて運休だった。勢い、DC列車や駅でのスナップを撮るしかないが、逆にそれが、只見線の良さをしみじみ感じさせてくれた。40年足らず前の光景だが、福島県の山奥は、いかにも東北という、木村伊兵衛が撮るような光景が広がっていた。

駅長に見送られて、雪を載せたDC列車が会津柳津を出発する。後部はキハ23だが、当時、只見線の運行を担当する会津若松運転区には、キハ16、キハ18、キハ51、キハユニ18と言った希少な車種があり、気動車としても興味深い線区だった。

会津柳津駅は、二面三線の典型的な国鉄式の駅。気象板を掲出した光景も思い出のシーンになってしまった。現在、駅は交換設備も撤去されて棒線化され、無人駅になっているという。駅前にはC11244が静態保存されている。

2日間、只見線に居て、結局蒸機を写せたのは、この排雪列車だけだった。駅でラッセルが通ると聞き、会津宮下近くの鉄橋で待つ。突然、列車がやって来て、鉄橋から、豪快に雪が落として行った。その後、日中線へ向かったものの、その日、日中線は全列車運休(と言っても日中は走らない、朝夕の数往復のみだが)。駅で見たテレビは、東北地方11年ぶりの大雪と報じていた。帰る時、喜多方から上野行き急行に乗ろうとしたところ、部分運休を知らされ、会津若松まで初めてタクシーの代行輸送を経験し、這う這うの体で帰ってきた。

ユースで巡った鉄道旅 -3-

厳寒の北湯沢ユース

厳しい寒さが続いています。Tsurukameさんに習って寒さに関する一件を。

冬の北海道へも、学生時代、ユースを利用して何回か訪れたことがあります。ただ、冬と言っても、授業・試験はちゃんと済ませてからになりますから、すべて3月の訪問でした。1・2月と比べると、多少はマシになっていますが、内地から来た人間には、まだ寒さがこたえます。

昭和46年3月、本掲示板でも活動されている西村さんや、津田さんと一緒に渡道し、その日は北湯沢ユースホステルに泊まりました。北湯沢と言っても、ピンと来る人は少なくなったかも知れません。昭和61年に廃止になった胆振線にあった駅です。伊達紋別から乗車時間約50分、倶知安から約1時間40分程度の距離にあり、駅のすぐ近くに北湯沢ユースホステルがありました。胆振線が廃止されてからは、ほとんど顧られることもなくなりました。

内陸部にあって、とにかく寒かったことを覚えています。朝、ユースの寒暖計を見ると、-15℃を指していました。厳冬期に-30℃以下まで下がる北海道としては、屁のような気温でしょうが、私が実際に寒暖計で確認できた気温としては最低気温でした。

寒かったことだけは覚えていても、ユースの印象は全く残っていません。ネットで調べてみると、ごく最近まで営業を続けていたことが分かりましたが、今は休業となっていました。

ここでの目的は、倶知安区の二つ目玉の9600を撮ることだった。朝飯前にちょうど貨物列車がやって来るので、起床後すぐに、みんなで駅へ向かった。新雪も多く、遠方へ歩く気力もなく、駅近くで日和るしかなかった。寒気を震わせるようにして、二つ目玉を輝かせた9600が通り過ぎて行った。

北湯沢駅の外観。当時運転されていた急行の停車駅でもあり、交換設備もあって、ローカル線の駅としては、そこそこ賑わいのあった駅である。上記の9600貨物を撮ったあと、ユースへ戻って朝食をとり、キハ22単行で、C62重連を撮るべく倶知安へ向かった。

倶知安へ向かう途中、御園駅でのカット。乗った列車の前に、キハ22が増結されるシーンだ。当時、北海道のDCは、途中駅での増結・解結が頻繁に行われていた。極端な例になると、始発を単行で発車したのに、交換駅ごとに、1両ずつ増結し、終点に着いた時には、4~5両になっていることもあった。少ない気動車をやり繰りし、両運のキハ22ならではの運用だが、よく要員も確保できたとの思いが強い。しかも、交換列車から解結して、反対列車に増結するという離れ技で、そのため、増・解結に費やす停車時間のロスも多かった。

 

ユースで巡った鉄道旅 -2-

宿泊第一号ユース

下関にある火の山ユースホステル、これが記念すべき第一号ユースでした。時は昭和42年3月、ウラ若き高校2年生にとってドキドキの一泊でした。

2週間に及ぶ九州一周旅行の最初の宿泊地で、当日は新大阪から急行「つくし」に乗り、糸崎区でC59・C62を写し、広島から夜行で初めての九州入り、若松・門司区で写したあと下関に戻り、まだ走っていた山陽電軌で御裳川(みもすそがわ)まで行き、山手にある火の山ユースホステルへ向かいました。

公営のユースで、設備・食事は申し分なし。さすがに高校生の一人旅にとっては、ユース名物のミーティングに参加する勇気もなく、ベッドの中で小さくなっていました。屋上から見ると、関門海峡を行き来する船舶の光跡が美しく、三脚で夜間撮影したことは覚えていますが、この頃は、国鉄型にしか興味がなく、乗車した山陽電軌の写真は全く写していないのが悔やまれます。検索すると、火の山ユースホステルはまだ営業を続けていることが分かりました。

 

直流電化の西端駅、下関はさまざまな列車が交錯する結節点として賑わっていた。午前7時、クハ181のトップナンバー車を先頭にした「第一しおじ」が、多数の見送りを受け、新大阪へ向けて発車するところ。東海道新幹線の開業で、151系が大挙して山陽本線に移り、一時はその181系がED73に牽かれて交流区間の博多まで乗入れしていたが、その後、交直両用の481系ができて181系乗入れは中止されている。下関を始終点とする特急は「しおじ」2往復だけにはなっていたが、客車列車は、必ず機関車の交代があり、下関の比重はまだ重いものがあった。

 

当時の下関には、こんな旧型国電も発着していた。下関発宇部線経由の小郡行き2958M、クモハ12024+クモハ41083+クハ16418という、宇部新川電車区の17mロングシート車・20mクロスシート車の混成編成だ。山陽本線を直通せず、宇部地域の中心駅である宇部新川を経由する列車で、現在でこそ、このような設定はないが、最近まで、同様の経由の列車は九州内から発着する421系電車などで残っていた。

 

山陽本線からC59・C62などの大形蒸機は消えてから久しいが、下関ではまだ蒸機が見られた。それは、山陰本線の客車列車を牽く長門区のD51で、とくにラッシュ時はまだD51の牽く客車列車が幅を利かせていた。下関発長門市行き842レ、D51692〔長〕。左は久留米発下関行き236M、クハ421-77ほか。

ユースで巡った鉄道旅 -1-

昨年末になりますが、地元の新聞で気になるニュースを見つけました。京都にある東山ユースホステルが廃業するという記事で、利用客の減少と建物の老朽化を理由に、40年の歴史を閉じると結んでいます。記事によると、現在、ユースホステルは258軒、会員数6万人、利用客は年間47万人ですが、ピークの昭和47年には585軒、会員63万人、利用客は340万人にも達していたと言います。

昭和47年といえば、ちょうど特派員の大学生時代と重なります。確かに、その当時、大学生の旅行と言えば、ユースホステルしか選択肢はありませんでした。休みともなれば、猫も杓子もユースを使った観光旅行、ユースはすぐ予約で満員になり、ハガキで申し込んでも断られることが多く、スケジュール作りに難渋したものです。

ユースが満員だったり、近くになかった場合、止むを得ず駅前旅館に泊まったこともありますが、高い、汚い、まずいで、いい印象は全くありません。片やユースは、一泊二食で公営450円、民営550円という、考えられないような破格の宿泊料ながら、一部を除いては、設備・食事とも十分に満足がいくものでした。

学生時代といえば、全泊夜行という猛者もいましたが、特派員は体力的な自信がなく、夜行は最大でも連続3泊までとし、その間は必ずユースに泊まるようにしていました。

思い返せば、高校生から始まって社会人に至るまで、実に多くのユースホステルを利用したものと改めて思います。北から南まで、夏も冬も、ユースを基地にして写しまくった若き日々を、写真とともに少し思い返してみましょう。

ユースに一泊するたびに会員証にスタンプが押される。今も大事に残している会員証を見ると115泊していることが分かった。100泊記念にもらえるバッジも大事に残している。カメラは、その当時の愛機、アサヒペンタックスSV

阪急202の初期写真、また発見

御大が発表されてからの後出しで恐縮ですが、こちらにも阪急202号の初期の写真がありました。こちらは、大阪の古老ファンのアルバムから複写させてもらった中にありました。
やぐらを組んだ上に宙に浮いた運転台、側扉もなく、どうやって乗務員は出入りしていたのでしょうか。
出自は、初代202の機器を利用しての昭和2年川崎兵庫製、昭和17年に、関さんの絵に見られるスタイルに改造されたようです。その後、昭和36年に作業員室を増設(関さん言うところの避難室)され、昭和43年の昇圧時には、作業員室が車体の半分近くまで拡張されました。その間に、3202、4202と改番されています。
末期は、昭和49年京都線に転属、昭和52年廃車とピク阪急特集には記載されており、関さんの記述とは異なります。

残った18きっぷで福知山行き

準特急さん言われるところの”老春18きっぷ”、今回の冬期間は、従来より10日間短い30日間の通用となり、1月10日で終了しました。使われた皆さんも使い切るのに苦心されたことと思います。私も、気がつけば一片が残ってしまい、終了間際に、雪の天気予報に誘われて、福知山を訪れました。
すでに、アナウンスされているように、3月12日のダイヤ改正で、山陰本線、福知山線の特急ネットワークに大きな変更があります。要点は、列車体系の見直し、愛称名の変更・集約、新型車両287系の投入で、昨年から、機会を見つけては、ぶんしゅうさんらと撮影に出かけてはいますが、雪の中での撮影は、これが最後かも知れません。

最初に訪れたのは、上川口駅。福知山寄りに1キロほど戻った第一十二踏切周辺は、以前から何回か訪れたところで、やや築堤になったカーブがある。ここだと、京都発、大阪発の両方の特急が通り、効率もよく、自分としては気に入っている。降雪も止んで、、晴れてきた。背後の形のいい山も姿を見せた。「こうのとり」になる「北近畿」も国鉄色が雪によく映えている。通常は4両が基本編成だが、まだ正月の増結期間で、増結2両ユニットを組み込んだ6両編成だった。

福知山電車区の183系は104両あり、すべて485系からの直流化改造である。3つのグループに分かれ、JR西日本色で全室グリーンありの4両編成がA編成、国鉄色で半室グリーンつきの4両編成がB編成、JR西日本色でグリーンなしの3両編成がC編成で、これに増結用の2両ユニットが加わる。写真の「北近畿」は、C+A編成となる。新型車両287系の投入により、183系の約半数が置き換えられるという。愛称名も変更・集約化され、新大阪発着はすべて「こうのとり」に、京都発着も「きのさき」「はしだて」「まいづる」になり、「文殊」「たんば」「タンゴエクスプローラー」「タンゴディスカバリー」は消える。調子の悪かった北近畿タンゴ鉄道の車両は、JR線への乗り入れがなくなる。

普通列車も約1時間ヘッドでやってくる。すっかり223系が多くなったが、どっこい、113系、115系も健在だ。特異なスタイルでカーブを曲がってきたのは、クモハ1146123+クモハ1156510のR1編成、以前は115系2両編成も多くいたが、他区へ転属してしまい、福知山に残る115系はこの1編成のみ、切妻、2丁パンタという、本形式でしか見られないスタイルだ。

山陰本線、福知山線の特急ネットワークは「北近畿ビッグXネットワーク」と呼ばれ、福知山駅で、京都方、大阪方、城崎温泉方、天橋立方の4方向から来た特急が福知山駅の同一ホームで乗り換えができるように、ダイヤが組まれている。特急先頭車にもネットワークを意匠化した大きなステッカーも貼られている。時刻表上では、わずかの時間、福知山駅のホームに4本の特急が並ぶ時間もある。実際は編成に長短があったり、延着があったりで、うまく4本の顔が並ぶのは難しいが、3本なら日常的に見られる。

初撮りは、住吉詣で

新年のご祝詞を申し上げます。

さて、正月も3日になりますと、足は、自然と阪堺電車の住吉鳥居前へと向かいます。正月の臨時ダイヤで大増発された電車と、初詣客を絡めて撮るのです。去年と同じ撮り始めとなりました。

かつては乙訓老人が、住吉詣でを正月の日課にされていたことは有名な話です。今は、体力・気力の衰えから自重されているようですが、現地へ行けば、老人の気持ちはよく理解できます。

とにかく次から次と電車がやってきて、路面電車ファンでなくても、圧倒されます。初詣客もついつい写しています。

電車はどれも満員、普段は車ばかりに乗っている家族連れや若者も、初詣ばかりは、路面電車に乗り込みます。路面電車がこれほどまぶしく、頼もしく思えるのも、正月の阪堺電車ならではです。

定期的に一般運用に就く電車としては日本最古と言われるモ161形も大活躍。リバイバルカラー、雲形カラーなど、さまざまな塗色も楽しめる。

住吉交差点に立つと、四方から次つぎに電車が来る。豪快なクロッシング音を響かせて、昭和初期生まれの古豪が行き交う。今年は阪堺百周年の年でもある。

車内に注目のポスターが。今月15日から、阪堺は全線200円に値下げされる。現在は、大阪市内、堺市内のみ乗車が200円、両市をまたがると(大和川を越えると)290円だが、特に堺市内での乗客減が著しく、堺市の支援を受けて、値下げされることになった。昨年12月には、通勤定期も値下げされており、このデフレ化現象、乗客増につながるのか注目である。

撮り納めは、雪の八瀬で

今年最後の日、京都は朝から雪が降り続き、数年ぶりの積雪となりました。
雪を見ると、居ても立ってもいられないのは、この歳になっても変わりません。はやる心を抑えながら、午後から叡山電鉄の八瀬比叡山口まで出かけました。約20センチ、しばらく経験したことがないような積雪です。
八瀬比叡山口駅では、四季を通じて狙ってきたシーンがあります。
ホームから電車の入構を見ると、カーブした大屋根の向こうに、四季の光景が額絵のように広がます。桜、新緑、紅葉と、四季のテーマをとらえることができたものの、雪だけは、何回行っても空振りに終わっていましたが、今日ようやく、それが叶いました。

大屋根の向こうは白銀の世界だった。こんな時は、原色のエンジ・クリームの車両が似合うが、今やラッシュ用で、車庫に休んでいた。

の一年、まぁ、よく出掛けて写しました。好き勝手に行けるのも、心身ともに健康であるからこそ、この環境に感謝しながら、来たる年の飛躍を誓うのでした。
皆さま、よき年をお迎えください。

489を流す

先週末のことになりますが、久しぶりに489系ボンネット編成が東海道線に姿を見せました。修学旅行の団体列車として金沢~大阪間を走ったものです。大阪行きの回送は、ぶんしゅうさんと山崎で待ち受けようとしていたところ、ダイヤを読み違えで寸前のところでアウト! 戻りの金沢行きを日没後の山崎駅で辛うじて写すことができました。

金沢総合車両所の489系ボンネット編成は、ことし3月改正で最後の定期運用「能登」から離脱しましたが、残った1編成は、特急の代走をしたり、団体列車で東京・大阪・京都へも来たり、予想外の活躍を続けています。
「臨時」表示ではありますが、ボンネットの姿、いいものです。自分自身が鉄道に目覚めた頃から走っている、50年間続くスタイルを見ると、つい鉄道少年だった時代のことを思い返したりします。
今まで489系ボンネット編成を、好んで撮りに行きましたが、時々、流し撮りをして楽しんでいます。流すことによってボンネット部がより強調され、DT32系台車の上に大きな車体が乗って、下回りがスコンと透けて見えるのが大好きです。
もちろんすべて成功するわけではなく、目も当てられない写真のほうが多いのですが、それだけに決まった時は快感です。撮りためた中からいくつかを紹介しましょう。

流し撮りの基本は、数を稼ぐことから始まる。一日10数往復も「雷鳥」が運転されていた時代、居住地近くの山崎~長岡京間には、流し撮りに適した真横から狙える区間がいくつかあり、よく自転車に乗って行ったものだ。「雷鳥」編成には、スカート部に切り欠きがあり、美観を損ねているが、真横なら、それも気にならない。この写真は、乗務員ドア付近は確かに止まっているが、アタマは流れてしまっている。斜めから撮る場合、止まるのは一点だけで、それをアタマに持ってくるのはなかなか難しい。

薄暮時に「しらさぎ」を流し撮りをする。露出の厳しい時間帯だけに、その低速シャッターがちょうど流し撮りに使える。北陸本線田村付近、バックは琵琶湖岸であり、空で抜くこともできる。当時、「しらさぎ」もボンネットだった。しかも「雷鳥」と違って、連結器カバーも付いたオリジナルのボンネットだ。前照灯を輝かせ、夕闇迫る湖東路を名古屋へ急ぐ姿である。

「能登」の廃止後も、今年の春は波動用として、ボンネットは、しばしば京都・大阪へ顔を見せた。ところが、ヘッドマークは良くて「臨時」、下手をすると、マークなしの蛍光灯むき出しの姿で、絵にならないこと夥しく、正面勝ちの撮影では全くサマにならない。そんな時、サイドからの流し撮りは有効な方法である。山崎付近でバックに緑を入れ、国鉄色が引き立つようにした。

ここで、流し撮りの方法をひとつ‥。カメラの流し方は、巷のハウツウどおり、腰を基点にして、上半身を振る抜く、野球のスイングと同じだ。つぎにシャッター速度だが、上ると成功率は高まるが、バックが流れない。私としては、確実に決めたいときは1/125S、成功率は低くなるがバックをより流したい場合は1/60S以下としている。それと、連続シャッターを使用する場合、高速ではなく、低速を選択している。高速連写だと、ほとんど幕が下りたままでファインダー視野から対象物が確認できないが、低速だと、幕の開閉の間にしっかり対象を眼で追うことができる。この春も、琵琶湖をバックに1/125Sで真横の編成を抜いてみた。

追憶の九州 一人旅 (4)

大畑再訪

「ゲキ☆ヤス土日きっぷ」を使った九州の旅も終盤となります。日豊本線で485系を撮ったあとは、肥薩線の山線区間の再訪とします。隼人から乗る特急「はやとの風」は、日曜日とあって自由席の確保が心配でしたが、案に相違してガラガラ、木を多用した車内の設備とあいまって快適な列車の旅となりました。
途中、明治の駅舎としてブレイク中の嘉例川駅に停車すると、すごい人出に迎えられます。ところが、駅前を見ると自家用車で満杯、何のことはない、鉄道を一切利用せず、鉄道の名所を車で訪れる現実に、鉄道ブームの断片を見た思いでした。終着の吉松駅に着いて、向かいのホームの「しんぺい」に接続1分間で連絡、いよいよ肥薩線の山線区間に入って行きます。
平成16年の九州新幹線の開業時に生まれた観光列車「しんぺい」「いさぶろう」は吉松~人吉間に2往復、上りを「しんぺい」、下りを「いさぶろう」と呼びます。指定券があれば乗れる普通列車で、絶景ポイントでは停車・徐行、車載カメラからの展望ビデオの放映、真幸、矢岳、大畑の各駅では10分余りの停車、駅では地元の特産品販売、そして制服の似合うアテンダントの甲斐甲斐しい接客と、観光列車らしいサービスがたっぷり。
大畑も40年ぶりの再訪となりましたが、以前に大畑の情景に惚れ込んだTさんから、「大畑は木が茂ってあきまへんで」と聞かされていました。確かに、蒸機の時代と比べると、大畑ループは車両を超す草木が茂っていて見通しが利きません。名声を博した撮影地が最近はすっかり写せなくなったとよく聞きます。それは、人工物の構築より、むしろ草木の繁茂など自然の変化によるものが多いようです。
変化した車窓と、観光地化した山線に、かつての大畑を訪れた時の感動がなつかしく甦ってきました。

スイッチバックして大畑駅に進入する「しんぺい」。大畑駅の配線は昔と変化なく、通過のできないスイッチバック配線は、昔のままだった。

大畑駅で10分停車する「しんぺい」。キハ47、140の3両編成で、古代漆色と呼ばれるエンジのカラーが青空によく映える。

大畑ループを行く。歳月は自然も変えてしまった。本来なら駅までも見渡せる地点だが、見通しはほとんど利かない。

ループ線の矢岳寄りのカーブを登って行く1121レ、爆煙を上げるD51。大畑で迎える朝の光景は、蒸機の良さをしみじみと感じた。当時の草木の茂り方はこんなものだった。

 

1121レとは、門司港発、鹿児島本線・肥薩線・吉都線経由の都城行きの夜行鈍行だ。当時、九州にまだ多く走っていた夜行鈍行の一本。何度もお世話になった列車で、列車番号は変わっているが、戦前から走っている列車だった。冬の朝、ループ線を上がってくる1121レ、南九州とは言え、さすがに寒い。煙を編成全体に纏わりつかせながら、ループ線を上がってくる。煙の軌跡が、そのままループ線の形になって残っていた。

大畑駅で発車を待つD51の牽く混合列車。重装備のD51が先頭、わずか1両の客車は、本日は貴重なダブルルーフのスハフ32、その後に長大な貨車編成が続き、しんがりをまたD51が務める。

戻りとなる都城発門司港行き1122レが深夜の大畑駅に停車する。車内は1121レよりさらに空いていて、1両にほんの数人の乗客だった。D51と客車から洩れる光が、駅構内をほのかに照らす。これほど夜行列車の旅情があふれた列車もない。1121レ、1122レは昭和47年3月改正で消えた。

追憶の九州 一人旅 (3)

想定外の大淀川へ

九州で使用した切符は、前述のように、土日2日間、九州内の新幹線・特急乗り放題という「ゲキ☆ヤス土日きっぷ」でした。土日は特急に乗りまくり、座席車の夜行特急では唯一となった「ドリームにちりん」にも乗って、久しぶりの夜行体験と宿泊費節減を画策していました。
ところが、鳥栖から乗った「リレーつばめ」の車内の揺れ・室温のせいで、次第に体調が悪くなり、とても夜行に乗り通す体力・気力がなくなってしまいました。急遽、予定を変更して宿泊することにし、深夜22時過ぎ、宮崎駅に到着しました。
ホテルでゆっくり眠った翌朝は体調も戻り、未乗車区間の宮崎空港線の乗車までの約一時間を、当初は予定にはなかった大淀川河畔の撮影に当てることにしました。

ホテルを出て、宮崎県庁の前を通って大淀川河畔に到着する。川の流れは変わらないものの、マンションなどの大形の建築物が林立し、両岸の光景はすっかり変わってしまった。かつて、宮崎ではいちばんブランド力のあったホテルもあったはずだが、代替わりして名前が変わっている。下掲の写真とほぼ同じ、橋梁と並行する橘橋への階段から、813系を撮影する。シンボルのフェニックスに樹勢が衰えたせいか、それとも背後の高層建物のせいか、南国宮崎の表現としては、いささか弱かった。

現在の大淀川での注目列車は、来年3月の九州新幹線の全通で、一部の撤退が予想される485系だろう。九州の485系は、大分車両センターに主に3両編成が、鹿児島総合車両所に主に5両編成があり、「ひゅうが」「にちりん」「きりしま」に運用されるほか、この写真のように、ホームライナーにも使用されている。例によってド派手な塗色であるが、実際見るとそれほど違和感もない。赤・クリームの国鉄色が1編成あり、つい先ごろもう1編成も国鉄色に戻され、この日の午後には、国鉄色同士の交換を見ることができた。

40年前の大淀川橋梁、この近くにユースホステルが3軒あって、早めに起きて朝食前に散歩がてら河畔に行き、当時から定番であった、フェニックスを入れて、C57の牽く列車を何度も狙ったものだ。橋梁は、南北にあるため、朝夕のシルエット撮影には格好の撮影地であったが、何度行っても雨が曇天だった。ようやく果たせたのは、大学も終わりに近い4年の冬休みだった。

大淀川のある宮崎~南宮崎間は、区間列車もあって、列車本数の多いところであった。気動車列車もあり、このような、キハユニ16を先頭にしたキハ20×3の4両編成もあった。当時でも、電気式気動車をルーツとする湘南顔の気動車はかなり珍しかった。キハユニ16は、もとキハ44100で、運転台なしの中間車キハ44200を挟んだ3両編成となり、蒸機ばっかりの九州に初めて配属された。九州の無煙化を実現した車両であり、記念すべき車両の唯一の残党だった。