梅雨の晴れ間は 近場で撮る 〈3〉

嵐電で夕景を

ようやく梅雨らしい天気になったが、“晴れ間”シリーズ、まだ続けよう。

夏至を中心にした、この時期、太陽はもっとも北寄りの軌道を通る。太陽の角度を生かして、ほかの季節では得られない写真も撮ってみたいと思う。

少し前、京都の鉄道写真家の重鎮、Kさんと神戸で話をする機会があった。“ワシは、いつも太陽の角度が最適になる季節・時間帯を選んで撮影に行った”と力説されていた。最近のデジカメでは、逆光も苦にならないが、フィルムカメラの時代では、順光で光がキレイに回り込む状態を探したものだ。

この思いを持って、最近よく通っているのが、嵐電(京福電鉄嵐山線)だ。ほぼ、京都の東西を結ぶ嵐電は、通常は南側から陽が射すが、この時期の朝夕に限っては、北側から陽が射し込み、区間によっては、日没直前のギラリや、北側の車体側面の輝きを狙うことがてきる。

おまけに、10分ヘッドで運転しているから、限られた時間帯の微妙な光線下で何度も撮ることができる。

ただ、1990年以降に更新製造された正面二枚窓、額縁スタイルのモボ611系・モボ2001形や、レトロ調電車のモボ21形はどうも好きになれない。しかも、“京紫”の一色化が進行している。やはり、嵐電のオリジナルスタイルの面影をとどめる、モボ101・301形が、ここでは好ましい。しかし、嵐電総数28両のうち、当該車は7両だけで、これらの形式にこだわると遭遇チャンスは意外と巡ってこない。130505_106syこの時期の好適例は、車折神社駅だ。真横に車折神社があり、いい雰囲気の駅だ。線路はほぼ東西だから、この時期のみ、写真のように、南側にある嵐山方面行きホームが斜光線に包まれ、ホームで待つ乗客たちを優しく照らし出す。130522_172sysy車折神社駅から見て、背後の愛宕山の右に陽が沈むのも、この時期だけ。日没後の駅、わずかに空の明るさが残るトワイライトタイム。このような状態は、よく晴れた日の日没の20分後から30分後の約10分間に限定される。それだけに、本数の多い線区でないと、なかなか出会わない。130505_068sy有栖川駅、すぐ東側に神社があり、大木が茂っている。嵐電の線路は、それを切り裂くようにして、北西方面に伸びている。北西方面、ということは、この時期のみ、夕陽ギラリの狙える場所となる。西側の踏切のすき間から、真正面に向かってくる“パト電”の105号を待った。

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梅雨の晴れ間は 近場で撮る 〈2〉  

早起きしてSRC

夜の明けるのが早くなった。日の出時刻は4時台だ。だからこそ、この時期でしか撮れないものもある。私の近場では、東海道本線の夜行貨物電車「スーパーレールカーゴ(SRC)」(SUPER RAIL CARGO)が、その例だろう。長岡京・山崎付近では、4時55分の通過で、夏至を中心とした約1ヵ月間のみ走行中の撮影が可能だ。

SRCは、M250系16両編成で、東京貨物ターミナル~大阪・安治川口間に運転されるコンテナ輸送専用の貨物電車で、現在は、佐川急便専用の貸切輸送として運転されている。モーダルシフトの推進を目的として、2002年に登場した。130523_009sy朝は3時30分に起床、真っ暗ななかペダルを漕いで、山崎駅近くの高橋川踏切へ向かう。以前から著名な撮影地だが、少し前にフェンスが増設され、限定1名の撮影地となった。この時期は同じことを考える同業も多いから、一番乗りしないことには撮ることができない。

通過の1時間前に現地着、さすがに誰も来ていない。アウトカーブから正面を撮るから、シャッター速度は低くても大丈夫だが、最近のハイビームの前照灯はまともに露出を拾ってしまうので、オートで撮影はできない。何度も露出を確認し、マニュアルで撮影することにする。SAGAWAのシールを貼り付けたM250は、明けゆく山崎のカーブを高速で通り過ぎた。130603_07sysy別の日は、通称“名神クロス”へ向かった。ここは、キャパが十分にあるから直前でも大丈夫。SRCは、両端に電動車を2両ユニット、中間に付随車12両を連結、専用コンテナは、電動車に1個、付随車に2個積載できる。下りの場合、東京貨物ターミナル23時14分発、大阪・安治川口5時26分着で、所要時間は6時間余りで、かつての特急「こだま」より速い。

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梅雨の晴れ間は 近場で撮る 〈1〉

効率的に電機を撮影

梅雨に入ったはずなのに、梅雨前線が南に下がったままで、近畿地方は晴れの日が多い。こんな時は、近場の駅でチョイ撮りに限る。

私の場合、近場と言えば、JR京都線長岡京・山崎あたり。以前と比べると、面白味はめっきり薄らいだが、そこは天下の東海道本線、時間帯によっては、興味深い列車も通る。歳を重ねると、長時間の撮影は気力・体力が持続しない。短時間で効率よく撮影したい。以下、実際に5月31日、14時前から1時間30分で撮影した列車を挙げてみた。この間、電機として、EF65・66・81・210・510を撮影、最後には思わぬサプライズもあった。130531_02sy13時58分、長岡京駅。EF510の牽く日本海縦貫線回りの下り貨物が通過。ホームに着いて、ダイヤには載っていない貨物列車が、いきなりの通過、所定10時過ぎ通過の3092レの遅れと思われる。EF510のファーストナンバーだった。130531_07sy14時01分、本命の5087レが定時通過。赤ナンバープレートのEF652063の牽引。EF65PFの原色時代と比べると、地味な塗色になってしまったが、贅沢は言えない。3月の改正で、この区間では、一本になってしまった貴重なEF65PFだ。130531_11sy14時11分、5087レのすぐあと、空車のチキで編成された1881レが通過。これも珍しくなったEF66の0番台牽引だが、飾り帯が撤去され、弁当箱を載せて、なんとも締まりのない顔つきになった。

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雨も撮る 〈2〉

つぎは、「雨と路面電車」について写真を少々。

路面電車の場合、雨がプラスに作用するのは、道路の反射が期待できることだ。そして時として、人物も絡んだシーンとなると、よりフォトジェニックな瞬間に出会うこととなる。

IMG_0002sy_edited-1雨の札幌駅前に発着する札幌市電。連接車・連結車が投入され、輸送力の増強に躍起になっていた最盛期の時代だった。とくに、ほとんどの系統が発着する札幌駅前には、次つぎに市電がやって来る。この日は、DRFCの面々と、札幌から夜行急行「石北」に乗り合わせ、常紋へ行くことになっていた。夕方の札幌駅に着いたが、集合までにまだ時間がある。まずは、駅前の軒先で雨を避けながら、夕方のラッシュ時の光景を写し始めたのだった。(昭和44年9月)IMG_0011sy_edited-1昭和50年に廃止になった阪神国道線には、窓の大きな“金魚鉢”こと、71・201形がいたことで名高い。ただ、車体の塗色が地味なこともあって、昼間に撮って写真にしてしまうと、窓の大きさはよく伝わらない。なら、雨の夜、窓からこぼれる照明で、それを強調しよう。そう思って、雨の日を選んで、上甲子園まで訪れた。(昭和50年4月)IMG_0012syここからは、京都市電。まずは、わが同志社前。以前から、雨の日を狙っていた。なんとしても、女子学生を入れて自分好みの写真を撮りたいが、案外に同志社前は乗降が少ない。調べてみると、土曜日の昼は、女子部の中高生がいっせいに下校するため、いっときの女子学生ラッシュとなることがわかった。(昭和50年11月)

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雨も撮る 〈1〉

近畿地方は、例年になく早い梅雨入りとなった。

この10日間ほどは、夏を思わせる晴天続きで、毎日のように撮影に出かけたものだが、しばらくは籠りの生活が続きそうだ。“晴耕雨読”が信条の生活とあらば、雨は、外出・撮影意欲を喪失させてしまう気象条件だ。近距離なら、撮影を中止することも出来るが、長期の撮影旅行で雨に降られると、お手上げだ。撮影はあきらめて、“乗り鉄”で時間をつぶすことが多かった。

しかし、やっかいな雨も、写真の対象として見れば、雨による車体やその周辺の反射、また人物のカットなど、雨でしか表現できないこともある魅力的な気象とも言える。要は、雨にも決断する行動力だ。

過去、雨のなか、意欲的に(?)カメラを向けた、いくつかの写真を思い出とともに並べてみよう。IMG_0001sy_edited-1初めて訪れたウワサの函館本線上目名駅。昼間はまだ曇りで、撮影は順調に進んだが、下りのC62重連を撮った夕方から、空が一転掻き曇り、駅に着く頃には、土砂降りの雨になった。同業者も居ない、山間の駅で、一人心細くなってくる。ホームの軒先で雨を避けながら、乗車する列車を待った。写真からも、雨筋が分かるほどの豪雨だった。(昭和43年8月)IMG_0006sy_edited-1ところ変わって九州、愛用の夜行鈍行1121列車に乗って、早暁の肥薩線坂本駅に着いた。天気予報が当たって、しっぽり降りだ。川筋を歩いて撮影する計画も、あっさり断念、駅撮りと決め込む。やがて到着したC5748の牽く貨物列車は、通票の授受を終えると、慌ただしく発車して行った。列車全体が白煙に包まれて、雨にけぶる彼方へ向かっていった。(昭和46年12月)IMG_0004sy_edited-1こちらは、宮津線丹後山田駅(現・北近畿タンゴ鉄道野田川駅)。鉄道同好会の面々と、加悦鉄道へ行った日だった。朝、京都を出て、丹後山田に着く頃には、雨になってしまった。列車を降りて、加悦鉄道ホームへ向かうと、ちょうど乗車列車が発車しようとしていた。何気ない写真というか、気にも留めていなかった写真だが、客車のナンバーが読み取れるサイドから、人物を手前に置いた写真、何でも撮っておくべきだと思わせる写真だった。(昭和45年9月)IMG_0008sy雨の草津線貴生川駅にD51841の貨物列車が到着する。出迎えの駅員の影が、濡れたホームに映る。ローカル線の交換駅では、必ず見られた光景だが、雨がうまく演出してくれた。背後の跨線橋は今はなく、橋上駅が上を覆っている。駅全体がすっかり変わってしまった貴生川駅だった。(昭和47年6月)

 

江若鉄道ジオラマ、雄琴温泉で展示さる!

P1090428sy本日から「琵琶湖グランドホテル」で公開・展示された西村さん制作の江若鉄道ジオラマ浜大津・三井寺下ブロック。過去のスカイプラザ展示での感動が甦ってくる。車両もフルラインナップで展示、また江若鉄道関係の資料も閲覧できる。

以前に大津の86さんから報告のとおり、西村雅幸さん制作の江若鉄道ジオラマ浜大津・三井寺下ブロックが、「大津百町大博覧会」の旧大津市公会堂会場でメイン展示されました。多くの来場者が訪れ、去る4月14日に幕を閉じました。会場では、来場者が感想や思い出を書いて自由に貼り付けることができます。そのコメント数が、群を抜いて多かったのも、その人気ぶりが伺えました。

そして、この浜大津・三井寺下ブロックが、そっくりそのまま雄琴温泉「琵琶湖グランドホテル」で展示されることになり、当特派員も、さっそく本日朝の9時に同ホテルに参上し、様子を見てきました。

ことの発端は、クローバー会のtuuyanの高校時代の友人である、別の雄琴温泉の旅館業の方から、「琵琶湖グランドホテル」での展示を勧められたものです。同ホテルの社長さんは、江若鉄道沿線で生まれ育ち、江若鉄道には人一倍の思い出を持っておられ、しかも、鉄道模型にも造詣が深い方と、管理・展示していただく相手としては申し分ない方で、西村さんも、この申し入れには二つ返事で快諾。大津市公会堂での展示終了後、雄琴まで運搬、tuuyan・大津市歴史博物館の協力も得て設置完了し、本日の公開を迎えました。

期間を限定しない、“半永久”展示であり、今後多くの皆さんに江若鉄道を偲んでもらうことが出来るでしょう。ここでも、クローバー会のネットワーク・協力が発揮され、浜大津・三井寺下ブロックは最高の舞台に収まりました。

P1090423syホテルのロビー奥の土産店に展示された。土産店の営業中は自由に見学できる。閉店中でも、奥のガラス仕切りを通じてロビーから見学できる仕組み。管理としては、言うことがない。なお、ホテル内には、湖西線を走っていた「雷鳥」485系のプレートがさり気なく飾られるなど、鉄道好きの社長さんのこだわりが見える。

P1090420sy場所は雄琴温泉街の琵琶湖側、JR湖西線おごと温泉駅から歩いても15分程度、すぐ近くに江若鉄道の雄琴温泉駅もあった。展示場所としても、この上ない絶好のロケーションだ。tuuyan制作のトーマス9mmレイアウトもあり、子どもたちも大満足。

“なにわ”の赤バス、消える 〈4〉

C 130330_136sy夕方の南海難波駅前で、ただ一台ポツンと発車を待つ、赤バス「浪速西ループ」。「浪速東ループ」とは連続運行になっている。

駅と赤バス

“赤バス”ルートの経由地は、駅、区役所、病院が3点セットになって、複雑な運行ルートを形成していた。生活者重視、なかでも交通弱者の高齢者向けならではのルートだった。その中から、鉄道との出会いとして、駅と絡めた写真を並べて、“赤バス”の終わりとしたい。

さて、大阪市バスの今後の行く末だが、地下鉄事業とともに、交通局の民営化基本方針案が示されている。市バス132路線のうち、3月までの赤バスで26路線廃止、一般バスも2014年3月末には17路線を廃止し、89路線に集約したうえで事業を売却し、2014年4月から民間運行を開始する。地下鉄も2015年度から民営化するという、

大阪市交通局に、日本の公営交通としては、かつてない大変革が迫っている。

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“なにわ”の赤バス、消える 〈3〉

赤バスの車両

“なにわ”の赤バスは外国製である。一般の路線バスに、多数の外国製バスが在籍するのは、たいへん珍しい例だ。

2000年の赤バス運行開始時に、国内のバスメーカーでは適当な小型ノンステップバスが製造されていなかったため、外国製のバスが導入されたと言われている。

ひとつは、ボルボ関連会社で、スウェーデンのオムニノーバ社製造の「マルチライダー」。2000年の運行開始に備え20台、2002年の路線拡充時にさらに50台が導入された。

その後、オムニノーバ社が経営破綻したため、2005年の第三次路線拡充の際には、メルセデス・ベンツ・スプリンターをベースとするコミュニティバス仕様の「トランスポーター」が13台導入された。

国産バスに比べて高価な買い物だったが、故障が多く、保守する側は泣かされたという。

2012年には、2000年製赤バスが廃車となり、その代替として日野「ポンチョ」が赤バス14路線に導入される。赤バスとしては初めての国産車となった。車体の塗装は、一般路線車と同じデザインで帯のみが赤になった。

2社の外国製、1社の国産赤バスは、廃止時、酉島、住之江、長吉、鶴町、井高野の5車庫に配置されていた。

130208 (126)sy外国製の赤バス、これは、スウェーデン・オムニノーバー社製「マルチライダー」。「大正区役所前」付近130223_048syもうひとつの外国製赤バス、メルセデス・ベンツ社製「トランスポーター」。つりあがったライトが精悍な印象を与える。「淡路二丁目」付近B 130208 (30)sy赤バス廃車の代替として導入された国産車、日野自動車の「ポンチョ」。4月以降は、大阪市バスの一般車と同じ、クリーム・グリーンに塗り替えられ、旧赤バス系統などで引き続き使用されている。「鶴橋駅前」付近

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“なにわ”の赤バス、消える 〈2〉

A 130315_256sy塗装は正真正銘の赤、印刷用語で言う“金赤”である。外国製ともあいまって、真っ赤なバスは、ちょっと大阪離れした雰囲気を漂わせていた(加島駅前)。

赤バスのあゆみ

赤バスは、一般の路線バスではカバーしきれない、各区内の病院、駅、区役所などの公共施設をきめ細かく結んでいた。2000年に試験運行を開始。2002年に21路線で本格的な運行を開始した。

各区内で完結(一部例外あり)するルートだが、そのルートは公共施設を丹念に拾っていくため、複雑を極め、ループ、8の字、タブル8の字、なんでもありだった。運行は、交通局の外郭団体である、大阪運輸振興に委託していた。

運行時間は基本8時台から17時台、30分ヘッドが基本だが、45分ヘッドもある。その複雑なルートから、知らないものには、なかなか使いにくい乗り物でもあった。各区で完結するのも、市民の生活圏の実態からは乖離していた。運賃は100円均一、と言っても、乗客のほとんどは、敬老パスを持った高齢者だから、現金収入は知れている。

その後、中央ループ、西ループが廃止となり、廃止時には29路線が運行されていたが、乗客数の伸び悩みなどから、紆余曲折の末、3月31日で運行を終了した。

4月からは、目標乗客数を上回った天王寺、東淀川、平野区内の3路線が一般系統として存続したが、一般バスと同じ200円に値上げされている。それ以外についての廃止後の処置は各区に委ねられ、一部の区では独自にコミュニティバスを運行したり、タクシー代行を行っている区もある。

A 130322_50sy浪速区「浪速東ループ」。もっとも大阪らしい名所、通天閣を行く。外国からの観光客で賑わっている通天閣の下に乗り場がある。どの時間帯でも逆光になり、おまけに自動車に邪魔ばかりされるので、何度も通ったものだ(通天閣付近)。A 130330_115sy浪速区「浪速東ループ」。日本橋東一丁目から右折して、堺筋に入り、日本橋電気街の雑踏の中に入っていく赤バス。

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“半世紀前の電車特急”によせて

IMG_0002sytsurukame先輩の151系特急「第2富士」、たいへん興味深く拝見しました。新幹線開業前のこだま型のいちばん華やかな時代ですね。50年前とは思えない、あざやかなカラー発色には驚きました。

よく似た構図だと思って、ネガを探してみると、私も姫路駅で写した、こだま型がありました。ただし、私のはモノクロ、撮影年も、その翌年、東海道新幹線開業後の昭和40年で、新大阪発下関行き「しおじ」です。手前は、狭軌記録163km/hのチャンピオンマーク付きのクハ151-3です。「第2富士」は上りで、「しおじ」は下りですので、ホームは違いますが、上のテルハが同じで、姫路駅と分かります。

姫路駅も完全に高架化されてしまい、半世紀前の面影も全くなくなりましたね。

“なにわ”の赤バス、消える 〈1〉

「なんでバスやねん」の声が聞こえてそうだが、いま載せないと意味がない。

大阪市交通局のコミュニティバス、通称“赤バス”が、本日をもって廃止となった。大阪24区のすべて(一部は先行して廃止)に張り巡らされた膨大な路線網で、各区内の病院、区役所、駅などを結ぶ地域密着型のバス。それを一挙に廃止するとは、いかにも大阪市らしい荒療治だ。

3月31日廃止となれば、桜との組合せは微妙と思っていたが、急に暖かくなって例年より早い開花となった。そこで、最後の姿を収めに、昨日、一昨日と大阪市内を駆け巡った。御託は次回に回して、取り急ぎ桜のシーンをどうぞ。

130330_024sy昨日は、自宅から行きやすい阪急京都線の相川・上新庄をテリトリーとする、東淀川区の赤バスを狙ってみた。地下鉄井高野駅近くの神崎川沿いの桜は三分咲きと言ったところだが、車に邪魔もされず、まずは一発で収めることができた。130330_046sy今度は、神崎川南側の集合住宅に上ってみると、桜、川、バス、街並みと、きれいに収めることができた。真っ赤な車体が恰好のアクセントになっている。130330_049sy大阪には小さな公園が各所にあり、ほとんど桜がある。地下鉄だいどう豊里駅近くの公園も同様だった。フロントグリルのエンブレムをよく見て欲しい。なんと、スリーポインテッドスターのベンツ製バスである。130329_24sy同じ東淀川区でも、阪急淡路・崇禅寺、新大阪駅を経由するルートにも、ベンツ製の赤バスが使用されている。桜の名所、柴島浄水場の横を通り、淡路方面へ向かう。130329_15sy阪急崇禅寺駅横の踏切を渡り、淀川キリスト教病院へ向かう赤バス。同病院の新築移転に伴い、赤バスのルートも変更された。

 

京阪(旧)3000系を思う (5)

IMG_0004_edited-1IMG_0003▲▲ ▲五条~七条間、鴨川の対岸から眺めた3000系特急。その塗色が、鴨川沿いの景観によくマッチしていた。

鴨川沿いを走る七条~三条間も、昭和62年5月24日に地下化され、その景観が消えてしまう。

地上から地下への切替工事は、昨今の東急渋谷駅では、終電から始発までの数時間だったが、さすが20数年前では、このような離れ業はできず、地下線開業は24日午前8時となった。始発から午前8時まで伏見稲荷~三条間は運休となり、同区間は、京阪バス28台による代行運転に拠った。日曜日の早朝のため、代行予測は3300人で、バスで十分に運び切れる量だった。バスは師団街道、河原町通を経由した。

三条駅では7時55分発の祝賀列車で開業式・テープカットが行われた。使用されたのは、もちろん3000系で、しかも滅多に先頭に出ることのないファーストナンバー3001号車がデコレーション付きの先頭車となった。しかも、3001を含むユニットは3連だが、わざわざ別のユニットから1両を編入した4連に組み替えられた。

この編成は、早朝から東福寺駅で待機、地下線への切替完了後、上り一番の回送電車として、三条に7時48分着、折り返し7時55分発の下り一番の祝賀電車となった。

平成元年には出町柳まで延伸されるが、この時に8000系が登場することになり、3000系が特急を独占するのも、あと2年半だった。

3000系のいちばん晴れやかなシーンだったに違いない。

IMG_0001地下線への切替工事の完了まで、東福寺駅に待機する3000系4連の祝賀電車。大阪方の3001に、記念のデコレーションが取り付けられた。開業前後のダイヤ・運用を故・澤村さんから電話で教えてもらったのも思い出だ。IMG_0002三条駅2番ホームで行われた、京都地下線のテープカット。関係者のみが乗車できる祝賀電車で、七条で全員が下車後、回送となった。なお、営業一番電車は三条8時発の淀屋橋行き普通の6000系で、私はこれに乗って初の地下線乗車を行った。

 

京阪(旧)3000系を思う (4)

京の風情を車窓に見て

最後の3000系が、臨時快速特急として、23日から土日に片道一本のみ走っている。ダブルデッカーを抜いた懐かしの7両編成を撮るべく、昨日、祇園四条から中書島を目指した。天気もいい、順光で撮れるはずだ。ところが、途中で車内放送とともに緊急停車。なんでも、寝屋川市付近で停電が発生し、全線で運転見合わせとのこと。結局、電車の中で1時間余り待たされた挙句、ようやく中書島に到着した。

何本かの上り電車が通り、つぎは1時間半遅れの3000系のはずだ。駅西方の遮断機が下りた。カーブの向こうから、その顔が見えた。っとそこに、スーッと手前ホームに下り電車が入線。無情にも下り電車の窓越しに3000系は通り過ぎるのだった。もう、計ったような、完璧なまでの被りだった。運に見放された一日だった。

閑話休題。3000系から見る鴨川沿いの車窓風景ほど、風情を感じさせるものはなかった。都市部での鉄道沿線では、稀有な例だと思う。それは、京都特有の行事でもあり、桜や雪と言った季節の移ろいでもあった。

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年の始めは、正月三が日の大増発から始まる。特急も10分ヘッドとなる。この時の目当ては、鳩マークをつけた、かつての特急車1900系だが、3000系もこれに伍して、超満員の客を運ぶ。四条駅のホームから吐き出された乗客は、たちまち、踏切を埋め尽くし、遮断機がが上がるや否や、いっせいに八坂神社を目指す。

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 いっぽう、夏は祇園祭だ。中でも、短時間に客が集中する16日の宵山の人出は圧巻だ。四条通は祇園から四条堀川まで、歩行者天国となり、広い四条大橋も人、人で埋まってしまう。3000系は人波をかき分けるようにして、四条通を渡る。

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京阪(旧)3000系を思う (3)

鴨の流れに沿って

3000系の走る風景を思い起こすと、それは人により、さまざまだろうが、私はやはり鴨川沿いのシーンを忘れることが出来ない。地下線が開通する昭和62年まで見られた、3000系特急が15分ヘッドで上下する全盛時代だった。

赤・黄の派手な3000系の塗色は、鴨川沿いの景観にホントによく似合っていた。車窓から見る鴨川の水は清く、堤の木々は、桜から新緑へ、紅葉へと変化し、雪の降る時もあった。京都らしく、季節の行事に3000が出会うこともあった。主要な通りとは平面で交差し、3000系がより身近に感じることが出来た。

そんな、鴨川と3000のコラボをいくつか綴ってみた。

IMG_0037鴨の流れを見て。 鴨川沿いに育った私から見ると、下水が未整備だった昔の鴨川は、友禅流しで川が赤く染まり、中州もそのまま、ホントに汚い川だった。昭和40年代ごろから急速にキレイに整備された。現在では、生態系の保持のため、中洲を残したまま整備しているが、この時代は、ブルドーザで徹底的に均して、川幅を広げる方式だった

IMG_0005四条通を渡る3000系と市電1600形。四条線が廃止となる昭和47年まで見られた平面クロス。京都第一の繁華な通りを、遮断装置もなく、係員の笛ひとつで電車を通していたとは、今となっては信じられないような保安方式だった

IMG_0045sw始発の三条駅に停車中の3000系。狭い2番ホームが特急用のホーム。6連と7連では停車位置が違う。左が7連でホーム端ギリギリ、右は6連のため、先頭は1両分後退した位置に停車している

IMG_0031四条通を横断する3000系。乙訓老人の“東華菜館”屋上から撮影の京阪特急は余りにも有名だが、私は、その向かいの“いずもや”へ、撮影を兼ねて食事に行った。背後の南座も、その後に改築される

IMG_0040祇園側から見た四条踏切、この頃は、市電が廃止後のため、遮断機も設けられた。向こうに、その東華菜館、阪急百貨店、高島屋が連なる

IMG_0042四条河原町の高島屋の屋上からも、四条踏切を行く3000系が望めた。新緑の頃には、東山が手に取るように近くに見える

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梅田貨物駅 138年の歴史終える

明日、16日はJRのダイヤ改正日、その前日となると、何かと心が騒ぎ出す。“葬式鉄”など絶対にしないと言い張っておきながら、その日となると、気もそぞろ、足はどこかへ向いてしまう。

関西圏では、183系電車の撤退が話題の中心だろうが、いよいよと言うか、やっとと言うか、梅田貨物駅の廃止も、地味ながらも大きな変更点だ。本日は梅田貨物駅の最後の記録に当てることにした。

130315_026梅田駅は17ヘクタールあり、ピーク時の貨物扱いは年間360万トンあったが、最近では114万トン/年まで減っているという。2年掛けて更地にされて売却されるというが、その利用法は百出されて、いまだ結論が出ていない

梅田の高層ビルから見下ろすと、そこだけ時間が止まったように、錆付いた梅田貨物駅の構内が広がっている。

その歴史は古い。明治7(1874)年、大阪駅の貨物取扱所として開設、昭和3(1928)年に、大阪駅から分離、貨物専用の梅田駅が誕生する。国鉄借金返済のため、国鉄分割民営化時に売却することが決まったものの、貨物拠点の移転先をめぐって紛糾し、なかなか進捗しなかったが、結局、吹田操車場跡地の吹田貨物ターミナル、百済貨物駅に分散移転することになり、明日16日から、この2駅での業務を開始することになった。梅田貨物駅そのものは、今月末まで営業するようだが、貨物列車の発着は本日が最終日となった。

130315_141「さようなら138年間ありがとう」の記念の看板が取り付けられた。138年とは、明治7年の大阪駅時代からの起算

130315_033ss入換はDE10の1500番代が担当、懐かしい突放の作業も見せてくれる

130315_059

成18年には、修繕施設などのあった東側部分が先に売却され、跡地には4棟の高層ビルが建ち、“グランフロント大阪”として来月、オープンする

130315_083西側に新大阪と大阪環状線を結ぶ短絡線(東海道支線)がある。「はるか」「くろしお」の通り道。地下地下線化、新駅設置の計画がある

130315_276貨物駅を印象付ける二つのドーム屋根、二本の線路がさらに手前まで伸びていた

130315_300陽が暮れて、背後の梅田のビル街が輝きを増すとともに、貨物駅は深く沈み、最後の貨物の発着を迎える

 

 

京阪(旧)3000系を思う 〈2〉

IMG_0017昭和46年8月ダイヤ改正で、昼間時のダイヤパターンが20分ヘッドから15分ヘッドになった。特急も運用数が増加することから、新造されたのが3000系だ。当初は、従来の1900系特急との混結も可能な設計になっていた(大和田)。

IMG_0020昭和46年8月ダイヤ改正を前に、同年7月1日から写真の3501編成ほか6両編成2本の冷房つきの3000系特急の運転を開始したと、沖中忠順編著JTBパブリッシング「京阪特急」には書かれていた(中書島)

3000系特急で通勤の日々

(旧)3000系は、今でこそ趣味としての対象だが、初期の時代は、ユーザーとして乗客の立場だった。

昭和51年4月、大阪の職場に転勤になった私は、京阪三条から北浜まで3000系特急で通うことになった。学生・社会人を通じて、初めて“郊外電車”に定期券で乗れる。本格的なサラリーマンになった気分だった。当時、朝ラッシュ時、特急は20分ヘッドで、三条8時5分発特急に乗ると、同50分ごろに北浜着、歩いてすぐの会社に9時始業前に着く絶妙のダイヤだった。

もちろん、“七条を出ますと、つぎは大阪の京橋まで止まりません”の京都・大阪間無停車の時代で、途中駅で、通勤客を満載した急行・準急を退避させ、特急が悠々と通過して行くのを、ゆったりした座席から眺めるのは、ずいぶん偉い人間になったような優越感さえ感じた。着席するためには、その前の特急の発車直後に並ばなければならないが、当時、社会問題化していた通勤地獄とは無縁の別世界で、まさにエリート特急、ステータス電車だった。

ところが、その2年後、職場が堺筋本町へ移転してしまい、三条8時5分発では始業に間に合わず、その前の三条7時45分発に乗らないと間に合わなくなった。しかも、その頃、住まいは山科になっていたので、朝、道路渋滞に巻き込まれる京津線ダイヤも加味すると、毎朝6時前後の起床を強いられた。

帰宅が遅く、朝の弱い身にはさすがに堪える。朝の京阪特急は、恰好の寝不足解消の場となっていく。七条を過ぎ、車内アナウンスが流れる頃から、すっかり白河夜船、とくに、窓側に座って窓框にアタマを載せると、ちょうどいい枕代わりになり、約30分はぐっすり熟睡できた。

その後、昭和55年3月、守口市~萱島間複々線化によるダイヤ改正で、、ラッシュ時に、特急に抜かれない急行が出現した。急行だと、直前乗車でも座れるから、自宅を出る時刻を多少遅らせることができる。結局、朝の3000系通勤は、4年あまりで終わり、急行乗車に切り替えた。しかし、帰宅時の3000系特急の利用は、いまの阪急沿線に転居する昭和58年まで続くことになる。

帰宅時は、車内で寝ることもあったが、だいたい新聞か本を読んでいた。読み終わった新聞は、下車まで前の座席カバーの中に潜り込ませておくのがツウな3000系ユーザーの仕儀だった。

帰宅時の場合、北浜からの乗車でもまず座れた。テレビカーは混むので避けていたが、ただひとつ、タイガース戦の放映がある時は、歩いて始発の淀屋橋へ向かい、ひと電車遅らせて、テレビカーに乗り込み、小林繁が古巣巨人を相手に勝利するのに喝采を送ったものだ。

ところが、淀屋橋22時以降発になると、編成が分割されて、3両の一編成だけになってしまう。座席定員が一挙に半分になってしまうから、混むのは必至、運が悪いと、深夜の立ちっぱなし、という残酷な仕打ちが待ち受ける。さすがに、これは評判が良くなく、昭和62年に分割は中止されている。

また、昼間も仕事で大阪・京都間を3000系を利用することがあった。とくに、昼間12~14時台は、たいへん空いている。大阪から乗車する場合、最後部はとくに顕著で、一車両、10人以下だった。前の転換シートをひっくり返し、ワンボックスを占有して、ゆっくり午睡を楽しんだものだった。

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複々線上をいく上り特急。淀屋橋9時発の特急には伝統の「びわこ連絡」の副標が取り付けられ、15分ヘッドの特急の中でも、ひとつ格上の感があった(野江)

IMG_0011_edited-1こちらは「ミシガン」副標つき。3000系は昭和47年7月に14両(二次車)、48年6月には一気に32両(三次車)が加わり、9編成58両となり、完全に1900系を置き換え、すべての特急運用を賄った。8000系登場まで、3000系特急の時代が16年間続くことになる(四条)。   

京阪(旧)3000系を思う 〈1〉

京阪(旧)3000系の通常の営業運転が去る10日で終了した。沿線は、大変な人出だったらしいが、私はとうとう出動することはなかった。この3月、東西都市圏の鉄道ネタは、東は東急渋谷駅、西は京阪(旧)3000系が抜きん出ていたようだ。

このあとの(旧)3000系の運転は、3月中に4日間のみ、中之島発出町柳行き臨時快速特急として運転される片道一本になる。

3000系の生い立ちを見ると、私のような団塊の世代の人生とオーバーラップして見える。そのデビューは、42年前の昭和46年のこと、ちょうど私が大学4年生の時で、まさに実社会にデビューする時期だった。以来、我々世代も、3000系も、必死になって社会を支えてきた。そして、我々世代が実社会から身を引くように、いま3000系も静かに役目を終えようとしている。

それだけに3000系の引退は、特段、電車に興味を示さない私にも感慨深いものがある。3000系が、京阪特急のすべてだった時代の思い出を綴ってみたい。

3000系見学会

以前の掲示板でも、どですかでんさんが書かれているように、鉄道同好会では、昭和46年6月に、新造・搬入直後の3000系の見学会を、守口車庫で行っている。「参加24名」と青信号22号の活動報告には書かれており、やはり、3000系デビューの人気は高かったようだ。

見学したのは、3002+3102+3502の一次車3両編成だった。

外観では、なんと言っても前面のパノラミックウィンドウが衝撃だった。私鉄車輌では、名鉄5500系、京王5000系といった名車も同様のスタイルだが、関西私鉄では初である。両端に寄ったライトで、オデコが散漫になりがちだが、それをステンレス製の幌枠がうまく引き締めている。

旧3000系の車内にも入って、初の全車クロスシートの座席や自動転換機構、壁面に目を見張った。車内で撮った、たった一枚の写真には、偶然だが、亡くなられた澤村さんが写っていた。

ここで写した編成写真は、先ごろ、送られてきた、「鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション京阪電気鉄道」の表紙と全く同じ構図の写真だ。撮影者は同好会関係者ではなく、古老の鉄道ファンだが、撮影日を見ると、見学会の前日になっていた。この本は乙訓老人のご厚意で、かなりの会員に献本されていると聞いているが、巻頭企画として書き下ろし担当したのが、クローバー会会員であるほか、本文には、“同志社大学鉄道同好会”の文字が黒々と誌面に躍っている。当会の55年の歴史が凝縮された、記念号でもある。

IMG_0004守口車庫で3002編成を見学した。搬入直後の姿で、編成全体が輝いていた

IMG_0001車内は京阪特急初のオールクロスシート、真っ白な座席カバーも新車らしいIMG_0002

車内を見学する会員たち。故澤村さんの顔も見える IMG_0003 この時は、あまり写真は撮らず、鳩マークを収納した写真を撮って終わっている

鉄道展「東北を旅して」開催中

 

本日から、佐竹さん鉄道展「東北を旅して」が、ひと・まち交流館京都(京都市下京区河原町五条下ル)で開催されています。

設営時間は午前9時からの午前中のみ、時間内の作業完了が心配されましたが、そこは、応援に駆けつけたクローバー会の少数精鋭たち。開場の5分前には滞りなく終了し、午後から来場者を迎えることが出来ました。

東北の復興、鉄道の復旧を願った、この催し、多彩な展示の中で、とくに感慨深いのは、青森市で行った写真展が、そのまま展示できたこと、青森展にもお見えになった方が来場され「青森の時を思い出しましたよ」と言われたように、1000キロ離れた青森の地で味わった感動を再び味わうことができました。

明日11日は震災2周年、“祈念の集い”が行われます。会期は17日(日)まで。皆さんのお越し、お待ちしています。P1090252

開場後、さっそく多くの来場者、和やかな交歓が見られたP1090247

模型運転は、東北ゆかりの車輌が揃ったP1090237

“乙訓老人”の電車薀蓄を、ありがたく拝聴する会員たち

 

春3月 会員イベントふたつ

佐竹さん鉄道展「東北を旅して」(その5)

被災した東北地方の一日も早い復興と、鉄道の復旧を願って、佐竹保雄さんが、折々に開催されてきた「東北を旅して」展も、5回目を迎えました。今回は、とくに昨年秋に青森市で開催の写真展「青森を走った汽車・電車」の再展示を行います。遠隔地の開催のために写真展を観覧できなかった会員の皆さんには、またとないチャンスです。また、震災2周年の3月11日(月)には、祈りの集いもあります。お越しをお待ちしています。

◎会期 3月11(日)~17日(日)11~17時 10日のみ13時開場  

◎会場 ひと・まち交流館京都 展示コーナー     ※入場無料                                                        (京都市下京区河原町五条下る東側、市バス 「河原町正面」前)

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 青森での写真をフルラインナップで展示

西村さん「昭和40年代の浜大津周辺模型」

これまた昨年秋、多くの来場者に共感を呼び起こした、西村雅幸さん制作の浜大津駅周辺のジオラマが、再び浜大津に帰ってきます。「大津百町大博覧会-博物館とまちなかで歴史探検!!」のテーマのもと、旧大津公会堂で開かれる展覧会に、“昭和40年代の浜大津周辺の復元模型”として再登場します。そのほかにも、浜大津周辺の写真・地図が出展されるとのことで、たいへん興味深そうな展覧会です。

◎会期 3月16日(土)~4月14日(日)9~17時  月曜・3月21日は休み

◎会場 旧大津公会堂3階(大津市浜大津1-4-1 京阪浜大津駅東)※入場無料121103 (24)

 ▲浜大津のかつての賑わいが再び見られる

巳年にちなんで -蛇草信号場で蒸機を撮る-

今年、2013年は巳年。少し遅れましたが、“巳”に因んで“蛇”にちなむ駅名の思い出を。調べてみると、“蛇”は、さすがに好まれないせいか、地名・駅名としては、あまり見られません。JRの駅では、大蛇(八戸線)、蛇田(仙石線)。有名なのは、その読みからしても、南蛇井(上信電鉄)でしょうか。

しかし、東大阪の城東貨物線には、かつて「蛇草(はぐさ)信号場」がありました。おおさか東線の開業に伴い、平成15年に廃止され、同信号場付近は、JR長瀬駅が設置されています。蛇草は、大字名の蛇草に因んだ名称ですが、種々の理由で、地名としての蛇草も、今では長瀬に吸収・改名されてしまい、人の記憶の中から、その名は消え去ろうとしています。

その蛇草信号場に、昭和43年、大学1年生の夏休みに撮影に行ったことがありました。もちろん未電化、DLの入線もわずかで、蒸機の天下でした。IMG_0001_edited-1

鶴橋で近鉄に乗り換え、俊徳道で下車、炎天下の道を歩いて、信号場に辿り着いた。構内は、上下2線の標準的な配線だ。さっそくD51144〔吹一〕の牽く2867レが来る。、標準的なD51だが、ナンバプレート位置が少し低い。後に続くコンテナ編成も、魚腹形台枠、コンテナの形状が現在とは違う。IMG_0002_edited-1

DD13197〔竜〕の牽く875レ、余りの暑さで、運転室の扉は開けっ放し。DLの入線は、この時代には竜華区のDD13のみ。回送を兼ねたものかもしれない。次位の蒸機はD52だった。

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875レを後部から見ると、この角度からD52であることがよく理解できる。D52142〔吹一〕、当時、吹一区には、2両のD52がいて、いずれも集煙装置を付けていた。ちょうど、ナメクジD5165〔吹一〕の牽く9164レと交換する。IMG_0005_edited-1

貨物は、一時間に上下各1本はあり、本数は稼げる。画一的な写真しか撮れないものの、夏空を邪魔するものは何もない。今から思うと、これが大阪の光景とは信じられない。877レはD51520〔吹一〕、ロッドも降りて、いい角度のD51だった。

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