いざ青森へ -1-

  ▲右のガラス張りが写真展会場のNOVITA、青森の中心部、人通りも多い

 ▲会場NOVITAの内部、右の壁面が展示スペース、外を行くバスもよく見える

 ▼会場への道のり、駅からまっすぐ5分、さくら野百貨店の向かい

青森写真展が目前に迫ってきました。昨日、準備作業も終わり、写真を梱包して青森へ発送を完了。あとは、11日の設営を待つだけです。私は例によっての極貧旅で青森へ向かいますが、今回は、震災後初めての東北入りともなりますので、被災地の様子も見て行きます。

青森展の盛り上げの一助になるかは分かりませんが、何回かの青森行きで撮った写真の中から、惜しくも選に洩れた?写真の数々を、ランダムにご覧いただきましょう。

日本一の機関区、青森区

青森県を初めて訪れたのは、昭和43年8月、大学一年生の時だった。当会の龍ケ森での狂化合宿のあと、北海道へ向かうため、青森駅に降りた時である。ところが、連絡船のことばかりが気掛かりで、青森駅では撮影どころではなかった。列車が青森に着くと、脱兎の如く連絡船通路を走って連絡船改札へ向かった。連絡船は定員制だから、混雑時は積み残しの可能性もあり、以後のスケジュールに狂いが生じてしまう。東京~北海道の旅客のほとんどが連絡船を利用する時代、それほど左様に連絡船の混雑は激しかった。

だから、青森でゆっくり撮影できたのは、北海道からの帰途時だった。昭和43年8月の時も、まず機関区へ向かった。東北本線完全電化の直前で、青森機関区の蒸機は65両、小樽築港、門司を押さえ、日本一の蒸機配置区だった。ところが、大規模機関区の例に洩れず、駅からは見えないぐらいに遠い。長旅で痛む足を引きずって、やっと区に到着した。

ただ、実態は、電化直前のため休車も多く、国鉄争議のため蒸機の整備も良くなく、形式写真の決めも撮れないままで、青森区の最盛期は過ぎていた。

早々に退散し、駅へ戻ると、青森駅構内改良工事のため、列車はすべて運休で、奥羽本線では、次駅の津軽新城からの特発で、代行バスでの移動となった。このため、長い間、青森~津軽新城間のみが未乗区間として残っていた。

 ▲この地区としては珍しい長工デフのD51281 「青森」の標示も見える

 ▲形式写真としては、これぐらいしか撮れなかった C6010

 ▲落書き機関車の典型、石灰で書いた落書きとアジビラ

 ▲梅小路蒸気機関車館でいまも保存中のC612も団結号になっていた

その中でもC6030は美しく整備されていた 小デフつきのC6030

 ▲ラウンドハウス内部から見ると、絶えずターンテーブルに乗る蒸機が見えた

 ▲北国らしく、扉つきのラウンドハウスだった。本州では比較的珍しい

青森写真展 着々(遅々?)進行中

クローバー会写真展in青森の開催まで、一週間を切りました。今春から始めた準備作業も、ギリギリになってから、やっとエンジン全開、得意?のラストスパートで、ようやく全容が見えてきました。

厳選された珠玉の作品は、16人から49点もの点数に。京都から1000kmも離れた青森というピンスポットなテーマにも関わらず、50年以上前のキハ41000から、2012年の新幹線「はやぶさ」まで、あらゆる年代の写真が集まりました。地震で突然廃止になった南部鉄道もちゃんとあります。この撮影年代の広がりは、さすがにクローバー会の懐の深さを示すものと言えます。

明日にはすべての準備作業を完了し、青森へ発送します。

一点一点丁寧にプリントされた写真は目を見張る美しさ。今回は額・マットは一体化した軽量既製品を使用し、準備・輸送の効率化を図った。また、以前から要望の高かった、作品リストなどのチラシも完備。

同志社校友会誌“The Doshisha Times”にも、ホームカミンクデーの案内とともに、写真展記事が掲載された

夏の思い出 総決算 -4-

京王調布駅の平面交差を見る

京王電鉄が調布駅付近で進めていた、地上線から地下線への線路の切替工事が去る8月19日に完了、国領、布田、調布の3駅が地下駅となった。なかでも京王線と相模原線のジャンクションである調布駅は、京王線下りと相模原線上り線が平面で交差する配線になっていたため、ダイヤ上のネックとなっていた。相模原線の上り列車は、調布駅の場内信号で開通待ちをすることが多かった。

京王線と相模原線の分岐駅として、電車の入線が絶えることのなかった地上時代の調布駅。撮影当日は、新宿で鉄道写真展を見学しようとしたが、最終日で閉場が早まりアウト。予定より早めに京王線に乗ったところ、今度は寝過ごしてしまった。また調布まで戻ったところ、陽は傾きかけて、平面交差を鈍く照らし出していた。

平面交差の構造は、阪急淡路駅とよく似ているが、淡路は、支線に当たる千里線は、4面すべてのホームに入線できる構造になっているが(下り方は3面のみ)、調布は支線に当たる相模原線は2面にしか入線できない。その分、規模としては、やや小ぶりな印象を持った。ただ、阪急に比べると、同時入線、同時発車が頻繁にあって、その際の両電車の接近ぶりは、極限に近いものがあり、ハラハラものだった。

夏の思い出 総決算 -3-

もうひとつの夏の思い出、と言っても、ただひとつ“外回り鉄”で行った首都圏の数日間のみだった。この時は、準特急さん、F本さんにも案内していただき、郊外も回ることができた。その前に、都内での用件が意外と早く終了した。暗くなるまで2時間はある。遠くへは行けない。こんな時に、すぐ行けるのが都電だ。

傾きかけた陽に急がされるように、終点の三ノ輪橋まで来た。以前、来た時には陽が落ちた黄昏時の光景が良かったので来たものの、期待の夕陽ギラリは、周囲の建物に阻まれて、完全にアテ外れ、陽の差し込む余地のないことが分かった。あわてて地図を取り出し、夕陽の差し込む西方向へ線路が伸び、カーブのある地点を探すと、4停留所先の「荒川七丁目」しかないことが分かった。

都電には乗らず、ただ一目散に歩いて、「荒川七丁目」まで向かうが、陽はどんどん落ちてきて、現地に着いた頃には沈み始めた。ギラリは諦めて、逆方向の夕陽バックに切り替えて、停留所から町屋方面を狙う。カーブして輝いたレールの向こうから次つぎ都電がやって来た。

 

 

陽が落ちてから隣の町屋駅前へ向かう。京成線、メトロが交差する、乗降の活発なところで、次つぎと来る都電から多くが降り、多くが乗って行く。都電が通り過ぎると、踏切を多くの人が横断する。東京のパワーを感じる一断面だった。

何気ない街並みに都電がうまく溶け込んでいる。沿線の住民も、さり気なく、日常の生活の中に都電が生きている。路面電車の魅力を感じる2時間だった。都内で思い立ったら行けるのが都電の魅力でもある。

夏の思い出 総決算 -2-

台湾の客車急行列車

この莒光號、客車列車だけあって、速くはない。停車駅も多く、特急(自強號・太魯閣)の待避も多く、所要時間は区間車(普通)と大して変わらない。以前は、急行に冷房があるだけで、普通との差別化ができていたが、普通電車がすべて冷房車になった今では、ほとんどメリットがない。

またこの列車、全車指定だが、満員の場合、無座(立ち席券)を買って乗車することになる。近距離ならもともと無座しか発売しない。日本なら、このような場合、遠慮して、席が空いていても立っているのが通常だと思うが、この地では、何の遠慮もなく空いた席にしっかり座っているので、あとから指定券を持って乗ると、先客を排除するのがまず仕事になる。しかも、車内検札は全くないので、区間車客が紛れて乗り込んでいるケースが相当あるように見受けられた。

莒光號を牽引するE200型だけでなく、同型車として、MGなしの貨物専用機E300型と、歯車比を変更して最高速度を130kmに引き上げた西部幹線の莒光號牽引用のE400型がある。名前に魅かれて下車した牡丹Mudanは、以前炭鉱地帯だった。いまは、ホッパー車を連ねたE300型の牽く重量貨物が通り過ぎて行った。

平渓線との分岐駅、三貂嶺Sandiaolingは、前回も書いたように、国鉄時代の保津峡か武田尾の趣きを持った駅であるが、この前後区間、勾配のため、写真のように貨物列車には補機が付く。駅員が親切なのは、どこも同じだが、ここは鉄道ファンの撮影も多いのだろう。駅員からはツウな回答が返ってきた。次の列車の通過時刻を尋ねると“タンキ、タンキ”と返ってくる。数分後、通過したのは、まさしくELの単機回送だった。補機の回送が多いのである

新烏日NewWurihiに到着する、台北発花蓮行き51次。上は、台湾高鉄(新幹線)の台中駅。列車の種別は莒光號であるが、ツアー専用の観光列車である。日本にも以前あった団体専用列車みたいな列車で、一般営業用の客車とは区分されたイラスト入りの客車が使用される。展望車風の客車や食堂車もあるようだ。

先週に2回目の台湾入りした際には、台北から西へ5駅目、鶯歌Yinggeへ行ってみた。この付近、日中は約20分ヘッドの8両編成の電車は、いずれも満員だ。桃園寄りにある陸橋へ行ってみる。鶯歌は、焼き物の街として知られ、陸橋付近も店が軒を連ね、日曜日とあって、多く買い物客が訪れているが、それにも増して、陸橋からの鉄道見物客の多さには驚く。家族連れ、老いも若きも、列車が来るまで待ち続ける。鉄道ブームまさに極まっている。

夏の思い出 総決算 -1-

気がつけば9月も下旬です。ここしばらくクローバー会会員とともに、鉄道誌への寄稿・校正作業に追われ、やっと終わったのが、一昨日の午前5時でした。

この間、ずっと家に籠ったままの生活が続き、外は暑いのに、撮影にはとんと熱くならないまま夏が終わってしまいました。

掲示板では役立たずの状態が続いていましたが、これまでの埋め合わせのため、少ない材料を駆使して、夏の報告、総ざらえです。

この夏、珍しく海外旅行が相次ぎました。と言っても、台湾ですが…。

ただ台湾は、本欄でも、準特急さん、ぶんしゅうさんはじめ、デカンショさん、ブキウギさんから、その良さを刷り込まれています。別の用務が発生し、急遽、台湾行きとなりましたが、用務の間に、しっかりカメラに収めてきました。

確かに今も、日本の国鉄時代の懐かしい光景が見られる台湾鉄路ですが、そのなかでも客車急行列車は、まさに国鉄時代の東北本線・山陽本線の再来を思わせる列車で、すっかり魅せられました。今回は、客車急行列車に絞って紹介しましょう。

台湾鉄路には4種類の運賃タイプがあり、日本で言えば、特急、急行、準急、普通列車に相当する。日本のような運賃+料金の概念はない。時刻表に莒光號Chu Kuang Haoと表示されているのが、この急行列車である。すべて客車編成で、電化区間はEL、非電化区間はDL牽引となる。客車は、冷房付き、リクライニング転換クロスシートで、日本で言えば14系客車に当たる。日車・日立で製造されたが、1970年以降の増備車は台湾製もあり、総数は400両を超える。客車の形式は、数字2桁(自重)+英文(種別)+数字5桁(形式区分)の表し方、種別のうち、FPは商務車(1等車)、SPは普通車(2等車)、Kは車掌室付きとなる。製作年代によって細部は異なる。

写真は、台湾高鉄(新幹線)台中駅との乗換駅、新烏日NewWurihiに到着する莒光號655次、台湾高鉄開業に伴い、相互乗換駅として新設された。655次は、台東発高雄行きの夜行列車で、台湾一周路線のうち、10分の9を走破する台湾鉄路最長距離の列車、オール座席車なので台湾版「八甲田」「桜島・高千穂」と言ったところ。

今回は電化区間しか行けなかったので、先頭に立っていたのは電気機関車のE200型である。1976年GE社製で、ほかにも同系としてE300・E400がある。高運転台で、オレンジ部に腹掛けラインが入って、いかにも米国製らしい無骨なスタイルだ。

写真は、平渓線との分岐駅、三貂嶺Sandiaolingを通過する莒光號。付近は、まるで国鉄時代の保津峡か武田尾の趣きだ。

集集線に少し前から動態保存運転されているDT688(D51)を撮影後、乗換駅の二水Ershueiへ。ビンロウ(檳椰子)の樹がいかにも、南国へ来たことを感じさせてくれる。1両目の青色車は、行李車(荷物車)の45WBK80009、2両目も同型車の45WBK80001である。このように1~2両の荷物車の連結が常で、これも国鉄時代である。時刻表には記載がないが、一日数本の荷物専用列車も走っている。

莒光號を駅撮りではなく、駅間で撮りたくなった。台北から2時間程度で行けるお立ち台として、宜蘭線の大里Dali を選んだ。駅から10分も歩けば、太平洋の大海原が見える。沖にはカメの姿に似た亀山島が見える。ポジションも並行する道路から簡単に収まる。おまけに、東部幹線の一部だけあって列車本数も多い。まさに、新幹線開業前の山陽本線須磨下車徒歩10分の気分だった。

10月12日、青森駅に集まれ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おっ~と、青森展も載っていますよ。

本日、一斉に発売された鉄道雑誌各誌に、クローバー会写真展in青森の案内が掲載されています。

会員の皆さんに協力を求め、テーマに合った写真が次つぎ寄せられました。厳選された珠玉の作品50点が、現在、京都にある品質第一の極上仕上げ店で、一点一点丁寧にプリント中。全貌をお知らせするまで、しばしお待ちを!

期間中、はるばる青森まで展覧に訪れる会員も、続々と約3名が現れています。10月12日以降は青森へ!

写真展in青森 案内が載る!

過日、会員の皆さんに配信した、「クローバー会写真展in青森」ですが、準備はこれからというのに、早くも案内のパンフレットが大学から送られてきました。10月に風間浦村、青森市と、青森県下で2日間続けて行われる同志社大学のイベントを告知するA4チラシの片隅に、さりげなく載っているのは、まさしく「クローバー会写真展in青森」。告知をお願いしていた大学広報室の心遣いに感謝です。

メール配信以降、会員からは絶大な反応があり(?)、現在たった1名から写真の応募が来ています。青森県下の鉄道写真なら、いっさい制約なしの早いもん勝ち! ご応募お待ちしています。

青森という、いわば同志社とは最も疎遠な地で、永く交流が続いていたとは、今まで知らなかった

右下に注目! 大学のチラシにOB会のイベントが載るのも異例だと思うが、大学にも認知されたことがたいへん嬉しい

写真整理学 -5-

カラーポジ
カラーポジを撮り始めたのは大学1年生の時に、北海道へ行った時が初めてだった。当時は、現像料込みの値段で売られていた。カラーポジは、透過式で印刷に適したフィルムとされるが、当時は、もちろんそんな認識はなく、スライド上映会でみんなにも見てもらうのが目的だった。実際、あの頃は、鉄道同好会でもよくスライド上映会をやったものだった。すべて国産の銘柄で、フジとサクラを交互に使っていた。
ここからは以前にも書いたことだが、当時はフジのシェアが高く、優秀な製品という評価だった。いっぽうサクラは二流という評価だったが、数十年経ってみると、全く逆の結果となった。フジは、スコーンと色が抜けてしまって見るも無残な姿が多いのに対し、サクラは多少の褪色はあるものの、色抜けはない。製品の評価なんて、アテにならないとつくづく思ったものだ。

社会人になってからは、仕事絡みでポジを使うことも多くなり、とくに、モノクロを余り撮らなくなった2002年ごろから、一眼デジカメ導入までの約5年は、ポジが主流となった。実際、優れた風景の中を順光で適正露出で撮った鉄道写真は、我ながら惚れ惚れする、唯一無二の”作品”と呼んでもいいものだ。しかし、逆に言えば、たとえ半絞りでも露出を間違えば、目も当てられない結果となる。フィルムが現像から上がってきた時は、いつもドキドキだが、感動より落胆のほうが多かったポジではある。撮り貯めたポジは、通算246本、コマ数で約9000駒となる。
初めてのカラーポジは北海道へ行く途中に、都内各地で廃止予定の都電を写した(以前の掲示板で発表済み)。上は渋谷・宮益坂、右は高田馬場駅前。褪色・劣化は激しいが、45年前の都電も、何とかここまで修正できた。

保存方法は、大きく分けて二つ、初期は一点ずつマウントしたものを、専用のポジアルバムに収容、マウントには、適宜データの記入している。本数が増えると、この方式では追いつかず、マウントを止めて、スリーブ状態にして、缶・箱に収納している。スリーブには、自作の撮影ラベルを貼り、データを記入している。
ポジは、保存状態が一時悪かったこともあってカビが発生(湿気の多い押入れに長期間保管)、また前記のようなフィルム特有の経年変化により、褪色・劣化が激しい。デジタル保存は、カラーネガ以上に急務だが、現状はほとんど進んでいない。加えて、スキャンはなかなか難しいと感じている。褪色しても、軽度のものなら修正ソフトの褪色修正のボタンででほぼ一発修正できるが、褪色・変色の激しいものは、どうやってもダメだ。やはり色が残っていないことには、救済できないと痛感した。色調が正しく出ているポジは、逆にコントラストが強くなり過ぎて、黒つぶれ、白飛びが激しい。
過日、会社更生法の適用を受けたコダック社は、コダクロームに続き、最後まで残ったエクタクロームの製造中止を公告している。ほんの数年前まで、国内外からカラーポジが続々と新発売されて、色調や粒状など、選び放題だった時代が夢のように思えるほど、昨今のカラーポジの衰退には、その終幕が見えてきた思いがする。

ポジの整理は、一点ずつマウントしてスライドファイルに保存、スリーブで一本ずつ保存する2種の方式

写真整理学 -4-

前回、モノクロフィルムについての私の整理術については記しましたが、もうひとつ、カラーがありました。モノクロに長い間馴染んだ私も2002年以降は、カラーオンリーになりました。近年はデジカメも加わり、増殖を続けるカラーの整理は、今日的なテーマでもあるのです。
カラーネガ
カラーネガで鉄道を撮り始めたのは比較的古い。初めて一人で九州へ行った高校2年生の時、モノクロとともにカラーも加え、カメラ2台態勢となった。マミヤ製の怪しげなEEカメラだった。ところが、この昭和40年代前半、カラープリントの料金はL判一枚が100円ぐらいだったと記憶している。今の物価に換算すると300~400円程度になり、とても大量には撮れない。結局、15日間、九州へ行って撮ったのは、当時あった16枚撮りフィルムのうち数枚だけで、帰ってからまた別のところで撮る始末で、フィルム一本を一年近くかけて撮った。

45年前に初めて撮ったカラーネガでも劣化は余り見られず、スキャンデータに若干の修正を加えるだけで、この程度、見られるのは、カラーネガのアドバンテージだと思う。佐々機関区で撮ったレールバスの塗色も、一般気動車とは異なる赤2号だと理解できる。

その後も、カラーネガは撮るものの、その性格上、家庭の写真などが中心となるため、鉄道は合い間に散発的に撮る程度で、枚数はほとんど増えず、カラーの鉄道写真は、後述するポジに移っていく。しかし、2002年にモノクロを止めてしまうと、その代替として、カラーネガを再び使うようになり、それ以降はウンと増えることになる。ただ、それもデジカメの出現で、2005年には全く絶えてしまうことになる。
こんな経緯で、現在カラーネガとして保管しているのは、278本、コマ数で約1万枚ぐらいか、ただ、前記のような非鉄な写真も含まれるので、実際、鉄道関係は、その半分程度しかないと思う。
整理方法は、すべて同時プリントしているので、単純明快に撮影順にポケットアルバムに入れた時系列の整理方法を採っている。ネガは、カラーネガ独自の整理番号を振り、時代順にケースに入れている。問題点は、モノクロのベタ焼きと同じで、別にある撮影台帳との関連が弱いことである。カラーはとくに恣意的に撮ることが多く、撮影には連続性がないことも、台帳との関連性を弱くしている。ただ、現実的には、カラーネガの場合、ほかへ提供することは皆無に近いので、自分だけが理解できればよく、とくに不便を感じるケースはない。

カラープリントの整理は、市販のポケットアルバムに入れるだけ。分野別には編集せず、鉄道以外にも、興味の向くバス、近代建築、街並みも含めて撮影順に入れている。データは撮影日のみ記入、これを頼りに撮影台帳と照合する。

将来的なテーマとしては、ネガの劣化の前のデジタル化であるが、これには全く手が回っていない。カラーネガは、オレンジベースのため、劣化が進んでいるのか一見してよく分からないのも、着手を遅らせる理由のひとつである。ただ、楽観できるのは、ネガをスキャンしてデジタル化した場合の写真修整は、ポジに比べると、技術的には容易に行えること。カラーネガのデジタル化は、とくに急を要するものではなく、優先順位は低い。今しばらくは現状維持と言ったところだ。

写真整理学 -3-

今日は台風の接近で一日家に閉じこもったまま。こんな時こそ、写真の整理の絶好機、何事もコツコツとやりたいものです。
 モノクロフィルム(2)
もうひとつ、モノクロフィルムで大きな問題は、経年による劣化だ。
本掲示板でも、tsurukameさんらからも報告のあったビネガーシンドローム現象がその代表例である。フィルムのベースに、経年による加水分解が起こり、酢酸が発生し、あるレベル以上になると急激な劣化を招く現象だ。初期には酢酸臭とともにフィルムベースが湾曲する程度だが、進行すると、フィルムはストロー状に丸まってしまう。こうなると、引き伸ばし機にも掛からず、スキャンさえ不可能になってしまう。当会では”八つ橋”と京都らしい雅びな愛称で呼ばれるが、実態はたいへん深刻な問題である。個人が所蔵するフィルムだけでなく、図書館などで古文書などを保存しているマイクロフィルムにも、その現象が及んでいる。
ただ、幸いなことに、後述する以外には、私のフィルムにその現象はまだ見られない。この現象が顕著なのは、ある時期に製造されたF社のフィルムと言われている。ある時期とは、昭和40年以前を指すようで、その時期、F社のフィルムは、国産フィルムの中では高価で、値の安いSフィルムをもっぱら愛用していた。結果的には、倹約志向が良好な結果を得ているのは皮肉なものだ。
とは言うものの、昭和40年代前半に十数本はFフィルムを使用しており、酢酸臭とともに、若干の湾曲が確認できた。正常なフィルムにも感染すると言われているので、このフィルムだけは現在、隔離中である。
ビネガーシンドロームの初期状態のF社フィルム、強烈な酢酸臭のため、現在隔離中

意外にネガが健在なのは、保存方法にも理由があるようだ。フィルムは、密封せず、ある程度の空気の流入のある容器に保存するように言われている。私も、ファイバー製の紙箱、プラスチック製の整理ケースに保存しているが、いずれも空気の流入するようになっている。年に一度は、天日に干して虫干しし、乾燥剤も欠かさない。そして、ネガカバーの材質も大きいと思う。私のネガカバーは昔ながらの硫酸紙を使った紙製のネガカバー、これだと、湿気を吸収するが、現在のビニール製だと、フィルムが密着して、フィルムの呼吸ができないように思う。
しかし、ビネガーシンドロームの症状がなくても、フィルムをよく観察すると、出し入れするたびに擦り傷が多くなり、経年によって、粒子に”緩み”が生じているのか、プリントしても軟調気味になって、以前のような締まった写真になかなか上がらない。加えて、長く愛用してきた引伸機もついに手放し、銀塩プリントを自家処理することはできなくなった。将来、フィルム劣化がますます進行することも考え合わせると、フィルムのデジタル化も急務の課題だ。
一昨年から、フィルムスキャン機を導入し、現状では、外部へ提供写真については、すべてデジタル化しており、印刷時の効果実証も得ているが、自家保存を目的としたデジタル化までには手が回っていない。長くお付き合いのある方からの報告では、毎日一定量のフィルムをデジタル化することを日課として、数年かかって数万枚のモノクロフィルムのデジタル化をついに完了したそうである。これぐらいの決意がないと達成は難しい。
モノクロフィルムの将来の着地点は、前記の撮影リストのデータベース化、デジタル化したフィルムとのリンク化を計ることとなるだろう。その実現には、膨大な時間と、絶えることのない熱意・根気が絶対に必要だ。

モノクロネガの整理状況、ネガカバーの番号順に並べてケースに収納。ベタ焼きアルバムの番号とは対応しているので、ベタ焼きで目的のコマさえ見つかれば、即座にネガへたどり着ける。

写真整理学 -2-

モノクロフィルム(1)
写真を媒体別にモノクロフィルム、カラー(ネガ・ポジ)、デジタルに分けると、圧倒的に多いのがモノクロフィルムだ。なんせ1961年、小学校6年生から鉄道写真を撮り始め、2002年に幕を下ろすまでの40年余り、モノクロフィルムで撮り続けた。整理番号「1」から始まった35ミリのネガカバーは、カラーポジのメイン化、その後のデジカメの導入により、「1707」でついに途絶えてしまった。これ以外に6×6も数十本あるから、コマ総数は約6万3000となる。フィルムの銘柄は、初期は国産SSフィルム、大学生の頃からコダック社トライXになり、途中で、国産SSS(ISO200)・ISO400、コダック社プラスXなども試験的に使い始めたが、またトライXに戻っている。多少、粒子は粗いものの、カリカリッとしたトライX独特の描写は大好きだった。高校生の時にフィルム現像を覚えたので、大部分は自家現像処理である。初期は、国産の現像液、その後はずっとコダック社の現像液D76の1:1現像を標準とした。
コマ数は、もっと多く撮っておられる方も多いので、自慢することもないが、唯一、我ながらよくやったと思うのは、すべてのコマのコンタクト(ベタ焼き)を取っていることだ。ベタ焼きは6コマずつに切り、ネガカバー番号別に、アルバムに貼り付けている。アルバムも、年代によって様式が異なるが、総数が67冊になった。ネガではなかなか読み取りにくい中身も、ベタ焼きでは、かなり読み取れる。もちろん、すべてプリントできれば最善だが、費用的にも時間的にも困難だ。
問題は、撮影データとの関連付けだ。大学生の前半まで、まだ撮影枚数の少ない時期は、アルバムにひとコマずつの撮影データを書き込んでいた。ところが、枚数が多くなってくると手が回らなくなり、撮影データを書き留めた台帳に分離する形を取った。こうなると、ひと目で閲覧が出来ない。ベタ焼きはネガカバー単位だが、台帳は流れに任せて、記入の基準も思いつき、杜撰な時期もあって、互いにリンクしていないからだ。目的のコマを探し出そうとすると、場合によっては大仕事になる。
今後の方策は、そのために、関連付けをより密接にした撮影データ一覧化が急務になる。エクセルでデータ化できれば、検索も容易だが、自分の技量と照らすと一気には実行困難で、ひとまず、紙ベースでの手書きリスト化を考えている。自作したA4用紙一枚の撮影リストに、フィルム1本36枚分の撮影内容(撮影場所、列車名、車号、年月日など)を記入するようにする。書くという作業は、記憶にも繋がり、ページを繰るという原始的な検索方法も、一番手っ取り早い。

ベタ焼きアルバムと撮影台帳の一体活用が、モノクロフィルム整理の課題。

佐竹さん、三たび“東北を旅して”写真展

我らが人間国宝、佐竹さんが、3回目となる、東北の鉄道の写真展を開催されている。
    佐竹保雄の鉄道写真展 ”東北を旅して”
    6月2日(土)~30日(土)(月曜日休廊)
    集酉楽サカタニ2階喫茶ギャラリー(京阪七条駅東)
昨年来、東北の鉄道の復興を願って、各所で写真展を中心としたイベントを開催されてきた佐竹さん、今回は、前回展示に加えて、未発表の作品も加えた、約30点を展示されている。聞くところによると、昭和29年に初めて東北を訪問以来、昭和49年に撮影を止めるまで、実に46回も東北へ行かれたそうだ。とても凡人には真似のできない、その厚みだ。
本日は、TUYANとともに、飾り付けの手伝いをしたが、佐竹さんはその準備で前日は徹夜されたそうだ。決して無理されないよう、今後のますますのご活動を願いながら、観覧したいものだ。

東北でいちばんのお気に入りは五能線とのこと。手前はりんご畑の中を行くハチロク。海岸では、一夜干しのスルメをかじりながら撮影されたそうだ。

開催中! 坂本ケーブルで江若復元模型を展示

見る者を感動の渦に巻き込んだ江若鉄道の復元模型運転会から半年、製作された西村さんは、新たに浜大津駅周辺の復元に意欲を燃やされていることは掲示板報告にあるとおりですが、昨年の復元模型に新たなオファーがあり、現在、滋賀・坂本側から比叡山に登る坂本ケーブルの山上駅、延暦寺駅2階ホールで展示されています。
写真のような坂本ケーブルの「85年のあゆみ写真パネル展」の一環として、昨年展示の江若鉄道の三井寺下駅・車庫のジオラマが展示されています。
同駅は、登録文化財に指定された由緒ある建物、また、坂本ケーブルは日本最長のケーブルとして有名で、見どころいっぱいのケーブルに、期間限定の新たな見どころが加わりました。
延暦寺駅へのアクセスの切符は、3000円と少々高めですが、「比叡山横断チケット」がお奨め。京阪各駅から坂本・叡山両ケーブルに乗って、京都側へ降りて、叡電・京阪で帰ることができます。
もっと安くに行きたい向きには、私も先日実行したのですが、叡電修学院からの登山道”きらら坂”から比叡山を目指せば、約3時間で踏破することができます。
会期は5月6日(日)まで、連休後半の一日は、ぜひケーブル延暦寺駅へ。

ケーブル建設同時の貴重な写真も展示

最後の113系阪和色

4月に入って桜も咲き出したというのに、雑務に追われて、外出もままならない状態が続いています。ただ唯一は、先日行われた113系阪和色ラストランの撮影に、山科・乙訓の両老人から賜った18きっぷを使って行ったぐらい。そんな折、準特急さんからは、ぜひ発表せよとの拝命を受けました。背中を押されないと、なかなか行動へ移せない身だけに、ありがたい好機ととらえ報告することにします。
日根野電車区の113系は、永らく阪和線・紀勢本線に充当されていましたが、223系、近年は225系の増備で活躍の場が狭まり、昨年12月に定期運用からは離脱しています。他区への転属を機に、日本旅行主催のツアー専用貸切列車「ありがとう113系阪和色」が3月31日、4月1日の両日、天王寺~周参見間に運転されました。昭和47年の阪和線の新快速設定時に制定された阪和色と言われる、ブルーとアイボリーの塗色車両が記念のラストランを飾りました。
   ▲「ありがとう113系阪和色」は、2日間とも朝に天王寺を出て周参見へ行き、晩に天王寺に戻る1往復のスジで運転された。3月31日はドシャ降りの雨、4月1日も寝過ごして朝は行けず、夕方の戻りだけの撮影となった。できるだけ陽の高い時間帯に撮りたいので、117系の紀勢本線列車に乗って南下を続ける。駅間を歩く気力はなく、結局、乗った電車の終点、御坊まで来てしまった。駅員に聞くと、まもなく列車が来ると言う。選択肢もないまま、ホームの先端へ小走りに移動する。幸い、陽が山側から射して”バリ順”だ。わずかに咲いた桜をかすめるように、クハ111-5262を先頭にする阪和色が入線してきた。   ▲今回の改正で、阪和線・紀勢本線に多くの225系が進出してきた。御坊でも225系の精悍なマスクが見られるとは時代も進化したものだ。ちょうど、左の先頭クハ225-5023は、今回の増備車のようで車内はピカピカ、車内の仕切りには、グッドデザインのプレートが掲げられていた。いっぽうの113系の停車時間は1分30秒、反対のホーム先端まで走り、発車をとらえた。ちょうど、紀州鉄道のキテツ-1も並び、3列車の顔が揃った。

   ▲阪和線は、長く電気機関車がいたこともあって、私としては珍しく定期的に訪れている路線だ。前記のように、阪和線に新快速が登場したのは昭和47年3月改正のこと、東海道・山陽本線の新快速は、この改正で153系”ブルーライナー”に代わった。同じブルーライナー塗色となった阪和線113系の新快速も衝撃的だった。なにせ、旧型国電ばかりの阪和線に、唯一の冷房車、セミクロスシート車は、実にまぶしい存在だった。当時、鳳のみ停車、天王寺~和歌山間を最短45分で結び、かつての阪和電鉄の超特急を思わせる俊足だった。
前部には、羽根形のヘッドマークも掲げられ国鉄時代の天鉄局の意気込みを感じたものだったが、京阪神間と違って、和歌山への直通客も少なく、後年停車駅を増やしたもののパッとせず、結局、昭和53年3月改正で、阪和線の新快速は姿を消し、快速に統合されている。

表彰式行われる!

              積極的に地域に溶け込んだ活動が表彰理由となった

先に報告しました現役の鉄道同好会の学内表彰式が、去る3月16日に大学で行われ、めでたく学生支援センター所長から地域貢献賞を受賞しました。当日の様子を、渉外・広報担当の今林佑太さんから報告を受けましたので、写真とともにお伝えします。

今回で5回目となる文化系公認団体表彰式は、文化系公認団体の活動を一般学生へ広くPRする機会として、また表彰団体の今後の活性化を目的に開催されてきました。本年度は、顕著な功績のあった16団体が表彰され、学生支援センター所長から表彰状、表彰盾、副賞がそれぞれ手渡されました。鉄道同好会は5つある賞のうち、地域貢献賞を受賞することになったものです。
表彰式は、寒梅館ハーディーホールで行われ、各団体が壇上に上がり、学生支援センター所長より表彰状と盾を授与され、各団体の代表者がスピーチを行いました。
「大学から公式に認められた賞の価値は非常に高く、受賞が喜ばしいことであると同時に、今後も大学公認サークル団体として責任感ある活動をするべきだということを身に染みて感じた表彰式でした」と今林さんは結ばれています。
来年、2013年は鉄道同好会創立55周年になります。これを記念して、現役の皆さんは、OBも参加できる楽しいイベントも考えられているようです。
今後とも現役の皆さんの活動を大いに期待するものです。

寒梅館で行われた表彰式と、スピーチする現役・鉄道同好会会長の木村さん

連接貨車

現役では唯一の連接貨車、太平洋石炭販売のセキ6000形。昭和41年から製造され、機関車からの遠隔操作で、側扉の開閉・連結解放が可能(春採)

湯口先輩から釧路臨港鉄道(現・太平洋石炭販売)に、貨車の連接車があったはずだから発表を、とのコメントがあった。確かに撮った記憶がある。準特急さんから横取りするようで申し訳ないが、写真と一筆を。
太平洋石炭販売には、2車体連接式の石炭車、セキ6000形が14組28両あり、現在でも使われている。同社はJR線とは連絡のない、自社線完結の路線のため、このような独自の貨車が考案されたようだ。訪れたのは一昨年のことになるが、このような運炭鉄道が細々ながらもまだ現役なのは驚異に値する。
なお、貨車の連接車は、以前国鉄・JRにも2例あったそうな。ひとつは、車運車のク9100で、三軸車であり車体が中央部分で分割された中央の一輪が連接構造という、たいへん珍しい連接三軸貨車だった。もうひとつは、JR後、トレーラー車体を運ぶために試作されたワ100で、3車体4台車をアダプターでつないでトレーラーを載せる、デュアル・モード・トレーラーシステム用の試作車だった。

本日開催 「鉄道展-東北を旅して-その2」

   ▲さっそく熱心な見学者が訪れ、一点一点を仔細に鑑賞していた、本日開場の「鉄道展-東北を旅して-その2」。

一部のクローバー会会員にはすでに案内していますが、佐竹保雄さん・津田雅司さんによる「鉄道展-東北を旅して-その2」が、本日から開催されています。
あの震災から1年、自分にできることに思いを馳せ、東北へのエールを送り続けることを念頭に、この期間に開催されることになりました。

・3月10日(土)~18日(日) 11:00~17:00 (無休、18日は15:00まで)
・ひと・まち交流館 京都 展示ホール
 (京都市下京区河原町五条下ル東側 市バス「河原町正面」下車)

今回の展示のメインは「東北の鉄道」写真展、C51や木造客車などの佐竹さんの貴重な写真のほか、先般開催されたクローバー会写真展「東北の鉄路を巡る」からも抜粋して展示しています。さらに津田さんは、昨年のラインナップに加えて、震災後に運転されたDD51の牽くタンク列車が新たに再現され、見どころ一杯の展示となっています。

▲佐竹さんも来場者一人ひとりにていねいに説明をされていた
また、会ではつぎのようなイベントも用意。
3月11日(日)14:30~15:00 祈念の集い(展示ホール)
3月14日(水)13:30~16:30 一緒に作ろう祈りのお地蔵様、三線で歌おう
3月15日(木)18:30~20:00 講演会「3・11以後の暮らし」槌田劭先生
設営日の昨日は、クローバー会会員が訪れ、設備の搬入、写真の展示などに汗を流し、夕方には準備完了、本日11時から滞りなく開場、早くも多くの人たちが会場を訪れています。ぜひ期間中にご来場いただき、写真・模型を通じて、美しかった東北を偲び、東北の一日も早い復興に思いを馳せていただくよう、お願いいたします。

   ▲DD51の牽くタンク列車が快走する、模型運転会。津田さんはクローバー会写真展に展示されたDD51重連のタンク列車に刺激を受けたという。

朗報! 現役・鉄道同好会が地域貢献賞を受賞

たった今、現役の鉄道同好会から嬉しいニュースが入りました。
大学学生支援課より連絡があって、鉄道同好会が同志社大学2011年度地域貢献賞の表彰を受けることが決まったとのことです。この賞は、サークル活動などで顕著な功績のあったサークルを部門別に表彰する制度で、寒梅館夏まつりでの地域の子どもとの交流、同志社EVEでの展示活動などが評価されたとのことです。何かと内に内に籠る時代、積極的に地域・社会との交流を図ってきた、現役の皆さんの活動に敬意を表するとともに、今後の更なる活動の深耕を期待するものです。
なお、表彰式は下記のように行われます。
2012年3月16日(金)14:00~ 
同志社大学寒梅館ハーディーホールにて

「きたぐに」「日本海」を送る (5)

「日本海」 -1-

いっぽうの「日本海」、その源流は戦前まで遡る。日本海縦貫線が全通したのが大正13年のこと、2年後には早くも神戸~青森間に寝台車、和食堂車を連結した急行列車が運転される。戦局の悪化に伴い、昭和18年に廃止されるが、戦後の昭和22年に、大阪~青森間の急行として復活を果たした。
その後、特急だけでなく、急行列車にも愛称を付けることになり、昭和25年10月ダイヤ改正から、この列車には「日本海」の愛称が与えられた。このダイヤ改正では、東海道・山陽本線を中心とした急行12本に「明星」「彗星」などの愛称が付けられた。当初の「日本海」は座席車のみだったが、のちに特2、2等寝台、食堂車が連結され、長距離急行らしい編成とはなるが、日本海縦貫線はまだ電化には程遠い状況で、青森までは23時間近くを要していた。
転機となったのが昭和36年10月改正で、日本海縦貫線では初の特急となる「白鳥」が誕生、有効時間帯の調整のため、「日本海」は時刻が大幅に変更され、さらに新津・新発田経由を改め、新潟にも立ち寄るようになり、大阪~新潟間のアクセスが向上した。その後も、電化の進展により、到達時間も次第に短縮されるようになるが、なにせ長距離を走り抜く客車列車、”遅くて汚い列車”のイメージが付きまとった。
  ▲新幹線開業直前の山科でとらえた、急行時代の「日本海」(昭和39年)
そして、昭和43年10月改正、日本海縦貫線に待望の寝台特急が新設される。列車名は「日本海」がスライドして使用され、従来の急行「日本海」は「きたぐに」に変更された。
車両は20系オール寝台の9両編成、翌年からは13両に増強される。牽引機は、大阪~米原EF65、米原~田村DE10、田村~金沢EF70、金沢~新津EF81、新津~秋田DD51、秋田~青森DD51だった。
  ▲特急となった初日の「日本海」を、福井国体のお召し撮影の途上、米原で写すことができた。交直接続はDE10が牽引、DE10としては初の特急牽引となった(昭和43年)▲▲田村以降の牽引はEF70だった
  ▲DD51に牽かれて奥羽本線を行く特急「日本海」。新設から1年間は20系の9両編成だった(白沢付近、昭和44年)  ▲雪煙を上げて羽越本線を疾走する(象潟付近、昭和46年)
昭和47年10月改正で、羽越本線の電化が完成、これで米原~田村間を除いてEL牽引になるとともに、大阪~米原間はEF58牽引に変更される。
昭和50年3月改正で米原経由から湖西線経由となり、客車も14系寝台車となった。季節臨の特急「日本海」1往復が14系座席車で増発され、昭和53年10月改正からは定期列車に格上げされた。この結果、「日本海1・4号」「日本海3・2号」の2往復体制となり、客車はそれぞれ24系25形、24系寝台車となっていた。
その後も改正のたびに、客車編成の移管、共通運用の変更、両数の増減などが行われる。JR化後の昭和63年3月、青函トンネルを含む津軽海峡線開業により、「日本海1・4号」は函館まで延長された。
  ▲米原~大阪間の直流区間は、当初EF65牽引だったが、途中で他のブルトレとともにEF58に変更された。(山崎付近、昭和50年)
  ▲「日本海」のEF58牽引は2年半続いた。大阪へ到着後、向日町運転所へ回送されるため、山崎では往復が撮影できた(山崎付近、昭和50年)  ▲京都駅を発車した「日本海」の後部ナハネフ20、20系の活躍は7年間続いた(昭和50年)