あと1日! 江若鉄道再現模型運転会

当会K副会長 感涙にむせぶ
絶好調の江若鉄道再現模型運転会、小雨に見舞われた本日も、朝から来場者が引きも切らず、老若男女、家族連れから独り者まで、続々の来場となりました。
そんななか、午後まもなく、一人のご老婦人がお見えになり、袋から何やら取り出されたものは、なんと遺影でした。聞くと、数年前に亡くなられたご主人は、永く江若にお勤めだった方とのことで、本日は、江若の再現された姿を亡きご主人にも見せるため、遺影を持って来られたとのこと。
周りでこの話を聞いていた一同は、感動にひたり、なかでも、乙訓老人と同じく、ちょっとのことでは動じない、副会長さんも思わず、目頭を押さえられ涙した、という次第。
これほど左様に、来場者を感動と涙の渦に巻き込んだ江若鉄道再現模型運転会、残された日は、6日(日)一日のみ、まだの方はどうぞお見逃しなく!

西村さんは今日も来場者に丁寧な説明をされていた

江若あれこれ話 (3)

昭和44年10月31日 営業最終日の午後
当日は、午前に前記のように近江今津まで往復、午後からは、同志社北小松学舎でのDRFC江若お別れ合宿が始まります。いったん京都へ戻り、BOXで集合のあと、ヘッドマークを携え、合宿参加者22名とともに、再び江若を目指しました。

いろいろな車輌に当会のヘッドマークを付けて楽しんだ

三井寺下機関区長の手でヘッドマークがキハ51に取り付けられる

他の車輌にも江若、鉄道友の会からの華やかな装飾がされた

14時に三井寺車庫に到着、構内に置かれた車輌は、ほとんどがモールで飾られている。まず機関区長にあいさつ、さっそくヘッドマークのことを切り出した。何の抵抗もなく、あっさり快諾していただき、夕方の初発となる浜大津15時35分発の15列車に付けてもらうことになった。それ以降に発車する後続の列車には優先的に会社製作のヘッドマークが取り付けられたため、たまたま初発の列車には何の装飾も無かった。会員の見守るなか、機関区長の手でがっちりキハ51にDRFCのヘッドマークが取り付けられた。浜大津から、この15列車に全員で乗車する。各駅ホームで待ち受ける乗客・駅員の眼は一様にヘッドマークに注がれ、運転室後部に陣取った我々は、してやったりの笑顔がこぼれる。列車は16時13分に北小松に到着、陽も山の向こうに落ち、暮色のなかでの交換を見送って学舎へ向かった。

浜大津駅で発車を待つ15列車。キハ51+ハフ8

15列車が滋賀駅に到着。〔15737〕で紹介の駅員氏か?

北小松駅に到着した15列車。多くの小学生が下車した

北小松で交換したキハ11+ハフ2の20列車

夕食後、本日のメインイベント、北小松駅での送別式典が執り行われた。まず、浜大津行きの最終となる、20時59分発26列車の到着を全員の拍手で迎える。T中さんのマイクから江若廃止のアナウンスがホームに響く。そして、運転士、車掌の皆さんに、当会特製の江若アルバムを贈呈した。この列車は、北小松で増結作業があり、その作業が手間取って、発車するものと思って全員で拍手すると、全く動く様子もなく、間の抜けた出発式となったが、なんとか無事に26列車を送り出した。つぎの近江今津行きの最終まで1時間余りがあり、その間、会長のS井さんから、北小松駅員の3名にパネル写真を贈呈し、長年の労をねぎらう。そしていよいよ22時過ぎ、営業最終列車となる25列車がキハ51+ハフ8で到着、盛大な拍手で出迎える。この時になって急にT中さんのマイクが故障、急遽、声のバカでかいことでは右に出るものはないS田さんが地声を張り上げ、車内から好奇の目を集める。この列車でも運転士・車掌にアルバムを贈呈する。そして、22時03分、我々の”次はしらひげ~”の連呼のなか、列車は近江今津へ向けて最後の旅路についた。
その後、狂い出したT田さんら数人は、クルマに飛び乗り、深夜の国道をブッ飛ばして25列車を追い抜き、踏切で25列車に向かって”バンザイ”を叫んだと言う。これを聞いた付近の人たちは恐怖におののき、寝巻き姿の人まで飛び出し、付近は一時騒乱状態になったと言う。つくづく、バンザイの好きな会であった。

夜の北小松駅で増結を待つキハ21、江若最後の夜だった

江若運転会 いきなり絶好調

「江若鉄道再現模型運転会」、いよいよ本日29日(土)からオープンしました。事前の予告に加え、当日朝に地元紙で大きく紹介されたこともあって、開場直後から続々の人出です。
当時を懐かしむ江若OB、熱心に質問するご婦人、食い入るように見つめる子どもなどなど、会場は熱気に包まれました。少々のことでは動じない、あの乙訓老人をして、「つい涙ぐんだ」の言葉を漏らすほど、見るものに感動を与えました。まさに鉄道の持つ、限りない魅力でしょう。新聞社の取材も引きも切らず、ついには今季セ・リーグ優勝チームの親会社の新聞社まで駆けつける始末でした。
夕方、ようやく人並みは途絶えましたが、入りも入ったり、同館のイベントで最高の有料入場者を記録しました。製作者の西村さんも応対に大童でしたが、”この疲れは、快い疲れ”と言い残し、夜の巷に消え行ったのでありました。

京都新聞、産経新聞の紹介記事。取材に当たってもクローバー会のネットワークが発揮された

江若記事 お詫びをふたつ

江若運転会の様子を報告する前に、お詫びをふたつ。
〔15737〕でDC5連回送のダブレット授受通過を、「ひら」号回送とお伝えしましたが、本日、その写真に載っておられた元駅員氏に、再度、館の方が取材したところ、この回送は、「県立膳所高校の全校登山行事が比良山であり、その下山輸送のための回送」であるとの証言を得ました。「ひら」号回送ではありませんので訂正します。
改めて写真を見返すと、「ひら」の場合、回送時から「ひら」のヘッドマークを掲げていました。ここで、気になるのは、膳所高校なら、国鉄貨物線を通ってそのまま膳所まで行ったのかとも妄想しますが、やはり浜大津で乗り換え石坂線で戻ったのでしょうね。

「ひら」号の回送でなく、高校団体輸送の迎え回送でした

もうひとつの訂正は、〔15824〕の写真キャプションで、「鉄道模型雑誌の編集長」などと書きましたが、本日、ご本人から”編集長ちゃいまっせ、雇われ編集部員でっせ”と言われました。なにか、私の会社時代の哀歓をそのまま生き写すようで、思わず感じ入りました。謹んで訂正します。

「江若鉄道再現模型運転会」開場

いよいよ29日(土)からオープンです。前日まで行われた整備・試運転も完了、江若鉄道の車輌・駅が、ゆかりの地で40年ぶりに模型でよみがえります。江若に関する写真・資料も用意、さらに、大阪通信員さん、大津の86さんが隠匿・死蔵していた部品類も会場を飾ります。
西村さんが寝食を忘れてこの3年間打ち込んだ、入魂の「江若鉄道再現模型運転会」、余計な言葉はもう不要、この眼で確かめに浜大津へ!
会場:スカイプラザ浜大津6階(京阪浜大津駅と直結、琵琶湖側のビル内エレベーターで6階へ TEL 077-525-0022)
会期:10月29日(土)、30日(日)、11月3日(木・祝)、5日(土)、6日(日)の5日間

三井寺下駅の再現ゾーン。このリアリティは見ないことには分からない

鉄道模型雑誌の編集長みずから取材に。新聞社の取材も行われた

江若あれこれ話 (2)

江若鉄道、思い返せば、鉄道趣味活動の原点でもあったと思います。
廃止されたのは昭和44年11月1日、私は現役の2年生でした。眼にするもの、すべてを吸収したい世代、しかも大学は紛争で6月からずっと封鎖中、これ幸いにと毎日のように江若へ通ったものでした。中でも、営業最終の10月31日から、さよなら運転の行われた11月1日にかけて、沿線の同志社北小松学舎で、DRFCメンバーとともに合宿を行い、メンバーとともに最後を見届けたことが、ひときわ心に残ります。何回かに分けて、江若の最後の2日間を写真とともに振り返ってみました。

営業最終日10月31日の朝一番列車は21+51+52+8の4両編成。最終日を待たずに、譲渡車輌は転属してしまい、廃車予定の車輌だけでのやり繰りだった

話は江若営業最終の前日、10月30日の晩から始まる。
家で明日からことを何気に思案していた時だった。ふと思いついたのが「江若にDRFCのヘッドマークを着けてみたい」だった。と言っても、時間も金もないから、有り物で作るしかない。
ベースは写真の木製パネルを流用、これに画用紙を貼り、マジックインクでレタリング、周囲をクリスマスツリーのモールで飾ると、何とか見られるヘッドマークが出来上がった。締めて費用はゼロ、もちろん江若の許可も何も無いが、ぶっつけ本番、何とかなるだろう。徹夜の作業になってしまい、出来上がったときは夜が明けきっていた。
叡山駅で交換した52列車は、キハ11+ハフ、この列車はただ一本の和邇始発の列車

霧の堅田駅で。時計を気にする駅長がタブレットを持って、交換列車に備える

近江今津に着くと、大勢の高校生が下車し、集札口を埋め尽くす
さて、10月31日、京津線の一番電車に乗って、浜大津を目指した。
10月27日から、昼間の列車はすべて運休して代行バスになっていた。列車は朝夕にしか運転されていないから、最後の日に、朝の列車で近江今津まで往復したい。数回は近江今津まで行ったことはあるが、クルマに同乗して行ったもので、北小松以北、終点まではまだ乗車した経験がない。何としても朝の列車で近江今津まで往復し、最初で最後の終点往復を果たしたかった。
浜大津から6時15発の第一列車に乗った。車輌にはすでにモールで飾りつけがされていた。車窓から見る光景は、淡い霧に包まれていたが、陽が昇るに従って、霧も晴れてきて青空が広がってきた。キラキラ輝く湖面の反射が、徹夜した眼にはまぶしい。各駅には、廃止を伝える看板が置かれ、モールで飾られたメッセージボードもある。いよいよその現実を実感する。
交換する列車は、いつもどおり通学生を中心に満員。各駅に停車するたびに、駅名標を中心にして写真を撮り続ける。列車は、7時50分近江今津に着いた。浜大津から所要1時間35分、現在なら同区間を湖西線新快速で半分以下の40分で走ってしまう。折り返しの8列車までの30分、終点の光景を撮り続ける。朝の最終がこの列車で、それを逃すと15時30分までない。

40年後の今もまだ残る近江今津の駅舎、廃止の看板が立てかけられている

各駅に掲げられた廃止のメッセージボード。当時、流行り出した”タイポス”という書体を使ったボードで、少し江若のセンスを感じた

広い近江今津駅、長いホームの先端に乗ってきた1列車の編成が見える

名残を惜しんでいた女子高校生が、駅員とともに記念写真に収まっていた

折り返しの8列車にも近江今津から乗客が乗り込んだ
ホームでは、いかにも最終日らしい光景が展開されている。すがすがしい、というか、ちょっと胸が締め付けられるようなシーンだ。その後、最終日を好んで撮りに出かけるようになったのも、この近江今津駅の体験が原点になっているようにも思う。
折り返しの8時20分発8列車で去るが、編成は行きと同じ4両編成、最初は空いていたが、各駅で乗車が続いた。途中で徹夜の疲れでいつしか寝入ってしまい、終点の浜大津で我に返ると、車内は超満員になっていた。

近江今津を発車した8列車の先頭車両、超ロングシートに客はまばら

先頭はキハ52、半室の運転室の横は、格好の展望室だった

新旭~安曇川間で江若最長の安曇川鉄橋を渡る

安曇川に到着する。上下列車の交換があり、多くの乗客が待ち受ける。構内には明日からの代行バスが待機している

北小松で5列車キハ11と交換する。この時間帯になると、カメラを提げた乗客も増えてきた

江若 あれこれ話 (1)

江若鉄道再現模型運転会もいよいよ近づいて来ましたね。製作者の西村さんの高まる気持ち、如何ばかりでしょうか。遅まきながら、応援シリーズとして、自分勝手な”江若あれこれ話”を載せることにしました。皆さんもぜひ江若の思い出をお寄せください。
今回は、先般、運転会会場のスカイプラザ浜大津へ打合せに行った際に、館の方から聞いた”ちょっといい話”。

滋賀駅を通過しようとする「ひら」回送。機関助士が身を乗り出し授受の用意をしている

5122+5010+5121の総括編成にキハ52、キハ15を連結した5両編成。江若の最大編成だ
ここに写っているシーン、実は昨年から同館の廊下に展示されている写真だが、ある日のこと、古老がお見えになり、この写真をぜひ譲ってほしいとおっしゃったそうな。
この写真は滋賀駅での通過シーンで、タブレットの授受が行われている。江若では、朝ラッシュ時に快速列車が運転され、通過駅もあった。しかし、日中はすべて各駅停車だから、このようなシーンは見られない。唯一通過シーンが日中に見られたのは、春秋の登山シーズンに、帰途に就く登山客のために運転された北小松発浜大津行き臨時「ひら」号の運転時だった。天候などに左右されたが、夕方に浜大津行きが3本程度設定され、編成も単行から、総括編成と呼ばれた3両編成まで、さまざまであった。
この写真は、滋賀駅における回送列車の通過シーンで、三井寺下で仕立てられた編成は、何本かの「ひら」を併結しているため、最大の5両編成であった。
さて、くだんの一件、正解は、お見えになった方は、右側でタブレットを渡している駅員氏だったのである。自分の姿が入った写真を館で偶然に見られたという次第。館の方は、もう一枚焼き増して、その方に渡されたそうだ。何気に写した写真が、40年ぶりで写った本人へ蘇ったのである。

「ひら」回送の後部。DRFCのメンバーが見える。昭和44年10月10日のこの日は、京阪「びわこ」号の臨時電車が走り、みんなで錦織車庫まで追い掛けてきて、その後にすぐ近くの滋賀駅を訪れた

流された鉄橋の下の廃線跡 (3)

今回の台風で被害の大きかった新宮は、熊野川の河口であり、上流から筏を組んで運ばれてきた木材の集散地として栄えてきました。しかし、河口が三角州のため、水深が浅く、木材を搬出する港湾設備には恵まれませんでした。そこで、天然の良港を持つ、近隣の勝浦(現・紀伊勝浦)まで、鉄道で運搬する計画が持ち上がりました。

新宮市内の市田川を渡る混合列車。この区間は線路移設で廃棄された。

このように新宮鉄道は、木材輸送を目的として明治期に会社設立された。軽便鉄道法に基づいて、明治44年から建設工事が始められ、大正2年に新宮~勝浦間15.5kmが全通した。紀伊半島の鉄道の第一号であり、県都の和歌山でも、この時点で、南海鉄道、紀和鉄道(現・和歌山線)は開業していたものの、和歌山以南の現・紀勢本線は全く未開業の状態で、紀伊半島の先端で、文字通り陸の孤島として、鉄道開業したことは驚きに値する。
新宮鉄道のように、他の線と連絡しない鉄道線は明治期によく見られる。その多くは、石炭、鉱石、木材などを集散地へ運搬するための貨物輸送が主眼であった。開業後、客貨分離、ガソリンカーの導入など近代化にも着手した。勝浦からは、大阪商船の旅客船が大阪、神戸を結んだ。ところが国有鉄道による紀伊半島一周構想が持ち上がり、熊野市から新宮、勝浦を経て串本へ至る紀勢中線に計画の中に組み込まれた新宮鉄道は、昭和9年に国有化されることになった。ただ、国有化されたものの、紀勢本線は未開業で、他の線と連絡の無いことには変わりなく、新宮鉄道からの引継ぎ車両のほか、鉄道省から蒸機や客車が船送され、バッファ式連結器に取り替えて使用された。
その後、紀勢中線全通に向けて、改良工事が実施された。新宮付近は、大幅な移設が行われたほか、前回の廃トンネルや、前々回紹介の那智川橋梁もこの時の改良工事で廃棄されたものである。(終)

松林に沿って伸びる線路。現在もこの面影は残っている。

新宮駅構内。現在駅の駅前広場あたりにあった。(いずれも『目で見る熊野・新宮の百年』より転載)

流された鉄橋の下の廃線跡 (2)

前回は、新宮鉄道の知られざる橋脚・橋台跡を記しましたが、よく知られているのは、現・紀勢本線の那智~宇久井~紀伊佐野、三輪崎~新宮に寄り添うようにして残っている廃トンネル群です。ただ、いずれも車内から確認するのは困難で、やはり歩いて探索するしかありません。

道路に転用された大狗子・小狗子トンネル。内部はコンクリートで巻かれている。

袖摺トンネルは煉瓦造りのポ-タルが残り、原型をとどめる。

那智~宇久井間にある大狗子・小狗子トンネルは、廃棄後、道路に転用され今も内部を通行可能で、現在の国道とも並行しているのでアプローチも容易である。宇久井~紀伊佐野にある袖摺トンネルは廃棄されたままだが、すぐ横を国道が通り、金網のすき間からトンネル跡にアプローチすることができる。
大変なのは、三輪崎~新宮間にある御手洗・稲荷山トンネルだ。現在線の横にあるものの、現在線は、切り立った海岸線ギリギリの狭隘部を走り、しかも途中にはトンネルがあって、探索者のマナーとしても、現在線のトンネルくぐりは避けたい。そこで、すぐ近くの熊野古道を歩き、見当を付けた付近から山林に入り、道なき道を藪漕ぎして、難行の末、ようやく廃トンネル跡に辿りついた。途中の密林の中を歩いていると、なぜか真新しいリュックが木のそばに置いてある。あたりを見渡しても人影らしきものは見えない。一瞬体が凍りついた。今でも、その持ち主がどうなったのか謎のままだ。
あと、以前は三輪崎駅付近は、痕跡がかなり残っていたが、付近に大型の商業施設が出来て、面影は残っていない。
また新宮駅付近は大きくルート変更された。当時の駅は、現在駅の正面あたりにあり、ここから途中の貨物駅を経由して海岸沿いへ直結していたが、現在は市街地を斜めに横切るルートに変更された。勝浦駅も現在の駅前広場あたり、構内も現在の勝浦町役場付近まで伸びていた。

人知れず眠る稲荷山トンネル。坑口の煉瓦が崩落し内部が露出している。

流された鉄橋の下の廃線跡 (1)

前回のシリーズで大震災のことに触れ、そのつながりで、思い出したことがあります。
奈良・和歌山県を襲った台風12号の被害から一ヵ月が経過しました。紀勢本線紀伊天満駅に近い那智川橋梁が増水で流失したことは、よくテレビでも報道されています。このため、今も紀伊勝浦~新宮間が不通のままです。
一人で気をもんでいるのは、この鉄橋のすぐ近くにある、新宮鉄道の橋脚、橋台の跡です。その跡がどうなっているのか、現場を写したテレビに目を凝らしても、確認することは出来ませんでした。

流失した那智川鉄橋(ネットより転載)

もう3年近く前の話になるが、出版社からの依頼を受け、新宮鉄道の廃線跡の調査に向かった。新宮鉄道とは、大正2年に開業した、現在の紀勢本線紀伊勝浦~新宮間の前身となる鉄道である。詳しい経緯は後述するとして、昭和9年に国有化され、昭和13年に線路付け替えなどの改良工事が完成している。旧線は廃棄されたため廃線跡が何ヵ所か残っている。
それらを求めて、紀伊勝浦から新宮へ向かっていた時のことだ。電車から何気に窓の外を見ると、川の中に橋脚らしきものが一瞬見えた。その日は、トンネル調査が主眼で、時間もなく戻ってきたが、どうも気になる。調べてみても、橋脚跡のことはどこにも書かれていない。見間違ったのかもしれないが、意を決し、その確認のために特急で往復してみた。

その場所は、紀伊天満駅から、新宮よりへ1kmほど歩いたところ、確かにそれは鉄道跡に違いなかった。川の中から橋脚の基部が顔を出している。片側には橋台も残っていることも判明、おそらく昭和13年の改良工事の際に廃棄されたものだろう。新宮鉄道の遺跡は、トンネル群は何度か発表されているが、那智川の橋脚・橋台については、私の知る限りでは発表は無かった。車窓からの偶然の発見を喜ぶとともに、フィールドワークの大切さを痛感したものだ。

那智川に顔を出した新宮鉄道の橋脚、水面下にもう一基見える。

左が流失した紀勢本線那智川橋梁、石造りの橋台跡も見える。

ユースで巡った鉄道旅 -17-

昭和46年2月の東北乗り鉄の旅は続きます。山田線では急行「陸中」を盛岡まで乗り通し、「たざわ2号」に乗り換え、初乗車となる田沢湖線経由で秋田へ。さらに「しらゆき」に乗り換えて深夜の青森に到着。乗り鉄に徹した、この日の乗車距離は、横手から始まって青森まで約630kmに達しました。この晩は、青森駅の連絡船待合室で一泊、ユースには結局世話になりませんでした。

大槌を出た「陸中」は、二つ目の停車駅、陸中山田で636Dと交換する。この636D、山田線・釜石両線を通しで運転する列車で、250kmを7時間掛けて運転されていた。今なら、何本の列車にも分割されてしまう距離である。先頭キハ22292ほかの6連。北海道向けの寒冷地仕様のキハ22は、一部東北にも配置されていたが、この盛岡区が南限のキハ22だった。この陸中山田駅も地震による被害がすごかった。駅は、津波で破壊されたあと、火災が起こり、全焼してしまったという。二重の打撃を受けたわけで、再開の糸口さえ見えないようだ。

震災後の陸中山田駅(新潮社「日本鉄道旅行地図帳 東日本大震災の記録」より転載)

田沢湖線経由で秋田に到着したのが、日も暮れた19時08分、ちょうど羽越線ホームに、直江津発秋田行き821レが遅れて到着したところだった。牽引機を見に行くと、C571であった。煙突には何も付けず、スノープロウを付けた雪国のC571であった。動態保存中の現在の同機とは違う、逞しさを感じた。

高校生から、社会人までの約10年、全国各地を旅行できたのも、ユースホステルという、安価で健全な宿泊設備が全国に張り巡らされていたからこそと思います。それだけに、環境が変わったとはいえ、ユースホステルの衰退は残念なことです。全部で115泊したユースには、ここでは書ききれなかった、さまざまな思い出が今も甦ってきます。(終)

ユースで巡った鉄道旅 -16-

昨日は、山科の人間国宝宅へお邪魔して、いろいろ話を伺ってきました。人間国宝は、8月、9月連続して行われた東北支援の鉄道写真展に、たいへん貴重な写真の数々を展示されましたが、「大槌の鉄橋の写真がいちばん思い出深いです」と述懐されていました。ご承知の方もおられると思いますが、山田線大槌~吉里吉里間の大槌川橋梁は、東日本大震災の大津波で流出し、橋脚だけが残った無残な姿となりました。人間国宝は昭和40年前後に、その橋梁上を行く列車を撮っておられ、図らずも津波前後の定点撮影となったのです。いっぽう、I原さんも、その大槌の街をバックに大カーブを行くC58の列車を高台から撮っておられることが判明、写真展会場で披露されました。
大槌は津波の被害が甚大で、街は壊滅状態ですが、まだ平和な時代にしっかり記録を残されていることに、感銘を覚えました。そんな思いで、自分のベタ焼きを繰っていると、なんと私も大槌で撮影していたことが判明しました。ただ、私の場合は、単に交換列車を撮っただけですが、今回は、ユースシリーズの最終として、岩手県下の鉄道を巡った一日を記してみます。

この日は、下り夜行「津軽1号」で横手まで行き、北上線始発で北上へ、東北本線で花巻へ、釜石線に乗り換え釜石へ。ここから山田線で宮古経由で盛岡へと向かう乗り鉄の一日だった。横手5時22分発の始発列車で、初めての北上線に乗車、県境近くまで来るとさすがに雪が深くなってきた。雪明りの北上線陸中川尻駅で列車交換のため停車、雪明りの構内に列車を待つ人々の影が伸びている。陸中川尻は、現在「ほっとゆだ」に改称されている。

釜石駅前、新日鉄の釜石製鉄所が駅の真ん前にドカンと広がる光景に思わずカメラを向けた。太い煙突からはモクモクと煙が上がる。釜石も海岸部は津波で甚大な被害だったが、駅はやや小高い場所にあり、津波の直撃は免れたが、地震の揺れによる被害が大きかったようだ。この写真は、tsurukameさんのブログ「蒸気機関車山路を行く」にも使っていただいた。

釜石から乗った列車は仙台発釜石・山田・花輪線経由秋田行き急行「陸中」、東北地方に多かった多層階急行で、各所で分割・併結を繰り返す列車だ。大槌駅で列車交換のため、数分停車する。この当時、東北、いや全国で見られた、ごく当たり前の駅ホームの風景だ。ここが、ちょうど40年後のほぼ同月、こんな被害に合うとは…。ホームには、律儀そうな助役と、若手駅員が待ち構え、ボストンバッグを持った家族連れが列車の到着を待っている。漁業の盛んな地らしく、冷蔵車も見える。交換する列車は普通列車のように見えるが、前のキハ52×3連は回送で、その後にキハ58系3連が付いた、急行「そとやま」だった。今では考えられない、急行同士の交換だった。

山のラインで同位置と分かる大槌駅の惨状(新潮社「日本鉄道旅行地図帳 東日本大震災の記録」より転載)

ユースで巡った鉄道旅 -15-

向山のグリーンユースで泊まった翌日は、前記のように、南部縦貫鉄道へ行くことにしました。清々しい雪晴れの朝で、足取りも軽く駅へ向かいます。思わず撮影意欲が沸々と湧いてきましたが、これが間違いのもとでした。南部縦貫へ行く前に、欲張って三沢で下車して十和田観光電鉄も撮る計画に急遽変更しました。
ところが何としたことか、時刻表を読み違え、十和田観光電鉄を撮って南部縦貫が接続する野辺地に着くと、南部縦貫のレールバスは10分前に出たあと、次に戻ってくるのは数時間後。色気を出したばかりに、本命を逃してしまい、結局、南部縦貫鉄道はその後も行く機会はなく、一枚も撮れないまま廃止されてしまいました。

三沢で発着する十和田観光電鉄(十鉄)を撮りに行く。巨大な温泉旅館の近くまで歩き、モハ3401+クハ4401を撮る。たいへん垢抜けした、いかにも電車らしい電車である。この塗装がまたいい。1955年帝国車輌製、東北地方初の全金製である。十鉄では1981年から東急のステンレス車の導入が始まり、十鉄電化以来の生え抜きモハ2400や定山渓から来たモハ1207が廃車になった。しかし、2002年に全車東急車の置き換えが完了したのちも、このモハ3401だけはオリジナル塗装のまま、もう一両のモハ3603とともにイベント用として残っている。
ただ、十鉄は存続の危機に立っている。昨年の年間利用者は45万人で、10年前から24万人減少した。少子化、沿線人口の減少に加え、東北新幹線の全通による客離れが大きなダメージとなった。近くの新幹線七戸十和田駅から十和田湖などの観光地へバス路線が整備され、同駅と連絡しない十鉄は、いっそう取り残される結果となった。沿線自治体に財政支援を求めているが、財政難の折、難色を示していると報道されている。

南部縦貫に振られた野辺地駅では、つぎの列車まで発着する列車を撮るしかない。やがてED75に牽かれた下り「ゆうづる」が通過する。「ゆうづる」は3往復あったが、2往復は583系、残り1往復のみが20系客車で、いわばC62「ゆうづる」の血統を受け継いだ伝統の列車だった。この時代、東北本線の牽引はすべてED75、ブルトレは20系、そしてヘッドマークは付いていない。あまり興味の湧かない時代であった。

訪れた昭和46年2月、札幌では冬季オリンピックが行われていた。これに合わせて、観客輸送のため、札幌~函館間、青森~上野間に臨時特急「オリンピア」が運転された。函館~札幌間は82系DCで、上野~青森間は写真の583系で、下りは常磐線経由の夜行、写真の上りは東北線経由の昼行だった。「オリンピア」と言えば、東京オリンピックの際に運転された151系が有名だが、札幌オリンピックでも、期間中の18日間だけ運転された。ただ、北海道への移動は航空機が常識になりつつあり、設定も急だったため告知が十分でなく、利用率は散々だったようだ。まぁ、この列車が撮れただけで、南部縦貫の代償にはなった。

ユースで巡った鉄道旅 -14-

気がつくと、すっかり涼しくなりました。当方、暑い期間は想定外の業務が飛び込み、掲示板では全く役立たずの状態が続いていました。ようやく落ち着きましたので、復帰することにします。
まずは、ユースシリーズから参りましょう。
前回からの東北の続きとして、今回は、向山駅近くのグリーンユースを紹介します。向山と言っても、ピンと来ない駅ですが、東北本線は、三沢のひとつ下り方にある小駅で、今では青い森鉄道の駅になっています。このユースは、当会のI原さんから”ぜひ泊まれ”と勧められたことが発端だったように思います。その勧めた真意はついぞ聞き漏らしましたが、駅からすぐ近くの牧場の横に建つユースは、冬期とあって宿泊客も少なく、居心地のいいユースだった印象が残っています。寝ている最中に強い地震があり、飛び起きたことも覚えています。付近に観光地もなく、その後は廃止されたと思っていたら、名前を改めて今でも営業中と分かりました。
このユースに泊まった目的は、八戸線の撮影と、南部縦貫鉄道の撮影でしたが…。

青森駅でステーションホテルをして、早朝の八戸に着いた。東北本線から八戸線を分岐するこの駅は、訪問の前年、昭和46年4月に尻内から八戸に改称されたばかりで、それまでは、現在の本八戸が八戸と称していた。尻内と言えば、東北本線蒸機時代、勾配区間の補助機関車の基地として名を馳せていた。〔尻〕の区名板が、その役割にうまくはまっていた。八戸改め本八戸まで行き、跨線橋を渡ると、ちょうどC58の牽く八戸線の貨物列車が発車したところだった。踏切が開くと、寒そうに白い息を吐いた人々が通り過ぎて行った。

八戸線では、C58の牽く客車列車が朝に1往復設定されていた。一戸発1627列車と野辺地発534列車が八戸で併結されて鮫まで行く列車で、鮫ですぐ折り返し、C58のバック運転で、八戸へ戻る運用だった。東北本線から乗り換えなしで本八戸、鮫への通勤・通学輸送を目的とした設定のようだが、東北本線が第三セクター化された後も、なぜか一戸発鮫行き列車がそのまま残っていた。IGR、青い森、JRと、3社にまたがる珍しい列車だった。本八戸で降りて、近くの馬淵川鉄橋で、この客レを迎える。晴れてはいるが、とにかく風邪がきつかったことだけは覚えている。

本八戸で撮影したのち、終点の久慈まで向かうと、途中から雪模様になった。乗った631Dは、キハ17270+キハ17253+キハ17250の3連、あの蛙の腹のようなビニールシートは冬にはこたえた。この頃のローカル線気動車は、多形式の混結が常であったが、八戸線は、一部にキハ22が使われていたものの、あとは見事なくらいにキハ17に統一されていた。これはこれで編成美があった。

種市での到着風景、乗り込む老婦人の見事なまでの同一ファッションには驚く。他の地域ではまず見られない、東北ならではの光景だ。この時代、旅行していると、生活、文化、経済すべてに渡って、東北は後進地域だと実感できるシーンがよく見られた。他ではもう見られなかった、板垣退助の百円札が堂々と通用していたのも東北だった(もっとも、東京でも上野駅だけは百円札が使われていたのには、さすがと思ったものだ)。

いっぽう貨物列車は、八戸区のC58でかなりの本数が設定されていた。陸奥湊で降りて、近くの新井田川鉄橋で待ち構える。河口に近い、この付近にも東日本大震災の際には、津波が押し寄せたが、橋梁流失までには至らなかった。ただ、種市以南は鉄橋流失などにより現在も不通で、再開は来年度以降とアナウンスされている。

ユースで巡った鉄道旅 -15-

前回紹介の奥中山ユース、こんな不便極まりないユースに泊まったのは、特派員以外には絶対にいないと確信していたところへ、米手作市さんが泊まったとコメントを寄せられたのには驚きました。同じような体験をされ、しかも数回に渡って宿泊されたとは、恐れ入った次第です。さて、蛾が乱舞する汚いバンガローで泥のように眠った翌日は、絶好の天気。体力、気力とも十分に回復して、高原頂上のユースを出発します。途中、止まってくれた耕運機の荷台に便乗して駅近くまで行き、本日の狂化合宿地、龍ケ森へと向かいました。

奥中山から146レに乗り、好摩へ。途中、御堂で下り臨時急行「第2おいらせ」と交換する。東北本線はほとんどが複線化されていたが、沼宮内~御堂間のように単線のまま残っている区間もあり、このような上下列車の交換がまだ残っていた。電化開業を前にしたこの時期、優等列車はほぼEL・DL牽引だったが、「第2おいらせ」だけは蒸機牽引で残っていた。牽引はD511113〔尻〕+C6013〔盛〕と、盛岡以北の客車牽引の標準的な組合せであった。続く客車は臨時ながらも10系客車で編成されていた。本務の機関助士がキャブから乗り出すようにして、誇らしげに通過して行った。左は乗車の146レ

狂化合宿は龍ケ森を舞台に2日間に渡って行われ、その後、再びDRFCのメンバー4人とともに、奥中山へ戻ってきた。最後を見届けたかったのと、本日は特別な列車が走るためであった。三重連は今日も何本か見られた。あいにく天気は下り坂で、もう吉谷地カーブへ行く意欲はなく、駅の周辺を行ったり来たりしている。ナメクジD51を先頭にした上り三重連貨物は、下り勾配を軽快に下ってきた。ドラフトも煙もないが、ドレンをわずかに吐きながら、安堵の表情を見せて駅構内に入ってくる蒸機の姿もまたいいものだ。

本日の特別な列車とは、お召編成9109レだ。と言っても本番ではなく、回送で1号御料車編成が通過するのだ。この時、北海道で開道百周年に伴う行幸があり、お召し列車が北海道で運転される。もちろん天皇は空路北海道入りのため、お召編成は、遠路はるばる北海道まで運ばれるという次第。DRFCの面々と駅北側の踏切で待つことしばし、やって来た9109レ、牽引はDD51あたりかとの予測が外れ、現れたのはC6128〔青〕、蒸機であることは貴重なのだが、肝心のお召編成はドレーンに包まれてしまい、ほとんど見えない。1号御料車には、すっぽりと白布が覆われていたのには驚いた。

奥中山駅の駅舎は、二重となった仕切り、勾配屋根、雪止めと、すっかり雪国の仕様になっている。これ以降、昼間に奥中山を通ることはなくなったが、付近は「奥中山高原」の名でリゾート開発が進められ、自然休養村、スパ、キャンプ場、天文台、スキー場などが散在しているという。かつての鄙びた高原は、すっかり姿を変えているようだ。駅も、IGRいわて銀河鉄道の奥中山高原駅と名を改めている。あの強烈な思い出を残したユースはネットによると昭和56年には閉鎖されている。

薄暗くなりかけた頃、45レに乗って奥中山を去った。朝は一緒だったDRFCメンバーも次の目的地へ向かい、自分ひとりだけが残って、しつこく撮っていた。45レは、C6020+D51という通常とは逆パターンの牽引、尻内(現:八戸)でホームの先頭へ行ってみると、さらに前にD51が付いている。一戸で増結したらしいが、夜間ながら旅客列車の三重連が実現している。途中からさらに雨は激しくなってきた。窓ガラスに水滴をまとわり着かせながら、列車は北上を続ける。旅はまだ始まったばかり、これから、青函連絡船に乗り、初めての北海道に向かう、大学一年生の夏であった。

いよいよ開催 「鉄道展-東北を旅して」

クローバー会会員にはすでにご案内していますが、佐竹保雄さん写真展・津田雅司さん模型運転会「鉄道展-東北を旅して」が、いよいよ明日から、下記の日程・場所で開催されます。

7月22日(金)~28日(木) 11:00~16:00 (24日(日)休館)

からしだね館 地下ホール (京都市営地下鉄東西線「小野」下車、1番出口から南へ1分 小野交差点の西南角)

設営日に当たる本日は朝から多くのクローバー会会員が訪れ、設備の搬入、レイアウトの調整、写真の展示などに汗を流し、夕方には準備完了、あとは来場者を迎えるまでになりました。ぜひ期間中にご来場いただき、写真・模型を通じて、美しかった東北を偲び、東北の一日も早い復興にお手伝いをしていただくよう、お願いいたします。

▲朝から準備に当たる会員達

▲N・HOのレイアウトには、東北ゆかりの列車が走る

さて、このイベントでは、クローバー会は後援団体として、鉄道グッズのチャリティコーナーの運営を任されました。会員の皆さんに理解を求めましたところ、多くの会員から、貴重品・ガラクタの中から選りすぐりの逸品を惜しげもなく放出していただきました。なんとその数約800アイテム! ほとんどが1点100円という超特価、売上は全額、東北復興に寄付いたします。

特派員も開催前に黙って買ってしまおうかと思ったほどの、お値打ち品の数々。早いもん勝ち、もちろんクローバー会会員でも買っていただけます。ぜひご来場ください。

▲会員の協力で実現した鉄道グッズコーナー

▲思わぬ貴重品も、ワンコインでOK

ユースで巡った鉄道旅 -13-

続きも東北のユースの話を。
蒸機時代の東北の名所と言えば、龍ケ森と奥中山が双璧でしょう。その2ヵ所をハシゴしたのが、昭和43年、大学1年の夏休みでした。龍ケ森で当会伝統の狂化合宿が厳かに且つ賑々しく行われ、その参加の前後に奥中山にも寄ったのでした。
龍ケ森はまだハチロクが全盛、奥中山も同年のヨンサントウ改正を前に、大型蒸機が最後の活躍を見せていました。今回紹介するのは奥中山ユース、奥中山の名は知られていても、ユースの名はほとんど認知されていませんでした。
なにせ奥中山駅から交通機関のない山道を1時間以上歩かないことには到着できない、未踏のユースなのです。この時は、別のユースに宿泊予約を入れていながら、止むを得ず泊まるハメになったのです。その経緯は後述するとして、奥中山の一日から綴ってみました。

前日、磐越東線でD60を撮ったあと、急行「八甲田」で深夜の盛岡入り。駅のベンチで合宿用に買った寝袋で仮眠をして、夜明けとともに駅裏の盛岡機関区へ向かう。真っ先に目に飛び込んできたのが、C60のトップナンバー機だった。「1」のナンバーを見ると、とくに蒸機の場合は感慨深いものがある。東北のカマらしく煙突回りに小デフを付けている。盛岡区は最後の大型蒸機で賑わっており、前にも紹介したが、区に置かれている「ゆうづる」「はくつる」のヘッドマークをC60、C61に付けては楽しんだ。C601は、この年の10月の東北本線完全電化で廃車となり、翌年には仙台市の西公園に保存された。以前、Fさんと仙台市電を撮りに行った時に、同公園で保存されているC601に再会している。

盛岡7時50分発の539レで、いよいよ奥中山へ向かう。D51868〔尻〕+C6018〔盛〕の重連。盛岡を出ると車窓に見える岩手山の山容、そして、厨川、滝沢、渋民、好摩、と続く駅名の響きが、「みちのくへ来た」という感慨になる。御堂~奥中山の中間にある、有名な吉谷地の大カーブに列車は差し掛かる。東北本線は、腹付け線増された区間が多く、このように上下線が離れている区間が多い。広々とした雄大な東北らしさを演出してくれている。

沼宮内で若干の停車時間がある。ホームのすぐ横の側線には、これから始まる十三本木峠の難所に備えて、多くの補機が休んでいる。ホームから飛び降りて、ひと通り写し回った中で、今度はD51のトップナンバー機と初めて出会った。同機は、トップナンバー故か、用途を終えると、その後、各地へ転属を繰り返す。私も各地で出会ったが、特別扱いされることなく、多くの本務・補機の一員として黙々と働いている、この時期の姿が、いちばん似合っていた気がする。

待望の奥中山到着、頬をなでる風もさすがに涼しさを感じる。駅でダイヤを聞こうとすると、ちょうどD51三重連が通過してしまい、臍をかむ。トンネルを越えて吉谷地の大カーブへ向かうが、来る列車、DD51かED75ばかりで、蒸機が全く来ない。トンネルを越えた水路橋の下で捕らえたED75132の荷43レも、これが蒸機だったらと悔やんだものだが、今となっては、かえって貴重な記録かもしれない。

一緒になったファンから、奥中山で撮っても、煙の期待できる下りの蒸機列車はほとんど来ないので、峠の反対側の小繋へ行かないかと誘われる。奥中山以上に雄大な区間があるし、煙を期待できる上り蒸機列車も多いと言う。思い留まればよかったものの、疲労と空腹で思考能力も著しく低下していた。ノコノコ着いて行ったのが、悲劇の始まりだった。小繋まで行き、炎天下の中を4キロほど歩いて、小繋~小鳥谷間の中間地点まで来た。確かに雄大な光景ではあるが、架線に阻まれてロングは難しい。ふと今晩予約していた、花輪線大更駅前のユースが気になって時刻表を見ると、まだ16時前後というのに、本日中に大更までの到着が不可能なことが分かった。東北本線と接続する好摩の下り花輪線の最終はなんと18時47分、夏ならガンガン照りの時間帯にもう終列車が出てしまうのだった。

一瞬、顔が青ざめた。もう撮影どころではない。同行のファンから離れ、もと来た線路上を必死になって戻った。途中でD51三重連が通過、本日初めての三重連だが気もそぞろ。奥中山にユースがあることを思い出し、何とかここまでは到達したい、しかし奥中山は次の駅なのに、運悪く列車は数時間も先、もうここは、初めて経験するヒッチハイクしかない。恥ずかしそうに手を挙げるが、クルマは止まる気配もない。やっと止まってくれた大型トラックの運転手に懇願し、奥中山駅まで送ってもらう。
ところが駅で聞くと、ユースは駅からはるかに離れた高原の頂上に所在し、駅からは歩くしかないと言う。1ヵ月分に近い重い荷物を背負い、夜行連続でほとんど寝られず、しかも前日から何も口にしていない。水も尽きた。靴ずれの足も痛む。夢遊病者のようにフラフラになりながら、山道を歩き、ようやくユースに到着した。ところが悲劇はまだ待っていた。まさか宿泊客など居るはずがないと思っていたところ、近隣の林間学校生が大量に宿泊し、これ以上は泊められないと言う返事、思わず床に倒れそうになったが、拝み倒して、薄汚いバンガローの片隅にようやく泊めてもらえることができた。もうとにかく、体力の極限まで使い果たした、奥中山ユースだった

ユースで巡った鉄道旅 -12-

今回のユース巡りは、東北の被災地近くにあったユースに目を転じました。
大震災からの復旧の端緒が見えないJR線の中で、原発事故も重なった常磐線北部は、最大のダメージ区間でしょう。現在、久ノ浜~亘理間は、全く復旧の見込みが立っていません。この常磐線北部、45年前には、日本で唯一、C62の牽く特急が撮れる区間として、賑わっていた場所でした。
私も高校3年の時、一度だけ撮りに行きました。撮影で利用したのが平ユースホステルでした。ここは少しの記憶が残っており、平駅からバスに相当乗って、最寄バス停で下車、海岸へ向かって田んぼの中の一本道を行った先に、目指すユースはありました。訪れたのは、夏休みも残り少ない時期で、宿泊客もほとんどなく、食堂からは海岸風景が望めました。今も健在な公営のユースですが、震災の影響で当分の間、休館とのことでした。津波の影響があったのかもしれません。

「ゆうづる」のC62牽引区間は仙台~平、夜行列車なので、撮影地は限定される。平から二つ目の四ツ倉がもっとも行きやすいところだった。これを撮るためのアクセスは、上野22時24分発の常磐線経由の青森行き、夜行鈍行227レに乗り、四ツ倉4時12分着で行くのが、唯一最上の手段で、227レの編成前部は、カメラを持った人間にほぼ独占されていた。
四ツ倉に着いて撮影地へ向かうが、もう完全に電化が完成している。もう少し早く来ていたらと悔やまれるが、今から思うと、高校3年生の身で、京都からよくぞ行ったものと思う。「ゆうづる」が通過する前に何本かの蒸機列車の通過があり、テストが出来る。カーブの外側から、C6237の牽く普通列車を狙う。当時は、周囲を入れようという意識はなく、とにかく蒸機の迫力を表現するため、画面ギリギリに入れるのが好きだったが、予想より煙が出すぎてしまい、爆煙が切れてしまった。

本命の「ゆうづる」の四ツ倉通過時刻は、5時50分ごろ。まだ光量が十分でないことを考慮して、初めて高感度のトライX一本を購入し、うやうやしく詰めたカメラを構える。四ツ倉から久ノ浜方面に歩き、鞍掛山トンネルまでの間を探すも、編成全体を見通すことは架線柱に阻まれてかえって不利と考え、ここでもC62と20系数両だけを切り取ることにした。下からあおると、半逆光線にC62の動輪やボイラーが輝いた。牽引機は、ゆうづる専用機に近い23号機だった。

当時の常磐線の非電化区間の平以北では、旅客がC62、C61、C60、貨物がD51が使用されていた。ハドソン三兄弟が揃い踏みしていたのは常磐線だけだった。C62が余りにも有名で、C61、C60は影が薄かった。とくにC61は、平区に1両だけの配置だった。近頃のC6120の動態運転の記事を見ても、過去の写真は奥羽本線や日豊本線ばかりで、常磐線は見たことがない。仙台行き223レを牽くC6121、動態運転中のC6120とは1番違いのカマは、この年に廃車されてしまった。

常磐線は、東北本線より距離が少し長いが、線形が良いため、東北へ向かう優等列車が多く運転されていた。伝統の特急「はつかり」も設定当時から常磐線経由で、昭和35年12月から、それまでのC62牽引の客車編成から、キハ81系に替わった。運転当初は、事故や故障が続発したが、その後に誕生したキハ82と同様に改造してからは順調になり、キロ2両、キサシを組み込んだ、東北唯一の昼行特急に相応しい編成となっていた。もちろん初めての撮影であり、よくよく見ると何とも愛嬌のある顔をしている。翌年の東北本線完全電化により、「はつかり」は581系化されることになり、キハ81系は、昭和44年から「ひたち」「いなほ」に転用される。


四ツ倉駅に到着する226レ、一日の撮影を終え、この列車に乗って、平まで行ってユースへ向かった。浜通りと呼ばれる、福島県の常磐線沿線にはかつて多くの専用線が分岐し、古典蒸機が活躍していた。四ツ倉もそのひとつで、住友セメント四倉工場専用線が駅の裏側から八茎鉱山へ向かい、ナスミス・ウイルソンの600形が動いていた。昭和40年代が全盛時代で、蒸機に代わったDLが24時間運転していたようだが、昭和57年の工場閉鎖とともに専用線も廃止されたが、今でも廃線跡は残っているらしい。現在では福島原発の避難地域が久ノ浜以北となり、いわき~草野~四ツ倉~久ノ浜は、特別ダイヤで運転されている。

平駅。8月の終わり、残暑の厳しい時期だった。駅舎、自動車の姿を見ると、今昔の感がする。駅の所在する、いわき市は、訪れた前年に、平、勿来、磐城などの14市町村が合併して、当時日本一大きな面積を持つ、いわき市が誕生した。平駅も、平成6年に「いわき」に改称されてしまい、名実ともに「平」の名は消えてしまったが、ユースの名称だけは今も平を堅持している。その後、この駅を訪れる機会は無いが、ネットで現状を見ると、再開発の大型ビルが林立しているようだ。

ユースで巡った鉄道旅 -11-

大社線を行く

回からの山陰つながりで、もう一軒、大社のユースについて触れてみます。出雲大社の参道沿いの「ゑびすや」というユースです。例によってユースの記憶が全く残っていませんが、昭和46年9月、山陰本線で撮影したあと、夕方に投宿、翌日、大社線で撮影しています。
名前からすると、大社の門前旅館に併設されたユースと想像されます。もうすっかり消えてなくなっていると思い、念のため検索してみると、まだ盛業中なのが判明しました。立派なホームページもあり、なんでもユースの場所は、阿国歌舞伎の劇場跡に建てられ、明治の時代から旅館としての歴史を有し、戦後すぐにユースを開設したという老舗のユースだったのです。

社線は、当時、典型的な赤字盲腸線だったが、そこは由緒正しき、出雲大社への参宮路線、ひと味違う列車が走っていた。大社へは、大阪から直通の急行「だいせん」がなんと3往復(夜行2、昼行1)、名古屋からも小浜・宮津線経由で「大社」が運転されていた(すべて大社線内は普通列車)。大阪からの直通急行は、昭和10年から運転されていると言い、わずか7.5キロの路線ながら、歴史と格は違っていた。C11261の逆行で大社駅に到着したのが「だいせん崩れ」の125レ。C11の次位に荷貨客共用貨車で、パレット輸送用のワサフ8000を連結しているのが、この時代を反映している。

戻りの上りとなると、大阪行きは1本のみで、残り大阪・名古屋行きは車両基地のある、出雲市からの発車となるため、大社に到着した列車は、客扱いのまま普通列車として出雲市へ戻って行く。出雲高松駅で下車して、すぐの大カーブで、上記列車の返しとなる126レを捉える。営業はしていないものの、ロネ、ハネ、ロザを連結した、12両編成の豪華な普通列車が出現する。

大社線の中間駅は、出雲高松、荒茅の2駅のみ。126レを撮ったあと、少し歩いて、出雲名物の築地松の見える地点で、128レを待って、C11261+無蓋車+客車を撮る。混合列車が、この時代でもまだ運転されていた。米子区のC11は、全機シールドビームで、回転式火の粉止めを付けた姿は、末路を暗示しているようだった。

ユース宿泊に先立つ7年前にも、臨時急行「伯耆」に乗って、大社線に乗っている。以前にも記したが、その牽引機はC51、それも化粧煙突の米子区の80号機だった。カーブに差し掛かると、窓から乗り出してハーフサイズのカメラで編成を撮っている。中学3年生にとっては精一杯の撮影行為だった。大社線では、この出雲高松~荒茅間のこのカーブが唯一で、あとはすべて直線で、上記126レを捉えた位置と同じだった。なお、戻りの列車は、キハ06の単行だった。

昭和46年訪問時は、出雲高松駅で128レに乗って出雲市へ向かい、大社線を離れる。駅は棒線一本のみの駅。格式のある参宮路線も、次第に輸送密度が低下してきた。大社駅へ降りても、出雲大社へは1.5キロほど歩かねばならず、参拝客は徐々に自動車、バスへ転移していく。結局、特定地交線の第三次廃止路線に指定され、平成2年4月に廃止となる。出雲高松駅ホーム跡は今も残っているという。

有名な大社駅の駅舎は、大正13年に全面的に改築された二代目である。著名な社寺の最寄り駅を、社寺を模した駅舎とすることが、流行った時代の産物でもあった。大社線の廃止の前年、平成元年に乗ったキハ40単行の列車は110%の混雑で、大社駅も最後の賑わいを見せていた。

大社駅には、翌年の廃止の予告看板が早くも掲げられ、廃止前のイベントが行われていた。大社造りと称される二層屋根の神殿風の駅舎は、廃止後も線路とともに残され、国の重要文化財にも指定されている。その後の廃線跡は、ほとんどがサイクリング道として整備されている。

ユースで巡った鉄道旅 -10-

久しぶりの本シリーズ、九州を切り上げ、つぎは中国地方へ行くこととしましょう。
中国地方の中でも、山陰西部は、関西から近いものの、なかなか行きにくいところです。本掲示板でもこの地方の報告は見たことがありません。陰陽連絡線が恐ろしく不便になったことも原因なのでしょうか。
40年前は、山陽本線には夜行が多く走り、山陰へのアクセスも、どの線区からでも容易に入ることができました。いまや不便極まりない木次線にも、広島から夜行急行が走っていたとは、現状と照らすと信じられないことです。
ユースの立地条件から見ると著名な観光地が少なかった故か、ユース自体が少なく、泊まったと言えば、大社と浜田だけでした。今回の浜田ユースは、商人宿のような古びた建物を改装した典型的な民営ユースでした。浜田駅から歩いて数分、市内を流れる川に沿ったところにありました。9月の残暑厳しい時で、部屋に西日がガンガン入り込んだのだけをなぜか覚えています。今は閉鎖されたようで、検索しても、この名は出てきませんでした。

ユースへ向かう前に、浜田機関区に立ち寄る。夕陽を受けたC57の前面と、煉瓦庫が鈍く輝く。浜田機関区には、最後のC54がいたことで有名だった。私は京都駅でC54を目撃したことはあるが、写すことはできなかった。製造わずか17両、福知山から浜田へ流れ、山陰を根城にした目立たないカマだったが、独特のスタイルは好ましかった。C51の後継機にもかかわらず、C51よりも早く昭和38年に全廃されている。それは、遠方へ撮影に行ける環境の整った、わずか3、4年前のことで、今なら瞬きするような時間差だが、その当時は、取り返しのつかない遥か昔の出来事のように感じた。

浜田に泊まった目的は、三江北線のC56の牽く貨物を撮ること。当時、三江線として全通しておらず、三江北線は浜原までだった。貨物は早朝に浜原へ向かい、小憩ののち、浜田へ戻るダイヤ。一番列車で終点の浜原に着いたものの、転車台もなく、期待のC56はワフ1両とともに、尻を向けて、静かに息をしているだけだった。

終点の手前、浜原~粕淵間で、三江北線は江の川を渡る。河原へ降りて、その頃でも数の少ないDC列車を写す。キハ25+キハ25+キハユニ26という、当時のローカル線の典型的な編成だった。訪れた年の翌年、昭和47年に三江北線は集中豪雨に見舞われ、この橋脚も崩壊してしまい、以後2年余り不通のままの状態が続いた。

目を山陰本線の西部(米子以西)に転じると、特急列車は「まつかぜ」「やくも」、急行は東京からの「出雲」など、数多くの優等列車が運転され、今では死語のような”亜幹線”がピッタリする線区だった。キハ82は全国区の特急用車両であり、人によって思い出は様々だろうが、私にとってキハ82と言えば、まず「まつかぜ」だ。デビュー間もない時期に、家族で鳥取へ旅行した時に「まつかぜ」に乗ったことがある。暗く陰鬱な山陰に舞い降りた、それは華々しい特急だと子供心にも感じたものだ。

一方、普通列車は、大まかに言って、米子~浜田はC57、浜田以西はD51だった。C57は集煙装置付きが多く、見栄えの点ではもうひとつだが、時として、このように重連も設定されていた。米子~浜田は、海岸沿いを走る区間はあるものの、なかなか撮影に適したところが少なく、これは地上時代の出雲市駅での撮影。手前の架線は一畑電鉄のもの。米子付近の普通列車には、荷物車代用のワキが連結されていたのが、大きな特色だった。この写真でも、C57の次位にワキが見える。

いっぽう、浜田以西になると、旅客はD51牽引が多くなるものの、海沿いの撮影適地が多くなる。撮影地ガイトも無い時代、五万分の一地図を見ながら車内からロケハンしたものだ。これは、朝の三見~飯井間を行くD51の牽く貨物列車。この区間で朝から撮ろうと思っても、浜田のユース泊では時間が掛かる。そこで利用したのが、米子~博多間の夜行急行「さんべ」、北九州と山陰という、それほど需要がありそうにも無い区間にも夜行が設定されていた。山陰均一周遊券の場合、自由周遊地域への入り込みは、山陰本線幡生経由も認められていたから好都合だった。