撮り納めは、雪の八瀬で

今年最後の日、京都は朝から雪が降り続き、数年ぶりの積雪となりました。
雪を見ると、居ても立ってもいられないのは、この歳になっても変わりません。はやる心を抑えながら、午後から叡山電鉄の八瀬比叡山口まで出かけました。約20センチ、しばらく経験したことがないような積雪です。
八瀬比叡山口駅では、四季を通じて狙ってきたシーンがあります。
ホームから電車の入構を見ると、カーブした大屋根の向こうに、四季の光景が額絵のように広がます。桜、新緑、紅葉と、四季のテーマをとらえることができたものの、雪だけは、何回行っても空振りに終わっていましたが、今日ようやく、それが叶いました。

大屋根の向こうは白銀の世界だった。こんな時は、原色のエンジ・クリームの車両が似合うが、今やラッシュ用で、車庫に休んでいた。

の一年、まぁ、よく出掛けて写しました。好き勝手に行けるのも、心身ともに健康であるからこそ、この環境に感謝しながら、来たる年の飛躍を誓うのでした。
皆さま、よき年をお迎えください。

489を流す

先週末のことになりますが、久しぶりに489系ボンネット編成が東海道線に姿を見せました。修学旅行の団体列車として金沢~大阪間を走ったものです。大阪行きの回送は、ぶんしゅうさんと山崎で待ち受けようとしていたところ、ダイヤを読み違えで寸前のところでアウト! 戻りの金沢行きを日没後の山崎駅で辛うじて写すことができました。

金沢総合車両所の489系ボンネット編成は、ことし3月改正で最後の定期運用「能登」から離脱しましたが、残った1編成は、特急の代走をしたり、団体列車で東京・大阪・京都へも来たり、予想外の活躍を続けています。
「臨時」表示ではありますが、ボンネットの姿、いいものです。自分自身が鉄道に目覚めた頃から走っている、50年間続くスタイルを見ると、つい鉄道少年だった時代のことを思い返したりします。
今まで489系ボンネット編成を、好んで撮りに行きましたが、時々、流し撮りをして楽しんでいます。流すことによってボンネット部がより強調され、DT32系台車の上に大きな車体が乗って、下回りがスコンと透けて見えるのが大好きです。
もちろんすべて成功するわけではなく、目も当てられない写真のほうが多いのですが、それだけに決まった時は快感です。撮りためた中からいくつかを紹介しましょう。

流し撮りの基本は、数を稼ぐことから始まる。一日10数往復も「雷鳥」が運転されていた時代、居住地近くの山崎~長岡京間には、流し撮りに適した真横から狙える区間がいくつかあり、よく自転車に乗って行ったものだ。「雷鳥」編成には、スカート部に切り欠きがあり、美観を損ねているが、真横なら、それも気にならない。この写真は、乗務員ドア付近は確かに止まっているが、アタマは流れてしまっている。斜めから撮る場合、止まるのは一点だけで、それをアタマに持ってくるのはなかなか難しい。

薄暮時に「しらさぎ」を流し撮りをする。露出の厳しい時間帯だけに、その低速シャッターがちょうど流し撮りに使える。北陸本線田村付近、バックは琵琶湖岸であり、空で抜くこともできる。当時、「しらさぎ」もボンネットだった。しかも「雷鳥」と違って、連結器カバーも付いたオリジナルのボンネットだ。前照灯を輝かせ、夕闇迫る湖東路を名古屋へ急ぐ姿である。

「能登」の廃止後も、今年の春は波動用として、ボンネットは、しばしば京都・大阪へ顔を見せた。ところが、ヘッドマークは良くて「臨時」、下手をすると、マークなしの蛍光灯むき出しの姿で、絵にならないこと夥しく、正面勝ちの撮影では全くサマにならない。そんな時、サイドからの流し撮りは有効な方法である。山崎付近でバックに緑を入れ、国鉄色が引き立つようにした。

ここで、流し撮りの方法をひとつ‥。カメラの流し方は、巷のハウツウどおり、腰を基点にして、上半身を振る抜く、野球のスイングと同じだ。つぎにシャッター速度だが、上ると成功率は高まるが、バックが流れない。私としては、確実に決めたいときは1/125S、成功率は低くなるがバックをより流したい場合は1/60S以下としている。それと、連続シャッターを使用する場合、高速ではなく、低速を選択している。高速連写だと、ほとんど幕が下りたままでファインダー視野から対象物が確認できないが、低速だと、幕の開閉の間にしっかり対象を眼で追うことができる。この春も、琵琶湖をバックに1/125Sで真横の編成を抜いてみた。

追憶の九州 一人旅 (4)

大畑再訪

「ゲキ☆ヤス土日きっぷ」を使った九州の旅も終盤となります。日豊本線で485系を撮ったあとは、肥薩線の山線区間の再訪とします。隼人から乗る特急「はやとの風」は、日曜日とあって自由席の確保が心配でしたが、案に相違してガラガラ、木を多用した車内の設備とあいまって快適な列車の旅となりました。
途中、明治の駅舎としてブレイク中の嘉例川駅に停車すると、すごい人出に迎えられます。ところが、駅前を見ると自家用車で満杯、何のことはない、鉄道を一切利用せず、鉄道の名所を車で訪れる現実に、鉄道ブームの断片を見た思いでした。終着の吉松駅に着いて、向かいのホームの「しんぺい」に接続1分間で連絡、いよいよ肥薩線の山線区間に入って行きます。
平成16年の九州新幹線の開業時に生まれた観光列車「しんぺい」「いさぶろう」は吉松~人吉間に2往復、上りを「しんぺい」、下りを「いさぶろう」と呼びます。指定券があれば乗れる普通列車で、絶景ポイントでは停車・徐行、車載カメラからの展望ビデオの放映、真幸、矢岳、大畑の各駅では10分余りの停車、駅では地元の特産品販売、そして制服の似合うアテンダントの甲斐甲斐しい接客と、観光列車らしいサービスがたっぷり。
大畑も40年ぶりの再訪となりましたが、以前に大畑の情景に惚れ込んだTさんから、「大畑は木が茂ってあきまへんで」と聞かされていました。確かに、蒸機の時代と比べると、大畑ループは車両を超す草木が茂っていて見通しが利きません。名声を博した撮影地が最近はすっかり写せなくなったとよく聞きます。それは、人工物の構築より、むしろ草木の繁茂など自然の変化によるものが多いようです。
変化した車窓と、観光地化した山線に、かつての大畑を訪れた時の感動がなつかしく甦ってきました。

スイッチバックして大畑駅に進入する「しんぺい」。大畑駅の配線は昔と変化なく、通過のできないスイッチバック配線は、昔のままだった。

大畑駅で10分停車する「しんぺい」。キハ47、140の3両編成で、古代漆色と呼ばれるエンジのカラーが青空によく映える。

大畑ループを行く。歳月は自然も変えてしまった。本来なら駅までも見渡せる地点だが、見通しはほとんど利かない。

ループ線の矢岳寄りのカーブを登って行く1121レ、爆煙を上げるD51。大畑で迎える朝の光景は、蒸機の良さをしみじみと感じた。当時の草木の茂り方はこんなものだった。

 

1121レとは、門司港発、鹿児島本線・肥薩線・吉都線経由の都城行きの夜行鈍行だ。当時、九州にまだ多く走っていた夜行鈍行の一本。何度もお世話になった列車で、列車番号は変わっているが、戦前から走っている列車だった。冬の朝、ループ線を上がってくる1121レ、南九州とは言え、さすがに寒い。煙を編成全体に纏わりつかせながら、ループ線を上がってくる。煙の軌跡が、そのままループ線の形になって残っていた。

大畑駅で発車を待つD51の牽く混合列車。重装備のD51が先頭、わずか1両の客車は、本日は貴重なダブルルーフのスハフ32、その後に長大な貨車編成が続き、しんがりをまたD51が務める。

戻りとなる都城発門司港行き1122レが深夜の大畑駅に停車する。車内は1121レよりさらに空いていて、1両にほんの数人の乗客だった。D51と客車から洩れる光が、駅構内をほのかに照らす。これほど夜行列車の旅情があふれた列車もない。1121レ、1122レは昭和47年3月改正で消えた。

追憶の九州 一人旅 (3)

想定外の大淀川へ

九州で使用した切符は、前述のように、土日2日間、九州内の新幹線・特急乗り放題という「ゲキ☆ヤス土日きっぷ」でした。土日は特急に乗りまくり、座席車の夜行特急では唯一となった「ドリームにちりん」にも乗って、久しぶりの夜行体験と宿泊費節減を画策していました。
ところが、鳥栖から乗った「リレーつばめ」の車内の揺れ・室温のせいで、次第に体調が悪くなり、とても夜行に乗り通す体力・気力がなくなってしまいました。急遽、予定を変更して宿泊することにし、深夜22時過ぎ、宮崎駅に到着しました。
ホテルでゆっくり眠った翌朝は体調も戻り、未乗車区間の宮崎空港線の乗車までの約一時間を、当初は予定にはなかった大淀川河畔の撮影に当てることにしました。

ホテルを出て、宮崎県庁の前を通って大淀川河畔に到着する。川の流れは変わらないものの、マンションなどの大形の建築物が林立し、両岸の光景はすっかり変わってしまった。かつて、宮崎ではいちばんブランド力のあったホテルもあったはずだが、代替わりして名前が変わっている。下掲の写真とほぼ同じ、橋梁と並行する橘橋への階段から、813系を撮影する。シンボルのフェニックスに樹勢が衰えたせいか、それとも背後の高層建物のせいか、南国宮崎の表現としては、いささか弱かった。

現在の大淀川での注目列車は、来年3月の九州新幹線の全通で、一部の撤退が予想される485系だろう。九州の485系は、大分車両センターに主に3両編成が、鹿児島総合車両所に主に5両編成があり、「ひゅうが」「にちりん」「きりしま」に運用されるほか、この写真のように、ホームライナーにも使用されている。例によってド派手な塗色であるが、実際見るとそれほど違和感もない。赤・クリームの国鉄色が1編成あり、つい先ごろもう1編成も国鉄色に戻され、この日の午後には、国鉄色同士の交換を見ることができた。

40年前の大淀川橋梁、この近くにユースホステルが3軒あって、早めに起きて朝食前に散歩がてら河畔に行き、当時から定番であった、フェニックスを入れて、C57の牽く列車を何度も狙ったものだ。橋梁は、南北にあるため、朝夕のシルエット撮影には格好の撮影地であったが、何度行っても雨が曇天だった。ようやく果たせたのは、大学も終わりに近い4年の冬休みだった。

大淀川のある宮崎~南宮崎間は、区間列車もあって、列車本数の多いところであった。気動車列車もあり、このような、キハユニ16を先頭にしたキハ20×3の4両編成もあった。当時でも、電気式気動車をルーツとする湘南顔の気動車はかなり珍しかった。キハユニ16は、もとキハ44100で、運転台なしの中間車キハ44200を挟んだ3両編成となり、蒸機ばっかりの九州に初めて配属された。九州の無煙化を実現した車両であり、記念すべき車両の唯一の残党だった。