奇想天外「立体バス」! 交通渋滞解消方法

もうじき9月になりますが、まだまだ猛暑が続きます。熱中症にご注意ください。
予定では、満州をさまよって、将軍様の列車でも追いかけていたのでしょうが、都合で出られず引きこもり生活者です。仕方がないので中国鐡路の最新ニュースをインターネットを見ていると、奇想天外なニュースがありました。

「立体バス」、車道を跨いで走る鉄路と車両です。1階は車がすり抜けられるトンネル、2階は乗客用客室です。これなら市内の限られたスペースを有効に利用でき、大量輸送と走行中の車を邪魔することなく交通渋滞も緩和できます。日本では、法的に問題はあるのでしょうが、北京では来年にも建設されて来年末には試験運行されると、25日付で京華時報が伝えました。

道路だけでなく、既存の鉄路にも応用ができ、複々線も簡単に出来るのではと思いますが、皆様方いかがでしょうか?
外国からの技術のパクリばかりのコピー王国の中国ですが、これは独自の優れたアイデアとして、世界中から注目を浴びるでしょうね。出来たら直ぐに乗りに行きます。失礼ですが、こんな素晴らしい発想が中国で生まれたのは驚きです。
詳しくは、紹介されている下記HPをご覧ください。
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=44895&type=1&p=1&s=no#t
http://www.excite.co.jp/News/photo_news/p-193381/
http://people.icubetec.jp/a/cea0b1abb70841c0961076b9d117c6a9
http://www.asahi.com/international/jinmin/TKY201008260262.html

何時まで続く中央東線201系の運用

残暑お見舞い申し上げます。
 

 

既にH7編成のみとなり「さよなら運転」や「豊田での公開」など
のイベントも終りましたが未だ連日、定期運用に就いています。
何でもE233系の走行系ソフトウエアの調子がイマイチだからだと
ファンの間で囁かれています。
 
巷では「さよなら運転」とか最終列車を撮る人を葬式鉄と称し
更にその後を撮る人の事をハイエナ鉄と分類するのだそうです。
そうすると解体部品を漁るマニアは骨上げ鉄、廃線跡の調査は
さしずめ線歿舎慰霊鉄と言った所なのでしょうか? (苦笑)
 
閑話休題
今回の写真は201系の始発を狙った駅撮りです。これ迄に201系の
写真や多摩モノレールの写真を個々には撮っていますが、両者が
一緒に入った写真は持っていませんでした。
かつて掃き捨てる程に201系が走っていた頃には、見向きもしな
かった光景が、今となっては撮るのに苦労する訳であります。
幸いにも今日は立川~青梅間の往復運用に入りましたので、念願
の構図でゲットした次第です。
 
なお201系は10月末頃まで走るのではないかとの希望的観測です。
運用を調べられるなら「201系 運用」と検索されれば、YAHOO!
でも Google でも上位に該当サイトが出てきます。
しかし明日以降の運用は過去の動きから類推するしか無いです。
しかもダイヤの乱れ等によって運用がシフトしますので、撮影
できれば「幸運だった」と思う位の心持が必要です。

幌延町営軌道

泰和車両製5tDLの引く混合列車(問寒別市街~宗谷)

幌延町営軌道を訪れたのは、昭和44年9月8日一度だけである。前日の夜、札幌21時発急行「利尻2号」で出発、確か何名かのDRFC会員の方と一緒であった。旭川には日付が変わらない内に到着するためか満員で立ち客も見られた。旭川で半数以上の乗客が降り、機関車がC5516と交替した。深夜の宗谷本線を走り、幌延に4時57分に到着。通過した問寒別に戻るため、5時40分発上りの一番列車(336D)に乗り、6時11分に到着した。簡易軌道のりばで時刻表を確認すると、20線発の列車が8時10分に到着することが判明し、それまでの間、構内の廃車体や、問寒別駅を発車する「59689」の引く下り貨物列車、キハ22×2の下り1番列車(335D)を撮影した。町の外れで、DL+無蓋車+有蓋車+客車を撮影後、事務所に挨拶に行き、お話を伺った後、次の目的地「歌登町営軌道」に向かうべく324Dに乗車した。

【沿 革】

前身は、問寒別駅を起点に上問寒別16線に至る13.8キロの馬力線で、昭和5年9月10日に使用開始した。昭和14年8月14日豪雨による水害のため全線で運休、翌15年には運行を休止した。同年9月終点付近で砂クロームを採取していた「日本白金クローム㈱」が路線の応急修理を行い、20線を経て採鉱現場までの間4.3キロを建設して鉱石輸送を実施した。昭和16年9月、運行組合、北海道廰、天塩鉱業㈱の3社で協議の結果、天塩鉱業㈱が全線を無償で借り受けて運行することになった。同社は日本白金クローム㈱の延長区間を買収し、路盤、線路の強化を行い、翌17年9月より蒸気機関車1両、ガソリン機関車2両を導入して動力化した。昭和20年8月、敗戦により砂クロームの採掘が中止となり、20線から先の採掘場までの線路が撤去された。昭和22年6月北方産業㈱による石炭採掘の開始に伴い、20線~炭鉱間約3キロを伸延して石炭輸送を開始。昭和27年9月1日、幌延村が天塩鉱業㈱の所有部分を買収して村営化した。この時の動力車は、ガソリン機関車で7t車1両、5t車3両、1t車1両の5両であった。翌28年には7tのディーゼル機関車を導入したが、昭和31年12月車庫火災により全動力車が罹災し、その復旧費が経営を圧迫することになった。加えて昭和33年11月10日経営不振により炭鉱が閉鎖され、閉山処理が終了した昭和35年11月28日をもって20線~炭鉱間の運行を休止した。その後は、地域住民の旅客輸送、雪印乳業問寒別工場への生乳輸送、北海道大学天塩演習林からの原木輸送等で役割を果たしていたが、昭和43年以降、並行する道路の路盤改良と冬季の除雪が開始された結果、存在意義を失ってしまい、昭和46年5月31日をもって運行を終了し、7月3日に廃線式が実施された。

【車 両】

昭和44年10月時点での在籍車両は、次の通りである。

ディーゼル機関車8両、内訳/昭和30年旭重工業製8t(昭和31年幌延炭鉱より購入)、昭和28年日立製作所製7t(昭和32年4月泰和車両にて更新修繕)、昭和29年日立製作所製7t(昭和32年4月泰和車両にて更新修繕)、昭和35年泰和車両製7t、昭和37年加藤製作所製7t、昭和38年泰和車両製7t、昭和38年泰和車両製6t(除雪装置付)昭和42年泰和車両製5t

牽引客車2両/昭和25年日本鉄道自動車製で昭和39年に車体更新し、木製車体に鋼板を張りニセスチール化した。(昭和31年11月当別線より転入)

6t鉄製有蓋貨車2両、内訳/昭和35年釧路製作所製、昭和36年泰和車両製

鉄製運材車50両

自走客車は最後まで入線しなかった。

 

昭和42年泰和車両製5tDL/廃止後、幌延町役場前の名林公園に牽引客車1両と共に保存されていたが、老朽化が激しく平成3年に惜しくも解体されてしまった。

 

牽引客車/上窓がHゴムになっており、鋼製車のように見えるが、実態は木製車体に鉄板を張っただけのニセスチール車。1両は5tDLに連結されて保存されていたが、惜しくも解体されてしまった。

 

6t鉄製有蓋貨車/昭和36年泰和車両製

 

昭和25年天塩鉱業自社工場製2軸客車の廃車体

 

ロータリー車と思われるが正体不明の廃車体

【運 行】

昭和44年10月時点での運行状況は、問寒別市街~20線間を混合列車2往復であった。別添の時刻表の通り、5月1日~10月31日と11月1日~4月30日とは運行時刻が異なっていた。問寒別市街~20線間16.3キロの所要時間が1時間というのは、あまりにも遅すぎであり、冬ダイヤでは20線の到着時刻と発車時刻が同じになっている。同じ列車が折り返すので、そのようなことはあり得ず、実際には10~15分前に到着していたものと思われる。

 

【その他】

問寒別~20線間に「宗谷」「4線」「8線」「16線」と4箇所停留所(すべて4の倍数である)が存在したが、「宗谷」=「第二問寒別」、「4線」=「中問寒第一」、「8線」=「中問寒第ニ、「16線」=「上問寒第一」、20線=「上問寒第ニ」と別の名称を持っていた。

三角表示の運賃表は括弧書きで「別名称」が書かれており、問寒別の駅名表示の次駅表示は画像のように「第二問寒別」と書かれていた。この辺りの関係は、聞きそびれてしまったが、今でも気になっている。

運賃は問寒別から「宗谷」まで20円、以下「4線」40円、「8線」50円、「16線」60円、「20線」70円であったが、11月1日~4月30日間は各区間10円割増となっていた。

【参 考】

 

幌延に到着したC5516の引く「利尻2号」

 

簡素な佇まいの問寒別駅

 

59689の引く下り貨物列車

 

59689のサイドビュー

下り335D(キハ22×2)

炎天下国鉄電機撮影

 酷暑が続き、65歳以上の高齢者は水と塩分の充分な補給をするように連日報道されている。最近は日射病と言う言葉はあまり使われなくなったが、寝ていても彼の世行きの可能性があるという。小生も紛れもなく高齢者となったが、青い空に白い雲がわいてくると猛暑でも鉄分補給に出かけたくなる。最近、常磐線に行ってきたばかりの1900生さんにわざわざED75の運行ダイヤをつくってもらい、また、見事なデジ青巻頭写真でお馴染みの893-2さんにEF64の撮影場所を教えてもらい、それらを参考にして消えそうな国鉄電機を撮影してきたので披露したい。

①常磐線ED75 

8月25日常磐線の木戸駅で下車、竜田方向に歩き、夕方やってくるED75を待つ。最近の天気予報では山沿いは午後雷雨の可能性があるとよく言われているが、海沿い(福島県では浜どおりと言う)のこのあたりも夕方曇ってきて今一の天気であった。こういう時は一発流し撮りで勝負に出てみた。しかし、ゴルフのバンカーショットと同じで一発でうまくはいかない。結局、ご覧のとおりの乱写状態。撮影後、近くのラーメン店で味噌ラーメンにニンニクたっぷり入れたがこれは最高。お目当てはラーメン店の氷水を何杯も飲んで生き返る。ここは再挑戦の予定。

”]

②中央西線EF64重連他

 翌26日は坂下駅下車。落合川方向に2~3Km歩く。ここは有名撮影地なのであろう、平日にもかかわらず、お目当ての重連の来る時間には3人同業者が現れる。893-2さんご愛用の公会堂無料(?)駐車場には京都ナンバー、群馬ナンバーが並ぶ。この日は昨日の福島と逆に夕方よく晴れてきた。スイスかオーストリアの風景にも似た感じがしないでもない。ローカル313系の写真がそれである。坂下の次から木曽路に入るが、これがまた、スイスの氷河急行路線のブリーク~ツェルマットに似ているようにも思われる。そういえば、車内には馬籠宿に行くスイスの学生が居た。

+EF6434[愛]”]

2010.08.26 JR中央西線坂下~落合川 313系 1859M

                                       

(旧)江若鉄道近江今津駅本屋

連日の酷暑でこのサイトへの投稿も(拙老を含め)諸兄夏バテと見え、すこぶるはかばかしくないが、老朋友から情報が。トシにもかかわらず125CCの原チャリで元気に走り回っていたつい先日、かつての江若鉄道終点駅、近江今津の本屋の建物が残っているのを見つけた、というのである。

独特の山小屋風トンガリ屋根と、勾配がゆるい片流れ庇を組み合わせた近江今津駅本屋は、諸兄の記憶に鮮明だろう。この老人も、他の(重要なものほど)記憶はかなり怪しく、一部は完全にスッコ抜ケしているが、この駅舎はまだ脳中のメモリーに残存している。

で、今どうなっているかは、彼氏撮影の写真をご覧じろ。最初に見た印象は、もっと大きかったんじゃないかという疑問であった。かつてのプラットホームやヤード、車両留置の建物類はことごとく姿を消し、道路と駐車スペースになっていて、大きさを比較すべきものが周囲にないせいか、意外に小さく見える。しかしこの屋根と勾配は、まぎれもない。

以前このサイトで、秋保電鉄秋保温泉駅舎(というもおこがましい、単なる物置の残骸の如きボロ小屋)が、今も酒屋の車庫で健在、と書いた記憶がある。(仙南交通)秋保電鉄の廃止は1961年5月8日だったから、廃止後現在で実に49年余である。

江若鉄道が三井寺(後の三井寺下)―叡山間初開業が1921年3月15日。浜大津に伸び国鉄線と接続したのがその4年後。近江今津に達したのが1931年1月1日である。湖西線建設に先立って廃止されたのが1969年11月1日だから、現在だと開業以来89年半、近江今津延長から80年近く。廃止後41年を経過する。即ちこの旧近江今津本屋は、80年を経過している次第。よく手が入って増築もされており、昔の姿を知らない人には、旧近江今津駅本屋といっても、信じがたいかも。

元気に次々と江若の車両やシーナリーの製作を継続中の西村雅幸氏は、遠隔地居住故、ちょっと見に行くわけには参らんだろうし、確か(老人の記憶が不確かだが)西村氏の近江今津駅舎はとっくに完工している筈だから、いまさら参考にもならんだろうが。


標茶町営軌道に添えて

 

藤本先輩の標茶訪問記を拝見し、廃止される前の最後の冬 昭和46年3月7日の写真をご紹介します。先の茶内浜中を訪れる約1週間前に開運町へ行ったときのものです。藤本氏の記事を読みながら、標茶駅から開運町まで1.7kmもあったのかとか、標茶川を渡ったのかなど全く記憶にありませんが、多分誰かに場所を聞いて、黙々と雪道を歩いたのでしょう。着いたところが 車輌は雪に埋もれ 運休していると聞いてガッカリした記憶だけが残っています。ニチユ製のDA57と 運輸工業の牽引客車、釧路製作所製6TonDL(No.3), 北炭夕張製の6TonDL, 車庫内で眠る泰和製?自走客車の5両が撮影したすべてです。

 

ニチユ DA57

ニチユ DA57

 運輸工楨??牽引客車

標茶町営軌道

標茶町営軌道を訪れたのは、昭和44年9月6日一度だけである。当日の行動を振り返ると、早朝に釧路市内のYHを出発し、駅前のバスターミナルより新幌呂行のバスに乗り、下幌呂で降りた。目的は廃止された鶴居村営軌道の車両を見るためであった。前日、浜中町営軌道の方から「鶴居村営軌道の車両が未だ残っていると思う」と言われたので、急遽釧路臨海鉄道に行く予定を変更した。雪裡線と幌呂線の分岐する下幌呂に行けば何かあるだろうと思い下幌呂で降りたのであるが、道端にレールの残骸が散らばっていた程度で鉄道車両らしきものは何もなく、通りかかった人に聞いたところ「車庫が役場の近くにあったのでそこではないか」と言われた。役場の場所は中雪裡である。中雪裡を通る川湯温泉行のバスは先程通過したばかりで、次のバスは2時間後のため、やむなく釧路に引き返した。釧路からは9時10分発急行「大雪3号」に乗車、途中の五十石駅でC58127の引く客車列車(623レ)と交換して10時1分に標茶に到着。駅前の道路を真っ直ぐ進み、釧路川にかかる開運橋を渡ると町営軌道の開運町駅であった。構内にはDLが1両、2個ライトの自走客車が1両、廃車になった牽引客車が1両停まっていた。事務所に挨拶に行き、お話を伺うと、自走客車は3両あり、1両は先程上御卒別行で出て行き、1両は沼幌線で使用するため中御卒別にいるとのこと。次の11時50分発の上御卒別行で往復したかったのであるが、午後の予定の雄別鉄道に行けなくなるため諦めた。後日、標茶町のパンフレットと一緒に乗車券、時刻表、運賃表等をお送りいただいたが、中でも開運町で発売されている乗車券は行先毎に色が変えられており、非常に凝ったものであった。残念ながら現物が京都の実家にあるため、今回お見せできないが、実家に帰った時に持ち帰りたいと思っている。開運町には1時間余り滞在後、「しれとこ2号」で釧路に戻り、雄別鉄道を訪れた。

【沿革】

標茶町営軌道は、簡易軌道の中で最も新しく、昭和26年5月に開運町~上御卒別間22.5キロを第1期工事として起工、地元の強い要請により昭和29年冬に14キロ地点の神社前までの工事が完成した時点で運行を開始し、昭和33年12月に全線が完成した。昭和34年より第2期工事として開運町~標茶駅前間1.7キロを起工、昭和36年11月に完成したが、予想に反して利用者が少なく、昭和42年1月に運転休止となった。中御卒別より分岐する沼幌支線は昭和39年6月に起工、昭和41年6月より中御卒別~沼幌間6.4キロの運行を開始したが、既に道路の整備が進んでいたため学生の通学利用程度しか需要がなく、4年後の昭和45年11月に運転を休止した。開運町~上御卒別間も昭和46年8月16日に廃線式が実施され、町有バスの運行に切り替えられた。

【車両】

昭和44年10月1日時点での在籍車両は次の通りである。

ディーゼル機関車4両、内訳/加藤製作所製(KE-21、昭和36年9月購入)・釧路製作所製(KE-25、昭和39年10月購入)・日本輸送機製(DA-57、昭和29年6月購入)・北炭夕張製(DA-120、昭和40年12月購入)

自走客車3両、内訳/釧路製作所製(DS-22、昭和33年11月購入)・泰和車両製(DS-40、昭和36年11月購入)・泰和車両製(DS-60、昭和40年11月購入)

ロータリー車1両泰和車両製(DH-100、昭和38年5月購入)、保線用モーターカー3両有蓋貨車1両、無蓋貨車7両

上記以外に廃車済車両として酒井車両製ディーゼル機関車(DB-50、昭和28年7月購入)、牽引客車(昭和32年運輸工業製)が残存していた。

【運行】

昭和44年10月1日時点での運行状況は次の通りである。

標茶本線 開運町~上御卒別間旅客列車3往復(日祭日は2往復)貨物列車、1月~4月1往復、沼幌支線1往復(日祭日は運休)

下り/開運町発8時50分(休日運休)、11時50分、15時40分、上り/上御卒別発7時20分、10時20分(休日運休)、14時00分

貨物列車 下り/開運町発15時00分、上り/上御卒別発7時30分(下りの休日のみ混合列車として運転)

沼幌支線 下り/中御卒別発16時20分(開運町15時40分発に連絡)、上り/沼幌発7時20分(上御卒別発7時20分に連絡)

所要時間は旅客列車が1時間、貨物列車が下り1時間20分、上り1時間50分、沼幌支線15分となっている。厚生、神社前、中御卒別が交換可能である。

道路の整備が進み、農家のほとんどが自家用車を保有しているため、乗客の大半が通学生で、標茶本線が50名、沼幌支線が7名位である。貨物は本線開通時は木材、木炭等相当の輸送量があったが皆無に等しい。冬季は道路が積雪により悪路になるため、1月~4月のみ牛乳運搬用に貨物列車を運行している。

以上のような状況から昭和45年度政府からの補助金が打切られると廃止はやむをえぬものとされていた。

 

40年泰和車両製の自走客車

 

32年運輸工業製の牽引客車

 

40年北炭夕張製の6tDL

 

39年釧路製作所製の6tDL

 

28年酒井車両製の8tDL

時刻表/発着時刻はすべて5分単位である。

 

五十石駅で交換した623レのC58127

江若鉄道三井寺下再現(その1)

琵琶湖疎水鉄橋

琵琶湖疎水鉄橋

三井寺下駅の再現に向けて、全体配置図も出来たので工事にとりかかることにしました。とは言え、5ブロックに分けて 自室になんとか収まる大きさで ポイントの数も17個、本社屋、駅舎、車庫2棟、数多くの詰所類、給水塔、播但鉄道の客車廃車体等々これから先の工程を考えると完成がいつになるのか見通しがたちませんが(資金繰りも)、車輌の増備も並行して 気長に工事を進めるつもりです。高島町と白鬚を作った際の残材がそれなりにあって、この残材だけで1ブロックができることがわかり、急ごしらえながら先行着手しました。三井寺下の浜大津側の1ブロックです。このブロックのハイライトは琵琶湖疎水を渡る鉄橋と2つの踏切(1つは遮断機があり警手もいる踏切)、そして場内信号機(腕木)で、小さなブロックながら単独でも展示台として使えるものです。琵琶湖疎水鉄橋部分だけが出来たので ご紹介します。ガーダーは真鍮板で作りました。これまたカラー写真がなく、客車たちを塗装した緑色のラッカーの残りを使って 薄緑色にしました。実際は赤茶色(さび止め色)だったかもしれません。ご笑覧あれ。

新京成電鉄800形「さよなら運転」

新京成電鉄800形が、DRFC関東連絡網でデカンショ祭り号様と準特急様が報告されている通り、7月17日に実施されたダイヤ改正で運用を離脱し、7月24日(土曜日)と25日(日曜日)に「さよなら800形」イベントが実施された。

内容は「さよなら列車」の乗車、くぬぎ山車両基地での撮影会で、両日とも午前と午後の各1回ずつ計4回実施された。募集人員は1回当たり400名で、応募者多数の場合は抽選となっていた。参加費は2500円で、一見高いように思えるが、内容は「さよなら列車」の乗車、記念1日乗車券(500円)、「さよなら800形弁当」(700~800円位)、「さよなら列車」の扉横に取り付けられたものと同じ「さよならプレート」(1000円位)と盛り沢山で、決して高くはないと思った。弁当は後片付けの手間を考えると通常の「さよなら記念乗車券」でもよかったのではないかと思う。

たまたま24日は昼過ぎまでスケジュールが空いていたので午前の部に参加した。異常に暑い日で、午前9時くぬぎ山駅に集合、受付後「さよなら列車」発車までの間、乗車指定号車毎に所定の場所で待つことになっていたが、熱中症で気分が悪くなった人が出た。「さよなら列車」はくぬぎ山駅を9時57分に発車し、扉の開閉はせずに各駅に停車しながら新津田沼に10時19分到着、折返し10時30分に発車して八柱着11時、再度折返し11時6分に発車、くぬぎ山駅に11時12分到着後、直接車両基地に入りここで下車となった。もう1編成の800形の撮影会が行われており、乗車した編成も隣に並んで停められた。弁当が配布され検修庫内に停められた8517編成(8517-8033-8034-8035-8036-8518)の車内が食事場所となっていた。

1日乗車券があるので、午後の部の「さよなら運転」を沿線で撮影しようと思ったが、撮影できそうな場所での人の多さと、あまりの暑さのため体力に自信がなくなったため退散した。

新京成800形について簡単に述べると、新京成電鉄初の高性能車として昭和46年から50年にかけて4両編成と2両編成各6本計36両が新製された。昭和46年の新製車は、京阪3000系、阪急5100系、東京メトロ千代田線6000系第1次量産車、旧国鉄489系、415系、京福モポ300形等が挙げられる。他社の新車と比較すると、走行線区が地味なことと、通勤輸送に徹した作りのため華やかさはないが、約40年に亘り地元の足として活躍した功績は大きい。昭和60年から実施された更新工事で、冷房改造、乗務員室の機器の配置を8000系と同様に変更、終日6連及び8連化に伴い先頭に出ない車両の中間車化等が実施された。平成7年から最高速度向上(75K/H→85K/H)に伴うMT比の変更、余剰車の廃車が実施され、最終的には6両編成2本と8両編成2本に組み替えられた。6両編成は平成17年と19年に新製車N800形との置き換えで廃車され、下記の8両編成2本が最後まで残った。

←津田沼 811-805-857-812-859-803-854-810

               813-816-863-814-855-804-853-806

朝のラッシュ時を中心に使用されていたが、稀に終日運用に入ることもあった。(そんな時に限ってカメラを持っていない)

「さよなら運転」には813~806の編成が使用された。811~810の編成は【5552】(2009年11月25日)「新京成電鉄第15回 電車基地見学・展示会」で紹介してあるので参照いただきたい。また、807の前頭部が車両基地内に保存されている。

 

 

 

 

 

上から813、816、863、814、855、804、853、806

 

806の車内と冷房改造の銘板

 

811~810編成

 

807の前頭部

 

昼食場所となった8517編成

 

引退記念一日乗車券と乗車証明書

 

「さよなら800形記念弁当」の包装紙

 

記念品のプレート

 

記念乗車券

【参考】九十九里鉄道のポスター

 

京成電鉄と新京成電鉄の車内や駅構内に掲示されている九十九里鉄道のポスターである。同社は昭和36年2月28日鉄道廃止後も社名変更することなく、バス会社として存続している。余談であるが同社のHPに在籍するバスの諸元が写真と共に詳細に掲載されている。昭和60年製の富士重工5Eボディー車が健在であるようなので、興味のある方はご覧いただきたい。(通常在籍車両の諸元については、企業内の機密事項として取り扱われ、公開されないことが多いが、見る人が見れば判る。関西では京都バスが公開している。いずれにしても非常に珍しいことである)ちなみにバスの寿命は平均15年位、長くても20年位である。最も日本で廃車になったバスが東南アジア方面に輸出され、更に使用されているので、大切に使用すれば25~30年位は使用できるのではないかと思われるが、排気ガス規制等いろいろな規制があり、そうもいかないようである。

北の大地へ2010年初夏編 Part11 室蘭本線

第12日目 2010年7月4日
今日は寝台特急撮影のため5:00に起きました。道の駅「むかわ四季の館」から伊達紋別駅までは、約120km高速を使っての所要時間は約1時間半とナビは言っています。急いで仕度をして出発しましたが、予定通りには着きません。

伊達ICを降りてから伊達市内の住宅街に入ると鉄道線が見えず、撮影場所への道が明確に分らず迷走しました。初めて来る所は、ナビがあっても最後は自らの目に頼らざるを得ません。

ようやく線路沿いの砂利道を見つけた時は、既に通過時刻になっていました。オマケに線路際に柵が設置されていて、撮影できるポイントがありません。嗅覚と勘を信じて走りきると、柵の切り目が見つかりました。総本家さんには直ぐに降りてもらいましたが、駐車場所を探すのに手間取り撮影準備をする間もなく7:29特急「カシオペヤ」は目の前を走り去っていきました。

がっかりしていましたら7:37、今日は運休日と言っておられた特急「トワイライト」がやってきました。後で時刻表をよく見ると、確かに9月29日までは、月水金土曜日運行ですが6月19日~8月21日は毎日運転となっています。時刻表を読み違えるほど疲れていたのですね。

7:39キハ150-110先頭の100番台3連475D(長万部→東室蘭、区間列車)が少し遅れて来ました。直ぐ近くが噴火湾に最も近い北舟岡駅です。ホームは通学の高校生で一杯でした。
7:50キハ40-789+キハ40-1784472D(苫小牧→長万部、区間列車)が、北舟岡駅から高校生を乗せて行きました。

▲  内浦湾に最も近い北舟岡駅。東室蘭方面は1日13本停車するのに長万部本面へは3本少ない。駅広場は広く、広い待合室もある。 車に戻り北舟岡駅に参りました。こんなに近ければ最初から北舟岡駅を目指せば良かったのですが、初めての訪問ですから仕方ありません。
▲ 8:10、キハ150-108単行の477D(長万部→室蘭、区間列車)が海側の1番線に入線してきました
もともと北舟岡駅は信号場として設置され後に旅客扱いされた駅です。そのためか、通常駅舎側が1番線なのに逆になっています。駅の時刻表を見ると、殆どの停車列車は、2番線発着となっています。477Dは、交換待ちでもするのかと思っていましたが、直ぐに発車して行きました。多分、臨時や工事用等の業務運行ダイヤが組まれているのでしょうね。

8:26キハ283系7両編成の特急「スーパー北斗2号」(札幌→函館)が高速で通過するのを見送った後、国道37号線沿いの道の駅「だて歴史の社」に立ち寄り休憩、ナビを見ながら小樽までの道筋の選考です。

千歳圣由の道央・札樽高速道ですと約180km所要時間約2時間半、長万部方面へ走り豊浦から山越えすると、同じ約180kmでも所要時間約4時間です。小樽市総合博物館は是非に行きたいですが、十二分に時間はあります。C62を追いかけた思い出の山線も行きたいと、総本家さんの希望で山越えを選択しました。

総本家さんから豊浦の公園には、珍しい私鉄が発注したD51が展示してあるので、まず見に行きましょうとのご提案で、豊浦駅視察後に探しました。
9:48豊浦駅着。

▲ 2面3線のホーム。東室蘭方面への折り返し区間列車もあって、長万部方面への列車本数は減っている。無人駅だが駅舎は大きく、待合室にはパンと軽食の店「かっこう」があります。

▲ 特徴はこの煙突です。
▲ 豊浦駅から国道37号線に出てGSで場所を聞きました。D51953は国道から離れて急坂を登った山の手の豊浦町中央公園に保管されていました。ここまで運ぶのは大変だったでしょうね。現在豊浦町と保存会の手で補修維持されています。
胆振循環鉄道が発注したD5101~05(国鉄買収後;D51950~954)の5両の内残っているのは、ここと富良野文化会館のD51954の2両だそうで、1975年12月13日に最後の旅客列車を牽引した機関車とされています。
珍しいのは煙突です。ギースルエジェクター形煙突と呼ばれ、蒸気の加熱度が高くなり、水の消費が少なく、燃料の節約ができる優れものでした。秋田8両、旭川4両、岩見沢2両、追分22両の計36両が改造されて配属されました。約40年前に撮影したD51にも数両が写っていました。
▲ 1971年9月1日、沼ノ端付近走行のD51308牽引の石炭列車です。
▲ 同上、D51492牽引の貨物列車です。

豊浦からは太平洋にお去らばして、羊蹄山に向かって67号線を北上しました。途中11:30、道の駅「真狩フラワーセンター」で小休止、ここからニセコに向かい5号線を約40年前のC62撮影の思い出話をしながら小樽へと向かいました。

14:40小樽市総合博物館到着。
17:00閉館までたっぷりと時間がありましたが、北海道の鉄道歴史を語る50両もの車両、鉄道遺産展示品の数々やVTRを見ていると、あっという間に閉館時間になっていました。途中、案内ボランティアの国鉄OBの方が付いてくださりまして、詳細な説明をお聞きできました。お世話になりまして、ありがとうございました。
▲ 入館して直ぐのホールに展示してあるのは、これぞ北の大地の鉄道の歴史たる準鉄道記念物「しずか号」と、1等客車「い1号」。
▲  修復復元された「い1号」の内部は、ストーブ、ソファーも合って立派な物です。これなら乗ってみたくなります。
▲ 恥ずかしながらここに来るまで義経・弁慶・しづか号以外の名前の付いた7100形を知りませんでした。8台中1889年製造・輸入の2台は名前が付いていません。なぜだったんでしょうね。▲ 1993年(平成5年)12月にアメリカのテーマパークから買い入れた7100形と同様H・Kポーター社製の機関車。「アイアンホース号」と名づけられてオイル式ながら、構内を元気にトロッコ客車を牽引して走っています。1909年(明治42年)製でレール幅が914㎜と特殊です。



▲ ボランティア説明員のおじさん一押しの大勝号。国産第2号機で7100形を参考に製造されました。
大勝号と名づけられたのは、ロシアとの戦争に大勝利した事を記念してのことだそうです。
▲ 初めて実物を見た乗ったレールバスのキハ03。20両が製造され道内で運行されましたが、現存するのは、ここ1両だけです。
▲ 多くの展示車両の中でも気になっていた現金輸送車マニ30。寝台も設置され、厨房までありました。このまま改造して、イベント列車として走らせてもおもしろかったでしょうね。
中高校生時代に京都駅1番ホーム東京寄りの側線ホームに現金輸送車が入線して、札束の入ったケースを積んでいるのをよく見学しました。当時はそれほどの警備ではなく、覗かせてくださいました。

 ここからの手宮線跡は、線路が撤去されずまだ残っています。整備され散策路となった手宮線のレール上を夕闇迫るまで歩き、北の大地での撮影旅行を終えることにしました。

小樽港の出航時間は23:30。ここでもたっぷりと時間がありましたので、折り返しのフェリーが着く埠頭で、今回最後のアウトドア食をゆっくりと楽しみました。

復路の船室は、往路と同様に神戸に長年居住していたが、子供が北海道に就職居住したので転居したと言う老夫婦と同室でした。

小樽港出航を外甲板で見ながら、早速お風呂に行き旅の疲れを取って部屋に戻ると、総本家さんドア前で待っています。同室だった老夫婦は、エンジン音がこもってうるさい。もっと静かな部屋に移って行かれた。なぜかドアを閉めたら開かなくなってしまったので、待っていたと言います。ドアノブが動かず、押しても引いてもビクともしません。これは困りました。

フロントに行って係員に来てもらいましたが、鍵穴にキーを入れても回りません。室内からロックできない構造となっているので、誰かが入っていることも考えられません。とうとう総本家さん眠たくなったと、隣の部屋に行ってご就寝です。私は、TVを見ながらビールとお酒を飲まないと寝られません。これら全て部屋の中です

部屋前には3人もの係員が来て必死の作業のようですが、1時間を経過しても開きません。いったいどんな閉め方をしたのでしょうか? 深夜になってきて、作業音も気になります。他の乗船客にもご迷惑ですので、「作業は、もう明日でも良いです。ただ私はTVを見て酒がないと眠れない。」と申し上げますと、閉まっていた売店を開けてお酒を購入させてくださり、そして「ご迷惑をおかけします。こちらでお休み下さい。」と、特等Aツイン船室のキーを渡してくださりました。
総本家さんをたたき起こして、TVのある海の見えるベランダの付いた豪華船室に移動しました。2等船室との料金差額は、2名で37,000円にもなります。

翌日、お昼過ぎに「メーカーに電話をしてドアを一部壊したので、荷物だけは出せます。取りにきてください。部屋は下船までお使いください。」と丁重な案内がありました。故障の原因については「ドアの内部ピンが1本外れて、ドアノブに引っかかって開閉できなくなっていた。こんなトラブルは初めてです。部屋の中での閉じ込めが起こらず幸いでした。」と言う事で、総本家さんにかかっては頑丈なドアもこうなりました。総本家さんのおかげをもちまして、舞鶴港まで快適な船旅を楽しめました。

12泊13日の初夏の北の大地撮影旅行は、最後にこんな「落ち」がありましたが、事故もなく無事終わりました。私は通常14~20日間の行程で旅に出ていますので慣れていますが、総本家さんは、久しぶりの長旅で車中泊が多くお疲れだったと思います。お疲れ様でした。

毎回旅日記の投稿終わる頃は次の予定を考えています。今回も満州の奥地を目指す予定でしたが、家庭事情で出られなくなりました。自由に動けるには、費用・時間の他いろいろと条件が付きますが、1番大事な事は健康です。家庭事情以外は何とかなるものです。健康で動ける内に自由な旅を目指される事をお薦めします。

次の旅はこちらです。

2010年秋1番 Part1 播但線を訪ねて

東海道京都電化前夜

1956年11月3日梅小路機関区にて

1956年11月3日梅小路機関区にて

昔の写真が見つかった。撮影は昭和31年11月3日、京都電化の直前である。以前の湯口先輩による山科電化工事記録と同じ時期。おそらくは梅小路が受け持つ蒸機による東海道線最後のお召しではなかろうか。写っているのは機関区員とその家族だろう。撮影したのは父か写真技師であるがいずれももういない。当時はガラス乾板で、文字は直接筆で書いた。書いた人は現在も八十才を超えて健在である。

後ろにC62のドームが見える。左の給水塔は山陰線脇にあった。

このときのお召し列車運転について詳しいことをご存じの方はぜひともお教え下さい。

江若鉄道 夏の陣

連日の猛暑で白鬚、近江舞子に向かう水泳客をさばききれない中、ようやくオハ27 3両が戦力に加わりました。永らく未塗装のままで放置してあったオハ27とDC30の塗装を大汗をかきながら済ませました。特注のインレタを貼り付けるとグッとそれらしくなり、ビールのおいしいこと。まだ6号機、キハ12、キハ5124、ハフ2、ハフ7が塗装待ち状態、キハ5121-ハ5010-キハ5122、が工場の中と仕掛りが多いのですが、オークションでB10のキットを手に入れたので、1118に改造を目論んでいます。キニ9やキハ20、キハ51も控えていて 当分楽しめそうです。

茶内の思い出に添えて

先に特派員氏や津田氏の若き姿をご披露致しましたが、藤本先生から簡易軌道の紹介がありましたので、これまた茶内の思い出としてご紹介します。

ときどき江若鉄道でお騒がせしていますが、40年も前になくなったものを復元しようとして困るのは 当時はカラー写真が貴重だったためモノクロ写真しか残っておらず、一体どんな色をしていたのかが判らないことです。茶内浜中町営軌道はなぜかカラーで3コマだけ撮影していました。藤本先生の夏の写真とは一転 雪景色ですが かえって赤や緑色が雪のなかでは映えています。撮影日は昭和46年3月12日です。

この1週間ほど前に標茶町営軌道を訪ねて 標茶駅から車庫のある開運町まで行ったところ車輌は雪に埋もれたまま放置されていて がっかりした記憶があります。なんでも大雪で除雪が困難になり、そのまま廃止されたとのこと。そのあと茶内で元気な簡易軌道の姿を見ることが出来て、貴重なリバーサルを3コマ使ったようです。

新緑の北海道 余話-5-

北浜 今昔

根室本線の次に訪れた釧網本線も40年前に訪れた懐かしい線区です。中でも、原生花園の中にある北浜付近は、その当時から有名な撮影地でした。C58の牽く混合列車が残っていたこと、原野もあって、海沿いも走り、鉄橋もあると、変化に富んでいること、網走までの夜行列車もあってアプローチしやすいことが要因だったのでしょうか。
ぶんしゅうさんに無理を言って、北浜で時間を取って夕方まで撮れるよう、車を走らせてもらいました。

釧網本線では、無人になってしまった駅舎を観光資源の一つととらえ、各駅にレストランや売店を設けて活用している。客の多くは車で訪れるとは皮肉なことだが、無人駅で放置され荒廃していくよりはずっといい。北浜駅も、”オホーツク海にいちばん近い駅”として売り出し、喫茶”停車場”が設けられている。室内は客車を模した構造になっており、窓越しに望むオホーツクの眺めも乙なものだ。特筆すべきは、本格的な料理の内容で、時間潰しにと頼んだランチの味もなかなかのもの、予約すれば、本格的なフランス料理のフルコースもできるとのことだった。

北浜駅を有名にしたもうひとつは展望台だろう。ホームの横に木造の砦のような展望台がある。平坦地で高さのある写真を撮れなかったのが、展望台のお蔭で、高さを稼げるようになった。展望台からの夕陽は、残念ながら曇ってきたのと、方向も少し違っており、期待したものではなかったが、海を隔てた山々がほんのり赤くなった。

40年前の北浜駅に入線するC58の牽く混合列車。ホームから見えるオホーツク海は変わっていない。現在の駅構内は棒線化されているが、この当時は、ホーム一面ながらも側線があったことが判る。
C58の煙室扉に何やら紙が貼り付いている。実はこれ、当局と組合との争議で貼り付けられたアジビラだ。国鉄の争議はうんと以前からあり、アジビラは組合事務所などにはよく貼ってあったが、お客が乗る、いわば聖域とも言うべき鉄道車両を組合のアピールの場としたのは、ちょうどこの頃からだった。車両全体をデカデカと石灰で書き殴る、いわゆる団結列車も、動労の勢力が強い北海道ではもう見られ、その後各地に波及していく。これが来ると全く絵にならない。これから数年間、何度泣かされたことか。

当時の北浜の代表的な撮影地、トーフツ湖に架かる鉄橋を行くC58の貨物列車。貨物はこの当時、大部分はDE10化されていたが、一部はC58で残っていた。この鉄橋、駅から近く、横を並行する国道の橋から難なく撮れる。すぐ近くにはユースホステルもある。この日も、いったんユースで旅装を解いたあと、ユースのゲタを履いて、列車の時刻に合わせて鉄橋まで行ったものだ。

原生花園を行くC58の牽く混合列車。9月なので花はないが、原生花園を行く典型的なシーンと言えようか。ワム・トムを中心にした貨車数両、スハニ62を含む客車3両も、混合列車のスタンダードだった。この列車を写すため移動していると、余りにも同じ風景が続いているため、置き去りにしたリュックが分からなくなってしまった。今回も全く同じ経験をして青くなった。40年経っても、人間は変わっていないと苦笑した。このC58、まだデフは切り詰めておらず、原型のままだ。操車掛がデッキに乗る際のスペースを確保するため、この頃から道内の蒸機のデフが切り詰められていく。前述のアジビラ、落書きとともに、蒸機が醜くなっていく直前の最後の輝きを持っていた時期であった。

上は、40年前の原生花園の中を行く釧路発網走行急行「しれとこ2号」。当時、釧網本線には線内急行が4往復も設定されていた。車種のキハ22は、道内用に汎用気動車として製造された。デッキ付のオールクロスシートを買われて、道内ではローカル線の急行はほとんどキハ22で賄われていた。室内もさることながら、小さい窓の整ったスタイルは、大好きな気動車だった。
下は、現在のほぼ同位置。木造の電柱はそのままだ。キハ40は、道内の至る線区で使用されており、さすがに優等列車運用はないものの、現代版のキハ22と言えよう。

ぶんしゅうさんも書かれていたが、北浜駅レストラン”停車場”の女主人は話好きで、食事が終わっても話が続き、なかなか脱出できない。ホントは、近くで風呂に入り、宿泊予定のオハ47に予約時刻に着こうとしていたのに、とうに予約の時間をオーバーしてしまった。気の済むまで話を聞こうと2人で覚悟し、ようやく2時間後に解放された。
外へ出るとすっかり暮れてしまい、とうとう雨になってしまった。ホームへ出ると予期しなかった列車がやってきた。ここまで長引くとは思わず、時刻表も全くマークしていなかった。雨に濡れたホームに反射する赤いテールライトと、駅舎から漏れる白熱灯を見て、行き当たりの旅もいいものだと思った。

北の大地へ2010年初夏編 Part10 日高本線

第11日目 2010年7月4日
午前中は、前日のリベンジに非電化区間の架線電柱のない伊達紋別行きのプランでしたが、疲れは取れず二人とも身体がもう動いてくれません。今日は終日、日高本線の撮影に集中する事にしました。
8:00、1986年(昭和61年)に廃線となった富内線が分岐していた鵡川駅で、上り下り列車の交換撮影から始めました。

▲ 8:36、左;様似行き2225D(キハ40-356) 右;苫小牧行き2226D(キハ40-1705)

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北の大地へ2010年初夏編 Part9 室蘭本線

第10日目 2010年7月3日
昨夜は雨がよく降っていました。「旅・人・宿 あさ寝坊」に泊まって正解でした。近くに有名な硫黄岳がありますが、総本家さんは行った事はないと言うので折角だからと、雨が上がった朝食前に行ってきました。午前8時までだと駐車料金が要らないのでお得です。

朝食はご家族3人と夜に北見から来られ、先ほどまでマスターと釣りをされていた友人の方も一緒でした。昨夜の夕食に出た「オショロコマ」(別名;カラフトイワナ)が、大漁だったようです。

お世話になった「旅・人・宿 あさ寝坊」です。民家と変わらずの外観。部屋は2階の男女別相部屋を予約しましたが宿泊していたのは我々2名だけでした。安いし綺麗ですし我々には十二分の宿です。 続きを読む

茶内の思い出

特派員さんが撮影された昭和46年3月の茶内駅の画像を懐かしく拝見した。私が茶内駅に下りたのは、現役時代の昭和42年9月5日と2年後の昭和44年9月4日で、目的は浜中町営軌道であった。昭和42年は、札幌駅21時30分発の急行「まりも」で出発、釧路着が6時20分、10分で接続の急行「ノサップ」(キハ4545+キハ22269の2連)が満員のため、「まりも」の前2両のスハフ44とスハ45の2両と荷物車がそのまま6時46分発の根室行(447レ)となるので引続き乗車した。茶内到着後、上りの234Dまで約1時間半の時間で、到着する列車を中心に撮影したが、吃驚したのは、貨物列車の直ぐ後ろを、DC(自走客車)の前後に無蓋車を連結した混合列車の続行運転であった。キハ09+キハ21の普通列車234Dで釧路に戻り、雄別埠頭の新車のDLを撮影後、雄別炭山に行った。

昭和44年は、急行「まりも」はヨンサントオのダイヤ改正で愛称名の整理が行われた結果「狩勝4号」となっていた。釧路到着後大急ぎで「ノサップ」に乗り換え、前回より1時間早く茶内に到着した。この時は車庫で撮影後、役場内の軌道事務所を訪れ、234Dまで約2時間担当の方からお話を伺い資料をいただいた。本当は西円線に乗車して上風連に行き、別海村営軌道に乗り継いで奥行臼に出ようと計画したのであるが、別海村営軌道の上風連まではかなり離れていること、11時35分発で上風連に行っても奥行臼行が夕方までないこと等の理由で乗車は次の機会ということにしたが、3年後に廃止されてしまった。あの時、別海村営軌道にこだわらずに、上風連まで往復するだけでも乗っておけばよかったと悔やまれる。この日はその後尺別鉄道を訪れた。

ちなみにその後北海道を訪れたのは、仕事を除けば、昭和51年5月に日本セメント上礒工場の電気機関車の見学撮影。平成11年11月に社内旅行で釧路空港から阿寒湖、摩周湖を見学して川湯温泉に一泊、翌日硫黄山、知床、網走を回って女満別空港から帰ったこと。平成13年2月に家族旅行で流氷見学に行ったくらいで、鉄道の見学、撮影はリタイヤ後でないと無理なようである。

【国鉄】

 

キハ22269+キハ4545の急行「ノサップ」/キハ45は、新車として完成後、北海道等の観光路線に投入してシーズン終了後本来の配置先に転属した。(42.9.5 釧路駅)

 

「まりも」に連結されていたスロ5218/スロ514を寒冷地仕様に改造。昭和44年9月にオールロングシートに改造してオハ41406となり金沢に転属、主に七尾線の通勤列車に使用後昭和56年に廃車となった。(42.9.5 釧路駅)

 

キハ094+キハ21(234D)/キハ094は、昭和37年3月苗穂工場でオハフ623を改造してキハ454として誕生、昭和41年8月の改番でキハ094となり、昭和45年2月に廃車となった。ジャンパ線が外されているのは当駅で交換する下り233Dの3両のうち1両を切離して増結するためで、北海道ではよく見られた車両運用であった。(42.9.5 厚岸駅)

 

キハ083/昭和37年3月苗穂工場でオハ6280を改造してキハ403として誕生、昭和41年8月の改番でキハ083となり、昭和46年8月に廃車となったが、加悦鉄道に売却され、鉄道廃止後も「加悦SL広場」に保存されていることはご存じの通りである。(42.9.5 釧路駅)

  

C58385の引く急行「狩勝4号」崩れの普通列車根室行447レ(44.9.4 茶内駅の根室寄り)

 

C58119の引く下り貨物列車(44.9.4 上尾幌)

【浜中町営軌道】

 

雪印乳業茶内工場に停車中の貨物列車/機関車はNo.6で、昭和40年12月釧路製作所製の8t機。廃線後「茶内ふるさと広場」に保存されている。(42.9.5 茶内)

 

西円線の貨物列車/直ぐ後ろには貨車を前後に連結した若松線(茶内~中茶内~別寒辺牛)の混合列車が続行している。機関車は昭和36年協三工業製の6t機(42.9.5 茶内)

 

貨車を前後に連結した若松線の混合列車。西円線(茶内~秩父内~中茶内~西円朱別)、東円線(茶内~秩父内~東円朱別~上風連)は客貨分離が行われていたが、若松線は混合列車2往復の運行で、日曜祝日は貨物列車のみの運行であった。(42.9.5 茶内)

 

東円線の列車(42.9.5 茶内)

機関車

昭和44年訪問時に戴いた資料によれば4両在籍していた。内訳は昭和33年製と38年製の協三工業製の6t機各1両、昭和40年釧路製作所製の8t機が2両であった。

 

No.1 /昭和31年加藤製作所の6t機で、昭和44年時点では廃車済であったが現車が残っていた。(42.9.5 茶内)

 

No.5/No.6と同じ昭和40年12月釧路製作所製の8t機(44.9.4 茶内)

自走客車

昭和44年時点では5両在籍していた。

No.1昭和35年運輸工業製(44.9.4 茶内)

 

No.2/昭和37年釧路製作所製で京阪500形を思わせる正面2枚窓が特徴であった。(44.9.4 茶内)

 

No.3/昭和39年泰和車輌工業製で、廃線後「茶内ふるさと広場」に機関車と共に保存されたが、老朽化が激しいため解体されてしまった。(42.9.5 茶内)

 

No.4/昭和40年泰和車輌工業製で、当初から2個ライト、トルコン付でワンマン設備をもっていた。(44.9.4 茶内)

 

No.6/昭和35年運輸工業製でNo.1とは同形、昭和40年に藻琴線から転入した。(42.9.5 茶内)

牽引客車

 

昭和32年釧路製作所製で、昭和42年の時点で既に休車状態であった。(42.9.5 茶内)

その他

ロータリー車2両、8t積有蓋貨車1両、8t積無蓋貨車1両、6t積無蓋貨車11両、6t積木材運搬車2両、6t積牛乳運搬車6両、6t積小荷物車1両、家畜運搬車4両、30石入牛乳タンク車3両が在籍した。

 

30石入牛乳タンク車(42.9.5 茶内)

 

 

茶内今昔へのお返しに

特派員殿

茶内駅でのスナップ ありがとうございます。キハ08と一緒のこんなスナップがあったとは うれしい限りです。昭和46年3月12日 この日の写真は白糠駅から始まっていますので、前日の長万部でのC62のあと 釧路行きの夜行普通列車から乗り継いで茶内へ入ったようです。茶内ー糸魚沢間は10Kmあり 確か中間地点付近まで歩いたと思います。混446レをかなり高い場所に登って俯瞰撮影し そのあと下り貨物列車を撮って 茶内へ戻ったと思います。よっぽど時間をもてあましたのか 特派員殿は雪の斜面ではしゃいでいました。それにしても 夜行列車で着いて、ろくな食事もとらず、厳冬のなかを10Km歩き、みんな あの頃は元気だったんだナーとつくづく思う今日此の頃です。

雪遊びに興じる特派員殿

雪遊びに興じる特派員殿

 

津田社長殿

津田社長殿

初夏の北海道 余話-4-

茶内 今昔

回の北海道訪問では、鉄道ファンを名乗る以上は、僅かでも鉄道に貢献すべく列車乗車も行いました。根室本線では、厚岸~根室間を往復乗車しましたが、列車に乗ってみると、北海道の鉄道の衰退ぶりが身を持って感じられます。
乗車したのはキハ54の単行、車内は廃車発生部品の転換クロスシートに改造され、座席定員は約50名。しかし実際乗っていたのは、20人程度です。このことから、厚岸~根室間での一日輸送量(片道)はせいぜい150~200人と想像されます。釧路~根室間は、花咲線の愛称が付され、同じ根室本線でありながら滝川~釧路間とは運転形態も区別されています。同区間でも釧路から厚岸までは、小さいながらも釧路の都市圏を形成し、通勤通学需要があるようですが、厚岸~根室間に至っては、超閑散路線となります。
実際、列車に乗って見ても、駅間には人家は見られず、ただ原野が広がるのみ。駅前ですら、かたまった人家があるのは、茶内、浜中、厚床、東根室程度で、あとは駅周辺にも人家すら見られません。乗車した日は濃霧の影響もあって、よりいっそうの寂寥感を覚えたものでした。
この区間は40年前にも乗りましたが、人家もあって、もっと活気がありました。沿線の過疎化は想像以上に進んでいるようです。途中、茶内駅で撮った列車交換シーンは、意識していなかったのですが、偶然40年前と同じ位置から撮っていたことが判明、図らずも時代の推移を感じたものです。

霧の立ち込める茶内駅に進入する5624D列車。この列車の釧路到着が8時24分のため、珍しく6人もの乗客がいて、高校生も見える。下の40年前と比べると構内の配線は変わっていないが、周囲の光景はすっかり寂しくなってしまった。
北海道は意外に都市間連絡のバスが発達している。釧路~根室間には札幌からの便も加えてバス6往復、所要時間3時間10分程度で設定されている。鉄道は7.5往復、快速で2時間、普通で2時間20分と優位にあるものの、運賃はバス2190円、鉄道2730円で、やはりJR北海道の割増運賃が大きなネックになっている。沿線の国道を走っても、通行量は極めて少ない。旅客、物流とも、この地はやはり最果ての地域なのだろう。

昭和463月、茶内駅に入ってくるのはキハ083+キハ2118の2両編成、先頭のキハ08はオハ62からの改造車で、車内は種車の客車そのもの。この日は、鉄道同好会の仲間と茶内~糸魚沢間で撮影し、この列車に乗って釧路へ戻るところ、ホームの中ほどに江若鉄道の模型復元に情熱を燃やす西村さん、鴨川鉄道社長を自任する津田君の姿も見える。当時はこれほどの乗客があったのだ。
根室本線の列車は、DCは2連、客車も混合列車として走っており、荷物・郵便車を含む4両編成だった。札幌からの急行列車も運転されていた。

当時、茶内駅を出ると、右手には、簡易軌道の乗り場があった。茶内駅前から西円朱別、上風蓮、別寒辺牛へ向かっていた浜中町営軌道で、その当時残っていた簡易軌道では最大規模だった。小規模ながらも旅客営業を行っており、茶内駅は簡易軌道からの乗換客もあって賑わっていたのだろう。中央に見えるのが「自走客車」と呼ばれる無番号のDC、左手には、この軌道の主要な輸送であるミルクの運搬車が見える。現在この場所に立っても、それを偲ぶものは何もなかったが、茶内駅の事務室に、写真や資料が展示されていた。

 

北の大地へ2010年初夏編 Part8 釧網線

第9日目 2010年7月2日

久しぶりに雨の降らない朝を迎えました。47-508の同泊者の方は、72歳のおじいさん1名でした。既に3連泊しておられ明日3日から2日間、雄武町から斜里町までの212kmを駆け抜ける「インターナショナルオホーツクサイクリング大会2010」参加のために来られたと言っておられます。我々よりも元気なおじいさんです。

▲ 1972年当時の卯原内駅です。湧網線は道内でも好きな路線でしたので、よく乗りよく撮影をしました。
▲ 美唄の4110形機とまではいかなくとも塗装され一新されたのか、綺麗な49643号機。走行していなくとも落ちついて熟睡できたオハ47-508でした。 続きを読む