2010年 秋の中国一人旅 Part10 南満州鉄道(満鉄)の客車

第10日目 10月30日

① 沈阳22:21(K28)→天津6:48
② 市内14:30(Taxi)→15:45万家碼頭駅16:45→17:40市内

K25軟座寝台の快適な車内と、心地いい走行音を聞きながらの熟睡でいつもの通り6時に起床しました。夜明けの車窓を見ながら定刻の6:48天津到着です。朝日がホームに差し込んでいます。
▲ K28の車両編成は、
SS9-0080(DL)+⑮XL20676+⑭YZ351535+⑬351543+⑫351540+⑪351539+⑩CA893557+⑨RW554681+⑧YW677536+⑦677539+⑥677538+⑤677542+④677542+③677543+②677542+①677530の荷物車+硬座車4両+食堂車+軟臥車1両+硬座寝台車8両の15両編成で、今日は北京~平壌間の車両は連結されていませんでした。
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2010年 秋の中国一人旅 Part9 調兵山 その2

第9日目 10月29日

① 調兵山バスターミナル17:20(バス)→19:10沈阳站
② 沈阳22:21(K28)→天津6:48

今日も昨日同様に夜明けと共に目覚めました。王千・大明・大青行きと3列車の牽引機を確認に行きますが、昨日同様DLでがっかりです。

東風4-7720牽引の大明行きの101次。YZ92-4522は最近更新されたのか、車体も綺麗に塗装されていました。殆どの客車は中国鉄路からの中古車で、色落ちと煤けた車両が多かったので、綺麗な車両を見るのは驚きでした。
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らくさい便り

臨時直通列車で【紅葉の嵐山へ】一直線!のパンフレットが効を奏したのか、平日昼間でも特急は満員の阪急である。なかでも梅田9:51発、桂10:32発の快速特急は6300系6連とあって、座っている乗客より立っている人の方が多い盛況ぶりである。これに気を良くしたのか、来春「京風」特急-観光特急-を梅田~河原町間で運転させることになった。毎週土日祝日運転で、当面1日1往復の予定。途中停車駅は十三、淡路、桂、烏丸となる。観光特急は6両1編成(6351・6F?)で内装を「京風」に改装するとか。特製HMはもちろん、この1編成に愛称を付けると言っている。南海の「天空」に最初首をひねったが、真言密教にまつわると知り納得したもんだ。これについてはthurukameさんの解説をまとう。平凡だが、京風なら「雅」-まさとは読まないーが王朝風となり平安京を偲ぶものになる。外装の変化には期待はもてないであろうが、内装にはお手並み拝見と参ろう。こうしたリクレーションカーは近鉄の「十八番」だが、南海に続いて阪急(新京阪線)とはこれいかに。本来、行楽列車頻発がお手のもの筈の京阪に、ダブルデッカー以降ヒット商品がない。中之島線不入りの余波を受け、宇治線のワンマン化が近々実行されるようだ。宇治線の再起は京市交東西線との直結だ。なに、車両の寸法が違う。京市交の車両にちょいと手を加え、宇治線に乗り入れさせればなんとかなる。むちゃな事を言っているのではない。アムステルダムへ行けば2.4m幅が3mの線区に直通しておるぞ!ドンマイ、ドンマイ。夢は嵐山、びわこ、宇治を結ぶためだ。

2010年 秋の中国一人旅 Part8 調兵山

第8日目 10月28日
夜明けと共に目覚めました。6:28王千行き、6:40大明行き、7:16大青行きと連続して発車します。この牽引機関車を見ておかないと今日の運用が分らないので、急いで調兵山站に向かいました。


2010年10月現在の調兵山站発着の時刻表です。2年前と殆ど変わっていません。
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佐竹さんの写真展打ち上げ会と朝がゆ会

佐竹さんが年末に山科青少年活動センターで写真展を開かれることはすでにお知らせしましたが、12月12日に打ち上げ会が近くのおそば屋さんで開かれます。

参加の申し込みを受け付けておりますが11/24現在、沖中・吉田・篠崎・田野城・滝本・小西・円中・四方・福田・井原・玉田各氏の出席が確定しております。あと少し余裕がありますのでご希望の方は田野城までお願いします。

このほかに12/19に七条京阪のサカタニギャラリーの朝がゆ会でお話会も開かれます。こちらは直接サカタニまでお申し込み下さい。案内状を掲載しますのでご覧下さい。

1958年8月上田丸子電鉄

なんで上田丸子へ行ったかは、写真を見ていただければわかる。この電鉄は、実に多数のガソリンカー、ディーゼルカーの『成れの果て」をかき集め、電動車、制御車、付随車にしていたからで、就中旧飯山鉄道のボギーガソリンカー、7両全部を集めていた。飯山には他にキハ51なる、2軸車が1両あった(←南総鉄道キハ103)が、これは飯山鉄道買収(1944年6月1日)に含まれず、日立航空機立川工場の通勤用に転じていた。


上田丸子電鉄モハ3223+モハ3224 3224は秋田鉄道ジハ6買収車

飯山鉄道は1931年7月17日瓦斯倫動力併用認可を得、日車東京支店と5両のガソリンカーを契約したことが、1931年上期の営業報告書に記されている。しかしこの時点日車東京支店はボギーのガソリンカー製造実績がなかった。そのためかどうか不詳だが、設計は本店が行った。1930年10月/11月製の佐久鉄道キホハニ51~56と若干の差異―窓が下降式、寸法も厳密に同一ではない―があるが、ほぼ同様の設計であった。車体実幅は2,200mmと狭いから、扉下に踏み板を張り出している。

組立図は勿論本店が引き、図番組8ハ-831、日付昭6-3-30。ところが支店にも組8ハ-145、昭6-7-27なる組立図一式が存在し、しかも「基図本組8ハ-831」の記入がある。すなわち支店は本店の図を完全にトレース=コピーしたのであった。

それからがややこしい。各車には支店の銘板が張ってあり、従前ファンは、この5両は日車東京支店の製造と信じて疑わなかった。しかし日車売上台帳を見ると、一筋縄ではいかない。それは、本店、支店両方に注文先を飯山鉄道とする売り上げ実績、工号があるからである。工号とは日車内部の符丁で、顧客からの何番目の注文かが分かる仕組みで、本店と支店とで様式が違う。

売上台帳64期(1931年6~11月)での本店は、車両の部ではなく、「製作器具内訳表」に注文先飯山鉄道、品名手荷物室付半鋼製四輪ボギー瓦斯倫客車、数量5両外4点、請負金額39,707円、製作費36,918円63銭、工場損益2,788円37銭。支店は「製作車両内訳表」にやはり注文先飯山鉄道、品名半鋼製四輪ボギー瓦斯倫客車、数量5両、請負金額60,000円、制作費56,786円34銭、工場損益3,213円66銭。常識的には本店の発注先を飯山鉄道でなく、支店とすべきだったのであろう。

これから判断すれば、受注は間違いなく支店。ところが現実には本店が下請けで2/3を製造し、支店へ。支店が残りを仕上げた、と読める。支店の制作費には本店への支払=36,918円が含まれている訳で、飯山鉄道キハニ1~5竣功図記入代価は1両12,500円だから、5両で62,500円。2,500円が搬入経費(運賃、保険料、荷役費)と思えば勘定は合う。

車両業界では下請等の実態がどうあれ、最初に受注したところがメーカーとされ、そこの銘板を張るのが常識で、現にこの飯山5両も竣功図を支店が調整し、製造所名日本車両製造株式会社東京支店、昭和6年9月と明記されている。この5両は日車東京支店製として間違いはないのだが、上記の如き事情が介在した。それも5両の内3両を本店が、2両を支店が作ったのならまだ話は分かるが、付加価値額からは2/3本店で製造した半製品を、支店で仕上げたという、極めて珍しい事例と判断できる。


モハ3223←サハ25←運輸通信省キハニ5←飯山鉄道キハニ5
サハ22←ハフ103←運輸通信省キハニ4←飯山鉄道キハニ4

話が100%脱線した。この5両―飯山鉄道キハニ1~5は、設計認可1931年7月17日、機関ウォーケシャ6SRL、チェーン2軸連動。買収でも省形式はずキハニ1~5のまま。1944年(キハニ2、3)と1948年6月22日(1、4、5)が廃車になり、全部1949、50年に上田丸子電鉄に払い下げられ、1~5の番号順ならサハ23、ハフ102→サハ21、サハ24、ハフ103→サハ22、サハ25に。

サハ23←運輸通信省キハニ1←飯山鉄道キハニ1 この位置の踏み板が原型である

さらにサハ25は台車を電車用に履き替え、モハ3223に改造。但し一旦廃車されていたと聞くから、廃車復活ではなく、単にボディを再用したのであろう。連結しているモハ3224も同系列車には違いないが、飯山ではなく秋田鉄道ジハ6買収車で、鉄道省キハ36470→キハ40300→東武鉄道キハ21→上田丸子電鉄サハ26→モハ3222→モハ3224という経歴になる。

なお飯山の5両は、客扉幅が750mm、手荷物扉幅960mmだったが、小生が見た時点ではすべて手荷物室側の客扉を埋めていたが、面影は十分残している。サハ22、23共、その扉跡が分かるだろう。また連結器は簡易連結器だったが、全車通常の自連に換装しており、モハ3223、サハ22は妻下部に鋼板を重ね張り足している。

2010 年秋の中国一人旅 Part7 瀋陽地下鉄

Part6の投稿を終えてから、10月18日瀋陽鉄道博物館入場の雰囲気が何か違っているとの印象を感じたと掲載しましたが、インターネットでいろいろ調べていましたら、まだ招待客及び部内関係者のみの入館受付で一般客の受付はなく、あっても許可された団体予約に限られているとの事でした。何も知らず飛び込みで行って入場できたのは、現場の好意だったのが分りました。ご配慮をいただきましてありがとうございます。

第7日目 10月27日 その2
① ホテル9:00(Taxi)→9:38瀋陽鉄道博物館 25.4キロ
② 瀋陽鉄道博物館10:47(Taxi)→11:35ホテル 全部で153元(約1,900円)
③ ホテル13:05(Taxi)→13:10沈阳地铁青年大街站 10元(約125円)
④ 青年大街站14:03(沈阳地铁)→14:13沈阳站
⑤ 沈阳站前15:00(バス)→16:50調兵山バスターミナル 25元(約310円)
⑥ 調兵山バスターミナル16:55(相乗りTaxi)→17:15ホテル 5元(約60円)

瀋陽鉄道博物館の視察を終えて、ホテルの部屋に戻ってみると、「ゼネラルマネージャーからお会いしたい。帰られたらご連絡下さい。」と英語メーセージが封筒に入れてドア下に入っていました。
チェックアウトの支度を終えてフロントに行きますと、日本語の出来るホテルマンも待機していて、GMに連絡しました。GMからお詫びを申し上げたいので少し待ってもらえないかと言われました。丁度、昨夜インターネット予約した日本の代理店からも電話が入っていて、直接話せました。向こうにも間違った所在地地図を送った責任もあります。この件は日本に帰ってからにして、ホテル側の信用・安全についてホテル側の評価はどのように考えているかを聞きました結果、次回の宿泊は無料でスイートを提供しますのでご納得お願いしますとの返答です。ホテルの「面子」としてはこの程度のようです。冷蔵庫の飲料は勿論無料でした。ミスは誰にでもありますが、昨夜のフロント女性からは最後まで謝罪の言葉はありませんでした。典型的な中国人だから仕方ないかと思い、9月27日開業したという沈阳地铁試乗のため、ホテルマンの見送りを受けてTaxiに乗車しました。
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ポール時代最末期の能勢電

10月15日付の【9939】「ちょっと気になっていた電車」で準特急様が能勢電を話題にされておられたが、ポール時代の写真は非常に懐かしく思った。
能勢電のポール時代は、諸先輩方が多数記録に残されておられて、私などの出る幕ではないが、少しばかりの写真があるので当時を偲んでいただければと思う。
能勢電鉄がポールからZパンタ、パンタに切り替わったのはDRFC入会以前の昭和41年1月17日である。私が撮影したのは前年の10月から12月にかけて京阪沿線の高等学校に通学していた頃で、滑り込みセーフであった。当時の在籍車両は31形2両(31・32)、50形3両(50~52)、60形2両(60・61)、10形8両(10~15・28・29)、20形6両(20~25)、電動貨車1両(106)の22両であった。
以下、形式毎に画像を並べてみた。

31形(31・32)
大正15年日車製で当初31~36の6両作られた。昭和30年10月に32が鼓滝踏切で大型トラックに衝突して大破し、復旧時に瑞穂工業により半鋼製改造時に31も追加された。(32は31年7月、31は同年9月竣工)残った33~36は鋼体化されることなく、昭和36年に廃車となった。35の部品を流用して電動貨車106が瑞穂工業の出張工事で作られたが、書類上は新造扱いである。
昭和41年、320形導入時にZパンタ化されることなく廃車となった。

 
多田駅を発車する川西能勢口行(昭和40年11月1日)

 
絹延橋車庫(昭和40年12月22日)

50形(50~52)
元阪急37形(37~39)(大正10年梅鉢鐵工場製)の70形(71~73)を昭和28年(71・73→50・51)と30年(72→52)に鋼体化改造したもので、50・51はナニワ工機、52は帝国車両で竣工した。昭和41年1月集電装置変更時にZパンタに取り替えられた。50と52は同年12月に廃車となり、残った51は61と共に川西能勢口~川西国鉄前間で使用、昭和56年12月20日同区間廃止により休車、翌年6月に廃車となった。

 
川西能勢口駅(昭和40年12月22日)

 
鼓滝駅を発車した妙見口行(昭和40年12月22日)

 
多田駅に到着した川西能勢口駅(昭和40年11月1日)

 
建設中の平野車庫の横(昭和40年12月22日)

60形(60・61)
借入中の阪急40形(大正12年藤永田造船所製)の40・41を昭和29年9月に譲り受けてナニワ工機で鋼体化改造して30年1月に竣工した。昭和41年1月集電装置変更時にZパンタに取り替えられた。60は同年12月に廃車となり、残った61は川西能勢口~川西国鉄前間で使用、昭和56年12月20日同区間廃止により休車、翌年6月に廃車となった。

 
絹延橋車庫(昭和40年12月22日)

 
鼓滝~鶯ノ森間の猪名川鉄橋を渡る妙見口行(昭和40年12月22日)

 
鼓滝駅を発車して妙見口に向かう(昭和40年12月22日)

 
平野~多田間を走行する川西能勢口行(昭和40年11月1日)

 
川西能勢口駅(昭和40年11月15日)

10形(10~15・28・29)
元阪急(←新京阪)のP-4、P-5形を昭和32年10月に1500Ⅴ→600Ⅴに降圧、パンタグラフをトロリーポールに取替等の改造を正雀工場で実施の上譲り受けた。翌年3月から下記の編成で常時2連で使用されることになった。( )は阪急時代の車番。
←妙見口
10(11)+11(21)・12(27)+13(22)
14(14)+15(23)・28(28)+29(54)
10~15は2個モーター、28は4個モーター、29はTcである。 
昭和41年1月集電装置変更時にパンタに取り替えられた。320形と置換えで14+156は41年12月に、それ以外の車両は42年10月に廃車となった。

 
急カーブで川西能勢口駅に到着(昭和40年11月15日)

 
鼓滝駅に停車中の川西能勢口行(昭和40年11月15日)

 
鼓滝駅に停車中の川西能勢口行(昭和40年12月22日)

 
猪名川鉄橋を渡る川西能勢口行(昭和40年12月22日)

 
多田駅での交換(昭和40年11月15日)

 
川西能勢口駅停車中(昭和40年11月15日)

 
鼓ケ滝駅に停車中の妙見口行(昭和40年11月15日)

 
多田駅を発車する川西能勢口行(昭和40年11月15日)

20形(20~25)
元阪急(←新京阪)のP-5形を昭和36年5月に借入れた。昭和41年1月集電装置変更時にパンタに取り替えられたが、同年9月に返却され、阪急では直ちに廃車手続きがされて平野車庫で解体された。編成は下記の通りである。( )は阪急時代の車番。
←妙見口
21(51)+20(24)・22(18)+23(52)
24(19)+25(53)
偶数車がMc、奇数車がTc
10形、20形は1両毎に細部が異なり興味が尽きない。

 
絹延橋~川西能勢口間を走行する川西能勢口行(昭和40年12月22日)

 
絹延橋車庫に入庫(昭和40年12月22日)

 
続行車ありの標識を表示して鼓ケ滝駅を通過(昭和40年12月22日)

電動貨車106
31形のところで触れたが、昭和36年8月に35を瑞穂工業で改造した。昭和41年1月集電装置変更時にZパンタに取り替えられたが、保線作業車が導入された結果、仕事がなくなり平成3年3月に廃車となった。
ポール時代の写真が見当たらないため、Zパンタに換装後を貼り付けた。

 
昭和41年11月25日 平野車庫

【番外①】建設中の平野車庫
昭和40年8月21日から手狭になった絹延橋車庫に代わり、平野車庫が建設され、翌年1月25日に完成した。

 
建設中の平野車庫

【番外②】320形
昭和40年5月から8月にかけて阪急320形(320~331)が全車両入線したが、受入体制が出来ていないため、川西能勢口、絹延橋車庫、多田、妙見口に分散留置され、最終的に建設中の平野車庫に集結した。翌年5月から使用が開始され主力として活躍したが、1500形との置換えにより昭和58年から廃車が始まり、61年12月20日付で全車廃車となった。

 


多田駅留置線(上/昭和40年11月1日・下/11月15日)

【番外③】40形
阪急40形は40~45(44欠)の5両作られたが、42は阪神急行時代に昭和6年箕面線で消防車と衝突したため廃車となり、昭和7年2月に41、43、45の3両を借り入れた。昭和23年6月に43が衝突事故で大破したため40を借入れた。43は書類上は休車となっていたが、60形に改造されて不要になった41の旧車体と休車中の電動貨車206の足回りを利用して復活して引続き使用されていた。昭和37年12月43、45共に返却され、43は池田車庫に、45は西宮車庫に留置された後解体された。

 
西宮車庫(昭和39年12月25日)

【番外④】阪急宝塚線

 
川西能勢口駅を通過する回送電車(昭和40年12月22日)

 
石橋駅を発車した宝塚行急行(昭和40年12月22日)

取り急ぎクハ1711、1712

湯口先輩より【10193】「北陸鉄道その6」能登鉄道のホハ、北陸鉄道統合後石川総線でのサハ611の超貴重な画像の公開があり、更に今回その続編とも言える内容の披瀝があり、唯感激するばかりである。いずれの画像も本邦初公開ではないかと思われる。
「北陸鉄道 昭和40年代シリーズ」は、写真と資料を見比べつつ仕事の合間にぼちぼち進めており、現在石川総線を進めているところであるが、不明な点も多々あり悪戦苦闘している。以降加南線、金沢市内線、能登線と進めて行きたいと思っているが、何とか全部終わらせたいと思っている。
表題のクハ1711と1712は現在進行中の「石川総線」の中で登場するが、取り急ぎ画像のみ貼りつけた。クハ1711は46年3月20日野町で、クハ1712は45年10月11日鶴来での撮影である。

 

北陸鉄道サハ611、612

11月2日(10174)/11月8日(10193)の「元祖青信号」に、1925年製北陸鉄道サハ611が、国鉄形式ホ12000の、すこぶる古い―1911年か12年製のものと振り替わっていたことを記した。小生も編集の末席を汚している「鉄道史料」なる、マイナーも極まった季刊誌があり、その112号(Autumn2005)に、「私鉄のボギー客車落穂拾い―国鉄型」なる駄文を弄している。その中で能登鉄道ホハ1、2→北陸鉄道能登線ホハ1201、1202→石川線サハ611、612を簡単に記している。

それから5年経過した今年11月17日―つい先日、地元ご在住(であろう)の山本宏之氏という方から、鉄道史資料保存会にメールが寄せられた。北陸鉄道サハ651、652とサハ611、612に関してで、要約すると以下の通りで、文意を損なったとすれば要約者の責である。

「この車は1949年にホハ3001として能登線に入線し、1952年に石川総線へ移った際にサハ651となっていたが、許認可文書には一度も登場しておらず、無籍車と思われる」
「買い出し客などで能登線の輸送需要が増加し、燃料統制で使用が制限さられていたガソリンカーの代役として、運輸省から1023号蒸機の払い下げを受けていた中で、鉄道統制会の許可を得ずに大型客車を増備したのではないか」
「能登線がディーゼル化され、それが牽引するには荷が重い大型客車は電化路線に転用され、最終的に石川総線にサハ611、612、651の3両が揃った」
「1955年サハ611(湯口注能登鉄道からのオリジナル客車)の台車と台枠を流用してサハ2001を新製する際、車籍を継承せず、サハ611の廃車届もなく、サハ651(湯口注国鉄から購入した無籍車)の車体標記をサハ611に書き換えた」
「翌年にはサハ612も同様サハ2002に流用したが、この時はサハ612の廃車届が出され、二代目サハ611になった元サハ651も1965年廃車になった」

山本氏は恐らくこの掲示板はご覧になっていないだろうが、偶然とはいえ、実にいいタイミングで、これでほぼ実態が判明した。ただ「鉄道統制会」とは、戦時中私鉄の許認可事務の委託を受けて代行していた「鉄道軌道統制会」であろうが、これは敗戦後1945年12月26日解散しており、北陸が古いホハ12000を取得し、無認可で就役させたのはその後と思われる。ホハ12000には当然戦災廃車もあるが、老朽廃車は1948年以降で、翌年からはオハ60系新製のため、台枠の切継ぎ転用も゙始まる。1950年以降は職用車(配給車、救援車等)への改造もなされた。

金鉄管内での形式ホハ12000廃車は1951年度ホハ12047、48、56、12181、1952年度12049~51、53など。今となっては調べようもないが、恐らくはこのうちの1両が、サハ651→二代目サハ611になったのではなかろうか。なお山本氏は「大型客車」を、地方鉄道としては大きな客車ほどの意味でお使いと思われ、国鉄での「大型車」(形式が2万代=長軸・将来標準軌間化できる設計)、「中型車」(1万代)という分類ではあるまい。

また能登線3001とは、芸備鉄道キハ1→鉄道省キハ40308→石川鉄道ハフ20→北陸鉄道石川線サハ801→能登線コハフ3001で、1968年まで在籍、と承知していたのだが。能登線初代3001は無認可での国鉄形式ホハ12000で、石川線サハ801との交換で、番号も引き継いだのだろうか。

で、最後に諸兄にお願いが。まっとうなサハ611、612のUF12類似台枠と、TR10あるいは短軸化TR11台車を流用した北陸サハ2001(自社製)、2002(東洋工機)→クハ1711、1712をお撮りの方は、是非ご提供お願いしたい。

2010年 秋の中国一人旅 Part6 瀋陽鉄道博物館

第7日目 10月27日 その1

① ホテル9:00(Taxi)→9:38瀋陽鉄道博物館陽 25.4キロ
② 瀋陽鉄道博物館10:47(Taxi)→11:35ホテル 待ち時間を入れて往復計で153元(約1,900円)

③ ホテル13:05(Taxi)→13:10沈阳地铁青年大街站 10元(約125円)
④ 青年大街站14:03(沈阳地铁)→14:13沈阳站
⑤ 沈阳站前15:00(バス)→16:50調兵山バスターミナル 25元(約310円)
⑥ 調兵山バスターミナル16:55(相乗りTaxi)→17:15ホテル 5元(約60円)

【瀋陽鉄道博物館(沈阳鉄路陳列館)】
8:00、昨夜の事件でアップグレードされた部屋をいただきましたので、ゆっくりの起床です。窓からは、沈阳北站が一望に見えました。今日は、天津から丹东まで乗車したK189次の列車乗務員に調べてもらった「瀋陽鉄道博物館」の発見、9月27日開業した沈阳地铁1号線の試乗と、その後調兵山へと向かいます。今日は大忙しです。
荷物は整理して部屋に置いて、ホテルからTaxiに乗車しましたが、瀋陽鉄道博物館などドアボーイもTaxiの運転手も存在すら知りません。大体この付近とマーカーしてもらった地図と、達筆で書かれた私には読めぬメモだけが頼りです。助手席に座って、運転手と打合せをしてから発車です。

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2010年 秋の中国一人旅 Part5 丹東(安東) 瀋丹線(安奉線)

第6日目 10月26日

丹东13:52(K7318)→18:38沈阳北(30分延着)

昨夜は、歩き疲れましたのでホテル近くの「按摩」マッサージで足と全身を2時間かけて念入りにしてもらいました。これで100元(約1,300円弱)です。身体がほぐれたのでビールを飲んで美味しい中華料理を食べようと、昼間の餃子館に行きましたが閉店でした。仕方なく街中の食堂で麺を食しました。眼の前で麺を打ってくれますのでこれも美味しくいただきました。丹東は朝鮮料理も多いのですが、やはり東北料理が好きです。

丹东站発着の列車時刻表です。撮影の際に印刷してご利用ください。

【国際列車K27の撮影】
ホテルは朝食付きですので、その前の朝の散歩に昨日撮りそこねたK27を撮影する事にしました。撮影場所は、昨日同様の駅手前の踏切にしました。徒歩約30分で到着しました。

左は踏み切りに行く途中で初めて見た三輪電動車。中々のできばえです。夏は暑いのでオープンカーにもなるのでしょうか? 右は往路に乗りたかったK27です。国際列車だけあって、最新鋭の編成です。
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2010年 秋の中国一人旅 Part4丹東 国際列車

第5日目 10月25日 丹東

7:00丹東駅前ホテルにチェックインできました。部屋から駅前広場が見えます。7:17に到着する北京発平壌行きのK27を撮りたかったのですが、初めての土地です。買ったばかりの地図だけでは、撮影地が分りません。ホテルの窓からK27の入線を見ながらしばしの休憩タイムとしました。

土地が広いと言うことは素晴らしいですね。駅前広場では、スケート練習もやっていました。イチョウ並木は黄色く色着いて銀杏をひらっているおばちゃま多しです。

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追憶の九州 一人旅 (3)

想定外の大淀川へ

九州で使用した切符は、前述のように、土日2日間、九州内の新幹線・特急乗り放題という「ゲキ☆ヤス土日きっぷ」でした。土日は特急に乗りまくり、座席車の夜行特急では唯一となった「ドリームにちりん」にも乗って、久しぶりの夜行体験と宿泊費節減を画策していました。
ところが、鳥栖から乗った「リレーつばめ」の車内の揺れ・室温のせいで、次第に体調が悪くなり、とても夜行に乗り通す体力・気力がなくなってしまいました。急遽、予定を変更して宿泊することにし、深夜22時過ぎ、宮崎駅に到着しました。
ホテルでゆっくり眠った翌朝は体調も戻り、未乗車区間の宮崎空港線の乗車までの約一時間を、当初は予定にはなかった大淀川河畔の撮影に当てることにしました。

ホテルを出て、宮崎県庁の前を通って大淀川河畔に到着する。川の流れは変わらないものの、マンションなどの大形の建築物が林立し、両岸の光景はすっかり変わってしまった。かつて、宮崎ではいちばんブランド力のあったホテルもあったはずだが、代替わりして名前が変わっている。下掲の写真とほぼ同じ、橋梁と並行する橘橋への階段から、813系を撮影する。シンボルのフェニックスに樹勢が衰えたせいか、それとも背後の高層建物のせいか、南国宮崎の表現としては、いささか弱かった。

現在の大淀川での注目列車は、来年3月の九州新幹線の全通で、一部の撤退が予想される485系だろう。九州の485系は、大分車両センターに主に3両編成が、鹿児島総合車両所に主に5両編成があり、「ひゅうが」「にちりん」「きりしま」に運用されるほか、この写真のように、ホームライナーにも使用されている。例によってド派手な塗色であるが、実際見るとそれほど違和感もない。赤・クリームの国鉄色が1編成あり、つい先ごろもう1編成も国鉄色に戻され、この日の午後には、国鉄色同士の交換を見ることができた。

40年前の大淀川橋梁、この近くにユースホステルが3軒あって、早めに起きて朝食前に散歩がてら河畔に行き、当時から定番であった、フェニックスを入れて、C57の牽く列車を何度も狙ったものだ。橋梁は、南北にあるため、朝夕のシルエット撮影には格好の撮影地であったが、何度行っても雨が曇天だった。ようやく果たせたのは、大学も終わりに近い4年の冬休みだった。

大淀川のある宮崎~南宮崎間は、区間列車もあって、列車本数の多いところであった。気動車列車もあり、このような、キハユニ16を先頭にしたキハ20×3の4両編成もあった。当時でも、電気式気動車をルーツとする湘南顔の気動車はかなり珍しかった。キハユニ16は、もとキハ44100で、運転台なしの中間車キハ44200を挟んだ3両編成となり、蒸機ばっかりの九州に初めて配属された。九州の無煙化を実現した車両であり、記念すべき車両の唯一の残党だった。

秋の中国一人旅2010年 Part3 天津→丹東 K188/189乗車紀行

第4・5日目 10月24・25日

① ホテル11:30(Taxi)→11:50天津站
② 天津12:58(K189/189)→5:02丹東 1,004キロ 所要時間16時間14分

昨夜は、日本料理屋で朋友と久方ぶりに深酒しましたので、起床はゆっくりです。発車1時間前には天津站に着きましたので、朝食兼昼食を駅前の天津名物の肉饅頭屋で食しました。外に出ると雨が降りだしていました。

夜行列車乗車用に売店でビール・白酒やソーセージ類を買い出して、待合ロビーの電光掲示板を見ますと10分延です。このK189/189次(列車)は、上海始発で北朝鮮国境の丹東までの2,330キロを所要時間34時間32分、表定速度67.5km/hで結びます。天津からは、表定速度61.8km/hでゆっくりと向かいます。
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1957年5月金沢機関区



C5776とC5778

北陸鉄道のネガをゴソゴソやっていたら、国鉄車両も出てきた。金沢では機関区、客貨車区も、行きがけの駄賃というか、ついでに覗いていたのである。C57はどうでもいが、E10がズラリ並べられていた。周知のようにE10は1949年4月24日奥羽本線福島-米沢間電化で失業し、その後北陸本線倶利伽羅峠の補機として使われていたが、新随道の掘削で勾配が緩和され、再度失業していたのである。


E101  奇怪な除煙板にご注意あれ



E102(上)とE104(下)

その後北陸本線交流電化で、米原-田村間4.7kmという長大デッドセクションになり、ほぼ勾配のないこの区間が彼らの失業対策―最終職場になった。交流電化開業は1957年10月1日だから、米原区転出の数か月前だったことになる。さらにはこの米原-田村間も1962年12月28日電化され、全く用途を失って廃車された。

 

機関区の片隅に、立山重工製Cタンクが1両、さして荒れずに放置されていた。同類は各地で見られ、軍需工場や陸海軍工廠等で使われていたものが、敗戦後GHQ(General headquarters=占領軍総司令部)から賠償指定され、大蔵省管轄で保管されていたものである。結局は賠償にはならず、車両類は1953年ごろから順次指定解除されて私鉄で再活躍したり、引き取り手がないものは解体されてしまった。このCタンク機も、本当に車両不足が切実だった時期を無為に過ごし、再起したとは聞かない。金沢機関区は単に置場を貸していただけである。


ホユニ5051が完全な姿で残存していたのには一驚

客貨車区を覗いて仰天しかけた。何と、ホユニ5051(形式5050)がまともな姿で残存しているではないか。これは鉄道作業局ニボ17として、1889年神戸工場で誕生したもので、ホイロ5166(5150)→ホロ5508(5495)→ホユニ8605(8600)→という経歴。1950年2月14日名タヤで廃車されているから、この時点7年を経過している。

通常食堂や休憩室、組合事務所などに廃車体を転用する場合、台車を外すのに、これは一体どうしたことか。別段保存や転用などというものでもない。単に解体から漏れていた、というだけなのは、出入り口にハシゴ・階段の類が付けられていないことから分かる。蒸気機関車なら、誰かが画策して密かに残していた―例えば吹田教習所にC5345、555、65が残存―こともあったが、こんな例は珍しい。小生にしても、救援車や配給車化されず、営業車のままの雑形客車で、しかも足つきは、これ以外ほぼ見ていない。


ロ642車体

建物の間に、ロ642の車体を見つけた。形式628、628~680は新橋工場1888~1900年にかけ製造された、サイド2箇所扉のロングシート車で、片隅に便所があり、定員26人。

昭和46年の北陸鉄道浅野川線


クハ1651+モハ3011 46年3月21日 蚊爪

前回の金石線に引き続き、昭和40年代の浅野川線の状況について報告する。金石線は、ほぼモハ3000形で固められていたが、こちらは車両の転出入が激しいため、昭和46年3月時点での状況で報告する。特に同年7月11日加南線廃止後、大幅な車両の動きがあり、今回取上げた元遠州鉄道(車体のみ)のクハ1601、元国鉄のキサハ04のクハ1650形が姿を消した。

【沿 革】
前身は大正13年1月に設立された浅野川電気鉄道で、大正14年5月七ツ屋~新須崎(蚊爪~粟ケ崎間に存在し昭和36年6月廃止)5.3㎞を開業、同15年5月金沢駅前(現北鉄金沢)~七ツ屋間0.8㎞開業、昭和4年7月新須崎~粟ケ崎遊園前(現内灘)~粟ケ崎海岸間2.4㎞間を開業した。同社により砂丘開発の一環として粟ケ崎に大規模なレジャー施設が建設されたが、戦争のため軍部に徴収の上、軍隊の宿舎等に転用され閉鎖されてしまった。戦争末期の昭和20年2月粟ケ崎遊園前~粟ケ崎海岸間1.8㎞間が廃止(昭和27年7月に復活して海水浴シーズンのみ営業したが、昭和49年7月再度廃止)昭和20年7月20日北陸鉄道と合併して同社の浅野川線となった。
平成8年12月8日架線電圧を600Vから1500Vに昇圧して、従来の車両を元京王電鉄3000系改造の8000系に置換え、同時にワンマン運転を開始した。平成8年3月28日、金沢市の都市計画の一環として北鉄金沢~七ツ屋間が地下化された。

【昭和46年3月の状況】
当時から現在まで北陸鉄道各線の中で最も業績が良く、M車に関しては比較的車齢の若い車両が集められていた。運転間隔は朝夕ラッシュ時ほぼ20分、その他の時間帯は30分間隔で運転され、20分間隔の時は3列車、その他の時間帯は2列車使用されていた。この辺りの状況は現在もほぼ同じである。編成はMc+Tcの2連が基本で朝ラッシュ時は2本にMcが増結され3連となった。乗客が多い理由は沿線人口もさることながら、バス路線が並行するのは2つ目の上諸江までで、その先終点内灘までは競合がないことが挙げられる。市内中心部香林坊から内灘を経由して七尾線の宇野気方面に行くバスが1時間に1本程度(現在は更に運転間隔が開いている)あったが途中経路が異なっている。余談になるがバスの方向幕は「宇ノ気」と表示されていたが、現在はJRに合わせて「宇野気」と表示されている。正しい地名は「宇ノ気」である。
北鉄金沢と内灘の間に途中駅が10カ所設置されており、当時「割出」と「蚊爪」が交換駅であったが、現在は「三ツ屋」1カ所である。

【車 両】
昭和46年3月時点での車両は、電気機関車1両(EB221)、電車11両(モハ3010、3201、3301、3551、3561、3563、5101、クハ1001、1601、1651、1652)であった。同一形式が複数両存在しているのは、モハ3560形とクハ1650形が2両のみであとはすべて1形式1両であった。

1)電気機関車
EB221(形式EB22)
小松線の前身白山電気鉄道デ3→北陸鉄道モハ503が化けた電気機関車である。デ3はデ1、デ2と共に白山電気鉄道開業時に昭和3年新潟鉄工所で新製された木製4輪単車である。当件については、湯口先輩が「【9997】北陸鉄道2」で、モハ501、モハ502の画像と共に解説されておられるので、今一度お読みいただきたい。
一旦荷物電車モヤ503となり、加南線に転属し、昭和36年に電気機関車に改造された。昭和43年に浅野川線に転入して北鉄金沢駅構内にあった工場引込線の国鉄貨車の入換えに使用されていたが、昭和47年4月貨物営業廃止により廃車となった。

 
 
(42-3-21
 山代/浅野川線での画像がないため加南線時代を貼り付けた)

2)電車
前述の通りモハは3560形の2両以外は1形式1両、クハも1650形の2両以外は1形式1両であった。
モハ3011(形式モハ3010)
昭和33年日本車輌で新製され石川総線に配置された。主要機器は他車からの流用品であったが自動制御器を持っていた。昭和39年にモハ3000形(3001~3005)と共に金石線に転属したが、予備車的存在で後年主電動機を取り外してクハ代用となっていた。昭和45年HL制御器を搭載して再電装され、浅野川線に転属した。パンタ側非貫通、非パンタ側に貫通扉が設置されていたが、浅野川線転属時にパンタ側にも貫通扉が設置された。

 
46-3-21 蚊爪)

モハ3201(形式モハ3200)・クハ1001(形式クハ1000)
昭和32年、後述のクハ1001と共に日本車輌で新製され加南線に配置され、モハ3201+クハ1001の整った編成で使用された。主要機器も新製されたが他車との互換性を重視してHL制御器を装備した。昭和39年にクハ1001と共に石川総線に転属したが、制御器の違い(石川総線は間接自動制御)から朝夕ラッシュ時以外は休んでいることが多く稼働率は低かった。昭和43年モハ3201が、翌44年にクハ1001が浅野川線に転属となり、再び2連を組むことになった。モハ3201はパンタ側非貫通、非パンタ側に貫通扉設置、クハ1001は片運で運転台側非貫通で、最後までこのスタイルであった。

 


(
モハ3201+クハ1001 46-3-21 蚊爪)


(モハ3201の非パンタ側 
42-3-20 新西金沢)

モハ3301(形式モハ3300)
前述のモハ3011と共に昭和33年に日本車輌で新製され金石線に配置された。金石線は軌道法が適用されるため、連結運転時に全長が30m以下にする必要があり、モハ3011より車長が600mm短く、扉間の窓が1枚少なく5枚となった。機器類は新品で自動制御器を装備した。昭和39年モハ3000形投入により加南線に転属、更に昭和44年制御器をHLに換装して浅野川線に転属した。パンタ側非貫通、非パンタ側に貫通扉が設置されていたが、浅野川線転属時にパンタ側にも貫通扉が設置された。
1500Ⅴに昇圧後も、補助金による新車(実際は中古車)購入の代替車として残り、平成10年に廃車になったが昇圧改造はされていないので自力走行は不可能であった。

 
46-3-20 内灘)

 
(加南線時代 
42-3-21 山代)

モハ3501(形式モハ3500)・モハ3551(形式モハ3550)
モハ3501は昭和36年、モハ3550は昭和37年にそれぞれ日本車輌で新製され浅野川線に配置された。貫通扉は当初から両側に設置されていた。車体の仕様はほぼ同一であるが、モハ3501は、主要機器は新品で自動制御器を装備、モハ3551はモハ850形の廃車発生品を流用して作られ、HL制御器を装備した。モハ850形は元飯田線の辰野~天竜峡間の前身である伊那電鉄の買収車で最後は富山港線で使用後、昭和29年に北陸鉄道が購入した木製車で2両在籍した。
モハ3501は昭和39年に加南線に転属したが、昭和46年7月11日同線の廃止により浅野川線に復帰、その際にモハ3570形3571(昭和36年元遠州鉄道モハ13の車体を利用して自社で製作)の廃車発生品を利用してHL化した。
一方モハ3551は新製以来浅野川線に所属し、頻繁に転属が行われた同社では珍しい存在であった。
モハ3501は46年3月時点では加南線の所属であったが、元々浅野川線用として新製され、同線廃止後復帰したので時期のずれはあるがここで取上げた。

 
(加南線時代 
42-3-21 山中)

モハ3561・モハ3563(形式モハ3560)
加南線の前身、元温泉電軌から引継いだモハ1800(昭和17年木南車輌製)→モハ1831とモハ1810形(昭和18年木南車輌製)を昭和37年にHL制御化の上、前面に貫通扉を設置したもので、経歴はモハ1813→モハ3561、モハ1803→モハ1831→モハ3563である。モハ1801→モハ3562も在籍していたが、昭和45年に再度加南線に転属した。モハ3563はモハ3301と共に1500Ⅴに昇圧後も、補助金による新車(実際は中古車)購入の代替車として残り平成10年に廃車になった。 

 
(
モハ3563/46-3-21  内灘)

モハ5101(型式モハ5100)
昭和26年広瀬車輌でモハ5101~5103の3両が新製され、石川総線に配置された。 HL制御器を持ち、戦後製の新車として活躍していたが、車両の間接自動化が進められた結果、次第に第一線を外れ、昭和44年モハ5101が浅野川線に転属した。石川総線に残った5102と5103は昭和46年に間接自動式の制御器に換装されモハ3761、3762に改番された。(こちらは石川総線で解説する)

 
46-3-21 七ツ屋)

クハ1601(型式クハ1600)
元遠州鉄道のクハ51の車体を昭和37年に日本車輌経由で購入して自社で改造した。遠州鉄道クハ51は同形のモハ13、モハ14、クハ52と共に昭和23年日本車輌で新製され、車体は運輸省規格B`形であった。昭和36年にモハ13+クハ51、モハ14+クハ52の機器を流用してモハ38+クハ86、モハ14+クハ52が製作され、車体のみ北陸鉄道で再起し、モハ13→モハ3571、モハ14→クハ1602、クハ51→クハ1601、クハ52→クハ1603となった。一時は4両共浅野川線に配置されていたが、クハ1601を除き加南線に転属した。(クハ1601の写真がないため加南線転属後のクハ1603を貼りつけた).

 
(クハ
160342-3-21 山代)

クハ1651、1652(形式クハ1650)
元国鉄のキサハ04101、102を昭和36年に購入してサハ1651、1652として使用し、翌37年に運転機器を取付てクハ1651、1652となった。ハ化の際、運転台側正面窓の3枚窓化、非運転台側の貫通化、乗務員扉の取付け等が実施された。
経歴は下記の通りである。
キハ41040(昭和9年日本車輌)→キキサハ41800(昭和25年新小岩工場)→キサハ04101(昭和36年2月新潟区で廃車)→北陸鉄道サハ1651→クハ1651
キハ41041(昭和9年大宮工場)→キサハ41801(昭和25年新小岩工場)→キサハ04102(昭和36年2月新潟区で廃車)→北陸鉄道サハ1652→クハ1652

 
46-3-21 蚊爪)

2010年 秋の中国一人旅 Part2 天津駅での切符購入の難しさ

第2・3日目 10月22・23日 天津滞在

ホテルで朝食後、散歩がてらに駐在時いつも航空券を購入していた近くのJAL天津事務所を訪問しました。「お久しぶりです。」と、丁重なご挨拶を受け、最近情報を聞きましたが、「中国内では報道されていませんが不穏な動きがあるので、滞在・旅行者は充分注意をするよう領事館から指導を受けている。私もよく日本人か韓国人かを聞かれる事がありますが、韓国人と答えています。絶対に目立つ行動は慎むように。」と、忠告がありました。同じような忠告は、10年来親交のある日本料理店調理人からもありました。
前回の反日デモ多発の際は、日本で報道されるより現地では、中国人のみが行くような食事処や飲み屋で騒ぐと危ないが、そんな特別な事をしない限り問題はないと、たいして話題にものぼりませんでした。私も現地で実感していましたが、今回は現地で生活する日本人の対応方もちょっと違うなあ、気をつけなければと思いました。

普通運賃航空券は、かつて日本で購入するより中国で購入する方が格安でした。他にもいろいろとサービスがあって、恩恵に与ってきましたが、次第に運賃も上がり恩恵もなくなりました。この事務所も11月1日から営業時間は昼間の10:00~15:00、そして土曜日が休みになって縮小されます。
かつての中国線は、中国側の都合で便数も限られ、毎回訪中時はキャンセル待ちが続いていましたが、障害がなくなるとJALとANAが競って中国各地へと路線・便数を増やしていきました。需要を実際に見てきた者として、明らかに供給大過剰です。300人近く搭乗出来る飛行機に数10名足らず。ひどい時はクルーより少ない8名という便もありました。
まさにバブル状態だったのですが、大きな痛手を受け体力がなくなった結果は社員に対しての解雇、私達利用者にはサービスダウンが襲ってきました。国鉄が破綻したのとよく似ています。
この事務所がオープンした時から知っておりますので、思い出もたくさんあります。天津は今やTOYOTAの中国生産の主要基地となり、関連企業を含め多数の日本人が駐在・出張で来られていますが、私が来た当時は会う日本人は顔なじみばかりの人数でした。この事務所も消えないで欲しいと願って、天津站へと向かいました。
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2010年 秋の中国一人旅 Part1 旅立ち

第1日目 10月21日 移動時間;15時間30分

① 自宅5:00→長岡天神5:19(阪急)→5:38南茨木5:45(大阪モノレール)→6:08大阪空港
② 伊丹7:15(JL102)→8:24羽田10:30(JL023)→13:38(現地時間)北京
③ 北京空港站14:40(空港快速)→15:15東直門(北京地鉄2号線)→15:35北京站
④ 北京站17:00(2号線)→宣武門(4号線)→17:30北京南站
⑤ 北京南17:50(C2059)→18:20天津19:10(Taxi)→19:30飯店

「春の桜前線追っかけ」「初夏の北海道」等々と国内撮影の旅を続けてきましたが、中国へは半年間も行っていません。これほど長く訪中していないのは、ここ10数年間で初めてです。家の事情もあって我慢してきましたが、ストレスは溜まるばかりなので老体には良くありません。思い切って出発する事にしました。
しかし今迄利用していた関空からのJAL中国線は経営悪化で順次廃止されて、9月末には北京線も消えました。名古屋からまだ運行されている天津直行便しかないと思っていましたら、羽田国際空港ターミナル10月21日にオープンする。中国線もありとの発表がありました。

セントレアまでなら約6,000円、関西空港は安く行っても約1,600円の交通費が必要ですが、伊丹空港なら680円と格安です。早朝の出発は、苦になりません。そして、少しでも安く旅をしなければならない年金生活者です。
予定を変更して伊丹空港から搭乗してのトランジットで北京空港に到着するコースとしましたが、今度は特典航空券が満席で取れません。予約待ちを余儀なくされましたが、日中間の問題発生でキャンセルが多数出たのでしょう。直前に21日の出発が決まりました。 続きを読む