【10569】秋の中国一人旅2010年 Part10 南満州鉄道(満鉄)の客車

第10日目 10月30日
① 沈阳22:21(K28)→天津6:48
② 市内14:30(Taxi)→15:45万家碼頭駅16:45→17:40市内

K25軟座寝台の快適な車内と、心地いい走行音を聞きながらの熟睡でいつもの通り6時に起床しました。夜明けの車窓を見ながら定刻の6:48天津到着です。朝日がホームに差し込んでいます。

K28の車両編成は、
SS9-0080(DL)+⑮XL20676+⑭YZ351535+⑬351543+⑫351540+⑪351539+⑩CA893557+⑨RW554681+⑧YW677536+⑦677539+⑥677538+⑤677542+④677542+③677543+②677542+①677530の荷物車+硬座車4両+食堂車+軟臥車1両+硬座寝台車8両の15両編成で、今日は北京~平壌間の車両は連結されていませんでした。

反対側ホームには、天津の万里の長城方面に向かう列車が止まっています。今日は土曜日です。しばらくすると若い男女達が立席の出るほど、これでもかと集団で乗り込んできました。

今日の予定は、天津地方鉄道(天津市鉄路集団)を走っていたという南満州鉄道の客車の見学です。以前からインターネットで掲載されていましたので行かなければと思っていましたが、中々機会を作れませんでした。駐在時に知っておればと悔やみましたが、まさかこんな近くに宝物があるとは知りませんでした。
ホテルにチェックインして朝食を食べると癖になってしまった朝寝です。気がつくと昼食時で行きつけの日本料理屋で朋友と話しているとあっという間に時間が過ぎ去っていました。急いで馴染みのTaxiを呼んでもらって満鉄客車視察に向かいました。


目的地の万家碼頭駅は、天津市内から遠く離れた約48キロの海新区にあります。今は道路も拡幅舗装され、Taxi乗車約1時間で到着しましたが、旅客扱いは既に停止されて駅はなく貨物操作場になっていました。操作場を横切り奥に行くと2両の車両が見えました。放置された時間が長かったのか朽ち果てるように放置されています。

途中で視察した芦北口站です。2000年以前は客扱いをしていました。

天津は政府直轄市で人口1,100万人を越え面積も京都府の約2.5倍もあります。万家碼頭駅へ行くと言っても京都から大阪へ行く以上の距離です。最近は道路整備が急ピッチで進み約1時間強で到着しました。

万家碼頭駅は既に操作上として整備され、目指す満鉄客車は、片隅に放置されていました。

放置されてから相当に経過したYZ81形20147とYZ5形 22668の2両です。

【YZ81形 20147】




YZ81形20147 定員118名 自重43.6t 全長20.7m 製造年不明
オハ61のように座席の背もたれは板製です。かなり故意的に壊された跡が分ります。多分かまどの燃料となったのでしょうね。

【YS5形 22668】




YZ5形 22668 定員100名 自重42.0t 全長20.9m 製造年不明
こちらの座席は背もたれも厚いソファで豪華です。クロスシートですが、優等列車用だったのが分ります。多分日車製を参考に製造されたと思われます。


2両の台車はいずれも住友製です。

この2両の放置された客車がどのような経緯をたどって天津地方鉄道にたどり着いたか、全く不明です。他にはベトナムに行った客車もあるようです。満鉄時には川崎重工業㈱車両事業本部の「蒸気機関車から超高速車両まで」を見ますと、259頁下によく似た1934年製(昭和9年)35両製造の「南満州鉄道 ハ5型鋼製三等車(ハ5-1-304号)が掲載されています。ただ、ベンチレーターや台車が違っています。多分満鉄工場で、類似された車両を製造されたのではないか思ったりします。どなたかこの客車の満鉄時代の詳細をご存知の方がおられましたら教えて下さい。

車庫内には、保管状態の良い同じ車両達が眠っているようです。何とか入れないか、覗けないか試してみましたが、鍵がかかっていて無理でした。次回来る時は朋友を通じて見せてもらえるように交渉依頼をしました。OKが出ましたら、保管された満鉄車両を見に行こうと思っております。ご同行希望の方はお声をかけますのでご連絡下さい。今日のTaxi代は、14:30~17:40で走行距離約110キロ、240元(約3,000円)でした。  Part11へ続く


【10538】秋の中国一人旅2010年 Part9 調兵山 その2

第9日目 10月29日
① 調兵山バスターミナル17:20(バス)→19:10沈阳站
② 沈阳22:21(K28)→天津6:48

今日も昨日同様に夜明けと共に目覚めました。王千・大明・大青行きと3列車の牽引機を確認に行きますが、昨日同様DLでがっかりです。


東風4-7720牽引の大明行きの101次。YZ92-4522は最近更新されたのか、車体も綺麗に塗装されていました。殆どの客車は中国鉄路からの中古車で、色落ちと煤けた車両が多かったので、綺麗な車両を見るのは驚きでした。

朝の旅客列車発車後に入線してきた業務用のYS22-9248を挟んでDCのプッシュプル編成と保線用単行DC、保線区員で満員でした。地方鉄道とはいえ、長編製の石炭列車やセメント列車が走行しますので、毎日頻繁に路盤検査補修が行われています。

ホテルで朝食後、旅行社に行き昨日蒸気機関車は走ったと伝えると、走らないと言った担当者はびっくりした様子で、機関区に激調で抗議しています。結果、今日の
SY1771号機SY1770号機の運用は、昨日同様運用と分りました。そして、きっちりと撮影許可証を発行します。昨日無駄足をしたので、割引が必要と言いますと、「自分の責任ではない。本当は2日分をいただきたいが1日分で良い。」との返答です。以前は、ほぼ全列車がSL牽引でしたので、100元(約1,250円)は大いに価値がありました。現在は4分の1の運用本数になっていますので割高感がありますが、年数が経てば経つほど蒸気機関車維持は手間も多く費用も高額となってきていますので、協力しなければと納得しました。

Taxiは前回の調兵山掲載では土地勘に慣れた運転手をご紹介しましたが、今回電話をしても「この番号は、使われておりません。」と、連絡がつきませんでしたので、流しのTaxiに乗車しました。しかし、どこそこの鉄路駅に行って欲しいと運転手に言っても知りません。そんな客はここでは殆ど皆無ですから仕方がありません。でも大丈夫です。4回目の調兵山参りで道は頭の中に入っています。私の方で次の交差点を左に曲がれ、右へ曲がれ、真っすぐ行くように指示が出来るようになっていました。運転が上手いか、待たせても文句を言わないか、愛想は良いかを見ていましたら、優秀でしたので今日も電話するので来てくれるかを聞いてみましたら「いいとも」と、返事が返ってきましたので、12:30にホテル前に来てくれるように朝に電話をしておきました。それまでは、昨日同様に朝寝で体調維持に努めました。

調兵山站から樺南站へと向かう農道。大明行きと同様に鉄路とは平行しません。舗装道路ですが、途中に凸凹くぼみが多く運転には慎重さが必要です。

チェックアウトをする際に沈阳站に向かう最終バスの時刻を聞くと、18:00と教えてくれました。今晩は沈阳から天津まで待望の22:21発のK28国際列車乗車です。最終バスでも充分な乗継時間がありますので大青発まで撮影できます。

タクシーに荷物を積み込んで、列車なら26分かかるところを16分で暁南站に到着、DL牽引からSY1770号機にダトンタッチした206次を確認しましたので、逆送して撮影予定地に向かいました。


樺南から橋南に向かう206次

三家子~調兵山間の無名站から調兵山站へと向かう206次。

昨日撮りそこねた三井から大明への登り勾配がある築堤での激闘を撮ろうと待ちましたが、三井発車時は煙は出ましたが、直ぐに消えました。この日は暖かく白煙さえありません。

この後、SY1771号機が牽引する大青16:53発の306次を撮りに向かいました。約30分後の15:50に到着。ホームに通じる跨線橋を上がると、近くに煙が見えました。行ってみますとお目当てのSY1771号機が車庫から頭を出して、出発前の準備でしょうか盛んにドレインを切っています。その内、車庫から出て、走行中は出さない黒煙をはいて今度はものすごい勢いでドレインを吹き上げます。そしてスイッチバックで構内に向かって行きました。


力強い上遊形です、一旦走り出すと殆ど煙が出ませんので出発時に期待して、調兵山今回最後の撮影は夕陽を受けての大青発車です。しかし、そろそろ発車真近いと前方に行って見ると、SY1771号機ではなく金鷹GCY-450号機が牽引機として連結されています。運転手にSY1771号機が牽引すると聞いて来たけれど、これが牽引するのかと聞くと「そうだ」との返答です。また騙されたのか、それとも急な変更だったのか聞きましたが、私の中国語では意味が通じず、分らずじまいでした。

GCY-450+YZ22-7911+7002+8930+8828+21716(客車は全てYZ22形)の5両編成

そんな事で失意を胸に発車前に調兵山バスターミナルへと向かい、最終1便前の17:20発に乗車しました。
昨日、今日乗車しましたタクシーを紹介しておきます。名前は劉さんで携帯15898030180です。料金ですが、今回は1日貸切にせずにメーターを倒してもらいましたが、昨日14:40~17:30、走行距離62キロの乗車で94元(約1,200円)、今日は12:30~17:15、走行距離80キロの乗車で149元(約1,900円)でした。初めてきた時は、何も分らないので終日、沈阳から旅行社のワンボックス(通訳なし)を1日貸切で約25,000円強を支払ったのと比べると、天と地の差もあります。旅なれた方ならお得なTaxi利用をお薦めします。バスも頻繁に出ていますが、こちらは中国語が堪能でないと途中下車は難しいと思います。

19:10沈阳站到着後に地铁站を見に行きましたが最終近く、地上入口では警備員が乗車しようとしている客をせかしています。沈阳站の地上出入口はたくさんあるのですが、まだ工事中もあって全部が完成するのは、来年になると思います。

乗車時間には時間がたっぷりとありましたので、ビールを飲んでから駅裏のB級グルメを楽しみました。これは、いつもの小麦粉を溶いた生地を丸い鉄板上にクレープにしたものでなく、既に四角に切られた湯葉に卵→ソース→香菜を入れて巻いたものです。初めて食べましたが、中々美味しく気に入りました。

新疆ウィグル自治区の名物烤羊肉串ですが、最近はどこでも食べられます。ビールのつまみには最高で大好きです。食べる前に後方に羊肉が2体ぶら下がっていたのですが、一瞬に1体を誰かが持って行きました。1体なくなっていると言うと焼いていたウィグル人さん慌てて電話していました。油断も隙もありません。

沈阳站には広い軟座専用待合室がありましたので、ここで乗車待ちをしました。

心配していた軟臥下鋪ですが、他人には売られていなく安心しました。同室客はもう室内灯を消して睡眠中でした。乗車後直ぐに乗務員が寝台券を交換にやってきました。

隣の食堂車に行ってみましたらまだ営業中でメニューを見せてくれました。さすが国際列車です。往路の列車とは格段にメニュー内容、種類の多さと違います。これからは、国際列車に乗るべきと思いました。沈阳站裏で食べまくったので次回乗車時の楽しみにしてビールだけを注文しました。

ビールも駅前食堂では哈尔滨ビールが出ましたが、国際列車ではハイネケンです。

天津までは、約8時間半の乗車でした。大地で乗車するには、短すぎる時間です。次回は北京~丹东間、約14時間を乗ろうと思いました。 Part10へ続く


【10534】らくさい便り

臨時直通列車で【紅葉の嵐山へ】一直線!のパンフレットが効を奏したのか、平日昼間でも特急は満員の阪急である。なかでも梅田9:51発、桂10:32発の快速特急は6300系6連とあって、座っている乗客より立っている人の方が多い盛況ぶりである。これに気を良くしたのか、来春「京風」特急-観光特急-を梅田~河原町間で運転させることになった。毎週土日祝日運転で、当面1日1往復の予定。途中停車駅は十三、淡路、桂、烏丸となる。観光特急は6両1編成(6351・6F?)で内装を「京風」に改装するとか。特製HMはもちろん、この1編成に愛称を付けると言っている。南海の「天空」に最初首をひねったが、真言密教にまつわると知り納得したもんだ。これについてはthurukameさんの解説をまとう。平凡だが、京風なら「雅」-まさとは読まないーが王朝風となり平安京を偲ぶものになる。外装の変化には期待はもてないであろうが、内装にはお手並み拝見と参ろう。こうしたリクレーションカーは近鉄の「十八番」だが、南海に続いて阪急(新京阪線)とはこれいかに。本来、行楽列車頻発がお手のもの筈の京阪に、ダブルデッカー以降ヒット商品がない。中之島線不入りの余波を受け、宇治線のワンマン化が近々実行されるようだ。宇治線の再起は京市交東西線との直結だ。なに、車両の寸法が違う。京市交の車両にちょいと手を加え、宇治線に乗り入れさせればなんとかなる。むちゃな事を言っているのではない。アムステルダムへ行けば2.4m幅が3mの線区に直通しておるぞ!ドンマイ、ドンマイ。夢は嵐山、びわこ、宇治を結ぶためだ。


【10501】秋の中国一人旅2010年 Part8 調兵山

第8日目 10月28日
夜明けと共に目覚めました。6:28王千行き、6:40大明行き、7:16大青行きと連続して発車します。この牽引機関車を見ておかないと今日の運用が分らないので、急いで調兵山站に向かいました。


2010年10月現在の調兵山站発着の時刻表です。2年前と殆ど変わっていません。

朝の調兵山站。SY形に替わって見慣れないDLが王千行きを牽引していました。今回初めて見た湖北省襄樊市にある襄樊金鹰轨道车辆有限责任公司製造の「金鷹GCY-450号機」です。このメーカーは主に軌道試験車等の特殊事業車を製造しています。

しかし、全列車ともDL牽引です。SY1770号機は、待機状態で留置されています。いつものように追っかけをする必要がなくなったので、いつもは破棄する朝食券を使って、ホテルで初めての朝食をしました。

8時に営業開始する旅行社に行こうとすると、7:50SY1170号機が突然に単機で発車して行くのが見えました。直ぐに旅行社で、今日のSL運用を機関区に聞いてもらいましたが、「残念ですが、今日の運用はありません。」との返答でした。先ほどは、大青機関区に回送される運用だったのだろう。今日は休んで疲れを取る日だという事なんだと部屋に戻って、不貞寝としました。


11:00、起きると青空が広がっています。明日に備えてロケハンをしておこうと、大明の街まで行ってみる事にしました。列車だと約45分かかりますが、Taxiだと約15分で着きます。

鉄路とは離れて一直線に延びる舗装道路を行きます。多く見られる馬車もここでは現役の交通機関です。大明の街には屋内・屋外の市場があり、野菜・果物・肉等の全ての食材が揃います。料理好きの私としては珍しい食材を見るのが楽しみでもあります。


東風5B-0037号機が牽引する106次

① 大明12:58(106次)→13:44調兵山
② 調兵山14:06(403次)→15:37东開屯16:17(406次)→17:56調兵山

大明からは12:58に乗車。SL運用がないのでまだ行った事のない东開屯まで往復しようと計画しました。ところが、調兵山に着いて东開屯行きの列車に乗り込み発車待ちをしていると、SY1770号機が暁南からの206次を牽引して到着しました。騙されました。予定変更です。折り返しの列車を牽引して発車準備をします。


14:26、大青に向けて発車する先ほどの東風5B-0037号機が牽引する309次。
調兵山站で並ぶ大明行きと、王千行き列車。DLは、東風4-7720号機。

時間がないので、調兵山站発車を撮った後Taxiで橋南~暁南間に先回りして待ち受けましたが、来たのはDL牽引でした。

15:21、王千行きの205次を牽引するのは、東風4-7720号機でした。橋南付近にて。

SY1770号機は、暁南から来たので折り返しはてっきり暁南に向かうと思い込んでしまっていました。次の運用は、大明行きになっていたのです。発車前に機関士に聞く時間がありました。発車した時間をデジカメで確かめると、大明行きの時刻でした。確認すれば分った事なのに、冷静さを欠いていました。しばらく自己嫌悪に陥りました。
仕方ありません、大明への撮影地に行くにはもう無理ですが、折返しが撮れます。待たせておいたTaxiの運転手に大明へ向かうように指示しました。

SY1770号機牽引の大明発調兵山行きの108次が発車を待つ。


落日の大明付近。右の写真は、こんな感じを撮りたかった合成です。


17:01、もう30分日没が遅ければ、良かったのですが・・。これが精一杯でした。

大明站到着後はSY1770号機を確認してから決めていた撮影地で待ちますが、刻々と日没が近づき思い描いていた光景は列車が来る時には、日没と共に消えてしまいました。もう少し日没が遅ければ傑作を撮れたはずなのですが、残念です。

おまけに調兵山站へ戻ると、もう1台のSY1771号機がいます。大青からの列車を牽引していたと機関士は言います。今日はSL運用のない日だと言われましたが実際は4本の運用がありました。自分のミスもありましたが、こうゆう事があるのでここでの撮影は難儀です。明日は、旅行社に間違えがあった事を伝えて、確実な返事を聞いてもらえるようにする事にしました。  Part9へ続く


【10497】佐竹さんの写真展打ち上げ会と朝がゆ会

佐竹さんが年末に山科青少年活動センターで写真展を開かれることはすでにお知らせしましたが、12月12日に打ち上げ会が近くのおそば屋さんで開かれます。

参加の申し込みを受け付けておりますが11/24現在、沖中・吉田・篠崎・田野城・滝本・小西・円中・四方・福田・井原・玉田各氏の出席が確定しております。あと少し余裕がありますのでご希望の方は田野城までお願いします。

このほかに12/19に七条京阪のサカタニギャラリーの朝がゆ会でお話会も開かれます。こちらは直接サカタニまでお申し込み下さい。案内状を掲載しますのでご覧下さい。


【10474】1958年8月上田丸子電鉄

なんで上田丸子へ行ったかは、写真を見ていただければわかる。この電鉄は、実に多数のガソリンカー、ディーゼルカーの『成れの果て」をかき集め、電動車、制御車、付随車にしていたからで、就中旧飯山鉄道のボギーガソリンカー、7両全部を集めていた。飯山には他にキハ51なる、2軸車が1両あった(←南総鉄道キハ103)が、これは飯山鉄道買収(1944年6月1日)に含まれず、日立航空機立川工場の通勤用に転じていた。


上田丸子電鉄モハ3223+モハ3224 3224は秋田鉄道ジハ6買収車

飯山鉄道は1931年7月17日瓦斯倫動力併用認可を得、日車東京支店と5両のガソリンカーを契約したことが、1931年上期の営業報告書に記されている。しかしこの時点日車東京支店はボギーのガソリンカー製造実績がなかった。そのためかどうか不詳だが、設計は本店が行った。1930年10月/11月製の佐久鉄道キホハニ51~56と若干の差異―窓が下降式、寸法も厳密に同一ではない―があるが、ほぼ同様の設計であった。車体実幅は2,200mmと狭いから、扉下に踏み板を張り出している。

組立図は勿論本店が引き、図番組8ハ-831、日付昭6-3-30。ところが支店にも組8ハ-145、昭6-7-27なる組立図一式が存在し、しかも「基図本組8ハ-831」の記入がある。すなわち支店は本店の図を完全にトレース=コピーしたのであった。

それからがややこしい。各車には支店の銘板が張ってあり、従前ファンは、この5両は日車東京支店の製造と信じて疑わなかった。しかし日車売上台帳を見ると、一筋縄ではいかない。それは、本店、支店両方に注文先を飯山鉄道とする売り上げ実績、工号があるからである。工号とは日車内部の符丁で、顧客からの何番目の注文かが分かる仕組みで、本店と支店とで様式が違う。

売上台帳64期(1931年6~11月)での本店は、車両の部ではなく、「製作器具内訳表」に注文先飯山鉄道、品名手荷物室付半鋼製四輪ボギー瓦斯倫客車、数量5両外4点、請負金額39,707円、製作費36,918円63銭、工場損益2,788円37銭。支店は「製作車両内訳表」にやはり注文先飯山鉄道、品名半鋼製四輪ボギー瓦斯倫客車、数量5両、請負金額60,000円、制作費56,786円34銭、工場損益3,213円66銭。常識的には本店の発注先を飯山鉄道でなく、支店とすべきだったのであろう。

これから判断すれば、受注は間違いなく支店。ところが現実には本店が下請けで2/3を製造し、支店へ。支店が残りを仕上げた、と読める。支店の制作費には本店への支払=36,918円が含まれている訳で、飯山鉄道キハニ1~5竣功図記入代価は1両12,500円だから、5両で62,500円。2,500円が搬入経費(運賃、保険料、荷役費)と思えば勘定は合う。

車両業界では下請等の実態がどうあれ、最初に受注したところがメーカーとされ、そこの銘板を張るのが常識で、現にこの飯山5両も竣功図を支店が調整し、製造所名日本車両製造株式会社東京支店、昭和6年9月と明記されている。この5両は日車東京支店製として間違いはないのだが、上記の如き事情が介在した。それも5両の内3両を本店が、2両を支店が作ったのならまだ話は分かるが、付加価値額からは2/3本店で製造した半製品を、支店で仕上げたという、極めて珍しい事例と判断できる。


モハ3223←サハ25←運輸通信省キハニ5←飯山鉄道キハニ5
サハ22←ハフ103←運輸通信省キハニ4←飯山鉄道キハニ4

話が100%脱線した。この5両―飯山鉄道キハニ1~5は、設計認可1931年7月17日、機関ウォーケシャ6SRL、チェーン2軸連動。買収でも省形式はずキハニ1~5のまま。1944年(キハニ2、3)と1948年6月22日(1、4、5)が廃車になり、全部1949、50年に上田丸子電鉄に払い下げられ、1~5の番号順ならサハ23、ハフ102→サハ21、サハ24、ハフ103→サハ22、サハ25に。

サハ23←運輸通信省キハニ1←飯山鉄道キハニ1 この位置の踏み板が原型である

さらにサハ25は台車を電車用に履き替え、モハ3223に改造。但し一旦廃車されていたと聞くから、廃車復活ではなく、単にボディを再用したのであろう。連結しているモハ3224も同系列車には違いないが、飯山ではなく秋田鉄道ジハ6買収車で、鉄道省キハ36470→キハ40300→東武鉄道キハ21→上田丸子電鉄サハ26→モハ3222→モハ3224という経歴になる。

なお飯山の5両は、客扉幅が750mm、手荷物扉幅960mmだったが、小生が見た時点ではすべて手荷物室側の客扉を埋めていたが、面影は十分残している。サハ22、23共、その扉跡が分かるだろう。また連結器は簡易連結器だったが、全車通常の自連に換装しており、モハ3223、サハ22は妻下部に鋼板を重ね張り足している。


【10457】秋の中国一人旅2010年 Part7 瀋陽地下鉄

Part6の投稿を終えてから、10月18日瀋陽鉄道博物館入場の雰囲気が何か違っているとの印象を感じたと掲載しましたが、インターネットでいろいろ調べていましたら、まだ招待客及び部内関係者のみの入館受付で一般客の受付はなく、あっても許可された団体予約に限られているとの事でした。何も知らず飛び込みで行って入場できたのは、現場の好意だったのが分りました。ご配慮をいただきましてありがとうございます。

第7日目 10月27日 その2
① ホテル9:00(Taxi)→9:38瀋陽鉄道博物館 25.4キロ
② 瀋陽鉄道博物館10:47(Taxi)→11:35ホテル 全部で153元(約1,900円)
③ ホテル13:05(Taxi)→13:10沈阳地铁青年大街站 10元(約125円)
④ 青年大街站14:03(沈阳地铁)→14:13沈阳站
⑤ 沈阳站前15:00(バス)→16:50調兵山バスターミナル 25元(約310円)
⑥ 調兵山バスターミナル16:55(相乗りTaxi)→17:15ホテル 5元(約60円)

瀋陽鉄道博物館の視察を終えて、ホテルの部屋に戻ってみると、「ゼネラルマネージャーからお会いしたい。帰られたらご連絡下さい。」と英語メーセージが封筒に入れてドア下に入っていました。
チェックアウトの支度を終えてフロントに行きますと、日本語の出来るホテルマンも待機していて、GMに連絡しました。GMからお詫びを申し上げたいので少し待ってもらえないかと言われました。丁度、昨夜インターネット予約した日本の代理店からも電話が入っていて、直接話せました。向こうにも間違った所在地地図を送った責任もあります。この件は日本に帰ってからにして、ホテル側の信用・安全についてホテル側の評価はどのように考えているかを聞きました結果、次回の宿泊は無料でスイートを提供しますのでご納得お願いしますとの返答です。ホテルの「面子」としてはこの程度のようです。冷蔵庫の飲料は勿論無料でした。ミスは誰にでもありますが、昨夜のフロント女性からは最後まで謝罪の言葉はありませんでした。典型的な中国人だから仕方ないかと思い、9月27日開業したという沈阳地铁試乗のため、ホテルマンの見送りを受けてTaxiに乗車しました。

向かった先は1番近い駅「青年大街」です。2号線が開業すれば、乗換駅になります。今日は朝飯抜きで、お腹が空いていました。繁華街ですのでB級食堂はたくさんあるだろう、探そうと思いましたが、荷物が厄介です。目の前に熊本から進出し今や中国全土に出店をして、中国人にも美味しいとの評判が知れ渡る「味千ラーメン」があります。たまには中国に来て日本のラーメンも良いかと食しました。

【瀋陽地下鉄】

地上の出入り口は、独特のデザインですが中は他と同じです。一応バリアフリーにはなっています。

食後、近くのエレベータでB1コンコースに下りましたが、最近あちこちで開通した他都市の地铁と変わりありません。コンコースの設計は、ほぼ同じです。車両まで同じ規格で製造しているようです。


瀋陽地下鉄 計画路線網


① 2010年10月8日、全国で第7番目に開業した東北初の地下鉄です。(9月27日~10月7日は招待客のみ乗車の試運転期間)
② 開業路線は1号線のみで、路線全長は27.8キロ、22駅が設置されていました。
③ 車両は6両編成、最高速度80km/h、站ホームはホームドア設置。
④ 2020年までに開業予定は、9路線総延長210キロです。
⑤ 現在2号線22キロを突貫工事中で、来年2011年開業予定?(多分もっと遅くなる)
⑥ 運賃は、8駅以内2元(約25元)、9~12駅3元(約38円)、13駅以上は4元(約50円

沈阳地铁は、かつて満州時代(当時は奉天)大阪市交通局協力のもとに6路線もの地下鉄網が具体的に計画された事があります。実現に向かう直前に太平洋戦争勃発により地下鉄どころではなくなりましたが、もし実現していたら大陸初の地下鉄になっていました。今回開業した1号線は、戦前に計画されたほぼ同じ経路となっています。他都市の地下鉄乗車とは違った想いを持って乗車してみました。

瀋陽の市内中心部は、満州時代の建物・道路を残していますので、今のモータリーゼーションには道路の対応ができていません。市内には名所旧跡が多くありますので、通勤通学の他に観光にも移動はかなり便利になると思われます。
ただ開業したばかりなので、沈阳站の最終が19:40と早いので気を付けないと乗車できません。やはり23:00ぐらいまで運行して欲しいと望むところです。

沈阳站 始発は朝の早い通勤にあわせてあるが、夜は早すぎます。

【調兵山へ】
なんやかやで沈阳站前の調兵山行きバス乗車は、15:00発となりました。調兵山バスターミナルには日没の16:50着。ここから相乗りタクシーで調兵山鉄路站前には17:15到着しました。今夜のホテルの予約はできていません。いつも宿泊手配を頼む旅行社は既に閉店していましたので直接ホテルへ行き、いつもの宿泊料金1泊158元で交渉成立です。

荷物を部屋に置いて、早速調兵山站に行ってみました。この時刻は、18:20大明、18:32王千、18:43大青と連続発車しますので、SL運用列車を見ますと、大明行きのみがSY1770機の牽引でした。
一応1両は運用についている事が分りましたので一安心です。明日の運用は、明日朝に旅行社で聞くことにして、近くの食堂で夕食としました。  Part8へ続く


【10416】ポール時代最末期の能勢電

10月15日付の【9939】「ちょっと気になっていた電車」で準特急様が能勢電を話題にされておられたが、ポール時代の写真は非常に懐かしく思った。
能勢電のポール時代は、諸先輩方が多数記録に残されておられて、私などの出る幕ではないが、少しばかりの写真があるので当時を偲んでいただければと思う。
能勢電鉄がポールからZパンタ、パンタに切り替わったのはDRFC入会以前の昭和41年1月17日である。私が撮影したのは前年の10月から12月にかけて京阪沿線の高等学校に通学していた頃で、滑り込みセーフであった。当時の在籍車両は31形2両(31・32)、50形3両(50~52)、60形2両(60・61)、10形8両(10~15・28・29)、20形6両(20~25)、電動貨車1両(106)の22両であった。
以下、形式毎に画像を並べてみた。

31形(31・32)
大正15年日車製で当初31~36の6両作られた。昭和30年10月に32が鼓滝踏切で大型トラックに衝突して大破し、復旧時に瑞穂工業により半鋼製改造時に31も追加された。(32は31年7月、31は同年9月竣工)残った33~36は鋼体化されることなく、昭和36年に廃車となった。35の部品を流用して電動貨車106が瑞穂工業の出張工事で作られたが、書類上は新造扱いである。
昭和41年、320形導入時にZパンタ化されることなく廃車となった。

 
多田駅を発車する川西能勢口行(昭和40年11月1日)

 
絹延橋車庫(昭和40年12月22日)

50形(50~52)
元阪急37形(37~39)(大正10年梅鉢鐵工場製)の70形(71~73)を昭和28年(71・73→50・51)と30年(72→52)に鋼体化改造したもので、50・51はナニワ工機、52は帝国車両で竣工した。昭和41年1月集電装置変更時にZパンタに取り替えられた。50と52は同年12月に廃車となり、残った51は61と共に川西能勢口~川西国鉄前間で使用、昭和56年12月20日同区間廃止により休車、翌年6月に廃車となった。

 
川西能勢口駅(昭和40年12月22日)

 
鼓滝駅を発車した妙見口行(昭和40年12月22日)

 
多田駅に到着した川西能勢口駅(昭和40年11月1日)

 
建設中の平野車庫の横(昭和40年12月22日)

60形(60・61)
借入中の阪急40形(大正12年藤永田造船所製)の40・41を昭和29年9月に譲り受けてナニワ工機で鋼体化改造して30年1月に竣工した。昭和41年1月集電装置変更時にZパンタに取り替えられた。60は同年12月に廃車となり、残った61は川西能勢口~川西国鉄前間で使用、昭和56年12月20日同区間廃止により休車、翌年6月に廃車となった。

 
絹延橋車庫(昭和40年12月22日)

 
鼓滝~鶯ノ森間の猪名川鉄橋を渡る妙見口行(昭和40年12月22日)

 
鼓滝駅を発車して妙見口に向かう(昭和40年12月22日)

 
平野~多田間を走行する川西能勢口行(昭和40年11月1日)

 
川西能勢口駅(昭和40年11月15日)

10形(10~15・28・29)
元阪急(←新京阪)のP-4、P-5形を昭和32年10月に1500Ⅴ→600Ⅴに降圧、パンタグラフをトロリーポールに取替等の改造を正雀工場で実施の上譲り受けた。翌年3月から下記の編成で常時2連で使用されることになった。( )は阪急時代の車番。
←妙見口
10(11)+11(21)・12(27)+13(22)
14(14)+15(23)・28(28)+29(54)
10~15は2個モーター、28は4個モーター、29はTcである。 
昭和41年1月集電装置変更時にパンタに取り替えられた。320形と置換えで14+156は41年12月に、それ以外の車両は42年10月に廃車となった。

 
急カーブで川西能勢口駅に到着(昭和40年11月15日)

 
鼓滝駅に停車中の川西能勢口行(昭和40年11月15日)

 
鼓滝駅に停車中の川西能勢口行(昭和40年12月22日)

 
猪名川鉄橋を渡る川西能勢口行(昭和40年12月22日)

 
多田駅での交換(昭和40年11月15日)

 
川西能勢口駅停車中(昭和40年11月15日)

 
鼓ケ滝駅に停車中の妙見口行(昭和40年11月15日)

 
多田駅を発車する川西能勢口行(昭和40年11月15日)

20形(20~25)
元阪急(←新京阪)のP-5形を昭和36年5月に借入れた。昭和41年1月集電装置変更時にパンタに取り替えられたが、同年9月に返却され、阪急では直ちに廃車手続きがされて平野車庫で解体された。編成は下記の通りである。( )は阪急時代の車番。
←妙見口
21(51)+20(24)・22(18)+23(52)
24(19)+25(53)
偶数車がMc、奇数車がTc
10形、20形は1両毎に細部が異なり興味が尽きない。

 
絹延橋~川西能勢口間を走行する川西能勢口行(昭和40年12月22日)

 
絹延橋車庫に入庫(昭和40年12月22日)

 
続行車ありの標識を表示して鼓ケ滝駅を通過(昭和40年12月22日)

電動貨車106
31形のところで触れたが、昭和36年8月に35を瑞穂工業で改造した。昭和41年1月集電装置変更時にZパンタに取り替えられたが、保線作業車が導入された結果、仕事がなくなり平成3年3月に廃車となった。
ポール時代の写真が見当たらないため、Zパンタに換装後を貼り付けた。

 
昭和41年11月25日 平野車庫

【番外①】建設中の平野車庫
昭和40年8月21日から手狭になった絹延橋車庫に代わり、平野車庫が建設され、翌年1月25日に完成した。

 
建設中の平野車庫

【番外②】320形
昭和40年5月から8月にかけて阪急320形(320~331)が全車両入線したが、受入体制が出来ていないため、川西能勢口、絹延橋車庫、多田、妙見口に分散留置され、最終的に建設中の平野車庫に集結した。翌年5月から使用が開始され主力として活躍したが、1500形との置換えにより昭和58年から廃車が始まり、61年12月20日付で全車廃車となった。

 


多田駅留置線(上/昭和40年11月1日・下/11月15日)

【番外③】40形
阪急40形は40~45(44欠)の5両作られたが、42は阪神急行時代に昭和6年箕面線で消防車と衝突したため廃車となり、昭和7年2月に41、43、45の3両を借り入れた。昭和23年6月に43が衝突事故で大破したため40を借入れた。43は書類上は休車となっていたが、60形に改造されて不要になった41の旧車体と休車中の電動貨車206の足回りを利用して復活して引続き使用されていた。昭和37年12月43、45共に返却され、43は池田車庫に、45は西宮車庫に留置された後解体された。

 
西宮車庫(昭和39年12月25日)

【番外④】阪急宝塚線

 
川西能勢口駅を通過する回送電車(昭和40年12月22日)

 
石橋駅を発車した宝塚行急行(昭和40年12月22日)


【10410】取り急ぎクハ1711、1712

湯口先輩より【10193】「北陸鉄道その6」能登鉄道のホハ、北陸鉄道統合後石川総線でのサハ611の超貴重な画像の公開があり、更に今回その続編とも言える内容の披瀝があり、唯感激するばかりである。いずれの画像も本邦初公開ではないかと思われる。
「北陸鉄道 昭和40年代シリーズ」は、写真と資料を見比べつつ仕事の合間にぼちぼち進めており、現在石川総線を進めているところであるが、不明な点も多々あり悪戦苦闘している。以降加南線、金沢市内線、能登線と進めて行きたいと思っているが、何とか全部終わらせたいと思っている。
表題のクハ1711と1712は現在進行中の「石川総線」の中で登場するが、取り急ぎ画像のみ貼りつけた。クハ1711は46年3月20日野町で、クハ1712は45年10月11日鶴来での撮影である。

 


【10405】北陸鉄道サハ611、612

11月2日(10174)/11月8日(10193)の「元祖青信号」に、1925年製北陸鉄道サハ611が、国鉄形式ホ12000の、すこぶる古い―1911年か12年製のものと振り替わっていたことを記した。小生も編集の末席を汚している「鉄道史料」なる、マイナーも極まった季刊誌があり、その112号(Autumn2005)に、「私鉄のボギー客車落穂拾い―国鉄型」なる駄文を弄している。その中で能登鉄道ホハ1、2→北陸鉄道能登線ホハ1201、1202→石川線サハ611、612を簡単に記している。

それから5年経過した今年11月17日―つい先日、地元ご在住(であろう)の山本宏之氏という方から、鉄道史資料保存会にメールが寄せられた。北陸鉄道サハ651、652とサハ611、612に関してで、要約すると以下の通りで、文意を損なったとすれば要約者の責である。

「この車は1949年にホハ3001として能登線に入線し、1952年に石川総線へ移った際にサハ651となっていたが、許認可文書には一度も登場しておらず、無籍車と思われる」
「買い出し客などで能登線の輸送需要が増加し、燃料統制で使用が制限さられていたガソリンカーの代役として、運輸省から1023号蒸機の払い下げを受けていた中で、鉄道統制会の許可を得ずに大型客車を増備したのではないか」
「能登線がディーゼル化され、それが牽引するには荷が重い大型客車は電化路線に転用され、最終的に石川総線にサハ611、612、651の3両が揃った」
「1955年サハ611(湯口注能登鉄道からのオリジナル客車)の台車と台枠を流用してサハ2001を新製する際、車籍を継承せず、サハ611の廃車届もなく、サハ651(湯口注国鉄から購入した無籍車)の車体標記をサハ611に書き換えた」
「翌年にはサハ612も同様サハ2002に流用したが、この時はサハ612の廃車届が出され、二代目サハ611になった元サハ651も1965年廃車になった」

山本氏は恐らくこの掲示板はご覧になっていないだろうが、偶然とはいえ、実にいいタイミングで、これでほぼ実態が判明した。ただ「鉄道統制会」とは、戦時中私鉄の許認可事務の委託を受けて代行していた「鉄道軌道統制会」であろうが、これは敗戦後1945年12月26日解散しており、北陸が古いホハ12000を取得し、無認可で就役させたのはその後と思われる。ホハ12000には当然戦災廃車もあるが、老朽廃車は1948年以降で、翌年からはオハ60系新製のため、台枠の切継ぎ転用も゙始まる。1950年以降は職用車(配給車、救援車等)への改造もなされた。

金鉄管内での形式ホハ12000廃車は1951年度ホハ12047、48、56、12181、1952年度12049~51、53など。今となっては調べようもないが、恐らくはこのうちの1両が、サハ651→二代目サハ611になったのではなかろうか。なお山本氏は「大型客車」を、地方鉄道としては大きな客車ほどの意味でお使いと思われ、国鉄での「大型車」(形式が2万代=長軸・将来標準軌間化できる設計)、「中型車」(1万代)という分類ではあるまい。

また能登線3001とは、芸備鉄道キハ1→鉄道省キハ40308→石川鉄道ハフ20→北陸鉄道石川線サハ801→能登線コハフ3001で、1968年まで在籍、と承知していたのだが。能登線初代3001は無認可での国鉄形式ホハ12000で、石川線サハ801との交換で、番号も引き継いだのだろうか。

で、最後に諸兄にお願いが。まっとうなサハ611、612のUF12類似台枠と、TR10あるいは短軸化TR11台車を流用した北陸サハ2001(自社製)、2002(東洋工機)→クハ1711、1712をお撮りの方は、是非ご提供お願いしたい。