薩摩を旅して(前編)

NHKの「西郷どん」とは関係なく、薩摩半島の旅を楽しんできました。錦江湾に面した指宿など半島東側は以前訪ねたことがあったのですが、鹿児島交通(南薩鉄道)が走っていた半島西側に行く機会がありませんでした。鹿児島交通南薩線(伊集院・枕崎間)49.6Kmは昭和59年(1984年)3月に廃止されています。南薩線以外に知覧線、万世線もありましたので、今回はできるだけ多くの遺構を訪ねることにしました。鹿児島でレンタカーを借りて、まず知覧に向かいました。知覧は薩摩藩の城下町であるとともに、終戦直前に各地から集められた多くの学徒・少年飛行兵が数ヶ月という短期間に続々と特攻機で飛び立った地として有名で 見どころの多い町です。まず知覧駅跡を訪ねました。知覧線は昭和40年7月の水害で不通となり、同年11月に廃止され、廃止後52年を経過しています。駅跡は鹿児島交通のバス車庫やドラッグストアとなっていて、広い構内だったことがわかりました。

平成30年5月9日 知覧駅跡

ところどころに古い枕木や、鹿児島交通と彫られた境界標が残っていました。知覧の町に入る手前の麓川には石積みの橋台が草木に覆われて現存していました。

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 東海道線開業時の面影を巡る 桂川~西大路~京都 ②

明治5年の東海道線の開業に際しては、煉瓦造りの構造物が多く設けられます。そのうちのいくつかが、煉瓦を斜めにねじった「ねじりまんぽ」でした。以前、乙訓老人からも、この区間に煉瓦の構造物が残っていると聞いており、その存在は把握していましたが、いろいろと調べて見ると、外から中は見えず、うっかりすると見落としそうな、小さな水路に架かるアーチのようで、桂川橋梁方面に進むうち、見落としのないよう、気を付けながらの歩き出しました。その物件へは、意味ありげな小さな祠が目印。東海道線の北側の道を歩いていると、たしかに、それはあった。横には、コンクリート製の小さな暗渠が見えて、背をかがめて、その中に潜ってみると・・・。

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京都市電600型

関三平先生の「昭和の電車」で、やっと京都市電の600型が取り上げられました。600型は当時としては最先端の“流線型”市電として、その後の市電デザインを先導したと言える傑作市電です。

ちょっとウンチクを少々。
600型は95両作られましたが、85両が戦前に、10両が戦時設計で作られたため窓の数などが違います。そのほか物資不足からデザイン上の装飾も違い、優雅な戦前型と貧相な戦後型(就役が戦後)は見れば分かります。因みにベージュとグリーンのツートンカラーになったのは600型からです。
この記事にあった「爆走」は、烏丸線でも見られました。今出川から丸太町までの御所の西側を下るときに、車体を“ガンガン”いわせて暴走したのを覚えています。

 東海道線開業時の面影を巡る 桂川~西大路~京都 ①

連休期間中、近くの東海道線 桂川~西大路~京都の鉄道遺跡を見て回りました。日本の鉄道は、明治5年の新橋~横浜の開業が始まりですが、トンネル・橋梁などの鉄道技術の源流となったのは、その次に開業した京阪神の鉄道でした。東京では、開業時の遺跡が残っていないのに比べて、京阪神では、140年を経ても現役で使われている構造物もあって、今なお都市間輸送を支えています。今回紹介する区間にも、その面影を伝える構造物が残っています。
ずっと以前に、乙訓の老人から「桂川の西に開業時の煉瓦積みが残っとるでぇ」と聞いていたことが、ずっと気になっていたことと、最近、本欄で井原さんが茨木市の鉄道道標を公開されたことも刺激になり、連休の一日、駅開業10周年を迎え、乗降客で賑わいを見せる桂川駅に降り立ちました。
表面は補強されているが、上り線には、開業時の煉瓦積みの橋台が残っていた。どこでも見られる架道橋だが、さらに近寄って銘板を見てみると・・・。

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暖かい内地への旅 Part13 観光列車「いさぶろう・しんぺい」に乗って大畑を越える、熊本へ 

第8日目 3月2日 その1

今日は51年ぶりに肥薩線に乗って大畑に向かいます。前回は、まだ大学に入って1回生の夏のDRFCの狂化合宿でした。合宿は2カ所が設定されていて最初は宮原線麻生釣で無人駅そばでテントを張りました。次が大畑でここも駅近くでテントを張ったと思いますが、当時はカメラを持っていなく乗り鉄旅だったので記憶はあるが記録はありません。

7:24 今朝も朝食はチェックアウト後に外で済ませました。列車の時間までは結構ありますので天文館通電停付近で未撮影の車両は来ないかと、待っての市電の撮影です。
▲ 直ぐに来たのは未撮影の600形603です。これは幸先が良いと喜びましたが、この後は撮影済み市電ばかりでした。
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広島から小ネタ3題

ここのところ宇品の話が尽きないデジ青ですが、久しぶりに広島から新聞ネタのご紹介です。三江線が廃止されて1ケ月余りが過ぎたところで、代替バスの利用状況の紹介記事です。

平成30年5月8日 中国新聞朝刊

1便当たりではなく1日当たり20人というような利用者数ですから、当然ながら三江線と同程度であれば「まずまず」なのでしょう。

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宇品、広島追加補充

総本家青信号特派員さんの大好評駅撮り広島編に追加したものです。他人のふんどしで相撲をとっているようで申し訳ない。

 

1966年11月28日 広発宇品行き927列車がバック運転のD51518[広島]牽引で終着宇品に到着するところ。▼

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 駅撮り一時間 -記録が記憶になる- 〈5〉

昭和42年4月3日 佐世保

少し前に九州を回ってきました。JR九州の車両はすっかり様変わりしてしまい、興味が湧きません。もっぱら、かつての撮影地を再訪問することにしました。何ヵ所か訪れましたが、今回、採り上げた佐世保は、ちょうど50年ぶりの訪問となりました。

50年前の佐世保で興味深かったのは、特急・急行列車の運転でした。手前の早岐で進行が逆になるため牽引機の機回しとなるところですが、早岐~佐世保間はわずか8.9キロ、また佐世保駅は狭くて機回しの余裕もないため、早岐に着いた列車の後部に別の機関車を付け、プッシュプルで佐世保へ向かいました。佐世保発はこの逆の編成となりました。特急・急行でも蒸機が先頭に立ったり、車両基地が早岐にあるため各種の回送列車が設定されたと興味深い駅でした。
蒸機が先頭となる特急・急行の代表は、何と言っても「さくら」だろう。本来はDD51が先頭だが、早岐~佐世保ではC11が先頭に立った。

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暖かい内地への旅 Part12 鹿児島市電を撮る⑤ 郡元~谷山、西鹿児島駅前

第7日目 3月1日 その3

郡元からは谷山行きに乗って南鹿児島駅前を目指しました。JRとの乗換駅でもありますので乗降客が多いだろうと思ったからです。

11:47 JRとの乗換駅の南鹿児島駅前に到着です。向かい側のホームは20人近くの乗客がお待ちでした。路面電車のお客としては多い方です。1日平均乗降者数はJR2,575人、市電は1,326人です。

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乙訓の老人 鉄道つれづれ草《続・続・続 富山地方鉄道のこと》

老人は、三八豪雪後の5月に勤務先が工場火災に遭い、それまでに撮りためていた富山時代の写真は、ネガを含めて全て失ってしまった。そんなことで高岡地区には精通している。このシリーズは、残っていた写真と、それ以降に訪問して新たに撮った写真で構成してみた。
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暖かい内地への旅 Part11 鹿児島市電を撮る④ 鹿児島中央駅~郡元

第7日目 3月1日 その2

朝の鹿児島駅前電停は唯一桜島とのコラボが撮れる場所ですが、この朝はあいにくと昨日からの雨雲が引かず、ハッキリとした姿を見せてくれませんでした。
▲ 8:45 ガランとした電停に9500形95052140形2141が滑り込んできていつもの賑わいを取り戻しました。

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 駅撮り一時間 -記録が記憶になる- 〈4〉

昭和41年8月21日 広島駅

広島駅で下りブルトレが次々発着していた1番ホームの東端に行くと、切欠きホームとなった短い0番ホームがあり、そこで発車を待っていたのが、機械式のDC、キハ04でした。このホームは、広島の市街地を東縁に沿って宇品まで向かう宇品線の専用ホームで、ラッシュ時以外はキハ04が単行で運転されていました。しかし超赤字路線で、訪問した昭和41年の末には旅客営業を止めており、その直前の情景でした。
広島駅0番ホームで発車を待つ、宇品線531Dのキハ04 104〔中ヒロ〕、現在、この場所は埋められて、JRの駐車場になっている。

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暖かい内地への旅 Part10 鹿児島市電を撮る③

第7日目 3月1日 その1

昨日は全線を乗り、雨の降っていない間は歩きましたので沿線の大体の様子は分りました。今日はまだ撮れていない車両の撮影と気になった撮影地のもう一度の本チャンの撮り直しです。

移動に利用するのは今日も1日乗車券(600円)です。

▲ 7:09 ホテルに近い「天文館前」からの撮影開始です。幸先よく初めて見る600形614がやって来ました。
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