客車廃車体訪問記 内地編60 群馬県-4

【高崎  重量品運搬等の会社】 36.358128, 138.978751 2019年12月14日撮影
オハ12 196
オハ12 333
高崎駅北東約5㎞の会社敷地にある。事務所に挨拶に行くと、日本語が非常に達者な外人がいて、責任者(社長)が午後2時頃まで外出中で、責任者でないと敷地内で撮影する許可は出せないといわれた。他にも行く予定があり、とても待てないので、公道からの撮影しかできなかった。現車調査もできなかった。
◆オハ12 196(1970年新製 日車)→1997年廃車
◆オハ12 333(1977年新製 富士)→1997年廃車
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 北のC62 全記録 〈18〉

昭和46年3月20日 一人で再び目名へ

前掲の上目名での撮影を終えて、馴染みの倶知安ユースに泊まり、翌日、今度は目名へ向かいました。ずっと同行していたT君は、どうしも室蘭本線礼文でD52を撮りたいと一時的に離れて、本日は久しぶりの一人での目名行きとなりました。前回の目名下車は、蘭越寄りに歩きましたが、今回は上目名寄りに歩きます。上目名に向かっては、連続20‰勾配が続いています。
目名から上目名寄りに1キロほど歩いたところ、撮影地として特に知られていないところで、周囲には誰もいない。右手はなだらかな斜面で、目名の集落が眼下に広がっている。いつもどおり10分前ぐらいから、例のドラフト音が風に乗って聞こえてくる。カーブの向こうから、爆煙を吐いた巨体が見えた。フィルムを巻き上げ続けて、連続シャッターを切る。“つぎが本番!”と思った瞬間‥‥。

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昭和の電車 改訂版(45)ー阪急751号ー

やっぱり阪神は京都から遠かった?阪神の件は津村さんに任せることにします。

そしたらまたまた阪急電車。
マルーンさんへ質問です。
700型(750型)は5両だけでしたか?

 北のC62 全記録 〈17〉

昭和46年3月19日 一年半ぶりに上目名へ

しばらく投稿が空きましたが、北のC62、続けます。渡道第一日目に、目名、長万部でC62重連を撮影したあとは、道北・道東を一週間掛けて転戦しました。稚内から「利尻」に乗って札幌に着いたのは、その8日後でした。この間、北海道を回っていたDRFCメンバーは、一緒に行った四人組だけかと思っていたのですが、逗子のTさんも北海道を回られて、C62も撮影されていたことを、先日、直接お目に掛かった際に聞きました。同行のT君とともに、まずは小樽築港機関区を表敬訪問、糸崎区から転属したC6216と、呉線で会って以来の再会を果たしました。小樽の街は、道路も地肌が見えている状態、線路端の雪は灰色で、もうすっかり春が到来した印象でした。

下り「ニセコ1号」は一年半ぶりの上目名151キロポストへ。今日もツバメの2号機が先頭だった。

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遠江に消えた鉄路・・・いま、それは  光明電鉄の巻

 ホームとトンネル跡だけで話は簡単に済むと思っていたのだが・・・昨年の10月31日から始めたのであるがなかなか奥が深くて長くかかってしまった。

 昨年の東西会員交流旅行は天浜線、かつての国鉄二俣線である。なかなか行くことができなかった路線である。東海道本線との接続がとにかく悪いのである。これは今でも同じで東京へ行くときに乗ろうとして考えてみたがうまくいかない。今回も早く出発して新所原から集合場所の西鹿島に行こうとした。残念!接続が悪くてダメ!結局のところ、浜松から遠鉄でということになった。

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昭和の電車 改訂版(44)ー阪神電鉄1130号ー

この電車は模型に最適です。
単行で走らせるのは格好のサイズではありませんか!

※掲載を忘れていました。ゴメンナサイ!

客車廃車体訪問記 内地編59 石川県-4

【甲駅】 37.207344, 137.024687 1987年4月12日撮影
国鉄能登線甲駅構内である。能登半島のこんな辺鄙な所に、廃車になって半年も経たない郵便車がこっそり置かれているなどまだほとんど知られていない頃であった。当日、ホームの桜が満開の能登鹿島駅で撮影した後、甲駅に着いて事務室で許可をもらい撮影を始めたら突然吹雪いて急に寒くなったので、待合室でストーブにあたって暫く待っていたら今度は快晴になり、さっきの猛吹雪がうそのような無茶苦茶な天気であった。
郵便車の廃車体は珍しい。このオユ10 2565はその後、2004年11月16日に能登中島駅に引っ越した由。
◆オユ10 2045(1969年新製 新潟)→(1976年改造 大宮工)オユ10 2565→1986年廃車
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 北のC62 全記録 〈16〉

昭和46年3月11日 初めて目名で下車 雪のC62を撮る

では、昭和46年3月訪問の撮影記、第一日目から始めます。前記のように、四人で、当時はまだあった胆振線に乗り、北湯沢駅すぐ近くのユースホステルに泊まり、朝、マイナス15度のなか、胆振線のDC列車に乗車。倶知安へ出て、10時16分発の524Dで、目名へ行きました。今まで上目名は、よく下車したものの、その手前にある目名の下車は初めてで、駅前には集落もあって、人間の生活感が感じられます。すぐ近くに、国道5号が走っていて、完全に除雪された道を、蘭越寄りに2キロほど歩いた函館本線をオーバークロスする地点へ向かいました。いまグーグル地図で見ると「逆川跨線橋」と書かれていましたが、ここは、あの廣田尚敬さんお気に入りの場所で、陸橋から、超望遠でとらえた、重連を圧縮した写真をよく見ました。待つこと、約1時間、背後に連なる後志の山々の麓から、あの懐かしい爆音がかすかに入ってきました。
カーブの向こうから現れた「ニセコ1号」、第一日目からして、前補機がC622とは幸先が良い。空も青空が広がってきた。さすがに、今までと違って、煙の具合は寒い時期ならでは。驀進、爆音はさすがC62!

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尼崎港線の関連グッズ

連続投稿申し訳ありません。

総本家青信号特派員先輩の「廃駅をめぐる【3】」のコメントで書かせていただいたDD13 256の車番とサボです。

DD13 256は、1966.3.7 汽車会社で製造され、姫路第一機関区に配置、その後1968.10.3に吹田第一機関区に転属、1984.2.4再び姫路第一機関区に戻り、1986.10.27廃車となっています。

続いて、サボです。

一番上は、川西池田行×大阪行のサボです。所属は大宮です。

川西池田~尼崎港で走っていたころの、宮原客車区から送り込むためのサボでしょうか?送り込みの列車番号などわかりません。ご存じの方、教えてください。

二番目は、川西池田⇔尼崎港×尼崎港⇔川西池田のサボです。所属は、大池です。

三番目は、塚口⇔尼崎港×大阪行のサボです。所属は、大塚です。尼崎港線で活躍したのち宮原客車区に帰るためのサボでしょうか?塚口でどのような入換が行われ、宮原には、どの列車に併結され帰っていったのか?興味津々です。こちらもご存じの方、教えてください。

 

尼崎港線 最後の日々

総本家青信号特派員先輩の尼崎港線の記事に触発され、尼崎港線の最後の頃の写真を投稿します。

私が訪れたのは、1981(昭和56)年3月24日と27日、31日です。

24日の朝の821/822列車はDD13 101 大吹一 の牽引でした。

まだ、あまり人はいませんでした。

客車はスハフ42 2162 大ミハで、木製の板で作られたサボでした。

3月27日は、尼崎港から塚口のきっぷを買うために出かけました。準常備式の普通乗車券を手作業で発行するため時間がかかります。ろくな写真を撮影できませんでした。821/822列車の牽引機は、DD13 376 大吹一でした。

最終日の3月31日、塚口から尼崎港に向かう最終の下り823列車です。

客車は2両に増結されDD13 256 大吹一 には、保安要員がたくさん乗っています。金楽寺~尼崎港間です。

急いで尼崎港に行き、本当の最終列車 上り824列車に乗ります。

遠くから撮影していなかったことが悔やまれます。

塚口到着後、木製のサボは、「好きな人もっていっていいよ!」と言ってサボの近くに陣取っていた人が持って帰られました。

うらやましかったです。

 北のC62 全記録 〈15〉

年が明けても、いっこうに雪が降りませんね。今冬は雪を一度も見ることなく終わりそうです。せめて“デジ青”誌上で雪を楽しみたいと、「北のC62」を再開します。

いままで、2回訪れた北海道で、C62重連の列車を撮った記録を載せました。

〈1〉~〈8〉  昭和43年8・9月 C62「ていね」時代

〈9〉~〈14〉昭和44年8・9月 C62「ニセコ」時代

今回は、昭和46年3月、この年の10月改正で予定されているDL化を前にした、最後の雪の中の記録です。

“雪を咬んでる~”と四人で喝采した、初めての雪中撮影 蘭越~目名 上り「ニセコ1号」

つぎの改正で“消える消える”と噂されながら、何とか持ちこたえてきたC62重連も、いよいよ昭和46年10月改正でDD51に置き換えられることが決定的になり、昭和46年3月、三たびの渡道となりました。今までの夏ではなく、C62を雪中で撮る最初で最後のチャンス、雪煙に包まれて驀進するC62を想像するだけで胸の高まりを感じます。前2回は、適宜DRFCの仲間と途中で合流するスタイルでしたが、今回は、最初からT君との二人旅で、北海道に入ってからは、西村さんとMさんも加わった4人旅となりました。

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客車廃車体訪問記 内地編58 群馬県-4

【高崎駅前(西口)】 36.321752, 139.012000 1999年9月23日撮影
オハフ61 2542
高崎駅西口にあった、ジパング倶楽部の営業所である。その前は「ボワチュール」という店名の喫茶店として営業していた。現在この場所は居酒屋と高崎駅西交番になっている。
この日は、西村さんとM助さんのご案内でわたらせ渓谷鐵道で元京王のトロッコ列車に乗って楽しく1日を過ごした。
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 廃駅をめぐる  【3】

阪神高速尼崎料金所の真下にあった尼崎港駅、そのルーツは、馬車鉄道に行き着くという古い歴史を持っていたが、昭和56年4月に旅客営業を廃止し、路線も昭和59年2月限りで廃止となった(以下、昭和56年3月22日撮影)。

続いて同じ兵庫県下の廃駅、尼崎港駅です。福知山線の支線となる、通称「尼崎港線」塚口~尼崎港の終点にありました。尼崎港線は、一日2往復、朝夕のみ旅客運転の線として有名でした。旅客営業は昭和56年4月に終えて、その後も手小荷物・貨物の営業を続けていましたが、昭和59年2月に廃止となり、尼崎港線の歴史を閉じました。

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 廃駅をめぐる  【2】

先の高砂線と同じ日に、三木線も訪れていましたので、続いて載せることにします。三木線も、同じ播州鉄道による開業で、大正5年に厄神~別所が開業、翌年には三木まで伸びて、厄神~三木6.8キロが全通しました。大正12年には播丹鉄道となり、昭和18年には、国鉄に買収されるという、高砂線と同じ出自をたどりました。当初は美嚢川の船運に代わる貨物輸送が目的と言われ、神戸へ向かう人の流れとは逆の方向のため、終始、乗降は望めなかったようです。その後、三木線は第一次特定地方交通線に指定され、昭和60年4月に、国鉄としては廃止となり、同日から第三セクターの三木鉄道に転換しました。地交線の転換の三セクのなかでは、最小の営業キロを、最初は2両のDCで回していましたが、その三木鉄道も平成20年4月に廃止されました。三木線の終点、三木駅の全景、側線はあったものの、草に埋もれていた。左手の貨物ホームも線路は撤去されて、トラツクが出入りしていた。

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 廃駅をめぐる  【1】

高齢者が何を血迷ったかJR線乗りつぶしを目指すようになりましたが、外出する気力もめっきり減退し、生存中の達成もおぼつかなくなりました。今ごろになって、この思いに至ったのは、廃止された線区に乗らずじまいに終わったことが心の底に残っているからです。昭和の時代、国鉄の「いい旅チャレンジ20000キロ」のキャンペーンにも乗らず、また昭和58年から始まった特定地方交通線の廃止時は、仕事も家庭も忙しい時期で行けるような環境ではなく、廃線ブームに乗じることもできませんでした。ただ、それでも長い趣味活動の間には、特段、乗車目的で訪問したわけでもなく、結果的に廃止されてしまった“廃線”“廃駅”をいくつか記録しました。廃止駅となると、線区そのものが廃止のケースと、線路改良や乗降数減少などの理由で駅のみが廃止のケースがありますが、今シリーズは、その両方を、“廃駅”として見ていきます。

高砂駅の全景、大正3年に播州鉄道の駅として開業した。ホーム一面の駅で、数本の側線があった(以下、すべて昭和59年10月27日撮影)

高砂線は、第一次地方交通線に指定され、昭和59年12月に、加古川~高砂6.5キロが廃止になり、神姫バスに転換している。その歴史を探ると、播州鉄道が大正2年に高砂線の前身となる加古川~高砂口(のちの尾上)を開業、のちに延長された。播州鉄道は、播丹鉄道に譲渡され、昭和18年に国鉄に買収されて、高砂線となっている。
国鉄高砂工場が高砂の手前にあって、出入場には高砂線が使われていたので、高砂線は安泰かと思われていたが、工場そのものが廃止になり、高砂線もあっさり廃止になった。地元の高砂市でも、第三セクターとしての存続を模索するが、加古川市が難色を示し、結局、鉄道としての存続は叶わなかったとされる。

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昭和の電車 改訂版(43)ー南海ズームカー22001型ー

この電車の現役当時の写真はなくても和歌山電鐵「タマちゃん」や南海「天空」なら写真は出てくるはずです。

客車廃車体訪問記 内地編57 新潟県-1

【湯沢中里スノーリゾート】 36.910900, 138.849201 2020年1月3日撮影
スハ43系17両
国境の長いトンネルを抜けて越後湯沢で降りると、雪が積もっていた。在来線で2駅東京寄りの越後中里駅裏がすぐスキー場で、その食堂・休憩所・子どものスキー教室等としてスハ43系ばかり当初18両、その後1両減って17両が、広大な駐車場とゲレンデの間に南北に連なっていた。17両もの客車が並んでいるのは壮観である。南から1~6号車、8~12号車、13~18号車と、3グループになっていて、番号は次のとおりである。
①スハフ42 2067+②スハ43 2166+③オハ47 2232+④オハ47 2327+⑤スハ43 2326+⑥スハ43 2345
⑦オハ47 2058 … 撤去解体
⑧オハ47 2025+⑨オハ47 2071+⑩オハ47 2300+⑪スハ43 2481+⑫スハフ42 2069
⑬スハフ42 2143+⑭オハ47 2029+⑮オハ47 2027+⑯オハ47 2258+⑰スハ43 2479+⑱スハフ42 2032
車内は、座席間にテーブルを入れたり、座席を撤去してお座敷に変えたり様々で、トイレは水洗式に改造している。
このへんにノツボ(野壺)があったら、I波さんのようにたいへんなことになるが、スキー場なのでその心配はいらない。
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昭和の電車 改訂版(42)ー阪急2100系ー

前回の「京阪2000系」への反応がイマイチだったので、今回も心配しながら投稿します。2300系は河原町延長時に、近代的な「烏丸」「河原町」駅にマッチした衝撃的な電車として印象に残っています。

客車廃車体訪問記 内地編56 群馬県-3

【リサイクルショップてんぐ】 36.673372, 138.984910 2020年1月3日撮影
オロ12 853(わたらせ渓谷鐵道わ01-855)
みなかみ町のリサイクルショップに倉庫のように置いてある。強いて最寄り駅をあげれば上毛高原と後閑である。
現車は元「やすらぎ」の1両で、わたらせ渓谷鐵道「サロン・ド・わたらせ」の中間車わ01-855であった。「サロン・ド・わたらせ」として整備する際、1位の業務用扉を埋めた。後述の西村さんの画像のとおり、ユニットクーラーは全てAU13Aのようである。わたらせ渓谷鐵道にストックがあったのだろうか。
「855」とあるので、オロ12 855かと思ってしまうがそれは55回のスーパーカーミュージアムにいて、これはオロ12 853(2号車「荒川」)らしい。正月休みで門が閉まっていたので、公道から1-3位側を撮影し、2-4位側は撮影しなかった。
西村さんの「北関東に『やすらぎ』を求めて」の最後に、「サロン・ド・わたらせ」時代の1-3位側画像が紹介されている。
◆オハ12 319(1977年新製 新潟)→(1986年改造 大宮工)オロ12 853→2001年廃車
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昭和の電車 改訂版(41)ー京阪スーパーカー2000系ー

髙加速・髙減速が主題のこのシリーズは中学生時代の思い出と重なります。もともと電車の知識がないのに新しい電車が出来たというと乗ってみたくなるのが悪いくせ。私の基準は阪神のジェットカーなのでこれと比べたら加速・減速が物足りなかった。もっとも曲線のせいなのか阪神と比べたら京阪は最高速に到達するまでに減速していたように思います。ただエコノミカル台車(誰が言ったか犬の骨)は乗り心地が悪かったのも記憶に残っています。

余談ながら、2000系を丁寧に撮っておけば今年の年賀状に使えたのに、とくやしんでいます。