尾鉄のお宝発見

「尾鉄」と書くと「尾小屋鉄道」と「尾道鉄道」の2つがありますが尾道鉄道の方です。尾鉄は1964年(昭和39年)8月1日に尾道ー石畦(いしぐろ)間が廃止され、バス会社に転身しています。現在の中国バスにあたります。石畦から先の御調(みつぎ)町市まではそれ以前の1957年(昭和32年)2月1日に廃止されています。先に廃止されたこの区間には最急勾配40‰の長い峠越えがあり、私鉄では珍しいスイッチバック駅 諸原(もろはら)駅がありました。今に残る尾鉄の遺構としては4号トンネルが有名ですが、それ以外ではかろうじて諸原駅前後の線路跡が道路として残り、スイッチバック駅であったことが現認できます。2014年にどですかでん氏と現地を訪れたときのスナップです。

2014-10-27 諸原駅跡

2014-10-27 諸原駅跡

左手にまっすぐ伸びる舗装道路が市から諸原駅に入ってくる線路跡です。右手に斜めに登って行き、両側に桜並木があるのが、尾道方面への線路跡です。

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関西駆け足撮影旅行

8月10日(水)

駆け足とは車利用と早朝からの行動の結果である。8月10日は5時起きでクモハ73106東ウラさんの車に総勢5名が乗り込み新東名経由で最初の目的地JR関西線の永和~弥富間に向かった。皆さんDD51の貨物が目的で既に同業者もチラホラ見られた。私自身は架線の下を走るディーゼル機や快速「みえ」、特急「南紀」にはあまり興味がなく一応シャッターを切るのみでむしろ頻繁に来る313系電車を何とかうまくものにしたいと考えていた。

単線で角度によっては名古屋近郊の関西線らしからぬ風景が得られるこの区間。1964年3月にはC57、D50、D51を撮ったことがあるがもう少し永和よりであった。列車はクモハ313-1314先頭の317G四日市行き。▼s-16.8.10永和-弥富317Gクモハ313-1314

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三江線2題

相も変わらずローカルネタです。全線廃止の正式表明まで10日ほどとなりましたが、今朝の中国新聞から2つに記事をご紹介します。

平成28年8月20日 中国新聞朝刊

平成28年8月20日 中国新聞朝刊

遠路三江線に早稲田の学生さんを招いて津軽三味線を聞くという、津軽鉄道で開催されてもおかしくないようなイベントが三江線で行われたようです。連日の猛暑のため三江線でも8月に入ってもうすでに何度かレールの温度上昇で運転見合わせが報じられています。安全第一が大原則であることには異存ないのですが、雨が降れば・・・、雪が積もれば・・・、温度が上昇すれば・・・とリスク回避の度が過ぎていないかと思ってしまいます。せっかくの貸切列車が途中で代行バスにとってかわるようでは 主催者もガッカリされたことでしょう。

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もう一本あった行方不明のネガフィルム

 行方不明になっていた近鉄内部線の6コマ分1本のネガフィルムが見つかったと投稿しましたが、もう一本あったことに気が付いていませんでした。下津井電鉄の写真で6コマ分1本です。その写真はというと

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京津線80型

こと京阪電鉄京津線とあらば、この老人も黙ってはおられない。老人は1970年12月尼崎に引っ越すまで山科に住まいを致し、中学校、高校、予備校(というより映画館と木製客車のいるところ)、ドーヤンに通ったのである。しかしこの80型は卒業後の1971年8月、四ノ宮で見たのが最初。すなわちサラリーマン3か月の初年兵時代である。従って老人がこの電車に毎日のように乗ったわけではない。

関センセのたまうように、確かに京津線には「びわこ」3輌以外、パッとした車輌には乏しかった。55型の回生制動とても、こんな短線区用としても恐らくは歴史にも残るべき代物だったはずだが、お説の通り、車体はお世辞にもスマートとは申しかねた。その後の高床車とて、台車や電気部品はお古ばかりである。

で、突如1971年に、30型以来の新製車としてお目見えした80型だが、これまた確かに釣掛け車には違いないが、勾配をものともしない快速ぶりと、回生制動、裾を丸めたデザイン等々、恐らくは路面電車デザインとしても関西のみならず、日本的にも優れ、ベストテン入りは確実―かどうかはどれだけの人が知っているか、で決まるだろうが―入って然るべき車輌である。
京津81四宮1971.8.13S
京津81四宮S
京阪電鉄京津線81 四ノ宮1971年8月13日 本線並の日鋼式密着自連だが、この時点まだ20型等との連結に備え、ドロ-バーとも繋げるようになっており、まだ単行運転である 後2連貫通式に改造され、クーラーも付いた。そういえば、レトリバーなる代物も今では見ることがあるまい。
こんなに素晴らしい電車で、さして古くもないのに、どうして引き取り手がなかったのか。ひとえに回生制動に恐れをなしたとしか考えられない。

なお四宮車庫は長らく引込線が本線(東海道線)と直角だったが、この時点では並行に敷き直されている。

 

京阪電鉄京津線80型

先回の京福電鉄叡山線デオ300とともに驚いた電車がこれ。
静かさと加速減速のスムーズさは、どちらも場違いな、早く言えば“もったいない”電車でした。あまり乗る機会が無いまま廃車されましたが、ポールの時代からあったのですね。なぜ他の地方鉄道に行かなかったのか不思議に思いました。
京阪電鉄京津線80型_NEW

広島県立歴博の鉄道展

7月21日の73781で福山にある博物館で鉄道展が開かれるとの小ネタを提供致しました。この鉄道展を取り纏められた山本主任学芸員が中国新聞にこの展覧会の目玉を紹介されていますので その記事を引用致します。

平成28年8月16日 中国新聞朝刊

平成28年8月16日 中国新聞朝刊

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鳥羽快速・運転最終日

湯口先輩の『鳥羽快速と参宮線(上・下)』を懐かしく拝読しまして、加太で迎えた鳥羽快速運転最終日の模様を伝えます。時は1965(昭和40)年2月28日(日曜日)でした。

▼曇り空のこの日、柘植を10:18出発の2442レ、C57148【亀】に曳かれ、大築堤を下ってきました。青帯車1両を交え5両編成です。客車最後尾の窓からファンが身を乗り出しています。
C1006 続きを読む

行方不明のネガフィルムが見つかった。そしてフィルム保管に困ったのだ・・・

 行方不明のネガフィルムが一本あって、しかし一本と言っても6コマの一本でネガフィルムです。そのフィルムには近鉄内部線の内部で撮った写真で、その中でも気にいっているものが含まれていました。探すとべた焼きをしたものがあったので、それをスキャンして修正して画像として残すことにしていました。今回、発見出来て良かったと思っています。ただし、どのようないきさつで行方不明になったかわかりません。それはそれとして、この6コマ一本以外は例の酢酸臭がして隔離しています。使用不可になるような深刻な状態ではありませんが、ひどくならないように紙製フィルムホルダーにいれて保管しています。というのは樹脂シートでつくられたフィルムホルダーで保管していた時にフィルムが液状のようなものでべったりと樹脂製ホルダーに付着していたので取りだして以前に使用していた紙製フィルムホルダーに入れ換えました。酢酸臭がしますがそれほど悪くなっていません。今回、見つかった行方不明だったフィルムは紙製ホルダーに入っていて、酢酸臭がほとんどなく正常な状態です。そのフィルムの一コマの写真はというと

MN内部線001-N

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鳥羽快速と参宮線(下)

1964年12月30日、姫路発鳥羽行快速2442レは無事12時11分鳥羽に定時到着。ここで不思議なのは、鳥羽駅構内だけでなく、三重電気鉄道志摩線の写真も一切ないことである。51年前とあって記憶が全くないのだが、すぐ鳥羽から鳥羽港の入江、鞍部状峠を越えて浜辺浦をバックに、参宮線列車を撮ったとしか考えられない。なお近畿日本鉄道が宇治山田から五十鈴川、さらに鳥羽へと延伸するのは、1969年12月15日/1970年3月1日である。
参宮線列車鳥羽1969.12.30S
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三江線のその後

沿線の住民説明会が一巡して終了したとのこと。あとは9月1日のJRによる正式廃止表明を待つだけという ゆっくり真綿で首を絞めるようなことをせず、最初からはっきり廃止しますとしたうえで、その代わりにどうするかという議論にもっと時間を割けばよいのにと思います。その議論はこれからの1年間をかけてと言うのでしょうが、そんな悠長なことをしているから 何事も後手に回ってしまうのにとイライラします。アー シンキクサー!

平成28年8月13日 中国新聞朝刊

平成28年8月13日 中国新聞朝刊

鳥羽快速と参宮線(上)

鳥羽快速440レ1956.1.9山科S
山科大築堤を行く鳥羽快速440レ 本務機C57110 後補機C51101 1956.1.9
右端の古枕木柵は、花山地区住民が京津線御陵駅への日常交通路として、築堤犬走を歩行しているのを遮るためだが、効果は全くなく、すぐ別のバイパス?が作られた。左側直線部には架線支柱が建っている。C57110はC51101共この年10月15日参宮線六軒での大事故で大破するが、C57110はその後復旧した
鳥羽快速440レ山科1956.1.9S
上の440レ後尾から。直前に投身自殺があり、左側複数の人物はその処理班。当時人身事故での列車ダイヤ乱れは極少=ほぼ即時回復した

姫路-鳥羽間の快速列車1往復は、詳しく調べていないが昭和初期に設定され、列車番号は終始440、441。戦時中は恐らく伊勢神宮参拝客輻輳のため2往復に。戦局不利になった1943年12月15日訂補ダイヤでは、京都-鳥羽2往復になり、何故か宇野-鳥羽1往復がある。1952年9月1日訂補ダイヤでは京都-山田、京都-鳥羽各1往復、1953年11月11日改正では3440、3441レとして姫路-鳥羽1往復が復活している。 続きを読む

日帰りで行く 三江線の旅

 倉吉線、木次線、福塩線、三江線と少し前まで賑わったデジ青でしたが、このところご無沙汰です。そうすると西村さんが小ネタで久しぶりに三江線の話題が登場しました。呼び水に誘われるように5月21日(土曜日)に日帰りで行った三江線全線乗車記を・・・

 というような書き出しで7月14日から投稿作成を開始したのですが、8月2日に西村さんが投稿された「早ければ2018年春にも」の内容に想定はしていたもののもう少し何とかならないかと思ってしまいます。それは列車本数が少ないから、乗車人数が少ないからということで廃止というのは利益を考えるならばそうなるのは当然と思いますが・・・とにかく、日帰り全線乗車記を

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いつのまにか「江の川鉄道」に

全線廃止表明で揺れる三江線ですが、8月28日にはこんなツアーもあります。phototrain6sこのツアーはバス会社 備北交通が実施する日帰りツアーで、このたびの全線廃止表明とは関係なく、今までにも季節ごとに実施されてきたツアーです。8月8日(月)から申込受付開始だそうです。三次駅前に7:45とか広島駅新幹線口に8:00集合となると、遠来の方は前泊が必要でしょうから あくまで広島県民向けの企画でしょう。廃止が現実のものになれば この種のお名残りツアーが増えるかもしれません。

 

 

倉吉線鉄道記念館リニューアル

先日、会員各位に呼び掛けておりました倉吉線鉄道記念館の展示写真につきまして下記のとおり展示が出来ましたとの案内が倉吉線鉄道記念館より参りました。
私は現在赤道近くに外遊しておりますので、すぐに参れませんが近くに行かれる方がおられましたらご訪問レポートをお願いします。

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この度は画像提供に関しまして大変お世話になり誠に有難うございます。
連絡が遅くなり申し訳ございません。現在、倉吉線鉄道記念館のリニューアル
作業を実施中で、先日、御寄贈頂きました画像の展示が無事に完了致しました。
お陰様で展示内容の層も厚くなり、市の担当者も大変喜んでおります。
9月には倉吉市の市報でも紹介される予定です。
今後も少しずつ手を加えながらリニューアルを実施していく予定(予算があまり
ないので大掛かりなリニューアルは出来ませんが…)で、一人でも多くの方に
ご来館頂ける事を期待しております。
また機会が御座いましたら、是非とも鉄道記念館にお立ち寄りください。
事前に連絡を頂きましたら倉吉線の廃線跡の案内もさせて頂きたいと考えております。
皆様のお越しをお待ちしております!
IMG_6246
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叡山電鉄デオ300型

タイトルの、叡山電鉄デオ300型より私には「京福電鉄叡山線デオ300型」のほうがしっくりきます。と言うのは、高校時代はこれで通っていたからです。音が静かで乗り心地がよく、加速性のもいいので「もったいないなぁ」と思いつつ、この電車がくるのを楽しみに待っていました。
当時の京福には知り合いの社員さんがいて、床下機器の配置が悪く、(どちらかに:忘れました)傾いていると教えてもらったことがありましたが、本当だったのかは分かりません。

関先生にしては、ちょっと架線の交差が曖昧ですね!
京福電鉄デオ300型_NEW

鹿渡館が廃業?!

今朝1900生先輩よりメールをいただきました。
一昨年11月に準特急先輩の投稿をきっかけに1967年から72年にかけて行われた越後鹿渡の合宿の話が盛り上がり、これをきっかけに昨年豪雪の中、40数年ぶりの狂化合宿が催行されましたが、その鹿渡館がどうも廃業されたそうだとのことでした。
「むらたや」「円観」が無くなり、ついにDRFC指定旅館の看板を高々と上げた鹿渡館まで無くなりました。
60年、70年台の方々にはいろいろな思い出多いところではなかったかと思います。
頂いたメールと共に昨年の狂化合宿の写真を再掲させていただきます。
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1900生です。
先週末、小生の弟が飯山線越後鹿渡を訪れた際、
駅前の同好会指定!旅館であった「鹿渡館」が5月いっぱいで廃業したとの情報を得てきましたので、皆様にお知らせ致します。
弟は同館に宿泊するつもりで予約しようとしましたが、同館と連絡がとれず、仕方なく近所に投宿したところ、前述の廃業を知ったものです。
帰路に現地に立ち寄ったところ、建物・看板などは以前のままだったそうですが、やはり営業はしていない様子で、どうやら廃業の話は本当のようだと申しております。
一部会員のみだったかもしれませんが、同好会の歴史とも深く関わりがあり、会員何世代にも愛されてきた同館が無くなるのは実に寂しい限りです。
ご奇特な方は一度訪ねてみられてはいかがでしょうか。

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