久々の登場です。前回が7月31日でしたので約2ヶ月半振りです。
今回は鳥の名前です。まだまだ探し切れていない種類があるかと思いますので、よろしければご教示ください。
「鳥」自体は以前に調べていますので、こちらをご覧ください。駅名喫茶店(第10回:干支の動物(の漢字)を含む駅名)
久々の登場です。前回が7月31日でしたので約2ヶ月半振りです。
今回は鳥の名前です。まだまだ探し切れていない種類があるかと思いますので、よろしければご教示ください。
「鳥」自体は以前に調べていますので、こちらをご覧ください。駅名喫茶店(第10回:干支の動物(の漢字)を含む駅名)
6:20 起床朝一番は温泉浴です。今朝は昨日の夕刻と違って男女浴室が代わっています。露天風呂では先客のおじさんもコンデジを持ち込んで撮影に励んでおられましたので私は内風呂を撮りました。
朝食前の小一時間をゆったりと入湯タイムです。堪能しました。
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ホームにて② 朝夕のラッシュ時
前回は、ホームに入線する列車と乗客の組み合わせを見ていただきました。今回は、地方の駅でも見られた、朝夕のラッシュ時の様子です。今でも、地方へ行っても、線区によっては、ラッシュ時は一定の利用があるようですが、昭和の時代のラッシュ時は、地方でも破格の賑わいがありました。今と較べると、そのあと、地方の過疎化、少子化、あるいはクルマ化が進んだことを、如実に語っている光景に思えます。▲ 18:45の西鹿児島駅、時刻からして、ちょうど仕事終わりの乗客が待つ4番ホームに、鹿児島発川内行き226レが、C61 33[鹿]が客車7両を牽いて入線する。蒸機の牽く客車編成、ホームで待つ多くの乗客、まさに昭和の時代、本線級の中核駅ならではの光景だ。いま駅は、鹿児島中央と名を改めて、川内まではJRとして残った鹿児島本線だが、いまはどの程度の輸送量なのだろうか(昭和45年)。
長堀橋のビル2階で会期最終日に行ったある写真展に、古い駅の写真が作品として出ており、興味を持ちました。
上田三郎さんという浪華写真倶楽部に属していたアマチュアながら戦前から戦後に活躍された写真家の作品です。
年代は書いていませんが、「駅」(琵琶湖)とタイトルにあり、湖岸や太湖汽船の姿も写っており、非電化の駅に思えるので、「これは戦前の江若鉄道の駅では?」とギャラリーにおられた関係者に感想を伝えました。
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『 まさに絶景!』 日本で最初に見ることができる十勝岳温泉凌雲閣の露天風呂からの紅葉の絶景に大感激です。
天候に恵まれない今回の旅でしたが最後の最後で雲一つない快晴の中、紅葉の絶景を見せてくれました。 続きを読む
第4日目 9月29日
今日で3日間ご一緒した準特急先輩、車を運転して各撮影地へと案内していただいたクモハ73106東ウラさん、NETさんとのツアーは完了です。クモハ73106さんとNETさんは夕刻のJAL便で東京に戻られますが、準特急さんは席が取れなかったそうで帯広泊まりで明日の飛行機で戻られます。一方の私は一昨年12月に宿泊予約しておりました上富良野の十勝岳温泉凌雲閣行きが東鹿越行きの代行バスの運休、切り替えて函館本線旭川経由で行こうとしたところこのルートは、豊沼駅構内で除雪車と特急電車との衝突事故があって函館本線が運休となり行けなくなりました。一度は日本で最初に紅葉が見える十勝岳温泉には行ってみたいと今回は前回のリベンジを兼ねて今宵は準特急さんと同じく帯広泊まり、明日向かうことにしました。
2日間は天候に恵まれずでしたが最終日は朝から快晴です。町内にある「留辺蘂町仲よし公園」に保存展示してあるD51311号機を視察に向かいました。
① 北見ビアゾンホテル 6:00(約4㌔)⇒6:14 留辺蘂町仲よし公園
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ご無沙汰いたしております。現役生代表です。
来月2日 (土)と3日 (日)に京田辺校地にて、クローバー祭が開催され、当会も出店いたします。教室は知真館1号館の121教室 (TC1-121)です。2日が12:30~17:30、3日が9:00~15:30です。
今年は、昨年も展示した京田辺レイアウトに加え、写真展示も行います。また、体験運転や塗り絵、クイズ、そして『青信号』78号 (下に表紙写真を載せております)の販売もする予定です。ぜひお越しください。
9月18日 西高屋、向洋と途中下車しながら広島に到着です。この日の目的は広電の新線工事の様子や1900型の活躍を確かめることでした。実は、残念なことに広電の広島新駅ビルへの乗り入れは当初予定より遅れることが発表されました。
第3日目 9月28日 後編
厚岸駅で昼食の名物駅弁「かきめし弁当」を受け取り次の撮影地、別寒辺牛湿原を見渡せる高台を目指しました。
⑤ 厚岸駅 13:00(約 7㌔)⇒13:23 別寒辺牛湿原▲ 14:08 長い間開発の手が入らなかったため日本で有数の自然が残されたラムサール条約の登録湿地「別寒辺牛湿原」の中を横切るように走ってきます「ひとめぐり号」です。根室で折り返してきました。あいにくと天候が優れず小雨が降ってくる中でしたが隊長さんの案内で高台への山道を上りました。
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ホームにて① 入線列車を撮る
改札口を入ってホームで列車を待つ。やがて乗車する列車が向こうから姿を現わす。ホーム入線の瞬間を、乗客の好奇の眼も気にせず撮る。鉄道ファンと言う人種の生まれながらの習性でしょうか。65年前に初めて撮った鉄道写真も、ホームに入線する列車でした。今でも機会があると撮ります。ただホームですから、列車だけ撮ることができず、乗客にジャマされます。なら、ジャマする人間も一緒に入れて撮ってしまえが、私の撮影スタイルでした。その方が、人の服装などで、時代だけでなく、地域性、季節感を表現できるのではないかと思っています。近頃は、肖像権とやらで、なかなか大手を振って撮影ができないだけに、大らかな昭和の時代がなおさら懐かしくなります。▲「水のきれいな日本海へ」に誘われて、夏休みともなれば、綾部駅ホームは大賑わい。京都方面から乗って来た子供たちは、D51の牽く西舞鶴行きに乗り換える。これからの水遊びを楽しみに嬉々として列車に乗り込んだ。遠い日の夏休みの思い出だ(綾部、昭和45年)。
(その1)(その2)を投稿してから2週間が経ってしまいましたが、以下の取材日も同じ9月18日です。西高屋駅でレンガ積みホームを確認後、向洋(むかいなだ)へ移動しました。向洋駅をはさんで海田市・天神川間は大規模な高架工事中で、特に向洋駅はすでに上り線側は仮線路と仮駅ホームが完成していて稼働しています。これから下り線側の移設工事が始まるのですが、広島貨物ターミナル駅につながる上下貨物線もあり、大工事です。そんな中、向洋駅で長く使われてきた跨線橋が解体中です。今回はこの跨線橋の構造部材となっている古レールを観察するのが目的で途中下車しました。まずは平成24年10月8日 まだEF67が活躍していた時の跨線橋です。
今年の京都の夏は今迄でも最も暑い毎日が続きました。76歳を迎える高齢者にとっては日増しにこたえてきますのでクーラーの効いた自宅から出るのはスーパーへのビール買い出し程度で珍しく青春18きっぷも購入せずで終わりました。
秋になれば旅に出たいと思っていましたらいつも台湾へご一緒させていただくクモハ73106東ウラさんが先輩の準特急さんを同行されて北海道に行くとの情報が入りましたので是非に同行させていただきたいとお願いしました。同伴者はもう一人、昨年に準会員になられたNETさんを含めての4人での同行旅です。NETさんとは2017年夏のサハリン訪問以来の旅になります。
第1日目 9月26日
① 長岡天神 8:24⇒8:56 十三 9:01⇒9:19 蛍池 9:26⇒9:29 大阪空港
② 伊丹空港 11:35(JAL2005)⇒13:30 新千歳空港
③ 新千歳空港14:30(とかちミルキーライナー)⇒17:10 帯広駅前
【 北海道へは無料のJALマイレージポイント利用 】
東京からお越しの3人方とは帯広での合流です。伊丹から直接に参りたいのですが直行便はありません。羽田で乗換もありますが当日は早朝便で皆さんは来られますのでこれもなく、乗って行きたい鉄道で行くなら約13時間余りの所要時間が必要です。時間は暇ですので問題ありませんが、運賃は 41,570円と飛行機の正規運賃よりは安いものの格安航空券と比較しますと高いものになってしまいます。
貯めていましたJALマイレージポイントがありますので伊丹⇒新千歳までの必要マイルを検索しますと、セールス中で普段はエコノミークラスよりも高いJクラスで9,500ポイントの空席が見つかりました。空港使用税は710円のみで、ほぼ無料で利用できます。即決で決めました。 続きを読む
駅名標② 終着駅
駅名標の写真を投稿したのが、一日余り前のこと、この間に、速攻の紫の1863さんはじめ、多くの方から、駅名標にまつわる思い出の写真を寄せていただき、改めて、駅名標への関心の高さを思いました。なかでも、西村さん、奈良の駅研さんから、終着駅の駅名標を載せていただきました。今回紹介しようとするのも、「終着駅」てす。当時の駅名標の場合、下部には、両端の駅名が書かれていますが、終着駅の場合は、どちらか一方が白地のままで、“これ以上は行けない!”感を無言で表現しています。ここが白いだけで、なんとも感慨深さを覚えたのではないでしょうか。さらに終着駅は、その後の変転があります。延長されて、もう一方に駅名が記入されることもあるでしょうが、大部分は、廃止の運命をたどり、終着駅としての歴史を閉じたものです。
駅名標 ①
駅の施設・表示類のなかで、必須アイテムは、やはり駅名標だと思います。考えたら、駅名標は、鉄道が創業した時から、乗客に駅名を伝える、重要な役目を負って来ました。家であれば、表札のようなもので、旅先の駅で、駅名標を見て、感慨深い思いを持って、下車したものです。いまは、JR各社、私鉄各社がさまざまなデザインで独自の駅名標を開発していますが、われわれの時代は、ホームにある駅名標は、鳥居型と呼ばれる駅名標一本でした。この鳥居型は、屋根の無い、ホーム端に置かれることが多く、つまり、列車編成の端部にも当たり、駅名標と蒸機が一体になった光景をよく見かけたものです。▲加太越えの補機の仕業を終えたD51が、ゆっくり側線に入って来た。機関士は決められた点検を終えると、手すりをつかまって下りて来た。次の戻りの補機運用まで、蒸機、機関士とも、しばしの休みに入る(昭和47年4月)。
<富山ライトレール2 2006.9.9(前回の日付表記が間違っていました)>
富山ライトレール(現:富山地方鉄道富山ライトレール線)は、大部分が富山港線の線路を使っていますが、将来富山地方鉄道市内線に乗り入れる計画で(2020年3月接続)、富山駅周辺では路面に線路を新設し、富山駅前の歩道の延長線上に乗場がありました。当時の私のブログでも「ホームと床の段差は限りなく0に近い。普通の人から見ると僅かの段差でも高齢者や障がい者には結構厳しいものだが、こういう設計から『真剣にバリアフリーを考えたユニバーサルデザイン』の意図が伝わってくる」と記しています。
都電「新宿駅前」 今昔
つぎは「新宿駅前」へ、とは言うものの、新宿駅前に都電の姿はなく、少し歩いた靖国通り、歌舞伎町の歓迎アーチの真ん前に電停がありました。ここは2面3線の終端式で、広い道路の中央にゆったりとあり、前記の通過式の渋谷駅前とは対照的でした。ここには12系統(新宿駅前~両国駅前)、13系統(新宿駅前~水天宮前)が発着して前年までは11系統(新宿駅前~月島)も発着、さらに、西側の国鉄ガードをくぐると、青梅街道の「新宿駅前」から14系統の荻窪駅前行きも発着していて、新宿には、11、12、13、14と並びの系統番号が揃っていましたが、撮影時点で残っていた12・13系統は昭和45年3月に廃止されます。▲世界の歓楽街「歌舞伎町」の真ん前に位置した都電「新宿駅前」、国鉄新宿駅からは少し歩くが、昭和27年に開業した西武鉄道新宿駅は真ん前となった。開業当時は、新宿駅に隣接した新宿通りにあり、昭和24年の靖国通りの拡幅に合わせて、新ルートに変更された。昭和28年には角筈で発着していた路線改良中の13系統も、新宿駅前に移転し、11、12、13の3系統が発着する「新宿駅前」が完成した(以下、昭和44年9月)。▲▲「歌舞伎町」の交通標識が見える、都電「新宿駅前」の現在。
想い出の阪急京都線・・・①より続く
⑩ エレガントな高性能車(1300・1350形)
1957(昭和32)年に京都線に投入された1300形は、920形に代表される
阪急スタイルを一新し脱阪急とさえ思わせた。
車体が全体的に丸みを帯びたデザインで、屋根の両側に沿って長い通気用のル―バ―が設置されていたのがアクセントとなっていて大変エレガントな印象を与えた。
1956(昭和31)年に高性能車と銘打った1000形が神戸線に現れたが、その姿はそれまでの阪急車とは全く趣を異にした洗練されたスタイルであった。屋根はそれまでの阪急には無かった柔らかさを感じる張り上げ仕様となっていた。更に、この高性能車は性能的にも斬新さがあって、全電動車方式の軽量化車体に加えて台車に取り付けられた小型高速度電動機の効果が期待された。その後1000形は1010形に発展し、その京都線版が1300形であったが、製造総数は16両に止まり量産には至らず、2300シリーズの量産車が次に続く事となった。
写真:1302他 京都行通勤特急(1962.8.15.総持寺)
播磨にご縁ができて、最近は年に数回ほど訪れるようになりました。
これまではついつい通り過ぎがちだったエリアの鉄道を楽しむ機会が増えています。
特に、日常では目にすることがなくなった国鉄型車両を再認識するようになりました。