広島通信(その2)スカイレールその後

スカイレールは令和6年4月末に営業を終了してから4ケ月余りが経過しました。電車で瀬野駅を通過する度に、急勾配を登るレールがまだ撤去されずに残っているのを確認していましたが、今回は瀬野駅に降りて、様子を見てみました。

瀬野駅ホームからスカイレール跡を望む

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広島通信(その1)山陽本線西高屋駅について

異常な暑さが続き 外出を控えていましたが、少し暑さが和らいできたので近場の取材に出かけました。まずは、橋上駅化工事が進む西高屋駅の様子から。この駅は山陽鉄道開通時の明治27(1894)年からあったかというと そうではなく、大正6(1917)年7月13日に当時の鉄道院によって信号場として開設されています。輸送量の増大に伴い、白市・西条間(9Km)のほぼ中間に交換設備として開設されたようです。正式に西高屋駅に昇格し、客貨扱いが始まったのは大正15(1926)年10月1日でした。この駅に以前から注目していたのは、上り下りのプラットホームにレンガ積みの開業時のホームの痕跡がしっかりと残っているからです。スケッチ図は現在の様子を示します。

山陽本線西高屋駅の略図

中央に待避線のある2線2面の配線です。赤線で示した部分にレンガ積みのホーム跡が残っています。

通過してゆく上り貨物列車。プラットホーム最下段はレンガ積み。

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 都電も定点対比してみる 4 ~路面電車あれこれ噺 (25)

「渋谷駅前」の今昔

延々のバスシリーズをいったん離れて、とれたての都電対比としました。毎年、趣味者の会合で渋谷へ行く用事があり、昨日も、会合の前に、56年前の都電時代との対比を試みました。その昔、都電の「渋谷駅前」は、現在のハチ公口にあって、スリバチ地形の底の狭隘な終端式のため、つねに渋滞していたと言います。そこで、昭和32年に渋谷駅東口に新しい都電ターミナルを造ることになりました。渋谷に下りて来る二つの坂、金王坂と宮益坂を活用して、下りと上りに分けた、ループ式の一方運転としました。電車は金王坂を下って「渋谷駅前」に着き、折り返すことなく、スルー運転で宮益坂を上って、青山方面に向かいました。渋谷のスリバチ状の地形をうまく活用したループ線の新設となりました(都電時代はすべて昭和43年8月)。

宮益坂を上がって行く都電、9系統の新佃島行き。9系統は浜町中ノ橋が終点だが、段落ちするため、途中の新佃島行きなどがあった。56年前の宮益坂にはコンクリートがむき出しの無機質なビルが続いていた。▲▲現在の宮益坂、56年前の右手に山手線のウグイス色の101系、「TOKYU」の看板が見える東急百貨店の位置から判断して、宮益坂の中間に今もある、渋谷郵便局前の横断歩道に定点を定めた。いまはケヤキ並木が続いて、旧景より道幅が狭くなった印象がある。

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想い出の阪急京都線・・・①

この記事は河 昭一郎氏が以前に鉄道ピクトリアル誌に掲載されたものをデジタル青信号用に改めてご寄稿下さいました。
米手作市が代理で投稿致します。

阪急京都線が元々は阪急ではなかったのは有名な話で、そのルーツは京阪電気鉄道の子会社であった新京阪鉄道が1925(大正14)年10月15日に天神橋~淡路間を開業したのが始まりである。
後の1928(昭和3)年11月には京都(西院)まで延伸され、大阪(天神橋)~京都(西院)の直通運転が実現した。

その後、北大阪電気鉄道との合併によって十三~千里山間が編入され、その内の淡路~十三間が後の梅田乗り入れの足がかりとなった。
しかし、その後の社会情勢の変化により1930(昭和5)年9月15日には親会社の京阪電気鉄道に合併され同社の新京阪線となった。

この新京阪鉄道は名古屋までの延伸が念頭に有ったため、軌道法を超えた鉄道法に沿って建設されたため、軌道法の阪急とは規格が違いレールは50キロ級、架線方式についても高速対応のコンパウンドカテナリー式(但し、補助吊架線とトロリー線との間隔が広い変形)を採用していた。

写真:爆走する1519他4連の京都行急行・3両目に1550形が混結されている。(1963.7.18.富田)

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探偵団の皆さん!教えて下さい

給水塔の話はおもしろかったですね。
久しぶりに全員参加でワイワイやれて良かったです。

それならばと、大阪通信員さんからご下命がありましたので成り代わりまして探偵さんに調査を依頼致します。

と言いますのは、先日通信員さんのご自宅へ訪問致しましたところ、奥座敷に9㎜ゲージの複線を引いて、DF50の引く旧型客車を走らせておられました。その時「ぶどう色の旧客3等車でアルミサッシというのはあるだろうか?あれば作って走らせたいが、もしなければ偽物(最近の用語ではフェイク)だ!と罵倒されるのは貯金・勉強・親孝行を座右の銘にしてきた老身には堪えられない」と仰ってました。

そこで探偵の皆様にお願いです。
通信員さんの安らかな老後を保障するためにも「アルミサッシを付けたぶどう色の旧客3等車」の写真があるならば見せてあげてください。
私のアルバムには旧2等車はあります。3等車もありますがモノクロのため青か茶色か判然としません。

なお、旧客の青色化は昭和39年から始まっていますので、それ以前に撮影されたなら茶色(ぶどう色)です。

宜しくお願い致します。

 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈14〉

江若交通⑨ ボンネットバスの最終日(2)

昭和57年2月15日、江若交通ボンネットバス最後の一台の最終日てす。もうイヤッと言うほど撮って来ましたが、最後をどうしても見届けたく、平日でしたが、仕事を放り投げて、堅田入りとなりました。しつこく続けて来た本稿の最後として見ていただきます。最終日の若狭街道を行く、最終日のボンネットバス、この日も湖西地方は早朝に雪に見舞われた。雪をかぶった樹林のなか、ヘッドマークを掲げて特別運転中の姿を。

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 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈13〉

江若交通⑧ ボンネットバスの最終日(1)

昭和57年2月16日をもって、江若交通に残っていた最後のボンネットバス「滋2い10-81」が営業を終えました。昭和56年2月に、2台のボンネットバスが廃車のあとは、1台だけとなり、おもに月~金の平日のみ、堅田~細川の一往復を走り続けてきましたが、昭和57年5月の車検切れ前に営業から退くことになりました。江若交通の最後のボンネットバス「滋2い10-81」、昭和42年の製造以来、15年間、ずっと活躍を続けてきたが、昭和57年2月16日、最終日のこの日は、通常の営業の合い間、通学に利用した沿線の葛川小学校の全校児童を乗せた特別運行があり、学校前では、乗務員に感謝の花輪が贈られた。

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 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈12〉

江若交通⑦ 和邇途中線(2)

江若交通のボンネット路線のひとつ、和邇途中線をもう一回、載せます。

県道311号(途中志賀線)を走って来た途中行きのバスは、「出口」付近から旧道に入って、集落のある「下龍華」へ向かう。まさに“ボンネットバスの里”と呼ぶにふさわしい風景が続いていた(昭和55、56年撮影)。

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リハビリを兼ねた 関東からの日帰り旅行 1

<プロローグと富山ライトレール 2006.9.11>

私は東京の会社に勤めていた2004年11月、脳出血を発症し右手右足のマヒと失語症の後遺症が残りました。懸命にリハビリに励み、2005年8月には日常生活が過ごせて、復職できるところまで回復しました。一時は鉄道趣味を諦めかけましたが、左手一本で操作できる小型のデジカメを購入し、練習するうちに小旅行の意欲が湧いてきました。

<初めてのデジカメ撮影はTX守谷駅 2005年8月28日>

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 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈11〉

江若交通⑥ 和邇途中線(1)

「いろいろやります」の最後のステージとして、昨日、江若鉄道写真展トークショーと廃線跡ウォークを和邇コミセンで行いました。いま「デジ青」では江若交通ボンネットバスを掲載して、堅田町内循環線、堅田葛川線を紹介しました。たまたまですが、昨日の開催地、和邇から山間部へ向かう、もう一つのボンネット路線「和邇途中線」を紹介することします。昨日、同行していただいた紫の1863さんのクルマで、その昔、ボンネットバスが走った脇道を懐かしい思いで走ることもできました。和邇途中線は、湖西線和邇駅を起点として、志賀途中線(県道311号)を西進、「途中」まで向かう路線、分岐して「栗原」へ向かう路線、入庫回送を兼ねた客扱いとして本堅田へ向かう路線と、3つの路線がありました(以下、昭和55、56年)。湖西線和邇駅前で発車を待つ江若交通のボンネットバス。和邇~途中は2往復、左の和邇~栗原は3往復、和邇~堅田も2往復(回送含む)あった。 続きを読む

給水塔のある風景

総本家青信号特派員氏の投稿に触発され、そう言えば自分も各地で給水塔やその残骸を写しているような気がしてきました。そこで、探してみると意外と集まりましたので北から順にご紹介したいと思います。

1.尺別鉄道 新尺別駅

昭和44年2月28日 尺別鉄道新尺別駅

ここは1900生氏、KAWANAKA氏と共に訪れた思い出の地です。駅と機関庫がこじんまりと集まった、模型で再現したくなるような風景です。給炭場と給水塔が並んでいます。駅周辺には郵便局などもありましたが、今グーグルのストリートビューで見てみると鉄道施設はおろか民家も何もない原野(牧場?)になっていて、場所も特定できません。この訪問時は、国鉄尺別駅まで戻る手段探しに時間をとられ、肝心の尺別鉄道探訪が疎かになったのが悔やまれます。

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 いろいろやります〈湖西線50年・江若廃止55年〉 (6)

「いろいろやります」も最後となりました。いま写真展を行っている滋賀銀行志賀町支店の西にある、大津市和邇支所の和邇コミュニティセンターでトークショーと廃線跡ウォークを行います。突然ですが、明日8日(日)の開催です。

 「思い出の江若鉄道トークショーと廃線跡ウォーク」

  9月8日(日)13時30分開始  16:00ごろ終了

  大津市和邇文化センター 和邇コミュニティセンター 第2会議室

トークショーは、先般、近江今津での江若鉄道写真展をベースに、写真解説を行います。あと、和邇らしい話題として、かつて江若鉄道が計画していた和邇~途中~大原~京都二条の江若鉄道京都支線についても資料・地図とともに話をさせてもらいます。廃線跡ウォークは、和邇駅跡の現況や踏切跡を、当時の写真とともに対比したり、和邇~真野の喜撰川に残る橋台跡を歩きます。いつもお世話になっている、びわ湖鉄道歴史研究会の主催として開かれます。同会の皆さまのご協力に感謝申し上げます。会場の和邇文化センター、湖西線和邇駅下車、徒歩5分。

江若鉄道時代、踏切付近と現況を対比しました。周囲の街並みは変わりましたが、道路の形状は変わっていません。遺物はほとんど残っていない和邇付近ですが、廃線跡を歩きながら、江若鉄道時代をイメージしていただけるようご案内いたします(江若時代は、大津市歴史博物館提供)。

 

広島から新聞ネタ3題

まずは広電のイベントから。

荒手車庫での撮影会(令和6年9月6日 中国新聞朝刊)

10月14日の鉄道の日にちなんで、13日に宮島線の荒手車庫で撮影会が開催されます。参加費が7000円というのは法外なような気もしますが、参加費を高く設定することで申込者を絞ろうということかもしれません。少し前までは、車庫の事務所にひと声かければ、「入出庫車に充分注意して下さいネ」程度で構内に入れてもらえましたが、今ではそんなわけにはゆかず、このような公開イベントに申し込むか、正式に見学願いを出すなどの手続きでもしないと車庫には入れない時代になりました。今回の荒手車庫は横を走る一般道から、少し構内の車両を撮影できますが、かと言って7000円を払うのはためらわれます。

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 駅のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈7〉

給水塔  

登録有形文化財に指定された名松線伊勢奥津駅の給水塔。名松線松阪~伊勢奥津が開通した昭和10年に設置された。高さ10mで、四本の鉄筋コンクリート柱の上に、汲み上げた水を入れる直径3mの鉄製タンクがあり、蒸機の活躍していた時代、炭水庫に注水していた。近くに給水槽や、雲出川からの取水口も残っているそうだ。

昨日は、非鉄グループで、青春18きっぷを使った乗り鉄、呑み食べ鉄として、“名松線乗車と松阪牛を食す旅”に行きました。ホントささやかですが、この夏初めての遠出でした。名松線は、台風豪雨のため、前日までの数日間、運転抑止、この日から運転再開でしたが、18きっぷシーズンにも関わらず、18族があと2人、一般の乗客はゼロのまま、終点の伊勢奥津に到着しました。名松線は、クローバー会のツアーでも2021年12月に行ったことがありますが、終点の様相には変化もなく、何気に給水塔の近くへ行ってみると、写真のような“ニュース号外”が貼られていました。知らなかったことですが、給水塔が、ことし7月に登録有形文化財に指定された速報でした。鉄製の給水塔としては、若桜鉄道若桜駅に次いで登録有形文化財の二例目だとのこと。

蒸機時代の給水塔の写真も入れられた、名松線を守る会の「ニュース号外」

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 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈10〉

江若交通 ⑤ 堅田葛川線(下)

堅田葛川線の続きです。堅田駅前~途中~細川のうち、「途中」から、花折トンネルを抜け、比良山系の西側に沿って若狭街道(367号)を北上、細川までの区間です(以下、昭和55、56年撮影)。「途中」を出発した細川行き。街道らしい街並みが続く。実際は狭い道にクルマがあふれる渋滞の名所だったが、いまは高架バイパスができて、静かな街並みに戻っている。

花折トンネルに入る江若交通のボンネットバス。標高591mの峠で、かつては若狭街道の難所だったが、昭和50年に花折トンネルが完成し、交通の便は改善された。峠の名は葛川の明王院への参詣者が、この峠で仏に供える樒を折ったことに由来する。

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ただ今整理中 こんなんが出てきました(その2)

引っ越し後の整理が遅々として進まぬ米手です。
先日の暑気払いの会で大阪通信員さんから「音沙汰なしやないか!なにしてんねん!」とやんわり怒られましたので、台風接近の中一丁で一丁で格闘し始めたところ、おもしろいモノが見つかりましたのでご紹介します。

昭和54(1974)年8月1日に発行されたフジイ大丸の広報誌「むくちじょうほう」で、”あれから10ヶ月京都市電のその後物語”と題する特集です。
これがなかなか専門的にも詳しい編集をしていて、百貨店の顧客サービス品とは思えない出来栄えです。もしかしてあの人が一枚噛んでいたのでは・・・?

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 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈9〉

江若交通 ④ 堅田葛川線(上)

江若交通のボンネットバスへのコメントありがとうございます。つぎは、1900生さんやtakaginotamagoさんの思い出深い堅田葛川線へ参ります。堅田駅前~途中~細川を結び、終点まで乗ると片道1時間以上の本格的なボンネットバス路線でした。夏季(3~11月)は3往復、冬季(12~3月)は2往復、うち一往復は、終点の細川での泊まり運用でした。「途中」を越えると、花折トンネルを抜け、比良山系の西側に沿って若狭街道(367号)を北上します。その昔、鯖街道とも呼ばれた、懐かしい風景が続きました。今回は堅田~途中の紹介です。始発の堅田駅前を出て25分、「途中」に着く。ここまで来ると、冬は雪模様だった。京都・大原方面からの道路と合流し、三叉路を形成、街道沿いの面影を残していた。(以下、昭和53年2月4月)。

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 いろいろやります〈湖西線50年・江若廃止55年〉 (5)

まだ「いろいろやります」続きます。湖西線和邇駅前にある銀行で、またまたの江若鉄道写真展を行うこととなりました。

 滋賀銀行志賀町支店写真展「和邇を走った江若鉄道」(+α)

 9月2日(月)~10月31日(木) 9:00~15:00 (湖西線和邇駅下車、西側すぐ)

和邇を発車したキハ5121ほかの下り総括編成、列車は、上り「ひら」の回送列車だったと記憶している。和邇から蓬莱山のカーレーターがはっきり望めた。和邇で印象的だったのは、写真のように構内が真っ白な土砂に覆われていた。永遠の謎だったが、設営を手伝ってもらった、元江若の方に聞くと、山手の方で、手抜きの造成工事が行われ、花崗岩の土砂が駅構内まで流れ出したものだったと言う。

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 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈8〉

江若交通 ③  帰って来たボンネット

江若交通のボンネットバスは、昭和57年に姿を消しますが、それから40年後、同じ本堅田の狭い街路をボンネットバスが走りました。バス一台がやっと通れる本堅田の街に、ボンネットバスが帰って来た(2019年)。 続きを読む

 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈7〉

江若交通②  堅田町内循環線

では、江若交通のボンネットバスの昭和50年代の活躍を、路線別に見て行きます。まずは、堅田町内循環線です。こんな狭い街路をボンネットが走っていた。通行人も屋根の下に避難、車掌は路上駐輪された自転車を排除し、やっと発車して行った。

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