自作の駅名データベースへの所在地・開業日入力を進めています。全駅名の約85%分の打ち込みが終わりましたので、頑張って年内の打ち込み完了を目指したいところです。
そんな所在地シリーズで、前回は「村」にある駅名でしたが、今回は京都市内にある駅名です。【2024/11/23加筆修正]
<東急電鉄世田谷線2 2006.12.2>
東急世田谷線は東京の西部、渋谷から田園都市線で二つ目の三軒茶屋から、京王線の下高井戸までの5キロ余りを結ぶ専用軌道の路面電車である。この日は320円の散策きっぷを片手に、三軒茶屋から乗車し、あちこち途中下車して、駅の周りを見て歩いたりカメラを構えたり、ゆったりのんびりと穏やかな小春日和の土曜日を楽しんだ。
上=三軒茶屋~西太子堂 下=松陰神社前~世田谷
台風21号は予想通り台東付近に上陸後阿里山山脈を越えて嘉義から台湾海峡を通過したようです。幸いにして鉄道への被害は少なかったようで台鉄は朝から全線通常通りの運行です。
隊長さんより南洲近郊で莒光号を撮りましょう。高雄 7:53発の区間快に乗車下さいとの連絡が入りました。
朝食をさっさと済ませて高雄駅へと向かいました。 続きを読む
出国前から分かってはいましたがまさか一直線に台湾へ向かってくるとは思っていなかった台風21号です。11月になって台風が来るとは意外でした。
昨夜から高雄駅近くにあるホテル近辺の食事処も台風対策をやり始めたようで皆で食べる食堂も探しました。見つけた焼き肉屋で食事後は明日は食事処は軒並み閉店だろうとコンビニでインスタント食品を購入して我々も準備体制でした。
5:15 昨夜は早々にベッドに入りましたので早起きです。テレビをつけてみましたら台風情報が放送されていました。
「週三」という中国語は月火水の三番目水曜日、つまり昨日です。
台風予想進路図によれば週四(本日)の11時過ぎに東海岸の台東辺りに上陸予想で高雄には22時頃には通過していくようです。既に東海岸を走る道路では土砂崩れが発生して閉鎖されている区間もあります
鉄道の運行情報はテロップで紹介されましたが予想通り台鉄、阿里山鉄道は全線運休です。高鉄は、通常のダイヤを変更し、全区間を走る各駅停車を毎時2本運行する。風雨の影響を受けない高雄MRTは間引きで20分間隔運行、高鉄同様に地上高架区間は風雨が強まると区間運休するとの発表です。 続きを読む
私は生まれ故郷である奈良県が大好きです。奈良県の鉄道路線は全線完乗を果たし、あとは奈良交通の路線を少しずつ乗り潰そうかと考えています。
バスファンの方には常識ですが、高速道路を使わない路線バスとしては日本一の距離を走るのが奈良交通の八木新宮線です。今夏の乗車を目指しましたが、諸事情で断念。近いうちに再実施する予定です。そこで、ふと思いました。もし五新線が開業していれば、十津川村を鉄道が通っていたのだと。その思いは、村にある駅ってどのくらいの数があるのかという問いに辿り着いた次第です。早速調査してみました。
現役生編集長です。
当会では、11月27日(水)、28日(木)に同志社EVEに出展いたします。
昨年に引き続き、新町レイアウトや鉄道グッズの展示を行うほか、クローバー祭で好評を博した鉄道塗り絵やNゲージの体験運転なども行います。
また、『青信号』78号の販売も行いますので、まだお持ちでない方はこの機会にぜひお求めください。バックナンバーもご用意しております。
展示教室は良心館RY205、時間は27日が10:00~17:30、28日が10:00~17:00となります。
なお、今年は教室出展の団体は二日間のみの出展です。
11月26日(火)には当会の展示はございませんのでご注意ください。
会員一同、皆様のお越しをお待ちしております。ぜひお立ち寄りください。
「投稿画像が一部小さく表示される」という不具合が発生しました。
デジ青のデザインテーマテンプレートの一部(CSSファイル)に不具合が見られたので、一旦テーマファイルを初期化しました。見た目の違和感はその影響です。
現時点でまだ不具合が残っているので、修復作業中です。
掲示板利用者にはご迷惑をおかけしますが元に戻るまで今しばらくお待ちください。
※見た目だけの不具合のため、記事投稿やコメント投稿は通常通り行なっていただいて問題ありません。
第2日目 10月30日
秋の恒例行事ホームカミングデーでキャンパスを訪れ、旧交を温め、鉄分を補給するのが慣例になっています。そして、せっかく京都まで出向くわけですから、その往き帰りにどこかに寄り道するのも楽しみの一つです。今年は、遠回りを避けて山陽本線の閑散区間 相生・岡山間の途中下車を繰り返しながら帰路につきました。相生までは、赤穂線に入る電車もあり本数が多いのですが、相生以西は1時間ヘッドです。まずは相生の手前 網干で途中下車です。
①北沢産業網干専用線のDB2に再会
かつて網干から揖保川河口の浜田まで約6Kmの北沢商店網干専用線という貨物専用鉄道がありました。元をたどれば 昭和19年に開通した東芝車両の専用線です。瀬戸内海沿いの工業地帯化によっていくつかの工場への貨物輸送を行っていましたが、国鉄の小口貨物輸送の縮小に伴い、昭和59年に休止されました。当初は小型蒸気機関車が働いていましたが、昭和31年にDB1が、昭和36年にはDB2が入線し無煙化されました。
ボーッと見ていると、「ぞろ目の車両特集」が始まっていました。
それをまたボーッと見ていると、ウチにもあった様な気がしてきまして探しましたところ、ありました。
でも、投稿しようと準備していたら「三桁のぞろ目など価値はない!」とDRFCのプーチンが言っているとか。子供の頃に神風関にだっこして貰った者としてプーチンごときの圧力に負けるわけは行かぬと敢えて投稿します。
まずはゾロ目から
次は「回文」式車番。上から読んでも山本山、下から読んでも山本山みたいな。
と、こんなとこです。
古すぎてわからん、て?<m(__)m>
以前、近畿の駅百選、中部の駅百選を紹介しました。今回は念願の「関東の駅百選」です。廃駅名もありますが、それも時代の流れ。致し方ありません。
9月下旬、台湾友の会の隊長さんより10月末から訪台するが同行ご希望の方はいらっしゃいませんかとお誘いがラインで来ました。今年は1月と3月に訪台していますが最近、夏場は暑さに弱くなっているので避けてきましたがお誘いをいただいたのならお断りしたくはありません。
加えて5月12日に京都市勧業館 みやこめっせで開催された台湾観光局主催の『TAIWAN PLUS 2024 京都新宝島』のイベントで台湾観光キャンペーンに挑戦しましたら運よく当選して電子マネーNT$ 5,000(約24,925円)相当のカードを頂けました。
使用期限は今年12月末までなので使わない選択はあり得ません。
続々と参加される方のホテル予約完了報告が届き出しましたので私も行程を考えながらホテル予約を始めました。参加者は台湾友の会の隊長クモハ73106さん他、不銹鋼號さん、千住のヤスベイさん、NETさんとDRFC-OB会準会員の皆様方です。
続きを読む
ナンバーの話 ①
続いて“37枚目”の別テーマに飛びます。今までの「駅」では、鉄道車両は脇役でしたが、やはり車両は欠かすことができません。37枚目のあれこれ、車両ナンバーの話です。われわれの習性として、車両で真っ先に見るのは、形式、製造番号のナンバーでしょう。数字の羅列ですが、得られる情報は無限にあり、趣味活動を深化させました。トップナンバーやラストナンバー、また切りのいい数字が写せると、内心ほくそ笑んだものです。同じ数字の並んだ“ゾロ目”のナンバーもありました。京阪や阪急でも“2222”や“3333”があり、割と身近なナンバーですが、これが蒸機となると、制式蒸機では、形式も含めて数字が並ぶのは、1並びと5並びしかあり得ず、実際にはC11 1、C11 11、C11 111、C55 5、C55 55と、5両しかありません。私はうち3両だけは写していました。初期の時代で、キズ付きのひどい写真ですが、見ていただきます。皆さんもゾロ目にこだわらず、ちょっと面白いナンバーが見つかれば、ぜひコメント・写真お願いいたします。
▲米子区のC11 1、入換用として、米子駅で黙々と働いていた。ごく当たり前のC11だが、昭和40年には植樹祭でお召列車を米子~境港で牽いた実績がある。やはり、1並びのナンバーが買われたたのだろうか。昭和46年に廃車になっている(昭和42年8月)。
都電「高田馬場駅前」 今昔
少し間が空きましたが、最近、現況を撮影した都電跡の今昔対比を続けます。前回の新宿からふた駅目、高田馬場駅前です。面影橋方面から路線が延長され、高田馬場駅前まで伸びて来たのが昭和24年のことでした。系統は15系統(高田馬場駅前~茅場町)一本で、電停は一線のみの終端式で、乗降を終えると、もと来た道を戻って行きました。 ▲昭和43(1968)年8月、東北・北海道へ向かう途中、丸一日を都電撮影に当てた。昭和43年度の都電廃止予定の系統を写すため、前々回の渋谷駅前に続いて高田馬場駅前に来て、電停付近の様子を、一枚だけカラーに収めた。いまでも覚えているのは、写していると、掃除をしていた高下駄を履いた寿司屋の主人から“どっちから来たんだい?”と聞かれた。初めて江戸っ子訛りを聞いた気がした。“京都からです”と答えると、ずいぶん驚いていた。都電を写す人間など、ほとんどいなかった。▲高田馬場駅前は、その後、大規模な再開発がされて、ロータリーが広げられて、街並みもすっかり変わってしまった。横断歩道を定点の目安に写してみたが、改めて当時の雑誌を見ると、停留場はもっと山手線、西武線に近く、もう少し手前(左手)かもしれない。
開業直後の新幹線を写す
中学生の頃、鉄道少年の時代の思い出、あと一回載せます。先月になりますが、東海道新幹線が開業して60周年を迎え、JR東海のテレビCFが流れていました。開業は昭和39年10月1日、鉄道少年真っ盛りの時代でした。その翌週には、東京オリンピック開幕と、週替わりで日本が大きく進化を遂げて行くことを中学生も感じていました。
日本の鉄道を塗り替えた新幹線の出現は、各世代それぞれに思い出もあることでしょう。前回の「駅と高校生」ネタも、思わぬ方向に“飛び火”して、コメントで賑わいましたね。皆さんの思い出もお願いいたします。▲最初の日曜日、10月4日、10円で入場券を買い、さっそく新幹線京都駅のホームに立った。いままで試運転で遠目から見たことはあったが、眼の前で新幹線に接すると、さすがにデッカイというのが第一の印象だった。新大阪発東京行き超特急「ひかり8号」 N5編成
ホームにて④ 「ラッシュの主役 高校生」余話(2) 会津坂下
高校生と駅、あと一回だけ載せます。全国各地、高校生が乗り降りする駅はあまたありますが、私にとってのベストワンを選ぶとすれば、只見線会津坂下駅に尽きます。昭和46年2月、夜行列車で会津若松に着いて、7:47発、C11の牽く只見線の列車に乗りました。会津若松を出た時は、それほどの混雑ではなかったと記憶していますが、以後、各駅に停車するごとに、続々と高校生が乗り込んで来て、客車の通路まで、びっしりの高校生となりました。▲そして8:35、列車は会津坂下に到着、約6分の停車。すると超満員の車内から、高校生がごっそり下車、駅の本屋へ通じる構内通路はたちまち高校生で埋め尽くされた。ほぼ男子学生、真っ黒な集団には圧倒された。
先日、DRFC行事の後に米手作市さんが宇都宮からE2系新幹線「なすの号」にご乗車された。そこで「なすの号」に関連した話題を提供してみる。E2系は1995年に登場、北陸、上越線でも活躍したが両線ともE7系に置き換えられ現在は東北の「なすの号」を中心に運用されているが間もなく消えていくものと思われる。そういう意味で米手さんはラッキーだったと言える。
E2系が活躍していた頃の記録を1枚。2015年5月3日北上-新花巻間を行く仙台発盛岡行き「やまびこ97号」E2系10連。▼
晩年「なすの号」等に使われた車両に200系がある。東海道新幹線0系に似ただんご鼻スタイルをしており雪国を走るので耐寒耐雪を強化したほか、車体は0系の鋼製に対してアルミ合金製の違いがある。100系に似た200系も存在したが当時新幹線に興味がなく撮り始めたのはやはり晩年の姿である。この撮影も「なすの号」ではなく2012年9月2日熊谷駅を通過する新潟発東京行き「とき327号」であるが何となく0系の感じがして貴重品に見え追いかけたがその後E2に似た塗装に変更したものもあらわれた。▼
ところで「なすの号」は1959(昭和34)年上野-黒磯間で多客時に運行された「なすの号」がルーツで特別準急電車日光形157系「湘南日光号」とともに全車座席指定の駿足列車であった。157系はその後1963(昭和38)年には153系の出力を増強した165系に変更されて行った。両準急ともに165系使用列車第1号である。写真は1965年11月10日川口-赤羽間の荒川橋梁を行く165系の「なすの号」2512Mで黒磯10時58分発上野13時9分着で特急電車と変わらないスピードを誇っていた。▼
準急「なすの号」を撮った同じ日に総本家さんが関西にはないと言われたEF57牽引列車を上り急行104列車青森発上野行き「八甲田号」を含め撮影している。ここでは「なすの号」のすぐ後のEF576[宇都宮]牽引福島発上野行き124列車を載せてみる。因みに同列車は福島6時45分発上野13時19分着である。福島‐黒磯間はED71あたりが牽引してEF57にバトンタッチしたことであろう。パンタグラフを思いっきり前面に押し出した個性的なスタイルのEF57の人気はEF58の比ではなかった。米手作市さんとはこの頃に尾久客車区に行った時にEF57やEB10も撮っているが随分昔のことになってしまった。▼
新幹線の車両は登場しても思った以上に廃車されるのが早い。赤と青などカラフルな車両で編成された連結も見られるので興味のある方は今のうちに記録されたらと思います。
<東急電鉄世田谷線1 2006.12.2>
私は関東在住時には、埼玉県の朝霞に住んでいた。都内へは東武東上線と隣駅の和光市で乗り入れる地下鉄有楽町線が利用できた。復職した平成17(2005)年、副都心線はまだ工事中だった。池袋までは楽に出られるが、新宿や渋谷へ昼間でも混んでいる山手線や埼京線を使わざるを得ない。右手足マヒの障がい者にはハードルが高い。
ホームにて③ 「ラッシュの主役 高校生」余話
前回、ローカル線ラッシュ時の主役だった高校生のことに触れました。平日は、勤め人とほぼ同じ時間帯の高校生ですが、当時は、勤め人は週休2日制が普及する前で土曜日も出勤でしたが、土曜日の高校生は昼間まで。当時の時刻表を仔細に見ると、土曜日の昼に下校する高校生のために、北海道などでは特別なダイヤが設定されていました。日本全国、同一サービスを提供する国鉄ならではの心配りでした。
▲当時、日本一の赤字線と喧伝されていた根北線(斜里~越川)、左の時刻表のように、平日は、朝、夕方、晩の3本のみだが、赤枠のように、土曜日だけ網走発越川行き645Dが運転されていた。まさに、土曜日、授業を終えて根北沿線に帰る高校生向けに運転されていた列車だった。写真は、たまたま土曜日に訪れた網走駅に停車する同列車で、キハ22319単行と、北海道ではごく一般的な列車だった。快速つくばねさんは終点の越川まで乗られたとのことコメントを頂戴したが、私はここで見たキハ22が最後で、根北線は2年後に廃止になった(昭和43年、以下、時刻表も昭和43年基準)。
ホームにて③ ラッシュの主役 高校生
地方のラッシュ時、乗客の中心は、勤め人と高校生で、車内はいっときの満員状態となります。ところが、勤め人は、ホントに列車に乗らなくなりました。ことし、三陸鉄道で、朝8時台の中心駅へ向かう列車に乗る機会がありましたが、勤め人風の乗客はほぼゼロで、三陸地方ならではの事情があるとは言え、愕然としました。残る乗客はは高校生となりますが、高校生そのものも少子化の影響を受け、地方では高校の統廃合もあると言います。自転車では通えない列車通学生に対しては、学校専用のスクールバスがあったり、一人一台の親のクルマで送迎もあって、列車利用の減少に拍車をかけています。交換駅で対向の列車を写そうとすると、ホームで待つ高校生が見えます。なかでも女子高生には眼が向いたものでした。決して、その筋の興味はないのですが、やはりセーラー服など服装や、髪形、持ち物には、時代差、地域差があって、昭和ならではの思い出です。
▲名松線家城での交換、昔も今も、家城が唯一の交換駅で、キハ30系が入るぐらいだから、ラッシュ時は乗客が多かったのだろう。先日、名松線に乗ったところ、夕方の列車には、家城から一定数の高校生の乗車があって、同線では、いまでも高校生は重要な乗客のようだ(昭和45年)。