【須賀川市立第二小学校北側】 37.293732, 140.372220 2020年11月1日撮影
オハフ46 2021
昨夏、未知の廃車体を、
https://425.teacup.com/ytrain/bbs の2019年7月14日
で紹介していたので、これはぜひ行かねばと思いながら、この度やっと訪問する機会ができた。
場所は、JR須賀川駅から徒歩10分、須賀川市立第二小学校の道路を挟んだ北側、長禄寺(ちょうろくじ)という曹洞宗の大きな寺の墓地の西側に隣接してほぼ南北に置いてある。倉庫のようである。外観は、20m切妻で屋根は張り替えてあり、台車はない。木製の窓枠が一部腐食している1m窓が10個と端に700mm下降窓、妻面に尾灯があるので、ハフであることがわかる。
現場に着くと、廃車体の前にライトバンが停まっており、妻面のドアが開いて、大人と子ども(野球のユニホームを着た小学生)が約10人、試合後のミーティングのようなことをやっていた。そのうちに賛美歌を歌い出し、訳が分からないまま15分程経つと終わって散会しはじめたので、リーダー格の人に挨拶してことわってから撮影した。その人に聞いたところによると現車は、地元のボーイスカウトの用具置場兼集会所(エアコン、外に水道がある)として使っているそうである。
【銘板】 昭和26年 名古屋日本車輌(後位)
昭和39年改造 土崎工場(前位)
昭和49年改造 大宮工場(前・後位) を確認した。
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2つの鉄道事故の痕跡を訪ねて(前編)
手元に昭和6年1月13日の中国新聞朝刊のコピーがあります。実は戦前の中国新聞の紙面は殆ど残っていません。広島本社に保管されていたであろう紙面は原爆で焼き尽くされ、福山支社のものも福山空襲で消滅したからです。戦災を受けなかった三原市図書館に辛うじて昭和5年11月から昭和24年11月の間の古い紙面(主に備後版)が残されていて、デジタル化されています。地元の戦前の出来事を調べるのに重宝しています。そんななかで、とりわけ目をひいたのが、昭和6年1月13日の紙面でした。前日1月12日3:57に発生した山陽本線河内(こうち)駅での上り急行列車転覆事故の生々しい記事と写真が紙面を埋めています。まずはその紙面を分割してご紹介します。約90年前の新聞ですので、写真の不鮮明さ、見づらさはご容赦のうえ つなぎあわせてご覧下さい。
ひっそり消えていく東武200型特急車
東武鉄道は伊勢崎線の特急「りょうもう号」専用車両200型を11月9日から一部「リバティりょうもう号」に置きかえると発表。徐々に置きかえられていくものと思われる。ひっそりというのは小田急の7000形ロマンスカーほど派手なスタイルではなく地味な特急車両であり話題性に乏しいからである。東京メトロでお別れ運転した時にファンがルール無視などして会社がうんざりしたことがあったそうでお別れイベントはやっても地味ではないかと思い、かってにひっそりと消えていくと書いたまでである。200型はその生い立ちも完全新造車ではなく1700型、1720型(DRC)の台車、主電動機を使用し、流線形ながら特に印象的な車両ではない。運行も観光地日光、鬼怒川方面に使用されず、ビジネス利用の多い伊勢崎線方面専用で何となく静かに消えていきそうな感じである。東急車両、アルナ工機が担当で1990年11月から98年1月にかけて6両9本計54両が製造された。最近新造車に置きかわり一部富山地鉄に譲渡された西武10000系ニューレッドアローにも同じようなひっそり消滅感を感じる。さて、「りょうもう号」車両には200型とほとんど同じスタイルの250型もあり併せて紹介するがこちらは全くの新造車で抵抗制御の200型に対してVVVFインバーター制御である。前者が75kw×4のオール電動車であるのに対して後者は190kw×4の3M3Tである。
それでは200型、250型の走行写真であるが、撮影地は何れも2020年10月25日伊勢崎線県-福居間である。
「りょうもう21号」赤城行き先頭203-6 パンタは下枠交差式、台車はミンデンタイプ▼
昭和の電車 改訂版(121)ー営団地下鉄300型ー
南海貴志川線と天王寺駅の南海電車
関三平さんの昭和の電車で南海貴志川線のことが投稿されていたのでコメントつもりでしたが投稿することにしました。貴志川線は高校生の時に鉄道友の会の見学会で訪れていたのです。その時の写真を少しばかり撮っていたので紹介いたします。この時は野上電鉄も訪れましたので海南にある日方には南海和歌山軌道線に乗って行ったようです。どのような順番で行ったのかわかりませんが、まずは和歌山軌道線の写真から
場所は和歌山駅前ののようです。古い和歌山市街の写真のあるサイトを見ているとわかりました。決め手は右側交差点の角にある紀陽銀行です。感じとして寒々としています。
新快速50年記念講演会
今年は1970年10月に新快速が登場して半世紀となります。それを記念して京都鉄道博物館では特集展示をはじめ、新快速に関するイベントが行われています。その中で今日は講演会が開かれました。二人の方が講演された後、フリートークという構成になっています。「新快速が走り始めたころ113系、153系から117系へ」と題してまず総本家青信号特派員さんが話をされました。スカ色の113系から始まって117系まですべてご自分で撮られた写真をもとにして、ご自分の体験として新快速の50年を振り返るなどとは、さすがとか言いようがありません。続いて鉄道ライター伊原薫さんの「新快速が果たした役割と私の思い出」と題した話がありました。コロナ感染防止のため会場は40人に限定されていて、ホールの外の廊下には1時間も前から並ぶ姿があり、満席の盛況でした。

昭和の電車 改訂版(120)ー南海貴志川線205+1827+206ー
やっぱり蒸機が好き! 九州の蒸機 私鉄・専用線編 ③
貝島炭礦 大之浦炭砿専用線
私鉄・専用線の蒸機は、国鉄以上に忘れ去られた感がありますが、紫の1863さんらの暖かいコメントにも励まされて続けます。筑豊の中心部に貝島炭礦大之浦炭砿専用線がありました。長らく出炭を続け、閉山による蒸機の廃止は昭和50年代に入ってからで、九州では、国鉄にはすでに無く、最後の蒸機となりました。しかも蒸機は、コッペル、アルコと言った輸入機です。魅力一杯の貝島ですが、アプローチが問題でした。国鉄最寄り駅は、宮田線の終点、筑前宮田ですが、一日数本の閑散線、そこからさらに先とあっては使いづらく、雑誌を読んでも西鉄バスを推奨、網の目に張り巡らされた、複雑な西鉄バスの路線、しかも飯塚、直方からは直通は無く、乗り換えが必要と言う難関ルートでした。当時の乏しい資料を何度も読み解いて最寄りの「長井鶴」バス停に降り立ったのが、昭和43年3月のことでした。
▲長井鶴のすぐ近くに貝島の六坑駅があり、機関区もあって運輸上の中心となっていた。ここから、国鉄筑前宮田駅までの専用線が、当時のメインの路線、石炭を満載した自社の石炭車を多く連ねた、先頭32号 後補機22号の列車。
昭和の電車 改訂版(119)ー奈良電デハボ1100系・近鉄モ600系ー
やっぱり蒸機が好き! 九州の蒸機 私鉄・専用線編 ②
明治鉱業平山鉱業所のBタンク機
筑豊本線飯塚から上山田線が分岐していて、途中の臼井から南西の方に、専用線が延びていました。それが、明治鉱業平山鉱業所へ向かう約2キロの専用線でした。ここでの輸送は、直方区の9600が担当していて、国鉄の石炭車が、平山鉱から産出される石炭を牽いて、若松などの積出拠点へと向かっていました。
昭和43年3月、私は臼井で下車して、専用線の上を黙々と歩いて、終点の明治鉱業平山鉱業所に着きました。ここには、2両の蒸機、236、237が、構内の入換として、使われていました。プレートの独特の書体からも分かるように、もとは、八幡製鉄所の構内蒸機で、無骨な産業機でした。
▲B型のタンク機 236、石炭ホッパーに石炭車を押し込み、積み込みが終わると、引き出して、待ち受ける9600に引き渡すのが仕事だった。全体が粉塵のせいなのか、グレーになっていて、前梁はオレンジの警戒色が塗られ、いかにも専用線の蒸機という感じだった。
「エトセトラ」を追いかけて
山陽路の観光列車「エトセトラ」について、運行初日の様子などを3回に分けてご紹介しました。以前の「瀬戸内マリンビュー」時代は土・日・祝の呉線往復でしたが、「エトセトラ」に変身してからは、月・金も加わった上に尾道・宮島口間と運転区間も拡がり、上り・下りのルートも変わったので、撮影地点の幅が増えて、運転日は急に忙しくなりました。まずは呉線のシーンから。
重文になった鉄道車両
本日は京都市交通局2号電車です(朝日新聞2020.10.26掲載)。先日のデジ青の「レイル」誌の記事でも取り上げられていた車両です。「N」の説明もされています。
*「松風」も載せておきます。


やっぱり蒸機が好き! 九州の蒸機 私鉄・専用線編 ①
豊国セメント苅田工場
ここで、ちょっと前のシリーズに戻します。「《区名板》で見る九州の蒸機」を掲載しましたが、もちろん全部が国鉄の蒸機で、考えたら、九州では私鉄・専用線にも、多くの蒸機が活躍していました。これらも紹介しないことには、シリーズも完結しません。とは言うものの、私鉄・専用線の蒸機は、国鉄よりも一歩先に姿を消していて、訪れた昭和40年代初頭では、その片鱗をのぞいたに過ぎません。とくに、石炭王国の筑豊には、地産地消とばかりに、多くの蒸機が専用線を走り回っていましたが、炭坑の閉山とともに蒸機も消えていきました。こんななかで、辛うじて残っていた専用線を訪ねることができました。
▲日豊本線苅田駅には、山手側には、日本セメントの石灰岩の採掘専用線、海側には豊国セメントのセメント工場へ向かう専用線があり、採掘された原石は両線を通って工場へ送られた。その輸送を担っていたのが、豊国セメント苅田工場の2両のタンク蒸機だった。写真は、苅田駅構内の日本セメント専用線にやって来た5号機関車、距離標の1,634米は、専用線の終端境を示すものだろう。
一週間前は雨だったのに、今日はいい天気
古い絵葉書が・・その3
前回の投稿が思わぬ不人気だったので、そのままもう少し置いておいて、次に進みます。併せて回答をお待ちしております。
※今回の問題は簡単すぎて「馬鹿にするな!」と、誰も答えてくれなかったのだと分かりました。反省しております。答えを書いておきます。
⑭D51 653レ 1969.12 中央西線 落合川ー坂下
そろり、ゆっくり、活動再開 【8】
夕景求めて 近場でチョイ撮り 大阪編(2)
大阪は、近代的な都市景観も提供しながら、片や路面電車も走る街であり、鉄道写真の材料を多く提供してくれます。その阪堺線も近年はよく行きました。それこそ、電停ごとに、写材が転がっていると感じました。今回は、阪堺線の路面区間である、上町線「北畠」へ、夕景のチョイ撮りに出掛けました。大阪の歴史を感じさせる電停名ですが、ここへ行って初めて気が付いたことですが、すぐ近くに著名な公立高校があって、夕方になると、下校する高校生が電停に群がり、大挙して阪堺線に乗ります。自転車通学では無く、高校生にはあまり縁がないと思われる路面電車に乗り込む、ちょっと嬉しい光景に、阪堺線の明るい未来を見たような気持ちでした。
▲この日は、まず関空へ行って、人の全くいない空港ターミナルを見学したあと、夕方、天王寺駅前から上町線で北畠に降り立つと、早くも高校生の乗降が始まっていた。
重文になった鉄道車両
京都市電北野線に寄せて(3) まるごと特集「レイル」発売
北野線の話題が“デジ青”を賑わすのに合わせたように、北野線をまるごと特集した雑誌「レイル」が発売されましたのでご紹介します。特集発行のきっかけは、平安神宮に保存されているN電2号です。本欄でも、Wakuhiroさん連載の「重文指定」の記事のように、N電2号が、ことし9月30日付の官報で国の重要文化財に指定されました。路面電車としては初めてのことです。
北野線を開業した京都電鉄は、そのあと市営に吸収されたため資料が乏しく、また京電研究の第一人者だった当会顧問の大西友三郎さんも亡くなられて集められた資料も散逸し、その実態は解明されない部分も多かったのです。重文指定を機に、京都在住の趣味・研究者の協力で、不明部分を解明しようとなりました。路線の歴史的経緯、京都電鉄から京都市に引き継がれた車両の番号、改番、仕様の一覧表がまとめられました。車体や台車などの組立図も掲載され、いずれも初公開です。また写真については、ベテラン鉄道写真家の未発表の鮮明な写真で誌面を飾ったほか、私が保管していた写真も活用していただきました。原稿も有志で協力、クローバー会のネットワークが活かされた号となりました。主要書店で発売中です。
▲クローバー会では、米手さんと私が、N電当時の思い出を担当。米手さんは、京都へ初めて写真店を開設された“千中”が賑やかだった思い出を、私は父に連れられて“天神さん”の日に見た、謎の駅舎について記述。左下の写真は、乙訓老人の千本中立売の写真、当時の賑やかさが伝わる、いい写真だ。
昭和の電車 改訂版(118)ー国鉄モハ14+クハ47ー
京都市電北野線に寄せて(2) 北野車庫付近を新旧対比
北野付近は、少し前には、母親の介護先があり、ほぼ毎日のように通っていたところでしたが、それも数年前に終了してからは、全く行っていませんでした。懐かしい思いで、商店街の一軒一軒を見て回り、柱に掲げられたN電の写真もじっくり見て回りました。この付近で先達が撮られた北野線の写真を、私も何点か所蔵しており、その新旧対比をしてみました。
▲北野商店街の柱に掲げられた北野線の写真、左は京福北野線の北野駅、右がN電北野線車庫。












