新緑の北海道 余話-5-

北浜 今昔

根室本線の次に訪れた釧網本線も40年前に訪れた懐かしい線区です。中でも、原生花園の中にある北浜付近は、その当時から有名な撮影地でした。C58の牽く混合列車が残っていたこと、原野もあって、海沿いも走り、鉄橋もあると、変化に富んでいること、網走までの夜行列車もあってアプローチしやすいことが要因だったのでしょうか。
ぶんしゅうさんに無理を言って、北浜で時間を取って夕方まで撮れるよう、車を走らせてもらいました。

釧網本線では、無人になってしまった駅舎を観光資源の一つととらえ、各駅にレストランや売店を設けて活用している。客の多くは車で訪れるとは皮肉なことだが、無人駅で放置され荒廃していくよりはずっといい。北浜駅も、”オホーツク海にいちばん近い駅”として売り出し、喫茶”停車場”が設けられている。室内は客車を模した構造になっており、窓越しに望むオホーツクの眺めも乙なものだ。特筆すべきは、本格的な料理の内容で、時間潰しにと頼んだランチの味もなかなかのもの、予約すれば、本格的なフランス料理のフルコースもできるとのことだった。

北浜駅を有名にしたもうひとつは展望台だろう。ホームの横に木造の砦のような展望台がある。平坦地で高さのある写真を撮れなかったのが、展望台のお蔭で、高さを稼げるようになった。展望台からの夕陽は、残念ながら曇ってきたのと、方向も少し違っており、期待したものではなかったが、海を隔てた山々がほんのり赤くなった。

40年前の北浜駅に入線するC58の牽く混合列車。ホームから見えるオホーツク海は変わっていない。現在の駅構内は棒線化されているが、この当時は、ホーム一面ながらも側線があったことが判る。
C58の煙室扉に何やら紙が貼り付いている。実はこれ、当局と組合との争議で貼り付けられたアジビラだ。国鉄の争議はうんと以前からあり、アジビラは組合事務所などにはよく貼ってあったが、お客が乗る、いわば聖域とも言うべき鉄道車両を組合のアピールの場としたのは、ちょうどこの頃からだった。車両全体をデカデカと石灰で書き殴る、いわゆる団結列車も、動労の勢力が強い北海道ではもう見られ、その後各地に波及していく。これが来ると全く絵にならない。これから数年間、何度泣かされたことか。

当時の北浜の代表的な撮影地、トーフツ湖に架かる鉄橋を行くC58の貨物列車。貨物はこの当時、大部分はDE10化されていたが、一部はC58で残っていた。この鉄橋、駅から近く、横を並行する国道の橋から難なく撮れる。すぐ近くにはユースホステルもある。この日も、いったんユースで旅装を解いたあと、ユースのゲタを履いて、列車の時刻に合わせて鉄橋まで行ったものだ。

原生花園を行くC58の牽く混合列車。9月なので花はないが、原生花園を行く典型的なシーンと言えようか。ワム・トムを中心にした貨車数両、スハニ62を含む客車3両も、混合列車のスタンダードだった。この列車を写すため移動していると、余りにも同じ風景が続いているため、置き去りにしたリュックが分からなくなってしまった。今回も全く同じ経験をして青くなった。40年経っても、人間は変わっていないと苦笑した。このC58、まだデフは切り詰めておらず、原型のままだ。操車掛がデッキに乗る際のスペースを確保するため、この頃から道内の蒸機のデフが切り詰められていく。前述のアジビラ、落書きとともに、蒸機が醜くなっていく直前の最後の輝きを持っていた時期であった。

上は、40年前の原生花園の中を行く釧路発網走行急行「しれとこ2号」。当時、釧網本線には線内急行が4往復も設定されていた。車種のキハ22は、道内用に汎用気動車として製造された。デッキ付のオールクロスシートを買われて、道内ではローカル線の急行はほとんどキハ22で賄われていた。室内もさることながら、小さい窓の整ったスタイルは、大好きな気動車だった。
下は、現在のほぼ同位置。木造の電柱はそのままだ。キハ40は、道内の至る線区で使用されており、さすがに優等列車運用はないものの、現代版のキハ22と言えよう。

ぶんしゅうさんも書かれていたが、北浜駅レストラン”停車場”の女主人は話好きで、食事が終わっても話が続き、なかなか脱出できない。ホントは、近くで風呂に入り、宿泊予定のオハ47に予約時刻に着こうとしていたのに、とうに予約の時間をオーバーしてしまった。気の済むまで話を聞こうと2人で覚悟し、ようやく2時間後に解放された。
外へ出るとすっかり暮れてしまい、とうとう雨になってしまった。ホームへ出ると予期しなかった列車がやってきた。ここまで長引くとは思わず、時刻表も全くマークしていなかった。雨に濡れたホームに反射する赤いテールライトと、駅舎から漏れる白熱灯を見て、行き当たりの旅もいいものだと思った。

北の大地へ2010年初夏編 Part10 日高本線

第11日目 2010年7月4日
午前中は、前日のリベンジに非電化区間の架線電柱のない伊達紋別行きのプランでしたが、疲れは取れず二人とも身体がもう動いてくれません。今日は終日、日高本線の撮影に集中する事にしました。
8:00、1986年(昭和61年)に廃線となった富内線が分岐していた鵡川駅で、上り下り列車の交換撮影から始めました。

▲ 8:36、左;様似行き2225D(キハ40-356) 右;苫小牧行き2226D(キハ40-1705)

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北の大地へ2010年初夏編 Part9 室蘭本線

第10日目 2010年7月3日
昨夜は雨がよく降っていました。「旅・人・宿 あさ寝坊」に泊まって正解でした。近くに有名な硫黄岳がありますが、総本家さんは行った事はないと言うので折角だからと、雨が上がった朝食前に行ってきました。午前8時までだと駐車料金が要らないのでお得です。

朝食はご家族3人と夜に北見から来られ、先ほどまでマスターと釣りをされていた友人の方も一緒でした。昨夜の夕食に出た「オショロコマ」(別名;カラフトイワナ)が、大漁だったようです。

お世話になった「旅・人・宿 あさ寝坊」です。民家と変わらずの外観。部屋は2階の男女別相部屋を予約しましたが宿泊していたのは我々2名だけでした。安いし綺麗ですし我々には十二分の宿です。 続きを読む

茶内の思い出

特派員さんが撮影された昭和46年3月の茶内駅の画像を懐かしく拝見した。私が茶内駅に下りたのは、現役時代の昭和42年9月5日と2年後の昭和44年9月4日で、目的は浜中町営軌道であった。昭和42年は、札幌駅21時30分発の急行「まりも」で出発、釧路着が6時20分、10分で接続の急行「ノサップ」(キハ4545+キハ22269の2連)が満員のため、「まりも」の前2両のスハフ44とスハ45の2両と荷物車がそのまま6時46分発の根室行(447レ)となるので引続き乗車した。茶内到着後、上りの234Dまで約1時間半の時間で、到着する列車を中心に撮影したが、吃驚したのは、貨物列車の直ぐ後ろを、DC(自走客車)の前後に無蓋車を連結した混合列車の続行運転であった。キハ09+キハ21の普通列車234Dで釧路に戻り、雄別埠頭の新車のDLを撮影後、雄別炭山に行った。

昭和44年は、急行「まりも」はヨンサントオのダイヤ改正で愛称名の整理が行われた結果「狩勝4号」となっていた。釧路到着後大急ぎで「ノサップ」に乗り換え、前回より1時間早く茶内に到着した。この時は車庫で撮影後、役場内の軌道事務所を訪れ、234Dまで約2時間担当の方からお話を伺い資料をいただいた。本当は西円線に乗車して上風連に行き、別海村営軌道に乗り継いで奥行臼に出ようと計画したのであるが、別海村営軌道の上風連まではかなり離れていること、11時35分発で上風連に行っても奥行臼行が夕方までないこと等の理由で乗車は次の機会ということにしたが、3年後に廃止されてしまった。あの時、別海村営軌道にこだわらずに、上風連まで往復するだけでも乗っておけばよかったと悔やまれる。この日はその後尺別鉄道を訪れた。

ちなみにその後北海道を訪れたのは、仕事を除けば、昭和51年5月に日本セメント上礒工場の電気機関車の見学撮影。平成11年11月に社内旅行で釧路空港から阿寒湖、摩周湖を見学して川湯温泉に一泊、翌日硫黄山、知床、網走を回って女満別空港から帰ったこと。平成13年2月に家族旅行で流氷見学に行ったくらいで、鉄道の見学、撮影はリタイヤ後でないと無理なようである。

【国鉄】

 

キハ22269+キハ4545の急行「ノサップ」/キハ45は、新車として完成後、北海道等の観光路線に投入してシーズン終了後本来の配置先に転属した。(42.9.5 釧路駅)

 

「まりも」に連結されていたスロ5218/スロ514を寒冷地仕様に改造。昭和44年9月にオールロングシートに改造してオハ41406となり金沢に転属、主に七尾線の通勤列車に使用後昭和56年に廃車となった。(42.9.5 釧路駅)

 

キハ094+キハ21(234D)/キハ094は、昭和37年3月苗穂工場でオハフ623を改造してキハ454として誕生、昭和41年8月の改番でキハ094となり、昭和45年2月に廃車となった。ジャンパ線が外されているのは当駅で交換する下り233Dの3両のうち1両を切離して増結するためで、北海道ではよく見られた車両運用であった。(42.9.5 厚岸駅)

 

キハ083/昭和37年3月苗穂工場でオハ6280を改造してキハ403として誕生、昭和41年8月の改番でキハ083となり、昭和46年8月に廃車となったが、加悦鉄道に売却され、鉄道廃止後も「加悦SL広場」に保存されていることはご存じの通りである。(42.9.5 釧路駅)

  

C58385の引く急行「狩勝4号」崩れの普通列車根室行447レ(44.9.4 茶内駅の根室寄り)

 

C58119の引く下り貨物列車(44.9.4 上尾幌)

【浜中町営軌道】

 

雪印乳業茶内工場に停車中の貨物列車/機関車はNo.6で、昭和40年12月釧路製作所製の8t機。廃線後「茶内ふるさと広場」に保存されている。(42.9.5 茶内)

 

西円線の貨物列車/直ぐ後ろには貨車を前後に連結した若松線(茶内~中茶内~別寒辺牛)の混合列車が続行している。機関車は昭和36年協三工業製の6t機(42.9.5 茶内)

 

貨車を前後に連結した若松線の混合列車。西円線(茶内~秩父内~中茶内~西円朱別)、東円線(茶内~秩父内~東円朱別~上風連)は客貨分離が行われていたが、若松線は混合列車2往復の運行で、日曜祝日は貨物列車のみの運行であった。(42.9.5 茶内)

 

東円線の列車(42.9.5 茶内)

機関車

昭和44年訪問時に戴いた資料によれば4両在籍していた。内訳は昭和33年製と38年製の協三工業製の6t機各1両、昭和40年釧路製作所製の8t機が2両であった。

 

No.1 /昭和31年加藤製作所の6t機で、昭和44年時点では廃車済であったが現車が残っていた。(42.9.5 茶内)

 

No.5/No.6と同じ昭和40年12月釧路製作所製の8t機(44.9.4 茶内)

自走客車

昭和44年時点では5両在籍していた。

No.1昭和35年運輸工業製(44.9.4 茶内)

 

No.2/昭和37年釧路製作所製で京阪500形を思わせる正面2枚窓が特徴であった。(44.9.4 茶内)

 

No.3/昭和39年泰和車輌工業製で、廃線後「茶内ふるさと広場」に機関車と共に保存されたが、老朽化が激しいため解体されてしまった。(42.9.5 茶内)

 

No.4/昭和40年泰和車輌工業製で、当初から2個ライト、トルコン付でワンマン設備をもっていた。(44.9.4 茶内)

 

No.6/昭和35年運輸工業製でNo.1とは同形、昭和40年に藻琴線から転入した。(42.9.5 茶内)

牽引客車

 

昭和32年釧路製作所製で、昭和42年の時点で既に休車状態であった。(42.9.5 茶内)

その他

ロータリー車2両、8t積有蓋貨車1両、8t積無蓋貨車1両、6t積無蓋貨車11両、6t積木材運搬車2両、6t積牛乳運搬車6両、6t積小荷物車1両、家畜運搬車4両、30石入牛乳タンク車3両が在籍した。

 

30石入牛乳タンク車(42.9.5 茶内)

 

 

茶内今昔へのお返しに

特派員殿

茶内駅でのスナップ ありがとうございます。キハ08と一緒のこんなスナップがあったとは うれしい限りです。昭和46年3月12日 この日の写真は白糠駅から始まっていますので、前日の長万部でのC62のあと 釧路行きの夜行普通列車から乗り継いで茶内へ入ったようです。茶内ー糸魚沢間は10Kmあり 確か中間地点付近まで歩いたと思います。混446レをかなり高い場所に登って俯瞰撮影し そのあと下り貨物列車を撮って 茶内へ戻ったと思います。よっぽど時間をもてあましたのか 特派員殿は雪の斜面ではしゃいでいました。それにしても 夜行列車で着いて、ろくな食事もとらず、厳冬のなかを10Km歩き、みんな あの頃は元気だったんだナーとつくづく思う今日此の頃です。

雪遊びに興じる特派員殿

雪遊びに興じる特派員殿

 

津田社長殿

津田社長殿

初夏の北海道 余話-4-

茶内 今昔

回の北海道訪問では、鉄道ファンを名乗る以上は、僅かでも鉄道に貢献すべく列車乗車も行いました。根室本線では、厚岸~根室間を往復乗車しましたが、列車に乗ってみると、北海道の鉄道の衰退ぶりが身を持って感じられます。
乗車したのはキハ54の単行、車内は廃車発生部品の転換クロスシートに改造され、座席定員は約50名。しかし実際乗っていたのは、20人程度です。このことから、厚岸~根室間での一日輸送量(片道)はせいぜい150~200人と想像されます。釧路~根室間は、花咲線の愛称が付され、同じ根室本線でありながら滝川~釧路間とは運転形態も区別されています。同区間でも釧路から厚岸までは、小さいながらも釧路の都市圏を形成し、通勤通学需要があるようですが、厚岸~根室間に至っては、超閑散路線となります。
実際、列車に乗って見ても、駅間には人家は見られず、ただ原野が広がるのみ。駅前ですら、かたまった人家があるのは、茶内、浜中、厚床、東根室程度で、あとは駅周辺にも人家すら見られません。乗車した日は濃霧の影響もあって、よりいっそうの寂寥感を覚えたものでした。
この区間は40年前にも乗りましたが、人家もあって、もっと活気がありました。沿線の過疎化は想像以上に進んでいるようです。途中、茶内駅で撮った列車交換シーンは、意識していなかったのですが、偶然40年前と同じ位置から撮っていたことが判明、図らずも時代の推移を感じたものです。

霧の立ち込める茶内駅に進入する5624D列車。この列車の釧路到着が8時24分のため、珍しく6人もの乗客がいて、高校生も見える。下の40年前と比べると構内の配線は変わっていないが、周囲の光景はすっかり寂しくなってしまった。
北海道は意外に都市間連絡のバスが発達している。釧路~根室間には札幌からの便も加えてバス6往復、所要時間3時間10分程度で設定されている。鉄道は7.5往復、快速で2時間、普通で2時間20分と優位にあるものの、運賃はバス2190円、鉄道2730円で、やはりJR北海道の割増運賃が大きなネックになっている。沿線の国道を走っても、通行量は極めて少ない。旅客、物流とも、この地はやはり最果ての地域なのだろう。

昭和463月、茶内駅に入ってくるのはキハ083+キハ2118の2両編成、先頭のキハ08はオハ62からの改造車で、車内は種車の客車そのもの。この日は、鉄道同好会の仲間と茶内~糸魚沢間で撮影し、この列車に乗って釧路へ戻るところ、ホームの中ほどに江若鉄道の模型復元に情熱を燃やす西村さん、鴨川鉄道社長を自任する津田君の姿も見える。当時はこれほどの乗客があったのだ。
根室本線の列車は、DCは2連、客車も混合列車として走っており、荷物・郵便車を含む4両編成だった。札幌からの急行列車も運転されていた。

当時、茶内駅を出ると、右手には、簡易軌道の乗り場があった。茶内駅前から西円朱別、上風蓮、別寒辺牛へ向かっていた浜中町営軌道で、その当時残っていた簡易軌道では最大規模だった。小規模ながらも旅客営業を行っており、茶内駅は簡易軌道からの乗換客もあって賑わっていたのだろう。中央に見えるのが「自走客車」と呼ばれる無番号のDC、左手には、この軌道の主要な輸送であるミルクの運搬車が見える。現在この場所に立っても、それを偲ぶものは何もなかったが、茶内駅の事務室に、写真や資料が展示されていた。

 

北の大地へ2010年初夏編 Part8 釧網線

第9日目 2010年7月2日

久しぶりに雨の降らない朝を迎えました。47-508の同泊者の方は、72歳のおじいさん1名でした。既に3連泊しておられ明日3日から2日間、雄武町から斜里町までの212kmを駆け抜ける「インターナショナルオホーツクサイクリング大会2010」参加のために来られたと言っておられます。我々よりも元気なおじいさんです。

▲ 1972年当時の卯原内駅です。湧網線は道内でも好きな路線でしたので、よく乗りよく撮影をしました。
▲ 美唄の4110形機とまではいかなくとも塗装され一新されたのか、綺麗な49643号機。走行していなくとも落ちついて熟睡できたオハ47-508でした。 続きを読む

北の大地へ2010年初夏編 Part7 釧網線

第8日目 2010年7月1日
① 釧路9:05(快速「しれとこ」3728D)→9:36塘路
② 塘路9:36(4725D)→10:07釧路

今日も雨です。さすが湿地帯が近い街だけあります。総本家さんは部屋で洗濯をしたのに靴下が乾いていないと嘆いていましたので、「備え付けのドライヤーを使うと速乾しますよ」とアドバイスを送ったら早速実施していました。昨日の雨の中を草むらに入っての撮影でしたので、ぐしょぐしょになった靴もついでにやってますが、これは長期戦になります。出発する前に長靴があった方が便利ですよと購入を薦めたのですが、必要ならと買わずじまいでした。もう我慢できずホームセンターに寄って欲しいと、ロケハン乗車後に行くことにしました。私も前回同じく痛い目にあいましたので、既に現地購入済みで活躍中です。由良川・厚別川の水の中や、晴天でも雑草生い茂る中での撮影に大変役に立ちました。皆様も是非に購入をお薦めします。
ホテルの美味しい無料朝食をたっぷりと食べてから、車をホテルの駐車場に預けて釧路駅に向かいました。

▲ 快速「しれとこ」は、釧路運輸車両所管轄でヘッドマークがついていました。一方、釧路~根室間を走る花咲線運輸営業所管轄の快速「のさっぷ」「はなさき」はヘッドマイクがついていませんでした。同じ釧路駅発着なのになぜなんでしょうね。 

釧網線は、ラムサール条約にも登録された「釧路湿原国立公園」の特別地域内を走行します。トロッコ列車も運行されていますが、展望には降りて高台に登らなければ壮大な湿原を見る事ができません。鉄道撮影も同様で、約40年前は今のような観光客向けの見晴らし台まで整備されていなかったので探して登りましたが、無数の蚊の大群に襲われ、堪らず退散した苦い経験がありました。

撮影はいずれも1969年(昭和44年)9月1日、細岡駅です。今は、山小屋風のかわいい駅舎待合室に変わり1面1線の単なるローカル駅になってしまいましたが、当時は相対式2面2線で頻繁に列車交換が行われていました。3両・5両編成また混合列車をC58が牽引していました。長編成はC58重連でした。



▲ 貨物列車はDE10牽引になっていました。DC急行もあり、変化に富んでいました。

▲ この日も霧がたちこめていました。その後も数回行きましたが、晴天は一度もありませんでした。

▲ 昭和44年の道内時刻表からの釧網線時刻表です。

時間の関係で塘路までの往復乗車ロケハンでしたが、復路の列車は塘路で交換します。時刻表では同時刻発車で交換する列車への乗車が、可能かどうか分りません。釧路駅のみどりの窓口のお姉さんに聞いてみましたが、答えられないとの返事です。別の駅員さんに聞くと、相対式2面2線でのスロープ横断式通路までは分りました。乗車前に総本家さんが運転手に聞きに行ってくれましたが、ハッキリと分かりません。しばらくして、私から2度目の確認に行くと、先ほどもお聞きしましたので早めに着くようにしていますが、鹿が出てきた時は諦めてくださいとの事でした。どうやら鹿出没に備えて、予め余裕を加味した運転時間をひいているようです。総本家さんの問い合わせも効いたようです。

▲ 根室本線厚岸~根室間と違って、湿地を避けるようにカーブが多い遠矢~塘路間です

乗車後幸いにして急ブレーキ発生はなく塘路に発車時刻前に余裕の到着でしたが、復路列車は既に着いています。大急ぎでスロープ通路を横断して乗りましたがヒヤヒヤものでした。ついでながら、釧網線も鹿出没は日常的で、昨日は2頭が天国行きになったと言っておられました。


11:45
釧路に戻りホームセンターに寄ってから再び塘路駅に着きました。観光バスが駅前に数台います。丁度釧路からの「釧路湿原ノロッコ2号」が到着した直後で、団体観光客がバスへ乗換えていました。11:58、川湯温泉行きの4730Dが発車後、折り返しのトロッコは「釧路湿原ノロッコ1号」となって12:07釧路に戻っていきました。


撮影地ですが、霧が幾分晴れてきたとはいえすっきりとした写真は期待できません。でも折角来たからと、通称二本松と言われるポイントを目指しました。サルボ展望台方面へ向かい、途中で左折して久著呂(くったろ)道路の砂利道を走りますが、右折する道が見つかりません。

冬場なら枯れ木となっているので容易に見つかると思いますが、夏場はこれでもかと緑一色です。先まで行ってしまったようで、Uターンして再度見直し、多分ここだろうと思われる道を見つけましたが、左折しようにも大きな水溜りが行く手を阻みます。総本家さんが降りて、長靴で深さを調べてくれますが走行は難しいそうです。ここで車を降りて徒歩で山道を向かいましたが、途中で道別れしていて間違いました。

12:48、撮影地に着いた時は既に列車は通過した後で徒労に終わりました。撮影地には、30分前に必着しないとアングルが決められません。それ以前に撮影地に着けなかったのですから釧路湿原の撮影は失敗に終わりました。試し撮りを見ると、やはり霞んでいました。場所は申し分ありませんが、雨や霞が出る時の撮影は無理です。次回に期待する事にしました。

次の撮影地に総本家さんは北浜駅付近を熱望しておられますが、約130km以上あります。道は高速道路同様ですのでP6並みの高速走行は可能ですが、シカの出没やネズミ捕りを考慮しての運転となると、ぶんしゅう7号走行前に道内ナンバーの車が2台は走ってくれないとできません。これは道内ドライブでの鉄則です。

北浜前に私が希望するのは、エゾマツ・トドマツの林の中を走る光景です。勤務時代に仕事で行った時に、川湯温泉辺りに見た記憶がありました。摩周国道と呼ばれる391号線は釧網線に沿って走っているのですが、木々に囲まれて鉄道線の様子を見る事ができません。

ナビを見ながら交差する農道を見つけては右折左折を繰り返して、ロケハンします。交差する道の全部を辿る事は不可能ですので、後は自分の嗅覚と感を信じて探します。最初の撮影地は標茶から分かれた13号線の高架橋でした。上下両方が狙えます。

着いて直ぐの14:09川湯温泉発の4733D(キハ54-117)がきました。慌てながらカメラを取り出して向けましたら、なぜか霞んでいます。しまった、車内は空調しているので湿度が抑えられているのですが、外気は湿気100%状態です。一瞬にしてレンズが曇っていたのです。外気と車内に温度差がある時にも起こります。忘れていました。
しかし、標茶で交換した4736D(キハ54-515)がきます。こちらは万全体制で撮りました。

次は、美留和~川湯温泉間で、4736D変じて「摩周&川湯温泉足湯めぐり号」(摩周~緑間を9/30まで期間運転)という粋な列車となった8736Dを追い抜いて撮りました。

摩周駅川湯温泉駅では約20分間、足湯に入っていただくために停車します。ヘッドマークも付いていました。

川湯温泉~緑間には難所の釧北峠が待っています。しばし川湯温泉駅で休憩としました。

川湯温泉から緑方向に硫黄岳をバックに入れて撮れる撮影地があるというので、また砂利道を進んでみました。ここも踏切がポイントですが、遮断機が邪魔します。雑草も刈り取りたかったのですが、ご覧のように硫黄岳は霞んだ状態ですので、やる気が起こりませんでした。

までは391号線と釧網線は大きく離れて走ります。国道も折り曲がる急坂が続く峠道となって難所です。緑を過ぎると牧歌的な丘陵地帯が続き、撮影意欲を呼び起こしてくれますが、また釧網線とは離れていきます。総本家さんに確認すると、北浜は夕焼けが是非とも撮りたいと言っています。

18:00以降の到着で良いと了解が取れましたので、右折して南斜里駅を目指しました。列車通過時刻を見てもらうと余裕はありません。見渡す限りの丘陵の野菜畑の中を一直線に伸びる農道には、走っている車は全くありません。これなら大丈夫と、P6で参りました。

先ほどの足湯号を抜きたかったのですが、知床斜里駅を出た斜里川鉄橋がやっとでした。後方の斜里岳1,547mが広い裾野を見せてくれています。夏場ですので陽は西寄りに沈みます。夕刻は逆光となりますのでここでの最適撮影時刻は、午前中なのでしょう。知床斜里駅に立ち寄りました。

年間観光客約100万人(平成21年度実績)の知床の玄関口だけあってモダンな駅で、過疎地では珍しい駅員配置駅です。そしてローカル駅には見られないバリアフリー駅、駅前には知床等へのバスターミナル、道の駅もあり、交通の中心地となっています。多分原生花園花のシーズンでは、知床帰りの観光バスはこの駅で観光客を降ろして原生花園臨時駅まで列車に乗せるのでしょう。

始めの駅名は「斜里駅」でした。1998年(平成10年)に改名されています。
斜里駅はかつて国鉄ローカル線建設華やかし折に、逆行するかのように廃止された根北線の起点駅として強く印象に残っています。大赤字が増大する国鉄再建のため国鉄諮問委員会が発足し、1968年(昭和43年)9月に営業係数が高く、「使命を終えた」と見られる赤字83線2590.6kmものローカル線がノミネートされました。その中に根北線が含まれており、地元と調整了解後の1970年(昭和45年)に廃止されていました。

当時は町から過疎地へとレールがつながる事の意味は精神的に大きく、沿線住民の願いでもありましたので、延伸も予定され一部着工されていた路線での廃線は、意外なことでした。

まだ時間に余裕がありましたので、知床斜里駅を釧路方面に出て90度方向を変える釧網線沿いの砂利道を走り、17:35青々とした野菜畑を前景に斜里岳の麓を行く4739Dを撮りましたが、晴天なら素晴らしい光景だったでしょうね。必ずリベンジします。

北浜駅までは約30km、18時過ぎには北浜駅に到着しました。今日の宿泊は、昨年10月にお世話になった湧網線卯原内駅交通公園スハ47-508を電話予約しました。今回は同宿者がおられるそうで、19:30までは待ちますがそれ以降なら明日9:00にお支払をお願いしますと、管理されておられる喫茶店のマスターのお返事でした。

北浜駅で18:33発の4740Dを撮影後に向かう予定でしたが、駅舎内の軽食&喫茶「停車場」で、夕食を済ましてからに決めました。が、ここで話し好きなママに捕まってしまいました。カメラ撮りも得意なようでこの時間にこの場所で撮るのが雰囲気が出て1番と、我々のカメラを持ってバシャバシャと写してくださいました。話が弾んで、20:05発4745Dを撮るまでいました。

北浜駅での鉄道写真は撮りましたが、ピントが甘くお見せできる仕上がりではありませんでした。どうも愛用カメラを使いこなせていません。Nikonお客様窓口へ電話をしてアドバイスを求めましたら、丁度鉄道写真を撮っていらっしゃる担当者が応対してくださいました。原因は列車のライトがAF機能に影響するようです。3Dトラッキング機能にセッティングすれば防止できる等々、いろいろと対策を教えていただきましたが、最善の策は鉄道写真家の山崎友也氏が言われているように①カメラを三脚に固定しAF機能を解除する。②液晶モニターをライブビュー撮影設定にする。③画面を拡大してピンをあわせて、列車がその位置を通過する時にシャッターを押す。といったほぼ完全マニュアルで撮影することで問題は解決すると言います。

聞けば当たり前のことですが、ライブビュー設定をして拡大してピントを合わすのは、デジタル一眼なればこその技です。ただこれでは、連写や撮影地点前後のショットはボケピンになります。三脚使用もやりたくありません。狙っている列車の通過地点より前後に予想だにしなかった良いショットが撮れる事があります。

確実な一発勝負にこだわるか、連写を生かして意外性も期待するかの選択です。勿論後者は、AF機能が付いていなかった以前のカメラと同様なカメラマンの腕前が要求されます。老眼になって暗いシーンは苦手となった老体には厳しい要求です。どちらを選ぶかは難しい選択です。皆様でしたら、どちらを選択されますでしょうか? それとももっと良い方法はあるのでしょうか?

北浜駅を出発後の卯原内駅への途中で、総本家さんが新婚旅行に泊まられた網走湖畔荘の温泉に入浴後、同宿者の方には迷惑な到着時間になりましたが22:00近くに着きました。  Part8   へ続く

初夏の北海道 余話-3-

最後の運炭鉄道

今回の北海道行きの楽しみの一つに、釧路の太平洋石炭販売輸送の訪問がありました。日本最後の炭鉱、釧路コールマインの運炭部門として、採炭地の春採から、積出港の知人までの4.0kmを結んでいます。ただ、JR線と連絡しない自社線完結の路線とあっては、今まで訪れる機会もありませんでした。
ぶんしゅう号で釧路市内へ入り、地図と見比べながら行っても目的地が分からず、ぶんしゅうさんに叱咤されながら、ようやく機関区のある春採駅にたどり着きました。
ぶんしゅうさんのレポートと重複しますが、車両を中心に報告します。

この鉄道は、大正14年に釧路臨港鉄道として春採~知人間が開業。釧路川の左岸で路線を延伸し、石炭・一般貨物だけでなく、旅客営業も行なっていた。内燃動車も導入されたが、昭和38年に旅客営業を廃止、昭和54年には太平洋石炭販売輸送に吸収され、石炭輸送の専業となった。
釧路市沖の太平洋の海底から採炭していた太平洋炭鉱は、平成14年に採炭を中止し、以降の事業は釧路コールマンに継承されるが、事業規模は大幅に縮小された。写真は、機関区のある春採駅の全景、背後にある丘の上から太平洋の海底に向けて坑道が伸びている。以前は、この丘の上に、610mm軌間の専用線があり、三笠鉄道記念館に保存されているヒョロ長い電機が使われていた。

春採駅に待機している編成がシャトルトレインだ。DLが前後に付くプッシュプルとなって連接式の石炭車を牽引する。最盛期は機回しの時間もないぐらい忙しくて編み出された運転手段だろうが、大幅に事業が縮小された現在では、意味を成していない。事実、訪問した日も、午前の1便だけで当日の列車は終了しており、念のためと思って再訪問した翌日も同様であった。

シャトルトレインの先頭に立つのがDE601、日本ではたいへん珍しくなった電気式のディーゼル機関車。片運転台式で車体の背の高い日本離れしたデザイン、それもそのはず、GE社製のライセンスで日本車輌により製造された。ライトブルーに黄色のライン、”ShuttleTrain”と書かれた英文字も実によく効いている。DEとは言うものの、軸配置はB-Bであり、Eは電気式を指すようだ。

D401 昭和39年製で、車体はDD13後期型と同じだが、珍しいロッド式。赤白く塗られたロッドはよく目立つ。予備機扱いのようだが、訪れた日は、ロッドの音が響かせながら入換に励んでいた。ぶんしゅうさんが尋ねられていたボンネット部にある覆いは、石炭積込時にホッパーから漏れてくる選鉱液がファンの中に入り込まないようにする覆いとのことだ。

D701 昭和52年製、日本車輌の私鉄向けDD型で、DD13と類似している。軸バネ台車が特徴。防寒のためボンネット端部が密閉式になっている。通常は、シャトルトレインの春採側に付く。


D801 元は雄別鉄道YD1301で、昭和41年製。雄別鉄道の廃止後、釧路開発埠頭のKD1301となり、ここも廃止となって平成12年に入線、D801とした。

廃車のD101 昭和33年製で、北海道としては初の大型DL。ロッド式の台車が特徴、DD13と似ているが、細部は異なる。前照灯は1灯だったが、2灯に改造された。10年以上前に廃車となったが、錆びを浮かべながらも、留置されていた。

連接式の石炭車セキ6000 昭和41年から製造され14組28両ある。現役の貨車としてはわが国唯一の連接式。機関車からの遠隔操作により、側扉開閉、連結解放を行う。

春採駅の奥にある石炭ホッパー。海底から採掘された石炭は選炭のうえ、ここで石炭車に積み込まれる。ただ現状は、海外からの採炭技術者の研修を兼ねた採炭を細々と続けている程度に過ぎず、行く末が心配されている。

北の大地へ2010年初夏編 Part6 根室本線

第7日目 2010年6月30日
① 厚岸6:47(快速「はなさき」3625D)→8:13根室
② 根室8:22(5628D)→9:49厚岸

昨夜からの小雨が続く朝を迎えました。起きて直ぐにTVをつけて、昨夜のワールドカップの結果を聞きました。結果はご存知の通りですが、もし見ていたら興奮して寝られなかったでしょうね。
友は「天候に恵まれない雨の日こそ、めったに見られない光景を写せるチャンスがある。」と、有名な鉄道カメラマンの言葉を言いますが、小雨に加えて霧も出れば、白い世界しか写らない。どうしたらいいんだと言いたくなります。しかし行動を起こさないと、チャンスは生まれてきません。他のオートキャンパー達が眠る道の駅「厚岸グルパーク」を出発して厚岸駅に向かいました。
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北の大地へ2010年初夏編 Part5 根室本線、太平洋石炭販売輸送㈱臨港線

第6日目 2010年6月29日
朝起きると、「道の駅しほろ」の駐車場は、車で寝泊りしながら道内を観光する全国各地からの車が数多くありました。立派なキャンピングカーもあれば、小型車で簡単な窓隠しをしただけの車もあり様々です。その方々のご年齢層は、私達より高く70歳前後以上です。男性一人の方もおられれば、ご夫婦もおられます。どなたも約1ヶ月かそれ以上をかけて、ゆっくりと道内を見て回ると言っておられました。ようやく日本も、退職後の余暇を楽しむ方が増えだしたなあと感じました。
6:00、ゆっくりと朝食準備されている方々を見ながら、我々は早朝からの撮影に出発です。

6:50池田駅着。1番ホームに新得行きキハ40-1723、2番ホームには、浦幌行きキハ40-1774、芽室行きキハ40-722+キハ40-1778+キハ40-751が縦列で停車中。

▲ 7:31豊頃駅を通過して、池田方面に向かう特急「スーパーおおぞら2号」を73号線の高架橋から撮影しました。

7:50新吉野駅着。ここで、先行する2523D新吉野駅で追いつきました。

8:00浦幌駅着。帯広~浦幌の区間列車が走るだけに駅周辺は、住宅街です。きっと池田や帯広に通勤通学客があるのでしょう。


次の上厚内駅は、木造駅舎ですので、じっくり訪ねることにしました。国道側に駅舎はなく反対側です。行き過ぎてから踏切を渡ろうとすると、良い感じのカーブとなっています。丁度釧路からの特急「スーパーおおぞら4号」が通過する時刻です。振子式を撮るにはカーブが1番です。1つ邪魔なハエタタキがありましたが、まずまずでした。

8:26上厚内駅着。待合室にFRP製椅子が設置されていますが、ドアや窓もアルミ製ではなく、外観は純木造駅舎です。この後もぶんしゅう7号での各駅停車の旅は続きます。


上厚内
からの道路はJR線と分かれたので、直別駅まで行ってしまいましたが、手前で逆Ⅴ字形に折り返して、厚内駅へと海岸沿いをロケハンしながら向かいました。

丘陵が海岸近くまでせり出して、わずかな間に根室本線と側道が走っています。丘陵上から海岸線を入れて撮りたいのですが、土砂崩れ防止コンクリート壁が設置されているので、これが邪魔です。また電柱・太い電線もあります。邪魔物がなく丘陵が途切れる間を見つけては止まって、撮影可能か確認しますが、なかなか条件が揃った場所はありません。
それでも1ケ所、何とか撮れそうな場所が見つかりましたが、たどり着ける道がありません。こうなれば、2人で道を開拓するしかありません。庭バサミを取り出して、線路を横切り丘陵の多い雑草を刈り取りながら道を作り、滑りやすい斜面を上へと登って行きます。二人いたからこその作業です。一人ですと、途中で滑り落ちて動けなくなったら最後、誰にも見えず分らずで天国行きです。
約30分をかけての作業で適当な撮影地にたどり着きましたが、快晴でなく水平線が見えません。しかし雨が降らなかっただけでも良かったと、列車を待ちました。
10:14釧路行きの特急「スーパーおおぞら1号」が通過。

アングルに収めきれない通常より1両多いありがたくない8両編成です。

約30分後に貨物列車が追走してきます。音別~古瀬間に絶景ポイントがあるので移動しようと向かいました。途中の尺別駅は、かつて尺別鉄道の起点駅なので立ち寄ってみました。約40年前は数千人が居住していた駅周辺は、廃屋が数軒あるのみで、跡は自然へと戻っていました。駅構内もC12形機が往来したヤードの面影は、全くありませんでした。

絶景ポイントに到着しましたが、手前の音別駅で交換のため約40分間停車するのを忘れていました。急いで引き返しましたが、貨物列車が来てしまいました。ベテラン二人がいても、疲れていると考えられないミスをしてしまいます。

11:04音別駅着。駅員の方が、丁寧に交換する列車と時刻を教えてくださりました。ありがとうございます。
音別駅で2093コンテナ貨物列車は、入換作業をします。久しぶりに途中駅での作業を見ました。約半分のコンテナ車を切り離して、留置貨物線に牽引します。音別駅近くには、Kioskで販売されるオロナミンCの製造工場があって、この輸送のための停車だったようです。



入換光景を撮影後、音別~古瀬間の丘陵地帯へと戻り、まず釧路行きの特急「スーパーおおぞら8号」を待ち受けます。次に音別駅で交換した2093貨物列車を待ちました。
12:05キハ40系2連の2525Dを撮影後は霧がたちこめてきて、撮影不可能となりました。


自然には勝てません。撮影は諦めて釧路へと走り釧路運輸車両所に立ち寄りますと、国鉄色キハ183系4両編成が留置されていました。これには、総本家さん大喜び、他に休車等の留置車両多しで予定を変えて撮影会としました。



今回の訪問希望地の1つだった太平洋石炭販売輸送㈱臨港線には、14:40着。事務所によってダイヤを聞くと、残念ながら今日の運行は終わっていました。運行は、当日の採炭量によって決まるとかで、石炭輸送専用ですので炭鉱トロッコと同様扱いです。撮影許可を取って、構内のDL・石炭車を撮りましたが、総本家さんGE製DE601の美形にうっとりです。私は、初めて見る連接式の石炭車セキ6000形にびっくりです。走っているシーンが撮りたかったですが、次回にしました。


▲ 他にも珍しいロッド駆動式のD401機等の凸形機がありました。D701機を除いての現役機のラジエーターファンの上に屋根が付いていますが、なぜでしょうか?

今日の宿営地は道の駅「厚岸グルメパーク」です。ここからは、約50kmで楽勝と思っていたら、途中でナビにない新しい道を走ってしまい迷走です。結局、元来た道に戻らざるをえなくなって、大幅に遅れ16:15門静駅に到着しました。ホームの先から海が見えました。少し戻って、山間のオーバークロスで撮ろうとの提案がありましたが、先を見てから決めようと向かいましたら大正解でした。海岸沿いに広がる厚岸の町並みをバックに線路があります。小高い丘をまた二人三脚で道を開拓して、見渡せる撮影場所を造りました。

私が最も好きな光景です。16:32釧路行き5638D17:14室行きの5637Dの2本撮った後は、順光で夕陽もさしてきました。本命の17:325640D撮影を楽しみにしていましたら、直前に突然ご覧のような雲が下りてきました。

宿営地は道の駅「厚岸グルメパーク」には温泉がないので、電話をして近場の温泉を聞きましたが、1時間以上行かないとないそうです。代わりに厚岸には1軒しかないという銭湯を紹介してもらいました。十勝沖地震以前は町内に4軒あったそうですが、ここを残すのみだそうです。中は番台におばちゃまが座って、常連の入浴客と話している昔の銭湯光景で、レトロなお湯を楽しめました。

夕食は勿論、厚岸の牡蠣料理を「厚岸グルメパーク」内で堪能しました。ワールドカップの決勝トーナメントパラグアイ戦の放映がありましたので、車内観戦できるように準備万端しましたが、高台なのに地デジもワンセグも映りません。帰宅間際の道に駅の事務員さんに聞きましたら、この位置ならアナログは入ると言われ、秘密の場所を教えてもらい移動しましたが、放映直前に眠気がおそってきて諦めました。
 Part6 へ続く

こんなんあるでぇ!シリーズ

【9057】北の大地へ2010年初夏編 Part4 富良野線、狩勝峠のなかの狩勝峠で、特派員氏とぶんしゅう氏が旧線を探しておられるのを見て手元の古い資料を探してみた。須磨の大人風に言うと「またぶんしゅう氏の挑発に乗った」ということになる。

撮影はいずれも昭和40年8月、早朝の信号所からクマザサをかき分けながら登ること3時間、頂上(らしいところ)に到着したが深い霧で足下もおぼつかないほど。待つこと一時間、その間ドラフト音は聞こえるのに見えないのがつらかった。するとアッというまに霧が晴れた。そこで見たのはこの世とも思えぬ大眺望!いまでも人生最高の眺めであったと確信している。

さて、ぶんしゅう氏と特派員氏が見たのもこの眺望だろう。見比べてみていただきたい。

新緑の北海道 余話-2-

懐かしい車両と出会う

北海道には、国私鉄の廃止後に造られた鉄道博物館・資料館が数多くあり、ぶんしゅうさんが紹介された三笠鉄道記念館はその代表です。幌内線の廃止後、三笠駅跡と幌内駅跡の2ヵ所に造られた、ゆかりの車輌が50両近く保存される、全国でも最大規模の鉄道博物館です。
北海道ではその後も多くの保存車両に接することになるのですが、そのいずれも、定期的な塗り替えなどのメンテナンスが行われ、野外展示でもたいへん美しい姿で保存されています。保守に携わる関係者の熱意には心打たれました。

ここに鉄道記念館が造られた理由を、よく理解しないまま訪れたのですが、北海道で初めての鉄道である幌内鉄道が開通したのが、1882年の手宮~札幌~幌内間で、おもに幌内で発見された良質の石炭を小樽・手宮港へ運び出すのが主目的でした。廃止前の幌内線は、岩見沢から三笠を経て幾春別までと、三笠から分岐して幌内まで、計20キロ余りのローカル線に過ぎませんでしたが、元を正せば、札幌・小樽へ通じる、明治の幹線でした。三笠鉄道記念館は、言わば北海道鉄道発祥の地にある、由緒正しき鉄道資料館と言えるでしょう。
保存車両を見ていると、ぶんしゅうさんから「このDD51、御召を牽いている」と聞かせてもらいました。説明板を見ると、展示のDD51548は確かに昭和43年に御召牽引と書いてあり、その時にも撮っていたことを思い出しました。他も見ていくと、現役時代にも撮っていた車両があり、思わず40年前にワープしていました。

旧三笠駅跡にある、クロフォード公園と呼ばれる一番目の保存場所に置かれたDD51548。ここには、三笠駅の旧称である幌内太駅を模した駅構内が復元されている。その中に貨車を牽くDD51548が置かれている。ホームや跨線橋も復元され、現役時代を髣髴させている。

以前の掲示板でも記したが、DD51548は昭和43年9月、開道100周年に際して、千歳線・函館本線・石北本線で御召列車を牽いている。写真は旭川四条~新旭川間で旭川発上川行の御召を牽くDD51548。真夏のような陽射しの中、ロギング太郎さんと一緒に撮りに行ったことを覚えている。
この頃、北海道ではDD51が釧路・旭川区に配置され始め、次第に蒸機を駆逐して行った。同機は、言わば北海道のDD51の生え抜きでもあり、御召牽引の実績とともに、保存にふさわしい車両であろう。

2番目の会場である幌内駅跡には、多くの保存車両があり、その大部分は野外だが、一部は庫の中に保存されている。そこにいたのが、北海道最初の電気機関車のうちの1両、ED76505である。腐食もなく、美しい姿で保存され、運転室への立ち入りもできる

北海道の鉄道で、初めての電化区間は、昭和43年8月に開業した小樽~滝川間であった。電車は711系、電機はED76 500番台がいずれも新造された。写真は、電化直後、まだ地上時代の札幌駅で421列車を牽くED76505だ。421列車は函館発釧路行の普通列車で、延々680キロを通す普通列車として、その当時も名を馳せていた。

北の大地へ2010年初夏編 Part4 富良野線、狩勝峠

第5日目 2010年6月28日
ペンションは、「ほしの灯屋」のオーナーは、奥さんの事故後遺症治療のために、効能良い温泉を探しペンションを始められただけあって、ご自慢の源泉かけ流しの湯は、疲れ限界に達した我々には最高でした。昨夜寝る前、朝も入って、元気になりました。

宿泊客は、香港から来られた親子連れもいらっしゃいまして、5組9名でした。山や動物写真を撮っておられる猟友会の方々もおられ、今年は雪が多く餌不足で、熊やエゾシカが人里に下りてきている。遭遇する可能性が高いので気をつけるように、熊は嗅覚聴覚が人間の数10倍以上優れているので、声や鈴で音を出していれば遠ざかってくれるが、偶然出会いがしらに会った場合は一撃でやられる。そんな時は身の回りのものを置きながら熊の興味を引き付け、ゆっくりと離れる事。約50m外が安全ラインなので、越えたら一目散に逃げるようにしなさい。
エゾシカはグループで行動する。1頭が道路を横断した時は、避けられたと安心してはいけない。鹿は必ず2、3頭目が続いてくる。皆これと衝突する。衝突すれば被害は甚大で車が大破する。暗くなると行動が密になるので我々は、夜は絶対に走らない。とアドバイスを受けました。

夕刻の撮影が好きな我々です。そのため撮影後、夕闇の中を走る機会が日常的です。聞いた途端に夜の走行は止めなければと思いました。
お薦めします温泉ペンションは、白金温泉「ほしの灯屋」です。
http://www9.plala.or.jp/hoshinoakariya/

朝食をゆっくりとって、遅めに出発しました。9:20上富良野駅着
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北の大地へ2010年初夏編 Part3 三菱美唄鉄道、三笠鉄道記念館

第4日目 2010年6月27日
昨夜は「道の駅三笠」に到着後、隣接する超大型スーパーで食材のお買い物をして、出発時の舞鶴港同様にテーブルをひろげてのアウトドアの夕食をゆっくり楽しみました。私は、家族や友人達とアウトドアを楽しんでいましたので、慣れたベテランですが、総本家さんは学生時代DRFC合宿以来です。抵抗があるかなと思いましたが、旅行慣れでこだわりなくよく食べておられましたので安心していました。

食事後に入浴されるのが習慣だと、隣接する温泉に行かれましたが、20:30で入館は終わっていて、入浴料も1500円と高かったとがっくりとして帰られてきました。温泉施設は全国各地に行っていますが、20:30が入館最終時間と聞くのは初めてです。1500円という入浴料も、超有名旅館の日帰り入浴並みです。道内は500円が相場です。我々の一日当たりの食費に匹敵する高さです。

昨日は、真夏日だったので、洗面所で汗を拭くだけでは不快だったと思います。加えて高速・主要道そばでの連泊ですので熟睡できなかったと、見ていてもハッキリと分かる程、身体全体に疲労が充満しています。私も移動距離が長いので運転疲れで限界です。今夜は安い温泉宿をとって、早めにゆっくりすることにしました。撮影地は、富良野線ですので、白金温泉の露天風呂付きのペンションを早め予約しました。

朝からは、静態保存の4110形蒸機を見学予定でしたが、10:00開園となっていたのでそれまでの間に、函館本線を走行する多彩な列車を撮影する事にしました。美唄までの約15kmが候補地ですが、決まった場所はありません。
▲ 9:09、峰延→光珠内 大人気のキハ183系0台4両編成の特急「旭山動物園号」。今日は、なぜかチンパンジー号が連結されていない。
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北の大地へ2010年初夏編Part2 旧白滝駅・丸瀬布森林鉄道

第3日目 2010年6月26日
昨夜は小樽港到着後すぐに札樽自動車道、札幌から道央自動車道を眠気感じる砂川SAまで走り、宿泊しました。

5:00前に起床、すでに太陽は内地と比べると、はるかに高く上がっています。SAも内地と違って、大きなキャンピングトレラーや普通乗用車も多数泊まっていました。ここから北の大地1番目の撮影地石北本線白滝付近までは、約2時間の所要時間です。

▲ 7:05、「村名”白滝”発祥の地」記念碑前に到着。白滝を見下ろす高台が、湧別川沿いに走る石北本線撮影地です。
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初夏の北海道 余話-1-

旧白滝を訪ねる

待望の連載”ぶんしゅう旅日記 初夏・北海道編”、今回は、当特派員も同行させていただいての二人旅となりました。特派員にとっての北海道は、社会人時代に観光や仕事で行ったことはあるものの、鉄道写真の撮影となると、実に学生時代以来、約40年ぶりとなりました。
それだけに、見るもの、写すもの、すべてが新鮮で驚きの連続でした。詳細な旅行記は、今後もぶんしゅうさんが記されますので、当特派員は、印象に残った事象を採り上げ、昔話も交えながら綴っていくこととしました。
北海道へ上陸して、まず向かったのは、丸瀬布の「いこいの森」ですが、開場前の時間を利用して石北本線旧白滝を訪れました。この駅の存在が、以前から気掛かりで、この眼でまず確認しておきたかったのです。


この世に”新”を冠する駅名はゴマンとあるが、”旧”が付くのは、ここ旧白滝だけだ。しかも、石北本線には、奥白滝、上白滝、白滝、旧白滝、下白滝と”白滝”の付く駅のオンパレード(奥白滝はのちに廃止)。
この謎は
、現場へ行ってみて氷解した。もともとこの地域、地名すらないような人跡未踏の地であった。地域を流れる湧別川に大きな滝があり、飛瀑で付近は白く見え、いつしか”白滝”が地名となり、村名も白滝になったという。事実、石北本線の撮影名所地になっている旧白滝~下白滝間には、「白滝発祥の地」の碑があり、この由来を説明している。

旧白滝は、この地域で真っ先に入植が行われ、のちに集落の中心が現在の白滝へ移ったため、その後に建設された石北本線の駅名には「旧白滝」の名が採用されたようだ。駅への昇格は1987年のことで、それまでは乗降場扱いであった。駅はホーム一面の棒線駅で、典型的な北海道の無人駅スタイルだ。もっと山深いところかと想像したが、意外に開けたところに駅は所在し、国道からも容易にアプローチできる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もうひとつ、旧白滝を有名にしたのは、発着本数の少なさだ。上りこそ午後に3本あるものの、下りに至っては7時16分発の1本のみ。始発列車が終列車と揶揄されたものだ。どうしてこのような偏った列車ダイヤになったのか。おそらく1人か2人はいたはずの通学生の利便を考えたものだろう。朝に丸瀬布・遠軽方面への列車を停車させ、午後は選択できるように3本設定している。この需要以外にこの駅での乗降客は考えられず、それ以外の普通列車はすべて通過扱いだ。 

待合室をのぞいて見ると、他の駅にも見られる備え付けのノートが一冊置かれていた。それを見ると”秘境駅”にも認定されたこの駅には、毎日のように訪問者がいるようだ。「いこいの森」で撮影の後、16時53分発の上り旭川行きを迎えた。ホームには旅行者が一名待っていた。彼は約3時間前の上り列車で来たのだろうか。キハ40の2両編成が、35度を超す暑い空に、紫煙を上げて、まっすぐな線路に消えて行った。

 

餘部橋梁 塗装塗替の頃

去る、平成17年8月30日餘部駅を訪れた処、運良く(?)塗り替え工事中でした。それまでは列車撮影ばかりに気になっておりましたが、塗装作業を目の当たりにしますと橋梁の構造に大いに興味が引かれ、その鉄組等備に見るに付け先人の知恵と苦労に敬意を払わざるを得ません。

架橋工事から既に100年の月日が経って、足下に及ぶ風雪によく耐えたものと感傷に浸っておりました。ご覧のように腐食が甚だしい部分も散見せられます。

完成イメージ図も発表せられておりますが、私のような世代にとって鉄橋の記憶が強すぎて馴染むのは何時のことになりますやら。

帰りは「快速 あまるべロマン号」普通のキハ47 2+キハ47 15 編成でした。残念。
草生した餘部駅は、混凝土に覆われた駅になるのでしょうか。

ライブカメラ
http://www.town.mikata-kami.lg.jp/www/contents/1270077904503/

北の大地へ2010年初夏編 Part1 行きがけの駄賃

第1・2日目 2010年6月24・25日
①舞鶴港0:30(新日本海フェリー)→20:45小樽港

2009年10月の紅葉前線を追いかけての北の大地は、道南以外は既に紅葉は終わった後で、初冬を迎えていました。道内各地の鉄道資料館等は殆どが冬季閉鎖で見る事ができず、初雪に追われるように引き上げざるをえなかった悔しい思いをしました。
次回にリベンジを誓ったので、今年は本土が梅雨に入る頃に梅雨のない北の大地へ訪問するのが一番と思いました。今回もぶんしゅう7号を相棒に一人旅予定でしたが、最近一人旅ゆえの撮影列車時刻の見過ごし等のミスが発生してきて、確認のためにも相棒が欲しくなっていました。

近くにDRFC-OBの総本家 青信号特派員さんがおられます。ただ、鉄道写真は鉄道で移動しながら撮る事を信条とされておられますので、お誘いするのは難しいかなと思っていましたが、昨今のローカル線は勿論幹線でも列車本数が激減して、撮りたい列車が移動に乗車するため撮れないとの現実に直面しておられました。同行の打診をいたしましたところ、車で宿泊移動する長旅は未経験だが、約40年ぶりとなる北の大地を見るのは良いなあとなりました。 続きを読む

東野鉄道キハ20の模型によせて

DRFC関東連絡網で犬伏氏が東野鉄道キハ20の模型を披露されたが、実物の資料が少ない中で、よく完成されたと思う。

東野鉄道は大正7年4月17日西那須野~黒羽間13.1キロを開業し、大正13年12月6日黒羽~那須小川間11.3キロを開業、更には水郡線の常陸大子まで延長する計画であったが、この区間は当初から乗客が少なく昭和14年6月1日に早々と廃止された。昭和43年12月6日西那須野~黒羽間を廃止し、社名を「東野交通」に改めた。宇都宮市と周辺地域を結ぶ路線を主体に、黒磯駅・那須塩原駅と那須温泉等を結ぶバス路線を運行しているが、ご多分に洩れずマイカーの増加により廃止された路線も多い。鉄道を利用すると大幅に迂回となる宇都宮~真岡・宇都宮~益子間と観光地を走る黒磯~那須温泉・那須岳ロープウェイ、黒磯~板室温泉等は比較的乗客が多いが、かつて頻繁に運行されていた宇都宮~烏山間、宇都宮~大田原間は廃止されている。鉄道の代替路線とも言うべき西那須野~黒羽間は1日7往復運行されている。また、那須山麓駅と那須頂上駅間を結ぶ全長812mのロープウェイを経営している。那須山麓駅は那須岳(茶臼岳)の7合目で、バスはここまで上がってくる。那須山頂駅は9合目に位置し、標高1915mの頂上までは足場の悪い登山道を1時間弱登らなければならない。山頂付近では今も盛んに蒸気と火山ガスが上がっており、活火山の様子を目の当たりに実感できるので、訪れる機会があれば是非山頂まで足を運んでいただきたい。

東野鉄道は現役時代昭和42年3月25日に1度だけ訪れており、その時撮影した画像をお目にかけたい。犬伏氏が製作されたキハ20はエンジンを降ろしてトレーラー化されハ31となっていた。東京に来てからは5度ばかり廃線跡を訪ねている。かつての黒羽駅舎はバスの事務所として使用され、室内には鉄道時代の写真が何枚か飾られていたが、今は取り壊されてスーパーマーケットが建てられている。

DC202

昭和36年5月津軽鉄道から譲り受けた昭和27年4月新潟鉄工所製の箱型機関車である。割に有名な機関車で模型での製品化もされている。僚機のDC201も昭和39年に東野入りし、2両が交替で貨物列車を牽引していた。

 

キハ501

昭和11年新潟鉄工所製で、ご覧のようにキハ41000形にキハ42000形の顔を取り付けたスタイルをしており、こちらも割合有名な車両である。JR五日市線の前身五日市鉄道キハ500形キハ501として誕生した車両である。五日市鉄道は昭和15年10月3日JR南武線の前身南武鉄道と合併、昭和19年4月1日戦時買収で国有化され、鉄道省五日市線となったが、所有者が代わっても改番されることなく一環してキハ501を名乗った。昭和24年9月に廃車後、東野鉄道に売却され、鉄道廃止まで活躍した。

 

五日市鉄道キハ500形のもう1両のキハ502は、昭和22年1月に廃車されたが、茨城交通に売却され、茨城線(赤塚~御前山間)で使用され、昭和46年2月11日同線の廃止により廃車となった。こちらは茨城交通売却後、称号が「キハ」が「ケハ」(ケは軽油の意味)となったが車号は一環して502を名乗っていた。

【参考】茨城交通茨城線ケハ502 上水戸(昭和45年3月14日)

 

キハ502

元国鉄キハ41008が前身、昭和8年日本車輛製。昭和24年9月国鉄時代に房総東線(現外房線)勝浦での事故による廃車後入線した。廃止後茨城交通に売却され、ケハ46となったが、昭和46年にエンジンを降ろしてハフ46となり、昭和55年に廃車となった。

【参考】茨城交通湊線ケハ46 那珂湊(昭和45年3月14日)

 

キハ503

元国鉄キハ048が前身、昭和8年新潟鐵工所製。キハ41020→キハ41202→キハ41302→キハ048と改番、昭和33年2月10日桐生区で廃車後入線した。

 

ハ30

元常総鉄道キハ13が前身、昭和5年日本車輛製で車体は極めて頑丈に作られていた。小さすぎて使い物にならなかったためか、早くも4年後に廃車となり東野鉄道に入線した。昭和23年にエンジンを下ろして客車化されハ30となった。

 

ハ31

犬伏氏が作られたキハ20の客車化後の姿である。昭和11年日本車輛でキハ20として新製。昭和39年にエンジンを下ろしてハ31となった。

 

ハ32・33

昭和4年日本車輛でキハ10・11として新製。昭和39年にエンジンを下ろしてハ32・ハ33となった。

 

今も残る大田原~中田原間のトンネル(平成3年12月1日)

 

黒羽駅跡に駐車中の鉄道代替バス 元神奈中(平成3年12月1日)