【8843】新潟交通モハ11(「電車は1両もええ」によせて)

準特急様が「電車は1両もええ」のタイトルで貴重な画像とともに書き込みされておられるが、能勢電、阪神武庫川線は非常に懐かしく思った。昭和40年台前半の能勢電といえば、直接制御2個モーターの路面電車に毛が生えたような電車の単行か、P-4・P-5一族の2連がポールを振りかざして走っており、梅田直通特急が走る今日の姿からは想像もできない世界である。

京王競馬場線の単行の画像を見るのは初めてで、当時関東大手私鉄での単行運転は唯一のものではないだろうか。

私自身の単行の思い出は、京阪沿線の学校に通学していた頃に乗車した近鉄京都線から京阪に乗り入れていたモ430形で、近鉄線内では単行でも充分であったのだろうが、丹波橋から先の京阪線内では、土曜日の午後ともなると通学生や四条方面への買い物客で超満員となり、迷惑乗入れ以外の何者でもないと思った。

「廃止寸前のローカル私鉄」として蒲原鉄道モハ71と新潟交通モハ11を紹介されておられるが、幸いなことに両車とも廃止後も大切に保存されている。蒲原鉄道モハ71は個人の方が元国鉄キハ41120のクハ10と共に村松駅近くの敷地に屋根付きで保存、新潟交通モハ11はモワ51、ラッセル車キ116と共に新潟市(保存当初は月潟村であったが合併により新潟市となった)により旧月潟駅構内に保存されている。屋根は付いていないが、冬季はブルーシートが掛けられ「かぼちゃ電車保存会」の皆様により定期的にメンテナンスが実施されており、良好な状態が保たれている。駅構内には架線が張られており、運転士が来てノッチを入れれば今にも動き出しそうな雰囲気である。車内には資料等が保存されているが、年に1~2回開催される一般公開時以外は立入できない。

今回は保存状況と過去の姿を報告したい。

 

モハ11+モワ51+キ116の3両が連結された状態で保存されており、欲を言えばモハ11とモワ51の間の連結器を切離し、間隔を空けて停めて欲しいところであるが、それは贅沢というもの。定期的にメンテナンスが実施されながら大切に保存されているだけでも感謝しなければならない。

以下、保存車両について簡単に解説する。

モハ11

営業開始に伴い昭和8年3月日本車輛で11~14の4両が新製され、昭和10年に15が増備された。13m級の小型車両であったが、昭和38年から44年にかけて現在の17m級の大型車体に乗せ換えられた。11は昭和41年12月、12は43年12月、13は42年12月(モハ20形21に形式変更)、14は38年12月、15は昭和44年12月(新造名義でモハ24形25に形式変更)に実施されている。

 

モハ11+クハ40 (昭和43年8月30日) 県庁前

【参考】クハ40

気になる後部のクハ40は、元東武のデハ2形9(大正14年日本車輌製)が前身である。昭和23年5月東武鉄道よりモハ63形割当による供出車として転入しモハ18となった。昭和42年に電装解除してクハ40となり、更に昭和45年に元小田急デハ1411の車体と乗せ換えてクハ50となった。

車体乗せ換え前のモハ11の良い写真がないので同形のモハ12で代用する。

 

モハ12+クハ33 (昭和43年8月30日) 燕

【参考】クハ33

後部のクハ33は、元神中鉄道のキハ31(昭和11年日本車輌製)が前身で昭和18年に転入した。昭和39年頃、台車を気動車用アーチバー台車から電車用のTR23類似台車に履き替えた。(当時のRF誌に台車取替えの記事が掲載されていたので、お持ちの方はご確認いただきたい)

 

モワ51

開業時、昭和8年に日本車輌で作られた電動貨車で、昭和57年7月貨物営業を廃止するまでは、冬季のラッセル車の推進の他に機関車代用として貨車を牽引していた。

(昭和43年8月30日) 東関屋

キ116

昭和7年大宮工場製で昭和43年に入線した。運転台にはマスコンが取り付けられ、モワ51と連結した時に制御車として機能するようになっていたので正しくは「クキ」と称するべきであろう。   

本来であれば全部の車両ガイドをするべき処であるが、今回は時間の関係上ここまでにして、続きは後日ということにさせていただきたい。

【参考】当時新潟市内でよく見られたキャブオーバーのバス

(昭和43年8月30日) 県庁前


【8842】御免なさい【8833】の訂正

モ161号乗車希望の方、浜寺駅前集合時間は14時55分です。ボケがまわった老人は1時間間違えました。7月3日14時55分に老人は阪堺線乗り場でお待ちしております。乗車希望者多数の場合、尻押し役務める所存です。南海本線の高架工事が始まると、船尾ー浜寺駅前間が運休になりバス代替になると言われている事が気になります。路線廃止になっては大変!そんな思いもあり、浜寺に出向きます。懇親会では、堺市内における「チン電」の命運が話題になると思います。かって正月の「住吉例会」を提唱したものとして、「阪堺のチン電」から目が離されません。


【8834】佐世保鉄道→松浦線

#8780拙稿「ケコハ482」に関し、田野城喬氏からお尋ねがあった。佐世保軽便鉄道→佐世保鉄道→松浦線の経緯はややこしいが、詳細は臼井茂信「国鉄狭軌軽便線20~23」鉄道ファン285~293号をご覧戴きたい。一口に言えば1923年3月27日相浦-柚木間開業を皮切りに、1933年10月24日佐々-世知原間の岡本彦馬個人経営専用鉄道(13.4km)も併合した、軌間762mm、全長36.04kmの蒸気鉄道である。


佐世保鉄道時代 1935年2月5日東京日日新聞社発行全国鉄道図 佐世保から志佐の間が未成線表示になっている

九州鉄道が開業した佐世保線が佐世保に達したのは1898年だが、国鉄になっても、佐世保鉄道上佐世保とは相当の高低差があって接続していなかった。買収は1936年10月1日と早いのは、松浦炭坑の石炭輸送が主因だが、隘路の積み替え改善・戦時体制のため、762mm軌間は1943年以降1067mmに改軌が強行され、1945年2月24日完了。しかも佐世保市内の商店街をまたいで強引も強引な手法で佐世保に直結したのである。戦時中なればこそで、現在の松浦鉄道に乗車すれば体感する。


買収で国鉄松浦線に 1939年10月1日旅行案内社発行 佐世保や松浦線が赤点線で囲まれているのは要塞地帯であることを示し この中では撮影やスケッチは勿論 写真掲載すら特別許可が必要であった

改軌前の松浦線 1941年2月1日現在鉄道線路図(鉄道省運輸局)

すなわち国鉄軽便線であったのは、買収以来改軌完了までの10年未満だが、この間頭にケを付した軽便蒸機、客車、貨車が多数活躍したのである。因みに1935年度での佐世保鉄道車両数は、蒸機21両(運転整備重量合計257トン)、客車24両(定員合計1,158人)、有蓋貨車4両(積載重量合計16トン)、無蓋貨車263両(1,224トン)で、石炭輸送が主力であったことが分かる。

改軌で役目を失った車両は蒸機は若干が日本鉱業、赤穂鉄道に再起し、客貨車もいくらかが各地に散った。戦時中から工事を進め、開業が敗戦後になった日本鉱業(佐賀関鉄道)の車両は、大方が旧佐世保鉄道→松浦軽便線からの転進だったし、栗原鉄道、九十九里鉄道、藤相鉄道、中遠鉄道、浜松鉄道などにも客貨車が再起している。


【8833】阪堺モ161、誰でも乗れる貸切電車

東にEXILEなる知らない名前の電車が王道を走ったそうだが、西では来る7月3日(土)午後「阪堺のチン電」の名で親しまれている古典車を、路面電車同好会関西支部代表と庶務担当のコンビが借上げ、次の行程で走らせる。

出庫(我孫子道)14時30分頃。回送で浜寺駅前着15時頃。折り返し・貸切運転15時5分頃発車。我孫子道15時30分頃到着。車庫内で休憩。(写真撮影可能)我孫子道発車16時9分頃。貸切運転で天王寺駅に16時30分頃到着。折り返し、回送で16時37分頃発車。我孫子道17時頃生還予定。貸切運転は浜寺駅前→天王寺駅前間です。したがって乗車希望者は浜寺駅前で15時55分までに集合願います。乗車と共に貸切電車運転御奉賛代として一人2,000円を頂戴いたします。解散は天王寺駅前ですが、打ち上げ懇親会を17時30分頃から行います。会場は路面電車同好会関西支部ご用達の店である「大よし」です。場所は阪堺線今宮駅から北の歩道を東へ徒歩3分。パチンコ屋の地下の大料亭です。

関西には昭和3年製の吊り掛け駆動の電車がまだ残っています。161号はこのほど重要部検査が終わり台車も塗装替えされました。本来、エアコンのない161号は夏季には運転されませんが、窓を開け「緑の風」を浴びよう!」と貸し出しに成功しました。乗車ご希望の方は浜寺公園までお越し下さい。問い合わせは乙訓の老人まで御願いします。


【8824】イベント列車”EXILE山手線”

今日、5月27日日曜日、縁あって、イベント列車”EXILE山手線”なるものに乗車してまいりました。

大崎駅14時42分発、大崎着14時42分着の内回り山手線でしたが、集合受付は、13時過ぎ、既に大崎駅周辺には、EXILEファンが集結です。

EXILEのラッピングされた231系が大崎駅2番線に据え付けられ乗車。車内吊りをはじめとした、広告もEXILE一色です。

車内は、EXILEファンの女性(95%ぐらい女性でした。)。

みんな受付で渡された青色の法被姿です。

南アフリカで開催中のサッカーのサポーターにも負けないくらいの熱気です。

途中、徐行運転や池袋で停車したものの一時間で山手線を一周してまいりました。

池袋では、間違って、乗車できるものと思い、扉近くまで、来られる方もいらっしゃいました。

通過駅は、逆に加速して通過した駅もあり、不思議な一時間でした。

大役を終えた231系。大崎駅で回送を待ちます。表示は、団体のままです。

回送される231系。EXILEの全国ツアーの成功をお祈りします。


【8806】東野つながり

 

 藤本先生から東野鉄道の紹介がありました。その中で津軽鉄道から来たDC20に触れられ、模型化されているとの記述があります。どうした訳か当工房にその製品がありますので写真をご覧に入れます。この製品はエコーモデルから「津軽/東野 DC20型」と言うタイトルで発売された1/80 16.5mmゲージのバラキットです。10年近く前に組み立ててそのままになっていました。
 10.5mmダイキャスト輪心の動輪には床板に縦置きしたモーター軸からウオームギヤーで第2動輪に減速伝導した後第1第3動輪にはサイドロッドで伝導する方式です。タンク機関車同様、苦労する絶縁側の集電は3軸とも行われており、滑らかな走行に寄与しています。
 今回犬伏氏からキハ20完成の報があり、DC20の資料までお送りいただきました。その中で悩んでいた塗色についてDC201が津軽時代の明るい灰色のままだったと書かれているのでこれを採用することにし、梅雨明けを待って取りかかる予定です。


【8790】東野鉄道キハ20の模型によせて

DRFC関東連絡網で犬伏氏が東野鉄道キハ20の模型を披露されたが、実物の資料が少ない中で、よく完成されたと思う。

東野鉄道は大正7年4月17日西那須野~黒羽間13.1キロを開業し、大正13年12月6日黒羽~那須小川間11.3キロを開業、更には水郡線の常陸大子まで延長する計画であったが、この区間は当初から乗客が少なく昭和14年6月1日に早々と廃止された。昭和43年12月6日西那須野~黒羽間を廃止し、社名を「東野交通」に改めた。宇都宮市と周辺地域を結ぶ路線を主体に、黒磯駅・那須塩原駅と那須温泉等を結ぶバス路線を運行しているが、ご多分に洩れずマイカーの増加により廃止された路線も多い。鉄道を利用すると大幅に迂回となる宇都宮~真岡・宇都宮~益子間と観光地を走る黒磯~那須温泉・那須岳ロープウェイ、黒磯~板室温泉等は比較的乗客が多いが、かつて頻繁に運行されていた宇都宮~烏山間、宇都宮~大田原間は廃止されている。鉄道の代替路線とも言うべき西那須野~黒羽間は1日7往復運行されている。また、那須山麓駅と那須頂上駅間を結ぶ全長812mのロープウェイを経営している。那須山麓駅は那須岳(茶臼岳)の7合目で、バスはここまで上がってくる。那須山頂駅は9合目に位置し、標高1915mの頂上までは足場の悪い登山道を1時間弱登らなければならない。山頂付近では今も盛んに蒸気と火山ガスが上がっており、活火山の様子を目の当たりに実感できるので、訪れる機会があれば是非山頂まで足を運んでいただきたい。

東野鉄道は現役時代昭和42年3月25日に1度だけ訪れており、その時撮影した画像をお目にかけたい。犬伏氏が製作されたキハ20はエンジンを降ろしてトレーラー化されハ31となっていた。東京に来てからは5度ばかり廃線跡を訪ねている。かつての黒羽駅舎はバスの事務所として使用され、室内には鉄道時代の写真が何枚か飾られていたが、今は取り壊されてスーパーマーケットが建てられている。

DC202

昭和36年5月津軽鉄道から譲り受けた昭和27年4月新潟鉄工所製の箱型機関車である。割に有名な機関車で模型での製品化もされている。僚機のDC201も昭和39年に東野入りし、2両が交替で貨物列車を牽引していた。

 

キハ501

昭和11年新潟鉄工所製で、ご覧のようにキハ41000形にキハ42000形の顔を取り付けたスタイルをしており、こちらも割合有名な車両である。JR五日市線の前身五日市鉄道キハ500形キハ501として誕生した車両である。五日市鉄道は昭和15年10月3日JR南武線の前身南武鉄道と合併、昭和19年4月1日戦時買収で国有化され、鉄道省五日市線となったが、所有者が代わっても改番されることなく一環してキハ501を名乗った。昭和24年9月に廃車後、東野鉄道に売却され、鉄道廃止まで活躍した。

 

五日市鉄道キハ500形のもう1両のキハ502は、昭和22年1月に廃車されたが、茨城交通に売却され、茨城線(赤塚~御前山間)で使用され、昭和46年2月11日同線の廃止により廃車となった。こちらは茨城交通売却後、称号が「キハ」が「ケハ」(ケは軽油の意味)となったが車号は一環して502を名乗っていた。

【参考】茨城交通茨城線ケハ502 上水戸(昭和45年3月14日)

 

キハ502

元国鉄キハ41008が前身、昭和8年日本車輛製。昭和24年9月国鉄時代に房総東線(現外房線)勝浦での事故による廃車後入線した。廃止後茨城交通に売却され、ケハ46となったが、昭和46年にエンジンを降ろしてハフ46となり、昭和55年に廃車となった。

【参考】茨城交通湊線ケハ46 那珂湊(昭和45年3月14日)

 

キハ503

元国鉄キハ048が前身、昭和8年新潟鐵工所製。キハ41020→キハ41202→キハ41302→キハ048と改番、昭和33年2月10日桐生区で廃車後入線した。

 

ハ30

元常総鉄道キハ13が前身、昭和5年日本車輛製で車体は極めて頑丈に作られていた。小さすぎて使い物にならなかったためか、早くも4年後に廃車となり東野鉄道に入線した。昭和23年にエンジンを下ろして客車化されハ30となった。

 

ハ31

犬伏氏が作られたキハ20の客車化後の姿である。昭和11年日本車輛でキハ20として新製。昭和39年にエンジンを下ろしてハ31となった。

 

ハ32・33

昭和4年日本車輛でキハ10・11として新製。昭和39年にエンジンを下ろしてハ32・ハ33となった。

 

今も残る大田原~中田原間のトンネル(平成3年12月1日)

 

黒羽駅跡に駐車中の鉄道代替バス 元神奈中(平成3年12月1日)


【8780】ケコハ482

田野城喬氏ご要望に応え、早速ケコハ482車体の散髪屋をお目にかける。実はC5175共、折角スキャンしながらサイズダウンし忘れたため掲載できなかったのである。

これは佐世保鉄道フハ1~3が買収でケコハ480~482となったもので、ケコハ480は浜松鉄道→遠州鉄道奥山線ハ21→サハ3→サハ1103になっている。浜松では木製車体、ダブルルーフの上屋根にガーランドベンチレーターを3個載せていたが、フハ3→ケコハ482はご覧の通り半鋼もどき。これは木骨鉄皮で、木の芯?のところに雨水が溜ってかように腐蝕し、屋根は雨漏り防止のためルーフィングを盛大にかぶせている。恐らく浜松でも車体腐朽で鋼板を外し、木製車体に戻したと思われる。


ケコハ482車体 1957.3.30長崎客貨車区 ご覧のように散髪屋と化し 電線 水道 瓦斯が引き込まれているかと思えば手ブレーキが残っていたり

佐世保鉄道フハ1~3竣功図 1919年製だが1935年半鋼もどきに改造 岡部鉄工所というか経営者の岡部 繁はともかく引戸が大好きだった

C5175 煙除板の前1/3が改造され蝶番がついているのは?煙突もパイプ型に

なお村樫四郎氏が書き込まれた件、C51牽引324レの写真は、鉄道ピクトリアル103号(C51特集)で見開きに使ってもらった。製版はまだ尺寸の時代だったようで、編集部から横1尺何寸、縦何寸何分に製版するから、として半切に伸ばし再送した記憶がある。原写真より拡大製版できるようになったのはかなり後である。


【8763】佐竹保雄氏との長崎本線大草-喜々津


しばらく音沙汰なかった乙訓ご老人が、このデジタル青信号に現れるとすぐさま堰を切ったように、やたらと賑やかになるのは、かねて各方面から指摘されている通りである。すなわち投稿が途絶えるとは、即乙訓ご老人がサボっている証拠乃至は反動であるとご自覚ありたい。

乙訓ご老人が書き込まれたように、ネコ社「国鉄時代」22号特集「北九州の煙」に、先輩かつ畏友佐竹保雄氏の「昭和33年九州旅日記」が掲載され、九州内で小生と2回ランデブー?した旨の記述がある。小生は九州均一周遊券(大阪発着、通用16日、学割2,300円―一般だと4,100円)をフルに使って3月11日出発。山陽線電化臨試電、西大寺鉄道、倉敷市交通局、井笠、尾道、防石鉄道、宇部線を撮り、13日門司港から夜行に乗って4月1日まで九州におり、この間佐竹氏とはあらかじめ約束した日に落ち合った。お互い発見した廃客車の車体番号情報等を交換したと記憶する。

大阪からの均一周遊券通用日数は16日だから、3月26日で切れるではないかとのご指摘があろうが、ちょいとした秘法あるいは「忍法テクニック」?で、不思議にも1週間延長というマジックがある。ただし詳細は略す。当方は佐竹氏と違ってメモも碌にしておらず、記憶も定かではないが、3月23日は門司港で客車、関門随道西口で特急を撮っている。あさかぜ、かもめ共ヘッドマークがなかったのは、佐竹氏が書いておられる通り。


52年前の佐竹先輩 筆書きの国道関門トンネルの愛想ない県境表示個所で 1958.3.29

29日再び佐竹氏と落ち合い、国道関門トンネルを歩いて渡った。通行料は10円だったか20円か記憶になかったが、メモ魔佐竹氏の記述で20円と判明。エレベーターで下ると、反対側が開く。今では珍しくもなんともないが、当時エレベーターとは、必ず乗った口から降りるものと決まっていたから、初体験であった。これはバイクのためだと聞いて納得。

海底トンネルといっても、窓から海中のタコや魚、平家の残骸が見えるわけでもないから、別段面白くもなんともないのだが、県境の部分に張り紙がしてあったので、ここで彼氏を1枚撮る。フラッシュもなく、薄暗い中で10分1でシャッターを押したが、ネガはスッコ抜け同然でも、辛うじて写ってはいた。デジタル修正とは有難いものである。なお荷物はショルダーバッグのみだが、小生も寝袋を持たない時は同様で、このスタイルで27日間を過したのが最長である。


早岐での大村線快速

415レ逆行のC5170後補機 早岐 この時は天気が悪かったがその後快晴に

夜行(勿論普通411レ)を早岐で乗り捨て、快速気動車列車とダブルヘッダー列車を撮る。一旦長崎へ行き、旧佐世保鉄道買収のケコハ482の車体や特急「さちかぜ」のエンドマーク等を撮った。先回東小倉で6802が据付ボイラー代用になっているのをご覧頂いたが、ここではD50213と、格が大分上がる。それだけ給湯、給気範囲が広いのだろう。


長崎での据付ボイラー代用D50213

喜々津に戻り、大草間の海岸沿いで撮影するため歩いた。この駅間距離は7.2kmで、途中隧道が何本かあり、棚田は展開していても人家もロクにない。ともかくせっせと歩き、山を越えて目的の場所にたどり着いた時は2人ともヘトヘトだった。実は3月16日小生は本川内-長与間で列車写真を撮ったのだが、大草-喜々津間のほうがもっと素晴らしいことを発見し、佐竹氏を誘ったと記憶する。


D50牽引貨物 我々が立っている真下がトンネルである

上り特急「さちかぜ」

C5176牽引の324レ 右は大村湾

空気が極度に乾燥し白煙がまぶしかった

下り特急「さちかぜ」


C51250+C51

D51809牽引軽量貨物 左手が佐竹氏と必死こいで抜けたトンネル

その後1961年10月1日にほぼ中間に東園信号場が設置され、5年後には東園駅に昇格し、撮影のため歩く必要はほぼなくなったのだが、この場所を発見したのは小生であると「密かに」自負している。


【8753】こんなんあるでぇ(再登場)

特派員氏が珍しいお召の写真を載せたらKH生氏も薀蓄を書かれて盛り上がってきたので古い写真を探してみたら出てきた。これで仲間に入れてもらおう。

珍しく日付があるので見ると、昭和40年5月14日二条駅と記録されていた。それだけでどこから来たのかはわからないので教えてください。なお、KH生氏が書いていたが天皇の公務旅行は「行幸」で、皇后や皇太子の場合は「行啓」と書かれます。

KH生氏も書かれていたが国鉄職員のお召しに対する心意気はたいしたもので、その点を写していたのでお見せします。

▲二条駅に到着のお召列車 本務機DF50529 前補機DF50528[米]

▲到着後すぐに引き上げるため整列して待つ整備員。

▲左:本務機DF50529,右:補機DF50528

▲国旗を外す傍らで一生に一度の晴れ姿を写す運転士
▲お召と交換する下り列車C51
▲その日の二条駅頭。今は梅小路機関車館の入り口になっている。

【8751】秘帖の御開帳

このたび鉄道図書刊行会が復刻出版した「日本の客車」は、山科の人間国宝と崇められている“佐竹保雄さん”が入念に再校された【作品】である。掲載写真のうち3分の1位はご自身が撮影されたものと承っている。この作品の復刻出版に合わせるかのように、門下生にお話くださっている若い頃の行動記録が公開された。それが今回紹介する秘帖である。

門下生諸君!直ちに鉄道図書がある書店に走れ!到着したら「ネコの国鉄時代22号!」と叫ぶこと。そして「客車の実見を主目的に巡った若き日・昭和33年九州旅日記」を目次で探し開くと、「でたぁー」。山科ではない、九州の話なのだ。

この旅日記では須磨の大人との交流が紹介されている。門外不出の秘話?の臭いもしてくる。それより現車撮影だけでなく、現車確認には何が必要か、との話が出てくる。稿末に貧乏旅行の支出明細が掲載されている。【日本ステーションホテルクラブ】のメンバーだけに宿賃が全く記録されていない。勿論、支払い無しであった。

お母上が保存食を作られた話で思い出したことがある。Ⅱ代目会長のお母上は、でっかい焼きおにぎりを作り1食2ケ待たせたこと。母を亡くした老人の分も用意して下さったこともある。

「日本の客車」は人間国宝が青春をかけて編集作業をされた産物なのだ。今回の復刻版出版を記念してクローバー会は例会として“佐竹保雄さんを囲む会”を計画している。追って会員諸兄にお知らせするが、その前に\2,400持って本屋へ走れ!「ネコ・国鉄時代22号ですぞ!」

尚、「日本の客車」について、クローバー会も特典ツキで受付中です。