客車廃車体訪問記 内地編52 千葉県-1

【いすみ市  ポッポの丘】 35.299166, 140.276124 2016年6月18日撮影
オロネ24 2
オハネフ24 2
いすみ鉄道(元国鉄木原線)上総中川駅の北、徒歩約30分にポッポの丘があり、緑に囲まれた丘の上にJRや私鉄の各種車両が保存されている。客車は24系の最初期の2両である。
養鶏業の会社が経営しているので、ここのカフェでは卵かけご飯が名物である。
◆オロネ24 2(1973年新製 ※注)→2012年廃車
◆オハネフ24 2(1973年新製 新潟)→1983年2段寝台化 土崎工→2012年廃車
※注 日車製とする資料があるが、現車の説明板には富士重工製となっている。狭い場所で立入禁止のため、現車の銘板の有無も確認できなかった。
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 「B」の時代 ⑤

私が夜間撮影を始めるきっかけになった鉄道雑誌の記事がありました。それが「鉄道ファン」1967年5月掲載の「夜も楽しく」の鉄道写真随想です。それまでにも鉄道の夜間撮影の手法はありましたが、撮影法が公開された指南書は、これが初めてでした。“よるたの”の言葉も生まれ、「夜は夜なりに、昼間は気にも留めなかったものが見えてきて、何か背中がゾクゾクするような興奮が呼び起こされます。冷たい水銀灯の光、黒天に消える白い蒸気、露で光る枕木、そして鈍く光る機関車」などの表現に、いたく感激し、さっそく京都市内へ出掛けて、祇園や東寺前で、市電をバルブ撮影したことがありました。ちょうど高校3年生の時でした。その著者が、なんとデジ青にコメントもいただくMさんで、改めてデジ青を取り巻く繋がりを感じました。

蒸機ばかりではと思い、つぎは、電機の夜間撮影も載せてみた。やはり、デッキつき旧型電機のほうが、夜間の光線に陰影ができて、近代的な電機よりも、ふさわしい。上越線で貨物を牽くEF1630、発車前のひと時を運転士のシルエットも入れて撮ってみた。新津機関区(昭和46年9月)。

 

 

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片上鉄道

西村雅幸さんからのご依頼で、ふるいネガ・ポジアルバムを引っ張り出してデータを確認しました。

それによると片上鉄道への訪問は昭和36年12月19日となっています。この時は倉敷への“行きがけの駄賃”程度の気持ちで立ち寄っただけですので柵原へは行っていません。片上だけの訪問でした。たぶん、機関庫や客車区が片上だったからでは無いかと思います。結局、片上鉄道の写真はこの時だけでした。

それではご覧下さい。

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 「B」の時代 ④

「利尻」を撮る

つぎは、機関区での止まり撮影ではなく、列車の「B(バルブ)」撮影例を、北海道の夜行で見てみました。優等列車と言えども、夜行列車は停車時間が長いものです。眠いのをガマンして、この停車時間を利用して、カメラと三脚を担いで、ホームに下りて、列車をよく写したものです。以下は、宗谷本線を走ったC55時代の「利尻」です(昭和44年9月)。
この日は、DRFCの仲間と、豊富で日曹炭砿の96を撮り、上り「利尻」に乗り込んだ。牽引はC55とあれば、そのまま寝付く訳にもいかず、駅に停車するたびにホームに飛び降りて「B」撮影を行なった。写真は、幌延に停車中の「利尻」、手帳を見ると、露出は定番の絞り8、30秒となっていた。

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 嵯峨野トロッコの“ナメクジ” 解体へ

京都市の嵯峨野観光鉄道トロッコ嵯峨駅構内に保存展示されていたナメクジ、D5151が解体されることになり、最後の姿を見るため、年末恒例の“近所鉄”として行ってきました。2004年に京阪樟葉駅前くずはモールの保存展示場所から移ってきて、トロッコ嵯峨駅の19世紀ホール前で展示され、訪れる観光客に親しまれてきましたが、屋根なしの野外に展示されてから50年近く経ち、老朽化のため解体されることになりました。年内のトロッコ列車の運転日は、本日が最終日で、近くで見られるのは最後となり、年明け早々に解体に掛かると言うことです。

“保存車両”と言えば、永遠不滅と思いがちですが、種々の理由で存亡の危機に瀕する例は、最近よく耳にします。京都でも、加悦のSL広場の2020年春の閉園が決定し、貴重な車両27両の行く末が案じられています。トロッコ嵯峨も、加悦も、クローバー会のイベントで見学しただけに、消滅の危機に接すると、ひとしおの思いです。

嵯峨野観光鉄道トロッコ嵯峨駅構内の保存機のナメクジD5151。D51のうち初期機のナメクジは95両製造されたが、案外保存が多く、そのうち、約20両が保存されているが、形式と製造番号が同じ5151は、他形式でもあまり例が無いだけに貴重な存在だった。

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客車廃車体訪問記 内地編51 鹿児島県-1

【あくねツーリングSTAYtion】 32.023578, 130.195989 2018年8月13日撮影
オハネフ25 206
オハネフ25 2209
肥薩おれんじ鉄道阿久根駅にあって、2014年頃まで車内で宿泊できたようであるが、訪問時は立入禁止になっていた。現在のところ日本最南のJR客車廃車体であろう。この2両は、同じロットで生まれ、仲良く働き、リタイア後もまた手をつないでゆかりのある駅の傍で余生を送っていたのであるが、この先どうなるだろうか。
◆オハネフ25 206(1977年新製 富士)→2008年廃車
◆オハネフ25 209(1977年新製 富士)→(1991年改造 小倉工)オハネフ25 2209→2008年廃車
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 「B」の時代 ③

五稜郭の巨体

つぎの「B」も機関区での撮影、北海道は五稜郭機関区へと参ります。青函連絡船で函館に着くと、そのまま列車に乗り換えて、大沼やヤマ線へ行ってしまい、函館で時間を掛けて写すことはありませんでした。そこで、最後の訪問時の帰途、連絡船をひと便遅らせて五稜郭機関区へ行き、最後の函館を記録することにしました。この時代、すでにC62は見られませんでしたが、その改造機体となったD52は健在で、函館本線の貨物列車を牽いていて、その巨体を写すのには、格好の場所でした。(昭和47年3月)。蒸機を斜め後から低い位置で仰ぎ見る角度の迫力のあること、前回の宮崎区のC5789でも感じた。五稜郭機関区でも、D52ラストナンバーの468号機を同じような撮り方をしていることが分かった。太いボイラーに、不釣り合いな小さな動輪、これぞD52の魅力でもある。

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昭和の電車 改訂版(35)ー広電市内線152号ー

京都の市電に関しては反響が大きいが、関東のことになるとほとんど書き込みが無い。今回、広島になると・・・?
これについては中国地方通信員・西村雅幸さんにご登場頂こう!

 「B」の時代 ②

南九州、夜の機関区

B(バルブ)の時代、つぎは九州の機関区で見た夜景です。夜間撮影の場合、それが目的というより、夜行列車に乗るまでの時間つぶしに、機関区へ行くことが多かったのが実情と言えます。九州ですと、宮崎、鹿児島、人吉、吉松など、夜行列車が発着する駅の機関区へよく行ったものでした。駅で写すよりも、乗客に邪魔もされず、一人で落ち着いて気ままに写したものでした。
以前の本欄でも紹介した宮崎機関区。機関区は駅に隣接した、ラウンドハウスも無い狭くて細長い構内だった。ガントリークレーンのある大型の給炭設備も無く、ハンプ状の給炭線に石炭車で運び、ベルトコンベアに石炭を載せて、給炭していた。狭い分、光線もうまく回っていて、印象的に撮れた(昭和46年12月)。

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久々に中国路から小ネタ3件

しばらく投稿から遠ざかっておりました。お得意の中国新聞からの引用です。

を令和元年12月23日 中国新聞朝刊

平成29年4月のクローバー会木次線ツアーに先立ち、米手様、INUBUSE様と下津井を訪ねました。その際、下津井駅跡の保存車両を管理されている方から、このクハ24が下電ホテルに行くことが決まったという話を聞きました。運転台にも、そんな看板が取り付けられていました。あれから約1年半が経ち、新聞記事にあるように新たな働き場所を得たようです。

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 「B」の時代 ①

手ノ子の96

ことし、何度か写真展・展示会を行い、来場された方と鉄道写真について話をする機会がありました。そのなかで、撮影方法について聞かれることもありました。たとえば、つぎのような写真、11月に京阪七条駅近くのカフェギャラリーの「東北の鉄路 全盛時代を偲ぶ」に展示した写真ですが、長時間露光の夜間撮影についてです。今でも夜間撮影をすることはありますが、高感度デジカメで撮れるとあっては、いまや三脚なし、手持ち撮影が常識になりました。しかしフィルム時代、感度は低く、増感現像という手段はあったものの、粒子が荒れます。そこで三脚に据えて、30秒とか1分間露光をするバルブ(B)撮影が、夜間撮影のスタンダードでした。蒸機の場合、煙が流れたり、ライトが光跡になったり、長時間露光ならではの意外性がありました。いわばアナログならではの撮影方法が、デジタルの時代、かえって新鮮な表現に映るのかと思った次第です。このように、長時間露光で撮った写真のいくつかを紹介していきましょう。
米坂線の手ノ子駅に停車する、168レを牽く29622を撮ったもの。安全弁から噴き上げる蒸気が、長時間露光でまっすぐに上がっている。蒸機に当たる光線だけでは弱いので、周囲にある、信号や室内照明の光源をうまく入れるのがポイントだ。何点か撮っているが、手帳を見ると「ALL F.8 30S」と書いていて、絞り8、シャッター30秒で撮っていた(昭和47年2月10日)。

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 天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【29】 初冬編

立野を中心に、豊肥本線、高森線を撮る

今回は九州の中央部、豊肥本線・高森線(現・南阿蘇鉄道)の初冬の風景です。両線が交わる立野の前後には、大規模なスイッチバックがあったり、高い橋梁が存在します。昭和40年代、蒸機の牽く客貨列車も多くあって、よく訪れていました。ところが、両線とも2016年4月の熊本地震で、大きな被害がありました。その後に各地で発生した災害に隠れ勝ちですが、復旧作業が遅々としていて、現在でも不通が続いています。
今回のカラーは、昭和46年12月、同47年11月を合わせたものです。豊肥本線は、立野を出発すると、三段式のスイッチバックで、阿蘇の外輪山をよじ登って行く。スルーできない、文字通りのスイッチバック式だが、その赤水寄りにも、好適なカーブが続いている。列車は1794レで、立野で停車時間があるため、まず到着前を撮って、駅で停車中を押さえる。そして、外輪山の方向へ直登して、スイッチバック付近のカーブ地点に着き、朝陽を受けた96の勇姿をとらえた。

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客車廃車体訪問記 内地編50 栃木県-1

【真岡駅:SLキューロク館】 36.438760, 140.002856 2019年12月15日撮影
スハフ44 25
真岡鐵道真岡駅のSLキューロク館内にスハフ44 25が置いてある。良好な状態で、栃木県に二重窓の客車とは面白い取り合わせである。訪問時にはクリスマスのデコレーションが施されていた。写真撮影するには少し狭い。
SLキューロク館では、49671とヨ8593が連結されて出たり入ったりしている。土曜日で家族連れがいて、ヨ8593には子どもが乗って往復していた。
12月22日(日)に49671の白寿を祝うイベントを行うそうである。
◆スハフ44 25(1954年新製 日車)→1967年近代化改造→1987年廃車
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昭和の電車 改訂版(34)ー京都市電N1型ー

これは自信を持って投稿できます。画に描かれている場所は七条西洞院を上がった、旧植柳小学校の南にある藪の内千家の前でしょう。西洞院通を走る北野線は、南北の通りでは西側に引き寄せて線路が引かれていました。そのため西側の家では飛び出すことは厳禁でした。中立売通では南側に寄っています。先日掲載された花巻電車と似ていました。

中村進一氏撮影

画とほぼ同じ付近と思われます。左のカゴのようなものは籐で作った乳母車。春の彼岸頃と思われる。

 天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【28】 初冬編

名勝、大畑へ

昭和46年初冬の南九州、つぎは大畑へ向かいました。大畑を含む吉松~人吉の矢岳越えは、それまでも列車で何度か通りましたが、下車しての撮影は、この時が初めてでした。日本三大車窓の絶景地であり、33‰勾配、スイッチバックとループ線、重装備のD51に混合列車と、魅力が大盛りの区間でした。いままでは、夜行鈍行の1121列車で大畑を通ることが多かったのですが、この1121レから撮るためには、現地泊しか手はなく、奮発して人吉の国民宿舎に一人で泊まりました。大畑では、食糧調達の術はなく、朝食、昼食用のおにぎりを宿舎で作ってもらい、薄暗い人吉の駅を出て、一番列車841レで大畑へ向かいました。大畑には7時14分着、841レの発車を見送ったあと、ループ線を見下ろす、撮影地へ向かった。朝露でズクズクになりながら着いた。天気さえ良ければ、霧島連山まで、キレイに見渡せる場所だ。まもなくループ線を一周して、1121レがやって来た。1121レは、門司港発鹿児島本線経由の都城行き夜行。九州へ行けば何度も愛用した列車で、客車6両と、大畑では唯一の本格的な客車編成だった。

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客車廃車体訪問記 内地編49 石川県-3

【松任青少年宿泊研修センター】 36.512155, 136.560147 1998年8月8日撮影
オハ47 2079
オハ47 2235
スハ43として新製されたが、前回と違い、最終オハフ46にはならなかったオハ47の2両である。
松任青少年宿泊研修センターは、白山市の条例に基づく、スポーツ合宿等の宿泊研修用の施設であり、車両は現在は無くなって、駐車場になっている。「なかよし号」というサボがかかっていたが、車内を見ると、真夏・真冬の利用は厳しかったと思われる。
◆スハ43 317(1953年8月21日新製 日立)→1962年3月29日平板開戸 松任工→(1963年1月18日改造 長野工)オハ47 79→(1964年10月6日電暖追設、近代化改造 長野工)オハ47 2079→1971年7月1日 長野工→1985年廃車
◆スハ43 336(1954年1月新製 近車)→(1962年2月8日電暖追設、蛍光灯化 高砂工)スハ43 2336→1966年12月12日近代化改造 長野工→(1967年11月21日改造 松任工)オハ47 2235→台車TR23H化 松任工→1971年5月22日体質改善B3 松任工→1986年廃車
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阪急京都線急行のちょっとした思い出

JRの特急車両は趣味誌によく取り上げられる。個性ある私鉄の特急も同様でかつては速度比較もよく見られた。それに比べて私鉄の急行は沿線住民にとっては重要な位置づけにありながら趣味上は地味な存在であまり話題にならなかった。そこで学生時代に乗車した阪急京都線の急行を取り上げてみた。その理由はとにかく速かった記憶があり、私鉄の急行では一番表定速度が高かったのではないかと思っているからである。他社のちょっとした特急よりも速かったのではないかとも思う。速いといえば近鉄大阪線急行も速かった。両者を比較してみると私の手元にある時刻表で京都線の急行の速度がわかる最も古いのは1976年7月号で河原町を22時40分発が梅田23時24分着で47.7kmを44分で走り、表定速度は65.1km/hである。梅田23時40分発河原町行きも45分で表定63.6km/hある。早朝の河原町6時発は48分かかり表定速度59.6km/hである。昼間時もこれに近い速度で走ったのではないかと推察する。また、1980年10月5日発行の保育社「日本の私鉄阪急」では標準所要時間47分で表定速度は60.9km/hとある。一方、近鉄大阪線は1968年11月の時刻表を見ると上本町6時10分発宇治山田8時21分着で137.3kmを2時間11分で走破し、宇治山田20時22発も上本町22時33分着で同じ2時間11分で表定速度は62.9km/hある。近鉄大阪線は青山越え等連続するアップダウンと単線区間の存在がありハンデがあったが、鶴橋~大和八木間ノンストップなど今では考えられないほど停車駅が少なかった。阪急の場合は新京阪鉄道が高速運転に向くような車両や線路を用意し山間部の勾配区間もないので停車駅がそこそこ(停車駅は十三、淡路、茨木市、高槻市、桂、西院、大宮、烏丸でラッシュ時長岡天神にも停車した)あるにもかかわらず表定速度が高かったものと思われる。

それでは阪急京都線の思い出の急行運用の車両を順に見ていく。

まず1300系。神宝線1010、1100系の京都線バージョンである。この日1300系急行4連を2本撮影しているが、これが私が撮った最初で最後の急行運用の姿で、この後の1300系の撮影は4連の本線や千里線の普通列車ばかりである。吊り掛け式モーターの710型に続くカルダン車として登場しクロスシート車もあったが優等列車に使われた時代は短かった。既にあの有名な2800系の計画があったからかもしれない。1300系は晩年は宝塚線1200系に組み込まれたものもあったという。一度その姿は見たかった。

1965.09.30 大山崎~長岡天神間 河原町行き急行後部1305▼

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 天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【27】 初冬編

12月の南九州でC61を撮る

再び“天然色”シリーズに戻って、初冬編に参ります。昭和46年12月、この時期としては初めて九州へ向かいました。それまで長期間の旅行は、休みの多い春・夏限定でしたが、均一周遊券を使った初冬の旅行となりました。秋の旅行シーズンが終わり、年末年始のピークまでの空白期となる12月上・中旬は、列車も観光地も宿泊先もホントによく空いていることを実感しました。今なら、ライトアップなどの催事もありますが、当時はそんなチャラチャラしたイベントもありません。とくに有り難いのは、当時、常宿としていたユースホステルの予約でした。予約は、ハンドブックで宿泊先を選び、往復はがきで申し込みますが、到着までに一週間近く掛かります。満室だと、またプランを練り直し、再度、一週間後の結果待ちと、今から考えると、たいへん手間と時間の掛かる申し込みでしたが、予約なしで飛び込みもOKだったのが、この時期でした。夜行列車も空いていて、1BOXを一人で占拠して、ゆっくり熟睡したのでした。
お馴染み、朝の大淀川を渡るC57の牽く539レ。まだ川沿いのフェニックス並木も健在だった。原版は、すっかり褪色していたが、色温度を上げてやるだけで、簡単に朝のイメージにすることができた(1971年12月)。

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