郡元からは谷山行きに乗って南鹿児島駅前を目指しました。JRとの乗換駅でもありますので乗降客が多いだろうと思ったからです。
11:47 JRとの乗換駅の南鹿児島駅前に到着です。向かい側のホームは20人近くの乗客がお待ちでした。路面電車のお客としては多い方です。1日平均乗降者数はJR2,575人、市電は1,326人です。
郡元からは谷山行きに乗って南鹿児島駅前を目指しました。JRとの乗換駅でもありますので乗降客が多いだろうと思ったからです。
11:47 JRとの乗換駅の南鹿児島駅前に到着です。向かい側のホームは20人近くの乗客がお待ちでした。路面電車のお客としては多い方です。1日平均乗降者数はJR2,575人、市電は1,326人です。
老人は、三八豪雪後の5月に勤務先が工場火災に遭い、それまでに撮りためていた富山時代の写真は、ネガを含めて全て失ってしまった。そんなことで高岡地区には精通している。このシリーズは、残っていた写真と、それ以降に訪問して新たに撮った写真で構成してみた。
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昨日は全線を乗り、雨の降っていない間は歩きましたので沿線の大体の様子は分りました。今日はまだ撮れていない車両の撮影と気になった撮影地のもう一度の本チャンの撮り直しです。
移動に利用するのは今日も1日乗車券(600円)です。
▲ 7:09 ホテルに近い「天文館前」からの撮影開始です。幸先よく初めて見る600形614がやって来ました。
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昭和41年(1966年)3月19日 広島駅 その1
しばらく“デジ青”から遠のいていましたが、また復帰しました。「駅撮り」、3回目は広島駅にしました。広島駅は、高校一年生の昭和41年3月、初めての一人旅で夜行列車に乗って着いた駅でした。初めて見る列車・車両ばかりで、今でもその感動が心のなかに残っています。もちろん広島には新幹線もない時代、山陽本線には特急・急行列車がつぎつぎ発着し、全線電化が完成したはずなのに、C62の牽く列車まで顔を見せるなど、今とは全く別世界の様相でした。
▲朝の広島駅で、下りのブルートレインが続々と1番ホームに到着する。ブルトレは、当時関西で昼間見られるのは、「あかつき」だけで、東京発ブルトレは、定時運転している限り、関西では、明るいうちに見ることができない、憧れの列車だった。写真はブルトレ本家たる「あさかぜ」を、65Pトップが牽く、正調派のブルトレだった。
第6日目 2月28日 その2
13:59 昼食が済んで外に出てみますと小雨が降り出していました。少し様子を見ていましたがこれでは歩いてのロケハン撮り鉄は辛いものがありますので、乗りながらのロケハンに切り替えて終点の谷山方面へと向かうことにしました。
▲ 平日のお昼過ぎなのに乗降客の多い鹿児島中央駅前です。左は2100形2132、右は9700形9702、広告は「さんふらわぁ」号です。
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第6日目 2月28日 その1
昨日台湾から帰国しましたが、着いた羽田から国内線に乗り換えて鹿児島へとやって来ました。学生時代も勤務時代も西鹿児島駅には各1回だけ訪れてはいますが、降りて市内に出た事はありません。ですので路面電車を見た事も乗ったこともありません。
用意したのは路線図だけ、後は白紙で朝食後電車通りへと出ました。
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昨年の木次旅行でお世話になった、“おろち”こと「C56105保存会」副会長様から会報が贈られてきました。文中に昨年の我々の訪問や、協力したフォトブック「想い出の木次線」が紹介されていますが、やはり心配なのが三江線亡き後の木次線の行方です。今後ともご協力は惜しみませんとお礼状にしたためておきました。
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広電で働く女性たちが安心して働けるようにと、今年から広電の保育園が開園しています。その名は「ひろでん まめっこ保育園」で、千田町の本社や車庫のすぐそばにあります。誰のアイデアなのかわかりませんが、ユニークな外観が話題になっています。
「暖かい内地への旅」シリーズは3月28日のPart6まで投稿させていただきました。続編も準備はしておりましたが、都合により「ありがとう 三江線」、「日本海 春爛漫」と、「明知鉄道ご紹介」シリーズを勝手ながら優先して掲載しました。そして、これらの投稿が終わりましたので「暖かい内地への旅」を再開させていただきます。よろしくお願い申し上げます。
第5日目 2月27日
今日は帰国日です。いつもは台北の桃園空港からの戻りですが今回は台北市内に近い松山空港からです。大阪からのフライトに松山空港はありません。実はこちらに来た時にいつもの通り桃園空港だと思い込み、フライト時間も9:30と早いので桃園空港近くのホテルを予約していました。
▲ 松山空港は日本統治時代の1936年に建設され、国際・国際線の空港として使用されてきましたが1979年に国際線用として桃園空港が開港されると、国内専用空港になりました。
羽田空港が国際線にも使用されるようになった2010年から台北松山空港にも直行便が
就航。東京~台北は1時間近く所要時間が短縮されるようになりました。
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〔続編投稿に際して〕
長年眺めている富山のことでもあるので、スラスラ運ぶと思っていましたが、オッとどっこい、そうはいかないハメになってしまいました。あと16日で満80才になります(4月30日がお誕生日)。その後がどうなるか不明?すてきなデンシャの事だけは胸に秘めて生きていきたいと思っています。ややこしい文章でごめんなさい!
⇩㉛ 寺田で折り返しを待っていたら、先の「京阪特急」がやってきた。1991.8.14
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この分野の泰斗である西村氏を差し置いて恐縮であるが身近な所をレポートする。見つけ方や撮影のコツなどをご教示いただきたい。また、総本家青信号特派員氏はJTBのキャンブックスでたいへんなご苦労をされたと仄聞している。
1.高橋交差点 茨木市駅前3丁目 34.816891, 135.569586
先輩方のスロハ38談義を拝見していて、果たしてスロハ38なる車両はどういう車輛だったのか?調べたくなり、手元にある「客車形式図 1959」のページを開いてみました。
3ページに記載がありました。
ダブルルーフで、3軸ボギーのTR-71・73を履いた車両で、マロネ37・マロネフ37からマハ47を経て改造された車両だったようですね。
ちょうど真ん中でロ室とハ室が分かれており、にロ室は、窓とシートがあっているようですが、ハ室は窓割と関係なく座席が並んでいたようです。
昭和33年末では、形式図VC03434のものが25両・VC03470のものが11両・VC03471のものが14両と結構活躍していたようです。
河 昭一郎様の秘蔵写真を掲載するに際して、自分が撮っていないことを残念に思っていましたが、そういえばどこかに正体不明のロハが写った写真があったことを思い出して探しました。
撮っていました!とは言えない「写っていました」写真が出てきました。
言い訳ではありませんが当時はまだ中学生、客車に興味はまだなく、線路端でシャッターを切ることだけに専念していた時期でした。特派員さんの言葉通り、記憶が記録となったいい例です。ご笑覧ください。
なお、特派員さんの投稿を利用してばかりでは申し訳ないので、たいした写真ではありませんがスレを立てます。
C51の牽く下り各停、オハニ61の次位がスロハ38と思われます。こんな写真しかなくて本当に残念です。場所は旧丹波口駅に進入する直前、今の鉄道博物館入り口に当たるところです。
富山に次いで2番目だそうですが、5月から広電でも信用乗車が始まるそうです。当面、1000型14両、ICカード利用者に限定のようですが、広電さんの前向きな取組みは結構なことです。ただ 運転士がモニターでチェックというのは、乗務員への負担が大きいような気もします。信用乗車に踏み切るなら、「広電はお客様を信用しています」と性善説を徹底し PRすれば、「損して得取れ」につながり、成熟した社会に近づくと思います。