先日は京都でも大雪となり叡電や超のつくすごい投稿がありましたが、当地名張(特に美旗は)殆んど雪がふらずちらついた程度で、期待外れの感もありました(自分がどこまでやれるかは別として)。今年一番の雪景色は諦めていたのですが、近鉄の新春限定の三日間フリー切符の一日分を手に入れることになり、一番効率(?)の良い名古屋の「リニア鉄道館」へ行こうとしたところ、途中四日市辺りでまだ雪が残っていました。名前も替わった「四日市あすなろう鉄道」の「日永」の様子です。
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京阪800型
琵琶湖鉄道汽船100型
宇島鉄道廃線跡訪問
平成29年1月19日
昭和11年に廃止された宇島鉄道。この線の存在を知ったのは最近でした。タイミング良く前職の同期が退職後故郷の豊前市観光協会に就職、豊前市の観光素材を訪ねるとともに廃線跡でそれと解るポイントに案内していただきました。
中唐原駅跡 農家の農機具等の倉庫として使われていたと思われる朽ちた小屋が残っています。遠方からでも見える山裾に立つ小屋、近づくと看板立っていました。

2016年 西方見聞録 Part24 ゴッタルゴ峠を撮る④
第10日目 9月27日
今日は終日Cで撮った後明日のウクライナ行きに備えてチューリッヒ空港近くのホテルに移動します。ゴッタルゴ峠の撮影場所は前日までとは違ってループの真ん中で撮ることにしましたが午前中はチュウリッヒ側のエルストフェルト駅近くまで下りて狙うことにしました。ゲシェネンからは約19㌔の下山です。
▲ 10:19 撮影地① Google座標; 46.804670, 8.665620
最初に来たのはイタリア方面行のRe420-269-3が牽引するタンク車編成の貨物列車です。
【 Re420型電気機関車 】
戦後増大して来た鉄道輸送に対して輸送力不足となり1964年に新たな次世代本線用として設計され試作機が登場した交流電気機関車。軸配置Bo’Bo’、定格出力は4650kW、1969年から量産機が生産開始されて1985年まで276機が製造されています。
2016年 西方見聞録 Part23 ゴッタルゴ峠を撮る③
第9日目 9月26日 その2
午後からは撮影場所をロイス川近くに場所を替えて撮ります。アルプスもバックに入れたかったのですが雲がかかってしまいました。

▲ 14:13 ゴッタルゴ峠越えの定番、Re620形+Re420形の重連が牽引するコンテナ列車です。3重連かと思いきや、Alpenzähmer 189-108号機が回送で付いています。
長大編成とあってRe420形の後補機も付いていました。
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2016年 西方見聞録 Part22 ゴッタルゴ峠を撮る②
第9日目 9月26日 その1
今日は3日前と同じくゴッタルゴ峠の撮影です。前回は晴れてはいましたが雲が多く、撮ってもまだらになる事が多かったので雲なし快晴を望みました。
▲ 9:51 前回と同じ撮影ポイントへと徒歩で上がって山間に日差しがさすのを待ちます。やって来たのは、2両の客車を牽引した違った車体色の電気機関車の編成です。色からするとイタリア国鉄のように思えます。客車も特別なように見えます。何のための列車なのでしょうか?
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雪の超朝錬
1981年小松島のキハニ5000廃車体
長州から土佐に嫁いだ電車

803/旭駅前通
「49年前の山陽電軌」で、モ701形とモ801形が廃止後土佐電鉄に譲渡されたことを記したが、昨年10月1日、高知を訪れた時に乗車、撮影の機会を得たので現況を報告する。
当日、羽田空港8時発の飛行機で出発して、高知空港からバスで高知駅前に着いたのが10時頃であった。1日乗車券で全線、全区間を途中で撮影しながら移動したが、路線が長いため、乗車時間が結構長く、その分撮影時間が短くなり、全稼働車両を撮影するまでには至らなかった。
平成26年10月1日、土佐電鉄、高知県交通、土佐電ドリームサービスの3社が経営統合され、新たに「とさでん交通」としてスタートした。
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雪が降ったら、やっぱり叡電へ
小松島のニ5000廃車体
西村雅幸氏に悪乗りし、1957年3月3日現在小松島に残存していたニ5000型3輌の廃車体写真をご高覧に供する。記憶は限りなく薄れているが、確か大昔?のデジ青が、まだ写真も1回3~5コマぐらいしかアップできなかった頃に、一度ご覧頂いたような気もしないでもない。ただ大方の諸兄はお忘れだろうし、小生も80歳の申し分のない爺ィに成り果てて、昔の事は忘れたよ、と開き直って、再度かもしれんがご覧頂く。耄碌も時としてかなり便利=重宝なものではある。

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三呉線とキハニ5000
西村雅幸氏お説の通り、キハニ5000は鉄道省工作局のエリート技師(大方が東大か京大機械科卒)が、お山の大将=世間知らず=苦労して先行した私鉄ガソリンカーに学ぶことを全くせず、それでいて外形だけは直近完成のドイツ国鉄2軸ディーゼルカーVT801の真似をした車輌でした。
何から何まで国産品を使う(点火栓だけは国産品がなく米国製ボッシュ)という意気込みは、それなりに評価すべきですが、国産では海軍内火艇(内燃機関動力小型舟艇)用しか床下装着できるものがなく、致命的に出力不足でした。またエリート技師はコロ軸受を使った経験がなく、高価でもあったので、通常のメタル軸受とした反面、内装=椅子や網棚、照明器具、窓などを客車と共通にするという、過度の標準化思想に囚われて、車体断面を狭めるという発想は100%欠落していたのです。
それでもある程度の軽量化配慮もしてはいたのですが、自重が15噸以上になり、その上欠陥が山ほどあったのに、使用側の研修も十分にせず、いきなり機関庫に配属するという、致命的な失敗が重なりました。運転局側は配置に対し独自の判断をし、故障してもその影響が本線に及ばない、また機関庫が近くでエンコしてもすぐ救援に行けるローカル盲腸線を主体に配備しました。
このため例えば正明市-仙崎、徳島-小松島、大垣-美濃赤坂(西濃鉄道)、長町-仙台‐岩切‐塩釜、東室蘭-室蘭などの盲腸線、先端が未開業で短い区間のみの部分開業しかしていない実質盲腸線の姫路-播磨新宮、西村氏が記された三呉線を含む糸崎-三原-須波、などに投入されたのでした。
詳細は拙著『日本の内燃動車』成山堂交通ブックス121に詳述していますので、そちらをご覧頂きたいのですが、要は自重に対する機関出力の致命的不足で勾配線には全く使えず、平坦線ばかり。絶対に自分たちの失敗を認めない工作局エリート技師たちにしては極めて珍しい事例ですが、キハニ5000に関して(のみ)は、失敗を認めています。これが私鉄なら、例えばGMF13に換装して2軸客車を1輌牽引さすところでしょうが、国鉄はせいぜいが重連使用ぐらいで、当然機関士が2名いりますから、経済的の筈のガソリンカーが、かえって無駄遣いになった例も少なくないのです。
1957年3月小生は小松島周辺でニ5000の車体を複数撮っているのは、はるか以前デジ青でも紹介しました。全12輌中機関を下してニ5000と、手荷物車になったのが8輌、3輌が救援車ヤ5010からさらにその内2輌がエ810に。1輌(キハニ5008)は1933年11月22日事故で廃車になっています。キハニ5005→ヤ5012は幸い復元され、苗穂工場に保存されていますが、復元に当たり外見だけの機関複製に苦労した由です。
なおこれは蛇足ですが、内燃機関の出力は「通常」最大出力で表示します。しかし国鉄はなぜか「標準」出力でした。従ってキハニ5000の43馬力とは、1,200回転時の出力で、最大は1,500回転時の45馬力です。この場合は大して変わりはないですが、現在の自動車用機関は4,000~5,000回転時での最大馬力表示で、標準=1,500回転程度ならぐっと落ちます。キハニ5000が致命的に出力不足は間違いなくも、現時の自動車との単純な比較は不適でしょう。
糸崎とガソリンカー
糸崎や尾道がらみの投稿連発で恐縮です。鉄道とは関係のない郷土史のことを調べるために図書館で古い新聞記事を丹念に見ていると、自ずと鉄道関連の記事にも目がとまります。昭和8年8月8日の中国新聞備後版にこんな記事を見つけました。
49年前の山陽電軌

山陽電軌505/昭和44年3月27日 御裳川
団塊世代より上の世代の方で、この風景に見覚えのある方がおられると思う。
Tsurukame先輩より昭和37年3月の山陽電軌をご紹介いただいたが、更に7年後の状況を紹介する。
昭和44年3月27日、九州旅行の途中、前日に下関に戻って「火の山YH」に宿泊、朝8時頃から9時半頃まで山陽電軌を撮影後、再度九州に戻った。
データは少し古いが、昭和38年6月末時点での在籍車両は、単車のモ101形8両(101~108)、109形8両(109~116)、ボギー車モ201形5両(201~205)、モ206形2両(206・207)、モ301形7両(301~305、501・502)、モ503形4両(503~506)、511形5両(511~515)、601形5両(601~605)、701形4両(701~704)、801形5両(801~805)、811形2両(811・812)で、単車16両、ボギー車39両、合計55両である。
3月27日の朝ラッシュ時に撮影したが、単車は全く見かけなかったので、使用休止になったか、完全に予備車化してしまい余程のことがない限り使用されなくなったのかもしれない。
以下、撮影した車両を解説する。
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ラ・マル しまなみ回送
先に「尾道の話題」として「ラ・マル しまなみ」をご紹介し、私のボヤキに米手作市様より「ハゲドウ」して頂いてから1週間が経ちました。今日はその「ラ・マル しまなみ」が走る日なので、尾道・糸崎間の回送電車を撮りに出かけました。例年センター試験の日にはよく雪が降りますが、温暖な当地でも珍しく薄っすらと雪化粧の朝でした。回送電車は正午ごろですから、かなり気温は上がってはいるものの風が強く時おり横なぐりの雪も降って 海岸で待つのも大変でした。丁度海岸近くをタグボートが2隻の台船を曳いて西へ向かっているのですが、向かい風で全く進まず難儀していました。
尾道に山陽鉄道の痕跡を探して
昨年末に糸崎及び糸崎以東に残る山陽鉄道時代のレンガ積み橋台を3回に分けてご紹介しました。年が明けて次は三原以西を詳細にチェックしようと思っていたのですが、西に向かうと時代は新しくなり、東に向かうと時代を遡ることになりますので、古い方を優先することにして まず尾道市内を歩いてみることにしました。尾道市街地での見どころはレンガ積み橋台もさることながら、山陽鉄道の社紋入りの敷地境界杭です。実はこの境界杭については、2003年10月に発行されたJTBキャンブックス「鉄道廃線跡を歩くNo.10」のなかで 山陽鉄道に造詣の深い長船友則氏が「尾道周辺の山陽鉄道境界杭」という現地レポート記事を載せておられます。これを読んで 一度自分でも現物を確認しようと思いながら10数年が経ってしまい、ようやく実現したというわけです。
尾道駅から線路に沿って東に歩くことにしました。長船氏のレポートを頼りにまず最初の地点「千光寺前踏切」付近の境界杭を探しました。ここは線路の山側です。意外と簡単に見つかったので さい先良しと次の地点に向かいました。しかし帰宅して写真を確認すると どうも別物だったようで、本物はどうやら草むらの中に隠れていたようです。残念! ここから東に10mほど行った歩道沿いの花壇の中にも境界杭がありました。
2016年 西方見聞録 Part21 ブタハタール鉄道「豚のしっぽ鉄道」を撮る
第8日目 9月25日
今朝の楽しみはドイツ版余部鉄橋の上をどんな蒸気機関車が走ってくるかでした。

▲ 9:10 撮影地③ Google座標; 47.819024, 8.553502
朝食を終えてホテル前でカメラを構えて待つことしばし、鉄橋を渡る音が聞こえてきました。東側の起点駅Blumberg-Zollhausから列車は発車するのですが機関区は西側のフュッツェン (Fützen )にありますので1番列車の牽引機は回送されます。青く晴れた空の下、風もなく綺麗に白煙を残しながら単機回送のD型タンク機が来ました。
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下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる?
最近はどこに撮影に行ってもその場所が既にネット等で紹介されていることが多く、昔経験した発見の喜び、楽しみはほとんどなくなってしまった。そこで近頃は変化球と称して流し撮りをよくやるようになったがこれが何年やってもピタリと止まったことがない。ゴルフをやる人、あるいはやった人はよくわかると思うがグリーン周りのバンカーショットも難しい。バンカーショットと鉄道写真の流し撮りはジャンルは全く異なるがどちらも緊張感がある。バンカーは球の手前何センチだったか忘れたがそこに打ち込んで砂を薄く取ってやればうまくい行くと聴いたような気がするが結局マスターできずに終わってしまった。プロはバンカーを苦にせずピンに寄せるが、私は砂を沢山取ろうが出ればホッとしたものである。
さて表題の件であるが、昔のフィルム時代は流し撮りの成功率が低い。これは一発勝負の難しさと思うが、最近のデジカメでは連続撮影ができ、私の場合は2発目、3発目で成功率(といっても1発目よりはマシであるというだけである)が高いようである。デジカメでも列車速度に合わせて1発目を切るのは難しいということである。因みに私の基本はシャッタースピードは1/60秒、ISO100である。当然のことと思うがそれよりシャッタースピードを上げると成功率は高まるが、流し撮りの感じが弱まるし、下げるとその反対であり、私は流しでよく使われている1/60を速い列車も遅い列車も同じように使っている。馬鹿のひとつ覚えかもしれないが1/60の感触で自分なりの流し撮りをマスターしたいと考えていたからである。そうするとこれも当然であるが遅い列車の方が合わせ易く成功率は高い。それでは撮影例である。 続きを読む









