第4日目 3月29日
昨夜気持ちよく飲みすぎたのか大津の86さんに起こしてもらうまで熟睡でした。良く寝られましたので身体は快調です。今日は皆さんが帰られますが、大津の86さんは朝の高速バスで京都に戻られました。残った5人で一畑電車の撮影に挑みます。

▲ 8:04 撮影地① 松江しんじ湖温泉~イングリシュガーデン前
最初の撮影地は松江しんじ湖温泉を出てすぐの交差する道路橋にしました。皆さんは、橋の上に行かれましたが私は出遅れて下からの撮影です。シャッターを切りましたが、突然の準特急さんの友情出演がありました。
2014年 一畑電車・北近畿タンゴ鉄道撮り鉄旅 Part3 一畑電車を撮る その1
第3日目 3月28日 その2
JR境線のちょっとだけ撮影を終えて、松江から来た道を戻りました。
11:50 丁度、昼食時間です。
東横インの駐車場にぶんしゅう7号を置いて、昨夜大津の86さんと宴をやりました”海鮮問屋 博多”に皆さんをお連れしました。
米子や松江では昼食を食べるのに格安豪華なお店が多くあります。ここは松江に営業に来るたびに探した美味しくて安い店の1つで、お奨めのお店です。
これで1,000円!(税別)は、他では味会えません。松江を訪れる方は一度立ち寄って食してみてください。東横インの一筋宍道湖寄りにあります。
▲ 今日と明日の撮影地は、団長さんにお任せです。ダイヤグラムは平日及び休日用を自作されて、運用車両も調べられてこられています。おかげで、私は運転するのみで楽勝でした。ありがとうございました。
地図上の番号は、今回の撮影地です。2日分を掲載しております。
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交通科学博物館で時空散歩
今月の6日で閉館する交通科学博物館へ行って、展示物の写真を撮ってきた。展示物のなかで以前に見た自転車を撮りたかったのであるが、今回は残念ながら展示していなかった。それでも写真を撮りながらじっくりと見てみるとなかなか面白く、しだいに忘れていたものが思い出してくる。博物館を見ることの意味の一つとしてこういう点もあったと考えさせられる。
訪れたのは3月28日(金曜日)でちょうど春休み中であることもあって賑わっていた。今回はまもなく閉館するとあって、年配男子がいつになく多く来ていた。そういう私もその中に含まれるのであるが。館内はそんなに展示物が見られないほどの混雑ではなく、いつもの休日に家族連れが少し多い程度でいい雰囲気であった。
撮影をしながら見ていくと「あっ、あの時こんなんあったんや」とか「へ~、こんなぐあいになってたんか」というのがある。そういうものを少しばかり。
2014年 一畑電車・北近畿タンゴ鉄道撮り鉄旅 Part2 JR境線を撮る
第3日目 3月28日 その1
6:00 起床後見るのは空模様です。11階から見る外は真っ白で、霧が一面に立ち込めていました。外へ出ても近くの松江駅が見えません。
今日は東京からクモハ73106東ウラ団長さん率いる本隊4名が10:20に米子空港に着かれます。着かれて直ぐに大山をバックに境線を撮りたいと望まれていますが、今日の朝の光景では難しそうです。
8:30 朝食後、米子空港付近のロケハンが必要ですのでぶんしゅう7号に乗って向かいました。
▲ 松江駅前から米子空港へは米子市内を経由すると遠回りになります。中海の中の大根島を渡る縦断ルート(約28キロ)が最短コースです。
中海には汽水湖を横断する埋め立て道路があり、大根島から米子空港のある弓ヶ浜半島へは、TVCMで有名になった「ベタ踏み坂」の江島大橋で結ばれています。
中海の松江側は湖上に霧が立ち込めていましたが、大根島に渡るとスッキリと晴れて江島大橋(長さ;1.7キロ、高さ44.7m)からの眺望を見ながら走行できました。
2014年 一畑電車・北近畿タンゴ鉄道撮り鉄旅 Part1 一畑電車 その1
”2014年 遥かなる東欧の旅”を掲載中ですが、先日一畑電鉄と北近畿タンゴ鉄道に行って参りました。これから桜シーズンにもなります。撮影地ガイドの最新情報となると思いますので、先に掲載させていただきます。
第1日目 3月26日
① 自宅14:08→18:48道の駅 神話の里白うさぎ
1月の台湾撮影に同行させていただきましたクモハ73106東ウラさんより一畑電車を撮りに行こうかと計画しています。一緒に行かないかとのありがたいお誘いが入りました。一畑電車は米っ子時代によく撮影に行った所ですが、2008年以降はご無沙汰しています。久しぶりに会いに行って見るかと参加を申し込みました。
今回の参加者は、台湾メンバーだった準特急さん、大津の86さん、千住のヤスベーさんとT崎さんの合計6名です。丁度ぶんしゅう7号に乗車できますので、京都から回送することにしました。
東京からの4名は成田空港からのスカイマークで米子空港に2月28日に着かれます。遠回りにはなりますが、5月のクローバー会北近畿タンゴ鉄道ツアーがありますので立ち寄ってから一畑電車に向かう事にしていました。ところが降り出していた春の雨は止まず、延期に次ぐ延期でこれ以上は出発を待てない2月26日の昼過ぎとなりました。もう往路での北近畿タンゴ鉄道の訪問はできません。復路訪問に切り替えました。
▲ 自宅からは京都循環自動車道、以西は国道9号線と降りしきる雨の中を走りました。
18:48 自宅からの走行距離は約210キロ、運転時間約4時間半で「道の駅 神話の里 白うさぎ」に到着。近くのコンビニ内で夕食を食した後、近くの温泉を聞きますと、吉岡温泉が近いかなと教えていただきました。
町営共同浴場の吉岡温泉館でゆっくり運転疲れを取ってからビールを飲んでの就寝となりました。
元祖馬面電車より物申す
原産地「小倉」では馬面と命名したようであるが、花巻及び京津の地から本家本元として斯様なお名前拝借は威厳に関わるとして、「箱河豚」を常用とされたい。この電車は1956(昭和31)年東洋工機製造であるが、製造所は電気機器メーカーの東洋電機の子会社で、バス車体構造の鉄道車両などの製造は無理ではないかと思われる。ひょっとしてナニワ工機が車体のみ下請け製作したのかもしれない。呉市電1000型はナニワ工機製でバス車体構造とされており、つい先日まで四国松山で3両が健在であったが、今では1両が故郷に里帰りを果たしたと伝えられている。東洋工機の下請け車体製作を関西で知られているのは、和歌山電軌の連接車2000型連接車2編成で、老人がDRFC現役時代、ナニワ工機に御邪魔した際に鋼体製作中であった。それが翌1960年初夏に和歌山で発見、奥野師匠に口止めされた思い出をもつ。
「箱河豚」は1980年西鉄北方線廃止に伴い土佐電鉄に1両が買われ301号と命名された。土佐電鉄は1971年2月廃線となった下関・山陽電軌のワンマン改造済の軽量車700、800型を購入しており、その前年から土佐電もワンマン改造を国の補助を得て施工中であったが、たまたま「箱河豚」購入年に事業完了、事業継続を一両のために煩雑な申請手続きを要するため諦め、ツーマンカーとして残された。その際、幼稚園通園、下園電車を始めとする貸し切り電車として活用された。それを各社で導入され始めた「カラオケ、ビール電車」に改造することになり1985年夏に竣工した。従来の床に諸設備の配線を、床をかさ上げ、座席は胡坐を掻いても支障ない高さとなった。最初は扇風機搭載であったが後に冷房化された。窓はベネシャンブラインド取り付け、酒の澗とおでん温め装置、カラオケセット、ビール瓶立て等が設備された。
2007年301号は廃車になり、西鉄沿線の「かしいかえん」に引き取られ保存されている。301号の後継車は607号が引き継いでいるが、本格的な「カラオケ・ビール電車」とはなっていないように思われる。
西鉄北方線323型
都電7000形、8000形

7051と7052の行違い/(47-8-19) 竪川通~大島三丁目
関 三平氏の「昭和の電車」は、地下鉄が3回続いた後、路面電車シリーズになったようである。
次の加越能鉄道デ7050形、鹿児島市電500形に繋がる都電7000形、8000形の解説を試みた。
7000形
昭和28年から31年にかけて93両新製され、年度によりスタイルが多少異なる。
スタイルは正面2枚窓、前中扉と従来の車両とは大きく異なり、中扉の下半分のガラスが近代的感覚を感じさせた。
全車庫に分散配置され、8系統(中目黒~築地)を除く全系統で使用されたため都内各地で見ることができた。
現在も新製車体に載せ替えられた19両が荒川線で活躍している。
土佐電鉄600形、鹿児島市電500形は7000形をモデルに作られた。
よみがえった大阪顔をした電車の写真
阪堺電車に鹿児島の市電など大阪顔の原型ともいえる3001型のカラーポジ写真が以前に家を片付けている時に見つかった写真の中にありました。大阪顔の電車の話がでてきたのでデジタル化をしてみることにしました。しかし、ほかの写真(以前公開した加古川線、南海の緑の電車など)もでしたが保管が悪く、カビカビで赤く変色している部分があります。以前と同じように 何とか見入ることが出来るように画像処理ソフトを使用して修復を行いました。修復作業は根気よく、しかも時間をかけてじっくりしなければなりません。この作業はあまり長い時間を続けてすると目が疲れます。よって少しずつしかできません。今回はカビの被害が少なかったので何とか短い期間で2枚の写真が公開できるようになりました。ひどいものを修復するときは1か月以上もかかります。南海電車の写真はとにかくひどいもので苦労しました。
修復した写真をよく調べてみるとどうも守口で撮ったようです。
三山電鉄の不思議
先日、山形交通三山線の昭和34年9月訪問記を投稿したところ、後追いで廃線になるまでを哲夫君が紹介してくれ感謝している。これで一件落着の筈が、紹介した以外の三山電鉄があったらしいので頭を悩ましている。それは1996年10月に鉄道資料保存会から配本された【日車の車両史:写真集-創業から昭和20年代まで-】に掲載された一葉の写真(下に掲載)とキャプッションなのである。曰く【三山鉄道 大正15年11月 1~3 おとなしいスタイルの路面電車 後の山形交通モハ100形】とある。
これからすれば、全く異なる電車を見て撮影(再度掲載)してきたことになるので悩んでいるのだ。まして鉄道資料保存会にはクローバー会メンバーが2人いらっしゃる。なにかあれば老人の耳に入ってきそうなものだが、今に至るまで沈黙を守ったままである。
事の発端は【おとなしいスタイルの路面電車】の窓下に画かれた○の中に山三つがあるようだが、これが基で日本車両鉄道同好部の方がどこかで、ボタンの掛け違いをなさったようである。そこで大正15年11月製の【おとなしいスタイルの路面電車】を、和久田康雄氏の調査資料中心に探してみたのだが、今のところ行き当たらない。何処にあるのだろうか、真相はどうなのでしょうか、デジ青ファンで電車好きでお気づきのお方さま、悩める老人にお教え下さるようにお願いします。
2014年 遥かなる東欧の旅 Part15 ボスニア・ヘルツェゴビナの現役蒸気機関車 その3 Rangierenの19-12号機を撮る
鹿児島市電500型、600型
万葉線の話題
北陸新幹線を約一年後に控えた今年1014年3月29日 高岡ステーションビル完成に伴い 万葉線はそのビルの一階まで延伸する予定です。昔の風情ある電停も今は無く仮駅での営業となっています。その先の線路も完成しているようで説明によりますと2線での営業となるようです。当日より駅名も「高岡駅前」から「高岡駅」に変更になるようです。3月6日~7日に訪問した時は ビルはほぼ完成していましたが駅前ロータリーあたりは急ピッチでの工事中でした。
2014年3月6日の夜の仮駅に停車するMLRV1000形1005号です。雪が残り寒い夜でした。2両分の長さがあり 右方向に新駅への線路が伸びています。通常は1両しか停車しませんが朝の時間帯2両停車することがありますので 新駅は2線となっているようです。
2014年 遥かなる東欧の旅 Part14 ボスニア・ヘルツェゴビナの現役蒸気機関車 その2 Class 33を撮る
第8日目 2月22日
朝起きて気にかかるのは天気です。
昨夕からの雨は止まず降り続いています。撮影意欲は萎んでしまいますが、あらゆる状況下でも何とかするのがカメラを持つ者の腕の見せ所と思い直して出かけます。
ここのレストランの朝食もバイキングではなく簡単なプレートは運ばれてきました。コーヒーがブラックを選べないのが不満です。
8時前 撮影地① 標高195m
バスに乗って最初に案内されたのは、昨日最後に撮ったポイントです。日本人グループは、昨日車上からの石炭投げ捨ての洗礼に会いましたので汽笛が聞こえても線路際に行く気がしません。またこちらに向かってくる石炭搭載列車はバック運転ですので尚更です。1部のドイツ人が線路上で撮るのを遠くから見ていました。
▲ 8:12 ところが来た蒸気機関車は正向きでした。しまったと気が付いても線路際に行くには時間がありません。選ぶは、流し撮りだけでした。
いい加減な電車の原型の今
45465 「いい加減な電車の原型」の現在の状況をお伝えします。デ7000形の1期車はすでに無く 2期車はデ7012~7023の内7014を除く11両が活躍しています。記事にある写真のデ7013はグリーン系の広告電車で冷房車となり活躍しています。(2014年2月19日)

デ7000形の仲間のうちデ7022は今年1月27日より「レトロ電車」として運行されています。きれいな外装と共に木材を使った床や椅子テーブル、つり輪など乗ってビックリ 手間のかかったきれいな車内です。(2014年2月19日)

「レトロ電車」に改装される前のデ7022の写真です。左はデ7019でともに標準色です。デ7000形は全面広告の電車は少なくほとんどこの色です。
(2012年5月12日)
京都から 市バス・市電の話題ふたつ
地元ネタですが、今日は京都市電・市バスに関するイベント・展示場へ行ってきました。
▲京都市バスでは、本日、3月22日から新運転計画が実施されている。交通局では“大快革”と称し、三十数年ぶりの車両の大量増備を行ない、主要系統の増便、直行系統・急行系統の新設、夜間・深夜便の充実、均一運賃区間の拡大などを行なった。またサービス充実の一環として、“分かりやすさの向上”を挙げ、京都駅前を中心とした案内サインのデザイン一新、ラインカラーの導入を行なっている。余談ながら、上の写真の右端の6291号車は、1995年製。もう20年近く走り続けている、日本の公営バスの最古参車、今回の改正では車両増備があったものの、増発・増便がそれを上回り、結局、20世紀生まれのバスもまだ活躍することになった。
▲本日、京都駅前では、京都駅前バスのりばリニューアル記念式典が行なわれた。舞妓はんの背後が、新しくなった総合案内モニター。挨拶した京都市長は、「全国で公営バスが衰退して行くなか、京都市バスだけは、より便利に積極的に打って出る」とブチ上げた。式典では、局の要職に就かれた会員のKさんと会って話す機会があった。Kさんは、駅前のサイン・デザインのリニューアルを担当されたそうだ。一晩で、京都の街の表情が変わってしまうほどの作業はさぞたいへんだったろう。
残しておきたかった機関車DD10
相変わらず マイナーなDLを作っていて、また1両試運転を終えました。その名はDD10です。鉄道省、新潟鉄工所、芝浦製作所、川崎車輛、三菱電機、日立製作所の共同設計で 製作は川崎車輛が担当し 昭和11年3月に竣工した電気式DLです。8気筒600PSのディーゼルエンジンで発電機を回し、100KWモーター4個を駆動したそうです。運転整備重量が71Tonもあり 軸重軽減のためA1A-A1Aという軸配置で この台車(HT62)は後年 ED18用台車の原形になったそうです。性能的には蒸機の2120型と同等だったようですが、燃料事情が悪くなる一方の世情には勝てず 試作1両に終わりました。殆ど活躍することもなく戦時を生き延び 昭和22年9月に廃車されました。陽の目を見ることなく消えていった機関車ですので、残された写真も少なく 細部はわからなかったのですが なんとか完成しました。
窓から写した駅・列車 -4-
中国地方の交換駅
中国地方での窓から写した列車、続きます。なんせハーフサイズのネガを、さらに大幅トリミング拡大、その仕上がりにはご容赦を。
▲昭和39年に家族旅行で、山陰・山陽地方を旅行した時だ。6月の豪雨災害で、山陰本線は各所で寸断され、2ヵ月近く不通になり、ようやく開通したばかりだった。ダイヤはまだ混乱していて、乗車予定の宇野発博多行き準急「しんじ」も、途中の石見大田からの特発となった。準急「しんじ」は、宇野から伯備線・山陰本線・山口線経由の博多行き、という当時ならではの経由の準急だった。出雲市から石見大田まで普通列車を乗り継いで、ようやく「しんじ」に乗って山口線に入った。途中の日原駅で交換したのが、写真の小郡発石見益田行き527レを牽いていたD606〔津〕、独特の大型の集煙装置を着けていた。津和野区に配置されたD60は、山口線の客貨列車を牽いていた。本州で客車列車を牽くD60の活躍が見られたのは、山口線と磐越東線だった(昭和39年8月)。
▲山陽本線は、最後の電化区間として、小郡~広島が昭和39年10月に電化が完成している。山口線で小郡に出て、広島まで普通列車に乗った。牽引は、EF60の500番台で、この区間の電化工事が完了していたが、貨物列車は、まだD52の天下だった。島田駅で長時間の停車、その間、上り特急「かもめ」が追い越して行く。普通列車に冷房など皆無の時代、窓を開け放っても、熱気は全く収まらない。うだるような暑さのなか、それをさらに暑くするように、D52372〔柳〕が、ワキを連ねた急行貨物を牽いて通過して行った。山陽本線の貨物を牽くD52の写真は、この一枚だけ残った(昭和39年8月)。
列車が走り出した信楽高原鉄道
いい加減な電車の原型
タイトルからどんないい加減さであったか、この電車の原型をお目にかける。最初の7013号は2期車デ7012~7023(1960、1961、1970年・日車本店製)の第一陣のものであるが、これをええ加減に作ったのが加越能に入線したのである。この2期車は1期車7001~7011(欠番7004)と比べると乗り心地の良いものであった。なんでも1期車の台車は都電8000型の軽量タイプの設計をそのままに採用したところ、縦横ともに揺れがひどいものとなった最悪のボギー車であった。老人も最初、びっくりしたのであった。写真2枚目は台車構造が少し見える1期車の写真としたので、構造の一端を知ることが出来ると思う。加越能に来たのは2期タイプで、窓配置はええ加減でも、乗り心地はええ塩梅であった。
どですかでん氏の話に出てくる庄川ダム建設工事で活躍後、富山と福井に引き取られた電気機関車4両はザリガニ型で、80馬力4個の出力であった。

















