2012年春の中国鉄路の旅 Part20  哈尔滨から、北朝鮮との国境の町 图们(도문=図们)へ

第23日目 5月11日  ハルピン→吉林→図们

① 
ハルピン1 6:40(D114次)→19:30 吉林  357キロ  2時間50分
② 吉林 22:58(K7323次)→8:17 図们      529キロ  11時間8分

ハルピンから乗車したD114次は、京濱線を150km/h前後で快走し长春駅に到着しました。殆どの乗客は降りましたが、また同じくらいの乗客が乗ってきます。定刻にスイッチバックで発車しました。2010年12月に正式開業した长吉高速鉄路を200km/h弱で駆け抜けます。本来は、250km/h走行可能ですが、痛ましい温州での事故によりスピードダウンされています。
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2012年 春の中国鉄路の旅 Part19  满洲里(満州里)から哈尔滨(ハルピン)へ

第22日目 5月10日  满洲里4日目

① 满洲里 19:09(2626次)→9:3 2ハルピン  919キロ 14時間23分
② ハルピン 16:40(D114次)→吉林 22:58(K7323次)→図们

今日は、夕方遅くの列車で「ハルピン」に向かい、翌日夕方は吉林圣由で、翌々日北朝鮮国境の町「図们」に着く予定です。車中泊は連泊となります。

朝からHP投稿作業にまい進していると 、ドアがトントンされます。朝からマッサージお姉さんの到来かと思ったら、お茶目な支配人が立っていました。今日は何時の列車に乗るのか聞いてきます。19時と言うと、「チェックアウトの延長が必要でしょう。18時にホテルを出れば間に合います。延長料金は80元(約1,100円)で良いですよ。それまで部屋でゆっくりしてください。」 と、最後は中々気のきいた格安サービスでした。

▲ 毎日食べても飽きないジューシーなスープ入りの水餃子。ビールを入れても、わずか9元(約120円)の駅前食堂で食べて、25分前には待合室に参りました。

 

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2012年 春の中国鉄路の旅 Part18  ロシア国境の町、满洲里(満州里)その4

第21日目 5月9日  满洲里3日目

昨夕、運転手君から明日はどうしますか?との問いかけがありましたが、蒸気機関車が走っているのを撮らなければ满洲里に来た目的の一つが果たせないので、明日も再度ジャライノールへと言おうとして止めました。满洲里に来た目的の3番目は、休息です。ホテルでゆっくりと休んで、画像編集やHPへの投稿原稿作成したりで、くつろぎの時間を持ちたかったからです。

しかし、宿泊しています 秀山国際商務休閑会館 は、客室160室もあるというのにひと気がありません。毎日朝食を食べに行くのですが、ショボイもので、ゆで卵の数は宿泊者と多分同じ数しかありません。1日目は6個、2日目は4個、そして今日は2個です。それだけしか泊まってはいないのは、町の繁華街から離れているからでしょう。飛び込みの客は全く期待できないロケーションです。

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2012年 春の中国鉄路の旅 Part17  ロシア国境の町、满洲里(満州里)その3と、扎赉诺尔(ジャライノール)

第20日目 5月8日  满洲里2日目 ジャライノール(扎赉诺尔)へ

2009年9月に露天掘り炭鉱が閉鎖されて1904年からの歴史を閉じたジャライノール露天掘り炭鉱には、数10両もの蒸気機関車が活躍しました。樺南林鉄訪問後に满洲里に向かうとO氏に言いますと、まだ 地上部分には走っているはずですと、詳しい地図を描いてくださいました。今日はこれを持って、蒸気機関車を追いかけるつもりです。


▲ 8:30、運転手君ホテルのロビーでお待ちでした。满洲里から ジャライノールまでは約30キロです。街中を通過、一直線に向かいます。
9:07 ジャライノール西駅に到着、始めて見ましたがローカルにしては大きな駅です。售票処は2つの窓口が開いていましたが、営業時間は決まっているようです。丁度、海拉尔行きの4188次の改札が始まりました。

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2012年 春の中国鉄路の旅 Part16  ロシア国境の町、满洲里(満州里) その2

第19日目 5月7日 国境へ

Taxiに乗って、ホテル前の道を西へ約8キロ進みますと国境が見えてきました。

▲ 一直線に伸びる道を走ります。①はバスターミナル、②は、内蒙古大学满洲里学院、③は体育館です。ロシア風の建築が多く、否応にもロシアに近いと感じさせてくれます。



▲ 解放型JF1861号機(元満鉄のミカイ形)が展示されています。これだけが撮りたくてやってきましたが、折角来たので、周りを散歩しました


▲ 中国とロシアとの国境には緩衝地帯があり、これを挟んで双方の国境門が設置されています。ここには、鉄道を跨いでの門がありました。どう見ても中国の方が数倍も大きくて立派です。是非とも行きたいのですが、外国人は入場禁止です。上手く通れる方法はないかと思案していましたら、切符販売窓口に運転手君は自分の身分証を出してしまいました。そうなると私も出さなければなりません。これでアウトです。黙って、お金だけ出して2枚といえばいいものを・・・。
左下は、北国第一門です。

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南海のロクサン

モハ63は諸先輩の思い出の中で生き続けていたことがわかりました。たしかに人生と重なる電車でした。今回はtsurukameさんの山陽のロクサンと同じように南海へ売られていったロクサンの話です。ただ読んでみると貧しかった戦後の子供達とおなじようなロクサンの中でちょっと裕福感のあるロクサンです。

2012年 春の中国鉄路の旅 Part15  ロシア国境の町、满洲里(満州里) その1

第18日目 5月6日 K7091次に乗って满洲里へ

ハルピン東20:15(K7091次)→10:00满洲里   954キロ 13時間45分

小竹先生はじめNSさん、MIさん、STさんは早朝にハルピン空港に向かわれました。朝食をご一緒に出来たのは、明日の瀋陽から帰国されるO氏と、大連でゆっくりしてから帰国されるTHさんの二人でした。

今日からいつもの一人旅がまた始まります。最初に向かうは、ロシア国境の町「满洲里」です。前回の44日間の旅では、あじあ号の展望車を求めて「黒河」に参りました。同じ国境の町ですが、黒河では鉄路が切れていましたが、满洲里では中国側1,435mmに対して、ロシア側は1,524mmとゲージ幅が違っていますが、国際列車では台車交換をすることで車両は相互乗入をしていますので、一応つながってはいます。

乗車は、夜で十分な時間があります。樺南ではホテルの部屋にインターネット接続がありませんでしたので、投稿及びハルピンに戻って以降の行程が決められませんでした。(出来ていても、連日飲み続けていましたので、部屋入り即爆睡でしたので無理でした。)
朝から部屋で、鉄路の残席情報を見ながら、今からでも購入できる切符を探します。出来れば、满洲里と反対東側の国境へ行ってみたいです。绥芬河図们をノミネートしましたが、両方を行くとなると接続が難しく、日程オーバーとなりましたので諦め、北朝鮮国境の図们にしました。O氏とTHさんを見送った後一人部屋で、滞っているHP投稿のための画像処理に専念していますと、コンコンとドアをノックする音が聞こえます。開けますと、王さんが空港までの見送りを終えて戻ってこられていました。
ハルピン駅外の票処(切符売場) を確認させていただきました。帰路にはお住いのある長春に立ち寄りますと申しますと、発電所に蒸気機関車が走っているので案内できます。是非名物の犬鍋もご馳走したいと嬉しいお話もいただきました。チェックアウト時間も午後2時までに延長してくださいました。

今日は小雨がぱらつくあいにくの天気です。ルピン駅発着を撮りたかったのですが、諦めて投稿準備に専念しましたが、ノートPCでは処理作業が遅く午後2時近くになっても進みません。
仕方ありません、際丰假日酒店をチェックアウトして教えてもらった票処のある駅前の天竹賓館に行きました。切符を買って昼食後には、4時間の休憩チュックインをして続けました。中国のホテルでは、昼間の部屋利用が一泊の半額程度で可能ですので便利です。

▲ 切符は、ハルピンから吉林、乗り継いで図们へ、帰路は長春までの3枚購入です。どうして乗り継ぐのかといいますと、パルピンから図们へ直通の2636次の切符が売切れだったからです。1本しかないので、繁忙期でなくとも難しいようです。
切符を買った天竹賓館の1階には餃子専門店が入っています。ハルピンの餃子は、上海の小籠包のようにジュウシーなスープが入っていますので、大好きです。
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63によせて

三井三池にはかないませんが、秩父の63のなれの果ての写真がありますのでご紹介します。撮影は平成11年4月3日 当時は群馬郡群馬町、今は高崎市群馬町保渡田というところにある自動車整備工場の一角にあるデハ801の廃車体です。秩父に来る前は 小田急の1800系だったそうで、昭和54年10月に秩父に来て平成2年3月に引退したようです。従って廃車後9年経過後の姿になります。自動車整備工場なので、色あせてはいるもののかなり手入れはよく、倉庫ではなく日常生活用に使われていたようです。パンタはありませんが、台車はそのままでした。今でもまだあるのかどうかは不明です。秩父鉄道沿線でもない榛名山のふもとになぜやってきたのかわかりません。運び込むのも大変だったと思われます。何しろ狭い場所に鎮座していてこんな写真しか撮れませんでした。車歴などは諸先輩の解説をよろしくお願いします。

無電装63型によせて

電車ではなく客車として製造されたのが三井三池(大牟田)の車両です。コメントに写真が入らないので、新たな投稿とさせていただきます。廃車に至るまで製造時の形態を残しておりました。画像はホハ203で、コハ106と連結されて走っていました。1972年撮影。

モハ63形 → クモハ73形


  仙石線 陸前大塚~陸前富山間を走行する特別快速石巻行
  クモハ73003+サハ78008+モハ70124+クハ79230 の4両編成 (49-4-29)

関 三平さんの「昭和の電車」は、四国の電車が続いたので次は九州かと思っていたところ、63回に因んでモハ63→クモハ73であった。次回64回目は「クモハユニ64」ということはないだろう。

今回のイラストは電車の行先が「上野」になっているので常磐線のとある駅の風景と思われるが一寸見当がつかない。お判りの方はご教示願いたい。隣にはクモハ73の近代化改造車が描かれているので時期は昭和37年以降であることが判る。 

クモハ73形とそのグループは、戦後の国鉄を代表する通勤型電車で、東は仙石線から西は山陽本線の小郡まで活躍した。車体の老朽化や使用線区に応じて手を加えられ、施工時期や工場により差異のため、細かく観察すると1両として同一スタイルの車両が存在せず興味が尽きない。これらを全部解説すると500ページの本になってしまうので、クモハ73形の一部を紹介させていただきたいと思う。

クモハ73010/昭和23年近畿車輌でモハ63526として新製。27年3月吹田工場で改造。49年6月淀川区(片町線)で廃車。(47-12-1 住道)
モハ63形は、大阪向け車両と東京向け車両では仕様が異なっていた。外観上は運行窓が大阪向けが2桁に対し東京向けは3桁であった。
73010の経歴は、淀川区から36年11月に環状線101系化により東十条に転属、41年3月淀川区に戻ってきた。

クモハ73041/昭和22年日本車輌でモハ63593として新製。27年10月吹田工場で改造。59年8月広島区(可部線)で廃車。(50-2-2 広島)
広島区では当初呉線で使用し、後に可部線で使用した。窓のアルミサッシ2段化、扉の半自動化が行われた。

 クモハ73052/24年汽車会社でモハ63823として新製。28年3月日本車輌で改造。52年3月淀川区(片町線)で廃車。(48-2-4 住道)

 クモハ73053/昭和23年汽車会社でモハ63769として新製。27年12月吹田工場で改造。51年10月広島区(呉線)で廃車。(48-1-28 広島)

クモハ73059/21年日本車輌でモハ63393として新製。27年6月日本車輌で改造。54年8月陸前原ノ町区(仙石線)で廃車。(48-4-30下馬)
仙石線配置車両は防寒対策のため、暖房の強化、ベンチレータの取り替え、窓のアルミサッシ2段化、扉の半自動化が行われた。

クモハ73061/21年汽車会社でモハ63214として新製。27年6月日本車輌で改造。60年6月広島運転所(可部線)で廃車。(42-3-26武蔵中原区)

クモハ73062/23年汽車会社でモハ63746として新製。28年4月日本車輌で改造。49年12月青梅区(青梅・五日市線)で廃車。(49-5-1 青梅)

クモハ73073/22年川崎車輌でモハ63632として新製。27年7月日本車輌で改造。47年3月淀川区(片町線)で廃車。台車はDT15。(47-2-16 京橋)

クモハ73075/22年日本車輌でモハ63419として新製。27年8月日本車輌で改造。51年12月淀川区(片町線)で廃車。(48-9-15 住道)
 

クモハ73081/22年汽車会社でモハ63215として新製。27年8月日本車輌で改造。52年3月淀川区(片町線)で廃車。(48-9-15 住道)

クモハ73083/22年日本車輌でモハ63395として新製。27年8月日本車輌で改造。51年4月淀川区(片町線)で廃車。(48-6-17 住道)
 

クモハ73091/昭和21年日本車輌でモハ63297として新製。27年9月日本車輌で改造。51年11月広島区(呉線)で廃車。(48-1-28 広島)


クモハ73098/23年川崎車輌でモハ63848として新製。28年4月汽車会社で改造。51年5月陸前原ノ町区(仙石線)で廃車。台車はウイングバネのDT14。(48-4-30上:東塩釜 下:下馬 臨時快速「コバルト金華山号」)

クモハ73108/23年川崎車輌でモハ63802として新製。28年5月汽車会社で改造。52年3月淀川区(片町線)で廃車。(48-9-25 住道)
 

クモハ73129/23年汽車会社でモハ63755として新製。27年12月日本車輌で改造。47年2月沼津区(御殿場線)で廃車。(41-2-14 京都)
経歴は40年12月蒲田から明石に転属、45年2月沼津に転属。

クモハ73134/22年近畿車輌でモハ63544として新製。28年8月東急車輌で改造。51年12月青梅区(青梅・五日市線)で廃車。(49-5-1 青梅)
 

クモハ73159/21年川崎車輌でモハ63366として新製。27年9月汽車会社で改造。 50年11月津田沼区(総武・房総・成田線)で廃車。(49-2-1 大阪)


クモハ73189/21年川崎車輌でモハ63366として新製。27年12月汽車会社で改造。51年11月淀川区(片町線)で廃車。(45-11-15 京橋)
経歴は41年3月下十条から明石に転属、45年2月淀川に転属。暫く茶色のままで使用。

 クモハ73193/23年汽車会社でモハ63787として新製。27年12月汽車会社で改造。 47年4月沼津区(御殿場線)で廃車。台車はDT15。(41-1-23 京都)
経歴は40年12月蒲田から明石に転属、45年2月沼津に転属。

クモハ73205/23年汽車会社でモハ63779として新製。28年1月汽車会社で改造。 50年3月西明石区(大阪緩行線)で廃車。台車はDT15。(47-3-12 大阪)
 

クモハ73247/22年汽車会社でモハ63667として新製。27年10月東急車両で改造。 50年11月津田沼区(総武・房総・成田線)で廃車。(47-12-1 )

クモハ73273/23年汽車会社でモハ63771として新製。27年12月東急車両で改造。 52年3月武蔵中原区(南武線)で廃車。台車はDT15。(50-3-23 稲城長沼)
「稲田堤」の行先板は珍しい。

クモハ73287/23年川崎車輌でモハ63692として新製。28年2月日本車輌で改造。 55年1月陸前原ノ町区(仙石線)で廃車。(48-4-30 下馬)


クモハ73295/23年川崎車輌でモハ63692として新製。28年2月日本車輌で改造。 49年12月鳳区(阪和線)で廃車。台車はDT14。(47-12-10 )
 

 クモハ73297/23年日本車輌でモハ63776として新製。28年2月日本車輌で改造。 55年7月陸前原ノ町区(仙石線)で廃車。(48-4-30 東塩釜)


 
クモハ73301/21年日本車輌でモハ63267として新製。28年5月日本車輌で改造。 52年8月鳳区(阪和線)で廃車。(47-12-10 天王寺)

クモハ73331/24年汽車会社でモハ63825として新製。28年6月汽車会社で改造。55年5月陸前原ノ町区(仙石線)で廃車。台車はDT15。(48-4-30 下馬)
 

 クモハ73337/24年汽車会社でモハ63801として新製。28年7月汽車会社で改造。53年8月弁天橋区(鶴見線)で廃車。(47-2-20 大阪)
 
 クモハ73403/25年川崎車輌でモハ63857として新製。当時新製されていた80系(湘南形)70系(スカ形)と同レベルで製作されたため、特に改造されることなく、28年6月改番。モハ63形出身の73形のラストナンバーであった。50年3月淀川区(片町線)で廃車。台車はDT14。(47-12-10 住道)


【近代化改造車】
モハ63形出身のクモハ73形、モハ72形が老朽化してきたため、昭和37年から大規模な改造が行われることになり、クモハ73形、モハ72形各44両と、ローカル線転用に伴うクモハ不足に対応するため、モハ72形に運転台を取付けクモハ73形500番台に改造する工事が20両実施された。外板の張替え、車内化粧板のメラニンプラスチック化、窓の2段化とアルミサッシ化等が実施され、見違える程になった。こちらについてもクモハ73形の一部のみ紹介する。
また、これらの改造以前に、昭和35年吹田工場で試験的に改造された車両についても紹介する。

クモハ73001/昭和35年12月吹田工場で実施された試作整備改造車。経歴は21年日本車輌でモハ63143として新製。27年3月吹田工場で改造。60年6月広島区(可部線)で廃車。(41-8-25 京都)

   クモハ73233/昭和36年4月吹田工場で実施された整備改造車。経歴は22年日本車輌でモハ63579として新製。27年9月東急車両で改造。51年4月淀川区(片町線)で廃車。(48-11-3 京都)
 
 クモハ73020/22年近畿車輌でモハ63506として新製。27年3月吹田工場で改造。40年2月鷹取工場で近代化改造。52年2月淀川区(片町線)で廃車。(48-2-4 住道)
 

クモハ73024/22年日本車輌でモハ63515として新製。27年11月吹田工場で改造。38年6月吹田工場で近代化改造。55年10月沼津区(御殿場線)で廃車。(47-3-1大阪) 

クモハ73028/22年川崎車輌でモハ63562として新製。28年3月吹田工場で改造。38年10月吹田工場で近代化改造。54年11月沼津区(御殿場線)で廃車。(49-4-27  沼津)
 

クモハ73045/22年汽車会社でモハ63711として新製。27年10月吹田工場で改造。40年2月浜松工場で近代化改造。51年10月淀川区(片町線)で廃車。(48-7-15  住道)
 
 クモハ73114/23年近畿車輌でモハ63845として新製。28年6月汽車会社で改造。40年11月鷹取工場で近代化改造。55年5月沼津区(御殿場線)で廃車。(49-4-27  沼津)

  クモハ73359/23年汽車会社でモハ63759として新製。28年5月汽車会社で改造。38年2月吹田工場で近代化改造。54年9月沼津区(御殿場線)で廃車。(42-6-8  京都)
 
 クモハ73517/22年汽車会社でモハ63759として新製。28年3月豊川分工場で改造してモハ72231となる。42年3月大井工場で近代化改造と運転台復活。53年2月武蔵中原区(南武線)で廃車。(50-3-23稲城長沼)


ジュラルミン電車から全金属車に改造された車両と事故復旧時に全金属車に改造された車両、103系と同様の車体に乗せ換えた車両等については、機会があれば紹介したい。

2012年 春の中国鉄路の旅 Part14  小竹直人企画「最後の樺南林業鉄道、撮影ツアー」その3

今日は、まだ樺南林鉄撮影の3日目ですが、最終日です。昼前には、ハルピンに向けての帰路となります。小竹先生から、そしてO氏からも、まだこれからの旅の予定を決めておられないようであれば、我々の代表として残って、樺南林鉄の最後を見届けることも、選択肢の1つに加えて欲しいとのお話がありました。今回は、前回の44日間とは違って東北地区に絞って、国境沿いを回る乗り鉄旅をゆっくり楽しもうと思っていました。既に6日の满洲里行き、11日帰路のハルピン着までの切符は購入済ですので、11日以降に樺南林鉄への再訪問は、可能です。

多くの訪れる鉄ちゃん達を魅了した樺南林業鉄路です。ウヤが日常的でまた長期間に及び、中々運行に巡り合えなかった林鉄でしたが、今回は撤去完了日までの運行は確実です。どうしようかなと思案が続いていました。そろそろ結論を出さねばなりません。迷った挙句は、撤去最終日に何らかのイベントが実施されるようであれば再訪問、なければ皆さんと一緒に撤去途中ではありますが、見送った思い出を大切にしようと思いました。
王さんに林業局の偉いさんか、現地で運行に携わられた方々参加のイベントがあるかどうかの問い合わせをお願いしました。この返答次第で、今後を決めることにしました。

 

第17日目 5月5日 樺南林業鉄道撮影 3日目

今日も朝6時にロビー集合です。今日は昼までということで、 陀腰子までの区間で撮影で、バイクに乗っての山入りはありません。真っ直ぐに、樺南駅機務段に向かいました。
6:15、今日の1番列車の牽引は、3日間連続の168号機です。
ここで、柏崎からお越しのTHさん、町を歩いて郵便局や国鉄樺南駅に行ってみたいと、皆さんと別れて行かれました。THさんは、中国語を全く話せません。ちょっと心配な小竹先生は、携帯電話を渡されていました。でも鉄ちゃんは、このくらいの好奇心がなければいけませんね。私も中国語は少ししか話せませんが、いつもこんな調子でぶらりと大地の町々を歩いています。
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2012年 春の中国鉄路の旅 Part13  小竹直人企画「最後の樺南林業鉄道、撮影ツアー」その2

16日、最後の訪問地長春から、夜行寝台列車Z62次で北京へ、翌17日朝、北京からは昨年開通した京滬高速鉄道の商務車(グランクラス)に優雅に初乗車して、上海まで南下しました。上海から直ぐにJAL便に搭乗し、一昨日深夜の0時前に無事帰還いたしました。珍しく寝ずに待っていた家内の第一声は、「お帰りなさい。あらまあ、随分と引き締まった身体になったねえ! ぶよぶよ老人だったのに、お尻も上がって、足の筋肉はバリバリに硬くなってるよ! 凄いね。でもお腹は、元のままだねぇ。」 でした。毎日欠かさず、水代わりに何本も飲んでいたビールのせいですね。前回の44日間に続いて、今回も29日間に及ぶ長い旅でした。当分は、撮影写真の整理と投稿を続けながら、身体を休めます。

 

第16日目 5月4日 樺南林業鉄道撮影 2日目

今日は、ロビーに6時集合して、直ぐに樺南林鉄の起点の樺南駅へと向かいます。

▲ 今日の6:30の始発作業列車は、昨日同様に168号機が務めますが、機務段(機関区)から044号機も出てきて、デルタ線での方向転換に向かいました。両方とも動くようです。

▲ 6:38、市内の道路併用軌道には、作業員の乗る停車場がありました。ここで作業員数人を拾って、離合が出来る大金缸駅で途中停車してから、12.5キロ先の下樺駅へと向かって行きます。私達も後を追って、追い抜き、適当な場所での撮影ですが、今日は朝から厚い雲が覆っていて、芳ししカットは撮れません。

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本日の185系(157系色+湘南色)

本日のあかぎ4号の新前橋から上野9:41着と あかぎ1号上野19:00発の新前橋までと 関連の回送列車はOM08(157系色)とOM03(湘南色)の14連でした。185系の14連の運用はこれしかありませんので なかなかこの編成の組み合わせはお目にかかれません。運用をたどり今日こそと東十条で写してきました。18:40にやってきました。19:00上野発のあかぎ1号を写したいのですがは暗くてきびしいのでその前の回送列車です。雰囲気だけでもお楽しみください。


上野に向け快走(回送)中

左 OM03( クハ185-306)  右OM08(クハ185-214)です。

本日吾妻線で651系7連(K104)の試運転が行われたようです。近いうちに大宮の185系は655系に置き換わるようです。

山陽電鉄、標準軌間のモハ63型

モハ63、筆者にとって何とも懐かしい電車です。省線立花駅から三宮までの往復で何度も乗車しました。それから0番のキットを買い、初めて作ったのも、全長50cm近くのモハ63型模型電車でした。

尼崎から神戸に移住した1951年以後は、山陽電鉄700型としょっちゅう出会うことになりました。小学校校舎に接して北側が山陽電鉄東須磨駅です。5,6年生の時、我々は南側の教室でして、電車の見える北側教室がうらやましくて仕方がありません。よく北側教室に忍び込み、窓から駅を見下ろし、通過する700型などを見に行ったものです。

終戦後、国鉄同様私鉄も多くの車両を失い、輸送がままならぬ状況は諸兄ご存じの通りでした。国鉄で設計製造した63型を国鉄が一括発注し、私鉄に振り向けられた総数116両の内の20両(モハ63800-819)が山陽電鉄向けでした。その内の奇数番号車はクハでなく、モハの無電装車だそうです。製造は全車川崎車両。車両様式はモハ63型に準じているが、座席、天井、配線工事などの細部は、電鉄の注文に応じて改善されていたそうです。

山陽に入線当時、番号の内モハを取り、800-819をそのまま使用していたようですが、1949年700型700-719に改番されたので、筆者はその番号車を見ていません。また、入線時の窓は三段でしたが、のち二段に改造され、下側の窓には他の形式車両同様、保護棒が取り付けられています。また、下の写真717号車は未電装車ですので、屋根の先頭部にはパンタの設置予定スペースがそのままです。パンタ台はさすがに取り払われていますが。

初めて写真に撮ったのは、1960年9月モノクロでした。カラーは下の画像1962年1月が最初です。
この兵庫駅は1963年4月7日、神戸高速鉄道の開通にともない消滅しました。ここから西代駅までの約2km近くが道路併用軌道です。国鉄様式の大型車両が、電圧も軌間も異なる山陽電鉄に入線。その翌年に昇圧や駅ホームの延長など、幾多の困難を解消したとはいえ、道路併用軌道を走り、その上に長田では神戸市電と平面交差するのですから、それはそれは大変な事柄だったのです。

こちらは、姫路市の女鹿-白浜の宮間。筆者が正月に山陽電車を撮影する時はカラースライドでした。直線の多いこの区間は静かな播州米の産地でもありました。この辺りではさすがの大型車両でも様になります。

翌年の正月、須磨浦公園を過ぎて塩谷に向かう途中です。昔、右手石段組の坂道を上ると、藤田ガーデンがありました。今は失くなりましたが跡地に大きなマンションが建ち、当会の有名なお方が住んでおられます。

山陽に来た20両の内、2両を西代車庫の火災で失いましたが、18両が健在で撮影時にも頻繁に出会いました。
戦後の混乱期の電鉄に、大いなる貢献を果たしたモハ63型700形式ではありましたが、他形式へ転換車などを除き、老朽化が進み、20数年の活躍の後に、1969年までに廃車されました。

山陽電鉄とは無関係ですが、モハ63の話題のついでに、ジュラルミン電車のことを少し。

1946年川崎車両においてジュラルミン電車6両が誕生しました。モハ63400-402(電装して蒲田電車区に配属時は、モハ63900-902と附番された)、サハ78200-202です。下の写真は川崎車両の完成時の公式写真です。
(『蒸気機関車から超高速車両まで-写真で見る兵庫工場90年の鉄道車両製造史-』、川崎重工車両事業本部、平成8年、交友社)より。 材料は終戦で不要となった航空機用ジュラルミン10万トン活用の一端として車両製造に向けられたものです。ただ、無塗装であったため、腐食が進み、のちに塗装されたり、全金属車に改造されています。(『国鉄電車の歩み』、交友社、『電車のアルバム』、交友社を参照)

アルミニウム金属を主体に、第二成分として銅を混ぜた金属アロイ(合金)がジュラルミンです。新幹線車両をはじめ、最近の車両に使用されるアルミ合金はアルミニウムに、第ニ成分にマンガンを、第三成分にシリカを(6N01)、もしくは亜鉛を(7N01)のアロイです。こうしたジュラルミンは立派なアルミニウム合金ですし、『ジュラ電』はアルミ合金製車両の先駆車でもあると筆者は考えます。勿論台枠は鉄、内装材に一部木材も使用され、オールアルミカーではありませんでした。オールアルミカーが誕生するのはジュラ電から16年後、山陽電車の2012+2505+2013です。やはり川崎車両製でした。これはオールアルミカーの第一世代車と呼ばれています。そして現代の新幹線車両などは第四世代のオールアルミカーと呼ばれています。調査事項も含め、この辺のことは、別の機会に稿を改めます。

コメント投稿機能の不具合について

こちら管理人の小西です。
先月末より、特定のユーザからコメントが投稿できないという不具合が報告されています。当初はよくあるスパムフィルタの検閲によるコメントブロックを疑いましたが、検閲リストに該当コメントが残っていないため、原因は異なるようです。

他にも調べてみたのですが、残念ながら現在原因不明です。drfc-ob.com開設からかなり時間が経過しており、掲示板のバージョンも古くなっているため、現状改善を願って最新版にアップグレードしてみる予定です。
アップグレードに伴い、掲示板の投稿画面の仕様(見た目など)が微妙にかわる可能性がありますが・・・悪しからず。

2012年春の中国鉄路の旅 Part12  小竹直人企画「最後の樺南林業鉄道、撮影ツアー」その1

第15日目 5月3日 樺南林業鉄道撮影 1日目

ようやく今回の旅も半ばとなりました。昨夕合流した今回のツアー参加者は、7名です。リーダーの小竹直人先生の他に、通訳兼案内人の中国人の王国軍さん、紅1点のアシスタントの王森玲さんを入れると10名になります。
参加者の方々は、 新潟の柏崎市からお越しのTYさんを除いては、中国鉄ちゃん歴が長い方ばかりで、大先輩です。TYさんも訪中は何回かされておられますが、中々鉄道撮影の機会がなかったと話されていました。

教えてもらう事が多い旅となりますが、昨日早速に愛用NIKON300Sの具合が良くない。明るい所でもピントが合わず、シャッターが切れないので困っていると相談しましたら、同じNIKONを使っておられる小竹先生はじめ、STさん、NHさん等から、「今どんなセッティングをされていますか? ふむ、ふむ・・、それなら、このようにした方が良いです。・・・どうですか?」 と、懇切丁寧に教えていただきました。教えてもらったセッティングに変えますと、あら不思議!、今迄が嘘のように快調にシャッターが切れるようになりました。ツアーに参加しますと、今迄知らなかった事( と、いうより不勉強 ) を、教えていただく機会にもなります。参加の大きなメリットの1番目でした。

フイルムカメラ時代は、使用するフイルムの選択、シャッタースピード、絞りのマッティングと、レンズやフィルターの差し替え等が、テクニックでしたが、デジタルカメラとなってからは、誰でもオートで、それなりの写真が撮れるようになりました。もっと描写を必要と望む人には、数々のセッティングを選択することが出来ます。しかしそれには、カメラの持つ様々の機能を熟知する必要があります。残念ながら、ボケが入ってきた老人には、教えてもらって、また勉強しても直ぐに忘れていきます。困った事ですが、乗り越えないと、狙ったカットは撮れないのでしょうね。、

昨夜の睡眠時間は、わずか約4時間弱でしたが、みなさん元気に朝7時半には1階ロビーに集合して、チャーターバスに乗車しました。

▲ 7:38、樺南林鉄の始発駅に到着しました。作業列車は、6時半頃に出ていましたが、機務段(機関区)には、C2-044号機が息づいているのが見えました。

▲ 先に出た列車を追いかける事になりました。8:25、樺南ファンには有名な、陀腰子の肉屋自宅に到着、ここで持てない不要な物は預けて、バイクに跨ります。私は、台湾と芭石鉄道での経験はありますが、怖くて不安です。8時30分過ぎには出発しました。


▲ ここからは、線路沿いの狭い犬走りを山に向かって一直線に走ります。橋があると、降りて渡れば、また乗ります。犬走りも左から右へ、また左へと走路を替えますので、その度に降りて、乗るの繰り返しです。

▲ 山に入ると急坂ですので、降りて上がり、また乗ってカーブが続く犬走りを快走します。走行スピードは、30~50km/hと、スリル感は満点です。怖い私は、必至でしがみ付いての乗車でした。
樺南はご覧のとおり、新緑にはほど遠く、雪解けが終わったばかりです。所々に残雪がありました。泥濘道も多くなってきました。時々、後輪がながれるので、ヒヤヒヤです。降ろしてもらって歩きます。
9:25、ようやく待ってもらっていた作業列車が見えました。峠の立新駅に到着です。


▲ 今は勿論使われていない 立新駅舎です。1974年の表示がありました。右は、休憩所です。かつて撮影華やかだった頃には、雑貨屋があって、奥の部屋は、泊まれる民宿になっていたそうです。最初は、2食付で50元(約650円)だった宿も、鉄ちゃんが押し寄せるようになってからは、100元、150元と値上げしていき、最後の頃には300元(約3,900円)にもなったと、小竹先生は言われていました。ここに何泊もされているO氏は、ひどい時はギシギシで詰め込まれて、身体を横にしないと寝れなかった。みんなは、ここを立新貧館と呼ぶと、分りやすい説明を入れてくださいました。


▲ 作業列車は、C2 +カブース+レールバス+貨車3両で編成されていました。このレールバスは、個人経営で線路を借りて、客を乗せて運行していたそうです。片運転台で、シートは木張りのクロスシートです。


▲ 9:30、給水を終えたC2-168号機は、ゆっくりと撤去作業現場へと推進運転で下りて行きました。

▲ 作業列車を見送った後は、
樺南方向から、もう1台の044号機も上がって来ます。王さん、下山してカマに乗り込み、煙演出をお願いします。11:57、王さんを乗せた044号機が上ってきました。煙のサービスです。この後2回も、フォットランをしました。


▲ 手前に引きつけてのカットを望みましたが、止まってしまい、先ほどまで我々の傍から離れなかったおじさんを乗せて立新駅に上がっていきました。どうしたのと聞きましたら、樺南名物の「おねだり」です。自分には何も行き渡らなかったので、こちらに来たわけです。タバコを渡して、一件落着ですが、ここまでくると、もう駄目ですね。おねだり癖が染みついています。


▲ 12:55、再び立新駅まで上がりますと、機回しを終えた044号機は、給水です。しかし、良く給水設備を残してありましたね。石炭は、貨車に積んでも運べますが、水は大量に必要ですから、なければ走れません。


▲ 14:07、044号機は、道床から剥ぎ取った枕木を積んだ貨車を牽引して、山から降ろします。O氏お奨めの場所に行って、全員で撮りました。

15:40、今度は、立新から先の撤去現場最前線に行く事になりました。初めて私が先頭になって、下ります。10台もバイクが犬走りを走るのは、壮観です。
しかし、途中でレール切り作業を終えたおじさん、おばさん4人が、ボンベを犬走りに置いて待っていますので、通れません。
もうじき引き揚げ列車が来るので、もっと手前で撮りなさいと言われました。
私には、どこが良いのか分りませんが、この地での撮影経験者ばかりです。誰かが、「じゃあ、あそこにしましょう。」と言えば、すぐに「そうだな、あそこがいいなあ。」 と、直ぐに相槌が返ってきます。最後尾のバイクが、反対方向に向きを変えて、もと来た道を上がっていきました。

▲ 16:10、作業を終えた工事人達と、剥がしたレール、枕木を積んで列車がやってきました。春が来たとはいえ、まだ冬枯れの山に白樺の白さが引き立ちます。これが、樺南だったのですね。ただ、これで白煙でも良いので、出てくれば最高ですが・・・。


▲ これで引き揚げかと思いましたが、まだまだ追っかけがありました。立新駅での給水作業中に追い抜きました。撮影場所は、みなさん好みでバラバラになりましたが、私は小高い山に登って、立新駅をバックに入れたカットにしました。斜光には、逆光でしたが、山里の駅を出て走る雰囲気は出ました。煙があると、もっと良いのですが・・・。

▲ 陀腰子のこの村には、悲しい物語があります。開拓団のみなさんが、遠く故郷を思い浮かべながら、家の門は鳥居形にしました。今も残り、鉄製の新しい門までできていました。O氏からもお話を聞きましたが、投稿しています中国では、こういったプログや歴史については、アクセスが出来ないようになっていますので、また改めて調べて掲載します。

▲ 今日は、素晴らしい夕焼けが見られると期待して、追っかけを続けていただきましたが、追い抜けたのは、樺南市内に入ってからで、断念しました。


▲ 19:15、一旦ホテルの部屋に荷物を置いてから、夕食です。今夜は、羊肉しゃぶしゃぶ食べ放題、飲み放題です。王さんにタレのブレンドを各自頼んで、肉を鍋に入れますと、瞬く間になくなってしまいます。男9人ですから、食べるのは早い早い、ゆっくりビールも飲ませてもらえませんでしたが、追加、追加でたっぷり食べ、白酒もたっぷりといただきました。鍋の閉めは、鄭州で見たフィ麺ではありませんか。
明日は、早いので早くに部屋に戻って、即睡眠でした。   Part13  へ続く

 

2012年春の中国鉄路の旅 Part11 阜新からハルピンへ 小竹直人ツアーに合流

第14日目 5月2日  阜新からハルピンへ、そして樺南へ

① 阜新7:10(K7357次)→9:54瀋陽北 173キロ 2時間44分
② 瀋陽北11:31(T311次)→16:12   546キロ 4時間41分
③ ハルピン(チャーターBus)→2:52樺南賓館

今日は、鉄道写真家「小竹直人」先生のプロモートされたツアーに合流して、初めてで最後になる樺南林業鉄道ナローゲージへと参ります。この鉄路は、既に営業自体は終わっていて、線路の撤去作業のため蒸気機関車が復活運転をしています。大変珍しく、また貴重な撮影になろうかと思われますので、期待感一杯です。
▲ 4泊しました、阜新の中林国際酒店です。良い部屋でした。
6:20にホテルを出て、Taxiに乗って阜新駅へと向かいました。阜新駅では、11日の切符を買わなければなりませんが、售票処に並ぶと8時からの売り出しですと言われてしまいました。瀋陽北駅でも時間がありますので、大丈夫です。


▲ 阜新から瀋陽北までの列車は、阜新~北京北で使用された列車の間合い使用です。サボはそのまま、軟座車は、軟座寝台をそのまま使っていました。瀋陽北から乗車したT311次は、ハルピンまでに停車するのは、長春のみ。客車列車でありながら、140km/hで快走し、平均速度は119km/hの速さを誇ります。昼間でありながら、軟座寝台扱いで、RW19Kが使用されていました。通電もしていました。 続きを読む

2012年 春の中国鉄路の旅 Part10 興阜炭鉱のナローゲージと、阜新煤礦鉄路その3

第13日目 5月1日 興阜炭鉱のナローゲーと阜新煤礦鉄路 その3

今日は、阜新炭鉱撮影の3日目で最終日ですが、2人とも満足いく収穫がなく、ちょっと焦り気味です。天候は、昨日とは違っての快晴です。気合十分なO氏は、今日も朝5:30にはホテルを出て行かれました。一方の私は、まだ長い旅の中盤にも差し掛かっていません。ここで、エネルギー爆発では、身体が持ちませんので、ゆっくりとホテルで朝食を取ってから、谷さんを待ちました。

以前に訪問された中国鉄路に残る蒸気機関車探索にかけては達人の倉重さんは、阜新訪問時に興阜炭鉱のナローゲージにも、お立ち寄りでした。その訪問記によると、高徳駅の裏山奥に興阜炭鉱があるようです。
▲ 8時過ぎに、谷さんの愛車に乗って、ホテルを出発しました。五龙炭鉱のような大きな炭鉱とは違って、個人経営の小さな炭鉱が点在する中の山道を走りながら探します。迷走もありましたが、途中で谷さんが、ズリ捨て山に上がる1本の長いインクラインを見つけました。


▲ ご覧のように、数100m以上もあり、先が見えません。止まって
、反対方向のインクラインの起点を塀越しに見ますと、五龙炭鉱で見たと 同じ凸型の小型電気機関車が走っているのが見えました。ここです。間違いありませんが、炭鉱内にどうやって入れるかが問題です。 続きを読む

2012年 春の中国鉄路の旅 Part9 阜新煤礦鉄路 その2

第12日目 4月30日  阜新煤礦鉄路 その2

朝5時半、待ち合わせの時間通り、谷満春さんは愛車に乗って、迎えに来てくださいました。既に連絡をいただいていましたが、朝の上遊型蒸気機関車牽引の通勤列車だけでなく、昼間のDL牽引の列車も2週間前になくなり、今日現在も復活していないとのことです。もしかしてと少し期待感があっただけに残念ですが、仕方ありません。各地の炭鉱で走っていた通勤列車は、突然にこのようにして、なくなっていったのでしょうね。

▲  今日は足があるので楽です。早々に五龙炭鉱ズリ捨て線へと向かいました。迂回道路は、昨日私たちが乗った白タクのルートでよく分っています。途中で谷さんは、車を止めて、内側線の様子を見ています。何とズリ満載の貨車5両が置き去りにされています。これでは、次の列車は内側線には、入線不可です。 昨日同様の外側線に行くしかありません。

▲ 6:06、今日撮影の1番列車は、早々にフライアッシュ号です。昨夜のスッポンが良かったのでしょうか。朝から縁が良いですが、おいおい、またドスンで終わりです。また、がっくりです。 これには、谷さんも「え~、こんな事は初めてです。どうして?」 と、信じられない表情です。今日は、全車のお皿を傾けてのFA排出でした。 そして、今日は天候がよくありません。暑い雲に覆われて、風も強く、時折小雨が舞ってきます。

当分、フライアッシュ号は来ませんので、興阜炭鉱に走るナローゲージ撮影にしましたが、谷さん何を勘違いしたのか、3月に行って入れなかった五龙炭鉱内へと案内します。希望した場所は、ここではないと言いますが、すでに炭鉱内の職員とコネをつくってしまっています。困りましたが、仕方なく付いていくことにしました。原因は、谷さん地元鉄ちゃんなのに、興阜炭鉱に走るナローゲージを知らなかった事のようです。


▲ 炭鉱内は、外の周囲の光景とは一転して、とても綺麗です。O氏も 「随分と違うなあ、周りはどんなに汚く汚れていても、自分たちの働き場所だけは、綺麗にするのは、いかにも中国的だなあ。」 と、感心しておられました。私も、駐在時代に中国人の家庭に招待されましたが、ボロボロに近いマンション?でも、一旦部屋に入ると、随分と金をかけて、綺麗に豪華にしているのを見て、びっくりしましたので、このアンバランスは、よく分ります。
ヤードには、ナローゲージには珍しいクレーン車がいました。屋根に乗って、パンタの補修をやってますが、まさか通電していないでしょうね。小型凸型電気も初めて見ました。



▲  坑道用のバッテリーカーと
トロッコ達です。木材は坑道に使用されます。一応踏切もあります。注意マークは、汽車と違って凸型電気です。
炭鉱内では、カメラは厳禁です。 リーダーに見つかると処分されるので、決してみんなのいる所では見せないように注意を受けての撮影でした。

▲ 次のフライアッシュ号はいつ来るかです。谷さんは、FAを搬出する発電所に行ってみようと向かいますが、高徳駅から分岐した線路沿いに道路はなく、発電所正門からの出入りは部外者禁止です。
9:56、平安ヤード方面から推進運転で、ズリ捨て列車がやってきましたが、ここで機回しをして正向きに付け替えて、新邸方面へと向かって行きました。どこに行くのでしょうか?


▲ 谷さんの愛車はマツダファミリアですが、大きい割に1600㏄で非力です。それでも頑張って、ぬかるみあり、泥水の溜った穴ぼこだらけ、急坂ありの凸凹道を一生懸命のハンドルさばきで切り抜けましたが、夕刻には朝の美形が台無しになるほど、泥だらけになっていました。
12:50に朝からの場所に戻りますと、内側線に置かれていた列車は、ありませんでした。代わりに保線区員が大勢来て保守工事をやっていました。
12:57には、ズリ捨て列車が上がってきましたが、1両には何やら異質な物が満載されています。お皿が傾くと落ちてきたのは、ゴミばかりです。斜面が汚くなってしまいました。これでは、撮影に差支えます。ゴミ捨て列車は御免です。

列車が下って、しばらくの間は、外側線にも保線区員がやって来て、線路保守をちょっとやって帰っていきました。O氏は、「ここに来るのが仕事であって、保守はやってやらなくても関係ないんだろう。」 と、言われます。確かにその通りと相槌を打ちました。
外側線の撮影に丁度良い所からは、埋設されてしまった石炭が燃えて、いくつもの煙が出ています。そばによると、下からの熱気が伝わってもきます。やかんを置けば、湯が沸きます。
▲ 16:22、やっとフライアッシュ2号のご到来です。今度はこんもり山がありません。期待できます。
しかし、周囲の状況は刻々と悪化して、強風と巻き上げられたFA等々で、
視界は、さらに悪化してきました。

まず1両目が始まりましたが、少し巻き上がっただけでした。
4両目だけが舞い上がりましたが、3月に見たのは、こんなちゃちなもんではありません。まだ、FAが湿っているようです。
この頃から、カメラの調子が悪くなって、ピントが合わずシャッターボタンが押しても切れません。シャッターが切れても、ピンボケ状態ですので、オートフォーカスを手動に切り替えての撮影にしました。

こんな天候では、夕焼けもありません。今日は、フライアッシュ号も来ませんので、今日は、撮影終了です。 谷さんが薦める羊肉しゃぶしゃぶ屋へと向かいました。

▲ 阜新には、美食を求めてきたわけではありませんが、美味しい羊肉しゃぶしゃぶは、日本ではめったに食べられませんので、2人とも大満足です。

明日の予定ですが、谷さん今日の汚名挽回に 、自分も行った事がない、興阜炭鉱に走るナローゲージを一緒に探しに行くと言ってくれました。O氏は走行する蒸気機関車撮影に一辺倒ですので、明日午前中は、別行動としました。     Part10  へ続く