全鋼車・近鉄5201系

昭和4年製で1000mmの広窓という。少し時代が下がるがオロ36とオロ40を思い出しました。

それにしても全鋼車ができたのが意外と遅いのに驚きます。近鉄のように各社が合併してできあがった会社は別として、阪急や京阪でも同じ頃なんでしょうかね?やっぱり地下乗り入れや都市間連絡の都会型電鉄は早いのでしょうね。

 

2012年 冬から春への中国鉄路一人旅 Part22  芭石鉄道 その3

第26日目 3月15日

① 蜜蜂岩6:35(芭石鉄道)→6:55菜子坥
② 菜子坥站 (徒歩)→18:00蜜蜂岩站


▲ 今回は、撮影地を蒸気機関車が正向きで走行する区間に絞ろうと決めていました。今日は一番列車で菜子坥下車して、朝の貨物を狙いました。
▲ 7:19、朝の下り貨物です。今日はドレインを目一杯吹き出してくれました。
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2012年 冬から春への中国鉄路一人旅 Part21  芭石鉄道 その2

第25日目 3月14日

① 蜜蜂岩6:35(芭石鉄道)→7:10芭沟
② 芭沟站 8:30(徒歩)→16:00蜜蜂岩站

6:35 今日は朝1番の列車で芭沟に行ってみることにしました。着いた芭沟駅は駅舎の工事中です。観光路線として着々と新しい施設が建設されています。

芭沟駅では、昨日菜子坥でお会いした中国人鉄ちゃんがいました。芭沟の市場で朝食を共にしました。お名前は彭さん、仕事はコンピュータプログラマーで、休みを7日間取って北京からやってきたと、若くて熱心な鉄ちゃんです。英語が堪能でしたので、汽車を待っている間、中国の蒸気機関車についての話をしました。最近撮った写真を見せてくれましたが、その中にフラルジの発電所専用線の写真がありました。私が今回の旅で最初に訪れたチチハル近郊の町です。しっかりと爆炎を上げて走っています。私が行った時はDL化されていたので、いつ撮ったのかと聞いてみましたら、昨年12月中旬と言います。わずか2ケ月の差で撮り逃したようです。今後、情報交換をしようと約束しました。
彼は今日のお昼の列車で帰るというので、分れて 菜子坥を目指して歩き始めました。まずは定番の沼が見える撮影地です。
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2012年 冬から春への中国鉄路一人旅 Part20  芭石鉄道 その1

第24日目 3月13日

① 犍為5:20(Taxi)→5:38芭石鉄道石渓駅
② 石渓6:00(芭石鉄道)→6:32蜜蜂岩

夜明け前の5時20分に予約しておいたTaxiに乗車して、芭石鉄道の石渓駅に向かいました。電話連絡しておいた蜜蜂岩の民宿に今日から3連泊して、撮影に励みます。

6:32、明るくなり始めたホームでは、民宿のご主人陳さんが待ってくれていました。荷物を運んでくれますので助かります。 荷物を部屋に入れて、朝食を食べたら早速行動開始です。
蜜蜂岩駅構内には、昨年まで機関区に置いてあった古いDLが移動されて展示されていました。
▲ 7:35、1番列車が山に上り、降りてきた折り返し列車は、蜜蜂岩駅から下に住む小学生の通学列車でもあります。 元気に乗って行きました。駅には昨年にはなかった駅名板が建っていました。毎年、生き残りをかけて観光鉄道へのグレードアップも進められています。
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2012年 冬から春への中国鉄路一人旅 Part19  重慶から芭石鉄道へ

第23日目 3月12日

① 重慶北 8:00(D5101次)→9:55成都東
② 成都東駅10:22(Bus91路)→11:25石羊バスターミナル
③ 石羊バスターミナル12:00(高速Bus)→14:15犍為南門バスターミナル

今日は、毎年恒例となった菜の花咲く芭石鉄道へと向かいます。朝1番の高速列車で新しくできた成都東駅まで参りますが、いつもの成都駅と違って、初めての下車駅です。ここからどうやって犍為行きのバスが出る成都市内の石羊バスターミナルまで行くか課題でした。


▲ 重慶駅に隣接した食堂で朝食、平打ち麺の朝食。毎日のように食しましたが、薄味で辛くなく安くて一人旅にはもってこいです。
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鉄路の北前船と六文銭の里を走る電車 その3 長野電鉄ぶらぶら(午後の部)

湯田中駅前の「楓の湯」でひと休みしてから活動開始です。まず旧湯田中駅の見ることにしました。これは有形登録文化財になっています。訪れたときは雛祭りの季節なので段飾りの雛人形が飾っていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年 冬から春への中国鉄路一人旅 Part18  重慶モノレール(重庆轨道交通)

第22日目 3月11日

【重慶モノレール】
坂の多い町の重慶市に2005年6月に日本からの円借款で建設開業されました。2編成が日立製作所製で、2編成が日本で製造されて輸出されましたが、後は技術供与での現地製造です。大阪モノレールと同一設計で、現在まで2号線と3号線の2路線があり総延長距離はモノレールとしては世界最長となっています。1号線は普通の地下鉄車両が使用されています。▲ ホテルから見える獅子坪駅を出るモノレール。6両編成の3号線です。すぐに地

下に入り、直角に中国国鉄の重慶北駅地下に向かいます。そして空港へと延伸されました。

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鉄路の北前船と六文銭の里を走る電車  その2 長野電鉄ぶらぶら(午前の部)  

3月7日 直江津駅を5時26分発の快速「妙高」で長野に向かうために、しばらく待合室で待つことにしました。直江津から長野までの切符は持っていないので買う必要があります。しかし、切符の自動販売機が5時30分から販売開始ですので車内で購入することになります。少なくても乗客がいるのにどういうことなんでしょうかね?189系の快速「妙高」は定刻に直江津駅を発車しました。最近は○△?系とかに疎くなっているのでさっぱりわかりません。

 6時49分に長野到着、長野電鉄の駅に急いで行き、長電フリー乗車券を購入しました。2日間有効で、2260円なのでかなりお得です。購入した切符は「~さようなら屋代線記念~」となっていました。7時13分発の信州中野行で須坂へ、ここで屋代行に乗り換えです。須坂までの電車の中は通勤通学の時間帯のため、特に小学生、中学生が多く混雑していました。付属中学前駅には信州大学付属小学校、中学校があるからです。

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2012年 冬から春への中国鉄路一人旅 Part17  北碚(ベイベイ)から重慶(重庆)へ

第21日目  3月10日

北碚(Bus)→重慶市内→15:00重庆北站
▲ 北碚では朝飯の定番、お粥も屋台で食べられます。

北碚4連泊で中3日間のグース乗り鉄・撮り鉄旅を終えて、重慶市内へと戻ることにしました。重慶には大阪モノレールと同じタイプのモノレールが走っています。これを見る撮るが訪問目的です。

政府直轄地の大都市、重慶は初めての訪問地ですので、土地勘はまったくありません。ホテルのネット予約を試みましたが、多すぎて絞り切れません。日本語対応できる旅行代理店の楽旅中国に電話をして、町の中心部でモノレール駅に極めて近いホテルを注文しましたら、後からの移動にも便利な重慶北駅駅前をお勧めしますと返事が来ました。
北碚に来る時も乗車した所です。同じ507路バスに乗って、北碚 を出発しましたが、着いた所は重慶北駅とは違って、重慶の市内中心部でした。同じ経路バスなのに終着駅が違っています。いったいここはどこなの?の世界です。現地人民に聞きながら地铁駅を探しますが、約20分以上かかりました。
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鉄路の北前船と六文銭の里をはしる電車  その1 「日本海号」で直江津へ

鉄路の北前船「日本海号」と「きたぐに号」の定期運行が終了して1週間以上となりました。3月16日は各TV局が取り上げていました。NHKがニュースウォッチ9で青森駅発の「日本海号」を鷹ノ巣駅で生中継をしていたのは、なかなかいいものでした。さて、私はと申しますと、さる3月5日から8日まで船中八朔(ちょっと違った。じつは私は八朔がすきなのです。)でなく船中1泊、車中2泊の久しぶりの大旅行です。

いろいろ考えたあげく、まず新日本海フェリーの敦賀を出て新潟、秋田を寄港して苫小牧行に乗船して新潟へ。新潟から列車で酒田を経由して秋田へ行き、秋田から「日本海号」に乗って直江津で降りることにしました。直江津から長野に行き、長野電鉄の屋代線と湯田中で温泉にいって旅の疲れを癒すことにしました。再び、直江津にもどり「きたぐに号」で敦賀で降りて「日本海号」の写真撮影と敦賀の町を見物をして帰ることにしました。

3月5日は朝から天気が悪く、雨模様でしたが大雪よりは良いだろうと思って、大阪より敦賀行新快速に乗りました。新快速は12両編成で前4両が敦賀行きで後8両が近江今津まで、案内が不十分なため敦賀まで行く乗客にはわかりづらいものでした。やはり、それで右往左往している人がいました。

 

車窓を眺めているうちに終点の敦賀に着きました。階段を下りると地下連絡通路のカニがお出迎えです。

フェリー乗り場行のバスの発車まで時間があるので街をぶらぶらして、ポイントカードの持っている平和堂があったので、そこで弁当などを買ってからバスでフェリー乗り場に行きました。

 

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「また南海、デニ502」に寄せて


 水間鉄道モハ365 (45-5-24) 貝塚
高野山電気鉄道デニ501→南海電気鉄道デニ501→同モハ569→水間鉄道モハ365/元荷物室側は非貫通のままである。

昨年11月ズームカーの試験車「モハ1」が紹介されたので、南海は2度目でしかも再度高野線である。恐らく関 三平さんのご実家が南海高野線沿線で、特に思い入れがあるのではなかろうか。

今回の解説を読まれて「あれ?」と思われた方がおられると思う。「南海規格の車両の増備が進むと、デ101型8輌は本来の山岳区間専用に戻り、デニ2輌だけが直通荷物電車として難波に出入りを続ける。」ここまではその通りであるが、問題はその次の部分「501号は26年に火災にあい、別形式となるので、私が見たのは2つ目玉最後の1輌の502となる。」と記されているが、昭和26年に火災に遭ったのは502号で、関さんが見られたのは501号であると思われるが、火災前の502号だった可能性もあり、私はこちらを支持したい。

南海の電車は「難解だ」と言われる程複雑で私自身さっぱりわからない部分が多いが、今回の元高野山電気鉄道の電車はデニ501形2両とデ101形8両の10両のみで極めてシンプルである。

高野山電気鉄道は、高野線の高野下~極楽橋間とケーブル区間の極楽橋~高野山間を営業していた会社で、大正14年3月設立、昭和3年6月高野下~神谷(現在の紀伊神谷)を開業、同4年神谷~極楽橋間開業、同5年6月極楽橋~高野山間のケーブル区間を開業して、難波と高野山が結ばれた。当初、架線電圧1500Ⅴであったが、南海と直通運転を実施するため600Ⅴに降圧した。戦時中の私鉄統合により、南海鉄道と関西急行が合併して近畿日本鉄道となったが、高野山電気鉄道は統合されなかった。昭和22年3月社名を南海電気鉄道に変更して、同年6月に近畿日本鉄道から旧南海鉄道の路線を譲り受けた。

開業時にデニ501形2両とデ101形8両が日本車輌で新製された。車体は全鋼製、両運で、デニは荷物室側非貫通、デは両側とも貫通扉が設置され、50‰の急勾配、急カーブが存在する山岳路線のため、電力回生制動を持ち、ヘッドライトはイラストの通り屋根上に2個設置された。
昭和24年、デ101形はモハ561形に改番されモハ561~568となった。昭和26年にデニ502が紀見トンネル内で焼失したが、昭和28年デワ2001として復旧した。
戦後は
モハ1251形の増備により難波までの直通運転は中止となり、元の高野下~極楽橋間の区間運転用となった。

昭和38年から39年にかけて更新修繕が実施され、制御器の交換の結果、回生制動が使用不能となったため平坦線用となり住吉東~汐見橋間で使用された。この時デニ501は荷物室を撤去してモハ561形モハ569に改番されたが、元荷物室側は非貫通のままであった。

昭和43年から44年に廃車になったが、モ562とデニ501改造のモ569は水間鉄道に譲渡され、モハ364、365になった。

モ561+モ562+モ563の3連

 住吉東~汐見橋間で使用 / (42-5-28) 住吉東

水間鉄道モハ364

 (45-5-24) 貝塚

高野山電気鉄道デ102→南海電気鉄道デ102→同モハ562→水間鉄道モハ364


モハ364+モハ365/ (45-5-24)  水間~三ヶ山口

2012年 冬から春への中国鉄路一人旅 Part16  江合煤鉱鉄路 グースの里北碚(ベイベイ) その3

第20日目  3月9日


▲ 昨日より1本早いバスに乗ろうと早くに出ましたが結局、水土で乗継時間が長くなっただけで、泰山石着は同時刻でした。

今日は、泰山石から302工場に向けて歩きます。
▲ 道路とは3ヶ所ほど交差していますが、踏切番はいません。
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本日の特急「あけぼの」

定期列車としての ブルートレインは上野と青森を結ぶ「あけぼの」と上野と札幌を結ぶ「北斗星」の2列車となってしまいました。
「北斗星」は機関車も新製されある意味では将来を約束された列車といえるかもしれませんが、「あけぼの」はさていつまで走ることかと心配しています。本日朝上野駅13番線に少し遅れてに着いた「あけぼの」は 春休みに入ったせいかいつもより多くのお客様を運んできました。編成は下記です。
上野方 EF641032 オハネフ25 205 オハネ25 215 オハネ24 51 オハネフ25 121 オハネ24 554 オハネ24 552 スロネ24 552 オハネフ25 201 カニ24 116 青森方   全車盛アオ所属  オハネ24 51のみ白帯車  ほかは金帯車でした。

いつもの降車風景です。

はいチーズ。可愛いらしい姉妹でした。

本日朝 7時すぎの上野駅でした。

表彰式行われる!

              積極的に地域に溶け込んだ活動が表彰理由となった

先に報告しました現役の鉄道同好会の学内表彰式が、去る3月16日に大学で行われ、めでたく学生支援センター所長から地域貢献賞を受賞しました。当日の様子を、渉外・広報担当の今林佑太さんから報告を受けましたので、写真とともにお伝えします。

今回で5回目となる文化系公認団体表彰式は、文化系公認団体の活動を一般学生へ広くPRする機会として、また表彰団体の今後の活性化を目的に開催されてきました。本年度は、顕著な功績のあった16団体が表彰され、学生支援センター所長から表彰状、表彰盾、副賞がそれぞれ手渡されました。鉄道同好会は5つある賞のうち、地域貢献賞を受賞することになったものです。
表彰式は、寒梅館ハーディーホールで行われ、各団体が壇上に上がり、学生支援センター所長より表彰状と盾を授与され、各団体の代表者がスピーチを行いました。
「大学から公式に認められた賞の価値は非常に高く、受賞が喜ばしいことであると同時に、今後も大学公認サークル団体として責任感ある活動をするべきだということを身に染みて感じた表彰式でした」と今林さんは結ばれています。
来年、2013年は鉄道同好会創立55周年になります。これを記念して、現役の皆さんは、OBも参加できる楽しいイベントも考えられているようです。
今後とも現役の皆さんの活動を大いに期待するものです。

寒梅館で行われた表彰式と、スピーチする現役・鉄道同好会会長の木村さん

越後交通長岡線


 越後平野を走るモハ3001/越後日吉~王寺川間(40-3-25)

 3月15日【18458】「小田急HB車/廃車後の行方」で、越後交通に行った車を解説したが、引き続き越後交通長岡線に在籍した車両について紹介する。

〔沿革〕
大正3年3月3日、来迎寺~長岡~寺泊を結ぶ目的で中貫鉄道が設立され、同年8月7日、長岡鉄道に社名変更した。
大正4年10月7日、与板~寺泊間(初代)を開業、以降、同5年1月5日、与板~西長岡間、同10年11月18日、西長岡~来迎寺間が開業して全線開通した。
戦後の昭和26年12月1日、西長岡~寺泊間が直流750Ⅴで電化が完成したが、工事期間は僅か2カ月半であった。ちなみにこの時の社長は田中角栄氏であった。
翌年11月1日、西長岡~来迎寺間が電化され全線の電化が完成した。
昭和35年10月1日、長岡鉄道、栃尾鉄道、中越自動車の3社が合併し越後交通が発足。同社の長岡線となった。
昭和36年10月3日、寺泊新道~寺泊間(初代)休止。同区間を41年5月31日廃止して寺泊新道を寺泊(2代目)に改称。
昭和44年9月、架線電圧を750Ⅴから1500Ⅴに昇圧。
昭和47年4月16日、西長岡~来迎寺間の旅客営業を廃止して同区間は貨物専業となった。
昭和48年4月16日、大河津~寺泊間(2代目)廃止。
昭和50年4月1日、越後関原~大河津間を廃止、同時に西長岡~越後関原間の旅客営業を廃止して同区間は貨物専業となった。これにより旅客営業は全廃となり貨物専業となった。
平成4年4月1日、西長岡~越後関原間休止。
平成5年3月31日、休止中の西長岡~越後関原間を廃止。営業区間は西長岡~来迎寺間の貨物営業のみとなった。
平成7年4月1日、西長岡~来迎寺間が廃止され、全線廃止となった。

 〔車両〕
撮影した車両についてのみ解説する。

①電気機関車
EB111/昭和27年日本鉄道自動車製。一見D型機に見えるが2個モーターである。昭和42年に廃車され、秋田中央交通(八郎潟~五城目)に譲渡された。しかし、昭和44年7月11日に鉄道営業が廃止され、バス専業になったため、僅か2年の活躍であった。

 (40-3-25)
西長岡
 

ED211/書類上は昭和29年日本鉄道自動車製となっているが、その経歴は極めて複雑である。大正8年枝光鐵工所で京王電気軌道の「20」として新製。昭和8年無蓋電動貨車「15」に改造。更に昭和16年有蓋電動貨車に改造され、昭和19年5月東急との合併による改番でデワ2915となった。昭和23年6月京王帝都電鉄として東急から独立後、27年に廃車。翌年3月長岡鉄道が譲受けデワ102となったが、程なくED211に改番された。スタイルが電気機関車らしくないのは以上の理由のためである。44年の1500Ⅴ昇圧時に廃車された。

 どう見ても電気機関車には見えない/(43-8-30) 
与板

ED261/旧国鉄ED26と言えば、飯田線にいた元伊那電鉄買収機を思い浮かべる方が多いと思うが、あちらは2代目で、初代はこちらである。
富山ライトレールとなった旧国鉄富山港線の前身富南鉄道のロコ2として大正13年ウェスチングハウス社で新製され、昭和15年日本鉄道自動車で改造された。鉄道省に買収後も同一車号で使用されていたが、昭和32年の改番でED261となった。昭和35年5月に廃車になり、36年7月に譲り受けた。昭和44年西武所沢工場で1500Ⅴ昇圧改造されたが昭和55年1月廃車になった。


 (43-8-30)
西長岡

ED262/昭和44年の1500V昇圧時、改造入場時の車両不足を補うため西武鉄道からの借入車を譲り受けた。
旧武蔵野鉄道のデキカ11として大正12年ウェスチングハウス社で新製、旧西武鉄道との合併で11に、昭和36年の改番でE11となった。昭和47年撮影時には早くも休車で、いくらも使用しないまま廃車になった。

 (47-4-30)
西長岡

ED311/元西武鉄道のE31で、昭和31年西武所沢工場製である。昭和39年2月に譲受け廃止まで活躍した。

 (41-9-7)
 西長岡

ED401/昭和42年東洋工機・東洋電機製の箱型機で、廃止時まで活躍した。


 上 
(47-4-30)  下 (50-3-22)  西長岡

ED511、512/元長野電鉄のED5002、5003で1500V昇圧後の昭和45年4月に譲り受けた。ED511は昭和2年、ED512は昭和3年、日立製作所製である。昭和55年1月同じ長野電鉄から譲り受けたED5101、5102と交代して廃車になったが、ED511は長野電鉄に里帰りして、小布施駅構内の「ながでん電車の広場」で保存されている。

 ED511 
(47-4-30) 西長岡

 ED512 
(50-3-22) 西長岡

(参考)長野電鉄時代

 ED5002→ED511/
(45-3-17) 須坂~北須坂

 ED5003→ED512/
(45-3-17)
 

ED5101、5102/元長野電鉄のED5101、5102で昭和54年9月に譲り受けた。更にその前があり、元は定山渓鉄道のED5001、5002として昭和32年、新三菱重工三原製作所で新製された機関車である。昭和44年10月31日廃止により、長野電鉄に譲渡されたが、昭和54年3月31日限りで貨物営業が廃止されたため、譲り受けた。廃止時まで主力機として活躍した。
貨物専業になってからは訪れていないので、定山渓鉄道と長野電鉄時代の写真を掲載した。

定山渓鉄道ED5001→長野電鉄ED5101→越後交通ED5101

 定山渓鉄道ED5001/
(42-9-9) 豊平

 長野電鉄ED5101/
(52-5-5) 須坂

定山渓鉄道ED5002→長野電鉄ED5102→越後交通ED5102

 定山渓鉄道ED5002/
(42-9-9) 豊平

 ②電車
モハ2001、2002→ホハ2001、2002
書類上は昭和27年東洋電機製となっているが、ガソリンカーから電車に改造した時である。昭和3年雨宮製作所で日本初のディーゼルカーキロ1、キロ2として新製された。昭和5年の改番でキロ201、202となった。トラブル続きのため13年にガソリンカーに改造され、キロ201→キハ203、キロ202→キハ202となった。更に17年には天然ガス代燃車に改造された。
昭和26年の750V電化により、東洋電機で電車に改造され、55馬力モーターが2コ取付けられ、キハ202(元キロ202)→モハ2001、キハ203(元キロ201)→モハ2002となった。制御方式は直接制御であった。
ここまでの経緯は湯口先輩の「内燃動車発達史・上巻」のP122~P125に詳細に記されているので、是非ご覧いただきたい。
昭和44年9月の1500V昇圧時に電装解除され、ホハ2001、2002となり、西長岡~来迎寺間の混合列車の客車として使用された。
 
 モハ2001 
(41-9-7)

 
モハ2001の台車 (41-9-7)

 
モハ2002 (40-3-25)
 
 
電装解除後ホハ2001 (47-4-30)

モハ2003→ホハ2003
昭和29年東洋電機製で、車体は新製であるが、台車は京王帝都から譲り受けたデワ102が履いていたテーラー製のものを履いている。モーターは41Kwのものが2コ取付けられ、制御方式は直接制御であった。
昭和44年9月の1500V昇圧時に電装解除され、ホハ2003となり、西長岡~来迎寺間の混合列車の客車として使用された。


 
(40-3-25) 下(43-8-30)

電装解除後のホハ2003 (47-4-30)

ホハ2003のテーラー台車 (47-4-30)

モハ3001、3002
昭和26年電化時に京浜急行からデハ111、112を譲り受け、東洋工機で車体を新製した。モーターは41Kwのものが4コ取付けられ、制御方式はHL制御であった。1500Ⅴ昇圧時に廃車となり、モハ3002は蒲原鉄道に譲渡され、同社のモハ81となった。

 モハ3001 (40-3-25)
 
  
 モハ3002/(41-9-7)
 
 
新塗装に変更後のモハ3002 (47-4-30)

モハ3005
昭和39年に京王帝都電鉄からデハ2125(昭和8年日本車輌製)を譲り受け、2扉に改造した。昇圧改造されることなく僅か5年で廃車になった。
 
 (40-3-25)/撮影時に扉を閉めなかったのは、乗車予定の電車の発車時間が迫っていたからと思われるが、無いよりマシと思っていただきたい。

モハ5001
昭和35年に元国鉄モハ1206を譲り受け、東急車両で両運化、1200Ⅴから750Ⅴに降圧等の改造の上入線した。車内はクロスシートのままで、連結面の運転台を復活して非貫通にした結果、原形に近くなった。
富士身延鉄道の買収車で、昭和3年新潟鐵工所でモハ110として新製。昭和16年10月鉄道省買収時にモハ93形93006に、昭和28年6月の改番でモハ1200形1206となった。買収後も引き続き身延線で使用されていたが、昭和22年に伊那松島機関区に転属し、主に北部飯田線の天竜峡~辰野間(旧伊那電鉄の区間)で使用された。昭和26年から実施された更新修繕で、後位の運転台を撤去して貫通扉、貫通幌の設置等が実施された。昭和30年4月に天竜峡~辰野間が1200Ⅴから1500Ⅴに昇圧されたため使用停止となった。
昭和44年の1500Ⅴ昇圧時にも改造されて引き続き使用されたが、昭和48年大河津~寺泊間の廃止時に廃車になった。
 
 (43-8-30)

 
新塗装に変更後 (47-4-30)

③客車
ハ6(ハ3形)/大正5年天野工場製の2軸単車で、車内は背擦りの低いクロスシートが10脚並び、定員は40名であった。
ハ3形として3~8の6両作られたが、撮影時点で残っていたのは、この車両のみであった。

  ハ6/
(40-3-25)

ハ9、ハ10、ハ11(ハ9形)/大正11年日本車輌製で、車内はハ6と同様であった。
  
 ハ9/
(41-9-7)

 
ハ10(廃車後解体待ち)/(47-4-30)

 
ハ11/(43-8-30)

ハニフ21、22(ハニフ21形)/大正11年日本車輌製で、半分が荷物室のため、車内はクロスシートが4脚並び定員は16名であった。

(40-3-25)/この車両に西長岡~来迎寺間を乗車したが、ゴツゴツとした物凄い振動で、ポイント通過時は飛び上りそうな感じであった。
以上の3形式は西長岡~来迎寺間の混合列車に使用されていた。

 ホハ31、32(ホハ31形)/大正4年天野工場製のボギー車で、車内はロングシート、定員は31が100名(座席定員44名)、32が98名(座席定員42名)であった。

 
ホハ31/(40-3-25)

 
ホハ32/(40-3-25) 

ホハ33、34(ホハ33形)/昭和38年に上田丸子電鉄から同社西丸子線で使用されていたモハ3211、3212を譲り受け電装解除した。
目黒蒲田電鉄のモハ4、5(大正11年汽車会社製)が前身で、昭和17年神中鉄道に譲渡され、同社のモハ4、5となった。神中鉄道は、昭和18年4月に茅ヶ崎~橋本間で営業していた相模鉄道に買収されたが、昭和19年6月1日、同区間が鉄道省に買収されたため、相模鉄道の営業区間は旧神中鉄道の横浜~海老名間となった。昭和22年9月、上田丸子電鉄に譲渡され、モハ11、12となり別所線、西丸子線で使用、昭和25年の改番でモハ3211、3212となった。

 
ホハ34/(41-9-7)

③貨車
ワ10/明治40年新潟鐵工所製

 (47-4-30)

 ワブ1/大正4年大日本軌道製

 
(47-4-30)

 ロ101

 
(47-4-30)

 ④その他

地図上では、来迎寺~西長岡~大河津~寺泊間は路線が繋がっているが、列車の運行は西長岡~寺泊間と西長岡~来迎寺間に分離され、前者は旅客中心、後者は貨物中心であった。
運行本数の推移を見ると、昭和36年6月時点では、旅客列車が西長岡~寺泊間6往復、西長岡~寺泊新道間8往復、西長岡~与板間2往復、大河津~寺泊新道間2往復、貨物列車が西長岡~寺泊新道間2往復、西長岡~来迎寺間は9往復で朝夕の2往復のみ電車、7往復が混合列車であった。
昭和47年3月時点では、西長岡~寺泊間11往復、大河津~寺泊間、与板~寺泊間各1往復。西長岡~来迎寺間混合列車3往復。
旅客営業廃止直前の昭和50年3月時点では西長岡~大河津間6往復、西長岡~与板間3往復であった。
 

 昭和50年3月22日 王寺川駅の時刻表

長岡線の営業が振るわなかった理由は、ターミナルの西長岡駅が長岡市内中心部とは信濃川を隔てて約3.5キロ離れており、連絡バスに乗り換える必要があった。乗車された方はお判りいただけると思うが、途中駅が集落の中心部から離れていたため、乗客が集落の中心部を通り長岡駅に直通するバスに流れるのは当然であった。

 
周りに何もない越後日吉駅
 
 
王寺川駅を発車した大河津行

⑤行先板
昭和47年4月30日訪問時に撮影した行先板

長岡には昭和50年3月末、同社の栃尾線が廃止になるまで数回訪れているが、栃尾線、長岡線、当時長岡を中心に活躍していた旧形国電に魅力を感じていたからであろう。

 

 

 

 

2012年 冬から春への中国鉄路一人旅 Part15  江合煤鉱鉄路 グースの里北碚(ベイベイ) その2

第19日目  3月8日
① 北碚
6:45(Bus)→7:05水土7:20→7:55泰山石

今日は朝から頑張るぞと、薄暗い中バスに乗って水土へ向かいました。水土から炭鉱までは、黄色の小型バスが30分に1本出ているのを昨日確認済みです。泰山石に到着すると、丁度グースご一行がやってきました。今日の朝は、5編成が続行しています。

▲ 泰山石で1度停車してから、間隔をあけて順に発車していきます。
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2012年 冬から春への中国鉄路一人旅 Part14  江合煤鉱鉄路 グースの里北碚(ベイベイ) その1

第18日目 3月7日

①    北碚12:10(Bus)→12:30水土鎮
② 水土12:35(バイクTaxi)→12:52 302工場
③ 302工場13:03(グース)→13:56炭鉱

朝起きて暗闇の外を見ましたら、今日も雨が降っています。初めての撮影地で、ぬかるみも多く山の中です。出発は天候の回復を待ってからの方が良いなあと、様子を見ることにしました。しかし、雨はやみそうにありません。12時前には早めに昼食を済ませて昨日調べておいたバスに乗りました。

北碚だけの地図が見つかりました。ただ炭鉱鉄道については、路線の記載がありません。どこを走っているのかは、グーグルアースを見ながら線路をたどっていく以外ありません。バスは30分に1本が運行されていて、乗車20分で水土に着きました。
ここから、公共機関がありません 。歩くにも目的地302工場と距離が分りません。丁度、客を降ろしたバイクTaxiと料金交渉しましたが。25元を譲らず、言いなりです。
コンクリート舗装はしてありますが、補修はされていなく穴だらけの岩の上を走って行きますと、302工場だという広場がありました。グースや線路など見えません.
近くの雑貨屋のお姉さんに聞くと。上よと指さします。坂道を上がると、2編成のグースが見えました。

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連接貨車

現役では唯一の連接貨車、太平洋石炭販売のセキ6000形。昭和41年から製造され、機関車からの遠隔操作で、側扉の開閉・連結解放が可能(春採)

湯口先輩から釧路臨港鉄道(現・太平洋石炭販売)に、貨車の連接車があったはずだから発表を、とのコメントがあった。確かに撮った記憶がある。準特急さんから横取りするようで申し訳ないが、写真と一筆を。
太平洋石炭販売には、2車体連接式の石炭車、セキ6000形が14組28両あり、現在でも使われている。同社はJR線とは連絡のない、自社線完結の路線のため、このような独自の貨車が考案されたようだ。訪れたのは一昨年のことになるが、このような運炭鉄道が細々ながらもまだ現役なのは驚異に値する。
なお、貨車の連接車は、以前国鉄・JRにも2例あったそうな。ひとつは、車運車のク9100で、三軸車であり車体が中央部分で分割された中央の一輪が連接構造という、たいへん珍しい連接三軸貨車だった。もうひとつは、JR後、トレーラー車体を運ぶために試作されたワ100で、3車体4台車をアダプターでつないでトレーラーを載せる、デュアル・モード・トレーラーシステム用の試作車だった。

2012年 冬から春への中国鉄路一人旅 Part13  成昆鉄路に乗って、グースの里 北碚(ベイベイ)へ

第16・17日目 3月5・6日
① 昆明9:31(K114次)→5:31成都 1,100キロ 20時間6分
② 成都8:00(D5102次)→10:20
重庆北  315キロ 2時間20分
③ 重庆北10:45(Bus)→11:30北碚 約20数キロ 45分

今日は車窓が中国一と言われる成昆線の乗り鉄旅を楽しみます。計画時に成都昆明とどちらから乗車するのか迷いましたので、いつもの鄭州旅日記さんに聞きましたら、いずれも景観が最高と言われている区間は、夜間走行になる。私のお勧めは、昆明からですとの教えていただきました。
▲ 発車前の待合室。左が一般車、右が軟座車です。椅子が違って、広いです。
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