奈良電クハボ600形の通風口

2月28日米手作市様が紹介された「【11969】奈良電クハボ600型」の中で「こんな通風口あったかな?」と書込みされておられる件について、私の知る範囲で書いてみたい。

「クハボ600形」については、関 三平氏の解説文の通りであるが、少し補足させていただくと、昭和29年特急運転開始に際して新製されたデハボ1200形(1201、1202)と組む制御車としてクハポ602、603を扉間の戸袋窓部分を除き転換クロス化した。昭和38年10月1日近鉄と合併時の改番で、クハボ601→ク583、602→581、603→582となった。

昭和39年10月京都~橿原神宮駅間の有料特急運転時(6往復)にデハボ1201、1202→モ681、682、デハボ1352、1353→モ692、693を窓の固定化、座席の転換クロス化、冷房の取り付け等の改造を行い、一応大阪線の有料特急車レベルに改装した。 

この時、モ692、693は電装解除されてク581、582となった。個人的には「冷房とおしぼりサービス位で誰が乗るねん」と思っていたところ走り出すと意外に好評で、12月1日には京都~奈良間の特急5往復増発された。この時予備車を確保するためにモ691、ク581、ク582を特急用として整備されたが、あくまで予備車という割切りのため改造は最小限に留められた。

ク581は元モ692の電装品で電動車化してモ684に、モ691はモ683に、ク582はク583改番され、モ684+ク583+モ683の3連を組み「予備特」と呼ばれた。更に増発されると「予備特」を含めて3編成がフルに運転され、「予備特」が「予備特」でなくなってしまったため、扉間転換クロスのモ671+モ672(元奈良電鉄デハボ1102+1103)がマルーンのまま特急マークをつけて「予備予備特」として待機した。

車体を新製してモ600形の電装品を流用して作られた18000系、京都~伊勢間の直通特急用に新製された18200系、18400系が登場すると、定期運用から外れて本来の「予備特」に戻り、団臨にも使用されるようになった。

昭和44年9月21日奈良線、京都線、橿原線が支線も含めて1500Ⅴ昇圧時にこの編成も昇圧改造され、モ683の橋原寄りの運転台撤去、モ684の京都寄り運転台撤去による中間車化、ク582の方向転換が実施され、モ683+モ684+ク583となった。昭和47年に一般車に格下げされ、塗装がマルーンになり主に団臨に使用されていたが、昭和51年3月に廃車になった。(車齢が新しいモ683は大阪線に転属して電装解除の上、ク1322となり「鮮魚列車」に使用された) 

一般車として残ったク583 (元クハボ601)は、前述のク582→ク583に改番時にク595に改番して引続き急行以下の列車に使用され、昭和44年9月1500V昇圧時ク308に改番され、元奈良線のモ653改造のモ408と2連を組み生駒、田原本線用になった。

以上、近鉄に超詳しい方を差し置いてごちゃごちゃ説明したが、通風口の結論は「予備特」となったクハボ602とクハボ603は改造時に撤去、一般車として残ったクハボ601は廃車時まで存在した。

 
モ684(元ク581←クハボ602) 西大寺/昭和44年5月18日

 
ク583(元ク582←クハボ602)西大寺/昭和44年5月18日

 
1500Ⅴ昇圧時に方向転換、一般車に格下げされマルーン一色となったク583  玉川工場/昭和50年1月15日

 
【参考】モ683(元モ691←デハボ1351)+ク583+モ684  西大寺/昭和44年5月18日

 
【参考】モ692+モ691(元デハボ1352+元1351) 丹波橋/昭和39年5月15日  モ692は有料特急に格上げ改造されク581となった。

 
最後まで一般車であったク595(元ク583←クハボ601) 西大寺/昭和44年5月18日  通風口はしっかり残っていた。

2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part17 CRH1EのD358次初乗車

第14・15日目 3月7・8日


①成都17:15(D358)→8:50上海虹桥

小腹も満たしました。四川のパン、果物も買いましたので、荷物を受け取って少し早いが成都駅の軟座待合室でゆっくりとすることにしました。

鄭州鉄道日記さんのプログを拝見して知っていたのですが、今まで見たこともない立派な軟座待合室です。北京西站の貴賓室は勤務時代に何回も入りましたが、広さでは勝ります。座っていますとお嬢さんがお茶を運んでくれます。
但し改札時刻になりますと、この待合室からホームに案内してもらいますが、立ちはだかるのは長い階段です。重いスーツケースを持っての上りは苦痛でした

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ユースで巡った鉄道旅 -8-

もうひとつ、九州の撮影地近くのユースの紹介を-。
久大本線日田駅から杖立温泉行きの日田バスに乗ること約30分、ダム湖の近くに日田ユースホステルがありました。廃止された宮原線の終点、肥後小国の方向で、自然が豊かなところです。安くて設備の良い、公営のユースのひとつで、泊まった時は出来たばかり、宿泊客も少なく快適なユースでした。ユース一泊二食430円、バス往復320円とメモ帳には記してありました。
ここを拠点にして、撮影に行ったのが久大本線でした。昭和40年代前半の久大本線は、D60、ハチロクが配置され、貨物はもちろん、旅客もほとんど蒸機でした。今でこそ、沿線の由布院などは第一級の観光地となりましたが、当時は、まだまだローカル色豊かな路線で、一人で撮影しながら鉄道の旅も堪能したものでした。なお、このユースは、日田おおやまユースホステルと改名して現在も在るものの、長期休業中とありました。

日田駅は久大本線のほぼ中間にある。夜明から分岐する日田彦山線も、ほとんどの列車が日田を始終発としていた。久大本線の結節点を成す駅でもある。2面3線の典型的な国鉄式配線を持つが、広い構内には駐泊所もあって、いつも何両かの蒸機が休んでいた。乗客が待ち受けるなか、タブレットの授受をしたD60の牽く上り列車が到着する。左手はハチロクの牽く下り貨物列車。

夏の朝、日田駅では、陽射しを浴びたハチロクがガンガンに輝いている。久大本線では、D60だけではなく、豊後森機関区のハチロクも客貨の区間列車を牽いている。九州の蒸機ならではの輝きだ。これからの暑さを予感させる。陽炎の立つ構内に、門鉄デフ越しにD60の牽く交換列車が見えた。腕木信号機がコトリと落ちて、ハチロクは細いボイラーを震わせて、発車して行った。

西鹿児島から夜行に乗って鳥栖に着き、一番列車に乗って久大本線に入った。どこで降りる当てもなかったが、対向列車とまもなく交換することから、何の予備知識もなく田主丸で降りることになった。久大本線が山間部に入る前、筑後平野の真っ只中にある平凡な駅である。乗ったときから空模様が怪しかったが、駅に着くと、とうとう雪が舞ってきた。北九州は、意外と雪が降る。すっかり戦意を失くし、駅構内で日和ることにするが、雪をかぶった木々とハチロクの猛煙が、いい味を出してくれた。

久大本線の撮影地と言えば、由布岳山麓の湯布院付近、玖珠川の渓谷沿いの豊後中川付近が有名だ。私も下車して写したことはあるが、むしろ日田から久留米方面にかけての区間が好みだった。ことさら優れた風景はないが、その分、穏やかな田園風景が続く。それに、日田以西は鳥栖行きの区間列車があり、朝のラッシュ時は、多くの蒸機列車を稼ぐことができる。この風景には、D60より、ハチロクが客車数両を牽く姿が似つかわしい。

 

 

関三平氏がいう、“超弩級”の一角を占める重量級の登場です。子供の頃、八尾に住む伯父の家に行くときに上六でよく見ました。といっても、片眼の2200が印象に残っているだけですが・・・。京阪や阪急では見られない20m級の緑色の車体はとてつもなくカッコイイ電車でありました。

京阪電車と和歌山

老人は学者ではなく一介の鉄道趣味者であり、沿線住民でもないのに幼児から京阪電車に拘ってきた。米手作市さんから京阪と和歌山の関係を解説せよとの希望があった。幸いなことに京阪電車のご厚意により「京阪100年のあゆみ」が送られてきた。50年史「鉄路五十年」と比べると、和歌山との関わりがコンパクトに、分かり易く紹介されている。

和歌山との関わりについて50年史では、毎期12%の配当を続けている和歌山水力電気(株)が業容拡大のために資本増強を図るため大阪電燈(株)との合併の斡旋を、京阪の重役に依頼してきたことに始まると記している。京阪は開業時、営業成績が振るわない時があったが、それを救ったのが配電事業であった。和歌山水力電気からの話が耳に入った当時の社長は和歌山出身であり、他所に紹介するより京阪が資本調達に応じようではないかとなり、19227月に合併(買収)してしまった。そして和歌山支店を設置、県下で発電、配電事業に加え電気鉄道(軌道)経営をする事になった。2010年(京阪開業100年)年賀状に、新造35年後の姿(1960年撮影)の、和歌山軌道線100号を、京阪本線100号代用車として使った。

和歌山支店の経営は順調であったが、京阪は新京阪鉄道建設による借金地獄解消のため三重合同電気に和歌山での事業を売却することになった。この時の社長は三重合同電気の社長を兼ねており「和歌山支店を切り離して金に替えることが、京阪自体の財政を整理する第一歩」と考えていたそうだ。和歌山支店の事業譲渡は19305月に行われ、8年余に及ぶ京阪マークは紀州から消えた。

これにより京阪本体は救われた。そして新京阪鉄道は本家京阪に加えられたのであった。そこで阪和電鉄について言及したいのだが、50年史、100年史では余り触れられていない。阪和と言えば竹田辰男さんの研究が知られており、老人の出る幕ではない。僅かに頭に残っているものを中心に綴ってみる。

阪和電鉄(株)は和歌山県下の企業家に加え大阪財界人の手で設立されたのは19264月であった。設立時の資本金は2,000万円で、京阪は40万株(15円)の内1万株(2.5%)引き受けたとされている。会社設立の翌年、金融危機があり、払い込みは順調でなかった様だ。会社設立時の筆頭株主は南紀方面に航路を持つ大阪商船で、払い込み失権株分を大阪商船と京阪が引き受け、京阪及びそのグループの株式保有量は15%であったと言う話を何処かで聞いた。そのためか、京阪からは当時の社長が取締役として名を連ねていた。

和歌山で配電事業を展開していた京阪は、営業戦略として出資者となったのであろうが、経営にどれだけ関与したのかは50年、100年史共に触れられていない。ただ車両の電気機器について、京阪と同じメーカー東洋電機(株)であった。これを介して何らかの関係があったのではないかと思われる。東洋電機設立時の社長は、京阪開業時の専務取締役を務めた渡辺嘉一氏である。京阪は開業時、代表取締役社長を置いていない。東京財界と大阪財界の関係を勘案して社長を置なかった様だ。その渡辺氏は開業を見届けるや会長となり東京に戻ってしまった。その後、渡辺氏は東洋電機(株)を19186月に設立し、英国デッカー社の電鉄電気用品製造と独自に開発した製品で今日の地歩を固めた。

東洋電機(株)の最初の製品、DK9C形の納入先は京阪であり、今も密接な関係にある。この東洋電機は鉄道省への製品納入について大変な苦労を重ねた事が東洋電機50年史では紹介されている。大容量電動機や電動カム制御器を始め、自動扉開閉器などユニークな製品が開発され、実用化された。当時の最大の需要先は鉄道省であったが、先発メーカーの高いハードルに阻害され、その成果を鉄道省への納入で発揮できなかった悔しさは、民有鉄道で花が咲いたように思える。その先兵隊となったのが京阪であり、新京阪での採用であった。そのグループに阪和電鉄も入っていたのは、京阪-渡辺ライン上にあると思う。渡辺氏の来歴は今回100年史で初めて知った。

和謖・?100号:1958.12.25 撮影

和歌山100号:1958.12.25 撮影

和謖・?100号:1960.05.15 撮影
和歌山100号:1960.05.15 撮影

2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part16 成都地鉄1号線全線乗車

第14日目 3月7日

①鉄路北駅11:09(地铁)→11:12升仙湖11:23→12:00世紀城
②世紀城12:17(地铁)→12:29鉄路南駅12:54→13:07天府广場
③天府广場(地铁)→13:55鉄路北駅
④成都17:15(D358)→8:50上海虹桥

今日は、CRH1Eに乗車して成都を去り上海へと向かいます。発車は17:15と十分時間がありましたので、ゆっくりと帰り仕度をして、まだ全線乗車をしていない成都地铁に乗ろうと出かけました。地上走行区間があれば撮影するつもりです。

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アイキャン電車とは

変【12628】関西急電アイキャン色

アイスキャンデー色が話題になっていたそうだが、老人は退院後ボランティアに追いまくられ、その前のP-6の時もさぼってしまった。期変わりと共にまたまた多忙な日を送る事になるので一気に昔話を展開することにしよう。

アイスキャンデーのことを京の童は「アイキャン」と言っていた。アイキャン省電が出現したのは昭和24年9月15日のダイヤ改正の時だと、我が奧野利夫師匠は書き残してくれている。鉄道省から公社になった頃だから国電とするのが本当だろうが、こげ茶色の省電の中にあって4両1編成、流線型モハ52003+サハ48035+サハ48033+モハ52004の鮮やかな色の急電が京都-神戸間を走り出した時は、省電ファンならずとも大騒ぎとなった。老人はこの時小学校5年であった。

アイキャン屋と名付けられ、紙芝居屋と同じくジャランジャランと鐘を鳴らしつつ自転車でやってくる物売りのオッサンの商品・アイスキャンデーを収納したアイスボックスは水色であった。この色が急電の色に似ているとした名付け親がいたようだ。この年はよほど残暑が酷かったのか、印象深く語りつがれた。翌年8月から急電は関西急電色、モハ80系の湘南型に変わっている。僅か1年の命であった塗り分けであったが京都人にも強烈な印象を残して阪和線に落ちていった。

落ちた先に同じアイキャン色モタ303+クタ501+モタ302が頑張っていた。こちらの登場は流線型より3ケ月早かったとか。阪和線の山手からは青い海がこの頃は見えたのであろうか。少なくとも青の濃淡の塗り分けは大阪湾や紀伊水道の青い海を象徴しているように思われる。それが京阪神間の餓えた都会人からすれば、アイキャン屋の箱に写ってしまったのかも知れない。

さて、昭和25年前後、アイキャン屋全盛期であった。老人の縁類になる下鴨神社の「みたらし茶屋」を名乗る京菓子舗・亀屋粟義も、京菓子の原料は統制品であり入手ままならず、夏にはアイキャン製造機と言っても簡単なものだが、同じ町内の肉屋の冷凍機製造と修理を手掛ける業者に作らせ、初夏から初秋にかけて京菓子など目もくれず空と温度計を睨みつつ、アイキャン製造に励んでいた。おじさんが自慢することが一つあった。「うちのアイキャンは京菓子の色粉使ってから色と香りが良い!」であった。薄い水色とピンクの2色とほのかな香り。これが自慢であった。ただし甘味料の方は砂糖を使うわけにいかず、サッカリンでなかったと思っている。

アイキャン箱は近所の指物大工が作り、すのこの下に氷2角置いてアイキャンを30本ばかり重ねて、売り子のおっちゃんが下鴨を廻っていた。今は昔の話、大変な脱線となってしまった。

長野電鉄から転入した上田交通の車両


千曲川の鉄橋を渡るモハ5261  上田~城下/昭和61年3月16日

tsurukame先輩が書き込みされた【12122】「雪景色・番外 長野電鉄2000、600形」の関連で長野電鉄から転入した上田交通の車両について紹介したい。撮影できなかった車両(モハ612→モハ5271)の写真は、犬伏孝司氏よりご提供いただいた。

 長野電鉄は、昭和56年3月1日長野~本郷間の地下化に伴い、不燃化基準により地下乗入が不可能な車両は、河東線(屋代~須坂)で使用する車両を除き、順次廃車となった。その中で、モハ102、モハ201、モハ604、モハ611、モハ612の5両は、上田交通に譲渡され、部品取りとなったモハ611以外の4両が別所線で再起した。
当時、別所線ではラッシュ時にモハにクハまたはサハを増結していたが、サハの場合は運転台が無いため、終着駅ではモハを先頭に付け替える必要があり、機回し線がある上田はともかく、別所温泉は留置線を利用して複雑な入換作業が必要であった。この4両の増備によりサハとクハの一部が廃車となり、これらの作業が不要となった。昭和61年10月1日の1500Ⅴ昇圧により廃車となったが、モハ604→クハ271は長野電鉄に里帰りして、モハ604に復元の上、小布施駅構内の「長電電車の広場」で保存されている。
旧番対照は下記の通りである。(左/長野電鉄・右/上田交通)
モハ102→クハ261・モハ201→モハ5261・モハ612→モハ5271・モハ604→クハ271

【車両の概要】
クハ261(旧長野電鉄モハ102
)
大正15年6月汽車会社で須坂~権堂間の開業に備えて作られた車両で、モハ101、102の2両在籍した。半鋼製車初期の製品で台枠にトラス棒が付いている。昭和53年9月に廃車となりモハ102のみ上田交通に譲渡されたが暫く手が付けられず、昭和55年3月になって電装解除の上、両運のクハとなった。


上田原/昭和61年3月16日

モハ5261(旧長野電鉄モハ201)
昭和8年4月汽車会社製で長野電鉄では1形式1両であった。前述のクハ261とはよく似たスタイルであるが、台枠にトラス棒が無い、リベットが少ない、扉間の窓の並びが均等の違いが見られる。長野電鉄の廃車時期はクハ261と同じであるが、こちらは直ぐに整備され、昭和53年12月に竣工した。

 
上田/昭和61年3月16日

 
上田/昭和61年8月24日(モハ5261+クハ291の2連)

モハ5271(旧長野電鉄モハ612←モハ602)
クハ271 (旧長野電鉄モハ604
)
昭和2年川崎造船所製の全鋼製車でモハ601~604の4両作られた。阪急600形、西武151形とは同形である。昭和41年に601と602のパンタ側(長野向き)の運転台の拡張工事が実施され、乗務員室扉の設置、客室扉の移設が行われた。昭和55年に4両共廃車となり、モハ603を除く3両が上田交通に譲渡された。
モハ612は昭和56年8月にモハ5271として竣工、モハ604は昭和58年7月になって電装解除の上クハ271として竣工した。モハ611は改造されることなく部品取りとして長電時代の塗装のままで上田原検車区に留置されていた。

 


モハ5271 上田/昭和58年7月8日 犬伏氏撮影
(上田側は原形、別所温泉側は長野電鉄時代に改造)

 
クハ271 上田/昭和61年3月16日

 


モハ611 上田原/上 昭和60年1月15日 下/昭和61年3月16日
(モハ611は改造されずに部品取り車になっていた)

【元東急の車両】
元長野電鉄の車両と前後して東急から譲渡された車両についても触れておきたい。

①デハ3310・クハ3661・クハ3772
昭和50年12月朝ラッシュ時の輸送力増強のために東急からデハ3310+クハ3661を借入れ、昭和54年4月正式に譲り受けた。

東急デハ3300形は目蒲電鉄から引継いだ車両で、元鉄道省の木製車を昭和11年から15年にかけて川崎車輛で鋼体化したもので、当初3301~3311の11両在籍していたが3302と3303の2両は戦災に会い9両が残った。晩年は3両×3本が池上線で使用されていた。
上田交通では平日朝ラッシュ時に上田原→中塩田→上田→上田原の限定運用で使用していたが、正式譲受け後連結面にも運転台を設置して単行で使用可能なように改造したが、使用実績は極めて少なかった。

 
上田原/昭和61年3月16日


[参考]東急デハ3307+3306+3308 旗の台/昭和47年12月17日

クハ3660形は2両在籍し、名義上は昭和22年に元京浜急行の木製車クハ5213、5222を更新したことになっているが、実際には車体新製車である。(台車は中古品)借入直前は田園都市線で使用されていた。昭和58年10月老朽化のため廃車となり、次に述べるクハ3772と交替した。

 
上田原/昭和60年1月15

クハ3770形は戦災で焼失した国電を購入して自社で復旧した車両で、クハ3772の前身はクハ65147とされている。昭和36年東横車輛で全金製の新製車体と乗せ換えた。昭和58年10月クハ3661の代替として入線したが、1500Vに昇圧のため僅か3年で廃車になった。

 
上田原/昭和60年1月15

②クハ291、クハ292
昭和58年10月東急5000系の中間車サハ5358(昭和31年/東急車両製)、サハ5371(昭和33年/東急車両製)の上田寄りに運転台を取り付け入線した。前述のクハ3772同様僅か3年で廃車になった。

 


上 クハ291  中 クハ291別所温泉側  下クハ291/昭和60年1月15日

2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part15 芭石鉄道 蜜蜂岩からの帰路

第13日目 3月6日

①蜜蜂岩11:31(芭石鉄道)→12:02石渓
②石渓站13:13(Taxi)→14:40楽山肖埧站
③楽山肖埧站15:10(バス)→17:22成都旅游客运中心
④華西埧17:48(成都地铁)→18:00鉄路北站


今日は、今回の芭石鉄道訪問最終日です。昼前の第2次で蜜蜂岩を去りますので遠くへはいけません。昨夜お会いした日本人の方は朝1番の列車で芭沟に向かわれていましたので、最後の撮影は蜜蜂岩站に近い定番撮影地でオーストラリア人一行と一緒に撮ることにしました。
▲ 10:07、第2次が上がってきましたが、期待の煙は今一でした。
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2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part14 芭石鉄道 菜子埧~躍進

第12日目 3月5日

①蜜蜂岩6:47(芭石鉄道)→7:07菜子埧
②菜子埧站(徒歩)→12:30蜜蜂岩站
③蜜蜂岩站(徒歩)→14:50躍進站
④躍進17:56(芭石鉄道)→18:12蜜蜂岩

昨日は芭沟~蜜蜂岩間を行ったりきたり、ふかん撮影のための山登りも含めると約20キロは歩きましたので、足の不安は消えました。今日もしっかりと歩こうと1番列車で芭沟を目指しましたが、車窓から見る天候は昨日以上の霧です。予定変更をせざるをえないと判断して菜子で降りることにしましたが、降りてすぐに石につまずいて転んでひざ下を強打してしまいました。

これはえらいことになったと緊急用の湿布をしてサポーターを巻いてから、しばらく様子を診ることにしました。最近は老いてきたのかこういったアクシデントが多くなってきました。先日も長浜で一緒に撮影に同行させていただいた総本家さんにもご迷惑をおかけしました。そのために一人で動く時には常に緊急用品を持ち歩いていましたので役にたちました。
場合によっては民宿の陳さんに連絡して迎えの要請をしなければと覚悟しましたが、痛みが治まってきたので芭沟方向に歩くのは諦めて、民宿方向の撮影地としました。

▲ 7:49、芭石鉄道では3本指に入る撮影地ですが、今年は棚田に菜の花はありません。これからのためでしょうか棚田は区画整理されて菜の花は植えられていませんでした。それでも運転手はドレインのサービスは続けてくれました。来年は絶景が広がることを期待しました。
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2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part13 芭石鉄道 芭沟~蜜蜂岩

第11日目 3月4日

①蜜蜂岩6
:45(芭石鉄道)→7:25芭沟
②芭沟站 7:10(徒歩)→19:00蜜蜂岩站



昨夜は9時過ぎにバタンキューで寝てしまいましたので、朝5時半には起き上がれました。今日は1番列車に乗って芭沟に行き蜜蜂岩まで徒歩での撮影予定です。幸いにして、足の状態も良くなってきました。しかり無理は禁物ですので、様子を見ながらとしました。
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阪和モタ303

震災の影響でしばらく休載でしたが、再開されたようです。

さて、このモタ303、文中の「京阪電鉄スタッフが開発に関与した」とあるのはどういうことでしょうか?また、「アイスキャンデー塗装」とはなんでしょうか?京阪が阪和電鉄と関係があったのでしょうか?アイスキャンデー塗装というのは、文脈から想像するに窓部分を挟んで上下が同じ色のツートンカラーということでしょうが、こんな表現があったのでしょうか?

今回は、疑問がいくつも浮かんだ電車でした。長老の皆様、河様、ご教示ください。

ユースで巡った鉄道旅 -7-

蒸機の牙城、筑豊に泊まる

鉄道旅でユースホステルに泊まることのメリットとして、撮影地近くに立地するユースの多いことが挙げられます。ホテルや旅館は人口の集積地や観光地が中心ですが、ユースは観光地とはおよそ無縁なところに立地している場合があり、それは鉄道撮影地近くと一致する場合がありました。
その代表例として、よく利用したのが飯塚市にある八木山(やきやま)ユースです。蒸機の牙城たる筑豊にあり、ここを基地にして、2日、3日と連泊して筑豊各地で撮影を続けたものです。私は累計8泊して、ユース宿泊回数としては最大を記録しています。
飯塚市に所在と言っても、ここは飯塚と福岡の中間、八木山峠の近くにあります。通常は、新飯塚で下車、遠賀川を渡って川向こうの飯塚バスセンターへ向かい、天神行きの西鉄バスに乗ります。飯塚市街を走り抜けると、九十九折の坂道となり、峠を越えたところにユースは所在しています。筑豊のイメージからはほど遠いような、緑豊かな地でした。
今でこそ、飯塚と福岡は、福北ゆたか線(篠栗線)が直結し、電車に乗れば40分余りですが、当時の篠栗線は吉塚から篠栗までの盲腸線、以降、筑豊本線桂川までは未開通、そのため博多へ行くには、バスに乗るか、さもなくば、鉄道なら原田周りの遠回りを強いられました。そのため、この区間のバスは、本数も多く結構な賑わいを見せていましたが、現在では、バイパスができて、峠越えの必要もなくなりました。現在、同ユースは、飯塚八木山高原ユースホステルと改称して盛業中のようです。

ユース最寄駅の新飯塚は、明治35年に貨物専用の芳雄駅として開業、昭和10年に旅客駅となり、「新飯塚」と改称された。本家の飯塚よりも、市の中心市街地に近く、以前から飯塚よりも乗降客が多い。当時の駅舎は、車寄せを持ったいかついスタイルで、北九州によく見られたドイツスタイルを継承している。一昨年だったか、久しぶりに新飯塚駅に降り立った。駅舎は橋上駅になり新しくなったものの、駅前の閑散さは目を覆うばかりであった。

日曜日の朝、北九州方面へ向かう多くの乗客が待ち受ける新飯塚駅に、C55の牽く上り列車が滑り込む。鉄道にまつわる情景は、当時とは変わってしまったが、地方路線での旅客の多さ、これだけは今では全く見られなくなった光景だ。左に停車しているのは、急行「天草」。博多経由ではなく、筑豊本線を経由して熊本へ向かう。ロネ、ロザを連結した、典型的な夜行急行列車であった。

ユースに泊まると必ず行ったのが、筑豊本線筑前内野-筑前山家間の冷水峠だった。冷水トンネルをサミットに両側に25‰勾配が続く。旅客はC55の単機、貨物はD60重連が標準。D50、D51も走る。鹿児島本線のバイパス的な役割もあり、旅客、貨物ともそこそこの本数があった。優等列車も、前述のように客車急行、DC急行、それにDC特急までもが走っていた区間だった。

2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part12 芭石鉄道 蜜蜂岩站へ

第10日目 3月3日

①鉄路北駅9:35(成都地铁)→錦江賓館(Taxi)→成都旅游客运中心駅
②成都旅游客运中心 10:30(バス)→12:22楽山肖埧站
③楽山肖埧站12:35(Taxi)→13:42芭石鉄道石渓駅
④石渓14:00(芭石鉄道)→15:06蜜蜂岩

7:30、昨夜はお風呂にゆったりつかってからベットに入りましたので、さわやかな朝を迎えられました。
▲ 朝霞の中に太陽が昇って来ました。CRH1の16両編成が白蛇のごとく発車していきます。
▲ 朝の成都駅。成都地铁の車内では新聞を読んでいる乗客がたくさんいます。今まで中国で全地铁には乗車していますが上海地铁ぐらいしかこのような光景を見ることはありませんでした。地铁駅では、自動販売機・ATMも設置されています。

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2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part11 芭石鉄道行き決定

第9日目 3月2日

①乌鲁木齐13:34(K454次)→15:04成都
②鉄路北駅18:56(成都地铁)→19:08 錦江賓館

成都旅游客运中心駅(Taxi)→19:52汉都大酒店

49時間30分の乗り鉄旅を終えて15:04成都駅に降り立ちました。これから先はホテル予約はしていません。列車の切符もありません。切符が取れればすぐに昆明こ向かうか、あるいは芭石鉄道へと向かうかの選択肢がありましたが、その前に体調維持が優先されます。今日は成都で宿泊して休養を取ったほうが良いと判断しました。
準特急先輩がおられたらどうするのかと不安がられるでしょうが、成都は3回目の訪問で若干ですが土地勘はあります。以前に使ったことのある旅行社に頼むこともできますし、最悪の場合は前回宿泊したバックパッカー向けの日本人経営の「Sim’s Cozy Guesthouse」に飛び込みもできるかと楽観的に考えていました。


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JR貨物、不屈の鉄道魂 壁乗り越え被災地へ燃料

我らの仲間が復旧に善戦しているJR貨物、今日のネットニュース、ビジネス1に出ていたので転載します。末尾の記者さんの署名記事です。JR貨物、がんばれ!S君、がんばれ!

(以下転載)

 被災地の燃料不足が深刻化する中、ガソリンと軽油を積み込んだ「石油列車」が19日夜、盛岡貨物ターミナル駅(盛岡市)に滑り込んだ。震災後初めてとなる列車による燃料の大量輸送。輸送を担ったJR貨物には、被災によるルート変更、迅速なタンク貨車の手配などさまざまな課題がのしかかった。

◆正規ルートは壊滅

 新宿駅近くにあるJR貨物本社。1カ月前に移転したばかりの真新しいオフィスは、震災以来、沈痛な空気に包まれていた。首都圏と東北を結ぶ東北線、迂回路(うかいろ)の常磐線が深刻なダメージを受け、東日本がほぼ機能不全の状態に陥っていたのだ。

 テレビに映る被災地の惨状に社員は声を失った。さらにガソリンスタンドは長蛇の列、ストーブの燃料もない避難所には雪が積もっていた。燃料を早期に大量輸送できるルートが求められているのは明らかだった。

 14日夕、4階の会議室に各部署の主要メンバー30人が集まった。狭い室内に沈黙が続く中、誰かが声を上げた。「石油を運ぶぞ。日本海側から」。応じる声がすぐに上がった。社員の“鉄道魂”に火がついた瞬間だった。

 ◆「思いは同じだ」

 盛岡貨物ターミナル駅には、タンク貨車からタンクローリーに石油を移す施設がある。かろうじて“生きている”日本海側の線路を使い盛岡まで運ぶ。そこからタンクローリーで、被害の少ない内陸部の道路を南下、東に方向転換し、ピンポイントで最大の被災地、三陸沿岸集落に輸送する案が持ち上がった。

 昼夜を問わずに断続的に開かれた対策会議で、いくつもの課題が浮き彫りになった。運行管理の担当者は「日本海ルートで石油を運んだ実績がない」と天を仰いだ。

 重いタンク貨車に、レールや橋脚が耐えられないかもしれない。技術担当者がすぐに線路の管理者であるJR東日本に電話を入れた。「タンク貨車が通れるか、至急シミュレーションしてほしい」

 こうした試算は通常、長期間かかるが、JR東から返事が来たのは翌日だった。「大丈夫だ。いける」。答えを聞いたJR貨物の担当者はJR東の迅速な対応に「輸送にかける思いは同じだ」と胸が熱くなった。

 ■発送前倒し 応えたJX

 次は積み荷の手配だ。15日、営業担当者は、恐る恐る連絡を入れた。相手は元売り最大手のJX日鉱日石エネルギー。どの元売りも製油所が停止するなど、大打撃を受けていた。「輸送できます。いつから(石油を)出せますか」。相手は待っていたかのように応えた。「19日に出せる」

 その夜のJR貨物の会議で、ある幹部が思わぬことを口にした。「18日に出せないか」。その場に居合わせたある営業担当の男性社員は「政府の意向だ」と感じ取った。JXもあらゆる手を打ち、18日に間に合わせた。

 横浜市の根岸製油所で燃料を積み、丸1日かけて盛岡に運ぶ。青写真はできた。しかし、技術担当者は「できるだけ軽いタンク貨車を使うべきだ」と主張した。線路の耐性への疑念が消えなかったのだ。

 コンテナリース会社、日本石油輸送には40年以上前から使われ、退役間近のタンク貨車「タキ38000型」が36両残っていた。積載量は少ないが、一番軽い。「できるだけかき集めてほしい」。JR貨物の要請で、17日までに18両が集まった。

 18日午後7時44分、電気機関車「EF210型」に牽引(けんいん)され、ガソリン、軽油合計792キロリットル、タンクローリー40台分を積んだタンク貨車18両が、根岸駅を出発した。列車には8人のベテラン乗務員が交代で乗り込んだ。「乗務員は担当区間では踏切や信号はもとより、レールの状況も正確に記憶している」(同社広報)。不測の事態に備え、短い距離で運転を代わる万全の体制を敷いた。

 タンク貨車が盛岡駅に到着したのは19日午後10時過ぎ。待ちわびた多くのタンクローリーに石油が次々に充填(じゅうてん)され被災地へ向け走り出す。バトンは確かに引き継がれた。21日からは1日2便に増便しており、25日からは根岸→郡山(福島県郡山市)への輸送も始める。

 収益悪化や設備の老朽化などをたびたび指摘されてきたJR貨物だが、日本の非常時に鉄道輸送の存在感を見せつけている。(高山豊司)(以上、転載終わり)

JR西で運行削減?

新聞報道によると、今般の大震災の影響でJRーWでも列車運行本数を5~30%削減すると言うことです。

節電か?と思いきや、なんとモーターのブラシが不足だとか!記事によるとなんでも直流モーターのブラシを作っているのが浪江にある日立化成の工場で、原発に近く被害も大きいため製造が中断しているそうです。でも、これほどの大量の電車を運休にしなければならないほど消耗するものでしょうか?

カツミや天賞堂のモーターに詳しいぷるぷるさん、説明をお願いします。

2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part10 49時間30分乗り鉄旅 K454乗車 

第8・9日目 3月1・2日
①乌鲁木齐13:34(K454)→15:04成都

翌朝起きて車窓を見ると、K454次はまだ赤土の広がるシルクロードの世界を走行中です。やがて列車は甘粛省地級市の「武威」に到着しました。

【客車列車の種類】 中国鉄路を走行する客車列車には、

Z列車=直達特快;最高速度160km/h対応の最新寝台車両を多くしてサービスを充実し、大都市間を途中停車を少なくして最短時間で結びます。軟座寝台のみといった編成も12本あり、全部で48本が運行されています。今回、北京西→兰州で利用しました。

T列車=特快;全土の大都市~地方都市漢をを結びます。寝台の他に硬座車(2等指定席車)も連結しています。272本が運行されています。今回、兰州→哈密間で利用しました。

K列車=快速;T列車よりも途中停車が多く、区間乗客も利用します。1080本が運行されています。今回、哈密→乌鲁木齐で利用しました。そして現在乗車中の列車です。

Y列車=旅游列車;以前は結構ありましたが、現在は、北京北~延庆に8本が運行されるのみです。北京から万里の長城に行く際に利用されています。

 

その他は普通車ですが、少し早い列車は普通快車(直訳すれば普通急行、車次1001~5816)と遅い列車は普通慢車(直訳は普通鈍行=6001~7582) に分けられています。

⑥また春節には、多くの臨時列車が運行されています。時刻表に掲載されていない短い区間列車、通勤列車もあります。
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2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part9 乌鲁木齐から成都へ一人旅の始まり K454乗車

第7日目 2月28日

①美麗華酒店12:00(Taxi)→12:18乌鲁木齐駅
②乌鲁木齐13:34(K454)→15:00成都(車中2泊)

準特急先輩と朝食後、先輩は予約しておいたTaxiで空港に向かわれました。北京空港でのCZからCAへの乗継時間は、3時間20分ありますが到着と出発ターミナルが違っていて初めての方には移動時間は十分とはいえません。もし国内線が多発する霧等の天候で遅れないか心配されておられましたが、予測は不可能です。何かあっても準特急先輩は英語が堪能ですので対応は可能かと、祈ってお送りました。

さて、これからはいつもの一人旅ですが、今まで皆様方とのワイワイ楽しい旅でしたので、寂しさと不安が噴き出してきました。 こんな時は慌ててはいけません。部屋の戻ってゆっくりと荷物を整理して、十分な時間をもって乌鲁木齐駅にTaxiで向かいました。

12:18、乌鲁木齐駅。駅前広場には氷のモニュメントが設置されています。

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さようなら 都電7500形

この度の東日本大震災で被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。鉄道はじめ公共交通機関の一日も早い復旧と被災地の復興を祈念し、投稿を再開させていただきます。

都電荒川線で最後まで残っていた7511と7512の2両が3月13日を最後に営業運転を休止し、当日はお別れ式が実施される予定になっていた。

最終日2日前の3月11日(金曜日)、撮り納めと乗り納めをしようと思い、フレックスで10時出社にした。いつもの時間(6時40分)に家を出て町屋で都電に乗換え荒川車庫前で下車。三ノ輪橋方面行が順光になるが、この時間帯は正面に電柱の影が写ってしまうが贅沢は言っておられない。ラッシュのピークのため電車は3~4分間隔で次々に来るので効率がよい。町屋駅前行で来た7511を撮影したところで、横の道路から車庫内を覗くと、廃車済みの7520に「さよなら」のヘッドマークが取り付けられているのが見えた。恐らく13日のお別れ式に7511、7512と共に展示されるのであろう。三ノ輪橋行で来た7512を撮影後、町屋駅前で折り返してきた7511が大塚駅前行で来たので乗車、飛鳥山で降りて折り返してくるのを待とうとも思ったが、乗り納めで大塚駅前まで乗車して、荒川車庫前行で折り返して行くところを撮影した。次の電車で新庚申塚まで戻り、徒歩連絡の都営地下鉄三田線西巣鴨駅から芝公園駅近くの勤務先に向かい、予定通り10時に到着した。7511、7512の撮影、7511の乗り納めと予定通りの結果であったが、何か寂しいものがあり、あわよくばもう一度乗ってみたいと思った。 

いつも通り慌しく仕事を進めているうちに、14時46分やや大きな横揺れを感じた。揺れはどんどん大きくなり、立っていられない状態になり、マジでヤバイと思った。揺れが収まり、テレビをつけてみると東北地方を震源地とする大地震が発生し、東京は震度5強とのことであった。自宅に電話をするが繋がらない。やっと繋がったと思ったら誰も電話に出ない。暫く経って再度電話をすると、嫁さんと子供は亀有の大手スーパーに併設されている映画館で鑑賞中に地震に遭遇し、余震が続く中を2時間かけて歩いて帰ってきたとのこと。自宅は建物の損傷はないが、家の中は書棚が転倒し、棚や箪笥の上のものは全部落下、食器棚の中のガラス製品が多数破損している。はよ帰ってアンタの本を片付けてちょうだいとのこと。鉄道の運転再開まで時間がかかるので、約20キロの道程を歩いて帰ろうと思い、外に出たところで「ビル管」から津波警報が出たので3階以上に避難したほしい。また警報が解除になっても余震が収まるまで外には出ないで欲しいと言われ、仕方なく4階の事務所に逆戻り。事務所から海岸までは500m程である。

16時30分頃都電と都バスの運転再開が伝えられた。都バスが動けば、さほど遠くない新橋まで歩き、業平橋行に乗り途中の言問橋で金町行に乗り換えれば帰ることができる。暫くすると都バスで帰ろうとして事務所を出た人が戻ってきた。ひどい渋滞と長蛇の行列を見て諦めたとのこと。事務所前の渋谷行のバスも渋滞のため全然動かない。この時点で都バスルートは諦めた。招集がかかり、大阪の本社からの指示で食料を確保せよとのことであった。事務所周辺のコンビニは既に売り切れとの情報で、少し離れた住宅街に行くと、パン、おにぎり類はすべて売り切れ。辛うじて残っていた弁当、カップ麺を必要数購入した。21時を過ぎた頃が都営地下鉄、東京メトロを中心に運転再開のニュースが入り、半数以上の人が帰宅したが、混雑のため電車に乗れず事務所に逆戻りした人、超満員の電車で行けるところまで行き、深夜の道を歩いて帰った人、途中で帰宅難民になった人等まともに帰れた人は殆どいなかった。余震の度にロッカー類が揺れる音と、携帯電話のエリアメールの音で眠れなかったが、暖房が効き食料が充分にあるのは有難かった。

 

翌12日、ニュースではJR各線は7時頃から、山手線は8時頃から運転再開と報じていた。都営地下鉄は昨夜の段階でほぼ全線で運転再開、私に関係する東京メトロ千代田線は代々木上原~霞が関間のみ開通していた。9時30分に事務所を出て混雑を避けるため都営三田線芝公園駅から昨日の逆ルートで帰ることにした。三田線は昨夜のうちに開通しているので乗客はさほど多くなくほぼ平常通り運転されていた。都電荒川線は山手線の高田馬場~巣鴨間の代替交通機関として超満員であったが、5~6分間隔でほぼ平常通り運転されていたが、「町屋駅前~大塚駅前間の区間運用」(土休日に三ノ輪橋~早稲田間の通し運用2~3本間に運転される)の運休と明日の「7500形さよならイベントは中止となり、グッズのみ販売」とのアナウンスがあった。ちなみに山手線外回りが運転再開したのはこの日の午後であった。この時点では、千代田線は代々木上原~霞ヶ関間の折り返し運転のため飛鳥山で途中下車して撮影しながら時間調整することにした。大地震の翌日にもかかわらず何人かの撮影者がいたのには驚いたが、自身も同類のため人のことは言えない。撮影していた人に7500形の運行状況を聞いたところ、間もなく7511が貸切で来るとのこと。撮影後荒川車庫前に移動して戻りを待ったがここで入庫した。乗客は10人程で2家族の貸し切りであった。運行状況のアナウンスがあり、千代田線は綾瀬まで全線再開したとのことであった。町屋駅に到着すると、綾瀬駅混雑による運転見合わせのため京成への振替乗車が行われていた。普通八千代台行(6両編成)が直ぐ来たが成田空港から海外に行く人も結構乗っており超満員であった。高砂で乗り換えた金町行は通常15分間隔のところ1本間引きで30分間隔となっていたのとメトロからの振替乗車の乗客で満員で、金町に到着したのは13時であった。
当日の京成電鉄の運転状況は、本線上野~八千代台間と押上線がオール各駅停車で約20分間隔、金町線30分間隔、八千代台~成田空港間と千葉・千原台線は終日運休、北総鉄道は高砂~印西牧の原間、成田スカイアクセスは印西牧の原~成田空港間それぞれ約40分間隔で折返し運転され、東京~成田空港間の足は辛うじて確保されていた。

 


7511の貸切運行

 
イベント中止を告げるポスター

 
「都電おもいで広場」もお休み

 最終日の13日、イベントは中止されたが、この日のみ発売の「記念1日乗車券」を購入するため荒川車庫に行った。入口のところにヘッドマークが取り付けられた7520が綺麗な姿で停められていた。一方本日限りで引退する7511と7512は終日町屋駅前~大塚駅前間の運用に入り最後の雄姿を見せてくれた。13時過ぎ、一昨日乗り納めをした7511が来たので、町屋駅前まで本当に最後の乗り納めをした。そして7500形の昭和37年から半世紀に亘る活躍の歴史が静かに終了した。

当日イベントは中止になったが、この日のために美しく整備された7520を入口近くの撮影可能な位置に停車、7511、7512を大塚駅前~町屋駅前間を終日運行させて多くの人が乗車、撮影可能なように配慮された関係者の皆様に敬意を表したい。

 
この日のために整備された7520

 


最終日の表情(上/町屋駅前で折り返し 中/荒川車庫前発車 下/町屋駅前発車)

7511車内のポスター

 

在りし日の7500形
原形時代
昭和37年に7501~7510が日本車両、7511~7520が新潟鐵工所で新製され青山車庫に配置された。昭和43年9月青山車庫廃止により7501~7510が荒川車庫、7511~7520が柳島車庫に転属、昭和47年柳島車庫廃止により7517と7519が廃車になり、残り8両が荒川車庫に転属した。

 


昭和52年2月12日 荒川車庫前/事務所の建物は「都電おもいで広場」の位置にある。

ワンマン改造後
昭和52年10月からワンマン運転開始に伴い改造されることになった。(完全ワンマン化は昭和53年4月)7000形は車体を新製したが、ワンマン機器設置とホーム嵩上げによる車体改造に留まった。7509と7514は改造されずに廃車された。

 


上/昭和58年7月12日 下/同年6月18日 荒川車庫前

車体更新後
昭和59年から冷房装置搭載に伴い車体更新が実施され新製車体に乗替えられた。7502、7504、7508の3両は対象外となり、7502と7508は廃車、7504は朝のラッシュ時のみ使用されたが平成13年に廃車後「都電おもいで広場」で保存されている。集電装置は当初ビューゲルであったが、程なくパンタグラフに換装された。


ビューゲル時代の7503/昭和60年5月10日 荒川車庫前

思い出の風景

 
荒川2丁目~荒川区役所前/平成21年3月27日


王子駅前~飛鳥山/平成21年5月15日


飛鳥山/平成21年6月8日

荒川遊園地の送迎バス
沿線の荒川遊園地に7500形をモデルにして作られた送迎バスが存在した。こちらは一足早く姿を消したようである。


荒川遊園地/平成11年6月24日