北陸本線419系を送る

3月12日のJRダイヤ改正では、車両面の変動もありましたが、中でも印象的なのは、北陸本線で働いてきた419系電車の撤退です。
419系電車は、余剰となった交直両用の寝台・座席特急車両581・583系を、近郊化改造して登場したものです。改造コストを抑えるために、最小限の改造に留められ、寝台設備がそのまま残った室内や、特異な前面スタイルなど、国鉄末期の窮乏時代を象徴するような車両でした。画一化の進むJRにあって、唯一”ゲテモノ”と呼ぶにふさわしいスタイルです。ただ、乗ってみると、ゆったりした乗り心地や広々した座席に、特急時代の面影を十分に感じたもので、北陸へ行くと、好んで乗車したものでした。
419系は、金沢総合車両所に3両編成13本があり、敦賀以東の北陸本線で運用されていましたが、老朽化は否めず、2扉、狭い扉幅、定員の少なさも災いして、521系の増備によって、ダイヤ改正を機に定期運用からは撤退することになりました。

かつては、9連編成の運用も存在した419系だが、改正前は2編成の6連が最高だった。しかも、平日朝の金沢~富山間の423M、422Mしかない。先日、最後のキハ28・58撮影で富山を訪れた際、6連をようやくとらえることができた。さすがに迫力はある。切妻のクモハ419とクハ418が顔を合わす併結部もなかなかの味わいであった。

3両という短編成化のため先頭車が不足、中間車のモハネ581、サハネ581を先頭車化改造した”食パン”と呼ばれる切妻顔のクモハ419、クハ418が生まれている。同様の改造は、東北、九州でも行われ、交流専用715系として使われていたが、以前に廃車となっており、419系のみが、581・583系として製造され40年以上経った今まで使用され続け、寝台・座席特急の時代より、はるかに長い間、北陸本線で使われた。

419系の前部には以前「タウントレイン」という愛称板が取り付けられていたが、2001年ごろに取り外された。短編成化した419系は、愛称どおり北陸本線のフリークェンシー化に大きな貢献をした。写真は田村付近の419系で、当時は米原までの運用もあり、京阪神からの新快速などとも顔を合わせていた。

少し前まで、北陸本線の419系が湖西線近江今津まで乗り入れていた。クハネ581改造のクハ419は、ほとんどが貫通扉も埋められたが、右のクハ419-13には貫通扉が残り、愛称表示器もそのまま残っていた。このD13編成は、一足先に2006年10月の敦賀直流化時に廃車されている。左の117系の福知山線色と呼ばれる、グリーン帯の117系もいつの間にか姿を消してしまった。

2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part8 初めての新疆ウィグル自治区

第5・6日目 2月26・27日

①哈密23:35(K9781次)→8:20乌鲁木齐(ウルムチ)
②乌鲁木齐駅8:50(チャーター車)→国際バザール→美麗華酒店

K9781次は、始発駅だけあって1時間前の改札でした。この列車は、2階建て硬座車5両(SYZ25B①不明+②346241+③339311+④339350+⑤346245)+食堂車(⑥CA25G893183)+2階建て軟座寝台車(⑦SRW25B552623)+2階建て硬座寝台車8両(SYW25B⑧674463+⑨671294+⑩674469+⑪671308+⑫671314+⑬671310+⑭675696+⑮997939)の合計15両編成です。



▲ S氏が乌鲁木齐から哈密まで乗車予定だったのは、この列車と同じ編成です。行先板は、久しぶりに見るホーロー製です。乌鲁木齐までの553キロを8時間45分をかけて走行します。その後、喀什(カシュガル)までの1588キロを24時間54分をかけて向かいます。まさに快速「シルクロード号」ですね。この運用ですと哈密を出発して、哈密まで帰ってくるのには5日間かかりますので、少なくとも10本の同一編成が必要となります。駅名板はウイグル語でも記載されていました。

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2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part7 蒸気機関車の現状

三道嶺 撮影地ガイド
初めての三道嶺でしたが、案内人のおかげで効率良く撮影ができました。
ただ反省点としては、2月中旬でマイナス20℃と寒く煙も十分と思っていましたが、昼間は温度が上がってきたのか、やや不満足でした。期待した天山山脈が霞んで、今一見えにくかったのも原因です。
後で、三道嶺へ行かれた方にお会いする機会があり、写真を見せてもらいましたが、天山山脈がはっきりと見えて、順光無風の抜群の状態でした。撮影日は1月12日で、前後の10日間を現地で粘っての成果だったそうです。
私のように、最初ですぐに成果を出そうなんて甘かったようです。機会があれば是非に再挑戦したいものです。

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気仙沼在住、ネットの友人が被災されました

 東日本大震災で被害にあわれた方々に心からお見舞い申し上げます。大変な状況です。平穏なこちら我々が、被災地に対して申し訳なく思うほどです。

 拙著HPを通じて交流のある気仙沼在住の方が被害に遭われましたがネットで無事が確認できました。震災当日夕刻に、NTTドコモに発信登録されていましたのをgoogle の検索で見つけました。そしてNTTドコモで携帯番号を入力し登録内容を読みました。自宅は破壊、祖父母の行方が不明とのことです。自宅はホントに海岸近くでした。

 たった3分ほどで検索できたgoogle のスピード、力に改めて感心しました。しかしHP掲載に際し許可を戴いた釜石の岩手東海新聞社、本の著者元釜石市長菊池様の安否も心配です。

 気仙沼の友人は、拙著HP大船渡線を見られ、自身の大船渡線HPに、小生の蒸機写真の提供を依頼され、送付して以来の交流でした。そして、50年前の写真と同じ地点で、現在の鉄道風景を撮影比較し、アップされていました。デジ青『雪景色』の続きで、次回大船渡線に50年前と近年の、今昔定点対比写真を投稿の予定でした。この方にデジ青への掲載許可を快く戴いた直後の震災でした。
 従って、投稿は延期しました。しかも春が近づいて来ましたので『雪景色』の続きは来冬です。大船渡・釜石・山田・米坂・飯山・宮津線などが残りました。東北地方の各線、そして飯山線の被害も甚大です。

 また近年、私が撮影に出かけている4つの鉄道の内、3つが被害を受けて運転休止となりました。真岡鉄道、ひたちなか海浜鉄道、鹿島臨海鉄道大洗鹿島線です。殊に海岸近くを走る、後者2つの鉄道はどうなっているのでしょうか。一日も早く復旧して再び撮影できることを期待して止みません。

2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part6 厳寒の三道嶺 2の2

第5日目 2月26日

①三和酒店(チャーター車・撮影)8:00→ 19:20三和酒店
②三和酒店 19:25(チャーター車)→21:10哈密駅
③哈密23:35(K9781)→8:20乌鲁木齐(ウルムチ)

昨夜は話し込んでしまったので起床時間はまだ夢の中でした。ご迷惑をおかけしました。
朝1番の撮影は、ずらりとズリ捨て列車が並ぶ西駅です。外温はマイナス20℃。撮影場所⑩

▲ 8:40、ズリ捨て列車が出発したくを始める西駅。左からJS8194号機、おいてJS8080・6261・8225号機です
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JRの輸送体制

千年に一度とかの大災害が東北地方を襲いました。毎日テレビは惨状を報告しますが、正直、つらすぎて見てはいられません。ニュース大好きの小生もテレビを消しております。こんな事は今までの人生で始めてのことです。そんなときにこんな話を聞きました。

東北本線や奥羽本線は使えるが、電力を止めるのと電圧の低下で電機が使えず支援物資の貨物列車が動かないという話です。実際テレビ画面で見るとEH200の牽くコンテナ列車が止まっていました。

そこでこんな妄想が頭に浮かびました。DD51重連の貨物が十三本木峠を越えていく姿、復活したD51やC61の牽く貨物列車が復旧物資を満載して東北の山野を走る姿を。

不謹慎と怒らないでください。節電を、というなら鉄道の節電が効果的で、それでいて輸送量を保つには過去の遺物とバカにされ捨て去られたDLやSLの再登場があればいいのに・・と夢を見たのでした。

いわき市に住む友人から早朝鶴見に住む息子のところへ疎開すると連絡がありました。黒磯か那須塩原までタクシーで出て行列に並んで列車に乗るとのことでした。「疎開」「並んで汽車に乗る」・・・これもずっと昔に聞いた言葉でした。

「雷鳥」を送る

このたびの震災で被災されました皆様に心からお見舞い申し上げ、投稿を再開させていただきます。

3月12日から九州新幹線の開業などに伴うJRのダイヤ改正が実施されました。関西でもかなりの変動があり、改正前日は最後となる列車の撮影に追われていました。なかでも、雷鳥」がついに消えることになり、昭和39年のデビュー以来、永年親しんだ愛称についに別れることになりました。

3月11日夕方、最終の金沢行き「雷鳥33号」を、私は京都駅0番ホームで迎えました。思い返せば、昭和39年12月25日、「雷鳥」運転開始のその日も、中学校3年生の私は、同じく京都駅1番ホーム(当時)で「雷鳥」を迎えたのでした。大阪駅で発車式があり、そのテープをボンネットに巻いたまま、京都駅に到着しました。ホーム端ギリギリに停車したため、いい写真を撮るために、事もあろうか、線路に降りて編成を写しました。少年が取った大胆な行動もまだ許された時代でした。撮影者もほんの2、3人だったと記憶しています。

ところが後日、悲惨な結末が訪れます。フィルムが入ったままのカメラが、電車の中で置き引きに遭ってしまったのです。そのフィルムには、梅小路のC51も写っており、返す返すも残念な出来事となりました。

その後に発売された「鉄道ピクトリアル」に、その日の同列車を、虎姫~河毛間でとらえたカラー口絵が載っているではありませんか。なんと、その撮影者が山科の人間国宝だったのです。その並外れた行動力には、改めて脱帽した次第です。 

最後の金沢行き「雷鳥33号」は、A1編成と呼ばれる、クハ481-323を先頭にした9両編成だった。多くの鉄男・鉄子の待ち受ける中、懐かしい国鉄色を夕陽に輝かせて入線してきた。京都駅から乗り込む乗客も多い。昭和39年、初日の「雷鳥」を写したのも、最終「雷鳥」を写したのも同じ京都駅のこのホームだった。鉄道趣味に捧げた47年の歳月の長さを思い返せずにはいられなかった。 

上記のように初日の写真は幻となってしまったが、その後、デビューまもない「雷鳥」を山科の大築堤でとらえた。481系は、大阪~富山間の「雷鳥」、名古屋~富山間の「しらさぎ」各1往復、スカートが赤のままで、交直車を示すヒゲも入れられていない元祖481系の姿。この時代はごく僅かで、のちに山陽本線へ481系が進出する際に、直流181系との識別のため、ヒゲが入れられる。 

その後、雪の北陸本線田村付近で珍しいカラーも写していた。スカートには60Hzを示すクリーム帯が入り、ヒゲも入れられている。同じシーンでモノクロで撮ったものを、「鉄道ピクトリアル」の写真コンクールに初めて応募したところ、佳作に入選したのも、今では懐かしい思い出だ。嬉しくて、掲載誌を高校でみんなに見せて回った。そのため、この号だけが今もボロボロの状態で在る。 

最終日の3月11日には、唯一残る489系ボンネット編成による修学旅行の集約臨が昼間に走った。最近は臨時で走ったとしても、前部愛称板が蛍光灯剥き出しのままで、サマにならないこと甚だしいが、今回は「臨時」がちゃんと入れられていた。何気に、京都駅2番ホームから、0番ホームへの入線をとらえたが、ほぼ同じ位置から、初期の「雷鳥」を撮っていたことが判った。京都駅は新駅舎建設の際、2本あった通過線を1本にして、1番ホームを張り出し拡幅し、同時に線路番線と一致させるため、1番ホームを0番ホームに改称している。京都駅の変わりようには驚かざるを得ないが、電車のスタイルはほとんど変わっていないことにも改めて再認識させられる。

 

地震体験

 地元京都を始め関西在住のDRFC-OB先輩の皆様から早速地震に関するお見舞いの言葉を頂戴しております。有り難うございます。関東在住者は今の所、皆さん無事のようですが、この先しばらくは不便な生活を強いられることと思います。

 さて、地震のあった11日は朝から好天に恵まれたので、逗子のTさんの案内で横須賀市田浦の梅林を見に出かけた。ここは下を京浜急行が走っており、それを俯瞰撮影できる場所である。メモを見ると縦位置の写真はその場を去る前の14時32分に撮影したもの。京急の誇る2扉クロスシートの快速特急である。この撮影の後、JR田浦駅に向ってしばらく歩いている時に、Tさんが「あー地震や!揺れている!揺れている!」の声に始めて地震の発生に気づいた。この時は長いこと続くことと揺れがおさまらないので、もっと大きくなると危ないと恐怖感を感じた。電柱が倒れたり、民家の屋根瓦等が落ちてきたらこれを避けないといけない。年配の女性はしゃがみこんでいる。道路横の駐車場の車も揺れている。随分長い時間揺れを感じたが、ようやくおさまってきたころ、自宅の近い、それでも後で聞いたら6kmもあるTさんと別れた。この先はどうなっているかわからないが、横浜まで歩こうと考えた。昨年5月に小田原~三島の東海道旧道箱根八里を歩いたことがあるからその2/3くらいなら何とかなると思い、歩き続けた。横浜を選んだのは夜に動き出した時に相鉄、東急、京急、JRの選択肢が増えるからである。また、明日は勤務があるから早く帰りたいと言う気持ちがそうさせたのかもしれない。国道16号線は車が大渋滞で歩いた方が早いくらいである。金沢八景手前では横位置の写真のブルーの606-1の試運転車が金沢文庫から折り返して来たのか地震で停車中で技術員が乗っているのが見える。金沢八景付近は停電で年配の駅員さんは津波の心配があるので横浜市大へ避難の誘導をすると言うが、一向に誘導しないので食料品確保に商店街に向かう。1軒営業していた弁当屋は私の前で商品は終わり。仕方なくほかの店で100円ケーキ4個買う。携帯電話は通じないが、公衆電話はかかる。家では「ホテルに泊まって来い」と言う。徐々に暗くなってきて、一時雪が舞ってきた。横浜市営地下鉄の吉野町駅に寄って見るが、鉄道は全部アウトとのこと。しかし、22時頃には京王線は走ったようであるが、ここは神奈川県の情報。関内で夜明かしするレストランを探す。「ガスト」は15人待ちで営業は2時までなので24H営業の「わたみん家」で朝までねばることにする。大きな余震が続くのが気味が悪い。4時過ぎに店内に居た若者の情報で相鉄、小田急、京王が走り始めたということがわかり、これなら何とかなる目処はついたので、4時半に店を出た。横浜まで再び歩く。横浜ではJRは動いていないが、東横線と京急が動いたことがわかり、インストラクターにはとりあえず京急で川崎に向うように勧めて別れる。横浜5時半の東横線各停で渋谷に出て、井の頭、京王で家に戻る。シャワーを浴びてお色直しして出勤。

2011.03.11 京急田浦~安針塚 2117ほか快速特急三崎口行き

2011.03.11京急田浦~安針塚606-1を後部とする上り試運転電車

 さて、連日凄い惨事がテレビ放映されているが、特に津波の恐ろしさは想像を絶する。それに、福島の原発事故。こんなにもろいものなのか、どうすることも出来ないのか。これは予想もしない出来事で大迷惑。

 私事で恐縮であるが、震災を受けた東北の人から見れば小さいことであるが、不便なことと心配ごとは

①計画停電の影響で鉄道の運行が不安定なため、早めに起きて出勤せざるを得ない。入場規制も経験した。

②ガソリンが底をついてきたが、営業中のスタンドは長蛇の列。

③米、カップ麺、餅類等を中心に食料品不足。

④乾電池や湯たんぽなどがない。

⑤経験したことがない余震が今日も続いている。もうあれ以上のものは絶対来ないか。

⑥原発は30km外は本当に大丈夫か、風向き等によって影響は無いのか。

いろいろ心配してもしようがないが、店舗の営業時間も不安定で、店内照明は間引きて暗い。しかし、節電行為は致し方ないし、協力せざるを得ない。今日は南大沢の駅前で助け合い義援金に少しであるが協力。そんなことしか出来ない。アメリカは日本のこの様な非常時に略奪が無いことに驚いて感心しているが、この日本の秩序はいい伝統としていきたい。

2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part5 厳寒の三道嶺2の1

第4日目 2月25日

①蘭州16:01(T295次)→6:34哈密
②哈密駅前 7:58(チャーター車)→9:13三道嶺三和酒店
③ 三和酒店(チャーター車・撮影)→21:30
三和酒店

T295次哈密到着後は、列車編成を再確認していましたが、合流する一行の到着を待つために哈密駅横にある庶民食堂に入りました。

この日の朝食は、店頭で蒸されていた肉饅頭が美味しそうでしたので、これにしました。食べていると、合流する一行の引率者の陳さんから連絡が入りましたので、我々の場所を告げて待ちました。
疲れた様子で来られた一行のS氏からウルムチ(乌鲁木齐)から乗車するはずだったK9782次は、運休なって別の列車で着きましたとのお言葉です。K9782次は、ウルムチから1585キロも先のカシュガル(喀什) から来る列車が、ウルムチで折り返して哈密に向かう運用になっています。カシュガル~ウルムチ間で大雪による列車遅延が生じて、K9782次が運行できなかったようです。
仕方なくS氏一行は、無座客ととして食堂車に行き30元(約400円)を支払い、椅子に座ってテーブルに頭を置いて仮眠したと言われました。しょっぱなから中国鉄路の寒い洗礼を受けられたようです。
一緒に朝食を食べた後、陳さんがどこからか借りた4WDパジェロに乗車して三道嶺へと向かいました。哈密から三道嶺までは約80キロ、高速道路を走り宿泊する市内のホテルまで1時間15分で着きました。ホテルで宿泊登録を済ませてから、陳さんお奨めの撮影場所「東露天掘」へ行きました。
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T295次 2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part4 蘭州

第3・4日目 2月24・25日
①蘭州駅(Taxi)→中山橋(徒歩)→中山橋
②中山橋(徒歩)→磨沟沿老字号牛肉面(徒歩・Taxi)→五泉山公園
③五泉山公園(バス)→兰州站(蘭州駅)

快晴の朝を迎えました。夕方のT295次の発車は16:01。十分に時間があります。沿線で走行写真を撮りたいが、黄河も見てみたいとの準特急先輩のご提案がありました。土地勘もなく約6~8キロはあるらしいので駅前からTaxiで向かう事にしましたが、白タクでもないのに目的地の中山橋までは20元(約260円)との提示です。Taxiが少ないので観光客と見て、ぼったくりですが値切ってもしれているので「可以=まあいいわ」と、しぶしぶ言って乗り込みました。

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2011年 冬から春への中国鉄路の旅  Part3 Z55次乗車で北京西から兰州へ

一昨日はアップロードしようとした途端にゆらゆらです。すぐにTVを見ますと大惨事を見ることになりました。東日本巨大地震に遭遇され被災された多くの皆様、謹んでお見舞い申し上げます。私も阪神大地震の時は神戸支店勤務でしたので、地震の恐怖を体験しております。これから再建への道のりは、遠く険しく辛い日々の連続となりれますが、どうか希望を忘れずに頑張ってください。何もお手伝いすることができませんが、心より祈っております。

第2・3日目 2月23・24日

①京倫飯店12:27(Taxi)→12:49北京西站
②北京西14:35(Z55次)→7:23兰州(蘭州)


北京西站は首都の主要駅ながら未だに地铁が開通していません。途中までは地铁、後はTaxi利用となりますと、重いスーツケース類を持っての階段の上り下りは年寄りには苦痛で体力激減となります。三道嶺に着くまでにダウンしてはなりません。ホテルからTaxi利用で向かいました。普段は渋滞が慢性化している北京市内ですが、今日はスムーズに走行でき、北京西站には余裕の到着です。距離12.7キロ、所要時間22分、料金は32元(約420円)と日本の10分の一でした。 続きを読む

2011年 冬から春への中国鉄路の旅 Part2 中国鉄道博物館正陽門館&ハイブリッド路面電車

第2日目 2月23日

①永安里9:45(地铁)→建国門→10:10前門
②前門 11:15(地铁)→建国門→11:40永安里
③ 京倫飯店12:27(Taxi)→12:49北京西站
④北京西14:35(Z55次)→7:23兰州(蘭州)

今日から三道嶺へ向けての乗り鉄旅の始まりです。北京西站発のZ55次発車まで十分な時間がありますのでホテルの部屋に荷物を置いて前門(天安門広場入口)に先日オープンした「中国鉄道博物館正陽門館」を見学に行く事にしました。
▲ ホテルの朝食は、115元(約1500円) もしますので年金生活者には大金です。そんな我々にはホテル裏にある庶民食堂がピッタリします。今日の朝食は、肉包子(肉饅頭)@4元とお粥@2元にしました。これで一人6元(約80円)です。
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2011年 冬から春への中国鉄路の旅 Part1 三道嶺への旅立ち

第1日目 2月22日

①長岡天神6:30(阪急)→6:46南茨木6:52(大阪モノレール)→7:17大阪空港
②伊丹8:25(JL3002)→9:40成田10:45(JL863)→14:00(現時)北京
③北京空港 14:40(空港快速)→15:10三元橋15:15(地铁)→15:30国貿

昨年末に全検のため半月間ドック入りの結果、点検責任者より老朽化のため本線走行は難しい。しばしの休養を命じられました。おとなしく時たまローカル線、入換え作業に終始しておりましたが、どうも我慢なりません。鉄分補給には荒走行が必要と思っておりましたら、準特急先輩より『天山山脈をバックに走る「建設形」を友人2名と撮りに行くが一緒に行かないか』とのありがたいお誘いがありました。

昨年10月に北京駅で、往路切符はあったが復路切符が確保できず断念した「三道嶺」への撮影旅行です。二つ返事で是非ともの同行をお願いしました。
打ち合わせの結果、「三道嶺」訪問日は、2月25・26日と決まりました。日程の融通ができる準特急先輩と私は、前もって22日に日本を出発して北京で合流後鉄路で「三道嶺」へと向かい、ご友人一行は1日遅れの23日出発、北京で国内線に乗り継ぎウルムチへ、ここからは瀋陽から来られる通訳兼案内人の引率で夜行列車寝台に乗車して「三道嶺」の玄関、哈密駅で我々と合流する予定となりました。

準特急先輩からは、ご友人一行と合流前後の鉄路・宿泊先・帰路のウルムチ→北京の航空券の手配を一任されましたが、中々思うようになりませんでした。 続きを読む

山陽電車(4)西代-長田間 神戸高速鉄道建設

前回の投稿記事の話から1年後、神戸高速鉄道への乗り入れ工事が本格化しました。西代-長田間の工事は、専用・併用軌道の付替え工事を伴い、複雑でした。長田-兵庫間の内、長田-大開通り間は、山陽併用軌道の北側道路を掘削すればよく、普通の工事だったと思います。また大開通り-兵庫間は工事が無く、高速鉄道開通時に廃線するだけでした。
さて西代-長田間ですが、工事の順序は大きく分けて、下記の地図の①~③のようなものでした。
①大道通り-長田間の民家・商店の立退き、道路の北側への移設、道路下を堀削し地下建設。
②蓮池町-大道通り間の道路の移設、上記①と合わせて専用軌道の付替え線建設、運行開始。
③運行停止の専用・併用軌道を堀削、地下進入線と地下工事開始。完成後は開通まで新線を使った試運転。西代駅では付替え線と新線との並行運転が見られました。

▼①の部分の工事の様子です。カメラは西南向きです。すぐ横の併用軌道を2700系が進む。

▼専用軌道の横での付替え線建設です。既に一部の軌道が完成し、支柱も立っています。②の部分です。東向き、右手に工場群が。

▼こちらは、専用軌道から併用軌道に変わる付近、軌道と付替え線の間にスペースもあります。西南向き。

▼それからさらに5ケ月後。すでに付替え線での運行が始まっていました。西代駅のすぐ東側です。右手の専用線の線路はすっかり撤去されてしまいました。手前の信号機はもう使われてはいないのでしょう。新線予定地に早くも架線支柱が立っていました。北東向き。

▼上と同じ場所、逆に西向きです。付替え線に2700系が進入して行くきました。左手の信号機はやはり使われていませんね。後方に西代車庫の電車が見えます。

▼専用軌道のあった部分はすっかり堀起こされました。地下への傾斜進入部分。少し遠くに地下への入口が見えます。東向き、右手は工場群。


▼付替え線を行く200型です。後方の建物は、神戸市立蓮池小学校、震災では大きな被害を受けました。西向き。

▼地下入り口付近から西側の、西代駅方面を眺めました。

▼併用軌道の始まりの部分です。機材・資材が溢れています。北東向き。

▼併用軌道はすぐには撤去しなかったようです。小屋、機・資材で軌道も少し哀れな姿に見えます。

▼新湊川の手前でカーブして、長田駅で元の軌道に戻ります。カーブ部分の下も地下工事です。付替え線東側の様子です。

▼カーブ付近を行く、共に2700系ですが顔が異なります。住民の南北への移動用に、簡易の踏切が何箇所か造られていました。

▼長田駅と新湊川の手前でカーブして、元の軌道に繋がります。付替え線はすべて専用軌道となりました。

▼それから1年。工事が完成、試運転が開始されました。阪急と山陽。左手は付替え線です。神戸高速開通時の廃止が勿体無いクロスがあります。

▼こちらは山陽の試運転列車。

▼当然のことながら、阪神も試運転。須磨浦で折り返しての帰りです。 

▼神戸高速鉄道線向けの山陽の主力電車が通常運行。地下からは試運転の2700系が上がって来ました。 
▼構想以来、完成まで何年掛かったことでしょうか。神戸の中心部で山陽、阪急、阪神の相互乗り入れ、神戸電鉄ともイージーな乗り換え。山陽電車の夢がかなった開通は1968年4月7日でした。

200型の話題に始まった山陽電車。併用軌道の話のついでに神戸高速鉄道建設なども紹介しました。時と機会を改めて、60年代前半の山陽電車車両も紹介してみたいと思います。それから神戸市電も。

お待ちかね!阪急P-6

いくら電車知らずの私でも阪急P-6だけは知っています。いかついニキビ面で地響きを立てて突進する姿は、轟音とともに記憶に中に深く刻まれています。怖かった!!

でも、この塗色は印刷のせいかツートンカラーに見えるがそうなのでしょうか?ツートンの阪急電車て覚えがないのですが・・

雪景色・番外 長野電鉄2000、600型

 ちょうど50年前の1961年3月6日撮影の長野電鉄です。関東での法事の後、長野・北陸周りで帰りました。その時、湯田中近辺で撮影、特急『よこて』長野行きが坂を下って来ました。2005+2053+2006で4編成あった内のC編成。もう既に廃車になっていますね。



 上の写真の後部です。先頭部が長野方向を向いています。

  続いて600型が坂を下ってました。この写真の車番は不明です。

 再び600型604号の登場です。604号はその後の改番で612号となったのでしょうか。乙訓の老人に教えてもらったのですが、もし612号ならば、その後上田電鉄に行き、5271号となった車両ではないでしょうか。604⇒612の点が不明瞭です。しかも5271号ならその後再び長野電鉄に戻り、今は展示されているそうです。車両は製造当時としては珍しい全鋼製車両だそうで、リベットが良く目立ちます。
 電車の行く雪景色は、あまり撮影していません。デジ青のトップページ画像で、消えゆく電車を見て、湯田中での撮影を思い出しフィルムを取り出しましたが、相当に傷んでいました。フィルムに柔軟性が無く、パリパリでした。幸い電車の部分に黒斑やひび割れはありませんでしたが、周りの痛みは修正しました。

43年前の神戸電鉄


菊水山駅を通過するデ109+デ105 (昭和43年4月20日)

神戸電鉄を初めて訪れたのは現役時代の昭和43年4月20日で、2週間前の4月7日に開業した神戸高速鉄道の見学も兼ねていた。午前中に菊水山と鈴蘭台で撮影し、午後は山陽電鉄に移動して電鉄須磨~須磨浦公園間で撮影した。
当日撮影した車両の画像で当時を偲んでいただければ幸いである。

デ109+デ105(デ101形)
デ1形とデニ11形(共に昭和3年日本車輌製)は既になく、翌年増備されたデ101形(101~110)が最古参であった。1形との相違点は車長が僅かに長くなり、台車がD16に変更された程度である。

 

デ202+ク151(デ201形)
昭和23年から24年にかけて川崎車両で201~208の8両が作られた。デ202の後ろに連結されているのは元神中鉄道キハ51(昭和11年日車製)のク151である。

 

デ211+デ212(デ211形)
昭和26年三木線延長時に川崎車両で211~213の3両が作られた。

 

ク131(ク131形)
戦時中の昭和18年に元神中鉄道キハ33、34(昭和11年日車製)を購入して制御車に改造した。

 

デ302+デ301(デ300形)
昭和35年川崎車両で作られた神戸電鉄初の高性能車で、301+302、303+304の2編成作られた。座席は扉間クロスシートであったが、昭和46年に3扉ロングシート化が行われた。

 

デ312+デ311(デ300形)
前述のデ301~304の増備車として昭和37年川崎車両で311+312、313+314、315+316の3編成作られた。前面貫通、座席がロングシートになったため、車号を311以降に付番した。

 

デ861、デ864(デ860形)
昭和41年から43年にかけてデ1形、デ101形の主要部品を流用して作られた車両で、新製車と同一スタイルのため素人目には新車に見える。861~865の5両が作られ、861~864が両運、865は神戸向きの片運であるが、有馬側に簡易運転台が設置されている。

デ1002+デ1001、デ1006+デ1005(デ1000形)
昭和40年から43年に作られた高性能車で扉が両開きとなった。1001+1002のように2両ユニットになり、5編成10両作られた。

 

デ1051(デ1050形)
デ1000形ユニットのラッシュ時増結車として1051~1058、1060、1062、1064の11両作られた。奇数車が有馬向き、偶数車が神戸向きの片運車であるが、反対側には簡易運転台が設置されており、ヘッドライト、尾灯も付いている。

 

ED2001
昭和24年三菱重工三原工場で作られた電気機関車で近々引退が噂されている。これ以下の画像は10年後の昭和53年4月23日道場南口駅での撮影である。

 
トム521
製造年、製造所は不明である。車端に控室が設置されており、ワイパーが取り付けられている。

 
トム621
昭和22年若松車両製。

 

バス
電車から「西日本車体工業」のカマボコ形以前の旧ボディーのバスが停まっているのが見えたので途中下車して撮影した。バス部門は平成10年9月30日に「神鉄バス」に分社化されている。
兵2あ2709
38年式MR470、車体は西日本車体工業である。「神戸ナンバー」の前は「兵ナンバー」であったことがわかる。「兵ナンバー」はその後「神戸ナンバー」と「姫路ナンバー」に分かれた。

 
神戸22か1318
52年式B805Lで車体はクレハである。

50年前の神戸電鉄

 

迷図作家さんの力作、神戸電鉄デニ11型への関心が薄いと心配して頂いている。京都人は有馬温泉を大阪や神戸の奥座敷としか心得ていないようで、地下駅から出発する電車を知らず、関心が薄いのかも知れない。ゴルフブームの中で知った京都人も多いようである。

淡路島を訪ねようとした京都の学徒は、行きがけの駄賃に関東からやって来た気動車くずれと、7月入線のロマンスカー撮影を試みた。それには地下駅は不適であるのは自明のことで、tsurukame氏を案内人にしたようだ。その地下駅の地上から歩き出し、最初のトンネル付近(地形図A)は×とし、一山越して(地形図B)地点に移動した。さっそく電車青年が目的としていたロマンスカーが現れ、更に思いもよらない電動貨車もやってきてホクホク顔になった。

ところが気動車青年が目的としていた関東ものがやって来ない。場所を替えようと再度山越えを試みるが、夢野台火葬場(現在は廃場)の正面に出てしまった。これはおかしいぞと、陽当り方向を目指すうちに線路際に辿りついた。上り方(三田方面)は順光となり誠に具合が良い(地形図C)。ただし線路際は断崖絶壁となっている。それを下り、細い水路を渡り対岸をよじ登れば視野は拡がる。これだ!となりコンクリートブロックに挑戦した。対岸の小高い土盛でしばらく待つうちに、関東ものクハ132号を従えたモハ208号が湊川へ下って行った。もちろん折り返しを待つ。試運転のため直ぐに戻ってきた。

電車少年はそれから動くことなく、展望車改造クハ141号、もう一つの関東もの「びわこ型」クハ151号のお出ましを待ったが、現れずフィルム消化に励んだのみに終わった。その最後の1コマに迷図作家さんがモデルにされたデニ14号の姿があった。

老人が鉄ちゃんに復活したのは1986年夏、吉谷和典さん逝去半年後のことであった。四散していたフィルム(NEOPAN SS)が手許に戻ってきた。その中に1960.11.0304があった。DRFC時代にプリントしたことがない。高橋弘さんにお願いして、初めて見るプリントを手にして、「この崖は何処だろう」と首を捻った。フィルムのコマ順で長田の先と見当付けたが、何処か分からない。

そのころ業界2団体の世話役をしており、会議のため有馬温泉へ出向く機会が年1度以上あった。まだ現役バリバリであったので、昼食後に出向き先等から阪急芦屋川かJR芦屋から芦有バス利用で会議の席(温泉宿)に駆けつけることが多かった。阪神大震災の前年、新開地から久しぶりに山岳電車に乗ってみた。長田を前に沿線開発のすさまじさに驚いた。震災後、沿線で幾つか復興工事のお手伝いをする機会があり、長田から丸山に向け線路沿い道路を歩いてみたが、崖であったであろう位置は土砂や廃材で埋められ、雑草が覆い面影はなかった。線形も少し直線化されたようで変化が見られるが、その頃カブリツキから撮った1カットを紹介しよう。地形図【神戸丸山衝上断層】の位置である。

湊川~丸山間の地形図による線形

湊川~丸山間の地形図による線形

デハ4号:地形図A地点
デハ4号:地形図A地点
デハ304+303号:地形図B地点
デハ304+303号:地形図B地点
デハ211号:地形図C地点
デハ211号:地形図C地点
デト1001号:地形図B地点
デト1001号:地形図B地点
104号:地形図C地点
104号:地形図C地点
クハ132号:地形図C地点
クハ132号:地形図C地点
205号:地形図C地点
205号:地形図C地点
デニ14号:地形図C地点
デニ14号:地形図C地点
画面左下が丸山衝上譁・?
画面左下が丸山衝上断層

山陽電鉄道路併用軌道追加

 豚か猪かそういう類の動物はおだてられると木に登ると聞いたことがありますが、TSURUKAME先輩からお前の撮ったのも投稿せいと言われ、恥ずかしながらコメントで書いた住友生命をバックにした、人がうろついている古い写真を掲載します。何れも1966年7月27日の撮影で電鉄兵庫駅付近と思われます。

1966.07.27 822急行

 3両目は更新車、所謂偽新車と思われますが、よくわかりません。

 

1966.07.27 後270の各駅停車

画面が見づらくて恐縮です。右に女子高生、左に神戸のお兄さんと買い物のおばあさんが写っています。路面電車の風景ですね。

 

1966.07.27 3002急行

右の建物が住友生命。因みに今でも保険は住友生命に入っております。この頃、山陽の3000系は南海の6001系、7001系と同じようなシールドビーム2個のライトでそれが離れている豚鼻。関係者や好きな人が居たら申し訳ありませんが、好きになれませんでした。しかし、アルミ合金の電車は数少なく、高級な車両に見えました。

毎度の弁解になりますが、フィルム保存が悪く、スキャン等の技術力が無いので恥ずかしい写真で、申し訳ありません。米手作市さんがおっしゃられるようにこの時は全くのついでの写真で、感激はありませんでしたが、後にその車両や風景がえらい貴重になることもあるようです。国鉄で言えば103、113系、キハ58系等は撮る対象ではなく、単なる移動車両でした。それが、なくなる頃になると新製時からの度重なる改造等で変化に富み、昔の旧型国電を追っかける気分になっていることに気づきます。さらに今、反省していることは車両以外に駅舎や人物や車等ももっと入れておけばよかったと言うことです。デジカメ時代なのでコンデジを含めて乱写しておくのも後々撮っといてよかったと言うことになると思います。失礼しました。

山陽電車(3)西代-兵庫間の道路併用軌道

 

三度び夾雑物・山陽電車です。西代駅東方約200m付近から、終点の電鉄兵庫まで約2kmの区間は、道路併用軌道です。大型車といえども、特急といえども、制限速度は35km/時でした。下記に、専用・併用軌道、神戸高速鉄道建設完成時までの短期的な付替え線、そして神戸高速鉄道の路線などを図示しています。そしてこの道路併用軌道は、1968(昭和43)年4月7日(日曜日、この日は筆者の結婚記念日)の神戸高速鉄道の開通に伴い、創業以来58年で消滅しました。

それでは、西代駅から兵庫駅までを順に写真で追ってみましょう。
▼西代駅を出た上り・兵庫行き(北東方向に向く)が専用軌道終わりの地点を行きます。正面突き当たりに西代車庫があり、その右をカーブして板宿方面に向かいます。今電車が走っている付近が高速鉄道の地下入り口になります(板宿・東須磨間の地下線延長前まで)。そのために、本線をすぐ北側に退避移動させ、付替えました。

▼上の写真から、方向を180度転じて見た、こちらが併用軌道の大道通りです。下り・姫路行き(南西方向に向く)の各停が、間もなく専用軌道に進入します。左の更地は、神戸高速鉄道建設のために、立ち退きをした民家・商店の跡です。右側の民家や商店・工場前は舗装されていません。車の通行防止の為でしょうか。

▼併用軌道を更に北東に進むと、新湊川の手前まで緩い登りになります。最新の上り・大型特急車が、間も無く、併用軌道区間唯一の駅長田に進入します。

▼長田駅は島式のホームです。下り特急車2005が出発です。短いがこの区間は専用軌道です。看板と簡易の柵で道路と区分です。後ろの白い大きな建屋は神戸市電長田工場です。

▼木造の粗末な駅舎、東須磨からの高校3年間の通学はこの駅でお世話になりました。

▼上り兵庫行き300型が、長田駅を出発。神戸市電との交差点西南側にあった、トヨタの販売店前を通り過ぎ、クロスを渡ります。架線にはデッドセクションがあります。山陽は1,500V、市電は600Vのためです。

▼こちらは上と同じ場所を、逆に見ています。交差点を渡り長田駅に進入する下り姫路行き特急です。車を避けた為にデッドセクション内で山陽電車が急停車し、動けなくなったのを、通学時1、2度見ました。後続列車の後押しで漸く動くことができました。市電が立ち往生した場合は人力に頼ったとか聞いたことがあります。

▼こちらも交差点を過ぎ、長田駅に進入する下り・各停垂水行きです。パンタは1個。車の接近にひやひやしながらも無事にデッドセクションを通過。820型の区間運転列車は垂水行き。区間運転は明石(西新町)行きなど。昔は須磨折り返しもあったように思います。

▼北行き神戸市電が今まさにデッドセクションを通ります。市電の線路と平行に設けられたポール付きのものものしい設備は、あまり長く続かなったようです。上の写真(1963年)にも、一つ下の写真(1967年)にも見られません。右手奥の工事は神戸高速鉄道の建設工事です。北行の市電は突き当たりの看板前を直角に右手方向に曲がり、東向きに五番町・上沢町に向かいます。

▼南行神戸市電が交差点を渡りすぎました。この頃になると車が増え、市電の運行も大変となって来ました。三輪軽トラ等も見られます。南に向かうと、すぐ右手に長田工場がありました。

▼交差点を過ぎ、長田と兵庫のちょうど中間地点、ビオフェルミン本社・工場前をさらに少し進むと、大開通りに向かう三差路地点です。神戸高速鉄道は、このあたりの地下を右方向にカーブしてゆきます。軌道上の工事区間はここまでです。ビオフェルミンの本社と工場のこの建物は、阪神淡路大震災で完全に倒壊してしまいました。西方向に向かう特急。横を走るのはマツダのキャロルか。

▼正面に兵庫駅が見えて来ました。1965(昭和40)年頃はまだ車は少なかったようです。埃っぽくだだっ広い通りでした。兵庫駅(東方向)に向かう850型。架線の支柱は幅広道路の左右にあり、スパン線ビームの長さも相当なものです。

▼4面のホームを持つ兵庫駅。北側には貨物線が1本。ホームの西側先端部分は屋根は無く、枕木を積み上げその上に板張りの粗末な造りでした。神戸の中心部から西に外れた場末の感じがします。右の高架は国鉄兵庫駅、EF58が見えます。

▼兵庫駅前には、神戸市電兵庫線の終点がありました。山陽兵庫駅改札口はちょうど左手の付近に。右手には国鉄の高架線が。

▼国鉄兵庫駅の高架ホームから眺めました。山陽電車との連絡通路は無く、東側の改札を出ると、雨天でも傘をさして市電脇を渡り、高架下の連絡通路を通り国鉄に乗り換えました。西側の広い駅前広場を渡り、兵庫駅へ向かう連絡用として、山陽の改札口が西側に増設されたのは後年だったと記憶しています。この場所からは隠れて見えませんが、右隅にその屋根部分が辛うじて写っています。遠くには湊川公園のタワーが見えます。このタワーも確か震災で倒壊したのかな。

長々と続きましたが、夾雑物の話はまだまだ終わりではありません。神戸高速鉄道建設の為、、短期間だが西代-長田間で本線を退避すべく付替え線が設置されました。埋もれているそれらの写真を、千載一遇のこの時とばかりに公開準備中です。毛嫌いせずお楽しみに。