今年も炎天下の気まぐれ撮影

 大震災と放射線問題が続く中、今年は梅雨明けが早く、熱中症で倒れる人が昨年より多いとか。この先が思いやられます。老人が増えていることも原因があるのでしょう。私も65歳以上の高齢者でありますが家にじっとしていることができないので「さあー今年も夏が来た!」と言うことで散歩がてらどこか夏らしい風景でも撮りに行こうと考えた。「そうや写真展もあるしなー」と考えて超ローカルな小湊鉄道に出かけた。熱中症対策として水筒(今水筒と言う言葉使ってますかな?)に塩分と砂糖を用意。血圧が高めなので塩分は複雑な気持ちで持参。もう一つ注意すべきことは炎天下にあまり歩かないですむということで桜の時期に行った上総大久保駅に最初から決めておいた。この駅自身格好がいい。桜の時期は大勢の同業者さんで一杯になるが、さすがこの蒸し暑い時期は少ない。同業者さんは土曜日なのでこの先のいすみ鉄道に大糸線から来たキハ52を撮りに行っているのかもしれない。駅の先にある踏み切りの近くで休んでいると船橋から来たと言うご婦人(と言っても私より歳が上)から声をかけられた。三脚に一眼レフデジカメの本格派であるが、鉄道を撮っているのではないようだ。いろいろ最近の地震や洪水の話などをしたら、「自然がもうええ加減にせいと言っているのやないか」と言われた。同感である。

    2011.07.16 上総大久保 養老渓谷行き 206+201

 

次の養老渓谷行きで一人降りてきたが、その人の後をついていくと挨拶してくれた。言葉が関西系なので訊いてみると枚方の人で新幹線で今着いたということであった。立命館のOBであり同じ京都の学校ということで親近感を感じたが年代差が大きそうなのでそれ以上は会話を進めなかった。

    2011.07.16 上総大久保~月崎 五井行き201+206

 

 小湊鉄道は車両がキハ20タイプに統一されて面白みに欠けるが沿線風景は抜群である。この先紅葉の頃や冬枯れの頃にも行ってみたい所である。車内には沿線を走る列車写真が多数展示されており、小湊鉄道会社も作品を募集しているようである。中には非常に参考になる作品も多く見られ刺激を受けた。なお、上総大久保駅にはジュース等飲み物の自販機は一切なく、踏切から下って養老川の橋の手前にあるよろずやに行かないとない。

参考に今年の桜の時期に行った時に撮影したものも加えた。

      2011.04.10 上総大久保 養老渓谷行き210

 

     2011.4.10 上総大久保 上総中野行き203

江若鉄道三井寺下再現 その10 クイズ解答編

特派員殿のコメントどおりですが、しゃがんでいたご仁は六角通りのY氏でした。その他にT氏の姿も。通りの向こう側の白い上着の人は浄福寺殿でしょう。関東の重鎮お二人の間で 欄干にカメラを乗せてのぞいているのが誰かがわかりません。      うしろの旅館の看板に「休憩所」と書かれています。私が小学生時代を過ごした東山界隈の裏通りには「ご休憩」と小さな看板を出した仕舞屋がたくさんありましたが 子供ごころに「疲れた人が休憩するための家」だろうと思っていたものです。その隣には「桑野造船」の看板が見えます。内陸の大津に造船所?と一瞬思うのですが 琵琶湖に浮かぶ大小の船は湖岸にあった造船所で作られたのでしょうから ここに造船所があっても不思議ではありません。造船と言っても和船だったのかもしれません。 

琵琶湖第一疏水をまたぐこの橋は 43年も経った今もそのままの姿で残っており、橋の上からの石坂線の眺めは ポールがパンタには変わっていてもタイムスリップできる風景でした。手前は江若鉄道の鉄橋を遊歩道にした「大津絵橋」です。

(追伸)上の写真の縦横比がおかしいのはご容赦を。拡大すると正常だと思います。

JR東日本のドレミ電車(E501系)

7月16日【14285】で米手作市氏より「京浜急行のドレミ電車」の話題が紹介されたが、JR東日本の「ドレミ電車」を紹介したい。こちらも京浜急行同様、改造により遠からず無くなる運命にあり、8編成中5編成まで改造が進み、残りは3編成である。

E501系とは
交直両用の通勤型車両で平成7年に15両(基本10両編成、付属5両編成各1本)平成9年に45両(基本10両編成、付属5両編成各3本)作られた。

常磐線の上野口は、昭和60年以降取手以北でも住宅の増加、竜ヶ崎に大規模団地の出現等により通勤時間帯を中心に混雑が激しくなってきたため、沿線自治体から取手止まりの快速電車の牛久、土浦までの延伸の要望が出された。直流電車の延伸は、柿岡(石岡市)にある気象庁地磁気観測所の観測障害となるため不可能であるため、交直両用の4扉通勤型車が投入されることになった。当初昼間は基本編成のみの10両、ラッシュ時は付属編成を増結して15両で運転されていたが、程なく終日15両となった。また、トイレがなく、長距離運用には不向きなため、上野~土浦間に限られ、勝田電車区への入出庫は回送であった。

車体の基本設計は当時の京浜東北線の209系とほぼ同じであるが、外板厚を1.5mmに強化された。(209系は1.2mm) また特急通過待ち等による長時間停車時の車内温度確保のため片側4扉の内1カ所を残して締切可能な「3/4扉閉スイッチ」が装備された。

ドイツ・シーメンス社のGTOサイリスタ素子による主変換装置の採用により、発車と停車時に「ソラシドレミファソ~」と音階が聞かれたが、平成18年に付属編成全編成、今年1月基本編成1本(K704)が東芝製のもの取替えられてしまい聞かれなくなってしまった。

現 況
平成19年3月18日のダイヤ改正により、上野発着の中距離電車がE531系に置き換えられ、全列車にグリーン車が連結されるようになったため、運用区間を土浦以北に変更した。それに先立ち平成18年10月~19年2月にかけて基本編成両端のクハ、付属編成下り向きのクハにトイレが設置された。常時連結されていた基本編成と付属編成はそれぞれ単独での使用となった。

走行区間は基本編成が土浦~いわき・草野間、付属編成は土浦~いわき間と水戸線の小山~友部間である。基本、付属共に予備車無しのフルで使用され、検査時等は、415系、E531系が代走する。

以下、無いよりマシ程度の画像であるがご覧いただきたい。

[上野~土浦間で使用の頃]

 
クハE501-1003/
付属編成の先頭車(15号車)で常に土浦寄り先頭に立っていた。(H18-4-8 松戸)

 
サハE501-9/
付属編成の14号車

 
モハE501-7/
付属編成の13号車でパンタ付きのモハ

 
モハE500-7/
付属編成の12号車でパンタ無しのモハ

[現 況]

 
クハE501-1004/
(H21-12-30 水戸)

 
クハE501-4/
上野~土浦間で使用されていた時は先頭に出ることはなかった。密連の下に電気連結器が設置されているが、今後使用されることはないだろう。車端にバリアフリー対応のトイレが設置され、その部分の窓が塞がれた。(H21-12-30 勝田)

ユースで巡った鉄道旅 -13-

続きも東北のユースの話を。
蒸機時代の東北の名所と言えば、龍ケ森と奥中山が双璧でしょう。その2ヵ所をハシゴしたのが、昭和43年、大学1年の夏休みでした。龍ケ森で当会伝統の狂化合宿が厳かに且つ賑々しく行われ、その参加の前後に奥中山にも寄ったのでした。
龍ケ森はまだハチロクが全盛、奥中山も同年のヨンサントウ改正を前に、大型蒸機が最後の活躍を見せていました。今回紹介するのは奥中山ユース、奥中山の名は知られていても、ユースの名はほとんど認知されていませんでした。
なにせ奥中山駅から交通機関のない山道を1時間以上歩かないことには到着できない、未踏のユースなのです。この時は、別のユースに宿泊予約を入れていながら、止むを得ず泊まるハメになったのです。その経緯は後述するとして、奥中山の一日から綴ってみました。

前日、磐越東線でD60を撮ったあと、急行「八甲田」で深夜の盛岡入り。駅のベンチで合宿用に買った寝袋で仮眠をして、夜明けとともに駅裏の盛岡機関区へ向かう。真っ先に目に飛び込んできたのが、C60のトップナンバー機だった。「1」のナンバーを見ると、とくに蒸機の場合は感慨深いものがある。東北のカマらしく煙突回りに小デフを付けている。盛岡区は最後の大型蒸機で賑わっており、前にも紹介したが、区に置かれている「ゆうづる」「はくつる」のヘッドマークをC60、C61に付けては楽しんだ。C601は、この年の10月の東北本線完全電化で廃車となり、翌年には仙台市の西公園に保存された。以前、Fさんと仙台市電を撮りに行った時に、同公園で保存されているC601に再会している。

盛岡7時50分発の539レで、いよいよ奥中山へ向かう。D51868〔尻〕+C6018〔盛〕の重連。盛岡を出ると車窓に見える岩手山の山容、そして、厨川、滝沢、渋民、好摩、と続く駅名の響きが、「みちのくへ来た」という感慨になる。御堂~奥中山の中間にある、有名な吉谷地の大カーブに列車は差し掛かる。東北本線は、腹付け線増された区間が多く、このように上下線が離れている区間が多い。広々とした雄大な東北らしさを演出してくれている。

沼宮内で若干の停車時間がある。ホームのすぐ横の側線には、これから始まる十三本木峠の難所に備えて、多くの補機が休んでいる。ホームから飛び降りて、ひと通り写し回った中で、今度はD51のトップナンバー機と初めて出会った。同機は、トップナンバー故か、用途を終えると、その後、各地へ転属を繰り返す。私も各地で出会ったが、特別扱いされることなく、多くの本務・補機の一員として黙々と働いている、この時期の姿が、いちばん似合っていた気がする。

待望の奥中山到着、頬をなでる風もさすがに涼しさを感じる。駅でダイヤを聞こうとすると、ちょうどD51三重連が通過してしまい、臍をかむ。トンネルを越えて吉谷地の大カーブへ向かうが、来る列車、DD51かED75ばかりで、蒸機が全く来ない。トンネルを越えた水路橋の下で捕らえたED75132の荷43レも、これが蒸機だったらと悔やんだものだが、今となっては、かえって貴重な記録かもしれない。

一緒になったファンから、奥中山で撮っても、煙の期待できる下りの蒸機列車はほとんど来ないので、峠の反対側の小繋へ行かないかと誘われる。奥中山以上に雄大な区間があるし、煙を期待できる上り蒸機列車も多いと言う。思い留まればよかったものの、疲労と空腹で思考能力も著しく低下していた。ノコノコ着いて行ったのが、悲劇の始まりだった。小繋まで行き、炎天下の中を4キロほど歩いて、小繋~小鳥谷間の中間地点まで来た。確かに雄大な光景ではあるが、架線に阻まれてロングは難しい。ふと今晩予約していた、花輪線大更駅前のユースが気になって時刻表を見ると、まだ16時前後というのに、本日中に大更までの到着が不可能なことが分かった。東北本線と接続する好摩の下り花輪線の最終はなんと18時47分、夏ならガンガン照りの時間帯にもう終列車が出てしまうのだった。

一瞬、顔が青ざめた。もう撮影どころではない。同行のファンから離れ、もと来た線路上を必死になって戻った。途中でD51三重連が通過、本日初めての三重連だが気もそぞろ。奥中山にユースがあることを思い出し、何とかここまでは到達したい、しかし奥中山は次の駅なのに、運悪く列車は数時間も先、もうここは、初めて経験するヒッチハイクしかない。恥ずかしそうに手を挙げるが、クルマは止まる気配もない。やっと止まってくれた大型トラックの運転手に懇願し、奥中山駅まで送ってもらう。
ところが駅で聞くと、ユースは駅からはるかに離れた高原の頂上に所在し、駅からは歩くしかないと言う。1ヵ月分に近い重い荷物を背負い、夜行連続でほとんど寝られず、しかも前日から何も口にしていない。水も尽きた。靴ずれの足も痛む。夢遊病者のようにフラフラになりながら、山道を歩き、ようやくユースに到着した。ところが悲劇はまだ待っていた。まさか宿泊客など居るはずがないと思っていたところ、近隣の林間学校生が大量に宿泊し、これ以上は泊められないと言う返事、思わず床に倒れそうになったが、拝み倒して、薄汚いバンガローの片隅にようやく泊めてもらえることができた。もうとにかく、体力の極限まで使い果たした、奥中山ユースだった

江若鉄道三井寺下再現(その9) クイズ編

江若鉄道運転会まであと約3ケ月となり、レイアウト工事も車両製作にも熱が入ってきたところです。ここのところ車両製作の方がおもしろく、初代キハ14(旧善光寺白馬)、キニ1、キニ9、キニ13、キハ51、キハ5123がほぼ形になり 塗装待ちのクルマが10両以上となっています。そんな中で 当時の写真をあれこれと見てゆくうちに なつかしい写真がありましたので 「私は誰でしょう」というクイズとして ご披露致します。昭和43年9月28日 三井寺下見学会を終えて 浜大津へ戻る途中のスナップです。しゃがみこんでいるご仁は誰でしょう? 答は明日 前から写したコマをご紹介することにします。

やったぁー!なでしこ日本!

世は節電ムード。これをネタに銭儲けに専念する輩も多い。老人は深夜なら後ろ指差されまいと、今朝も午前3時起床、テレビの前にかじりついた。沈滞ムードを一掃する快挙に4時間もかじりついてしまった。さて、7月13日、関西電力はJR西日本に節電を鉄道各社に要請しない旨、申し入れたと朝日夕刊トップ記事で報じられた。その2日後の夕刊16面2段見出しで阪急神戸線車両減で節電、と報じられた。「お〃やるか、阪急は!」の気持ちになった。その昔、電鉄各社は電力費低減のため工夫をこらしたものだ。1951年4月、京阪特急が1700系4連で登場した時、三条発車は4連、折り返し天満橋発は2連であった。1957年3月、急行が5連で運用されるようになった時、1000・1500・1200+1200・1000の組成で三条出発、折り返し天満橋発は3連と2連に分割され急行発車後1分遅れで、2連となった普通が発車する運用ががあった。共に終端駅で増解結を繰り返しながら列車運用をして、乗客の増減に応じ効率良い電力消費をしていたのである。

ところがATS設置の頃から状況に変化が見られるようになった。長編成組成も一因だが、固定編成が常識となり、運転台付き電動車が車両費節減につながるとして新造が抑えられてきた。それが空気を運ぶ列車増加につながっている。今回の阪急の処置は当然である。京都線も大市交乗り入れ列車を含め6連とすれば良いと思う。嵐山線も6300系は昼寝して7200系増結用2蓮で十二分だ。こうした動きの中で大飯原発故障運転中止が報じられた。阪急の選択は正しかったのである。このところ本線、副本線上での増解結は混乱を招くとして避けられる傾向にあるが、各社共々に工夫を凝らし減便ではなく先ず減車にに取り組んでみてはどうだろう。欧米では15分毎なら頻発運転なのだそうだ。関西は10分毎に慣らされてきた。東京は何でも3分毎だそうだ。行儀よく座れば快適な車内保持は確実に出来る。つぎはどこだろうか。

松本電鉄浅間線 その3

先回最後の俯瞰写真に関し、急カーブとの関連がよく分らんとのご指摘があり、改めてもう1コマ俯瞰写真を入れておく。またこのカーブ半径を5鎖と記したのは大間違いで、28mmレンズのため大きく、広く見えるはするが、1鎖(20m強)程度であろう。

左下が松本駅。 この地図では浅間線がまだ駅に突っ込んだまま終点になっているが、市街を真っ直ぐ右(東)に向かい、直角に曲がって上(北)へ。このカーブのすぐ下にある「文」マークが教頭先生にお付き添いを頂いた女子高校(もしや彼は我々が女子生徒に何か悪さをしないかと心配したのではあるまいか。杞憂以外の何者でもないのに)。松本駅からカーブして左上に向かうのは上高地線である。

併用軌道は横田までで、以遠は新設軌道になる。横田には車庫があり、2回目の離合が行われ、乗務員も交代。松本に向かう乗客は結構あって、温泉行きだけでない、地域の交通手段であることが分る。


横田の駅と車庫 車両は6両中昼間4両が稼動しづめで2両が予備


乗務員も横田で交代


スタフを扱うのは本来運転手の業務のはずだが

横田以遠は新設軌道になる

横田の次に運動場前で3回目の離合。ここは運動イベントがない限りほぼ乗降はなく、単なる離合所である。


運動場前での離合


終点浅間温泉に着く


のんびりした風情

右の若者は誰でしょう

この線は一段高い温泉旅館街に突き当たっておしまい

プラットホームを歩く一見山行きのような若者は誰でしょう

電車の番号について記しておくと、ホデハ2、4、6、8、10、12の6両で、当初4~8、10だったが、5を2、7を10、10を12に改番し、全部偶数ばかりとしたのである。鉄道線たる上高地線は反対に全部奇数に揃えた。かように奇数、偶数で所属を示すのは、古くは官設鉄道の機関車でで行われ、九州の北筑軌道(→博多電気軌道→九州水力電気と所有者は変わったが、蒸気動力3フィート線は終始北筑線と通称)では、客車が奇数、貨車が偶数だったらしい。

メーカーは改番後で示すと2、4が東洋車両1924年、6、8、10が汽車東京1927年、12が日車1929年製。いずれもガラス風防がある開放デッキだったと思われるが、密閉式に改造。それでもデッキと客室に段差があるのは前に記した通り。

こののどかな浅間線は1964年4月1日廃止されたが、リポート等はなぜか極端に少ない。なおご覧頂いた写真は複数回にわたっており、小生1人/ダンナとワッチ(若かりし日の乙訓老人)と小生/ダンナと新兵(これは誰か当ててください)と小生/という撮影であった。小海線撮影の前後に訪れたケースでは、信州会館なる、やったら滅多ら大きな山男用宿泊施設に宿泊し、夜半にいささか怪ぬ見世物を覗いた記憶もある。入り口で呉れた紙切れには、新宿行夜行列車の時間と、駅までの略図があり、大方の客筋が分るが、「親切を絵に描く」とはまさしくこれだと、痛くその商才に感じ入ったことであった。

浅間温泉では場慣れしたダンナの誘導で、地元民専用の安い回数券をタバコ屋で求めて住民用浴場に。素朴な湯殿では、むき出しの鉄パイプから温泉が掛け流しされ、木札に墨痕淋漓「湯口で頭髪や入歯を洗わないで下さい」。これは小生が記してこそジョークになる。

ドレミ電車って?

今日のネットニュースに「ドレミ電車がなくなる」との記事が出ていました。何のことやらと読んでみると次のような話でした。

関東の方たちには当たり前の話題でしょうが関西では知りませんでした。

>ドレミファ…と音階を奏でながら走る京浜急行電鉄(京急、東京~神奈川)の通称「歌う電車」が、車両の改造工事が終わり次第、姿を消すことになった。登場からわずか10年余り。人気ユニット「くるり」の曲「赤い電車」のモデルにもなった人気車両で、京急社内でも惜しむ声が上がっている。(大竹直樹)

 「ファ~ソラシ、ドレミファ~」。車体の下から不思議な音階を奏でながら電車が動き出す。音階の正体は、モーターを制御するインバーターから聞こえる“騒音”だ。平成10年に登場した2100形電車と、14年に登場した新1000形電車に搭載されている独シーメンス社製の装置で、鉄道ファンからは「ドレミファインバーター」と呼ばれ、親しまれている。

 女性客からも「音がかわいい」といった反響も寄せられているといい、「歌う電車の宣伝はしていないが、喜んでもらえるのはうれしい」と京急。登場当時、車掌をしていた京急広報課の飯島学主任(35)は「音にも愛着をもっていただき、お客さまが目を輝かせて眺めてくれるのがうれしい」と目を細める。

 音階のように聞こえるのは、偶然の産物ではない。「実は開発したドイツ人技術者の遊び心」と語るのは、シーメンス日本法人モビリティ事業部の庄司不二雄さん(60)。ソフトのプログラムを工夫することで音を出すことができ、ドイツの高速鉄道「ICE」の車両が米国内で試験走行した際は「アメリカ国歌も奏でた」という。

 だが、京急の車両に搭載されている装置は経年劣化のため、日本製インバーターへの置き換えが進み、「歌う電車」は年々減少。2100形は10編成のうち6編成がすでに改造された。残り4編成もあと1年程度で改造を終える見込みという。

 一方、新1000形も改造工事が進んでいる。残り8編成の改造時期は定まっていないが、数年以内に全車両の改造を終える見通しで、京急社内にも“歌わない電車”への改造を惜しむ声が上がっている。

 「歌う電車」に乗るにはどうしたらいいのか。京急によると、外観で判別するのは難しく「運次第」。ただ、片側に2カ所扉がある2100形の快特電車では1時間あたり1本の確率で「歌う電車」にめぐり会える可能性があるという。

 「歌う電車」を生み出したシーメンスの庄司さんは、「なくなってしまうのは寂しいが、新しい装置に置き換わるのは時代の趨勢(すうせい)なので仕方ない」と見守っている。

 京急は「すべての『歌う電車』がなくなる時期は未定だが、残すことは考えていないので、なくなるまでに楽しんでほしい」と話している。<

(以上:産経イザより転載)

松本電鉄浅間線 その2


学校前の離合所 電車左の蒲鉾型コンクリート工作物は恐らく戦時中の公共防空壕であろう

紙芝居めいた「次回予告」をしてしまったが、松本を出て最初の離合場所が学校前である。その名に違わずいくつかの高校などがかたまっていたように記憶し、旧制松本高等学校も確かこの一帯だったんじゃないか。


運転台をピッタリ合わせ 通票(スタフ)を交換する

停車位置がズレると 片方の乗務員が下車せねばならない

ここの急カーブを何とか立体的に撮れないものかと思案し、道路に沿った恐ろしく古い木造の校舎に目をつけた。記憶が薄れているが、確か女子高校だったような気がする。職員室に乗り込み、「若干の言語」を弄して報道機関カメラマンであるかの如き印象を教頭に与え(嘘はついていないから念の為。彼が勝手にそう誤解しただけ)、学校内立ち入り=足場確保の承認を得た。それでも教頭はかなりの猜疑心にかられたようで、撮影中ずっと付き添っていた。これも確たる記憶がないが、重澤旦那、吉田、小生の3人=リュックサックに登山靴かキャラバンシューズ、山行きともつかず、カメラマンとも思えない風体はともかく、人品骨柄卑しからぬ気品を感じたことは間違いなかろう。幸い10分毎に離合写真が撮れる。


停留場名が「学校前」だけあってこの周辺は学校だらけ

で、2階と3階から、この急カーブを曲がる電車が目出度く撮影できた。恐らく半径は10鎖=20mか、フランジがこすれるキィーキィーキィーという音が、終日絶えないわけである。上から見下ろすと、台車がグイと振られ、あたかも車体からはみ出しているかの如し。

またまた蛇足だが、欧州の旧市街ではこの程度のカーブは珍しくも何ともないのに、ついぞキィーキィーは聞いたことがない。鹿島雅美氏に伺うと、未明―初発より早く、人力でレールのフランジ接触部分に油を塗っているからに過ぎず、作業員は殆どが北アフリカ系だそうな。そういえば、パリ街中のプチホテルに泊まった際、同行のとんでもない早起き「偉いさん」に未明の散歩を付き合わされたことがある。無人の街路の皿溝に満々と水が流れ、やはり北アフリカ系の作業員が道路のゴミをその流れに掃きこんでいた。

現在この箇所をグーグルで検索・拡大すると、どうやらピッカピカの松本秀峰中等教育学校が、足場を借りた学校の後裔らしい。何でも中高一貫6年制の私立学校で、それもつい昨年ぐらいに開校したとか。バス停の名称は城南高校前て、この時の面影はない。

話を戻して、ここで直角に曲がった線路は無舗装の地道中央を北に向かう。こんな俯瞰は足場がないと撮れない。大きな木造建築はみんな学校である。


無舗装の道幅は約7m=4間道路なのであろう

福井鉄道・琴電の元京浜急行

7月7日の「京浜急行140型」に対し、翌日には両長老から書込みがあり、DRFCクローバー会の実力を改めて感じた。 

福井鉄道は昭和23年福井地震で焼失車両が発生したのに加え、同じ年に南越線が電化したため電車の絶対数が足りず、相当無理をして入線させたものと思われる。使用できたのは車体のみで台車、電装品は別のところから調達する必要があった。
昭和42年3月時点では、電装解除されたハ102が南越線のラッシュ時増結用として辛うじて生き残っていた。尚、福井鉄道モハ101、モハ103の実物の写真を見たのは初めてである。

 
ハ102 昭和42年3月20日  社武生

琴電に関しては乙訓の長老の詳細な解説がすべてであり、簡易鋼体化された64、車体を新製した62、72を新製車体に載せ換え電装した65の画像を貼り付ける。

 


64  昭和44年3月20日 長尾/台車は原形のテーラー台車である。

 
62  昭和44年3月20日 瓦町/昭和28年に自社で車体を新製した。

 
65  昭和44年3月20日 瓦町/昭和35年に72を鋼体化(車体新製)の上電装した。

昭和34年11月京浜急行120形を6両譲受け、昭和36年に自社工場で鋼体化の上、10形(11、12)/電動車、90形(91~94)/制御車となった。長老が撮影された、上から2番目の仏生山での京浜急行128の画像は鋼体化改造前である。
改造により正面5枚窓は失われたが、屋根のカーブはそのままで原形の面影が多分に残っていた。

 
11 昭和44年3月20日 瓦町/元京浜急行クハ127、乗務員扉がなく乗務員室は極めて狭い。

 
93 昭和44年3月20日 瓦町/元京浜急行クハ124

 
94 昭和44年3月20日 瓦町/元京浜急行クハ123

 
94の台車

 
33(元阪神910)との並び

井笠鉄道連載 その7 番外編

中国新聞の連載は6回で終了しましたが、番外編として あまり紹介されていないであろう井笠の車両たちのその後の様子などをご紹介して この連載の最後と致します。なお横着をしてアルバムに貼ってあるプリント写真をスキャンしましたので お見苦しい点はご容赦を。

笠岡駅構内の西側に県道34号線の跨線橋があり、その跨線橋の海側の高架下にホジ9が保存されていました(現在もあるかどうか未確認)。この2枚は昭和51年撮影ですが、その後昭和52年9月も同じ状態でした。高架下で雨がかかる心配はないので車体は比較的痛みは少なく 塗色もまずまずでしたが 窓ガラスや連結器もなく みすぼらしい姿でした。ちなみにこのホジ9は昭和6年梅鉢製。

昭和46年4月1日に全線廃止後長らく くじ場車庫には多くの車両が保管されていました。駅の敷地は板囲いで立ち入り禁止になってはいましたが 入るのは容易で 荒れ果てた車庫内で撮影しました。廃止後5年の昭和51年の状況です。カラー写真は昭和60年12月30日撮影、 下津井電鉄下津井駅に留置されていたi井笠ホジ3。平成3年1月1日に全線廃止された下津井鉄道で レール撤去工事などで最後のご奉公をしたホジ3でした。

上の写真が旧くじ場駅本屋で 井笠観光開発㈱旅行案内所の看板は上がっていますが この日は無人でした。バスの待合所でもあります。塀の中に入ると荒れた車両が多く残っていたのですが、残念ながら車番を記録していません。一番奥がホジ8、ホワフ、ホハ、ホワフでしょう。

山陽本線備後赤坂駅北側の丘陵地帯に赤坂遊園という 田舎版「ひらかたパーク」があって 子供を連れてよく遊びに行ったものでした。この遊園地のなかに なぜか井笠鉄道の車両が多く保存されていました。上の写真の左側に写っているのがコッペル3号機です。実機にはなぜか「2」の表記があるのですが 実際の2号機は岡山の池田動物園に行っているのに、製番6535の3号機がなぜか2号機になっていたようです。コッペルのほかにホハ11、ホハ12、ホワフ5、ホト2が保存されていました。

これらの井笠保存車の外側にゲージ600mm?のこども列車があり 加藤の3Ton ? 機関車がSLらしく改造されて 周回していました。製造年や前歴など詳しいことは不明です。芦田川などの河川工事にでも使われていたものかと想像します。この遊園地はいつのまにか閉園されて この機関車もどこへ行ったのか不明です(一説には太陽保育園?に行った)。また井笠の車両たちの行く末も調べていません。

この遊園列車の駅舎として使われていたのが、井笠鉄道薬師駅で わざわざここへ移設したようです。駅名標は「ふくやま」となっていますが 多分山陽線福山駅の高架化で不要になった地上ホームにあったものを持ってきたのでしょう。

ホワ2

ホワフ5

井笠の9号機は珍しい経歴の機関車で 1910年ベルギーのCockerill製。 釜石製鉄所から移ってきて井笠9号となり、昭和36年に廃車。その後昭和43年に上記の笠岡跨線橋下に保存、昭和48年にはなんと京都 桃山城に展示され、今度は井原鉄道井原駅建設予定地に移されたという 現役引退後もあちこち引っ張りまわされたSLでした。ベルギー製の機関車は珍しいのですが、あちこち改造されて結局シリンダ回りだけが製造当初のものと言われているようです。次の写真は平成5年8月14日撮影ですが、井原鉄道開業に伴い また場所を移されて 駅の東の七日市公園に屋根なしの状態で保存されました。

 井原駅予定地にて

 七日市公園にて(H11,1,30)

コッペル製のSLは1,2,3,6,7号機の5両がありましたが 7号機は昭和45年にスクラップとして売られ、姫路市網干区北在家のパチンコ店「百万ドル」の駐車場に放置されていました。撮影は平成9年7月24日です。 サイドタンクとキャブに「ホリデー号」と書かれていますので何らかの使い方をされたあと お役ご免でこの駐車場の隅に放置されたのでしょう。由緒正しきコッペル機がこのような姿をさらしているのは つらいものがありました。サイドタンクには井笠の社紋や7の文字がリベット止めされて残っていました。

最後に 笠岡駅にあった1067mmと762mmの平面クロスをご紹介します。笠岡駅の線路配置が北から国鉄の貨物引き込み線、次いで井笠鉄道、そして国鉄本線となっていましたので 井笠の列車は必ず国鉄の貨物引き込み線を横切っていたわけです。そのため異ゲージの平面クロスがあったのです。撮影したのは昭和51年ですから 井笠の廃止後です。このクロッシング前後の井笠のレールは撤去されていましたが、国鉄の貨物線は生きていたので、この部分だけが元の姿で残っていたものと思います。このような場合の保安方式がどうなっていたのか 今頃になって興味が湧いてきますが どなたかご存じなら教えてください。市電などは別として 平面クロスを見る機会はほとんどなくなりましたが 余談ながら糸崎駅構内にも珍しい平面クロスがあったのですが写真に残しておらず 悔やんでいます。それは三菱三原から糸崎港に向かう1067と1435のデユアルゲージと日本セメントへの引込線(1067)とのクロッシングです。

とりとめのない番外編となりましたが、何かの参考になれば幸いです。以上

 

2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part15  阜新煤礦鉄路 その5

第11日目 5月28日

平安14:08(114次)→14:35王營(Bus)→15:32阜新
② 阜新19:00(2106次)→10:17北京北

モーニングコールよりも早くに起き上がれました。ロビーに下りると既にF先生とO氏のお二人さんともお待ちでした。
今日お二人は、阜新から瀋陽に向かわれ、乗換えてハルピンへ。一泊されて翌朝のCZ便で帰国されます。一方の私は、夜の夜行列車で北京に戻り、いつもの一人旅となります。

▲ Taxiを待って昨日同様の平安駅踏切に着きましたがご覧のとおりの夜明け前です。写真は3:56、ISO3200、F5.6・1/40の手持ちで撮っています。


▲ 4:20、ようやく入替作業の開始、昨日と違ってスモッグが濃いようです。まだ薄暗いのに機関車の前照灯は消していました。入替機は1319号機


▲ 5:131319号機が入替作業を終えて一息つく頃に朝日が雲間から顔を覗かせました。

▲ 5:20、ヤード横からの1460号機が後ろ牽引でズリ捨て線を上がっていきました。


▲ 7:06、朝日が差し込む平安站に到着した988号機牽引の職工通勤列車。

お2人が帰途につかれた後、平安站からまだ行っていない王營站までを乗車してみることにしました。




▲  平安~王營間は工場、住宅街の中を通って14:25に王營站に到着しました。所要時間27分間の短い乗車時間でした。乗客の殆どは終点一つ手前の民主站で降りて、王營站では私一人の下車でした。王營站は採炭場があるのみで見渡す限りのとうもろこし畑が広がっています。折り返し列車は17:28。蒸気もいなく時間があり過ぎるので職工さんに近くのバス停を教えてもらい阜新站に戻りました。 王營站はこちらです。

阜新站からはバイクTaxiに乗って新邱からの帰りに見た上遊型が放置されていた高徳站方面に向かいました。

▲ 16:30高徳站に到着。O氏が運行しているかどうかを確認したがっておられた海州露天鉱方面からのズリ満載の5両編成が入線していました。牽引するのは、この炭鉱線で最も綺麗と思われる1320号機。しばらくすると新邱方面へと走行して行きましたが、この方向にはズリ捨て場はなかったはずで、一体どこへ向かったのか疑問が残りました。本線上をヤード方面に向かうのは、1460号機牽引の空車のズリ6両編成。と言う事は、新邱方面に見過ごしたズリ捨て路線があるようです。


▲ 探していた上遊型の廃車は、ヤード方面に約10分歩いた所にありました。911、989号機と番号不明のもう1台の計3台が放置されていました。本線上との塀のかさ上げ工事をしていた職工のお兄さんには写真を撮って欲しいと頼まれました。ついでに入っておいでよと誘ってくださいます。上遊型の他にもかなりの車両が放置されていて見てみたかったのですが、見るとかなり時間がかかりそうなので、丁重にお断りして先を急ぎました。

【海州露天鉱国家鉱山公園】
さらに線路沿いをヤードに向けて約20分を歩くと海州露天鉱国家鉱山公園に着きました。海州露天鉱はかつてアジア最大の露天鉱と言われ、阜新は石炭によって立ち、石炭によって栄えました。2005年、資源枯渇のために一応閉鎖されましたが、その歴史を保存する記念館が開設されていました。地図はこちらへ。

▲ 幅4×2キロ、深さ250mもの広大な露天掘を一望できる展望台があり、かつての路線跡も見ることが出来ました。そして公園内にはかつて露天鉱で活躍した車両の展示もされていました。

▲ 露天鉱で使用された連接式のZG150-1500型電気機関車、韶峰028号機。1972年製造、でかい!

【ZG150-1500型】
直流1500V、 全長;20.26m、幅;3.20m、高さ4.77m、
自重150㌧、軸配置;B0-B0-B0、1時間定格出力;350kw×6=2100kw、1時間定格引張力;256KN、軌間;1435mm、最小走行半径;80m、最高速度;65km/h、撫順露天鉱等主要炭鉱で使用された。


【推土犁 Bulldozes the plow】
全長;14.41m、幅;3.604m、高さ;4.456m、自重95㌧、ズリ線のラッセル用。自走は出来ず機関車に牽引してもらいます。


▲ 巨大なパワーショベル、ラッセル車、1974年製の上遊型1395号機。

もう少しゆっくりと見たかったのですが、夜行列車の乗車時間が近づいてきました。阜新站へと急ぎました。  Part16  へ続く

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その1その2その3その4

井笠鉄道連載 その6

7月8日は休載でした。7月9日掲載分で連載最終回となりました。

湯口様 神高鉄道に関する解説コメント ありがとうございました。

福井鉄道の旧京浜


福井鉄道南越線モハ103 

乙訓ご老人の投稿があって、待てよ、確か須磨老人も福井で撮ってる筈と、限りなく薄れた記憶を搾り出すと、1958年7月30日南越線でモハ103を、翌年4月3日鯖浦線でモハ101を撮っていた。高松琴平同様、京浜電気鉄道の新車導入に対する代償=「供出」で、当然ながら最も古い車両を手放したのである。詳細は乙訓老人か、藤本哲男氏にお願いしたい。元来この老人がなんでこんな電車を撮っているんだといわれそうだが、話は簡単―木製車だからでありますよ。中央扉が真ん中にないのが福井での特徴みたいですね。


福井鉄道鯖浦線モハ101

他に例を見ないオデコ・京浜140型

DRFCが結成される前の1958年春休み、3度目の東京電車見物に出かけている。当時のメモによれば4月4日東武西新井工場、5日雨につき京成全線乗りまわし、6日交通博物館、7日小田急経堂工場、そして相模鉄道5000形乗車、8日京浜川崎車庫と金沢文庫車庫となっていた。140型は最初の東京電車見物、1952年の時に見ており、230型の中間車として使用されていた。今回、他に例を見ないオデコ(関西ではデボチン)と紹介され、このオデコ「高松で見たぞ」となり探してみた。①高琴電鉄モハ21号である。吉川さんの記述によれば、開業期の1号型を大正期1926年に車体更新したものだと紹介されている。デ14形14~17号のうち16号のようだ。東急合併時には5110形5113号、京浜分離後は113号となり、四国に渡ることになった。

このスタイルなら「もう1丁あったぞ!」と探し出したのが1959年夏、京都駅で貨物列車の最後尾に繋がれ高松へ回送される姿を見た②128号。この120形は1921年藤永田造船製造のデ40形がスタートで、デボチン拡大初代となる。しかもタマゴ型5窓、関西スタイルがプロトタイプとなった。他に例を見ないオデコになったのは、正面に行き先方向幕を移したことが拡大理由だそうだ。京浜電車は窓高が大きいことで評判を呼んだが、そのはしりが後に120型となったデ40形と言えよう。その発展型が140形で、制御車として先頭に出るようになったのは120形引退が引き金になった様だ。120形は1958年に5両、翌年6両の廃車、その6両のうち2両が回送されている姿を、老人は図らずも目撃したのであった。高松では後に鋼体化、10形2両、60形4両となった。

1958年4月車両基本編成表では川崎車庫に140形は153~160号の8両が配属されており、そのうち2両が293+159(+261)、296+160(+271)-()内は朝夕ラッシュ時の増結車-の2編成となり、閑散時に140形の運転台が風を切ることになった。残る6両は230形に挟まれ本線用となっていた。川崎車庫所属車に120形11両中6両が大師線用として残り、そのうち123、124、126、128が3扉車290形とカップルとなり、先の140形組み込み編成と共に3扉車6本、ラッシュ時は2扉車230形の増結を得て威力を発揮したのであった。131号は266と編成を組み大師線用、127号も262と組み予備車となっていた。これがDRFC発足当時のデボチン電車の実態と言えるであろう。

ついでに京浜電車から終戦直後、63供出車として高松へ送られた電車は21号以外に7両あった。老人が瓦町駅待合室での仮眠から目覚めた時、始めて撮影した元京浜電車2両を紹介しよう。③70形71号は大正初期に製造されたデハ29型に始まる正面が丸い3ツ窓木造車の後身である。中央窓の上部が丸く左右の窓もカーブがきつく印象深い。72号と2両あった。④60形61号は70形の電動車で、4両の内3両は原型の木造車体を簡易鋼体化の結果、正面の特長あるスタイルは失われた。残る1両は鋼体を新造した正面2ツ窓d2D6D2dの近代的なスタイル、2電圧対応型の今後の琴電の標準車になる筈であった62号であった。更に1両、琴平線用に61号と同スタイルの制御車15000形1510号があった。いつのまにか600V用になり73号になっていた。これで7両となる。

先の記述の中で141形は140形、仕事と孫の付き合いは7/1~3であったこと、訂正します。

①デボチンの広さもさることながら、台枠もおもしろそうだ

①デボチンの広さもさることながら、台枠もおもしろそうだ

②仏生山到着後8ケ月後、ボ繝・?繝・?姿となった。
②仏生山到着後8ケ月後、ボロボロの姿となった。
③譽・?荳・?窓はイケメン(長身男前)運転士用に採用

③正面中央窓はイケメン(長身男前)運転士用に採用

④原型の姿が失われた簡易鋼体化
④原型の姿が失われた簡易鋼体化

井笠鉄道連載 その5

平成23年7月7日掲載分をご紹介します。

ユースで巡った鉄道旅 -12-

今回のユース巡りは、東北の被災地近くにあったユースに目を転じました。
大震災からの復旧の端緒が見えないJR線の中で、原発事故も重なった常磐線北部は、最大のダメージ区間でしょう。現在、久ノ浜~亘理間は、全く復旧の見込みが立っていません。この常磐線北部、45年前には、日本で唯一、C62の牽く特急が撮れる区間として、賑わっていた場所でした。
私も高校3年の時、一度だけ撮りに行きました。撮影で利用したのが平ユースホステルでした。ここは少しの記憶が残っており、平駅からバスに相当乗って、最寄バス停で下車、海岸へ向かって田んぼの中の一本道を行った先に、目指すユースはありました。訪れたのは、夏休みも残り少ない時期で、宿泊客もほとんどなく、食堂からは海岸風景が望めました。今も健在な公営のユースですが、震災の影響で当分の間、休館とのことでした。津波の影響があったのかもしれません。

「ゆうづる」のC62牽引区間は仙台~平、夜行列車なので、撮影地は限定される。平から二つ目の四ツ倉がもっとも行きやすいところだった。これを撮るためのアクセスは、上野22時24分発の常磐線経由の青森行き、夜行鈍行227レに乗り、四ツ倉4時12分着で行くのが、唯一最上の手段で、227レの編成前部は、カメラを持った人間にほぼ独占されていた。
四ツ倉に着いて撮影地へ向かうが、もう完全に電化が完成している。もう少し早く来ていたらと悔やまれるが、今から思うと、高校3年生の身で、京都からよくぞ行ったものと思う。「ゆうづる」が通過する前に何本かの蒸機列車の通過があり、テストが出来る。カーブの外側から、C6237の牽く普通列車を狙う。当時は、周囲を入れようという意識はなく、とにかく蒸機の迫力を表現するため、画面ギリギリに入れるのが好きだったが、予想より煙が出すぎてしまい、爆煙が切れてしまった。

本命の「ゆうづる」の四ツ倉通過時刻は、5時50分ごろ。まだ光量が十分でないことを考慮して、初めて高感度のトライX一本を購入し、うやうやしく詰めたカメラを構える。四ツ倉から久ノ浜方面に歩き、鞍掛山トンネルまでの間を探すも、編成全体を見通すことは架線柱に阻まれてかえって不利と考え、ここでもC62と20系数両だけを切り取ることにした。下からあおると、半逆光線にC62の動輪やボイラーが輝いた。牽引機は、ゆうづる専用機に近い23号機だった。

当時の常磐線の非電化区間の平以北では、旅客がC62、C61、C60、貨物がD51が使用されていた。ハドソン三兄弟が揃い踏みしていたのは常磐線だけだった。C62が余りにも有名で、C61、C60は影が薄かった。とくにC61は、平区に1両だけの配置だった。近頃のC6120の動態運転の記事を見ても、過去の写真は奥羽本線や日豊本線ばかりで、常磐線は見たことがない。仙台行き223レを牽くC6121、動態運転中のC6120とは1番違いのカマは、この年に廃車されてしまった。

常磐線は、東北本線より距離が少し長いが、線形が良いため、東北へ向かう優等列車が多く運転されていた。伝統の特急「はつかり」も設定当時から常磐線経由で、昭和35年12月から、それまでのC62牽引の客車編成から、キハ81系に替わった。運転当初は、事故や故障が続発したが、その後に誕生したキハ82と同様に改造してからは順調になり、キロ2両、キサシを組み込んだ、東北唯一の昼行特急に相応しい編成となっていた。もちろん初めての撮影であり、よくよく見ると何とも愛嬌のある顔をしている。翌年の東北本線完全電化により、「はつかり」は581系化されることになり、キハ81系は、昭和44年から「ひたち」「いなほ」に転用される。


四ツ倉駅に到着する226レ、一日の撮影を終え、この列車に乗って、平まで行ってユースへ向かった。浜通りと呼ばれる、福島県の常磐線沿線にはかつて多くの専用線が分岐し、古典蒸機が活躍していた。四ツ倉もそのひとつで、住友セメント四倉工場専用線が駅の裏側から八茎鉱山へ向かい、ナスミス・ウイルソンの600形が動いていた。昭和40年代が全盛時代で、蒸機に代わったDLが24時間運転していたようだが、昭和57年の工場閉鎖とともに専用線も廃止されたが、今でも廃線跡は残っているらしい。現在では福島原発の避難地域が久ノ浜以北となり、いわき~草野~四ツ倉~久ノ浜は、特別ダイヤで運転されている。

平駅。8月の終わり、残暑の厳しい時期だった。駅舎、自動車の姿を見ると、今昔の感がする。駅の所在する、いわき市は、訪れた前年に、平、勿来、磐城などの14市町村が合併して、当時日本一大きな面積を持つ、いわき市が誕生した。平駅も、平成6年に「いわき」に改称されてしまい、名実ともに「平」の名は消えてしまったが、ユースの名称だけは今も平を堅持している。その後、この駅を訪れる機会は無いが、ネットで現状を見ると、再開発の大型ビルが林立しているようだ。

井笠鉄道連載 その4

平成23年7月6日掲載分をご紹介します。

同紙面に井原鉄道のイベント列車の記事がありましたので 付録として添付します。

これなら見たことある!京浜急行140型

関三平画伯のシリーズは今回から関東の旧型になりました。いままでは見たこと無い(記憶にない)物ばかりでしたがこれは覚えがあります。というのもキハ04に似た顔つきだったからだろうと思います。

井笠鉄道矢掛線1964年6月


乗客7人(含小生)でのんびり走るホジ8

西村雅幸氏の中国新聞連載特集紹介を見て、矢も盾もたまらなくなって47年前のネガを探すことに。井笠鉄道は高校生だった1954年以来、何回行ったか思い出せないぐらいだが、矢掛線に乗ったのは1964年6月11日の1回だけである。既に笠岡-井原の本線ではホジ1~3、101、102が主力になり、かつて矢掛線でも働いたジ14~16(旧神高鉄道=両備鉄道が国有化されて改軌、取り残された神辺-高屋間が神高鉄道になり、1940年1月1日井笠鉄道が買取)は、本来の神辺線に戻っていた。従って矢掛線は本線で出番が激減したホジ7~9のうち、1両が往復していた。


矢掛到着 バスの基地でもある この屋根の骨組が今も残る

矢掛到着のホジ8 右のホハ3はラッシュ時の増結用

折り返し列車はワを1両連結した混合列車に

ラッシュ時はそれなりの乗客がある筈だが、昼日中とあってホジ8単行の車内は閑散そのもの。折り返し北川行はワを1両連結した混合列車になり、北川のひとつ手前の備中小田でちょっとした椿事?が。男女3人が、びっくりするくらい大きなコモ包みの小荷物を荷台に積み込むべく、待ち構えていたのである。こんな小さな駅でも駅員が居り、小荷物の重量を測る秤も鎮座している。


備中小田での珍騒動 貨車に積めばよさそうなものだが 車掌の表情をご推定あれ

そのコモ包みがご覧の代物だから、ちょっとやそっとで積み込めない。おまけに列車を待たせたまま平然と荷札をつけたりしている。当然停車時間が長くなり、北川での本線との連絡に遅れないかと車掌はヤキモキ、イライラ。写真からもその憮然たる表情がありありと読み取れよう。


やっと北川到着 コモ包みの大きさをご確認あれ

まあ3~4分かかって何とか積み込んだが、北川ではそれを下ろすのに手すきの駅員を呼び集める騒ぎに。笠岡行きとの接続も約3分遅れで辛うじて維持され、めでたく井笠鉄道のこの日の平和は回復されたのであった。


手すきの駅員を動員して荷物を半分下ろした時 笠岡行本線列車が到着

左がやはり客車、貨車1両を連結した笠岡行混合列車 左が矢掛線ホジ8

この矢掛線の廃止は神辺線とも1967年4月1日、本線たる笠岡-井原間は4年後の1971年4月1日である。蛇足になるが、井笠鉄道の矢掛-備中小田-井原-高屋-湯野というコースは、国道486号線と並行するが、これはかつての「山陽道」なのである。井笠鉄道廃止前から井原線の建設が続けられ、長い中断があって第三セクター井原鉄道として、この旧山陽道ルートで開業したのが1999年1月11日。

また高屋のすこし西が岡山、広島の県境だから、かつての神高鉄道はたったの7.93kmのくせに、広島・岡山の2県にまたがる鉄道であった。これも蛇足だが、2県にまたがる軽便は、筑後軌道、両備鉄道(神高鉄道)、三井鉱山(神岡軌道→鉄道)、草津軽便鉄道(最終草軽電気鉄道)しかないことは、意外に知られていないのではないか。